【女優】ヴィッキー・マクルア:日本軍捕虜になった曽祖父
プロローグ
イギリスの女優、ヴィッキー・マクルア。BBCのテレビドラマ、「ライン・オブ・デューティ 汚職特捜班」での主演が有名。

By Soccer Aid for UNICEF - YouTube: https://www.youtube.com/watch?v=vKmFH4YZzmM – View/save archived versions on archive.org and archive.today, CC BY 3.0, Link
アクションの多い役柄を演じていたが、本来の自分はそんなハードコアとは真逆の人間だと思う、と語るヴィッキーはイギリス中部の都市、ノッティンガム出身。
地元を大切にしている彼女は、女優として成功を収めた現在も、ノッティンガムに住み続けている。両親や親戚の家もすぐ近くだという。市内を走るトラムには彼女の名前が冠された車両があるなど、地元に根ざした女優ともいえる。
自分の家族は代々ワーキングクラスだというヴィッキー。最近亡くなった父方の祖母ジーンは、赤ん坊の頃家族に捨てられ、養子に出された家族に虐待されて育ったと聞いている。しかし養子に出された背景は、誰も知らない。
母方の家族についても謎が多く、曽祖父ハリーは第二次大戦で日本軍の捕虜となり、捕虜収容所で亡くなったと聞いているが、詳細はわからないという。
養子に出された祖母の謎
父方の祖母、ジーンについて、おばから話を聞く。祖母が亡くなる数週間前に撮った写真では、病床にあってもとびきりの笑顔を見せるなど、辛い過去があったとはとても思えない、とても明るい人だった。自分が辛い境遇で育ったからこそ、自分の子供には決してそんな思いをさせたくない、という気持ちが強かったという。
祖母は赤ん坊の頃に里子に出されたらしい。しかし養母はアル中で売春を職業にしており、虐待も酷かったと、おばは聞いている。子供の頃は殴られないように部屋のドアにバリケードを作ったり、売春をさせられそうになったこともあるという。14歳頃、周囲の噂話から自分が養子だと知り、虐待から逃げることを決心したという。
出生証明書を確認すると、祖母が生まれた街はランカシャーにある港町、グレート・グリムズビーであることがわかった。書類に記された本当の両親の名前はトーマスとルビー。父トーマスの職業は蒸気船の船室係となっていた。祖母ジーンはなぜ養子に出されたのか、現地に向かう。
1921年、祖母が生まれる数年前の国勢調査を確認する。ジーンの母ルビーは、すでに結婚しており、3人の子供とともに登録されていた。住所はルビーの両親と同じ。同居していたようだが、夫であるトーマスの名前は無い。
国勢調査に書かれていた住所には、当時の建物はもう無かったが、埠頭近くの雑然とした場所だった。船での仕事で長期間不在の夫、また3人の子供を抱え、おそらく経済的にも余裕はあまりない状況で、ルビーは両親の家に身を寄せていたと考えられる。
船室係の父親は・・
トーマスの乗船記録が残っていた。国勢調査があった1921年は、1年近く家をあけていたことがわかる。そして、祖母が生まれた1925年には、長期間カナダに行っている。祖母が生まれた時期と、トーマスが船に乗っていた時期を比べると・・・トーマスが祖母ジーンの父親であるには、計算が合わない。
父方の親戚と初めて面会するヴィッキー。養子に出された赤ん坊がいたということは、家族の誰も知らなかったという。ジーンの本当の父親が誰かは結局わからなかったが、船上のトーマスがルビーに宛てた手紙が残されていた。祖母が生まれた年に書かれた手紙には、新しく郵便船での仕事が見つかりそうなこと、家族からまた離れてしまう寂しさが綴られていた。
妻と一緒にいることを願う手紙の中には、子供はもう3人で手一杯であること、そして自分にいつも誠実でいてほしい、という一言が書かれていた。多くは書かれていないが、妻が他の誰かと関係を持っていることを、知っていたのではないかと思われる。経済的にも、生まれた子供を育てるのは難しかったのだろう。
祖母ジーンが酷い家庭に引き取られたのは不幸なことだった。しかし当時、養子縁組に対する規制は無く、子供が金銭でやり取りされることもあった。酷い家庭環境で育てられたが、そこから抜け出した後は良い人生を送れていたと思う、とヴィッキー。祖母の朗らかさを思うと、きっと生みの家族は良い人達だったのではないかと思っていたという。
子供を養子に出したトーマスとルビーであるが、二人は最後まで添い遂げ、愛に包まれた楽しい家庭を築いたという。そして祖母ジーンもそれは同じであった。
日本軍の捕虜になった曽祖父
次は、母方の曽祖父の謎について探る。祖母アイリスの父親ハリーは、日本で戦争中死んだと聞いている。
物心ついた頃には父を亡くしていた祖母。若い頃には、双極性障害を患っていたこともあったらしい。

残されているのは、軍服を来た曽祖父ハリーの写真、そして埋葬場所の写真。場所はどこかわからないが、日本のどこかだと家族の間では伝えられていた。この墓地の写真は、ヴィッキーの母が子供の頃から、家のどこかにいつも置かれていたという。
1941年マラヤ(マレーシア)から送られてきた手紙も残っていた。クリスマスを一緒に過ごせないどころか、遠くて何も送れなくてごめん、でも次のクリスマスには戻ってこれるかもしれないしね、とあった。実際は家族のもとに戻ることなく亡くなってしまった曽祖父。まずは彼のバックグランドを追う。
炭鉱夫だった曽祖父
祖母の出生証明書に書かれていたハリーの職業は採炭夫(colliery hewer)。炭鉱で働いていたようだ。
ハリーの出身地、ヨークシャーに残る炭鉱を訪れるヴィッキー。曽祖父ハリーは14歳の頃から、父親や兄弟とともに炭鉱で働いていた。暗くて狭く、四つん這いにならないと通れないような所で、当時は安全装備など何も無しで働いていた。
戦争が始まった頃にはすでに炭鉱勤務も18年となっていた。その頃には、天井を木材で支え、コスト削減のため、その木材を必要に応じて他の採掘場所に入れ替えていく、という作業を行っていた。この木材を外すと落盤が起きるような危険な作業であった。
シンガポールで捕虜に
30代前半で動員された曽祖父は、第80対戦車砲兵連隊に配属された。曽祖父が使ったのと同じ対戦車砲を見て、その大きさに驚くヴィッキー。同じ部隊の仲間が残した手記には、たった3ヶ月の訓練で、自分が軍人であるという意識がまだないまま、海外に派兵される心境が綴られていた。見知らぬ敵と対峙しなければならないこと、そして南方向けの装備を渡されたものの、どこに行くのかはわからない不安。
曽祖父の部隊は船に乗り、70日かけてシンガポールに送られていった。日本軍から、英領シンガポールを守るためであったが、到着して1ヶ月もしない1941年12月、日本軍からの攻撃にあった。大英帝国の威信をかけ、チャーチルはこの戦いになんとしても勝ち抜く姿勢を見せたが、それは戦地に送られたハリーのような一般兵士の事は顧みない姿勢でもあった。1942年に連合国軍は降伏。英国にとって、第二次大戦での最大の負け戦であった。
台湾へ

