【女優:ユーナ・スタッブス】シャーロック・ハドスン夫人のルーツ:ガーデン・シティで繋がった縁
プロローグ
イギリスの女優ユーナ・スタッブスは、1937年ハートフォードシャー生まれ。
女優・ダンサーとして60年以上にわたり活躍、最近ではドラマ「シャーロック」でハドスン夫人を演じている。
ユーナの父親は誰からも好かれる明るい性格だった。一方母親はあまり社交的でなく、時に鬱のようになることがあったが、家族が支え合って暮らしてきた。
ユーナの母方の曽祖父は、近代都市計画の基盤となった「ガーデン・シティ」の発案者、エベネザー・ハワード。
しかし父方のルーツについては、ユーナは自分の祖父母に会ったことがないばかりか、名前さえ知らないという。あんなに社交的で楽しい性格だった父、その両親に一度も会う機会がなかったのはなぜだろうか。
初めて知る父方の祖父母
父方のいとこ達を訪ねるユーナ。ユーナと違い、彼らは祖父母のことをよく知っていた。
初めて祖父母の写真を見る。祖父の名前はアーサー、祖母はアニー。
祖母アニーは型破りな性格で、一緒にいてとても楽しい人だったという。特に踊ることが好きで、お酒も嗜み、人生を謳歌するタイプ。ピリッとした性格で、とても強い女性だった。
祖父アーサーは親切で面白い人。おばあちゃんの尻に敷かれていたかもね、といとこ。
祖母アニーは1960年代に亡くなった。当時20代だったユーナが、ショービジネスの世界に足を踏み入れ、テレビへの出演を始めていた頃。ダンスが大好きだった祖母アニーは、そんなユーナをとても誇りに思い、ダンスがうまいのは私の遺伝だね、と言っていたという。
こんな素敵な祖父母になぜ会ったことがなかったんだろう?
おそらくユーナの母親とそりが合わなかったのだと思う、といとこ。シャイな性格の母は父の家族に圧倒されてしまったのではないか。また、祖母アニーのバックグラウンドについても、あまり良く思っていなかったかもしれない、という。
というのも、祖父母には、ユーナの父も含めて6人の息子がいたが、長男は夫アーサーとの間の子供ではなかった。また次男であるユーナの父は2人の間の子ではあるが、アニーはユーナの父を未婚のまま産んだのだという。
いとこ達に話を聞き、祖父母との交流があったことをとても羨ましく思ったユーナ。特に祖母の話を聞くほど、会いたかったと思う。特に自分のことを誇りに思ってくれていたなんて・・と胸がいっぱいになる。
祖母アニーの生い立ち
祖母アニーの生い立ちを知るため、ヨークに向かう。
アニーの出生証明書には、父親の名前がなかった。アニーは私生児として生まれていた。
アニーが6歳の頃の国勢調査を調べると、アニーは他の家族に養女として引き取られていた。アニーを迎え入れた養父は、盲目のカゴ編み職人。貧しい家庭だったと考えられる。そんな中でもアニーを引き取り、育ててくれたようだ。
1903年、18歳のアニーは未婚のまま出産する。出産した場所は、救貧院。ショックを受けるユーナ。
当時、未婚で貧困の女性が妊娠すると、救貧院に一時的に身を寄せ、出産するケースは多かったという。アニーはこの施設に5週間滞在して出産した。
この時代、病院はベストの医療を提供する場、というわけでは必ずしもなかった。裕福な人々は医者を自宅に呼び、手術も自宅で行ったという。いずれにせよ、アニーのような貧しい未婚女性が病院に行っても、受け入れてもらえなかった。このため、救貧院にあった医療施設を利用したと考えられる。
その5年後、アニーはユーナの父を出産。出産した場所は救貧院では無かった。
ユーナの父が生まれた住所を訪れるユーナ。ここで見せられたのは、祖父母アーサーとアニーの婚姻証明書。父が生後5ヶ月の時に、2人は結婚していた。父が生まれた住所は、祖父アーサーの家でもあった。
そして婚姻証明書に書かれた祖母アニーの住所は、その向かいの家。結婚前、2人はご近所同士だった。
祖父との不思議なつながり
その後、この地域に20年住んだ2人。子沢山であるが3部屋しかない狭い家で暮らしていた。
祖父の職業は、製菓職人。当時英国でも3つの指に入る大手、ラウントリー社のチョコレート工場で働いていた。
この事実に驚くユーナ。彼女は若い頃、ラウントリー社のコマーシャルに長年出演していたのだった。チョコレート工場を訪れたこともあったという。まさか自分のおじいさんがここで働いていたなんて。
