世界のセレブ・ファミリーヒストリー

英・米・豪・加で放送されている「ファミリーヒストリー」的番組 Who Do You Think You Areの興味深いエピソードを紹介します。セレブの家族史を通じて、世界の知らなかった出来事が見えてくる。今の世界を知る上でも、個人を知る上でも、色々興味深いこと満載です。

【女優:ジェーン・シーモア】ボンドガール、ドクター・クイン女優のルーツ:大叔母姉妹、ホロコーストからの逃避行

プロローグ

ハリウッド女優ジェーン・シーモアはイギリス生まれ。007「死ぬのは奴らだ」のボンドガール役、そして日本でもNHKで放映されていた「ドクター・クイン、大西部の女医物語」の主演をはじめ、数多くの映画、ドラマに出演している。

Jane Seymour CUN Award Party 2009.jpg
By Ilya Haykinson - File:2009 CUN Award Party Jane Seymour 036.JPG, CC BY-SA 3.0, Link

ジェーン・シーモア」という典型的な英国人の名前は実は芸名。本名はジョイス・ペネロペ・ウィレミナ・フランケンバーグ。母はオランダ生まれのオランダ人、父はポーランド系のユダヤ人。

父方の祖父がポーランドからイギリスに移住したので、ジェーンの家族はホロコーストを免れたが、親戚はホロコーストの犠牲になったものも多い。イギリス空軍の軍医だった父は、いとこの行方を探すため、ベルゲンベルゼン強制収容所に行ったと聞いている。

そんな中で、ホロコーストを生き延びた2人の大叔母がいる。当時フランスにいたミカエラ、そしてポーランドに残っていたヤドヴィガ姉妹。それは一体どのような経験だったのだろうか。

ゲットーへの強制移住

ワルシャワに向かうジェーン。大叔母ヤドヴィガは、ここでユダヤ系の産婦人科医ハーマン・テマーソンと結婚、息子ジェッツィと娘ハンナの2人の子供をもうけた。自分の父も産婦人科医だったというジェーン。父はハーマンの影響を大きく受けていたようだ。

家族はワルシャワの中でも、裕福なエリアに住んでいた。当時はコスモポリタンな街だったワルシャワ。特に医者という職業柄、ヤドヴィガの家族は、ポーランドの社会に十分溶け込んで生活していた。

しかし1939年、ドイツがワルシャワに侵攻。1940年10月にはユダヤ人を隔離するため、街の中心部の1.6キロ四方に高さ3メートルの壁を作り、40万人のユダヤ人をそこに押し込めた。いわゆるユダヤ人ゲットーである。

The Wall of ghetto in Warsaw - Building on Nazi-German order August 1940.jpg
By Unknown - "Warszawskie getto" Warszawa 1988
United States Holocaust Memorial Museum, Photograph #37295
Photograph description based on discussion at Kolejka Marecka Forum (Post # 7), Public Domain, Link

ゲットー区域内に家があったポーランド人は追い出され、代わりに別の場所にいたユダヤ人がそこに詰め込まれた。ポーランド人は「アーリア人区域」に住み普通の生活を送ったが、ユダヤ人たちは完全にそこから隔離・遮断されることとなった。

ヤドヴィガ達の家はたまたまゲットーが作られた区域内にあり、移動はまぬがれ、医療業務も続けていた。しかし混み合ったゲットー内での生活は苦しく、1942年には8万人が飢えや病気で亡くなっている。当時の映像では、ゲットー内のあちこちに人が倒れており、人々がそれを避けながら街を歩く姿が残っている。

ゲットーからの脱出

その年、ドイツはユダヤ人を虐殺することを決定。ゲットーから25万人がトレブリンカ絶滅収容所に送られ、そこで虐殺された。

Umschlagplatz loading.jpg
By Unknown - Popular museum piece in public domain available from a variety of sources: online (1) and (2) and others.
USHMM, courtesy of Żydowski Instytut Historyczny (Jewish Historical Institute in Warsaw)
Barbara Engelking; Jacek Leociak (2001) Getto Warszawskie - Przewodnik po nieistniejącym mieście, Warsaw: Wydawnictwo IFiS PAN ISBN 83-87632-83-x, Public Domain, Link
トレブリンカへ移送されるユダヤ

