【女優:スカーレット・ヨハンソン】北欧・ユダヤのルーツ
プロローグ
By Gage Skidmore, CC BY-SA 3.0, Link
日本では「スカヨハ」とも呼ばれる女優、スカーレット・ヨハンソン。父はデンマークからの移民、母のルーツは東欧にある。
スカーレットが子供の頃、家族の生活はとても苦しく、ずっと生活保護に頼っていたという。そんな中、スカーレットが7歳の時にきょうだいとともに芸能事務所へ。しかしエージェントが最初に興味を持ったのは、弟のほうだったという。
それにショックを受けたスカーレット。それを見た母親が、演技にそんなに興味があるのならと、どんどんオーディションを受けるようにしてくれたのだという。それがスカーレットの女優のキャリアの始まりであった。
そして今では一番稼ぐ女優とまで言われるようになったスカーレット。貧乏の中、絶望を感じることもあったが、家族が支えあってここまでやってきた。まったく何もないところから夢をかなえた、それはある意味アメリカン・ストーリーなんじゃないかと思う、と語る。
ユダヤのルーツ
スカーレットの母方の先祖は東欧から来たユダヤ人。しかし母方の祖父母は母が子供の頃に離婚したため、祖父マイヤーのことはあまり知らないという。
1910年ユーヨークに向かう乗船名簿に、マイヤーの父、スカーレットの曾祖父の名前があった。まだ20代の曾祖父はたった一人、ほぼ何も持たず、体一つでアメリカに渡り、その後ニューヨークのロウワーイーストサイドで八百屋として、バナナを売り生計を立てたという。
身一つでやってきたということは、生きていけないような状況の場所から、一人でなんとか生き残るためにやってきたということ。機会を求めてやってきた、本当に移民の物語があったんだな、と驚くスカーレット。
家族の悲劇
スカーレットの曾祖父は1890年、現在のポーランドにあるグルジェツという街で生まれている。当時この地のユダヤ人は、農地を持つことが許されず、生活は苦しいものであったと考えられる。そんな状況から脱するためにアメリカに移民したスカーレットの曾祖父。しかし曾祖父のきょうだいはポーランドに残った。
1939年ヒットラーがポーランドに侵攻。1942年2月までに、この地域に住むほとんどのユダヤ人は追放されたりゲットーに追われることとなった。
曾祖父のきょうだいには子供が10人いたという。家族はワルシャワのゲットーに送り込まれていた。
ワルシャワのゲットーの環境は劣悪で、約3キロ四方、周囲を壁で覆われたエリアに4万人が詰め込まれていたという。多くの人が飢餓と病気で亡くなり、生き残ったものも殺されたり、収容所に送られるなどした。
イスラエルのホロコースト博物館に、家族の多くがワルシャワのゲットーで亡くなったという消息情報が残されていた。それを見て涙ぐむスカーレット。
自分の曾祖父はニューヨークに渡り、バナナを売りながら生き延びている間に、家族の一部はこんな目にあっていたなんて。
北欧のルーツ
スカーレットの父カーステンは1943年、デンマーク・コペンハーゲンに生まれた。スカーレットは13歳の時に始めてデンマークを訪れた。父親もアメリカ人というよりはよりデンマーク的で、ルーツとしてはデンマークの文化のほうがより身近だったという。そんなことから、デンマークの国籍も取っているスカーレット。
しかし父方の祖母が父が14歳の時に亡くなり、その後再婚した祖父と父が疎遠になったため、祖父に会ったことがないというスカーレット。祖父の話もほとんど聞いたことがなかった。
実はスカーレットの祖父アイナ・ヨハンソンは、デンマークでは有名な美術評論家であり、美術に関するドキュメンタリーフィルムの監督、TVパーソナリティとしてテレビに出演するなどした著名人だった。そんなこと全く知らなかった、というスカーレット。
アイナの父、スカーレットの曾祖父の名前はアクセル。コペンハーゲンで結婚した記録は残っていたが、それ以前の情報がデンマークで調べても全く出てこなかった。
実はアクセルはデンマーク人ではなく、スウェーデン人だった。1918年にデンマークに移民し、造船所や工場で肉体労働をしていたという。
これは予想していなかった、というスカーレット。なぜだかわからないけれど、自分の北欧のルーツは、もっと上流階級か貴族の血でも流れているのではないか、と勝手に思っていた。
デンマークで移民労働者であったアクセルの父親も、スウェーデンの農民だった。
しかしさらに家系図をたどると、9代前にヨハン・ホーグという名前が出てきた。彼は1689年、貴族の称号を得た人物だった。
父親に、よく君はバイキング・プリンセスなんだよ!なんて言われたけれど、貴族の血も入っているのね!と喜ぶスカーレット。それにしても家系図に記されたすべての人物がスウェーデン生まれ。スウェーデンのルーツのほうが深いことに驚く。デンマーク国籍じゃなくて、スウェーデン国籍とったほうが良かった?!
エピローグ
ルーツをたどってみると、自分はアメリカという大きなメルティングポットの産物なんだとしみじみ思う。リスクをとり、機会を求めて、何も持たずにやってきた人のおかげで、今の自分がある。
【ハリー・ポッター俳優:ダニエル・ラドクリフ】宝石強盗の悲劇・途絶えた戦地からの手紙
プロローグ
ハリーポッター役で世界中に知られる俳優、ダニエルラドクリフ。
By Gage Skidmore from Peoria, AZ, United States of America - James McAvoy & Daniel Radcliffe, CC BY-SA 2.0, Link
母親はキャスティングディレクター、父親も俳優として一時期活動していたことがあるなど、芸能関係の仕事に関わる家庭に生まれた。しかし両親は彼を俳優にしようとは思っていなかったと言う。
学校生活が合わずつまらなかったことが、オーディションを受けるきっかけだった。そして11歳からハリー・ポッターとして成長することになった。
これは家族全員の人生を大きく変えることになったが、両親はそんな変化を落ち着いて、時にユーモアの精神を持って受け止めてきた。これはすごいことだと思う、と語るダニエル。
先祖のことは実はあまりよく知らないというダニエル。知っているのは、父方の先祖に、第一次大戦で戦った四兄弟がいること、母方に東欧のユダヤ人の血が多少入っているらしい、というぐらい。
あとは曽祖父が宝石商だったこと、しかし強盗の被害にあい自殺した、というのをなんとなく聞いたことがあるだけだという。
改名の謎
ダニエルの母親から、先祖のアルバムと手書きの家系図が届けられる。
家族の苗字はもともと「ガーション(Gershon)」だったが、途中で「グレシャム」に変えられている。ユダヤ系の名前であるガーションを、よりイギリス風に変えたようだが、誰がいつ変えたのかは不明。
曽祖父母の名前は、サム(サミュエル)とレイ。このサミュエルが自殺したという人物だった。
サミュエルは9人兄弟の8番目。そしてサミュエルの両親ルイとジェシーは、南アフリカで結婚していた。東欧から来たユダヤ人だと思っていたのに、違うようだ。
親戚との対面
ダニエルの祖母のいとこにあたる、ルイス・ガーションという親戚がロンドンにいると聞き、会いに行く。
この日までダニエルと親戚だったなんて知らなかった、というガーション氏。彼の父親はダニエルの曾祖父、サミュエルの弟にあたる。
高祖父ルイにちなんで、ルイスと名付けられたガーション氏の家には、ルイの写真がずっと飾ってあった。写真を見ると、目のあたりがダニエルにそっくり。同じ名前の自分より、あんたの方がまるでそっくりだね!と笑うガーション氏。
宝石商として成功した高祖父
1900年代の国勢調査を確認する。一家はロンドンのハックニーと呼ばれるエリアに住んでいた。ルイはドイツ生まれ、妻ジェシーはロシア生まれ。
子供達はケープタウンやキンバリーなど、南アフリカで生まれているが、ダニエルの曽祖父サミュエルとその弟はイギリスで生まれていた。
当時の南アフリカは、ダイヤモンドの採掘で一攫千金を夢見たトレジャーハンターが世界中から集まって来ていた。1800年代後半には、数千人がキンバリーにダイヤモンドを求めて移住しており、ルイもその中の一人だった。
その後ロンドンに移った一家。ルイはロンドンで宝石商となっていた。
ロンドン中心部にある、ハットンガーデン。この通りは今でも、宝石商が多く集まる場所として知られている。ルイもここで、宝石商としてビジネスを確立する。
ルイの会社の価値は、当時の値段で1万ポンド(現在の6,500万円)と大きく成長していた。曾祖父サミュエルも10代で見習いとして、家業を手伝っていた。
父のあとを継いだサミュエル
27歳でレイ(レイチェル)と結婚したサミュエル。父ルイは既に亡くなっており、サミュエルは兄とともに家業を継いでいた。
結婚した二人が暮らしたサウスエンド・オン・シーを訪れるダニエル。
ここで初めて曾祖父サミュエルの写真を見る。今の自分と同じ年齢の時に撮られた写真だという。
海に面した大きな家に暮らし、ここからロンドンに通っていた。娘も2人生まれ、幸せな生活を送っていたようだ。ここからどうやって悲劇が起きるのだろうか。
