【女優】オリヴィア・コールマン:オスカー女優のエキゾチックで冒険に満ちたルーツ
プロローグ
イギリスの女優オリヴィア・コールマン。映画「女王陛下のお気に入り」でアン女王を演じ、2018年度アカデミー賞主演女優賞を獲得した。
By Ibsan73 - https://www.flickr.com/photos/63465486@N07/15983724581/, CC BY 2.0, Link
ノーフォーク州ノリッチ出身。父方の先祖はずっとノーフォークに根ざした農民だった。自分が知る限り、ルーツはこの辺のイギリス人で、大して面白くない感じ。でも母方の先祖についてはよくわからないと言う。
家族の中で、長年忘れられてきた人達がいる。それが誰かを知りたい。自分はどちらかというとパジャマで家にいたいタイプのインドア派で、冒険しないタイプだけれど、先祖はどうだったのか。
6代前の先祖
母方の家系図を調べると、6代前までさかのぼることができた。曽祖父の母方に当たる先祖の名前は、リチャード・バセット、そして妻はサラ。
リチャードはセント・ヘレナ島で生まれたという。
さらにリチャードは1800年代初頭、ロンドンで東インド会社に勤めていたことがわかった。当時の台帳から、大口の取引を任されていたこともわかった。
またインド・カルカッタにも駐在していたことがあり、現地で結婚もしていた。
1798年、カルカッタで発行された婚姻証明書。でもそこに書いてある妻の名前は、マーガレット・アン・ハンプトン。あれ?奥さんの名前、サラじゃなかったっけ?
6代前の離婚劇
次に出てきたのは、1808年、教会裁判所に離婚を訴えた記録だった。
離婚を訴えた書状には、最初の妻マーガレットが、妻の姉の家で知り合ったオペラハウスのハープ奏者と親しくしていることが書かれていた。
しかしよく読んでみると、特に何があったわけではないようだ。妻マーガレットがこのハープ奏者に親しげな態度をとっているのを見たリチャードが、妻にもうこの男と会うのをやめろと言ったところ、そんなに妻を信用しないのなら、もう一緒に住めないと妻が別居を申し出た、とあった。
別にやましいことはしていないのに、夫が何か焼きもちを焼いた感じに見えるわね、とオリヴィア。
しかしさらに書類を追ってみると、別居後、妻マーガレットの住まいにハープ奏者が訪れ不貞行為をしていたことが、細かく記載されていた。どうやら召使いからの報告があったようである。
リチャードの勘は正しかったんだ・・・、とオリヴィア。
妻の不貞、でも実は・・?
当時のイギリスでは正式に離婚が認められることは非常に稀だった。議会に特別法のような形で個別に認めてもらう必要があったという。
議会に向かうオリヴィア。そこに保存されている書類には、1809年3月、リチャードとマーガレットの離婚が認められたことが書かれていた。2人に子供はいなかったという。
さらに離婚から20年後にリチャードが残した遺言状。2番目の妻サラと、サラとの間に生まれた息子達に遺産を残すことが書かれており、ここから2人には5人の息子があったことがわかった。
オリヴィアの先祖は、そのうち次男に当たるチャールズ。
しかし次男チャールズの誕生日を調べてオリヴィアはあれっ?となる。誕生日は1807年9月。離婚が成立したのは1809年。
さらに長男は1806年生まれだということもわかった。これはちょうど最初の妻マーガレットが不倫で訴えられた頃ではないか。
妻を不貞で訴えておきながら、裏では自分も同じことをして子供まで生まれてたんだ・・・!
インド生まれの先祖
リチャードの次男、チャールズはオリヴィアの5代前の先祖に当たる。国勢調査を当たると、60代になったチャールズの情報が見つかった。退役軍人として、妻ハリオットと召使い3人とともに、ロンドンの北西にあるレディングという街に引退していた。
妻ハリオットはインド生まれ。キシャンガンジという、インド北東部生まれだという。自分の先祖にインド生まれの人がいるなんて!と興奮するオリヴィア。
ハリオットの出生について調べるため、インドに飛ぶ。
ハリオットの出生の謎
ネパール国境にもほど近い、ビハール州キシャンガンジ。ハリオットは、植民地化される前のインドで生まれていた。
当時のイギリスは、東インド会社の貿易を通じて、インドでの影響を広げていった。東インド会社は貿易のための商船の他、当時のイギリス軍の2倍の規模に当たる独自の軍隊も持っていた。
ハリオットの婚姻証明書から、ハリオットの父親の名前は、ウィリアム・スレッサーだということはわかった。1778年生まれ。東インド会社付きの軍人で各地を周り、1804年大佐に昇進。
しかし不思議なことにウィリアムの結婚に関する記録も、ハリオットの出生の記録も残っていないという。
記録が残っていないのは、ハリオットの母親がおそらく地元のインド人だったからだという。この時代、適齢期のイギリス人女性がインドの奥地にいるということはまず考えられなかった。実際東インド会社の軍人の三分の一は、地元女性と結婚していた。
スレッサー家の所持品リストが残っている。そこには聖書や水タバコ用パイプといったアイテムの他、象一頭、と書かれていた。イギリスとインドの文化が融合した、しかも家に象がいるような環境でハリオットは育ったのかしら、なんて素敵・・と感慨を覚えるオリヴィア。
しかし幸せは長く続かなかった。1810年、ハリオットが3−4歳頃、父ウィリアムは狩猟中の銃の暴発で頭部を撃ち抜かれ即死してしまう。
ハリオット、イギリスへ
その後、ハリオットと母親はいったいどうしたのか。
現地人である母親の消息については、わからないという。しかしハリオットについては、イギリスにいる祖母が、インドからイギリスに戻るための渡航費用を負担する、という弁護士からの手紙が残っていた。ハリオットの祖母の名前もハリオットだった。
まだ小さなハリオットをひとりイギリスに送り出さないといけなかった母親の心情を考えて、涙するオリヴィア。現地人である母親には、ハリオットの行く末について決める権利はおそらく何もなかっただろう。
しかしイギリスに渡る方が、子供の未来には良いと考えたかもしれない。いずれにしても、自分にも小さな子供がいるオリヴィアは自分の子供と重ね合わせて泣いてしまう。
イギリスに渡るためには、まずここから500キロ先にあるカルカッタにいかなければならないなど、旅は過酷だった。
また当時は客船などなかったので、東インド会社の貨物船に乗る必要があり、イギリスに着くまで半年はかかったという。
ハリオットが乗った船の乗船名簿が残っていた。乗客リストの中には、親と離れて乗船している子供の名前もあったが、多くは召使いなどが付き添っていた。しかしハリオットはここでもひとり。おそらく他の乗客が世話を買って出たのではと思われる。
父の国とはいえ、行ったことのない異国の地に幼児がひとりで向かうことを想像し、また涙するオリヴィア。しかしハリオットがイギリスに渡らなければ、今の自分もいなかったかもしれない・・・。ハリオットは1812年にイギリスに到着した。
大叔母の遺言、そして故郷へ
ハリオットが17−8歳頃に書かれた、ルイザ・ジェラルドと言う人の遺言状が残っている。これはハリオットの大叔母に当たる人で、ハリオットの祖母の姉妹だった。当時ハリオットはブリストルの寄宿舎で暮らしていたが、大叔母ルイザはハリオットに300ポンドを残すと遺言している。
さらに4年後、遺言状にはハリオットにさらに500ポンドを残すことが追記されていた。合計800ポンド。今のお金で4万ポンド、580万円ほどになる。ハリオットのことをとても気にかけてくれていたんだ、と感動するオリヴィア。
大きな遺産を手にしたハリオットは、それを渡航費用にして、1832年、カルカッタに渡っていた。
自分のルーツや母親を探しに戻ったのかもしれない。
また、イギリス人とインド人の混血「アングロ・インディアン」だった彼女は、自分のバックグラウンドに合った結婚相手を探しにインドに行った可能性もあるという。
その頃、イギリス人女性が結婚相手を探しにインドに渡ることはよくあったという。このような女性を乗せた船は「漁船」と呼ばれていた。「漁船」に乗って夫を釣りに行ったものの、結婚相手が見つからずに帰ってきた女性は、「ボウズ」で帰ってきた、などと揶揄された。
最初の結婚
1832年、ハリオットが結婚した証明書が残っていた。相手はウィリアム・トリッグ・ギャレット中尉。あれ、チャールズではない?