当時ヤドヴィガは50歳。ホロコーストを生き抜いた彼女であるが、収容所送りになっていれば、そこに行き着く前に力尽きて死んでいたと考えられる。実は収容所送りになる前に、ヤドヴィガとその家族はゲットーを脱出していたようだ。

当時、ポーランド側に協力者があれば、唯一ゲットーを抜け出す方法があった。それは「ゲットー」と「アーリア人区域」の境界にある裁判所の建物を通り抜けること。この建物にはゲットー側とアーリア側ふたつに出入り口の扉があった。

脱出するには、偽の書類を作り、裁判所に出頭するふりをして建物の中に入る。ユダヤの星がついた服を、人目のつかない場所で着替え、出来るだけポーランド人のふりをして、アーリア人側の出口から外に出る。おそらくポーランド人の協力者が待ち合わせをしていたと考えられる。この方法で、1000人ほどがゲットーから脱出したという。

裁判所の建物から何くわぬ顔をしてアーリア側に出るのは、とても勇気のいることだっただろう。ゲットーでの地獄とは裏腹に、そこにはまるで何もなかったかのような日常がある。しかし同時に、建物の周りには、脱出したユダヤ人を襲おうと待ち構えているポーランド人もいた。彼らはまずユダヤ人が身につけている宝石や貴重品などを奪った上で、ドイツ兵を呼んだという。アーリア側に出ても、油断はならなかった。そのため協力者の存在がとても重要だった。

ヤドヴィガだけでなく、夫も子供達も脱出に成功していたようだ。ホロコーストを生き延びた人々が記した回顧録にも、ヤドヴィガの夫、テマーソン医師が「アーリア側に潜伏していた」との記述が見つかった。

ポーランド人の中にも、ユダヤ人を助けようという人達が多くいたということだった。1942年9月にゲットーは完全に破壊・解体されたが、その際に多くのユダヤ人が逃亡した。ドイツ軍は、地元ポーランド人に、ユダヤ人の逃亡を助けたりかくまえば死刑にすると警告している。逃亡、潜伏を実現するには、本人だけでなく、周囲にも大きなリスクがあった。

Death penalty for Jews outside ghetto and for Poles helping Jews anyway 1941.jpg
By German Nazi Governor for district of Warsaw Ludwig Fischer - Archives of Institute of National Remeberance (IPN), Warsaw, Public Domain, Link
死刑を警告するチラシ

ワルシャワ蜂起

無事に脱出できても、ここから戦争が終わるまで3年もある。それまで一体どうしていたのだろうか。おそらくポーランド人の家に匿われていたはずだが、当時家族が全員で同じ場所に潜伏することは危険が大きすぎたため、おそらく家族はバラバラになっていたと考えられる。

1944年8月、民衆によるワルシャワ蜂起が起きる。当初はポーランド側が優勢であったが、ドイツ軍が制圧、20万人が処刑され、街はドイツ軍により完全に破壊されてしまった。アーリア人優越思想に突き動かされたドイツ軍にとっては、ユダヤ人同様、ポーランド人も劣等人種と見ていたため、街を壊滅させることには何のためらいもなかったという。

Warsaw Uprising - Four on a barricade.jpg
By Unknown - Antoni Przygoński (1980) Powstanie Warszawskie w sierpniu 1944 r.; Tom 1, Warsaw: Polskie Wydawnictwo Naukowe, pp. 112 ISBN 83-01-00293-X, Public Domain, Link
ワルシャワ蜂起、ドイツ軍と戦うレジスタンス

廃墟となった街の中でもなお、ヤドヴィガは隠れて暮らさなければならなかった。

夫、子供達の消息

銃痕がまだ残る当時の建物へ入っていくジェーン。そこで回顧録を手渡される。そこにはヤドヴィガの夫、ハーマンの最期が記されていた。1944年ナチスポーランドから撤退する。その様子を窓辺に立って見ていたハーマンは、撤退中のナチス軍に撃たれて亡くなっていた。たまたま窓辺にいたハーマン。それがたまたま目に入ったナチス兵。もう少しで戦争が終わるところだったのに。ハーマンはおそらく撤退直前に意味もなく殺された、最後の人物だったかもしれないという。