宝石盗難事件
サミュエルが強盗被害にあったという情報が無いか調べると、いくつもの新聞記事が出てきた。1936年2月、夜中に強盗が入り、オフィスの金庫がこじあけられ、指輪やネックレスなどの宝石類が大量に盗まれたことが、センセーショナルに報じられていた。
被害総額は現在の金額で25万ポンド(3200万円)とかなり大きく、警察の捜査が入った。しかしオフィスに無理やり入った跡がないことなどから、警察はこれは保険金目当ての茶番だと結論づけ、捜査を取りやめてしまった。
実はガーション兄弟が宝石の盗難に遭ったのはこれが初めてではなかった。1922年には9000ポンド(110万円)分の宝石が盗まれ、兄エドワードがその2倍の保険金を受け取るなど、過去15年間に似たような事件が3度あったという。当時のハットンガーデンに宝石泥棒が入ることはめずらしいことではなかったが、このような過去があったことから、警察は怪しんだようだ。
イギリスの反ユダヤ主義
この事件について、警察に手紙を送ったものがいた。そこには、ガーションが宝石の盗難を自作自演したことを示唆する内容が書かれていた。しかしその理由は「ユダヤ人ならやりかねない」といったものだった。
そういう時代だったんだろうけれど、ユダヤ人だということが理由にされるなんてやはりショックだね・・とダニエル。
ユダヤ人に対するヘイトは、当時イギリスでも高まっていた。イギリスでも、オズワルド・モズレー率いるファシスト同盟がナチス同様、反ユダヤ主義を掲げ始めていた。
宝石盗難事件のあった1936年には、ファシスト同盟の行進を阻止しようとした人々との間で、多数のけが人と逮捕者が出た「ケーブルストリートの戦い」と呼ばれる衝突も起きている。
サミュエルの死
新聞記事には、曽祖父サミュエルがショックで失神、運ばれる写真まで掲載されていた。事件のその日に新聞記者がその場にいたようだ。サミュエルはそのままショックで床に伏せってしまい、警察と話が出来る状態ではなかったという。
当時サミュエルと兄の会社には、被害総額とほぼ同額の負債があり、これが詐欺を働く動機になった可能性は十分考えられる。しかし警察は動かず、保険金はおりず、メディアからはセンセーショナルに報じられ・・となると、サミュエルにのしかかった重圧は大きなもだったことは間違いない。
サミュエルが本当に保険金詐欺をしようとしたのかは、わからない。自ら命をたったのは罪悪感からだったかもしれないし、家族が築き上げてきたものが、盗難であっという間に崩れてしまうことへの絶望感もあったかもしれない。
事件の5ヶ月後、曽祖父は車の中で遺体で見つかった。検死官のレポートを読むダニエル。兄エドワードの陳述が残されていた。2月に強盗にあい、ショックで2週間ほど話せない状態が続いたこと。また保険金がおりなければ会社が破産申告をしなければならず、保険会社からの連絡待ちであること、そのことについて2月からずっと悩んでいたこと。
妻には債務者に会ってくる、と言って家を出たようだ。家庭では「素晴らしくハッピーだった」。
仕事がいかなる状況であっても、幸せな家庭を築いていたサミュエル。家族を養い支えなければいけない責任のあったサミュエルにとって、この状況は恐ろしくストレスだったに違いない。もし本当に犯罪を犯してしまったのだとしても、あまり怒れない気もする・・とダニエル。
見つかった遺書には、妻への愛情ばかりが多く綴られていた。しかし長年続けてきたビジネスが破産するかもしれないことに耐えられない、とも。家族への愛が溢れる言葉を読み涙するダニエル。自分も時々不安に襲われ、自分を見失いそうになることがある、というダニエル。こんなに愛情溢れる幸せな家庭を持っていたサミュエルなのに・・。
家族のその後
サミュエルの死をセンセーショナルに報じた新聞記事。家族のショックはいかばかりだったろうか。
苗字をガーションからグレシャムに変更する改名届を手渡されるダニエル。サミュエルの妻レイが、サミュエルの死後3週間後に申請したものだった。
ユダヤ人であることを隠すために改名したのだと思っていたが、家族をスキャンダルや好奇の目から守るため、名前を変えたことがわかった。
そしてサミュエルの死から1年後、盗難への保険金は無事におりたという。
レイが子供達、つまりダニエルの祖母、しいては母をいかに守ろうとしたかがよくわかる。サミュエルは重圧から逃れるため亡くなってしまったが、その後レイが立ち上がった。自分はいつも強い女性に囲まれていると感じるが、曽祖母レイはその中でももっとも強い女性、そしてまた曽祖母に続く強い女性が生まれる道筋を作った人物のように思える。これは先祖の中でも、失敗してしまった男性の話であると同時に、その後を守った女性の勝利の歴史であるとも感じる。
第一次大戦を戦ったアーニー
ダニエルの父は北アイルランド育ち。ベルファスト郊外、バンブリッジに実家がある。
ダニエルは第一次大戦を舞台にしたテレビ映画「マイ・ボーイ・ジャック」の撮影時、曾祖伯父(曽祖母の兄)の1人、アーニーの写真をトレイラーに飾っていた。曽祖母の兄4人が第一次大戦で戦地に行ったことは聞いているが、それ以上のことは知らないという。
叔母に話を聞くダニエル。ダニエルは覚えていなかったが、曽祖母フロー(フロレンス)はダニエルが赤ん坊の頃存命で、2人で撮った写真が残っていた。曽祖母フローは10人きょうだいの末っ子。兄のうち4人が戦争に行き、そのうちの1人がアーニー・マクドウェルだった。
兄からの手紙
フローは、アーニーが戦地から家族に当てて書き送った手紙の束を大事に持っていた。それを読むダニエル。
雪の上に寝ているけれど、毛布が何枚もあるから全然大丈夫、そんなに悪くないよ、といった近況を伝える手紙。母からの返事も残っていた。他の兄弟が頭に刺さった弾丸の破片を取るために入院していること、無事に戻ることを祈るメッセージ。そしてアーニーのガールフレンドだったジーニーという女性からの手紙も数多く残っていた。
この時代、こういった手紙のやり取りは珍しくなかったという。この世代は、労働階級の中でも義務教育を受けた最初の世代にあたり、識字率も高かったこと、そして戦争によって、文通が盛んになったという背景があった。
手紙の他にも食べ物や物資などが入った小包も前線に送られ、こういった故郷からの便りが、兵士の士気を高めることにもなった。手紙は前線に2−3日で届いたという。第一次大戦中に送られた手紙は実に20億通、小包は1億個にものぼった。
アーニーの従軍記録はもう残っていないため、状況はこういった手紙から推測するしかないが、1914年には予備役であったが開戦と同時にすぐに動員されたらしい。しかしその後凍傷で入院。またしばらくして戦地に戻ったものの、今度はふくらはぎを撃たれて入院している。足を撃たれた時には、同じ部隊にいたらしい兄が担いで助けてくれたことが書かれていた。
この手紙のコレクションには、母親や恋人からの手紙も合わせて残っているところがユニークだという。恋人からは引き続き愛情溢れる手紙が送られており、戦地では兄弟が助け合う姿など、戦争の中にも日常が営まれ、愛情が続いていたことがよくわかる。
途絶えた手紙
1916年5月の手紙がアーニーから出された最後の手紙だった。2年間続いていた彼の手紙はここで途絶える。
バンブリッジの教会を訪れるダニエル。教会の壁にかけられた戦没者慰霊碑に、アーニーの名前があった。兄弟の中で名前があったのはアーニーだけだった。
アーニーが亡くなった時、その場にいたという戦友がアーニーの母に送った手紙も残されていた。アーニーが塹壕にいた時砲弾が着弾し、3人が亡くなった。言葉を残すこともなく、即死だったようだ。一人息子である自分であるが、自分の母親のことを思っても、このようなニュースを母親が受け取らないといけないということは、いかなる心情であるか想像に難くなく・・・と綴った戦友。
少しでも母親を慰めようと、アーニーが苦しむことなく亡くなったことを伝えたかったんだろうね・・とダニエル。
アーニーに手紙を送っていたガールフレンドはどうなったのかが気になるダニエル。2人は1915年のバレンタインの日に、この教会で結婚していた。この年は、アーニーが凍傷などで療養するため地元に長期間戻っていた年だった。少しでも2人が新婚カップルとして時間を過ごせたことに安堵する。また残りの3人の兄弟は無事帰還したという。
エピローグ
ドラマではまさに塹壕の中の兵士を演じたが、こうやって実際に自分の家族が経験したことを知って、さらにそのストーリーにつながりを感じた。兄弟の中でもアーニーのことが気になったのは、やはり1人だけ戻ってこれなかったからかもしれない。アーニーの母からの手紙を読んで、息子を戦争に送る母親の気持ちもよくわかったし、自分の家族の中にあふれる愛情というものにとても気がついた。
家族の中には色々な悲劇があったけれど、彼らは皆愛されていた。人生半ばで亡くなった人たちがいたが、彼らが生きていた時間は、愛に溢れ、生きている価値が十分にあったものだと思う。
ひとこと
久しぶりに誰でも知っている有名人のエピソードが放送されましたので紹介しました。