結婚した時期もインドから上陸してあまり間がない。あっという間に結婚相手を釣ったのだろうか。
イギリスからインドに向かう乗船名簿をもう一度見てみると、ギャレット中尉も同じ船に乗っていたことがわかった。船の旅の間に、ロマンスが生まれたようだ。
しかしギャレット中尉は翌年、29歳で亡くなっていた。ハリオットはあっという間に未亡人となってしまったのだ。
インドでの未亡人の暮らしは厳しいものだったという。なんてローラーコースターな人生なんだろう、とオリヴィア。
運命の恋
その後の彼女の情報は数年間途絶える。ハリオットはどうしたのだろうか。
夫の死後5年。2番目の夫となるチャールズ・バゼットが1838年、兄弟に宛てて書いた手紙が残っている。チャールズはハリオットとインドで出会い、ハリオットに恋をする。しかし未亡人である彼女は、チャールズからの求愛を断っていた。
その4年後。チャールズ、ハリオットともにそれぞれイギリスに戻っていた。チャールズは、ハリオットの亡き夫、ギャレット中尉の兄弟の家を訪れる。そこで、ちょうど義理兄弟の家に1ヶ月逗留することになっていたハリオットと再会したのである。そこでチャールズがなんとかハリオットにアプローチしようとする様が、手紙には詳細に書かれていた。
同じソファに座り、もう少しで彼女の手に触れられるところで、彼女が手を引っ込めてしまったこと。しかしその後、少しだけ手に触れることができたが、ちょうどお茶の時間になり邪魔が入ってしまった・・など。
まるでジェーン・オースティンの小説を読んでるみたい!とオリヴィア。
翌日、チャールズはもっと自分の気持ちをはっきり伝えようと、しっかり手を握ったところ、彼女が握り返してくれたが、また邪魔が入り・・・。
最後に2人きりになれた時、ハリオットから愛の告白を受けた、と手紙には書かれていた。
キャー!!と盛り上がるオリヴィア。
2人は31歳で結婚した。
2人の写真を渡されるオリヴィア。
これがハリオット・・・。
結婚後2人はインドに戻り、インド各地を転々としながら4人の子供をもうけた。
インドから、チャールズの兄弟に宛てた手紙は、筆跡が途中で変わっており、2人で仲良く代わる代わる手紙を書いた様子が伝わってくる。
ハリオットのおばあさん
ハリオットが最初にインドからイギリスに戻れたのは、渡航費用を負担してくれた祖母、ハリオットのおかげでもある。
ハリオットの祖母・ハリオットの遺言状も残っていた。ここには、「インディア・ハリオット」に50ポンド残すと書かれている。インドから来たインディア・ハリオットと呼ばれていたんだ。特別な孫だったのね、とオリヴィア。
ハリオットの祖母の名前は、ハリオット・エリザベス・スラッシャー。彼女の子孫が、スコットランドに住んでいるというので会いに行くオリヴィア。
ハリオットの孫が、オリヴィアの母のおじいさんになるわけで、時を超えてその手が触れ合っていたかもしれないと考えると感慨深い。自分の先祖は、せいぜいイギリス人、よくてフランス人の血がちょっと混じってるかも程度に思っていたけれど、こんなエキゾチックなことになるなんて、なんだかすごい。
ハリオットとその母
5代前の先祖が同じだというスコットランドの親戚の家には、ハリオットの肖像画も残っていた。
ハリオットは軍人だった夫について、ポルトガルで長く生活していた。その頃の日記が残っており、教育のため子供たちをイギリスの寄宿舎に残していかなければならず、その辛い別れが綴られていた。
子供との涙の別れの記述を読んで、また涙するオリヴィア。なかなか会えないけれど、学校が休みの間は、妹ルイザが面倒を見てくれるだろうとある。これは、インディア・ハリオットに多額の遺産を残してくれた大叔母ルイザのことだった。
そして年老いた母親と別れる時の記述。車椅子に乗り、年老いた母親は黒いボンネットを深くかぶり、涙を隠していたという。親戚の家には、そんな母親の肖像画も残されていた。
1740年代に描かれた肖像画。祖母ハリオットの母の名前はアン・ジュディス・ブリストル。アンの夫は、奇しくもオリヴィアの父方の故郷である、ノーフォークの議員だった。
そしてアンは実はパリ生まれのフランス人。結婚した時、イギリス国籍を取っていた。
アンはフランスでは迫害されていたユグノー教徒だった。このためイギリス国籍を取ったらしい。英語で難民(refugee)という言葉が最初に使われたのが、ユグノー教徒だったという。
先祖にフランス人がいたと思うよ、と母親がぽろっと言っていたことがあったけれど、本当だった!と驚くオリヴィア。
エピローグ
自分が知らない先祖に出会えることができた、素晴らしい経験だった。インド、ポルトガル、フランス、そしてセントヘレナ。こんなにエキゾチックな家族がいたなんて驚きだった。セントヘレナが一体どこなのか、ちゃんと地図で確認しなきゃ。
自分は冒険するタイプじゃないと思ったけど、そういうことを試される機会がなかっただけなのかもしれない。でも先祖はそういう試練にあって、そこでやるべきことをやってここまできたのだと思うと、先祖に対して本当に畏敬の念を感じる。
この旅で、ちょっと自分にも自信がついたというか、勇気をもらった気がする。
ひとこと
ちょうどこの記事の前日にオスカーを受賞したオリヴィア・コールマン。この他にも、Netflixでエリザベス女王と現在のイギリス王室を描くドラマ「クラウン」でエリザベス女王役も演じており、そのリリースが楽しみです。
そんな大女優のひとりな彼女ですが、化粧っ気もあまりなく、とても素朴な人柄で(オスカーのスピーチもそんな感じでした)、インドでは周りの景色を見ながらインド人の運転手にあれは何?これは何?と好奇心たっぷりだったり、インドから戻り、スコットランドの親戚宅まで自分で運転する時には、インドではこうやるのよーと言いながらクラクションをブーブー鳴らしまくったりと、なんだかちょっと可愛い感じの人でした。
また自分にも小さい子供がいるということで、小さなハリオットがひとりで渡航しなくてはいけなかったり、親が子供と別れたりしないといけない話になるともう涙腺が崩壊しまくっていました。
さて、ここでもインド人の先祖が出てきた話がとても印象的でした。東インド会社を含め、長い間イギリスの支配下にあったインド。そんなインドに根付いたイギリス人もたくさんいたわけで、ハリオットのようなアングロ・インディアンのエピソードは以前も紹介しました。
インドに限らず、いろいろな植民地が自分の母国よりも故郷になっている人もいたんですよね。
familyhistory.hatenadiary.com
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そして、先祖が生まれた場所として紹介されていたセントヘレナ島。どこかわかりますか?なんとこんなに陸の孤島です。
ナポレオンの流刑地としても有名ですが、こんな遠くまで流されてたんですね・・。
そして一度は求愛を断ったハリオットとチャールズの運命の再会と、その恋の行方・・本当にロマンチックですけれど、かなり詳細なことを兄弟に書き送っているのがなんとも微笑ましい。そして数百年後にこれがこうやってテレビで晒されるとは、思っても見なかったでしょう(笑)そしてそんな手紙や写真が、今もちゃんと残されていたのがすごすぎます。どこに保存されていて、どうやって見つかったんだろう・・・。
実はダブル不倫疑惑もある先祖の離婚劇に関しても、イギリス議会の書庫のようなところに、大きな巻物のようなものが大量に保管しているところがあり、そこにエプロンをかけたおばさんがいて書類を出してくれたりして壮観でした。
こうやって過去の情報が残っている、それを保管管理整理している人達がいる・・・ということのすごさも感じた回でした。
【コメディアン】フレッド・アーミセン:日本のルーツ?
