【女優:リア・ミシェル】ドラマ・グリー女優のルーツ、火事、虐殺、移民法・・困難を乗り越えアメリカに来た曽祖母
プロローグ
テレビドラマ「グリー」でおなじみの女優、リア・ミシェル。
By Gage Skidmore - https://www.flickr.com/photos/gageskidmore/19157054024/, CC BY-SA 2.0, Link
8歳の頃からブロードウェイに出演するなど、女優のキャリアは長い。
ニューヨークでイタリア系の母、ユダヤ系の父の元に生まれた。
母方の家族のルーツは完全にイタリアで、リアもローマンカトリックとして育てられた。
父親も母方の家族と過ごすことが多く、父方の家族についてはあまり知らないという。
父方のルーツを探る
父方のサルファティ家は、スファラディ、つまりスペイン系ユダヤ人。
もともとスペインに定住していたスファラディ系のユダヤ人だが、15世紀頃にスペインから追放され世界中に散った。
リアの家族はその後トルコかギリシャ、またイスラエルにも行ったと聞いているがはっきりしない。
父親に話を聞くリア。
祖母セリア・シルビアの両親の名前はモリス、そしてベッシー・ヴィッシー。ベッシーの本当の名前はボニータだと思う。イスラエルと関係あると思うがどこからきたのかよくわからないという。
2人の結婚の時に撮った写真は、とても美しく着飾っていた。
出身地はトルコ?ギリシャ?
2人の足跡を追うため、まずは国勢調査を調べる。
1940年、曽祖父モリスは46歳、曽祖母ベッシーは47歳。祖母セリアは15歳。曾祖父母の出身地はトルコと記録されていた。
それから10年前の1930年の国勢調査。ここでは、2人の出身地はギリシャと書かれている。トルコで生まれてギリシャに移ったのだろうか。混乱するリア。
また国勢調査には、アメリカに移民した年を書く欄があったが、ベッシーはモリスの2年後にアメリカに来ていたこともわかった。
さらに遡り、1929年の国勢調査。ここではまた出身地がトルコと書かれている。トルコなのか、ギリシャなのか。一体どういうことだろうか。
エリス島へ
曽祖母ベッシーは、1人でアメリカに移民してきて曽祖父と知り合ったのか。それとも、曽祖父に後から合流するために来たのか。移民の玄関口だったエリス島に向かうリア。
1918年の乗船・上陸記録に曽祖母の名前があった。ベッシーの本当の名前はボニータではなく、ベヌータ。苗字はヴィッシー。当時28歳。
By Underwood & Underwood - Library of Congress Prints and Photographs Division - http://hdl.loc.gov/loc.pnp/cph.3a17784, Public Domain, Link
エリス島での入国審査
出発したのは、イタリア・ジェノアから。当時第一次世界大戦中であったため、トルコやギリシャからの移民が安全に出航できる場所として、イタリアから船に乗ったようだ。
そして結婚歴の欄には、「未亡人」と書かれていた。
出身地は、ギリシャのサロニカ。現在テッサロニキと呼ばれる場所である。
この街がギリシャ領となったのは1912年。それ以前は長年オスマン帝国の支配下にあった。国勢調査で出身地がトルコ、ギリシャとコロコロ変わっていたのは、このためだった。
そして最終目的地として記載されていたのは、ニューヨークではなく、なぜかモントリオール。
色々と記録に不可解なことが多い。未亡人とはどういうことか?しかも曾祖父母はまだ結婚していなかったが、苗字が2人とも「ヴィッシー」と同じ。親戚同士の結婚だったのだろうか?
読み書きができるか、の答えは「No」。
1917年の移民法で、アメリカに移民する者は、自国の言葉で読み書きができる教育レベルになければならない、と定められていた。
これが原因で、曽祖母はエリス島で拘留されていた。
勾留、入国審査
当時移民が拘留されていた部屋を訪れるリア。ヒヤリングが行われるまで、移民は何段にもベッドがひしめき合う部屋に詰め込まれた。
By O - Own work (Own picture), Public Domain, Link
ヒヤリングが行われた部屋を見学する。ここで3人の移民調査官、通訳、証人の立会いのもと、入国審査が行われた。
ベッシーの入国審査について、50ページにのぼる議事録が残されていた。
ー フィアンセはアメリカに住んで2年目。自分はフィアンセの兄弟と以前結婚していた。
当時、ユダヤ人の間では、夫が亡くなるとそのきょうだいが未亡人と結婚する慣習があった。ベッシーもこのためにアメリカに渡ったようである。
ー フィアンセはどこに住んでいるのか?