ハリー・ポッターでしか知らなかったダニエル・ラドクリフですが、彼ももう30歳。映画では髪の黒い男の子でしたが、このエピソードで登場したダニエルは髪の毛も赤茶に近く、本当にどこにでもいそうな普通の青年という感じでした。
ハリー・ポッターという世界中でヒットしたシリーズに長年出演して人生を大きく変えた彼ですが、Wikipediaによると発達性協調運動障害で学校生活に馴染めなかったのが、子役になるきっかけだったようです。この番組の中でも、不安に苛まれることがある・・ということを少しためらいながらも話していたのが印象的でした。
ダニエル(お母さんにはダン、と呼ばれていました)の親戚として登場したロンドン在住のガーションさん。頭にヤマカ(ユダヤ人男性がかぶる小さくて丸い帽子)をかぶったおじさんは、おばあさんのいとことして登場しましたが、多分まだ60代ちょっとに見えました。サミュエルの弟はずいぶん年が離れていたのか、ずいぶん後になって生まれたんでしょうが、2世代違うのになんだか不思議な感じでした。
それにしても、ドイツと戦ったイギリスでさえ、ファシズムやユダヤ人排斥の動きがあったんですね。番組ではそれこそナチス式の敬礼をしているイギリスのファシストの写真も紹介されており、はああ・・と思ってしまいました。
ひいお爺さんが卒倒して運ばれる写真、男たちに脇を抱えられるようにして運ばれてい写真でしたが、一体どうやってマスコミは話を聞きつけてやってきたんでしょうか。
そして戦争に行った先祖の手紙。戦争はどの時代も残酷ですが、こういった一兵士の何気ない手紙のやり取りを読むのはより悲しみを誘います。亡くなる前に少しでも夫婦として時間を過ごすことができたガールフレンド、結婚できてよかったですが、その後どうなったのかも気になりました。
【女優:ルビー・ワックス】ホロコーストと精神疾患の家族の歴史
プロローグ
コメディアン、女優、ルビー・ワックス。
By Jjnoordman - Own work, CC BY-SA 4.0, Link
長年イギリスで活躍しているが、生まれも育ちもアメリカ、イリノイ州。
両親はオーストリア出身のユダヤ人で、ナチスの迫害を逃れアメリカにやってきた。
ルビーの両親の関係はあまり良くないものだったという。
ルビーは18歳の時、両親から逃れるようにヨーロッパへと戻ってきた。そしてイギリスで女優としてのキャリアを積むこととなった。
90年代になり、ルビーは精神を病み入院。それがきっかけとなり、ルビーは認知療法の学位を取り、精神衛生についての啓蒙活動にも力を入れるようになった。
自分の人生には、いつも不安がつきまとっていた。この原因は両親のせいだと思っているが、本当の原因は何なのか。その背景を知りたい。
母のスーツケース
ルビーの母親は、ヒステリーを起こし、意味不明、支離滅裂なことを叫ぶことがよくあった。父親は暴力的で、ルビーも子供の頃はベルトを持った父に追いかけられたりしたという。
父親はアメリカを愛していたが、母親はアメリカに馴染めず、自分の夫を嫌っていた。
両親の関係は最悪だったと思うが、もともとこうだったのか、それともふたりの間に何かがあったのだろうか。
20年前ルビーは実家の屋根裏部屋で、母親がオーストリアから持ってきたスーツケースを見つけた。中には書類や手紙、写真がたくさん入っていたが、ドイツ語を読めないルビーには内容がわからない。
戦争の時の経験をほとんど話さなかった両親。スーツケースの中からできた写真の人物も、手紙の差出人である「エラ」そして「サロ」は一体誰なのか。
獄中でエアロビクスのコーチだった?父
両親の過去を探るため、ウィーンに飛ぶ。
自分がユダヤ人という自覚があまりないというルビー。ホロコーストに関する映像などもほとんど見たことがないという。
当時、ウィーンでユダヤ人だということがどれだけ大変なことだったのか、ということも想像がつかない。
ルビーは父親が船に潜り込みアメリカに渡ったこと、その前にはナチスにより投獄されていたという話を聞いていた。
投獄されている間、父親はエアロビクスを教えていた、と言っていて、特につらい思いをしたような印象は受けなかった。その話は、まるで冒険談でも聞いているようだったという。
投獄・拷問
ルビーの父は、1938年4月から2ヶ月間投獄されていた。ナチスがオーストリアを併合した1ヶ月後のことだった。
ヒトラーはオーストリア併合から2日後にウィーンに入り、ウィーンの人々から熱狂的な歓迎を受けた。
その直後から、オーストリアに住むユダヤ人への襲撃が始まった。ルビーの父親も、特に理由があったわけではなく、単に彼がユダヤ人だという理由で逮捕、連行されていた。
スーツケースからルビーが見つけた手紙の一通は、投獄されていた父へ、母が送った手紙だった。
まだ結婚していないふたりだったが、その内容は愛情に溢れているものだった。両親の間にこんな感情があったとは、と驚くルビー。
拘置所で、エアロビクスのコーチとして他の囚人に運動の指導をしていたと信じて疑わなかったルビー。
しかし実際は、父も他の囚人も、拷問の一環として激しい運動をさせられていたことが明らかになる。
その「運動」のあまりの過酷さに、時に窓から飛び降りで自殺する者も出るほどであったという。
父から話を聞いた時はまだ子供だったし、父の言うことを信じていたが、なぜ本当のことを話してくれなかったんだろう。
アメリカへ
ルビーの父は2ヶ月ほどで釈放された。釈放される条件として、すぐに国から出て行くことを誓約する書類にサインさせられた。出て行かなかった場合、強制収容所送りが待っていた。
当時のウィーンには、ヨーロッパで最大のユダヤ人コミュニティがあった。
当初ナチスは、ユダヤ人を国から追放するという政策を公には掲げていたが、大量の難民の流入を恐れた近隣諸国はユダヤ人の入国を厳しく制限。多くのユダヤ人は行き場を失った。
そんな中、ルビーの父はなんとかベルギーに行くビザを入手。急いでルビーの母と結婚した。
ルビーの父は資金を国外に持ち出すことに成功し、1938年9月、ウィーンを脱出。当時でも珍しく、飛行機と電車を乗り継ぎ、ひとりベルギーに向かい、さらにアメリカに密航した。
当時アメリカでも、難民、特にユダヤ人難民が国に来ることに反対する声が多かった。
しかし父は賄賂を渡したか、なんらかの方法でアメリカに来ることができた。
迫害を目の当たりにした母
一方ルビーの母は、別ルートで単身アメリカに渡る。母の親戚がシカゴにいたため、正規のビザを取ってアメリカに向かった。
逃避行の列車の中では、金髪の母をアーリヤ人だと信じたナチスの将校が席を譲ったという。ナチスの思想なんて、ユダヤ人の現実も知らない、結局はそんな適当なものだった。
ルビーの母が国を離れたのは1938年12月。11月には、「水晶の夜」と呼ばれるユダヤ人を迫害する暴動がドイツ、オーストリアの各地で起こっている。
ユダヤ人の商店、シナゴーグや住居が襲撃・放火され、多くのユダヤ人が暴行されたり逮捕された。特にウィーンでの襲撃はひどいものだったという。
この事件が起こったとき、母親もその場にいたことになる。しかしそんな話は一言もしなかった。もしかして、これがトラウマになって母は精神を病んだのだろうか。90歳まで生きた母だったが、これが引き金で一生を台無しにしたのだろうか。
両親が結婚したシナゴーグに向かう。ウィーンで最大級だったというシナゴーグはもう残っていなかった。ここも両親が結婚した3か月後、「水晶の夜」で破壊されてしまっていた。
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この時母親は24歳。
自分にとって両親はモンスターでしかなかった。でもここで見えてくる両親は、まったく別人のようだと感じるルビー。
自分にとっては、いつもイライラして何かに対して怒っている母親でしかなかったが、一言でもこのことを話してくれていたなら、少しは同情の余地があったかもしれない。
叔母からの手紙
スーツケースに入っていた、「エラ」と「サロ」から送られたたくさんの親密な手紙。ガブリエラ(エラ)、サロモン(サロ)はルビーの母にとっては叔母、叔父にあたる人物だった。
当時ガブリエラは60代なかば、サロモンは70歳ちかく。ルビーの母が無事アメリカに渡った後も、ウィーンに残されていた。
引退するまで、歯科医院を開いていたガブリエラとサロモン。彼らの住居兼仕事場だったアパートを訪ねる。
ガブリエラがルビーの母親に送った手紙。そこには食べ物が手に入らず、二人ともやせ細っていること、がんばって英語の勉強をしていることが書かれていた。
1941年頃のウィーンのユダヤ人の状況はますますひどいものになっていた。ミルクや卵といった食糧を買うことは禁止され、買い物も決まった店で、限られた時間内に済ませなければならなかった。
ユダヤ人のビジネスは接収されたり強制的に閉鎖されたため働くこともできず、また銀行口座も凍結された。
住む場所も制限されるようになったため、ガブリエラとサロモンも、自分たちのアパートを他の家族と共有しなくてはならなかった。
毎週多くのユダヤ人が列車に載せられ「追放」されたが、その列車が向かった先は収容所であった。