プロローグ
コメディアン、フレッド・アーミセンは、1966年ミシシッピ州出身。2002年から2013年まで、アメリカの人気コメディ番組サタデー・ナイト・ライブのキャストメンバーとして活躍。その後も様々な映画や、コメディドラマ「ポートランディア」などに出演している。
もともとはミュージシャンを目指し、バンドでドラムを叩いていたフレッド。バンドはレコード契約までしたが、全く人気が出ずに低迷。
By Richard Sandoval at flickr https://www.flickr.com/photos/hispaniclifestyle/14810641332/ - File:Fred Armisen at 2014 Imagen Awards.jpg, CC BY-SA 2.0, Link
その頃ビデオカメラを片手に、違うキャラクターになりきりバンドメンバーにインタビューをするなど、面白ビデオを作り、ライブの前に流したところ、逆にそれが人気になり人が集まるようになり、コメディアンに転向するきっかけとなった。
フレッドの父は1941年ドイツ生まれ。父方の祖母はドイツ人、そして祖父は日本から来たダンサーだったが、祖父については知らないことが多いという。
祖父はダンサー、振付け師として世界中を回っていた。祖父母は短い時間をともにしただけで、結婚しなかったため、父も大人になるまで自分の父親に会ったことはなかった。フレッドも4−5回ほど会っただけだと言う。
日本人舞踏家の祖父
フレッドの祖父の名前はマサミ・クニ。日本の有名な舞踏家、邦正美だった。
彼の記念館が今も東京にあることを聞き、そんな有名な人だったなんて驚くフレッド。
クニは戦時中、10年以上に渡りドイツに住んでいた。ナチスドイツのバックアップを受け、舞踏家としてドイツやヨーロッパ各地で活躍していたらしい。当時日本とドイツは同盟国だった。そのためにナチスドイツの援助のもと舞踊を教えていたのだろうか・・と考えるフレッド。
クニがドイツ部隊の慰問のため、前線を訪れて公演していたと言う新聞記事も見つかる。外国人のエンターテナーが前線を訪れるのは、これが初めてだったと言う。
舞踏家とは別の顔
またアメリカの戦争局のアーカイブに、彼の情報が残っていた。イスタンブールにいるアメリカの諜報員の報告で、そこにはクニはダンサーとしてヨーロッパの各都市を周りつつ、実は諜報活動を行っているエージェントの一人だと書かれていた。南ヨーロッパ・トルコ情勢について情報を探っており、日本の諜報員の中でも優秀なエージェントの一人だとある。
ダンサーなんて劇場にいるだけなのに、どうやって?と驚くフレッド。おそらくオフステージで色々な人と会う機会があったと考えられるが、彼が諜報員だった可能性を示す書類はこの報告書だけだという。
いろんなレベルで信じられない。ダンサーだけでなく諜報員・・・まるで映画みたいだと感嘆するフレッド。
祖父の本当のルーツ
邦正美のルーツを調べる。1933年の日本の新聞記事に彼の公演の情報が乗っていたが、そこには邦正美、本名朴永仁、と書かれていた。
え、自分は韓国人なの?今まで自分は日本人のクオーターと信じて疑わず、インタビューでもずっとそう言ってきたけれど、自分の認識が全てひっくり返る、と大ショックを受けるフレッド。
1910年日韓併合により、朝鮮半島は日本の統治下となる。関東大震災の際には朝鮮人虐殺が起きた時、祖父正美は日本の高校に通っていた。
自分のアイデンティティはある程度ナショナリティで決まる部分もある。日本食が好きなのは自分が日本人だからと思っていたけれど・・これからはキムチも好きになら無いといけないね、とフレッド。
さらに遡る朝鮮半島のルーツ
正美の家族は韓国・蔚山出身。彼の親戚がまだ蔚山に残っていた。
正美の父、曽祖父は上流階級に属し、西洋的な考えを取り込むことに積極的な開化派に属していた。この曽祖父の勧めで、正美は日本に留学している。
100年前にひいおじいさんが息子を日本に送ると決めたことで、今の自分があるんだね・・とフレッド。
族譜も残っていた。フレッドの5代前、1600年代まで先祖を遡ることができるものだった。ここまでは、信憑性が確認できたと言う。しかし族譜はさらに遡り、紀元前69年、63代に渡る情報が記されていた。ここまでくると本当かはわからないが、最終的にフレッドの祖先は、新羅の建国の祖、赫居世居西干にまでつながるという。
色々な発見に驚くフレッド。まずは親戚中に電話をしなくては・・・。
エピローグ
数週間後、東京に飛び、邦正美創作舞踏研究所を訪れるフレッド。記念室に祖父の衣装や写真、原稿などが展示されていた。
見れば見るほど、衣装など自分にセンスが似ている。自分の祖父だ、とはっきりつながりを感じる、と感動するフレッド。
ひとこと
普段はWho Do You Think You Areと言う番組を紹介していますが、ここでは別番組、Find Your Rootsと言うアメリカで放送されている番組からご紹介しました。
この番組は、ヘンリー・ゲイツ・ジュニアと言う歴史の教授がホストとなり、毎回2-3人の有名人のルーツについて紹介する番組です。一度に複数の人の情報が紹介されるため、一人一人の内容は短いものになっていますが、それぞれのゲストのルーツに何かしらの共通点(同じ地域だったり、意外な背景があったり)があるのが特徴です。
フォーマットも、ゲストが自分で色々な場所を巡って調べたり話を聞くのではなく、教授と番組スタッフが調査した内容を、アルバムにしてまとめ、それを1ページごとにめくってもらい、教授が説明するというスタイル。
普段の記事が長いので、今回はパパッと読める内容をこの番組から紹介してみました。他にも面白そうなエピソードがあればまた紹介します。
フレッド・アーミセンが出演していたサタデー・ナイト・ライブは、土曜日の夜に生放送でコントをする番組です。1975年から続く長寿番組で、毎回有名人のゲストを迎え、キャストメンバーと色々なコントをするのが特徴。日本でも有名な歴代のキャストメンバーといえば、一番わかりやすところでエディ・マーフィー、映画「ロスト・イン・トランスレーション」のビル・マーレイなど。ブルース・ブラザーズももともとはこの番組から生まれたキャラクターでした。
フレッド・アーミセンはその苗字と見かけから、アイスランドかどこかがルーツの人なのだとばかり思っていましたが、なんと、こんな背景を持っていたとは驚きでした。ちなみに彼のお母さんはベネズエラ出身だそうです。