その後ヤドヴィガや子供たちはどうなったのだろうか。

50万人以上いたワルシャワユダヤ人のうち、生き残ったのは1万1000人。その中でワルシャワに戻って来たのは1000人にも満たなかった。

ワルシャワ市内、エルサレム通りのアパートを訪れるジェーン。ここは戦後、潜伏していたユダヤ人達がワルシャワでの生活を立て直すために集まった場所だという。ヤドヴィガもここで暮らし、家族の帰りを待った。ヤドヴィガが家族に連絡するよう呼びかけるメッセージカードが残っている。彼女の住所は家族にだけ知らせて欲しい、と書いてあるのは、まだ物資や住む場所も十分でなかった時代、おそらく自分がユダヤ人であることを必要以上に外部に知らせることは、まだ危険であったからだろうという。


Warsaw Ghetto destroyed by Germans, 1945.jpg
By Zbyszko Siemaszko, photographer of Central Photographic Agency (CAF) in Warsaw - The book: "Warszawa 1945-1970", Publisher: Wydawnictwo Sport i Turystyka, Warszawa, 1970, page 76-77, Public Domain, Link

ワルシャワの85%がドイツ軍によって破壊され、ポーランド全体では500万人がなくなり、そのうち300万人がユダヤ人であった。そんな絶望的な状況で、ヤドヴィガは家族の消息を待ち続けたのであった。そんな中、ヤドヴィガの娘で当時21歳だったハンナがベルゲンベルゼン強制収容所で目撃されたというニュースが舞い込んだ。

ドイツにあるこの収容所に、ワルシャワから直接送られたユダヤ人は少なかったが、のちに他の収容所の証拠を隠すため、東ヨーロッパからのユダヤ人がこの収容所に向けて死の行進を強いられていた。体力のないものは銃殺されたという。

父が収容所まで行って探しに行ったのはハンナだったんだ、と気がつくジェーン。

しかし収容所にハンナの姿はなかった。「ベルゼン収容所にいる形跡なし」との手紙が残っていた。

息子のジェッツィの消息も届かなかった。おそらく亡くなったと見られる。自分は生き延びたが、夫、子供を失い、家もコミュニティも街も全てを失ってしまったヤドヴィガ。これが自分だったら、もう気が狂ってしまうだろう、とジェーン。

もう1人の大叔母

もう1人の大叔母、ミカエラの足跡をたどるためパリに飛ぶ。

戦争前、ポーランドからパリに移っていたミカエラ。夫アーロン・シンガロウスキーと娘ハンナとリアの4人で暮らしていた。彼らが住んでいたのは、パリでも裕福なエリア。夫アーロンは、政治的な理由で職を失ったユダヤ人に新しい技術を教え、再就職を支援する団体のディレクターをしており、ユダヤ人コミュニティでも高い地位にいる人物だったという。

以前はベルリンにいたが、ヒットラーが政権を取ったのを機に1933年にパリに来た一家。当時のパリはユダヤ人をはじめ多くの外国人がヨーロッパ各地から避難してきており、ユダヤ人が住みやすい場所であったという。しかし1939年に戦争が始まると、状況は不透明になる。

1940年5月10日、ドイツ軍がオランダ、ベルギーへの侵攻を開始。これにより、フランス北部やベルギーから避難民が到着し始める。しかしドイツの侵攻が進むにつれ、パリも安全な場所ではなくなってきていた。人々はとにかく駅に行き、買える切符を買い、乗れる電車に飛び乗った。マットレスなどの家財道具一式を抱え、実にパリの人口の4分の3、約600万人がフランス南部へと大移動したという。

1940年6月には、ミカエラ一家もフランス南部、マルセイユへと避難している。

6月14日にはドイツ軍がパリを占拠する。フランス政府はドイツと休戦協定を結び、北部はドイツが占領、南部は傀儡政権であるヴィッシー政権の統治下となった。

亡命先を求めて

カエラ一家マルセイユを目指したのは、そこに領事館、そして港があったからで、いざとなればここから船に乗ってさらに脱出が可能だった。しかしミカエラ一家はフランスでは外国人。マルセイユで生活するにしても、居住許可証がなければ何もできない立場にあり、様々な許可を得たり、食料を得たりするのに奔走する毎日であった。