間に合わなかった書類
1941年半ばまでに13万人のユダヤ人がウィーンを脱出。しかしそれ以上のユダヤ人が収容所に送られていた。そんな中、ガブリエラとサロモンはなんとかアメリカに向かおうとしていた。
アメリカに行くビザを得るためには、アメリカにいる親戚が金銭的なサポートをすることを証明する書類が必要だった。その書類を待ちわびているという手紙。
ビザのための書類をそろえることは大変で、結局彼らがルビーの母からこの書類を受け取るまでに、手紙からさらに6週間もかかっていた。
しかし書類が彼らの手元にようやく届いた頃、アメリカ政府はビザに必要な書類の条件を変更。受け取った書類だけでは、ビザを申請することはできなくなっていた。
さらに1941年7月、ウィーンのアメリカ領事館は閉館されてしまう。
働くこともままならず、外に出ることも危険な状態で、身動きを取ることのできなかったガブリエラとサロモン。
見捨てないでほしい、というガブリエラからの手紙。
しかし1941年10月、ドイツはいかなる移民も禁止する、という法律を施行する。これで、ユダヤ人が国外に出ることは不可能になってしまった。
叔母からの手紙もここで途絶える。
エラとサロの最期
その後この二人はどうなったのだろうか。
ホロコーストの犠牲者の情報を集めたオンラインデータベースを調べると、サロモンはチェコのテレジーン(テレージエンシュタット)にあったゲットーで殺害された、とあった。
ガブリエラも同様に亡くなっている。
自分の家族の中に、ホロコーストで亡くなった人がいたことが信じられない、とルビー。自分の家族はスマートに早いうちに脱出していたのだとばかり思っていた。しかし年老いた2人は、足止めをくらい、悲劇にあってしまった。
抗精神病薬を飲んでいるので、あまりこのことについて深く感じられなくて逆に良かった。そうでないと、たぶん自分がおかしくなってしまいそうだ。
ユダヤ人が運営する収容所兼ゲットー
大叔父、大叔母の最後の場所となったチェコ・テレジーンに、列車で向かうルビー。彼らもどこに行くともわからない列車に載せられていたかと思うと、寒気がする。
列車から降りた後、人々は2キロ半ほど歩かされ、ユダヤ人を収容するためのゲットーに向かわされた。
戦争前、テレジーンは小さな街だったが、ナチスがベルリンやウィーンの年老いたユダヤ人を収容するための場所として、多くのユダヤ人が送り込まれた。
このようなユダヤ人を収容するため、街の住人は自分たちの住居を明け渡さなければならなかったという。
By Hans Weingartz - de.wikipedia からコモンズに Ireas が CommonsHelper を用いて移動されました。, CC BY-SA 2.0 de, Link
14万人が収容されたこの場所は、他の強制収容所とは違い、このような一般の住居を収容所代わりとしていた。ガス室や制服もなく、SSの指示のもと一部はユダヤ人が運営する形となっていた。
しかし住環境は劣悪で、食べ物もあまりなく、ひと部屋に大勢が重なり合うように暮らし、窓や水道、トイレなども無い場合もあった。このため疫病が蔓延、特に体力のない老人はどんどん亡くなっていった。
By Bedřich Fritta - Ghetto Fighters House, Public Domain, Link
さらにこの収容所から、アウシュビッツやトレブリンカといった強制収容所に多くの人々が送られていった。
サロモンはこのゲットーに輸送されて1週間後に亡くなっていた。ガブリエラの記録は、残されていなかった。
サロモンとガブリエラが、強制収容所で亡くならず、苦しんだ時間も短かったのは、せめての救いだったかもしれない。
戦争前に亡くなった先祖の足跡
ガブリエラのきょうだいでルビーの祖父リチャード、その妹のオルガ、そして曾祖父ソロモンは皆戦争の前に亡くなっている。
ウィーンの墓地で彼らの墓石を見つけるルビー。曾祖父ソロモン、祖父リチャードがそこに眠っていた。
自分につながりのある先祖がここにいたのに、今まで誰も教えてくれなかったなんて。
1933年に亡くなった大叔母オルガは、身寄りのない人々が埋葬されるエリアに、墓石もないまま埋葬されていた。
オルガの最後の住所は、今もウィーンにある精神病院だった。
精神病棟にいた大叔母
発作で暴れたり叫んだりする患者を収容した病棟を訪ねるルビー。母親も道の真ん中でいきなり叫びだしたりすることがあったという。もしかして何か遺伝的なものだったのかもしれない。
By Bwag - Own work, CC BY-SA 4.0, Link
当時の精神病棟での治療は、患者を落ち着かせるために長時間風呂に漬けたり、作業療法をしたりするものだった。
オルガはここでお針子の作業をしていたようだ。
ルビーの家族は、ウィーンに来る前はモラビア(現在のチェコ)、ブルノという街に住んでいた。
オルガがチェコでも精神病院に入っていた記録が見つかる。24歳から亡くなるまでの30年間、ほとんどの年月を、精神病院で過ごしたようだ。
母親は良く吠えるように叫んでいた。オルガもここで叫んでいたのだろうか。自分の母とオルガは同じような病気を持っていたのかもしれない。これが遺伝だとしたら・・自分が精神病棟に入らないですんでいるのは、ユーモアのセンスで乗り切っているからかもしれない。
曾祖母もまた
ウィーンに来る前の家族の様子について知るため、チェコ・ブルノに向かうルビー。
ここではオルガの情報は見つからなかったが、オルガの母親、ルビーの曾祖母バーサがブルノの精神病棟に入院していたという情報が見つかった。
当時の新聞記事も残っている。そこにはバーサが突然家具を売り払い、自殺をほのめかす手紙を残して出奔したことが書かれていた。
自殺は阻止され、バーサは精神病棟に入院するが、7か月後に結核で31歳の若さで亡くなっていた。
娘オルガが入院する19年前、1884年のことだった。
オルガやガブリエラなど残された子供達は、まだ10歳にもなっていなかった。
エピローグ
自分の母、そして曾祖母、大叔母と家族に精神を病んだ先祖がいたことがわかったルビー。
長年セラピーにお金をかけるより、自分の先祖についてもっと早くに調べていれば良かったかもしれない。
先祖のことを知ることで、自分がなぜこうなのかということも理解できた。
曾祖母も大叔母も精神病棟に入るような症状があって、母にも同じ症状があったということ。そして自分が絶えず不安を感じている理由がわかった。
彼女たちはある意味自分の「パイオニア」で、力尽きるまで生き続けたことを誇りに思う。
ひとこと
このエピソードはとても複雑な気持ちになるものでした。
本人も精神疾患があるというルビー・ワックス。家族のメンタルヘルスの歴史に向き合い、自分がなぜいつも不安にさいなまれるのか、という原因の一つを見る赤裸々なエピソードでした。
しかし一方で、両親との関係が悪かったとはいえ、ここまでホロコーストに関して無知なものなのか・・と驚く部分も。
自分の家族はスマートに逃げられたと思っていた、ウィーンでユダヤ人であるということがどれだけ大変だったか想像もつかない・・・そして新しい情報がわかるたびに、ぽかーんと口を開けて反応するのは、うーん、ちょっとこれは・・と思った視聴者も多かったようです。
薬を飲んでるから、感情的に深く入り込めない・・そして精神を病んだ先祖がいることが分かった時も、情報を調べてくれた相手に精神疾患に関するちょっとひねくれたジョークを言おうとして「いえぜんぜん笑えない話ですから」とたしなめられたりもしていました。
お母さんの状態もとても悪かったようですね。遺伝的なもの、そしてユダヤ人迫害のトラウマが、さらに状況を悪くしたかもしれません。
そして娘にはそれを語らなかった両親。
色々な要素があったとは思いますが、親の代で直接経験したことでも、これだけ無知でいられるわけです。ホロコーストはなかったと言ってしまう遠い日本の整形外科医の老人のことを思い出してしまいました。
大叔父・大叔母が収容されたゲットー。ホロコーストというと、即貨物列車に載せられ、収容所に入れられ、ガス室に送られるものだというイメージがありましたが、色々な形があったのだということがわかりました。
このゲットーは老人のほか、特権ユダヤ人などが輸送され、文化活動があったり、ユダヤ人による運営がされたりと、想像していたものとは違うものでした。といっても別にパラダイスというわけではありません。やはり劣悪な環境の中で、多くの人が亡くなり、またここから強制収容所に人々が送られたそうです。
またこのような「比較的環境の良い」収容所を作って公開することで、赤十字や世界に対して、ホロコーストの隠れ蓑としていた部分もあるようです。詳しくはこちらのWikipediaのエントリーをご覧ください。
実際にこの場所に行かれた方のレポートはこちら。
「収容所のオーケストラ」のエピソードはNHKでも放送されたそうです。そのことについては、こちらもご覧ください。
そのほか、家族がホロコーストにあった有名人のエピソードはこちら
【俳優:ベン・メンデルソーン】作曲家メンデルスゾーンとの繋がりの謎・舞台に立った先祖?