でも不思議な話ですよね。朝鮮半島で生まれた人が親に日本に送られ、その後ドイツに渡り、そこで知り合ったドイツ人女性と短い関係を持ち、そしてその子供がアメリカに渡り、そしてその孫がコメディアンとしてテレビで活躍している、と。時代の流れ、人の縁、色々な偶然が重なって、人は生まれ、命は繋がっていく・・とちょっとありきたりですが、そんなことを思うエピソードでした。スパイっていうのも驚きでしたけれどね。
【女優:ユーナ・スタッブス】シャーロック・ハドスン夫人のルーツ:ガーデン・シティで繋がった縁
プロローグ
イギリスの女優ユーナ・スタッブスは、1937年ハートフォードシャー生まれ。
女優・ダンサーとして60年以上にわたり活躍、最近ではドラマ「シャーロック」でハドスン夫人を演じている。
ユーナの父親は誰からも好かれる明るい性格だった。一方母親はあまり社交的でなく、時に鬱のようになることがあったが、家族が支え合って暮らしてきた。
ユーナの母方の曽祖父は、近代都市計画の基盤となった「ガーデン・シティ」の発案者、エベネザー・ハワード。
しかし父方のルーツについては、ユーナは自分の祖父母に会ったことがないばかりか、名前さえ知らないという。あんなに社交的で楽しい性格だった父、その両親に一度も会う機会がなかったのはなぜだろうか。
初めて知る父方の祖父母
父方のいとこ達を訪ねるユーナ。ユーナと違い、彼らは祖父母のことをよく知っていた。
初めて祖父母の写真を見る。祖父の名前はアーサー、祖母はアニー。
祖母アニーは型破りな性格で、一緒にいてとても楽しい人だったという。特に踊ることが好きで、お酒も嗜み、人生を謳歌するタイプ。ピリッとした性格で、とても強い女性だった。
祖父アーサーは親切で面白い人。おばあちゃんの尻に敷かれていたかもね、といとこ。
祖母アニーは1960年代に亡くなった。当時20代だったユーナが、ショービジネスの世界に足を踏み入れ、テレビへの出演を始めていた頃。ダンスが大好きだった祖母アニーは、そんなユーナをとても誇りに思い、ダンスがうまいのは私の遺伝だね、と言っていたという。
こんな素敵な祖父母になぜ会ったことがなかったんだろう?
おそらくユーナの母親とそりが合わなかったのだと思う、といとこ。シャイな性格の母は父の家族に圧倒されてしまったのではないか。また、祖母アニーのバックグラウンドについても、あまり良く思っていなかったかもしれない、という。
というのも、祖父母には、ユーナの父も含めて6人の息子がいたが、長男は夫アーサーとの間の子供ではなかった。また次男であるユーナの父は2人の間の子ではあるが、アニーはユーナの父を未婚のまま産んだのだという。
いとこ達に話を聞き、祖父母との交流があったことをとても羨ましく思ったユーナ。特に祖母の話を聞くほど、会いたかったと思う。特に自分のことを誇りに思ってくれていたなんて・・と胸がいっぱいになる。
祖母アニーの生い立ち
祖母アニーの生い立ちを知るため、ヨークに向かう。
アニーの出生証明書には、父親の名前がなかった。アニーは私生児として生まれていた。
アニーが6歳の頃の国勢調査を調べると、アニーは他の家族に養女として引き取られていた。アニーを迎え入れた養父は、盲目のカゴ編み職人。貧しい家庭だったと考えられる。そんな中でもアニーを引き取り、育ててくれたようだ。
1903年、18歳のアニーは未婚のまま出産する。出産した場所は、救貧院。ショックを受けるユーナ。
当時、未婚で貧困の女性が妊娠すると、救貧院に一時的に身を寄せ、出産するケースは多かったという。アニーはこの施設に5週間滞在して出産した。
この時代、病院はベストの医療を提供する場、というわけでは必ずしもなかった。裕福な人々は医者を自宅に呼び、手術も自宅で行ったという。いずれにせよ、アニーのような貧しい未婚女性が病院に行っても、受け入れてもらえなかった。このため、救貧院にあった医療施設を利用したと考えられる。
その5年後、アニーはユーナの父を出産。出産した場所は救貧院では無かった。
ユーナの父が生まれた住所を訪れるユーナ。ここで見せられたのは、祖父母アーサーとアニーの婚姻証明書。父が生後5ヶ月の時に、2人は結婚していた。父が生まれた住所は、祖父アーサーの家でもあった。
そして婚姻証明書に書かれた祖母アニーの住所は、その向かいの家。結婚前、2人はご近所同士だった。
祖父との不思議なつながり
その後、この地域に20年住んだ2人。子沢山であるが3部屋しかない狭い家で暮らしていた。
祖父の職業は、製菓職人。当時英国でも3つの指に入る大手、ラウントリー社のチョコレート工場で働いていた。
この事実に驚くユーナ。彼女は若い頃、ラウントリー社のコマーシャルに長年出演していたのだった。チョコレート工場を訪れたこともあったという。まさか自分のおじいさんがここで働いていたなんて。
1955年、彼女が出演したチョコレートのコマーシャル。
ラウントリー社をはじめ、イギリスのチョコレート会社の多くはクエーカー教徒によって創立されている。アルコールの代替としてココアを売り出したのが始まりだった。
ラウントリー社はクエーカーの価値観に基づき、週休二日制、会社付属の医療施設や年金など、当時としては非常に進歩的な福利厚生を提供する、優良企業だった。
従業員が会社の経営に参画する評議会もあり、ユーナの祖父もアーモンド部門の代表として、評議会のメンバーをつとめていた。
1929年、アーサーは工場の機械化により、余剰人員として解雇されてしまう。しかしラウントリー社はただ解雇したわけではなく、解雇対象となった従業員120人に資金援助を行い、次の就職先が見つかるよう支援した。
そしてアーサーが新たな職を得て移った先は、ウェリン・ガーデン・シティ。そこはユーナの母方の曽祖父、エベネザー・ハワードがデザインした街であった。なんという不思議なつながり!
ガーデン・シティを提唱した曽祖父
ユーナの母方の曽祖父はサー・エベネザー・ハワード。19世紀後半、「ガーデン・シティー」構想を提唱した人物だった。
By The original uploader was Marnanel at English Wikipedia - Transferred from en.wikipedia to Commons., Public Domain, Link
彼は都市と田園地方の良い部分を組み合わせてデザインされた住宅地を考案。これは日本にもあるニュータウンや田園都市計画にもつながる構想だった。
エベネザー・ハワードの功績は知っていても、彼の背景を全く知らないユーナ。彼は建築家だったのか?なぜこのようなことを考えるに至ったのか?