結局この戦いで、13万人の兵士が捕虜となった。そして記録によると、ハリーはシンガポールから台湾の収容所に送られたようである。台湾に向かうヴィッキー。
地元からあまり離れたことがなく、旅慣れないヴィッキーにとって、17時間かけて向かう台湾はあまりに異国だった。知らない言葉、知らない環境、人混み、湿気を伴う暑さに圧倒されてしまう。そして、見知らぬ場所で家族から離れ、先の見えない状況でハリーはどんな気持ちだったかを考えると、胸がいっぱいになってしまう。
ハリーは8ヶ月ほどシンガポールで捕虜生活を送ったあと捕虜たちに「地獄の船」と呼ばれたイングランド丸で、台湾に輸送された。帰還者の手記によると、床に藁が敷かれた、動物や貨物を運ぶような場所に多くの捕虜が詰め込まれ、油の浮いた水と米が与えられたという。赤痢に苦しむものもあり、そんな匂いや酸欠、栄養失調にも苦しんだ。
金瓜石鉱山での労働
港についた後、捕虜たちは台湾北部にある金瓜石(きんかせき)と呼ばれる鉱山での強制労働に従事した。港から現地に向かう間にも、歩きながら捕虜たちはどんどん倒れていき、それを地元の人達が見守っていたという。
役者として、想像力が働きすぎてしまうことがあるというヴィッキー。会ったこともない曽祖父だが、家族の一員が経験したことを想像して、いたたまれなくなってしまう。もう家に帰りたい、これほど家族が近くにいてほしいと思ったことはないが、曽祖父はそれもかなわず、一人でつらい経験をし、亡くなっていったことを思い、涙を流す。
当時の金瓜石鉱山の写真には、大量の捕虜が写っていた。この場所で強制労働が行われていることは秘匿されていたため、赤十字がこの場所にアクセスすることはできなかったという。捕虜への酷い扱いを聞き、心を痛めるヴィッキーだが、日本の兵士にとっては、この戦争に負けることは国や家族を失うことを指し、また白人捕虜は世界で起きているアジア人抑圧の象徴でもあった、という一面も聞かされる。慈悲が入り込む余地は無かったのね、とヴィッキー。
炭鉱の中に入ってみる。炭鉱内の温度は50度になることもあったという。帰還者の手記には、鉱石を運び出すノルマは1日ひとり5トンから15トン。健康体でも大変な作業を、病気、栄養失調に苦しむ捕虜がこなせるわけもなく、1日の終わりにハンマーで殴られることが常だったという。また酸性水が滴るため、視力に影響が出ることもあった。こんな中を、安全装備などもちろんなく、腰巻き1枚で作業させられていたという。
エピローグ
そして最後に見せられたのは、日本語の死亡証明書。

落下防止のために設置されていた板の釘が外れ、10メートル下に頭から落ちたのが原因で亡くなったという。しかしおそらくそんな板は元々なく、単に転落したのではないかと思われる。35歳だった。この炭鉱で亡くなった最初の捕虜だったという。ヨーロッパにおける戦争捕虜の死亡率が4%だったのに比べ、日本軍に抑留された捕虜の死亡率は25%にものぼった。その後の長く辛い労働のことを考えると、あまり長く苦しまなかったのはせめてもの救いだったのかもしれない。
資料を読みながら涙するヴィッキー。祖母は強い人だったが、幸せな人ではなかった。自分があまりにも天真爛漫すぎる子供だったせいか、祖母とはあまりウマがあわなかったというヴィッキー。今思うと、こういう形で父を亡くすなど、心に大きな影があったのだ思う。
関係者もどんどん亡くなり、あまり知られていないこの場所であるが、戦争捕虜のための慰霊碑がたてられており、そこにはハリーの名前も刻まれていた。
ひとこと
何か日本に関係するエピソードはないかな、と思っていたら放送されたのがこちらでした。ヴィッキー・マクルアという役者さんは、イギリスのテレビシリーズなどで活躍されているようですが、おそらく海外向けの作品には登場しないせいか、初めて聞く名前でした。
またロンドンからそれなりに距離がある地元にとどまっていることからも、ふるさとに密着した役者さんなんだろうなと思われます。そんな彼女が、イギリスの本当に中くらいの心地よい街から、全く環境が違う台湾に行った時の戸惑いと孤独は、手に取るように本当に明らかでした。そんな中で、家族の悲惨な最期を、実際にそれが起きた場所で見聞きするわけですから、かなり辛い経験だったと思います。
番組を見ていても、家族とのつながりが本当に深い人だというのもわかりましたので、それも余計に大変そうだなと感じる理由になったかもしれません。文章に起こすと、少し内容がサラッとしてしまうのですが、実際の捕虜の様子などは見ていてかなり凄まじいものでした。
これを契機に少しだけ金瓜石鉱山についても調べてみましたが、明治の日本統治時代から、採掘されていたようです。そんな背景から、日本語での情報では、日本情緒が残る穴場の観光地としての紹介が多く、私は逆に収容所としての金瓜石を先に知ってしまったせいか、そのギャップに少し戸惑ってしまいました(日本語のWikipediaには捕虜収容所としての記述が一切ないのもちょっとひっかかりました)。鉱山の長い歴史の一部ではあるとは思いますが。
ここから帰還した人が、何十年もたって、老人になってから再び台湾を訪れる手記もオンラインに残されていました。良かったらGoogle翻訳などにかけて読んでみて下さい。ヴィッキーのひいおじいさんのように、過酷な環境の中で亡くなり、そこで時間がとまってしまった人、そして生還して、時に癒やされ、または記憶が薄れながら日々を過ごし老い、自由な意思でまた台湾を訪れることができた人、そしてそんなことがこの場で起こっていたことなどつゆ知らず、訪れるであろう観光客・・・。
なんというか、記憶や時間、そして戦争をする双方からの視点、経験・・といろいろなことを考えさせられるエピソードでした。
過去に紹介した日本が関係するエピソードはこちらもどうぞ:
【TVパーソナリティ:シャロン・オズボーン】アメリカにいた先祖、過酷な家族の歴史
プロローグ
ロックスター、オジー・オズボーン夫人であるシャロン・オズボーン。ロサンゼルス、そして生まれ故郷であるイギリスの二拠点で活動している。

By Eva Rinaldi - Sharon Osbourne, CC BY-SA 2.0, Link
シャロンの母はダンサー、父は芸能エージェントで、のちに自らのミュージックレーベルを立ち上げている。両親は多忙で、学校から帰ればご飯が待っていて、宿題をやって、決まった時間に寝る・・というような家庭環境ではなく、ワイルドな子供時代を送ったというシャロン。
学校を卒業後は、父のミュージックビジネスの手伝いをした。両親からは仕事に対する真摯な姿勢、そして欲しいものがあればそのために最大の努力を尽くすことを学んだ。
父親の先祖については、マンチェスターのユダヤ人コミュニティに深いルーツがあることは知っているが、母親の先祖については、多分アイルランド系、ということしか知らないという。
初めて知る母方の祖父と大叔母
母方の祖母ドリーは、もともとダンサーで、ボードビルショーに出演していたと聞いている。子供の頃の祖母の記憶といえば、髪が真っ白で口紅は真っ赤、そして真っ白な入れ歯がまるで魔女のように怖かった、という思い出が強い。
祖父の名前は話にも出たことがなく、シャロンの母、ホープの父親が一体誰だったのかも知らないという。
シャロンの姪が古い写真を持ってシャロンのもとを訪ねてくる。そこに写っていたのは、ダンストリオの写真。祖母ドリー、その妹アイラ、そしてドリーの夫、アーサー・ジェームス・ショーだった。

3人はコミカルな歌や踊りを披露するトリオとして、各地を飛び回る生活をしていた。
祖母が結婚していたことさえ確かではなかったので、この事実に驚くシャロン。またドリーに妹、自分にとっては大叔母がいたことも、初耳だった。その後夫アーサーや妹アイラに何があったのか、家族は誰も知らないという。
婚姻証明書から、祖父母は第一次大戦勃発翌年の1915年に結婚していたことがわかった。もしかして祖父はその後戦地に赴き、戦死した可能性もある。
残されたドリーの奮闘と悲劇
祖父の従軍記録を調べる。当時27歳だった祖父は、王立砲兵隊の運転手として、シャロンの母、ホープが生まれる数ヶ月前に出征。地中海やエジプトを3年ほど従軍した後、イギリスに戻ってきていた。
夫不在の3年間、祖母ドリーはどうやって母ホープを育てていたのだろうか。
第一次大戦中、英国では歌や踊り、アクロバットなどのショーを披露するバラエティシアターが人気となり、各地に劇場が作られたという。今も残る当時の劇場を訪れるシャロン。今はパブに改装されているまさにこの場所で、1917年のクリスマス、祖母ドリーと妹アイラは舞台に立っていた。
当時のプログラムも残っていた。夫が不在のため、別のダンサー達と新たなグループを作り、4人で活動していた。出し物はポニートロットと呼ばれる当時最新のダンス。短いスカートを履いた女性ダンサーが、馬車に繋がれた馬のように並び、軽快なステップを踏むというものであった。