ー モントリオールではなく、アメリカ。
ー なぜ最終目的地がモントリオールなのか?
ー 読み書きが出来ないと言ったら、船のエージェントがモントリオールに行った方が良いと言ったから。
どうやら、移民法をかいくぐって入国するために、モントリオールに向かう、と答えたようである。
モリスも証言台に立っている。移民官の質問に、自分も彼女と一緒にモントリオールに行くのだと答えている。
モリスはミッチェル・タイヤカンパニーで働き、週に25ドル稼いでいる。また400ドルの貯金もあると、移民官に貯金を見せている。
ー 結婚はいつする予定であるか。
ー 今日。
しかし出された判断は入国拒否、強制送還だった。
モリスの嘆願書
第一次大戦の影響を受け、当時のアメリカには、ヨーロッパから大量に移民がやって来ていた。
移民に対する恐れや偏見から、1917年、政府は読み書きのできない移民は好ましくなく、国の財政的な負担になるとして、強制送還するとの法律を制定した。
しかし戦争中だったため実際の送還は難しく、滞在を許可されなかった移民たちはエリス島に留め置かれ、混乱状態になったという。
入国が拒否されて一年後の1919年8月、モリスがワシントンDCの移民局に送った嘆願書が見つかった。
そこにはフィアンセがニュージャージーの勾留施設に留め置かれていると書かれていた。
当時エリス島は軍事施設として利用されるようになったため、ベッシーは送還される条件で一時的な上陸が認められ、ニュージャージーに送られたようである。
その後、執行猶予付きで一時的滞在が認められていた。
嘆願書は、この執行猶予を取り下げ、ベッシーがアメリカに永住できるよう求めたものだった。
そこには、1917年8月18日にサロニカで大火事があり、街の全てが破壊されており、送還されても人が住めるような状態ではないこと、残っているのは年老いた母親だけであり、生活のすべがないことが説明されていた。
また自分には彼女を支える経済力があること、もともと彼女と結婚する予定であり、ベッシーの面倒を見るつもりであること。政府に崇高な人の心があるならば、この状況を考慮して欲しい、と切々と訴えが書かれていた。
これに対し、移民官が残した内部メモのやり取りには、「もし彼らが結婚すると、合法的に送還できなくなるので好ましくない」と書かれていた。
しかし1910年10月、曾祖父母は結婚。ベッシーはアメリカに残ることができるようになった。
あのきちんとした結婚写真は、結婚が彼らにとってどれだけ重要だったかを示すものだった。
ギリシャに残された家族のその後
ニューヨークで出された婚姻届から、ベッシーの本当の旧姓は「コヘンカ」であること、父の名はアイザック、母はミリアムであることがわかった。
セフォラディと呼ばれるスペイン系ユダヤ人は、スペインから追われた後、多くが地中海、特にトルコに移住した。
オスマン帝国領であったサロニカは、その中でもスペイン系のユダヤ人コミュニティの中心地で、20世紀初頭、サロニカの人口の実に半分が、このようなユダヤ人だった。
1917年、そんなサロニカで起こった大火は、街の3分の2を焼き尽くす大災害であった。
By Philly boy92 - http://www.macedonian-heritage.gr/, Public Domain, Link
特に街の中心部に住んでいたユダヤ人は大きな被害を受け、家を失った被災者7万5000人のうち実に5万人がユダヤ人だったという。
ユダヤ人コミュニティの被災者記録が残っていた。
焼け出されたベッシーの両親と五人の子供達の情報が見つかる。父イサックは火事の翌年に死亡。
母のミリアムは50歳、被災支援としてミルクを受け取った、と書かれていた。
ベッシーはアメリカに向かったが、ギリシャに残った残りの家族はその後どうなったのだろうか。
サロニカもドイツの支配下に入り、ユダヤ人は列車に乗せられ、バルカン半島を経由し、アウシュビッツに送られたという。
サロニカに住むユダヤ人5万人の多くが強制収容所に送られる運命となってしまった。
この先の情報を追うのは気が重いが、残りの家族の足跡をたどるため、ニューヨーク、ロウワーイストサイドにあるシナゴーグに向かう。