エベネザー・ハワードはロンドン生まれ。
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シティー中心街に近い彼の生地は、今でこそおしゃれな店が並んでいるが、当時は人々がひしめき合って暮らす、猥雑な街だった。狭い路地は真っ暗で、下水が道に溢れているなど衛生状態も悪かった。疫病も広がりやすく、郊外と比べ、都市部の住民の死亡率は2倍にもなったという。
パン屋の息子だったエベネザーは、その後地方の寄宿学校に入学する。スラムを見て育った経験と、田園地帯で学んだ経験が、のちの彼の考えに大きな影響を与えたことは間違いない。
15歳で学校を卒業後、エベネザーは速記係として弁護士事務所で働き始め、1880年代には英国議会の速記士となっている。
都市部のスラムは衛生面、モラル面からも大きな問題となっており、議会でも議題として取り上げられていた。議員達がこの問題について話し合うのを、直接聞き、記録していたエベネザー。スラムの現状を知っているからこそ、話し合いばかりで何も解決されない現実を歯がゆく思い、「ガーデン・シティ」の構想を温め始めたと考えられる。
ガーデン・シティ実現に向けて
1890年代になり、エベネザーは自分の考えを広めるため、本の出版に取りかかる。一介の速記士だった彼は、高額の出版費用を集めるため奔走した。
建築家だったわけでもなく、議会の速記をしていた曽祖父。そしてこの活動を本格的に始めたのが、40代に入ってからだと知り感嘆するユーナ。
本の下書き、そして街の構想図を見る。構想図では、円形の公園を中心に、市庁舎や博物館、病院やコンサートホールといった公共施設が並び、それぞれの住宅には庭がついているなど、緑の少ないロンドンに比べ、ゆったりした作りになっている。街の外側に工業地帯を置き、そしてその周囲を農場が囲う。自給自足も可能なデザインとなっていた。
By Ebenezer Howard - To-morrow: A Peaceful Path to Real Reform, London: Swan Sonnenschein & Co., Ltd., 1898., Public Domain, Link
1898年「明日ー真の改革にいたる平和な道」と題された本が出版される。革命ではなく、人々の協力で社会を変革していくことを説いたこの本を元に、エベネザーは英国中を講演してまわり、賛同者を募った。
そして1903年、エベネザーが53歳の時、資金調達に成功し、ついに最初のガーデン・シティを、ロンドン近郊のレッチワースに建設した。
By Jack1956 - Transferred from en.wikipedia to Commons., CC0, Link
情熱を持ってガーデン・シティの建築に奔走したエベネザーであったが、それには大きな犠牲もあった。彼がプロジェクトに奔走している間、速記士としての仕事は滞り、収入は止まった。安定した収入源がないため、家族は苦しい生活を強いられることになる。
1904年、妻リジーが彼に宛てた手紙に、安定した収入がないことへの不安が綴られている。夢を追う夫を支えてきた妻であったが、この手紙が書かれた1ヶ月後に亡くなった。夢が現実になる目前のことだった。
ウェリン・ガーデン・シティ
レッチワースでのガーデン・シティの建設は成功裏に終わったが、エベネザーはこのアイデアを一度きりのものとして終わらせたくはなかった。
1919年、70代に入っていたエベネザーは、新しいガーデン・シティ、ウェリン・ガーデン・シティの建設に取り掛かる。
エベネザーの当時の様子を、知り合いのノルウェー人建築家が、実業家シーボーム・ラウントリーに宛てた手紙に書き残している。ラウントリー氏は、ユーナの祖父が働いていた製菓会社ラウントリー社の2代目会長。社会改革事業にも積極的に乗り出しており、エベネザーのガーデン・シティ運動の支援者でもあった。
手紙には、新しいガーデン・シティ建設のために長年目をつけていた土地がオークションに出ることになったこと、それを知ったエベネザーが猛烈な情熱と勢いで資金をかき集め、土地を競り落としたことが書かれていた。数日後に行われるオークションに向けて短期間で2万7,000ポンドの資金を集めたエベネザー。資金の一部はオークション当日に集まったという。70歳で、決して裕福ではないエベネザーが、自分のためではなく、人々の生活を向上させることを夢見て、この多額の負債を抱え、新たな街の開発に乗り出したのだった。
こうして建てられたのが、ウェリン・ガーデン・シティである。
By Cmglee - Own work, CC BY-SA 4.0, Link
エベネザーもウェリン・ガーデン・シティに1921年に移り住んだ。1924年には彼の功績が認められ、大英帝国勲章が授与された。また1927年にはナイトの称号を得たが、翌年1928年に亡くなった。
遺体はウェリン・ガーデン・シティからレッチワースに運ばれ、沿道で多くの人が見送ったという。
エピローグ
ウェリン・ガーデンシティには、街の中心に彼の功績を讃える記念碑が建てられている。
ロンドンの厳しい住環境を目の当たりにして、私利私欲に走らず、ただただなんとかしたいと奔走した曽祖父。理想を現実にすることには多くの困難が伴っただろうが、長い時間をかけてそれをやり遂げた。そして今、彼の信念、アイデアが世界中に広がっている。
彼の功績だけでなく、彼がどんな人間だったかと部分を知るにつれ、曽祖父を誇りに思う。
エベネザーの死後もガーデンシティは発展し、多くの人が移り住んだ。そんな中にいたのが、ユーナの祖父母アーサーとアニーの一家だった。そしてその4年後、ユーナの両親は結婚した。全く違う背景の2人だが、ガーデンシティがあったからこそ、一緒になった縁だった。
ひとこと
「シャーロック」のキャストとして有名なユーナ・スタッブスの回を紹介しました。シャーロックのキャストはこの他にも2人、番組で紹介されています。
familyhistory.hatenadiary.com
familyhistory.hatenadiary.com
ユーナ・スタッブスは現在80歳。とてもチャーミングで可愛らしい話し方をする人。テレビや映画の出演数はかなりのものだそうで、番組にも紹介されていたチョコレートのコマーシャルなど、テレビ女優の先駆けでもあるそうです。日本でいうと、黒柳徹子さんともちょっとかぶる感じですね。
この番組で興味深かったのは、まずイギリスのチョコレート会社のこと。ラウントリー社をはじめ、フライ、キャドバリー社など、どれもクエーカー教徒によって始められたのだそうです。アルコールの代わりとしてココアを売っていたというのも、もともと宗教的な考えから始まったようなビジネスが、こうやって大きくなったのは面白いと思いました。社員に対する待遇も、当時にしてみればかなり進歩的。番組では、「当時のフェイスブックのようなもの」という社員のプロフィールを記した社報なども出てきました。
ラウントリー社は現在はネスレに買収され、今ラウントリーのブランドで残っているのは、フルーツのグミキャンディのようなものばかりで、チョコレートはもう作っていないようです。しかし当時、ヨークはチョコレートの街だったみたいです。
エベネザー・ハワードが提唱したガーデン・シティのアイデアは、世界中に広まり、Wikipediaではこの思想に基づいて建築された都市として、田園調布も挙げられていました。上にも地図を載せましたが、ガーデン・シティ、街の中心には広い公園があり、明らかに他の街とは違う様相をしています。今もここに住む人は多いですが、どんな暮らしぶりなのか気になりますね。
Seb Alfano films in Welwyn Garden City
Welwyn From the Skies! Bebop drone footage