当時はポニートロットのほか、クマやウサギの動きを模したダンスや、ターキートロットと呼ばれるスタイルのダンスなど、男女の密着が多かったり、激しい動きの多い「アニマルダンス」が流行した。
このようなダンスは時にカトリック教会の批判の対象となるなど、風紀を乱すとの批判もあったという。ただ、このようなパフォーマンスは、戦争の重苦しい気分を一瞬でも忘れさせてくれるものとして人気だったようだ。
この頃ドリーは25歳、妹アイラは17歳。赤ん坊と妹、家族を女手一人で支えるのは大変だったろうと想像するシャロン。そんなシャロンに渡されたのは、アイラの死亡証明書。18歳で結核で亡くなっていた。記録によると、2年間病魔と戦いながら舞台に立っていたようだ。
18歳の妹を失うのはどんなに辛かっただろう、彼女の名前が一切家族の中で出てこなかったのは、このためだったのか、とショックを受けるシャロン。子供だったので祖母のことは何も知らないで過ごしていたが、こんなにつらい経験をしていたとは。子供の頃抱いていた祖母の印象が大きく変わった。
戦後も続く困難
第一次大戦が終わり夫は帰還、家族は南ロンドンのブリクストンで生活を始める。当時の家を探すが、そこには大きなスーパーが立っていてがっかりするシャロン。1920年、この土地で、シャロンの叔父も生まれている。祖母、そして子供だった母とおじの3人が写る家族写真が残っていた。とても穏やかで幸せそうに写っている。
しかし1929年の新聞に、当時32歳の祖母ドリーと、まだ12歳だった母ホープが窃盗で逮捕起訴されたという記事が載っていた。盗んだのは、二足のストッキングなど細々したアイテム。
逮捕された時、まだ12歳だった母が、罪は自分が被るから母を釈放してくれと警官に懇願したことも書かれていた。またドリーについては、夫と別れ、世話が必要な年老いた母親も抱えているが、半年ほど職が無かった、とも書かれていた。
留置所だった建物を訪れるシャロン。二人の収容記録も残されていた。父もおらず、ストッキングを盗まないといけないほど困窮した環境にいた母親のことを思うと心が痛む。母の性格を思い出すと、こういう辛い経験があったからかも、と今では理解できる。
逮捕から10年後の記録から、祖母ドリスは第二次大戦中、戦時労働者として、ドラム缶に石油を詰める仕事をしていたことがわかった。このような重労働には、通常よりも多めに配給があったという。婚姻関係の欄には未亡人とあったが、本当に死別したのかは不明で、夫アーサーのその後の足取りをつかむことはできなかった。
祖父アーサー、アメリカのルーツ
その後の消息がわからない祖父について、さらに調べるシャロン。祖父が子供の頃の国勢調査を調べると、アーサーの父親はランカシャー出身、そして母親はアメリカ出身であることがわかった。先祖にアメリカ人がいることに驚くシャロン。一体二人はどうやって出会ったのだろう?また母親の出身地として記載されている「フォーレン・リバー」という地名も、聞いたことがない。
アメリカに向かうシャロン。国勢調査の出身地欄には「フォーレン・リバー、アメリカ」と書かれていたが、それはおそらく記録係の書き間違えで、実際はマサチューセッツ州のフォール・リバーだった。
祖父アーサーの母、アニーは1868年、このフォール・リバーで生まれていた。出生証明書から、アニーの父トーマス・オドネルはアイルランド出身、母キャサリンはイギリス出身ということもわかった。
19世紀、アイルランドのじゃがいも飢饉をはじめ、ヨーロッパでは作物の不作による飢饉が蔓延、より良い生活を求めてアメリカに多くの人々が移民していった。この時期、アニーの両親が最初にアメリカに移民してきていたようだ。
それにしても、シャロンの先祖はなぜこの土地を移民先に選んだのか。アメリカ移民を希望する人向けに書かれた、当時のパンフレットが残っている。移民するのにおすすめの場所が紹介されているが、その中にフォール・リバーも含まれていた。フォール・リバーは美しい川、そして街路樹やエレガントな家が並び、この街で見る夕日はイタリアに負けず劣らず美しい、とまるで桃源郷のような場所として紹介されていた。
当時のフォール・リバーは綿やウールなどの紡績業、印刷や鉄鋼業で栄える主要な工業地帯であり、中でも綿織物に関しては当時アメリカで最大の生産量を誇っていたという。
まだ当時の工業の名残が残るフォール・リバー。そこで1867年に二人が結婚した教会を訪れるシャロン。アイルランド系が多く住む地域にある美しいカトリック教会であった。ここに自分が立っていることが不思議で信じられないと感無量の表情をするシャロン。
出生の記録をたどると、1868年に生まれた曾祖母アニーの下には、その後5人ものきょうだいが生まれていた。6人の子供を育てるなんて、どれだけ大変だっただろうか。
宣伝文句とは程遠い生活環境
フォール・リバーでの彼らの生活は一体どんなものであったのか。工業の発達にともない、もともと小さな町だったフォール・リバーの人口は膨れ上がり、当時は4万5千人ほどであったという。たくさんの紡績工場が建てられ、一年に6000人もの労働者が流入するなど、ある意味混沌とした状況であったという。
パンフレットにはイタリアのような夕日を見ることができる、と書かれていたが、実際には無機質な工業の街であり、当時の地図に描かれた工場の煙突からは黒煙がもくもくとあがっている。石炭の煙で実際に夕日が見えたかどうかさえ、あやしい。
先祖はトロイ・ミルと呼ばれる紡績工場で働いていた。ここはフォール・リバーでも最古の工場だったという。