さらにマルセイユも安全な場所ではなくなってきていた。ドイツ軍に協力する立場にあるヴィッシー政権もまた、ユダヤ人狩りを開始。1941年にはすでに何千人もが強制収容所へと送られている。早く脱出しなければならない。しかしそのためには、書類を揃える必要があった。

当時のアメリカ領事館の前に行列を作る難民たちの写真がある。彼らは必要なビザを得るために何日も何日も並んだ。またその手続きも複雑なものだった。入国に必要なビザだけでなく、フランスからの出国許可も得なければならなかったのである。

カエラ一家は、アメリカに移民するビザを申請し、その許可が降りていた。しかしユダヤ人の再就職支援をする夫アーロンは、他のユダヤ人を助けるためにこの土地に残ることを選んでしまった。夫の仕事のためとはいえ、家族を守るためにミカエラは歯がゆい思いをしたのではないだろうか。

続いて1942年、一家はスイスへの渡航を申請する。こちらも許可が降りたが、ヴィシー政権により、出国を却下されてしまう。

一方ドイツが占領しているフランス北部では1942年7月からユダヤ人狩りが始まった。フランス警察は1万2000人のユダヤ人を逮捕。ドイツ軍に要請されたわけではなかったのに、そのうち4000人が子供だったという。彼らの多くがアウシュビッツに送られ、命を落とした。

あともう少しでアメリカかスイスに行けたのに、緊迫する状況の中八方塞がりになってしまった一家

一家がメキシコ行きのビザまで申請していた記録も見つかった。世界のどこでもいいから、どんなに遠くてもいいから、安全に受け入れてくれるところに行きたい。この悪夢を早く終わらせたい、という思いが伝わってくる。

さらに11月9日には、スイスのビザを再度申請、再び却下。

11月11日にドイツは南部に侵攻し、12日にはマルセイユも占領された。

Bundesarchiv Bild 101I-027-1476-20A, Marseille, Gare d'Arenc. Deportation von Juden.jpg
By Bundesarchiv, Bild 101I-027-1476-20A / Vennemann, Wolfgang / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, Link
収容所に送られるマルセイユユダヤ

ここでスイスで発行された書類を見せられるジェーン。そこにはドイツ語で「不法」と書いてあった。ドイツ軍がマルセイユに迫る中、一家は正規の方法での入国は無理だと諦め、国境を不法に超えてスイスに入国していた。彼らがスイスに到着した1週間後には、マルセイユユダヤ人は強制収容所に送られ、ユダヤ人が居住していた地域はダイナマイトで爆破されたという。間一髪の所で、家族は難を逃れていたのであった。

スイスに逃れた一家

スイスに向かうジェーン。今だと車で数時間でついてしまう。しかしミカエラ一家は、冬の厳しい寒さの中、隠れ家を転々とし、ほぼ徒歩で移動を繰り返した。子供を2人抱え、いつどこで捕まるか、撃たれるかもしれない恐怖、全てが不透明な中での逃避行。国境は林の中にあった。彼らはここを猛ダッシュしたのだろうか。

スイス政府が発行した実際の逮捕状を手にするジェーン。1943年1月17日夜11時、彼らはこの場所で逮捕された。

中立国のスイスには、ユダヤ人が逃げ込むことはできたが、スイスはユダヤ人受け入れを厳しく制限しており、不法入国した者はやはり収容所に入れられ、働くことは許されなかった。また何万人もがフランスに強制送還されたが、それは彼らにとって死を意味するものであった。

幸い、ミカエラ一家にはスイスにも資産があった。また夫アーロンの仕事の実績が買われ、職を得ることもできた。スイス政府は、スキルを持つ難民は歓迎したのである。一家はホテル暮らしを始めた。家族の安全を捨ててまで、マルセイユに止まり仕事を続けていたことが吉と出た形になった。

ヤドヴィガのその後

戦後、ミカエラポーランドで1人生き残った姉ヤドヴィガのため、スイスのビザを申請していた。ホロコーストを生き残ったユダヤ人でも、家を亡くし、貧困に陥ったり、そのトラウマや、さらなる迫害を恐れ、自国に帰れず難民のようになった人々は実に3000万人いたという。