プロローグ
オーストラリアの俳優、ベン・メンデルソーン。ティーンの頃からオーストラリアで俳優として活躍、悪役や複雑な過去を持つ役柄を演じることが多い。
By Taken from Star Wars Databank entry on Krennic: http://www.starwars.com/databank/director-orson-krennic, Link
最近では「スターウォーズ・ローグワン」、「ウィンストン・チャーチル、ヒトラーから世界を救った男」、そして「キャプテン・マーベル」にも出演するなど、ハリウッド映画でも活躍している。
ベンの父親は医者、母親は看護師。職場結婚した二人だったが、その後離婚。
ベンは最初母親と暮らしたがうまく行かず、再婚した父親の仕事についてアメリカに渡った。そこで数ヶ月間寄宿学校に入ったがすぐ退学。その後はオーストラリアに戻り、祖母と暮らした。その頃から演技に興味を持ち始めたという。
祖父母以前の先祖のことは何も知らないというベン。自分の家族は、何でこうなのかということを知りたい。
特に興味があるのが、有名なメンデルスゾーン一家と関係があるのかということ。
By After Anton Graff - Upload by James Steakley. Das Jahrhundert der Freundschaft. Johann Wilhelm Ludwig Gleim und seine Zeitgenossen, ed. Ute Pott (Göttingen: Wallstein, 2004), p. 109., Public Domain, Link
ドイツのユダヤ人哲学者・啓蒙思想家モーゼス・メンデルスゾーン。
By James Warren Childe - watercolor painting, Public Domain, Link
そしてその孫で作曲家のフィリックス・メンデルスゾーン。
名前のスペルは微妙に違うが、それほどよくある名前でもないので、何かつながりがあるのではないか。
メンデルソーン家に流れる音楽家の血
父方の祖父、オスカー・メンデルソーンは1896年生まれ。6人兄弟の末っ子で、化学者として活躍した。オスカーはジュリアード音楽院も卒業しており、オスカー・ミルソンという別名で、作曲活動もしていた。
祖父の遺品箱の中から、オスカーが出版した楽譜が出てくる。さらにフィリックス・メンデルスゾーンの楽譜コレクションも出てきた。やはり何か関係があるのだろうか?
オスカーの父、ベンの曽祖父サウル・メンデルソーンはドイツ系のユダヤ人。
1860年、16歳の時にベルリンから、現在人口4000人の街ナナンゴにやってきた。祖父オスカーもここで生まれた。
サウルはナナンゴに商店を2店持つ、地元の名士だった。
このサウルもまた、1891年に歌を出版していた。オーストラリアのフォークソングとして今も歌い継がれている「ブリスベーン・レディーズ」という歌。
この歌は、イギリスの船乗りが歌っていた「スパニッシュ・レディーズ」という歌を、サウルが歌詞をクイーンズランドのカウボーイの生活に書き換えて出版したものだった。
オスカーの音楽を愛するDNAは、サウルから来ていたのかもしれない。
サウルはこの歌が流行るのを見届けることなく、その後胃がんで亡くなった。
死を覚悟したサウルが、妻や子供達に宛てて書いた手紙を読むベン。子供達の成長を見ることなく亡くなったのは残念だが、ベルリンから遠いオーストラリアに単身やってきて、大きな家族を作り、身を立てた人であった。
メンデルソーン家のルーツ・シュナイデミュール
サウルは1844年、プロイセンのシュナイデミュールという場所で生まれている。父の名前はメンタイン(Menthein)、母はヘンリエッタ。シュナイデミュールとはいったいどこなのか?現地に飛ぶベン。
当時はドイツ(プロイセン)領だったシュナイデミュールは、現在はポーランドのピワという街となっていた。
当時の面影を探して街を歩いてみるが、戦争中の空爆で何も残っておらず、現在は無機的な古い近代アパートなどが建ちならぶ殺風景な場所になっていた。
1850年ごろは、街の人口の20%がユダヤ人だったが、1940年までにシナゴーグをはじめ、ユダヤ人に関連するものはすべて破壊されてしまった。
古いユダヤ墓地があったという場所に向かったが、そこに残っていたのは壁だけだった。地元の人によると、ナチス占領時代にはここにナチス政府の大きな建物があったという。
ユダヤ人の面影が跡形もなく消え去っていることに、空虚な気持ちになるベン。
有名なメンデルスゾーンとのつながりは
シュナイデミュールでのユダヤ人の記録はほとんど残っていないという。
しかし曾祖父サウルはオーストラリア移住前にベルリンにいたため、ベルリンのユダヤ人墓地の記録を調べたところ、サウルの両親、メンタインとヘンリエッタの埋葬記録が見つかった。
ユダヤ人関連の記録は多くが破壊されてしまっているため、1800年後半の記録が見つかったのは奇跡だった。実際、この書類も端に焼けた跡が残っている。
この記録から、高祖父メンタインもシュナイデミュール生まれだということがわかった。メンタインの父の名前はベレルで、商人だった。
ベンの先祖は代々このシュナイデミュールに住んでいたようだ。一方、有名なメンデルスゾーン一家の家系図も確認してみるが、こちらはハンブルグやベルリンなど、より「上流階級」な都市に住んでいた。
当時、ユダヤ人の自由な移動は制限されていた。貿易商などの仕事をしている場合は、各都市を移動することもできたが、家族をつれて移動することはまず考えられなかった。
そう考えても、ベンの一家と著名なメンデルスゾーン一家は、長い間地理的にも離れており、残念ながら関係はないと考えられる。
プロイセン国民となった先祖
高祖父メンタインの父、ベレルの名前が、最近出版された、シュナイデミュールのユダヤ人の歴史をまとめた本に見つかった。プロイセンの国民として市民権を取ることのできたユダヤ人のリストの中に、ベレルの名前があった。
市民権を取るのは簡単ではなく、さまざまな制約、条件があった。
芸術・農業・科学などの知識があることや、品行方正であること、芸術やビジネスの面で、何か国に貢献があった人物である必要があった。
羊毛商だったベレルは、これらの条件をクリアして晴れて正式なプロイセンの国民として認められていた。
そうかそうか・・、シュナイデミュール。良かったよね、シュナイデミュールで。と納得するベン。
母方のルーツ
次は母方のルーツを探る。母方の5代前の祖母、エリザベス・テンパニーは1842年、イギリス・ケンブリッジで生まれている。
11人きょうだいだったが、そのうちエリザベスと6人のきょうだいがオーストラリアに移民してきていた。
きょうだいは、少しずつオーストラリアにやってきたようだ。最初にやってきたのは、兄サミュエル。書類を見てみると、1847年、馬を盗んだ罪でオーストラリアに送られ、7年間服役していたことがわかった。
オーストラリア人だったら、先祖に犯罪者がやっぱりいるよね!素晴らしい!と喜ぶベン。
ベンの先祖であるエリザベスは、1863年、21歳の時にオーストラリアへとやってきた。
エリザベスの出生証明書にあった父親の名前は、アンドリュー・ジョン・テンパニー。職業は紙染職人。
一方エリザベスの結婚証明書には、父親の職業は一転して「ジェントルマン」と書かれている。ジェントルマンだって!と爆笑するベン。
また、ケンブリッジの歴史が書かれた本に、アンドリュー・J・テンパニーという名前が出てくる。1830年代、ケンブリッジに劇場を建てるため、資金集めに奔走した人物として紹介されていた。
俳優だった先祖?