By Unknown author - http://www.sailsinc.org/durfee/cdpictures/troymills.jpg, Public Domain, Link
工場の帳簿が残されていた。そこには曾祖母アニーの両親の給与明細も残されていた。母親は1ヶ月に17ドル、父親は34ドルほど。当時の給与レベルとしても低いものだったという。彼らが担った仕事は、「梳綿(そめん)」と呼ばれるもので、綿を機械にかける前に、繊維の塊をブラシでといて方向を整えるというものであった。繊維が空気に舞い、呼吸器官に影響を与えるなど、この仕事は紡績の中でも過酷なものであったという。
このような仕事は女性や子供が担うことが多く、6歳位の子供も多く働いていた。当時イギリスでは児童の労働に多少規制が入り、働ける年齢は9歳から、また労働時間にも制限が設けられるようになったので、ここでの労働環境はイギリスよりも悪かったといえる。
またこの工場では、労働者は工場の社宅に住むことが義務付けられていた。部屋の大きさは9畳ほど。そこに6人の子供達と住むことを余儀なくされた。また急激に街が拡大されたので、建物の住環境も衛生状況も悪かったという。
夢をみてアメリカにやってきたものの、給与も労働環境も、ある意味来る以前よりも劣悪な状況に置かれてしまった人達。故郷に戻りたくても、そのための資金を工面することもかなわず、どうすることもできなかった。
悲しい結末
こんな中どうやって子供たちは生き延びたのか?と考えるシャロンの前に置かれたのは、曾祖母アニーを除く、すべての子供たちの死亡証明書だった。2歳、生後数カ月、中には生後6日など、成長することなく皆亡くなっていた。原因は痙攣や下痢、衰弱、結核など。やはり衛生状況も栄養状況も良くないところで生き延びることはできなかった。そのうち二人の子供は2週間と待たず立て続けに亡くなっており、死亡証明書に書かれていた住所も、貧窮院となっていた。
そして最後には母親も35歳で結核で亡くなっていた。5人の子供を次々亡くし、働き尽くして死んでしまった。なんという人生だったろう。
この後、父親とアニーはイギリスに戻っている。アメリカ生まれの先祖がイギリスに戻ってきた背景は、こういうことであった。
エピローグ
先祖はより良い人生を求めて新天地に向かっていった。でもそこで待っていたのは、さらに過酷な状況であった。そのことに心を痛めるシャロン。
曾祖母アニーの写真が残されていた。彼女が経験してきたことを考えると心が痛む。イギリスに戻って幸せを見つけたと思いたい。実際3人子供が生まれ、そのうちの一人が自分の祖父となった。
自分の家族の女性たちは、皆、苦労を重ねてきたと思う。しかし、自分自身も含め、諦めない強い意志もまた持っていた。この気質は、アニーをはじめとする先祖から受け継がれたものなのかもしれない。それにしても、アメリカから来た先祖がいたという事実は、本当に驚くべきことだった。家族は何もないところから出発し、ただ生き延びるため、必死に尽力してきた。その歴史を誇りに思う。
ひとこと
少し前にオジー・オズボーンが亡くなってしまいましたが、今回その奥さんのシャロンさんのエピソードを紹介しました。オズボーン一家は昔リアリティ・ショーで家族の様子を公開していましたが、それ以降オーディション番組の審査員を長年務めたり、自らのトークショーを持つなど、奥さん単体での出演も多かったように思います。語り口は穏やかで優しい感じなのですが、旦那さんに負けず劣らず、色々出演者間のトラブルやいざこざなどもあったようです。
今回先祖のことをたどることで、母親の辛い過去にも触れ、ああいう人だった理由は、こんな所にあったのかも・・とコメントしていましたが、彼女と両親との確執もすごかったようで、特に母親ホープとは長年疎遠だったそう。亡くなったという連絡があった時も、あっそう、で終わったほどだったそうです。今までにも先祖の過酷な過去についてのエピソードは様々紹介されていますが、何かやはり過去のトラウマや家族の歴史が、その後の人格形成や家族関係を形作っている・・という例のひとつだったともいえます。
マサチューセッツ州のフォール・リバー、工業の中心地として、のちにはポルトガルからの移民も多かったようで、以前グルメ旅番組で、この街のポルトガル料理屋やその文化が紹介されていたのを見たことがあります。昔は栄えていた街ですが、今は当時の建物が寂しい感じで残る、あまり治安の良いとは言えない場所にもなっているようです。
この街のことを少し調べていたら、この街の歴史協会的な団体のウェブサイトにたどり着きました。そこではBBCから、この番組のための調査に協力してくれたお陰で、おかげで工場の帳簿や給与明細、家賃の情報などを見つけることができたことについて、担当者からの御礼の手紙が公開されていました。番組のために色々手を尽くして調査をするわけですが、こういった情報の問い合わせの際には、調査対象がシャロン・オズボーンだということは調査担当者にも伏せられていたようです。番組で使える情報が見つかったので、フォール・リバーでのロケもすることになりそう、とも書かれていますが、実際にシャロンさんがフォール・リバーを訪れ、そこで専門家と話したり、ゆかりの場所を訪れるシーンが撮影されました。
familyhistory.hatenadiary.com
工場での厳しい労働状況についてのエピソード
familyhistory.hatenadiary.com
家族のトラウマの歴史についてのエピソード
【コメディアン:スー・パーキンズ】ブリティッシュ・ベイクオフ司会者のルーツ:戦争そして移民としての影
プロローグ
ブリティッシュ・ベイクオフの司会者として有名な、コメディアン、スー・パーキンズ。ロンドン南東部クロイドンで、父バーティー、母アンのもと、3人きょうだいの長女として育った。
By User:Urregoluis, CC BY-SA 3.0, Link
自分の人生はとにかく全てのことにイエスと言い、全てをやりつくして前進し続けることの繰り返しだったように思う。しかし2017年に父が亡くなったのをきっかけに、一歩下がって、今自分の持っているものをもっとじっくりと大事にしようと考えるようになったという。
心を落ち着かせるために、人は瞑想することが多いが、頭の中で暴れまわる考えを落ち着かせ、心をリラックスさせる方法として、ボクシングに没頭しているスー。
父方の家族からは人に共感する心、しかし同時に人間は何をするかわからない恐ろしいものであるという恐怖感を、一方、母方の家族からは、とにかく休まず前へ前へと進んでいく、勢いのようなものを受け継いだと考えている。
自分の先祖たちが経験した色々な感情や経験はどんなものだったのか。自分の中に、その片鱗が少しでも残っているのか。自分がより良い人間になるためには、その中から取り除いたほうがいい要素があったりするのか、知りたい。
スーの祖父母たち
長年の仕事のパートナーで、ベイクオフの司会だけでなく、他の番組でもタッグを組んできた親友、メル・ギェドロイツと一緒に家族の写真を見るスー。

スーとメル
母方の祖母、リディア。祖母に関しては、とにかくいつも休みなく働き続けていたというイメージが残っている。移民の娘だったということしか知らないが、母方の家族から受け継がれている、前に進み続けるという気概は、移民だったという背景が関係しているような気がする。
自分の家族もリトアニアからの移民だというメルも、自分の先祖に似たようなことを感じると言う。
祖母リディアが子供時代の家族写真も出てくる。リディアの父母を囲むのは、リディアを含め8人の子供達。ドイツ、そして東欧と関係があるというのは聞いている。メルの祖先と同じリトアニアでご近所さん同士だったら面白いのに!と盛り上がる2人。
父方の祖父、アルバートについては、スーは何も知らないという。父が生まれた時、既にかなり高齢だったと聞いている。祖母の名前はフロレンス。2人が結婚した時、アルバートは41歳、フロレンスは22歳と随分歳が離れていた。結婚したのは1917年、第一次大戦真っ只中のコーンウォール。アルバートは軍人だったらしい。戦争中だったのになぜこんな戦地と離れた場所で結婚できたのか不思議に思うスー。
また、フロレンスは有能な助産師だったらしい。残された手紙から、患者からも慕われていたことがわかり、涙ぐむ2人。
初めて知る父方祖父の生い立ち
会った事のない、父方の祖父アルバート・パーキンズの足跡をまずは追う。
祖父母が結婚した町、コーンウォール地方ボドミンに向かう。彼らが結婚した教会は、今はコンドミニアムになっており中に入ることはできなかった。
祖父アルバートは1875年生まれ。しかし、アルバートが6か月の頃、母親が死亡。1881年、5歳の時の国勢調査から、兄や妹がいたこと、父親は再婚し、継母と生活していたことがわかった。しかしその翌年、父は52歳で結核で亡くなっていた。そして実はその数か月前、継母も亡くなっていたことが死亡証明書からわかった。アルバートは孤児になってしまっていた。
当時、孤児はワークハウスと呼ばれる救貧院のようなところに行くしかなかったという。当時の記録から、彼が7歳の時、一緒に救貧院に入っていた兄だけが親戚に引き取られたことがわかり、悲しく思うスー。しかしその翌年には、アルバートも一緒に引き取られていた。
写真では、とてもまじめで厳しそうなビクトリア朝の紳士に見える祖父。子供の頃に両親を亡くした悲しく寂しい経験がその裏にあるのではと考えるスー。
その後アルバートは、軍に入隊。「コーンウォール公爵の軽歩兵」と呼ばれる部隊に配属され、12年間軍人として任務を果たした。当時の記録から身長は165センチと小柄だったことがわかる。インドに1897年から1年間派遣され、その後ボーア戦争勃発時には、南アフリカには行かず、ボーア戦争の捕虜が移送されたスリランカに数年駐在したという。1914年第一次大戦勃発時は既に40歳だったっが、志願してサロニカに送られた。
その後、負傷して除隊。理由として「トレンチフット」と書かれていた。これは、長時間水はけの悪い塹壕にいて、足がずっと水に浸かっている状態になり、足指が壊死してしまう状況を指す。祖父の場合はそれほど状態は酷くはなかったようだが、これが原因で戦争が終わる頃、ウィルトシャーにあるバルフォード・キャンプと呼ばれる基地に戻った。
助産師として活躍した祖母
バルフォード・キャンプはスーの父親が生まれた場所でもある。祖父母が住んでいた宿舎を訪れるスー。彼らはここで他の多くの軍人一家とともに生活していた。祖母フロレンスは主婦をしていたが、ある日助産師になることを決意。1900年代に入るまで、助産師は特に資格が必要ではなかったため、いわゆる藪医者的な存在であまり評判の良い職業ではなかったという。その後規制が設けられ、きちんとした資格とするために、助産師になるための研修や試験などが導入された。フロレンスはそんな研修を受けた初期の女性だったといえる。
試験代、助産師の制服や医療機器などは自前で用意しなければならなかったため、労働階級の人間が助産師になることは大変だった。それまできちんとした教育を受けてこなかったフロレンスだが、ラテン語の医療用語などを覚え、12か月の研修ののち、1928年に助産師としての資格を得た。
主婦から助産師となったフロレンスを夫アルバートは全面的にサポートし、子育ても積極的に行ったという話を聞き、嬉しく思うスー。
その後、祖母はサウサンプトンの自治体が指定する助産師に選ばれている。これは優秀で腕の良い助産師だったということだった。その後第二次大戦がはじまり、サウサンプトンはドイツ軍の空襲被害を多く受けたが、そんな状況の中、祖母は走り回り、出産をサポートした。当時、助産師の制服の一部として、空襲から身を守るためにヘルメットを支給して欲しいという嘆願書が助産師達から自治体に提出されたが、却下されてしまったという。
何も無い所から立ち上がり、軍人や助産師というプロフェッショナルとして働いた祖父母。誇りに思うと同時に、過酷な環境の中でひたすら仕事に身を捧げ、一生を終えたことに複雑な思いも感じるスー。
ドイツ系だった母方一家
母方の家族、ミューラー家の足跡を追う。祖母リディアの父、エミルはドイツ出身の移民だということしか知らないスー。1911年の国勢調査では、一家がロンドンのテムズ川の南、サザークにいたことがわかった。