By Harris Graber from New York City, United States - Kehila Kedosha Janina, CC BY-SA 2.0, Link
Kehila Kedosha Janiaと呼ばれる、ギリシャ系ユダヤ人が集まるシナゴーグ
そこで待っていたのは、イスラエルに住む又従姉妹、コヒーであった。コヒーと初めて対面するリア。
彼女はベッシーが入国審査の時に話していた姉、エスターの孫に当たる。
エルサレムにあるホロコースト博物館。ここでは、ホロコーストで家族が全滅し、先祖の情報も失ってしまった人達のために、亡くなった人について何か記憶があれば、それを登録しておけるようなアーカイブがあるという。
コヒーの父が、そこにミリアムの情報を登録していた。
サロニカで生まれたミリアムは72歳で、アウシュヴィッツで亡くなっていた。
ホロコーストを生き延びたのは、コヒーの父だけ。残りの家族は全て、アウシュヴィッツで亡くなったのだという。
ミリアムの写真を見て、目元が父にそっくりだという思うリア。
エピローグ
父に今までわかったことを説明するリア。父も感動し涙ぐむ。
そして長年会っていなかったという、父にとってはいとことなるコヒーとも再会を果たす。
父方にも、サロニカという土地に根ざしたユダヤ人という、とてもユニークなルーツがあることがわかったリア。
家族に起こった悲劇は悲しいが、こうやって家族のことを知ることができ、自分も次の世代に伝えられるのは素晴らしい。
イタリア系アメリカ人のような話し方をいつもする父親に「パパはすごくユダヤ人じゃない。もうイタリア人のふりするのやめなよ!」とつっこむ。
ひとこと
番組にお父さんが登場した時、喋り方やマナリズムが完全にイタリア系アメリカ人独特のものだったのがとても印象的だったんですが、なんと実はユダヤ人でした。
生まれ育ったニューヨークや、奥さんのイタリア系の大家族の影響だとは思いますが、ちょっと面白かったです。
文盲だったため、入国拒否され送還寸前だったひいおばあさんの話。
現在の大統領のもとでも、メキシコからの移民や、イスラム世界からの難民受け入れなどを嫌い、色々と移民法が変えられようとして、議論を呼んでいます。その中には、教育レベルに関する制限もまさに含まれています。
スキルのないものを移民として受け入れるのは、国の財政を圧迫する云々、も全く似たロジック。
アメリカ移民の多くは、例えば宗教弾圧だったり、アイルランドのジャガイモ飢饉だったり、ユダヤ人の迫害だったり、戦争だったりと、色々な形ではあれ、何かから逃げてきた難民だった、というのは今も昔も大して変わらないはずなのに。
でも先に来た人達は、そんなことをあっという間に忘れて、あとから来た人達に偏見を持ったり、色々と制限しようとしたり。
歴史から学ぶことはたくさんあるのに、と思いますが、喉元過ぎればなんとかで、こんなにも面白いくらい、同じことが繰り返されているのだな・・となんとも言えない気持ちになります。
ギリシャのサロニカ、テッサロニキについても、名前だけは世界史で習ったような気もします。が、また悲しいかな暗記の歴史の勉強では何も残っていませんでした。
この地に15世紀から住み着き、その街を形作っていた人達がナチスによって連れ去られ、虐殺され、跡形もなくいなくなってしまう・・。
その異様さも何とも言えませんでした。
今回のエピソードでは、本人のルーツとなる場所へは飛ばず、全てニューヨークで撮影が行われていました。
本人のスケジュールの問題などもあったのかもしれませんが、実際のところ、テッサロニキなどに行ってもあまり情報が残っていないのかもしれません。
番組ではリアがニューヨークにあるユダヤ人の歴史センターを訪れたりしていましたが、ユダヤ人が多く移民した先に、もしかしたら情報アーカイブも一緒に移動したのかもしれません。
イスラエルをはじめ、アメリカにもホロコースト博物館がありますが、強制収容所での情報なども、こういう場所に保管されていることも多いようです。
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