紙染職人、ジェントルマン、劇場設立者、そして馬泥棒の父親。一体こられは同じ人物なのか。エリザベスの父、アンドリュー・ジョン・テンパニーの足跡を追い、イギリスへと向かう。
当時のケンブリッジのシェイクスピア・クラブの公演のパンフレット。ここに、アンドリュー・テンパニーの名前があった。悪役やおどけ役などで舞台に登場している。これが本当に自分の先祖なんだろうか?とベン。
当時のケンブリッジのことが書かれた別の本に、劇場設立の立役者、アンドリュー・テンパニーについての記述があり、そこにはアンドリューは紙染職人だったと書かれていた。
「向こう見ずな性格で、そんなところがケンブリッジの学生に人気があった。あまり先を見ない性格のため、いきあたりばったりな暮らしぶりではあったが、その分臨機応変に対応する力にたけていた」
うーん、向こう見ずなところとか、自分にものすごく似てるじゃないか・・、とベン。
舞台でつける黒いストッキングが行方不明になったときも、素早く自分の足を黒く塗ることで解決したという。
紙染職人だったアンドリューだが、ケンブリッジの裕福な学生と交流することで、自分もジェントルマン風にふるまうようになったのだろうか。
悲劇の結末
ケンブリッジの舞台に立っていたアンドリューのその後を追う。
1851年の国勢調査では、職業は引き続き紙染職人で、10歳、9歳、5歳の子供の名前があった。
20年後の1871年。そこに子供の名前はなく、アンドリューも住居を移転。職業は会計士。60代になっていたアンドリューだが、この期に及んで転職をしたのだろうか?
そして1876年の死亡証明書。ここでの彼の職業は、事務員となっていた。しかし亡くなった場所は、ロンドンのワークハウス、救貧院であった。
ワークハウスだった建物を訪れるベン。
By Peter Higgimbothom - http://www.cqout.com/item.asp?id=4872846, Public Domain, Link
ワークハウスは、貧困に陥った者を収容する施設だったが、着心地の悪い制服、質の悪い食事や混み合った部屋など、入所したものが長居しないよう、決して居心地の良い作りとはなっていなかった。
働けない老人もここに収容されており、アンドリューは1875年に入所、4か月後、ここで73歳で亡くなった。
転落の人生
アンドリューはなぜ、ワークハウスでひとり亡くなったのだろうか。
25年前の情報にさかのぼる。1849年、妻アナの死亡証明書。アナは49歳でコレラで亡くなっていた。当時コレラが世界で大流行しており、感染すると1−2日であっという間に亡くなってしまったという。
アンドリューには10歳から7歳の4人の子供が残された。
また、先を見ない彼の向こう見ずな性格も災いした。彼はロンドンで不動産投資をし、それを貸し出すなどしていたが結局失敗、破産してしまう。
長男には馬泥棒の前にも前科があった。このような盗みに走ったことも、理由がつく。
ちょうど当時は、貧困から逃れ、仕事を求めてオーストラリアに向かう移民が増えていた時期だった。家族は新天地を求めてオーストラリアに向かったと考えられる。
ワークハウスの混みあった食堂で、水のようなスープをひとりすすっていたのかと思うとなんとも言えない。まるでディッケンズに出てくる登場人物のような悲惨な結末だった。
大きなため息をつくベン。
アンドリューの人生の終わり方はひどいものだった。自分の子孫が彼のことを思い出してここにやってくるなんて、思ってもみなかっただろうな。ケンブリッジの舞台にたっていたアンドリューだけれど、こうやって子孫が取材にやってきて、より多くの人に彼の存在が知られた・・ということは、長い時間がたって、彼がより大きな舞台に立った、と言えるのかな。
エピローグ
アンドリュー達が最後に住んでいたロンドンの住所を訪ねてみるベン。
ロンドン中心街にほど近いポーツマス・ストリート。アンドリューはこの通りの13番地から16番地の不動産を4件所有していた。中心街なので、もう古い建物は残っていないと思うが・・と見つけた建物は、ディッケンズ時代のものを扱う骨董品店。建物自体もとても古く見えるものだった。
中に入って番地を聞くベン。まだ店内に置いてあった、店の立て看板に住所が書いてあった。それを外に持ってくるベン。住所はまさしく、ポーツマスストリート13・14番地だった。
ひとこと
このエピソードは2009年、約10年前にオーストラリアで放送されたもので、見た当時はメンデルスゾーンに似た名前の役者がオーストラリアにいるんだな、位にしか思っていなかったのですが、ここのところ(筆者でも知っている)メジャーな映画にも出演するようになり、ああこの人だったな、と思い紹介してみました。10年前の番組ではまだ若い感じでしたが、最近ではより渋い役者さんとなっていますね。
まず有名な作曲家のメンデルスゾーンがユダヤ人ということを知りませんでした。キリスト教をモチーフにした音楽も作曲していますし、ピンとこなかったのですが父親の代でキリスト教に改宗し、苗字もユダヤ人的なメンデルスゾーンから「バルトルディ」に変えていたそうです。それでも「ユダヤ人」といろいろ揶揄されたりしていたようです、知りませんでした。
長年その土地に根付き、銀行家や商人として各地で活躍していたユダヤ人でも、国籍を取ったり、自由に動くのに制約があったのだなあということもわかるエピソードでした。
結局このメンデルスゾーン一家とのつながりはなかったようですが、もっともっとさかのぼるとわからなかったかもしれませんよね。ちなみに有名なメンデルスゾーンの名前のスペルは「Mendelssohn」、ベン・メンデルソーンのほうは「Mendelsohn」。Sが多いか少ないかの違いがありました。
だいたい東ヨーロッパにユダヤ人の先祖がいる場合、その土地に行っても、ポグロムと呼ばれる迫害やナチスのユダヤ人狩りにあい、そこにユダヤ人が住んでいた形跡は跡形もない・・というケースは今までに何度もありましたが、今回もそのパターンでした。
シュナイデミュールでも、水晶の夜と呼ばれるドイツ各地で起きたユダヤ人迫害の際に、シナゴーグなどが焼かれ、その後残ったユダヤ人もナチスに連行され収容所送りとなったようです。水晶の夜については、Wikipediaのエントリーもありますのでご覧ください。
一方母方のイギリスの先祖の話、なぜ母方の母方の・・とこの人を選んだのかな、と思ったら、やはり何か演劇に関係がある先祖だったので意図的に選んで紹介したんだろうな、という感じはしました。今までも先祖にも役者がいた、という俳優のエピソードもいくつかありました。やはり先祖も何代もさかのぼれば何人もいますから、その中から何かしらの共通点がある人が出てきてもおかしくはないですね。
話が前後しているので、子供の数などが色々変わっていますが、11人子供がいて、奥さんが亡くなったときは大半は独立していたということでしょうか。年代を整理してみると、奥さんが亡くなる数年前に長男はすでにオーストラリアに送られていますし、救貧院に入ったのも亡くなる数ヶ月前、それから20年は経った後です。
ベンの先祖が結婚した時は、もしかしたらまだ羽振りがよかったんでしょうか・・だからこそ父親の職業をジェントルマン、と書いたのかもしれません。
いつ破産したのかよくわからないので、実際に子供たちがオーストラリアに移民した経緯や、彼がひとりロンドンで亡くなった本当の背景ははっきりしない部分もありました。ちょっとここは編集のマジックでごまかされていますね。
しかし向こう見ずで、職人だけれどもケンブリッジの学生と交流があり、好きな演劇で舞台に立っていた・・というのはちょっと面白い経歴ですね。明治の時代、下町の職人さんが、東大生と一緒に演劇活動をしていた感覚でしょうか。
最後にロンドンに残っていた先祖が所有していた建物、骨董品屋(Old Curiosity Shop)、という名前がついていますが、実際は靴屋さんのようです。建物は1567年に建てられたものだそうです。
このウェブサイトによりますと、チャールズ2世の時代はバターやチーズを作る工房で、1900年ごろまでは、廃紙業者が所有していた、とあります。もしかしてこれが、ベンの先祖のことなんでしょうか。
最近のストリートビューを見てみると、周囲にあったより近代的なビルが壊されて、新たな開発が進んでいるようですが、まだこの建物は残っているようで良かったです。
【女優】オリヴィア・コールマン:オスカー女優のエキゾチックで冒険に満ちたルーツ
プロローグ
イギリスの女優オリヴィア・コールマン。映画「女王陛下のお気に入り」でアン女王を演じ、2018年度アカデミー賞主演女優賞を獲得した。
By Ibsan73 - https://www.flickr.com/photos/63465486@N07/15983724581/, CC BY 2.0, Link
ノーフォーク州ノリッチ出身。父方の先祖はずっとノーフォークに根ざした農民だった。自分が知る限り、ルーツはこの辺のイギリス人で、大して面白くない感じ。でも母方の先祖についてはよくわからないと言う。
家族の中で、長年忘れられてきた人達がいる。それが誰かを知りたい。自分はどちらかというとパジャマで家にいたいタイプのインドア派で、冒険しないタイプだけれど、先祖はどうだったのか。
6代前の先祖
母方の家系図を調べると、6代前までさかのぼることができた。曽祖父の母方に当たる先祖の名前は、リチャード・バセット、そして妻はサラ。
リチャードはセント・ヘレナ島で生まれたという。
さらにリチャードは1800年代初頭、ロンドンで東インド会社に勤めていたことがわかった。当時の台帳から、大口の取引を任されていたこともわかった。
またインド・カルカッタにも駐在していたことがあり、現地で結婚もしていた。
1798年、カルカッタで発行された婚姻証明書。でもそこに書いてある妻の名前は、マーガレット・アン・ハンプトン。あれ?奥さんの名前、サラじゃなかったっけ?