By © User:Colin / Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0, Link
川沿いには有名なタワーブリッジも立つこの地域は、開発が進み、彼らの住所を訪れると高層ビルの建設が行われているところだった。当時はこの近辺には大きなドイツコミュニティがあり、ルーテル派の教会がいくつもあったという。祖母リディアの両親もそのような教会で結婚。結婚証明書には、曾祖父エミルの職業は仕立て屋となっていた。また曾祖父母の両親の職業はどちらも農民とあった。
自分の覚えている祖母リディアは、声も存在感も大きい、いかにもコックニー(下町ロンドン)の女性という感じだったが、1911年の国勢調査では家族全員「ドイツ人」と記載されている。しかし家族がドイツのルーツについて話すことはなかったというスー。これはまさしくこの頃、第一次大戦が勃発し、イギリス国内でドイツ人に対する排斥が始まったことが、大きく関係しているようだ。
収容所に送られたドイツ人
ビクトリア女王の夫アルバート王子はドイツ出身。1840年に行われたロイヤルウェディングをきっかけに、クリスマスツリーを飾る風習や幼稚園、デリなど、様々なドイツの文化がイギリスに持ち込まれ、人々に受け入れられていた。しかし1914年に始まった第一次大戦勃発で、人々のドイツに対する向ける目は疑惑へと変わる。特に1915年に起きたルシタニア号事件(イギリスの豪華客船がドイツ潜水艦の攻撃を受け沈没)を受け人々の怒りが爆発、事件の翌日から民衆がドイツ人の商店や家を襲う排斥運動が起きた。

当時の新聞記事を見るスー。掲載されている事件現場の写真は、曾祖父母の家からそう遠くないところだった。当時、ロンドンだけで2000件のドイツ系商店が襲われたという。
その後、イギリス政府はイギリスに住むドイツ人移民男性を敵国人ということで家族から引き離し、イギリス本土からは離れたマン島の施設に収容し始める。
エミルも38歳の時ここに送られてしまう。単にドイツから来たというだけで、仕事、家族、全てから引き離されてしまったのである。