ヤドヴィガには、1946年4月より、6ヶ月の滞在を許可するビザが降りた。ワルシャワの廃墟からやってきたヤドヴィガ、スイスの豪華なアパートをどう思っただろうか。そして自分は全てを亡くしたが、夫も子供も全て揃っている妹家族との生活はうまく行ったのだろうか。

ヤドヴィガはその後、スイスで亡くなったという。

ヤドヴィガの墓を訪ねるジェーン。しかしそこでそこで墓石に不審な点を見つける。亡くなった日にちが刻印されていなかったのである。1946年10月とだけ。スイスに到着して数ヶ月で亡くなったようだ。

当時の新聞にヤドヴィガの死亡に関する記事が掲載されていた。

ジュネーブで1ヶ月前から行方不明になっていたポーランド人女性の遺体が見つかる。戦争で夫は行方不明、息子は射殺され、娘の消息は不明で、鬱状態にあった。彼女のビザは10月に切れるはずだった。』

全てを失い、また廃墟のワルシャワに戻らなければならない。全てに疲れ果て、自殺したと考えられる。

エピローグ

戦争を生き延びたが、1人取り残されたヤドヴィガ。戦後の生活は一層辛いものであっただろう。生き残るための戦いにも疲れ果て、もう先へは進めなくなってしまったのかもしれない。せめてこんな美しいところで最後を迎えたのが救いだろうか。

様々な苦難の中生き延びた大叔母姉妹。彼女たちの足跡を追い、家族の中にある不屈の精神を見た。

ひとこと

もうこのエピソードは、見ていても、これを書いている間も、とても辛かったです。

まず番組の最初に出てきた、当時の家族写真。最近ちょっとこの時代のファッションがまた戻ってきているせいもあり、彼らの表情、服装を見ていると、つい最近のパーティーで撮ったように見えます。そしてコスモポリタンな街だったワルシャワの映像も、ショッピング街の店先は、今でもインスタグラムに載っていてもおかしくないような風景。

それがもう一瞬で、地獄絵図です。ゲットーの道端で倒れて死にかけている子供、女性。その横を避けて歩く人達。そしてワルシャワ蜂起を経て街が広大な廃墟となっていく姿。

今でこそ、戦争が何年に終わったか知っていますので、彼らの足跡を、なんとなく時系列に見ています。当時渦中にいた人達が、いつ戦争が終わるかなんてわかるわけもなく、とにかく先が見えない恐怖と不安の中で脱出し、潜伏し、各地を逃げ回り・・・それも叶わない人々は、その場で野たれ死に。想像を絶します。

国外に脱出するのでさえ、ただ逃げればいいわけではなく、ビザを取り、許可証を取らないといけない。でも却下が続く無限ループ。しかもそうこうしている間も、食べ物はない、ナチスは近づいてくる、となるともうそれだけで精神が崩壊してしまいそうです。

ビザのことについては、ふと杉原千畝さんの話も思い出しました。このような状況では、見ず知らずの地、日本にも頼りたくなる人がいるのも当然でしょう(この場合は通過ビザでしたが)。今だって日本に難民申請をしている人達がいます。なぜ日本?と思うかもしれませんが、もう最後の最後の頼みの綱かもしれません。

「そうだ、難民しよう」なんて言うのが少し前にありましたが・・・。今でも極限の状況で出口を見つけようとしている人々はたくさんいるわけで、好き好んで「そうだ」なんて言っているのだと思ったらちょっとあまりにも、あまりにもです。

自国を守る必要もあるんでしょうが、スイス政府がユダヤ人の入国にキャップを設けていたり、「スキルのある難民ならオッケー」・・というのも最近もどこかで聞いたような話ですね・・。大叔母さんの一家は、ある意味お金があったのでどうにか助かった部分もあるでしょう。でも無い人は・・??ああ、辛い・・。

今回のエピソードを見ながら、なぜか今の世界の状況に色々と考えを巡らせてしまいました。

戦争前、フランスがユダヤ人の住みやすい場所だった、という話はこちらでも⇩
familyhistory.hatenadiary.com


今の時代もどんどん先が見えなくなってきました・・・次回はあまり悲劇の少ないものを紹介してみようかな・・
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