1955年、彼女が出演したチョコレートのコマーシャル。
ラウントリー社をはじめ、イギリスのチョコレート会社の多くはクエーカー教徒によって創立されている。アルコールの代替としてココアを売り出したのが始まりだった。
ラウントリー社はクエーカーの価値観に基づき、週休二日制、会社付属の医療施設や年金など、当時としては非常に進歩的な福利厚生を提供する、優良企業だった。
従業員が会社の経営に参画する評議会もあり、ユーナの祖父もアーモンド部門の代表として、評議会のメンバーをつとめていた。
1929年、アーサーは工場の機械化により、余剰人員として解雇されてしまう。しかしラウントリー社はただ解雇したわけではなく、解雇対象となった従業員120人に資金援助を行い、次の就職先が見つかるよう支援した。
そしてアーサーが新たな職を得て移った先は、ウェリン・ガーデン・シティ。そこはユーナの母方の曽祖父、エベネザー・ハワードがデザインした街であった。なんという不思議なつながり!
ガーデン・シティを提唱した曽祖父
ユーナの母方の曽祖父はサー・エベネザー・ハワード。19世紀後半、「ガーデン・シティー」構想を提唱した人物だった。
By The original uploader was Marnanel at English Wikipedia - Transferred from en.wikipedia to Commons., Public Domain, Link
彼は都市と田園地方の良い部分を組み合わせてデザインされた住宅地を考案。これは日本にもあるニュータウンや田園都市計画にもつながる構想だった。
エベネザー・ハワードの功績は知っていても、彼の背景を全く知らないユーナ。彼は建築家だったのか?なぜこのようなことを考えるに至ったのか?
エベネザー・ハワードはロンドン生まれ。
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シティー中心街に近い彼の生地は、今でこそおしゃれな店が並んでいるが、当時は人々がひしめき合って暮らす、猥雑な街だった。狭い路地は真っ暗で、下水が道に溢れているなど衛生状態も悪かった。疫病も広がりやすく、郊外と比べ、都市部の住民の死亡率は2倍にもなったという。
パン屋の息子だったエベネザーは、その後地方の寄宿学校に入学する。スラムを見て育った経験と、田園地帯で学んだ経験が、のちの彼の考えに大きな影響を与えたことは間違いない。
15歳で学校を卒業後、エベネザーは速記係として弁護士事務所で働き始め、1880年代には英国議会の速記士となっている。
都市部のスラムは衛生面、モラル面からも大きな問題となっており、議会でも議題として取り上げられていた。議員達がこの問題について話し合うのを、直接聞き、記録していたエベネザー。スラムの現状を知っているからこそ、話し合いばかりで何も解決されない現実を歯がゆく思い、「ガーデン・シティ」の構想を温め始めたと考えられる。
ガーデン・シティ実現に向けて
1890年代になり、エベネザーは自分の考えを広めるため、本の出版に取りかかる。一介の速記士だった彼は、高額の出版費用を集めるため奔走した。
建築家だったわけでもなく、議会の速記をしていた曽祖父。そしてこの活動を本格的に始めたのが、40代に入ってからだと知り感嘆するユーナ。
本の下書き、そして街の構想図を見る。構想図では、円形の公園を中心に、市庁舎や博物館、病院やコンサートホールといった公共施設が並び、それぞれの住宅には庭がついているなど、緑の少ないロンドンに比べ、ゆったりした作りになっている。街の外側に工業地帯を置き、そしてその周囲を農場が囲う。自給自足も可能なデザインとなっていた。
By Ebenezer Howard - To-morrow: A Peaceful Path to Real Reform, London: Swan Sonnenschein & Co., Ltd., 1898., Public Domain, Link
1898年「明日ー真の改革にいたる平和な道」と題された本が出版される。革命ではなく、人々の協力で社会を変革していくことを説いたこの本を元に、エベネザーは英国中を講演してまわり、賛同者を募った。