ガーデン・シティをドローンで撮影した映像色々
番組ではユーナさんはハートフォードシャー生まれ、と紹介されていましたが、実際は、ハートフォードシャーにあるウェリン・ガーデンシティ生まれ。彼女も、ひいおじいさんが作った街で生まれていました。
【コメディアン:アリステア・マクゴワン】アングロ・インディアン〜インドに根ざしたイギリス人先祖の謎
プロローグ
アリステア・マクゴワンはイギリスのコメディアン・俳優。テレビドラマやミュージカルなどの舞台でも活躍している。
マクゴワンと言う苗字はスコットランド系だが、彼の容貌はスコットランドらしくなく、とてもエキゾチック。昔はよく、あなたは何人なの?と聞かれたという。
実はアリステアの父ジョージはインド生まれ、インド育ち。しかしインド人というわけではなく、長年インドに住んでいた英国人一家だったらしい。髪や瞳の色がダークなのは、ポルトガル人女性と結婚した先祖がいたから、と聞いている。
しかし父が亡くなった時に取り寄せたインドの出生証明書に、父の出自は「アングロ・インディアン」だと書かれていた。これは一体どういうことなのだろうか。父方の先祖の謎を探る。
カルカッタ生まれの父
出生証明書を再度確認する。国籍・カースト欄に書かれていた「アングロ・インディアン」の文字。イギリス人なら、国籍・イギリスで良いはずだが・・・。
アリステアの母「インドで生まれ育ったアングロ・インディアンは、イギリス人でもない、インド人でもない、微妙な立ち位置にあったみたい。そのせいか、お父さんは自分はカルカッタ生まれだとは言っても、自分はアングロ・インディアンだ、とは一度も言ったことはなかったわね。カルカッタ生まれだということは誇りに思っていたみたいだけれど」
当時イギリスの植民地だったカルカッタ。父ジョージはインドが独立した6年後、1953年にイギリスに戻り、教師として働いた。
叔父とめぐるカルカッタ
インドをはじめて訪れるアリステア。インドを離れて以来60年ぶりにカルカッタを訪れるという叔父が案内してくれる。
アリステアの叔父「家族の中にインド人と結婚した人がいるという話は聞いたことがない。マクゴワン家はインド人との混血というわけではないと思う」
「当時インドで生まれたイギリス人は、自動的にアングロ・インディアンと呼ばれていた。マクゴワンの人間は髪や目の色が暗いが、何代か前にポルトガル人の奥さんをもらった人がいるからだと思う」
マクゴワン家はカルカッタの港近くに住んでいた。当時の住居を訪れる2人。
祖父セシルは港で荷役監督として働いていたが、趣味はボディービルディングで、レスリング王との異名をとるほどだった。ボディービルのジムを開き、地元民に人気だったという。
当時17歳だった父ジョージの写真も残っていた。
当時のパーティーの写真を見るアリステア。洋装をした様々な肌の色の人々が集まっている。叔父の説明では、「アングロ・インディアン」はインド生まれのイギリス人を指すというが、写真を見てみると、アングロ・インディアンの肌色は他のヨーロッパ系の住民に比べ、明らかに濃い。
アングロ・インディアンとは
マーヴィン・ブラウンというアングロ・インディアンの専門家に話を聞く。イギリス風の名前だが、出てきたのは小さなインド人のおじさん。彼もアングロ・インディアンだった。
アングロ・インディアンはイギリス人だが、インド人女性と結婚した先祖がいる混血の家系のことを指すという。
アングロ・インディアンの起源は、ポルトガルの時代にまでさかのぼる。ポルトガルは1510年頃、インド南部のゴアを植民地化した。1600年代に入り、イギリスが東インド会社を通じてインドを支配していく。
最初は、植民地にやってきたヨーロッパ人が、現地の女性と一時的な関係を持ち、子供が生まれるケースが多かったかもしれない。その後東インド会社は、地元に定着するためにも、また植民地経営に有用な人材を生み出すためにも、社員と現地女性との結婚を奨励するようになった。
生まれた子供はイギリス式の教育を受け、英語を母語とし、洋服を着て、キリスト教を信仰するなど、完全にイギリス人として育てられた。
曽祖父リチャード
叔父が持っていた曽祖父母の写真。
曽祖父の名前はリチャード・マクゴワン、曽祖母はイザベル・スチュアート。インド人らしからぬ名前だが、写真を見ると完全にアングロ・インディアンだった。
彼らはアラハバードに住み、リチャードは電報局に勤務。
19世紀後半、イギリス政府はインドに鉄道、通信網を敷いたが、その建築監督の多くがアングロ・インディアンだった。1920年代、アングロ・インディアンの人口の半分が鉄道関連の職についていたという。アラハバードも鉄道の重要な拠点であった。
よりインド人に近い風貌のリチャード。彼の母親がインド人だったのだろうか。
親戚と対面
アラハバードのキリスト教墓地を訪れるアリステア。ここには多くのマクゴワン家の人々が埋葬されていた。
埋葬記録を確認すると、曽祖父リチャードは43歳の若さで、脳溢血で亡くなっていた。祖父セシルも、また父ジョージも脳溢血で亡くなっている。ぞくっとするアリステア。
現在もこの地域に住むマクゴワン家の人々を尋ねる。門柱の表札にマクゴワンとあるのを見て、ここはインドなのだよな・・信じられない、と変な気持ちになるアリステア。
中から出てきたのは、見た目は完全にインド人だが、レジー、ブライアン、ジョナサン・・と、英国風の名前を持つマクゴワン家の人々だった。
その中で高祖父が同じだという「みいとこ」がいた。彼によると、高祖父の名前はラルフ・ジョージ・マクゴワン。妻はエレン。
ラルフは裁判所の事務員だった。
イギリス政府は、植民地での反乱などを恐れ、同じイギリス人であっても、アングロ・インディアンには権力・特権を与えないよう注意を払っていた。1795年にはすでにアングロ・インディアンの行動を制限する法律が制定されている。このため、ラルフは一生昇進することはなかったという。
高祖父ラルフは1836年生まれ。残されていた出生記録から、父親の名前はスートニアス・マクゴワン、アラハバードの隣、ミールザープルという街の行政官だったことがわかった。しかし、記録には母親の名前が書かれていない。
インド人女性と結婚した先祖
先祖が洗礼を受けた、ミールザープルの教会に向かう。
当時、インドに住む英国人女性の数が絶対的に少ないこともあり、インド人女性と結婚する英国人は多かったという。
当時の教会のパンフレットにスートニアスが、現地の高貴なムスリム女性と結婚したことが書かれていた。当時この地域の土地はイスラム教徒が所有しており、おそらく土地所有者の娘だったと考えられる。
妻がキリスト教徒ではなかったため、教会の出生記録に名前が書かれなかったようだ。
スートニアスは、キリスト教の中でも、スウェーデンの神学者エマヌエル・スウィーデンボルグの教えを信仰していた。これは、三位一体を否定するもので、イギリス国教会の教えとは真っ向から対立するものだった。しかしこの考え方は、イスラム教の教義に通じるものでもあった。
イギリス国教会の宣教師達が、地元民達を改宗させようとしていたのに対し、スートニアスは彼らの宗教に敬意を表し、ムスリム女性と結婚したとも言える。それは当時にしてみれば非常に勇気のいることであったろう。スートニアスは信念の人であった。
初めてインドに来た先祖は誰?
インド人の先祖が誰だかわかったところで、次に気になるのは、スコットランドからインドに初めてやってきた先祖は誰かということ。
ムスリム女性と結婚したスートニアスはインド生まれ。
その父親の名前もスートニアスで、東インド会社の軍人だったが、こちらもベンガル生まれ。1798年に23歳の若さで亡くなっている。スートニアスという仰々しい名前の先祖が2人もいるのか!とアリステア。
彼の両親の名前はジョンとメアリー。このジョン・マクゴワンがスコットランドからやってきた人物だろうか?