By <a href="https://en.wikipedia.org/wiki/en:George_Kenner" class="extiw" title="w:en:George Kenner"><span title="artist (1888-1971)">George Kenner</span></a> - <a rel="nofollow" class="external free" href="http://media.iwm.org.uk/iwm/mediaLib//146/media-146036/large.jpg">http://media.iwm.org.uk/iwm/mediaLib//146/media-146036/large.jpg
This is photograph <a rel="nofollow" class="external text" href="https://www.iwm.org.uk/collections/item/object/15045">Art.IWM ART 17053</a> from the collections of the <a rel="nofollow" class="external text" href="https://www.iwm.org.uk/">Imperial War Museums</a>., Public Domain, Link
ドイツ移民を収容した施設はノッカロー(Knockaloe)キャンプと呼ばれ、ピーク時には2万3000人が収容されていた。それぞれの小屋に30人ほどが押し込まれており、家族から離れ、プライバシーの無い生活に、精神的に追い詰められたり自殺するものもあったという。その後、被収容者の精神衛生のために、演劇やスポーツなどが奨励された。フィジカルトレーニングの手法として有名なピラティスも、ドイツ人であったジョセフ・ピラティスがマン島に収容されていた際に発案した運動方法がもとになっている。
当時の収容所の写真にはミシンも写っており、仕立て屋のワークショップがあったことがうかがえる。手に職を持っていた曾祖父は、仲間の服を修繕するなど、自分の仕事を収容所に持ち込み、時間を過ごすことができた点で、他の被収容者よりはラッキーだったかもしれない、という。
一方残された曾祖母は、子供達を養い、仕立て屋商売を続けるため必死で働いた。当時のことやドイツ系であるというバックグラウンドを家族の誰も話さなかったのは、そういうことだったのかと理解するスー。
多分とにかく前に進めという思いは、曾祖父エミルから来ているのではないかと考えるスー。収容所でも働き続けることで、自分と家族を救うことができたのではないかと。他の国出身だということだけで、ヘイトの対象になってしまうことに憤りを感じながらも、一方いつも自分の中にある、なんともいえない恥のような、不安な気持ちもこういう家族の経験から来ているのかもしれない、とも思う。
意外な曾祖母のルーツ
母方の祖母、リディアの母親であるアナ。1901年の国勢調査を見ると、彼女の出身地はロシアとなっていた。
1901年のセンサス。21歳の曾祖母アナ。生まれた場所はロシアとなっていた。ナヴィニンカイ(Navininkai)と呼ばれる曾祖母の出生地は、当時はロシア領であったが、現在はリトアニアにある。メルと一緒だ!と喜ぶスー。
曾祖母のルーツをたどるため、リトアニアに向かうスー。ドイツ国境にもほど近いこの地域には、18世紀頃、多くのドイツ人が安い農地を求めて移住してきたのだという。現地では、曾祖母の祖父母まで家系を辿ることができた。また曾祖母は11人きょうだいの長女だったこともわかった。
実際に先祖が住んでいた土地に向かう。全く何もない、だだっ広く寒々とした土地であるが、一族を知っていたという人の証言では、この地域でも一番大きな農地、大きな家を持つ豪農であったといい、このあたりの土地はスーの先祖の名前でいまだに呼ばれているという。
移民というと、貧しく何もないところから新天地を求めて移住したというイメージがあるが、どうやらスーの先祖はこの土地で繁栄していたようである。なのになぜここからいなくなってしまったのだろうか。
ヒットラーそしてソ連の影
スーの曾祖母アナがイギリスに渡ったあとも、一家は3-40年ほどこの土地に住み続けていたらしい。しかし1939年にヒットラーのドイツ軍がポーランドに侵攻。その際、ドイツはソ連と不可侵条約を結び、ポーランドの一部がドイツに、リトアニアの一部がソ連に渡ることとなった。このため、一家はソ連領となったリトアニアに残るか、ドイツに行くかの選択を迫られたのである。この時、多くのドイツ系リトアニア人がドイツ政府のオファーを受け入れドイツに戻ったという。
自らが卓越した人種「アーリア人」だと信じるドイツ政府は、東ヨーロッパにいるドイツ系マイノリティをドイツに呼び戻す運動を行っていた。荷車を引いた馬車でドイツに戻るドイツ系東欧人一家、そこにナチの旗を掲げて人々が出迎える写真などが残っている。一方、ドイツに戻るには、自分が正真正銘のドイツ人であることを証明する必要もあった。
ドイツの移民局の書類の中から、スーの曾祖母の弟、アルバート一家の情報も見つかる。一家は1941年ドイツに戻り、再定住のための施設に収容された。そこでは顔写真が撮られ、身体検査や様々な測定が行われたという。これは鼻の高さや目の間の距離、頭の形などを測るというもので、その結果により、「アーリア人」「平均以上」「平均」「平均以下」「混血」「却下」というカテゴリーに分けられたという。この全く科学的根拠もない人種プロファイリングで、家族は「平均以下」との判定を受けた。
またアルバートの妻、エミリアの家族の情報も見つかった。エミリアの姉妹、アデラインには聴覚障害、学習障害があったという。ナチス政権はユダヤ人以外にも、障害者を排除しようとしており、アデラインが1942年に処刑されたという記録が残っていた。結局家族は1年間収容施設で過ごした後、ドイツには定住せず、リトアニアに戻っていった。
しかし1944年、ソ連がリトアニアに侵攻。アルバートはソビエト軍に捕まり、その後は農業労働に従事させられたという。戦後1957年に、ドイツに再度帰国を申請した。
エピローグ
歴史を学ぶとき、歴史の中には自分達のような普通の人達が普通に生きていて、でも政府や権力の決めたことに人生を左右されてしまうのも彼らだということを、つい忘れてしまう。しかし家族を通じてこんなに色々な歴史的な体験をするとは、と驚くスー。リトアニアからドイツに戻れば体を測定され、ドイツ人として十分ではないとレッテルを張られあげくの果てには殺され、またリトアニアに戻ればドイツ人だとして迫害された。曾祖母はイギリスに渡ってこういう状況から逃れることができたのは良かったが、思えばイギリスでも敵国人だとして排斥されている。
暗い気持ちで旅の終わりを迎えるスーだが、最後にリトアニアには珍しく、曾祖母アナが洗礼を受けた教会がまだ残っているというので、見に行くことにする。父方の祖父母が結婚した教会はコンドミニアムになっていたが、果たしてここは。
するとその教会はスーが愛してやまないボクシングのジムとして使われていた。リングに立ち、あまりの結末に驚き笑うスーであった。
終わりに
もうだいぶ前に交代してしまいましたが、ブリティッシュ・ベイクオフの司会として人気だったスー・パーキンズのファミリーヒストリーを紹介しました。番組では一緒に司会をしていたメルも、他の仕事でもずっと相棒だったんですね。
また2人のルーツがたまたまリトアニアと一緒だった、という偶然、またメルの先祖の名前がついた地名がリトアニアにあるらしく、あなたの先祖の名前のついた土地もあると面白いわね、などと話していたら実際そうだった、という偶然もありました。
このエピソードで驚いたのはやはり、イギリスが敵国ドイツの移民を国内で隔離収容していたという事実でしょうか。アメリカでも第二次大戦中は日系人が財産などを没収され収容所に入れられていましたが、他国でもあったのですね。
スー・パーキンズ、こういうドキュメンタリーを見ていると、結構鬱々とした面がある人なんだなーという印象も持ちました。
【女優:スカーレット・ヨハンソン】北欧・ユダヤのルーツ
プロローグ

By Gage Skidmore, CC BY-SA 3.0, Link
日本では「スカヨハ」とも呼ばれる女優、スカーレット・ヨハンソン。父はデンマークからの移民、母のルーツは東欧にある。
スカーレットが子供の頃、家族の生活はとても苦しく、ずっと生活保護に頼っていたという。そんな中、スカーレットが7歳の時にきょうだいとともに芸能事務所へ。しかしエージェントが最初に興味を持ったのは、弟のほうだったという。
それにショックを受けたスカーレット。それを見た母親が、演技にそんなに興味があるのならと、どんどんオーディションを受けるようにしてくれたのだという。それがスカーレットの女優のキャリアの始まりであった。
そして今では一番稼ぐ女優とまで言われるようになったスカーレット。貧乏の中、絶望を感じることもあったが、家族が支えあってここまでやってきた。まったく何もないところから夢をかなえた、それはある意味アメリカン・ストーリーなんじゃないかと思う、と語る。
ユダヤのルーツ
スカーレットの母方の先祖は東欧から来たユダヤ人。しかし母方の祖父母は母が子供の頃に離婚したため、祖父マイヤーのことはあまり知らないという。
1910年ユーヨークに向かう乗船名簿に、マイヤーの父、スカーレットの曾祖父の名前があった。まだ20代の曾祖父はたった一人、ほぼ何も持たず、体一つでアメリカに渡り、その後ニューヨークのロウワーイーストサイドで八百屋として、バナナを売り生計を立てたという。
身一つでやってきたということは、生きていけないような状況の場所から、一人でなんとか生き残るためにやってきたということ。機会を求めてやってきた、本当に移民の物語があったんだな、と驚くスカーレット。
家族の悲劇
スカーレットの曾祖父は1890年、現在のポーランドにあるグルジェツという街で生まれている。当時この地のユダヤ人は、農地を持つことが許されず、生活は苦しいものであったと考えられる。そんな状況から脱するためにアメリカに移民したスカーレットの曾祖父。しかし曾祖父のきょうだいはポーランドに残った。
1939年ヒットラーがポーランドに侵攻。1942年2月までに、この地域に住むほとんどのユダヤ人は追放されたりゲットーに追われることとなった。
曾祖父のきょうだいには子供が10人いたという。家族はワルシャワのゲットーに送り込まれていた。
ワルシャワのゲットーの環境は劣悪で、約3キロ四方、周囲を壁で覆われたエリアに4万人が詰め込まれていたという。多くの人が飢餓と病気で亡くなり、生き残ったものも殺されたり、収容所に送られるなどした。
イスラエルのホロコースト博物館に、家族の多くがワルシャワのゲットーで亡くなったという消息情報が残されていた。それを見て涙ぐむスカーレット。
自分の曾祖父はニューヨークに渡り、バナナを売りながら生き延びている間に、家族の一部はこんな目にあっていたなんて。
北欧のルーツ
スカーレットの父カーステンは1943年、デンマーク・コペンハーゲンに生まれた。スカーレットは13歳の時に始めてデンマークを訪れた。父親もアメリカ人というよりはよりデンマーク的で、ルーツとしてはデンマークの文化のほうがより身近だったという。そんなことから、デンマークの国籍も取っているスカーレット。
しかし父方の祖母が父が14歳の時に亡くなり、その後再婚した祖父と父が疎遠になったため、祖父に会ったことがないというスカーレット。祖父の話もほとんど聞いたことがなかった。
実はスカーレットの祖父アイナ・ヨハンソンは、デンマークでは有名な美術評論家であり、美術に関するドキュメンタリーフィルムの監督、TVパーソナリティとしてテレビに出演するなどした著名人だった。そんなこと全く知らなかった、というスカーレット。
アイナの父、スカーレットの曾祖父の名前はアクセル。コペンハーゲンで結婚した記録は残っていたが、それ以前の情報がデンマークで調べても全く出てこなかった。
実はアクセルはデンマーク人ではなく、スウェーデン人だった。1918年にデンマークに移民し、造船所や工場で肉体労働をしていたという。
これは予想していなかった、というスカーレット。なぜだかわからないけれど、自分の北欧のルーツは、もっと上流階級か貴族の血でも流れているのではないか、と勝手に思っていた。
デンマークで移民労働者であったアクセルの父親も、スウェーデンの農民だった。
しかしさらに家系図をたどると、9代前にヨハン・ホーグという名前が出てきた。彼は1689年、貴族の称号を得た人物だった。
父親に、よく君はバイキング・プリンセスなんだよ!なんて言われたけれど、貴族の血も入っているのね!と喜ぶスカーレット。それにしても家系図に記されたすべての人物がスウェーデン生まれ。スウェーデンのルーツのほうが深いことに驚く。デンマーク国籍じゃなくて、スウェーデン国籍とったほうが良かった?!
エピローグ
ルーツをたどってみると、自分はアメリカという大きなメルティングポットの産物なんだとしみじみ思う。リスクをとり、機会を求めて、何も持たずにやってきた人のおかげで、今の自分がある。
【ハリー・ポッター俳優:ダニエル・ラドクリフ】宝石強盗の悲劇・途絶えた戦地からの手紙
プロローグ
ハリーポッター役で世界中に知られる俳優、ダニエルラドクリフ。