6代前の離婚劇
次に出てきたのは、1808年、教会裁判所に離婚を訴えた記録だった。
離婚を訴えた書状には、最初の妻マーガレットが、妻の姉の家で知り合ったオペラハウスのハープ奏者と親しくしていることが書かれていた。
しかしよく読んでみると、特に何があったわけではないようだ。妻マーガレットがこのハープ奏者に親しげな態度をとっているのを見たリチャードが、妻にもうこの男と会うのをやめろと言ったところ、そんなに妻を信用しないのなら、もう一緒に住めないと妻が別居を申し出た、とあった。
別にやましいことはしていないのに、夫が何か焼きもちを焼いた感じに見えるわね、とオリヴィア。
しかしさらに書類を追ってみると、別居後、妻マーガレットの住まいにハープ奏者が訪れ不貞行為をしていたことが、細かく記載されていた。どうやら召使いからの報告があったようである。
リチャードの勘は正しかったんだ・・・、とオリヴィア。
妻の不貞、でも実は・・?
当時のイギリスでは正式に離婚が認められることは非常に稀だった。議会に特別法のような形で個別に認めてもらう必要があったという。
議会に向かうオリヴィア。そこに保存されている書類には、1809年3月、リチャードとマーガレットの離婚が認められたことが書かれていた。2人に子供はいなかったという。
さらに離婚から20年後にリチャードが残した遺言状。2番目の妻サラと、サラとの間に生まれた息子達に遺産を残すことが書かれており、ここから2人には5人の息子があったことがわかった。
オリヴィアの先祖は、そのうち次男に当たるチャールズ。
しかし次男チャールズの誕生日を調べてオリヴィアはあれっ?となる。誕生日は1807年9月。離婚が成立したのは1809年。
さらに長男は1806年生まれだということもわかった。これはちょうど最初の妻マーガレットが不倫で訴えられた頃ではないか。
妻を不貞で訴えておきながら、裏では自分も同じことをして子供まで生まれてたんだ・・・!
インド生まれの先祖
リチャードの次男、チャールズはオリヴィアの5代前の先祖に当たる。国勢調査を当たると、60代になったチャールズの情報が見つかった。退役軍人として、妻ハリオットと召使い3人とともに、ロンドンの北西にあるレディングという街に引退していた。
妻ハリオットはインド生まれ。キシャンガンジという、インド北東部生まれだという。自分の先祖にインド生まれの人がいるなんて!と興奮するオリヴィア。
ハリオットの出生について調べるため、インドに飛ぶ。
ハリオットの出生の謎
ネパール国境にもほど近い、ビハール州キシャンガンジ。ハリオットは、植民地化される前のインドで生まれていた。
当時のイギリスは、東インド会社の貿易を通じて、インドでの影響を広げていった。東インド会社は貿易のための商船の他、当時のイギリス軍の2倍の規模に当たる独自の軍隊も持っていた。
ハリオットの婚姻証明書から、ハリオットの父親の名前は、ウィリアム・スレッサーだということはわかった。1778年生まれ。東インド会社付きの軍人で各地を周り、1804年大佐に昇進。
しかし不思議なことにウィリアムの結婚に関する記録も、ハリオットの出生の記録も残っていないという。
記録が残っていないのは、ハリオットの母親がおそらく地元のインド人だったからだという。この時代、適齢期のイギリス人女性がインドの奥地にいるということはまず考えられなかった。実際東インド会社の軍人の三分の一は、地元女性と結婚していた。
スレッサー家の所持品リストが残っている。そこには聖書や水タバコ用パイプといったアイテムの他、象一頭、と書かれていた。イギリスとインドの文化が融合した、しかも家に象がいるような環境でハリオットは育ったのかしら、なんて素敵・・と感慨を覚えるオリヴィア。
しかし幸せは長く続かなかった。1810年、ハリオットが3−4歳頃、父ウィリアムは狩猟中の銃の暴発で頭部を撃ち抜かれ即死してしまう。
ハリオット、イギリスへ
その後、ハリオットと母親はいったいどうしたのか。
現地人である母親の消息については、わからないという。しかしハリオットについては、イギリスにいる祖母が、インドからイギリスに戻るための渡航費用を負担する、という弁護士からの手紙が残っていた。ハリオットの祖母の名前もハリオットだった。
まだ小さなハリオットをひとりイギリスに送り出さないといけなかった母親の心情を考えて、涙するオリヴィア。現地人である母親には、ハリオットの行く末について決める権利はおそらく何もなかっただろう。
しかしイギリスに渡る方が、子供の未来には良いと考えたかもしれない。いずれにしても、自分にも小さな子供がいるオリヴィアは自分の子供と重ね合わせて泣いてしまう。
イギリスに渡るためには、まずここから500キロ先にあるカルカッタにいかなければならないなど、旅は過酷だった。
また当時は客船などなかったので、東インド会社の貨物船に乗る必要があり、イギリスに着くまで半年はかかったという。
ハリオットが乗った船の乗船名簿が残っていた。乗客リストの中には、親と離れて乗船している子供の名前もあったが、多くは召使いなどが付き添っていた。しかしハリオットはここでもひとり。おそらく他の乗客が世話を買って出たのではと思われる。
父の国とはいえ、行ったことのない異国の地に幼児がひとりで向かうことを想像し、また涙するオリヴィア。しかしハリオットがイギリスに渡らなければ、今の自分もいなかったかもしれない・・・。ハリオットは1812年にイギリスに到着した。
大叔母の遺言、そして故郷へ
ハリオットが17−8歳頃に書かれた、ルイザ・ジェラルドと言う人の遺言状が残っている。これはハリオットの大叔母に当たる人で、ハリオットの祖母の姉妹だった。当時ハリオットはブリストルの寄宿舎で暮らしていたが、大叔母ルイザはハリオットに300ポンドを残すと遺言している。
さらに4年後、遺言状にはハリオットにさらに500ポンドを残すことが追記されていた。合計800ポンド。今のお金で4万ポンド、580万円ほどになる。ハリオットのことをとても気にかけてくれていたんだ、と感動するオリヴィア。
大きな遺産を手にしたハリオットは、それを渡航費用にして、1832年、カルカッタに渡っていた。
自分のルーツや母親を探しに戻ったのかもしれない。
また、イギリス人とインド人の混血「アングロ・インディアン」だった彼女は、自分のバックグラウンドに合った結婚相手を探しにインドに行った可能性もあるという。
その頃、イギリス人女性が結婚相手を探しにインドに渡ることはよくあったという。このような女性を乗せた船は「漁船」と呼ばれていた。「漁船」に乗って夫を釣りに行ったものの、結婚相手が見つからずに帰ってきた女性は、「ボウズ」で帰ってきた、などと揶揄された。
最初の結婚
1832年、ハリオットが結婚した証明書が残っていた。相手はウィリアム・トリッグ・ギャレット中尉。あれ、チャールズではない?