それにしても、自分のアリステア・マクゴワンというスコットランド的な名前に対して、調べても調べても全くスコットランドが出てこない。インドとのコネクションが深すぎてびっくりする。
アリステアの先祖は、なんと6世代にもわたりインドに根を下ろしていたのだった。
マクゴワン家、驚きの出身地
イギリスに戻り、ジョン・マクゴワンについての資料を大英図書館で閲覧する。
ジョンも東インド会社の軍人だった。そして妻の名前は、メアリーと記されていたが、フルネームはマリア・デ・クルス。この名前、彼女がポルトガル人の奥さんだろうか。
ジョンは下級兵士として軍に入隊したが、その後着々と昇進し、最後には少将になった。彼の遺言書も残っており、そこに残された資産一覧は、金の調度品や象3頭など豪華なものだった。
専門家によると、妻マリアはポルトガル人ではなく、キリスト教に改宗したインド人か、混血の女性だったと考えられる。名前からすると、おそらくインドとポルトガル人の混血だったのではないかという。
1765年、彼らがマドラスのセント・ジョージ要塞で結婚した記録が残っていた。ここはインドに初めて建設されたイギリスの交易、防衛のための場所だった。
By Jan Van Ryne (1712–60); Publisher: Robert Sayer - Old source New source, パブリック・ドメイン, Link
東インド会社は兵士がインド人女性と結婚して子供をもうけることを奨励し、1687年には金銭的支援も与える布告も出している。こうして、アングロ・インディアンのコミュニティが生まれていたのだった。
エピローグ
では、肝心のジョンの出身地は?
ジョンの入隊記録も残っていた。そこに書かれていた出身国は・・
「アイルランド」
えーー!と驚くアリステア。スコットランドじゃあ、ないの?!大ショック。あんなにスコットランドを応援する歌を歌ったりしてたのに、アイルランドとは・・・。実際アイルランドのスリゴーという街にマクゴワンという苗字が多いのは知っていたが・・・自分の中でアイルランドに全くつながりも思い入れもない!
アイルランドとインド。思いがけなさすぎる自分のルーツに少しガクッとするアリステア。「みなさんこんにちは、私の名前はシェイマス・シンです」
(注:シェイマスはアイルランドの名前、シンはインドによくある苗字)
ひとこと
このエピソードは本当に面白かったです。スコットランドの血だ、ポルトガルの血だ、と思っていたものが、全部ひっくり返されるという・・(笑)
アングロ・インディアンという人達の存在もこのエピソードで初めて知りました。イギリスの名前、キリスト教を信仰しているけれど、見た目はもう完全にインド人な人達。本当に植民地時代の忘れ物といった感じがします。名前は同じなのに、ここまで見た目が違う一族が親戚として出てきたら、それはひっくり返って驚きますよね。
それにしても叔父さんは、自分達の中にインド人の血は入っていない、と言い切っていましたが、先祖の写真に写っている顔はどれも完全にインド人。間違いようがありません。勝手な推測ではありますが、なんとなく、家系にインド人の血が入っていることをあまり認めたくないような風潮があったんでしょうか。
そこは不思議な感じがしましたが、アングロ・インディアンがイギリス人としての誇りを持ちながらも、必ずしもイギリス人と同じ地位を持っていなかったことを考えると、複雑だったのだろうかなとも考えます。
結婚もアングロ・インディアン同士の場合が多かったようですので、ここで紹介されたムスリム女性や、ポルトガル・インド混血女性だけでなく、もっとインドの血は濃く受け継がれてきたのではと思いました。
植民地支配による混血の歴史については、こんなエピソードもありました
そして最後の最後に、スコットランドがルーツじゃなかったことがわかった時の反応。どっひゃー!!という感じでした。日本だったら、沖縄のルーツを誇りに思ってカチャーシーを踊ったりしていたのに、蓋を開けてみたら福岡出身だった・・みたいな感じでしょうか(ちょっと違いますかね。笑)
ちなみにアリステア・マクゴワン、日本語では全く情報が出てこなかったのですが、主に有名人のものまねをすることで有名なコメディアンです。ものまね芸人ともまたちょっと違う感じなのですが、地方や階級によってアクセントが様々なイギリスらしく、有名人の声色やアクセントを自由自在に使い分ける職人技を持ち、自らのコメディーショーも持っていました。アクセントを使い分ける能力は、舞台などでも発揮されるようです。
【歌手:ライオネル・リッチー】謎の曽祖父、公民権運動への先駆け
プロローグ
言わずも知れた歌手、ライオネル・リッチー。
By U.S. State Department - https://www.flickr.com/photos/statephotos/38832214941/in/photolist-22ayQ4r-215bWSS-22atfBg, Public Domain, Link
アラバマ州タスキーギ生まれ。黒人の大学として歴史的にも有名なタスキーギ大学のキャンパスで育った。母、祖母ともにこの大学で教鞭をとっていたという。
自分はディープ・サウスで育ったと言うよりは、大学のキャンパスという守られた環境で育った、と語るライオネル。公民権運動が起こっている間も、ここは黒人が博士号をとったり、弁護士になれるような場所だった。両親は人種隔離政策のことについては話してくれなかったし、時にKKKが来るようなことがあれば、子供達を早く寝かせたと言う。
大学時代に結成したバンド、コモドアーズの活動を通じて、より自分の世界、視野が広がり、そして両親が自分に与えてくれた環境に感謝せざるをえなかった。しかし、自分たちにこのような環境を与えるまでにいたった最初の先祖は誰だったのか。家族の中の「ジャイアント」は誰だったのか知りたい。
語られることのなかった祖母の父
タスキーギで妹デボラに会い、話をする。1893年生まれの祖母アデレードは103歳まで生きたが、自分の父親について話すのを一度も聞いたことがなかった。
祖母の社会保障関連の書類から、祖母はナッシュビル生まれ、父の名前はジョン・ルイス・ブラウンであることがわかった。
祖母の両親、ライオネルにとっての曾祖父母の婚姻記録が見つかる。2人の結婚は1890年。
結婚当時、曾祖母は15歳、曽祖父は50歳。当時は12歳から結婚が許されたというが、2人の歳の差は当時でも普通ではなかった。12歳の娘がいるライオネルは、自分が父親だったらショットガンで撃つレベルだろう、とウッとなる。
1897年、離婚を求める書類が提出されていた。やはり歳の差がありすぎて考え方が合わないこと、2年前から別居していることなどから、離婚は認められた。
2人の歳の差を考えると、ジョン・ルイスはおそらく奴隷解放以前、奴隷として生まれた可能性がある。世代の違いだけでなく、そういった背景も考え方の違いに現れたのではないだろうかと考えるライオネル。
曽祖父が所属した団体
曾祖母が離婚を申請した際、曾祖母はナッシュビル、曽祖父はチャタヌガと離れて暮らしていた。ジョン・ルイスは妻と子供と離れ、何をしていたのだろうか。
当時のディレクトリをたどると、曽祖父の職業は、SGA、 Knights of Wise Menのエディター、と書かれていた。
エディターということは、まず彼は文盲ではなく、教育があったと考えられる。そして「Knights of Wise Men」とは一体何なのか。何かの雑誌なのか、団体なのか。