By Gage Skidmore from Peoria, AZ, United States of America - James McAvoy & Daniel Radcliffe, CC BY-SA 2.0, Link
母親はキャスティングディレクター、父親も俳優として一時期活動していたことがあるなど、芸能関係の仕事に関わる家庭に生まれた。しかし両親は彼を俳優にしようとは思っていなかったと言う。
学校生活が合わずつまらなかったことが、オーディションを受けるきっかけだった。そして11歳からハリー・ポッターとして成長することになった。
これは家族全員の人生を大きく変えることになったが、両親はそんな変化を落ち着いて、時にユーモアの精神を持って受け止めてきた。これはすごいことだと思う、と語るダニエル。
先祖のことは実はあまりよく知らないというダニエル。知っているのは、父方の先祖に、第一次大戦で戦った四兄弟がいること、母方に東欧のユダヤ人の血が多少入っているらしい、というぐらい。
あとは曽祖父が宝石商だったこと、しかし強盗の被害にあい自殺した、というのをなんとなく聞いたことがあるだけだという。
改名の謎
ダニエルの母親から、先祖のアルバムと手書きの家系図が届けられる。
家族の苗字はもともと「ガーション(Gershon)」だったが、途中で「グレシャム」に変えられている。ユダヤ系の名前であるガーションを、よりイギリス風に変えたようだが、誰がいつ変えたのかは不明。
曽祖父母の名前は、サム(サミュエル)とレイ。このサミュエルが自殺したという人物だった。
サミュエルは9人兄弟の8番目。そしてサミュエルの両親ルイとジェシーは、南アフリカで結婚していた。東欧から来たユダヤ人だと思っていたのに、違うようだ。
親戚との対面
ダニエルの祖母のいとこにあたる、ルイス・ガーションという親戚がロンドンにいると聞き、会いに行く。
この日までダニエルと親戚だったなんて知らなかった、というガーション氏。彼の父親はダニエルの曾祖父、サミュエルの弟にあたる。
高祖父ルイにちなんで、ルイスと名付けられたガーション氏の家には、ルイの写真がずっと飾ってあった。写真を見ると、目のあたりがダニエルにそっくり。同じ名前の自分より、あんたの方がまるでそっくりだね!と笑うガーション氏。

宝石商として成功した高祖父
1900年代の国勢調査を確認する。一家はロンドンのハックニーと呼ばれるエリアに住んでいた。ルイはドイツ生まれ、妻ジェシーはロシア生まれ。
子供達はケープタウンやキンバリーなど、南アフリカで生まれているが、ダニエルの曽祖父サミュエルとその弟はイギリスで生まれていた。
当時の南アフリカは、ダイヤモンドの採掘で一攫千金を夢見たトレジャーハンターが世界中から集まって来ていた。1800年代後半には、数千人がキンバリーにダイヤモンドを求めて移住しており、ルイもその中の一人だった。
その後ロンドンに移った一家。ルイはロンドンで宝石商となっていた。
ロンドン中心部にある、ハットンガーデン。この通りは今でも、宝石商が多く集まる場所として知られている。ルイもここで、宝石商としてビジネスを確立する。
ルイの会社の価値は、当時の値段で1万ポンド(現在の6,500万円)と大きく成長していた。曾祖父サミュエルも10代で見習いとして、家業を手伝っていた。
父のあとを継いだサミュエル
27歳でレイ(レイチェル)と結婚したサミュエル。父ルイは既に亡くなっており、サミュエルは兄とともに家業を継いでいた。
結婚した二人が暮らしたサウスエンド・オン・シーを訪れるダニエル。
ここで初めて曾祖父サミュエルの写真を見る。今の自分と同じ年齢の時に撮られた写真だという。