結婚した時期もインドから上陸してあまり間がない。あっという間に結婚相手を釣ったのだろうか。
イギリスからインドに向かう乗船名簿をもう一度見てみると、ギャレット中尉も同じ船に乗っていたことがわかった。船の旅の間に、ロマンスが生まれたようだ。
しかしギャレット中尉は翌年、29歳で亡くなっていた。ハリオットはあっという間に未亡人となってしまったのだ。
インドでの未亡人の暮らしは厳しいものだったという。なんてローラーコースターな人生なんだろう、とオリヴィア。
運命の恋
その後の彼女の情報は数年間途絶える。ハリオットはどうしたのだろうか。
夫の死後5年。2番目の夫となるチャールズ・バゼットが1838年、兄弟に宛てて書いた手紙が残っている。チャールズはハリオットとインドで出会い、ハリオットに恋をする。しかし未亡人である彼女は、チャールズからの求愛を断っていた。
その4年後。チャールズ、ハリオットともにそれぞれイギリスに戻っていた。チャールズは、ハリオットの亡き夫、ギャレット中尉の兄弟の家を訪れる。そこで、ちょうど義理兄弟の家に1ヶ月逗留することになっていたハリオットと再会したのである。そこでチャールズがなんとかハリオットにアプローチしようとする様が、手紙には詳細に書かれていた。
同じソファに座り、もう少しで彼女の手に触れられるところで、彼女が手を引っ込めてしまったこと。しかしその後、少しだけ手に触れることができたが、ちょうどお茶の時間になり邪魔が入ってしまった・・など。
まるでジェーン・オースティンの小説を読んでるみたい!とオリヴィア。
翌日、チャールズはもっと自分の気持ちをはっきり伝えようと、しっかり手を握ったところ、彼女が握り返してくれたが、また邪魔が入り・・・。
最後に2人きりになれた時、ハリオットから愛の告白を受けた、と手紙には書かれていた。
キャー!!と盛り上がるオリヴィア。
2人は31歳で結婚した。
2人の写真を渡されるオリヴィア。
これがハリオット・・・。
結婚後2人はインドに戻り、インド各地を転々としながら4人の子供をもうけた。
インドから、チャールズの兄弟に宛てた手紙は、筆跡が途中で変わっており、2人で仲良く代わる代わる手紙を書いた様子が伝わってくる。
ハリオットのおばあさん
ハリオットが最初にインドからイギリスに戻れたのは、渡航費用を負担してくれた祖母、ハリオットのおかげでもある。
ハリオットの祖母・ハリオットの遺言状も残っていた。ここには、「インディア・ハリオット」に50ポンド残すと書かれている。インドから来たインディア・ハリオットと呼ばれていたんだ。特別な孫だったのね、とオリヴィア。
ハリオットの祖母の名前は、ハリオット・エリザベス・スラッシャー。彼女の子孫が、スコットランドに住んでいるというので会いに行くオリヴィア。
ハリオットの孫が、オリヴィアの母のおじいさんになるわけで、時を超えてその手が触れ合っていたかもしれないと考えると感慨深い。自分の先祖は、せいぜいイギリス人、よくてフランス人の血がちょっと混じってるかも程度に思っていたけれど、こんなエキゾチックなことになるなんて、なんだかすごい。
ハリオットとその母
5代前の先祖が同じだというスコットランドの親戚の家には、ハリオットの肖像画も残っていた。
ハリオットは軍人だった夫について、ポルトガルで長く生活していた。その頃の日記が残っており、教育のため子供たちをイギリスの寄宿舎に残していかなければならず、その辛い別れが綴られていた。
子供との涙の別れの記述を読んで、また涙するオリヴィア。なかなか会えないけれど、学校が休みの間は、妹ルイザが面倒を見てくれるだろうとある。これは、インディア・ハリオットに多額の遺産を残してくれた大叔母ルイザのことだった。
そして年老いた母親と別れる時の記述。車椅子に乗り、年老いた母親は黒いボンネットを深くかぶり、涙を隠していたという。親戚の家には、そんな母親の肖像画も残されていた。
1740年代に描かれた肖像画。祖母ハリオットの母の名前はアン・ジュディス・ブリストル。アンの夫は、奇しくもオリヴィアの父方の故郷である、ノーフォークの議員だった。
そしてアンは実はパリ生まれのフランス人。結婚した時、イギリス国籍を取っていた。
アンはフランスでは迫害されていたユグノー教徒だった。このためイギリス国籍を取ったらしい。英語で難民(refugee)という言葉が最初に使われたのが、ユグノー教徒だったという。
先祖にフランス人がいたと思うよ、と母親がぽろっと言っていたことがあったけれど、本当だった!と驚くオリヴィア。
エピローグ
自分が知らない先祖に出会えることができた、素晴らしい経験だった。インド、ポルトガル、フランス、そしてセントヘレナ。こんなにエキゾチックな家族がいたなんて驚きだった。セントヘレナが一体どこなのか、ちゃんと地図で確認しなきゃ。
自分は冒険するタイプじゃないと思ったけど、そういうことを試される機会がなかっただけなのかもしれない。でも先祖はそういう試練にあって、そこでやるべきことをやってここまできたのだと思うと、先祖に対して本当に畏敬の念を感じる。
この旅で、ちょっと自分にも自信がついたというか、勇気をもらった気がする。
ひとこと
ちょうどこの記事の前日にオスカーを受賞したオリヴィア・コールマン。この他にも、Netflixでエリザベス女王と現在のイギリス王室を描くドラマ「クラウン」でエリザベス女王役も演じており、そのリリースが楽しみです。
そんな大女優のひとりな彼女ですが、化粧っ気もあまりなく、とても素朴な人柄で(オスカーのスピーチもそんな感じでした)、インドでは周りの景色を見ながらインド人の運転手にあれは何?これは何?と好奇心たっぷりだったり、インドから戻り、スコットランドの親戚宅まで自分で運転する時には、インドではこうやるのよーと言いながらクラクションをブーブー鳴らしまくったりと、なんだかちょっと可愛い感じの人でした。
また自分にも小さい子供がいるということで、小さなハリオットがひとりで渡航しなくてはいけなかったり、親が子供と別れたりしないといけない話になるともう涙腺が崩壊しまくっていました。
さて、ここでもインド人の先祖が出てきた話がとても印象的でした。東インド会社を含め、長い間イギリスの支配下にあったインド。そんなインドに根付いたイギリス人もたくさんいたわけで、ハリオットのようなアングロ・インディアンのエピソードは以前も紹介しました。
インドに限らず、いろいろな植民地が自分の母国よりも故郷になっている人もいたんですよね。
familyhistory.hatenadiary.com
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そして、先祖が生まれた場所として紹介されていたセントヘレナ島。どこかわかりますか?なんとこんなに陸の孤島です。
ナポレオンの流刑地としても有名ですが、こんな遠くまで流されてたんですね・・。
そして一度は求愛を断ったハリオットとチャールズの運命の再会と、その恋の行方・・本当にロマンチックですけれど、かなり詳細なことを兄弟に書き送っているのがなんとも微笑ましい。そして数百年後にこれがこうやってテレビで晒されるとは、思っても見なかったでしょう(笑)そしてそんな手紙や写真が、今もちゃんと残されていたのがすごすぎます。どこに保存されていて、どうやって見つかったんだろう・・・。
実はダブル不倫疑惑もある先祖の離婚劇に関しても、イギリス議会の書庫のようなところに、大きな巻物のようなものが大量に保管しているところがあり、そこにエプロンをかけたおばさんがいて書類を出してくれたりして壮観でした。
こうやって過去の情報が残っている、それを保管管理整理している人達がいる・・・ということのすごさも感じた回でした。