専門家に話を聞く。この「Knights of Wise Men」は、黒人による友愛組合(fraternal order - ライオンズクラブやロータリークラブもこの部類に入る)で、経済互助会的な役割を果たしていたという。特にメンバーの医療費や死亡時の補償金などを提供しており、ある意味保険の先駆けのような活動を行っていた。
南北戦争後、南部においても、黒人が政治に参与し、社会改革に取り組む動きがあった。しかしそれは白人コミュニティの反発にあい長くは続かず、改革は後戻りしてしまっていた。
そんな中、1879年、曽祖父のような先見の明がある人物たちにより、黒人を支援するためのこの組合が設立された。全国的にもこのような活動は広がり、1882年までにメンバーは278名にもなっていたという。
このような活動は、のちに公民権運動を進める原動力になったとも言える。
公民権運動の先駆的団体のリーダーだった曽祖父
曽祖父の名前の前についていた「SGA」とは「Supreme Grand Archon」という肩書きの略だった。彼はこの組合の全国的なリーダーであった。さらに、彼が執筆した、組合の規約書も見つかる。そんなに大きなビジョンを持った人だったのか、と驚嘆するライオネル。
この団体はその後どうなったのだろうか。1891年の新聞記事によると、1885年天然痘の流行の際、保険金支払いにより資金源が枯渇して存続が危ぶまれる危機に。さらに財務責任者が資金を横領して逃亡するという憂き目にもあってしまった。
1915年までには、すでに全国的な組合ではなくなっていたことがわかった。
この時期は結婚も仕事もうまく行かず、おそらく色々なことを立て直そうとしていたのではないか、と考えるライオネル。曽祖父の当時の気持ちが容易に想像できる。そして公民権運動の先駆けになるような活動をしていた曽祖父を誇りに思う。
曽祖父のその後
曽祖父が妻子と離れて暮らしていたチャタヌガに向かう。組合の活動がうまくいかなくなった後、ここに移動したようだ。
1929年のディレクトリに当時90歳のジョン・ルイスの情報が残っていた。祖母が103歳まで生きたのはこの血筋だな、と考えるライオネル。
90歳のジョン・ルイスの職業は墓地の管理人。この時点で、組合はもうなくなっていたかもしれないが、彼は生活のためにずいぶん長い間働いていたことになる。またこの墓地は23エーカー(東京ドーム2個分)と広大なものであった。90歳でそんな広い場所を管理していたことも驚かれる。
チャタヌガで成功した黒人を集めた当時の書籍が見つかり、そこでジョン・ルイスも写真付きで紹介されていた。人間は生まれた時から死ぬまで、教育がいかに大事かということが、彼の言葉で雄弁に書かれていた。
写真を見て、自分とおでこのあたりがそっくりだ、というライオネル。
ジョン・ルイスの死亡証明書。チャタヌガでなくなり、自分が管理していた墓地に埋葬されていた。また死亡証明書には、ジョン・ルイスの父親としてモーガン・ブラウンという名前が記されていた。しかし母親の名前は不明とも。
ジョン・ルイスが埋葬されている墓地を訪れる。黒人が多く埋葬されているというこの墓地は、墓石もあまりなく、うっそうとした林の中に落ち葉に埋もれた場所で、ライオネルが想像していたような場所ではなかった。
曽祖父が埋葬されているエリアを訪れるライオネル。曽祖父がここを歩き、そして今この一部になっていることを思い、涙する。
曽祖父の出生の謎
死亡証明書に書かれた、モーガン・ブラウンという名前。この父親は誰だったのか。曽祖父は奴隷だったのか、それとも自由な身で生まれたのか。
1924年、ジョン・ルイスが85歳の時に申請していた黒人向け年金記録が見つかる。曽祖父は1861年、22歳の時南北戦争に参加しており、その際の軍人年金を受け取っていたのだった。書類には、当時、自分を「所有していた人物」の名前を書く欄があり、そこにはモーガン・W・ブラウンという名前が記されていた。
所有者と言う名前が大きく響く。彼は奴隷であった。
しかし所有者、そして別の書類では父親と記されていたこのモーガン・ブラウンとは誰なのか。
専門家に話を聞く。当時、この地域にモーガン・ブラウン(ドクター・ブラウン)という医者がおり、プランテーションも所有していたという。また、ドクター・ブラウンには、モーガン・W・ブラウンという名前の息子がいたという。
なんと1839年、ドクター・ブラウンの日記が残っていた。
「この日の夜、マライアが男の子を産んだ。子供にはルイスと名付けた」
ルイスとは、ジョン・ルイスのことである。そしてマライアはドクターの奴隷であった。この時代、奴隷所有者がわざわざこのようなことを日記に記すのは珍しいという。やはりドクターが父親ということだろうか。
ただしこの時ドクターは80歳。息子モーガン・Wは39歳。どちらかというと息子が父親である可能性の方が高いが、確実なことはわからなかった。
白人の先祖
マライアが妊娠中にドクターが書き残した遺言状も見つかった。そこには、マライアと、生まれてくる子供を奴隷から解放するよう、そして住む場所と、子供には2年間の教育を与えるよう、書かれていた。奴隷に対してこのような遺言を残すことは非常に珍しい。やはり何らかの血縁があったことは確かであろう。
遺言状の内容を、息子が実際に実行したかはわからないが、解放された後に必要であれば住む土地も用意されていた。
曽祖父の父親か、異母兄弟であると思われるモーガン・Wの肖像画も見つかった。
この調査を始める時、奴隷制のあったひどい時代、こういう先祖がいるかもしれない、と言うことは考えた。実際にこうやって見ると、末恐ろしいものを感じる。しかし一方で、少しでも曽祖父やその母を守ろうとする思いがあったのことは、ほっとした。
この庇護により、曽祖父は教育を得ることができたわけだし、ある意味奴隷としての苦しみから逃れられた部分もあったかもしれない。自分が大学キャンパスという、守られた環境の中にいたのと似たものを感じる。
エピローグ
今回の調査でわかったことを子供達に伝えるライオネル。彼らのおかげで今の自分たちがあることを伝える。
今まで、曽祖父について語られなかったのは、何か悪い秘密があるからだと思っていた。祖母は何かを隠していたのではなく、単に知らなかったのだと思う。
彼らの強さ、家族だけでなく、黒人社会のために立ち上がった曽祖父の強さに驚嘆する。彼の夢が、今の自分たちの現実なのだ。
ひとこと
2月はアフリカン・ヒストリーの月ということで、アメリカでは公民権運動やキング牧師など黒人の歴史について学校でも色々と学ぶ機会がある月になっています。今月はできるだけそういったエピソードも紹介したいと思います。
南北戦争後、南部でも黒人が政治に積極的に参加するようになり、改革と平等を推し進める動きがあったこと、しかしその動きが白人により押し戻されてしまったという事実は興味深いです。今と前の政権にも何となく重なってしまいます。
以前にも奴隷制の背景についてはいくつかエピソードを紹介しましたが、必ず出てくる白人の先祖。ある意味奴隷は家畜同様だったため、所有者のレイプにより産み増やさせたという恐ろしい背景もあり、自分にそんな血が流れているということにゾッとしたり、怒りを覚えるエピソードもたくさんありました。
その中でも、所有者が血縁を認めて何とか庇護しようとした形跡が見えるエピソードもありましたが、だからと言ってハートウォーミング、と思ってはいけませんね。