海に面した大きな家に暮らし、ここからロンドンに通っていた。娘も2人生まれ、幸せな生活を送っていたようだ。ここからどうやって悲劇が起きるのだろうか。
宝石盗難事件
サミュエルが強盗被害にあったという情報が無いか調べると、いくつもの新聞記事が出てきた。1936年2月、夜中に強盗が入り、オフィスの金庫がこじあけられ、指輪やネックレスなどの宝石類が大量に盗まれたことが、センセーショナルに報じられていた。
被害総額は現在の金額で25万ポンド(3200万円)とかなり大きく、警察の捜査が入った。しかしオフィスに無理やり入った跡がないことなどから、警察はこれは保険金目当ての茶番だと結論づけ、捜査を取りやめてしまった。
実はガーション兄弟が宝石の盗難に遭ったのはこれが初めてではなかった。1922年には9000ポンド(110万円)分の宝石が盗まれ、兄エドワードがその2倍の保険金を受け取るなど、過去15年間に似たような事件が3度あったという。当時のハットンガーデンに宝石泥棒が入ることはめずらしいことではなかったが、このような過去があったことから、警察は怪しんだようだ。
イギリスの反ユダヤ主義
この事件について、警察に手紙を送ったものがいた。そこには、ガーションが宝石の盗難を自作自演したことを示唆する内容が書かれていた。しかしその理由は「ユダヤ人ならやりかねない」といったものだった。
そういう時代だったんだろうけれど、ユダヤ人だということが理由にされるなんてやはりショックだね・・とダニエル。
ユダヤ人に対するヘイトは、当時イギリスでも高まっていた。イギリスでも、オズワルド・モズレー率いるファシスト同盟がナチス同様、反ユダヤ主義を掲げ始めていた。
宝石盗難事件のあった1936年には、ファシスト同盟の行進を阻止しようとした人々との間で、多数のけが人と逮捕者が出た「ケーブルストリートの戦い」と呼ばれる衝突も起きている。
サミュエルの死
新聞記事には、曽祖父サミュエルがショックで失神、運ばれる写真まで掲載されていた。事件のその日に新聞記者がその場にいたようだ。サミュエルはそのままショックで床に伏せってしまい、警察と話が出来る状態ではなかったという。
当時サミュエルと兄の会社には、被害総額とほぼ同額の負債があり、これが詐欺を働く動機になった可能性は十分考えられる。しかし警察は動かず、保険金はおりず、メディアからはセンセーショナルに報じられ・・となると、サミュエルにのしかかった重圧は大きなもだったことは間違いない。
サミュエルが本当に保険金詐欺をしようとしたのかは、わからない。自ら命をたったのは罪悪感からだったかもしれないし、家族が築き上げてきたものが、盗難であっという間に崩れてしまうことへの絶望感もあったかもしれない。
事件の5ヶ月後、曽祖父は車の中で遺体で見つかった。検死官のレポートを読むダニエル。兄エドワードの陳述が残されていた。2月に強盗にあい、ショックで2週間ほど話せない状態が続いたこと。また保険金がおりなければ会社が破産申告をしなければならず、保険会社からの連絡待ちであること、そのことについて2月からずっと悩んでいたこと。
妻には債務者に会ってくる、と言って家を出たようだ。家庭では「素晴らしくハッピーだった」。
仕事がいかなる状況であっても、幸せな家庭を築いていたサミュエル。家族を養い支えなければいけない責任のあったサミュエルにとって、この状況は恐ろしくストレスだったに違いない。もし本当に犯罪を犯してしまったのだとしても、あまり怒れない気もする・・とダニエル。
見つかった遺書には、妻への愛情ばかりが多く綴られていた。しかし長年続けてきたビジネスが破産するかもしれないことに耐えられない、とも。家族への愛が溢れる言葉を読み涙するダニエル。自分も時々不安に襲われ、自分を見失いそうになることがある、というダニエル。こんなに愛情溢れる幸せな家庭を持っていたサミュエルなのに・・。
家族のその後
サミュエルの死をセンセーショナルに報じた新聞記事。家族のショックはいかばかりだったろうか。
苗字をガーションからグレシャムに変更する改名届を手渡されるダニエル。サミュエルの妻レイが、サミュエルの死後3週間後に申請したものだった。
ユダヤ人であることを隠すために改名したのだと思っていたが、家族をスキャンダルや好奇の目から守るため、名前を変えたことがわかった。
そしてサミュエルの死から1年後、盗難への保険金は無事におりたという。
レイが子供達、つまりダニエルの祖母、しいては母をいかに守ろうとしたかがよくわかる。サミュエルは重圧から逃れるため亡くなってしまったが、その後レイが立ち上がった。自分はいつも強い女性に囲まれていると感じるが、曽祖母レイはその中でももっとも強い女性、そしてまた曽祖母に続く強い女性が生まれる道筋を作った人物のように思える。これは先祖の中でも、失敗してしまった男性の話であると同時に、その後を守った女性の勝利の歴史であるとも感じる。
第一次大戦を戦ったアーニー
ダニエルの父は北アイルランド育ち。ベルファスト郊外、バンブリッジに実家がある。
ダニエルは第一次大戦を舞台にしたテレビ映画「マイ・ボーイ・ジャック」の撮影時、曾祖伯父(曽祖母の兄)の1人、アーニーの写真をトレイラーに飾っていた。曽祖母の兄4人が第一次大戦で戦地に行ったことは聞いているが、それ以上のことは知らないという。
叔母に話を聞くダニエル。ダニエルは覚えていなかったが、曽祖母フロー(フロレンス)はダニエルが赤ん坊の頃存命で、2人で撮った写真が残っていた。曽祖母フローは10人きょうだいの末っ子。兄のうち4人が戦争に行き、そのうちの1人がアーニー・マクドウェルだった。
兄からの手紙
フローは、アーニーが戦地から家族に当てて書き送った手紙の束を大事に持っていた。それを読むダニエル。
雪の上に寝ているけれど、毛布が何枚もあるから全然大丈夫、そんなに悪くないよ、といった近況を伝える手紙。母からの返事も残っていた。他の兄弟が頭に刺さった弾丸の破片を取るために入院していること、無事に戻ることを祈るメッセージ。そしてアーニーのガールフレンドだったジーニーという女性からの手紙も数多く残っていた。
この時代、こういった手紙のやり取りは珍しくなかったという。この世代は、労働階級の中でも義務教育を受けた最初の世代にあたり、識字率も高かったこと、そして戦争によって、文通が盛んになったという背景があった。
手紙の他にも食べ物や物資などが入った小包も前線に送られ、こういった故郷からの便りが、兵士の士気を高めることにもなった。手紙は前線に2−3日で届いたという。第一次大戦中に送られた手紙は実に20億通、小包は1億個にものぼった。
アーニーの従軍記録はもう残っていないため、状況はこういった手紙から推測するしかないが、1914年には予備役であったが開戦と同時にすぐに動員されたらしい。しかしその後凍傷で入院。またしばらくして戦地に戻ったものの、今度はふくらはぎを撃たれて入院している。足を撃たれた時には、同じ部隊にいたらしい兄が担いで助けてくれたことが書かれていた。
この手紙のコレクションには、母親や恋人からの手紙も合わせて残っているところがユニークだという。恋人からは引き続き愛情溢れる手紙が送られており、戦地では兄弟が助け合う姿など、戦争の中にも日常が営まれ、愛情が続いていたことがよくわかる。
途絶えた手紙
1916年5月の手紙がアーニーから出された最後の手紙だった。2年間続いていた彼の手紙はここで途絶える。
バンブリッジの教会を訪れるダニエル。教会の壁にかけられた戦没者慰霊碑に、アーニーの名前があった。兄弟の中で名前があったのはアーニーだけだった。
アーニーが亡くなった時、その場にいたという戦友がアーニーの母に送った手紙も残されていた。アーニーが塹壕にいた時砲弾が着弾し、3人が亡くなった。言葉を残すこともなく、即死だったようだ。一人息子である自分であるが、自分の母親のことを思っても、このようなニュースを母親が受け取らないといけないということは、いかなる心情であるか想像に難くなく・・・と綴った戦友。
少しでも母親を慰めようと、アーニーが苦しむことなく亡くなったことを伝えたかったんだろうね・・とダニエル。
アーニーに手紙を送っていたガールフレンドはどうなったのかが気になるダニエル。2人は1915年のバレンタインの日に、この教会で結婚していた。この年は、アーニーが凍傷などで療養するため地元に長期間戻っていた年だった。少しでも2人が新婚カップルとして時間を過ごせたことに安堵する。また残りの3人の兄弟は無事帰還したという。
エピローグ
ドラマではまさに塹壕の中の兵士を演じたが、こうやって実際に自分の家族が経験したことを知って、さらにそのストーリーにつながりを感じた。兄弟の中でもアーニーのことが気になったのは、やはり1人だけ戻ってこれなかったからかもしれない。アーニーの母からの手紙を読んで、息子を戦争に送る母親の気持ちもよくわかったし、自分の家族の中にあふれる愛情というものにとても気がついた。
家族の中には色々な悲劇があったけれど、彼らは皆愛されていた。人生半ばで亡くなった人たちがいたが、彼らが生きていた時間は、愛に溢れ、生きている価値が十分にあったものだと思う。
ひとこと
久しぶりに誰でも知っている有名人のエピソードが放送されましたので紹介しました。
ハリー・ポッターでしか知らなかったダニエル・ラドクリフですが、彼ももう30歳。映画では髪の黒い男の子でしたが、このエピソードで登場したダニエルは髪の毛も赤茶に近く、本当にどこにでもいそうな普通の青年という感じでした。
ハリー・ポッターという世界中でヒットしたシリーズに長年出演して人生を大きく変えた彼ですが、Wikipediaによると発達性協調運動障害で学校生活に馴染めなかったのが、子役になるきっかけだったようです。この番組の中でも、不安に苛まれることがある・・ということを少しためらいながらも話していたのが印象的でした。
ダニエル(お母さんにはダン、と呼ばれていました)の親戚として登場したロンドン在住のガーションさん。頭にヤマカ(ユダヤ人男性がかぶる小さくて丸い帽子)をかぶったおじさんは、おばあさんのいとことして登場しましたが、多分まだ60代ちょっとに見えました。サミュエルの弟はずいぶん年が離れていたのか、ずいぶん後になって生まれたんでしょうが、2世代違うのになんだか不思議な感じでした。
それにしても、ドイツと戦ったイギリスでさえ、ファシズムやユダヤ人排斥の動きがあったんですね。番組ではそれこそナチス式の敬礼をしているイギリスのファシストの写真も紹介されており、はああ・・と思ってしまいました。
ひいお爺さんが卒倒して運ばれる写真、男たちに脇を抱えられるようにして運ばれてい写真でしたが、一体どうやってマスコミは話を聞きつけてやってきたんでしょうか。
そして戦争に行った先祖の手紙。戦争はどの時代も残酷ですが、こういった一兵士の何気ない手紙のやり取りを読むのはより悲しみを誘います。亡くなる前に少しでも夫婦として時間を過ごすことができたガールフレンド、結婚できてよかったですが、その後どうなったのかも気になりました。