そして1903年、エベネザーが53歳の時、資金調達に成功し、ついに最初のガーデン・シティを、ロンドン近郊のレッチワースに建設した。
By Jack1956 - Transferred from en.wikipedia to Commons., CC0, Link
情熱を持ってガーデン・シティの建築に奔走したエベネザーであったが、それには大きな犠牲もあった。彼がプロジェクトに奔走している間、速記士としての仕事は滞り、収入は止まった。安定した収入源がないため、家族は苦しい生活を強いられることになる。
1904年、妻リジーが彼に宛てた手紙に、安定した収入がないことへの不安が綴られている。夢を追う夫を支えてきた妻であったが、この手紙が書かれた1ヶ月後に亡くなった。夢が現実になる目前のことだった。
ウェリン・ガーデン・シティ
レッチワースでのガーデン・シティの建設は成功裏に終わったが、エベネザーはこのアイデアを一度きりのものとして終わらせたくはなかった。
1919年、70代に入っていたエベネザーは、新しいガーデン・シティ、ウェリン・ガーデン・シティの建設に取り掛かる。
エベネザーの当時の様子を、知り合いのノルウェー人建築家が、実業家シーボーム・ラウントリーに宛てた手紙に書き残している。ラウントリー氏は、ユーナの祖父が働いていた製菓会社ラウントリー社の2代目会長。社会改革事業にも積極的に乗り出しており、エベネザーのガーデン・シティ運動の支援者でもあった。
手紙には、新しいガーデン・シティ建設のために長年目をつけていた土地がオークションに出ることになったこと、それを知ったエベネザーが猛烈な情熱と勢いで資金をかき集め、土地を競り落としたことが書かれていた。数日後に行われるオークションに向けて短期間で2万7,000ポンドの資金を集めたエベネザー。資金の一部はオークション当日に集まったという。70歳で、決して裕福ではないエベネザーが、自分のためではなく、人々の生活を向上させることを夢見て、この多額の負債を抱え、新たな街の開発に乗り出したのだった。
こうして建てられたのが、ウェリン・ガーデン・シティである。
By Cmglee - Own work, CC BY-SA 4.0, Link
エベネザーもウェリン・ガーデン・シティに1921年に移り住んだ。1924年には彼の功績が認められ、大英帝国勲章が授与された。また1927年にはナイトの称号を得たが、翌年1928年に亡くなった。
遺体はウェリン・ガーデン・シティからレッチワースに運ばれ、沿道で多くの人が見送ったという。
エピローグ
ウェリン・ガーデンシティには、街の中心に彼の功績を讃える記念碑が建てられている。
ロンドンの厳しい住環境を目の当たりにして、私利私欲に走らず、ただただなんとかしたいと奔走した曽祖父。理想を現実にすることには多くの困難が伴っただろうが、長い時間をかけてそれをやり遂げた。そして今、彼の信念、アイデアが世界中に広がっている。
彼の功績だけでなく、彼がどんな人間だったかと部分を知るにつれ、曽祖父を誇りに思う。
エベネザーの死後もガーデンシティは発展し、多くの人が移り住んだ。そんな中にいたのが、ユーナの祖父母アーサーとアニーの一家だった。そしてその4年後、ユーナの両親は結婚した。全く違う背景の2人だが、ガーデンシティがあったからこそ、一緒になった縁だった。
ひとこと
「シャーロック」のキャストとして有名なユーナ・スタッブスの回を紹介しました。シャーロックのキャストはこの他にも2人、番組で紹介されています。
familyhistory.hatenadiary.com
familyhistory.hatenadiary.com
ユーナ・スタッブスは現在80歳。とてもチャーミングで可愛らしい話し方をする人。テレビや映画の出演数はかなりのものだそうで、番組にも紹介されていたチョコレートのコマーシャルなど、テレビ女優の先駆けでもあるそうです。日本でいうと、黒柳徹子さんともちょっとかぶる感じですね。
この番組で興味深かったのは、まずイギリスのチョコレート会社のこと。ラウントリー社をはじめ、フライ、キャドバリー社など、どれもクエーカー教徒によって始められたのだそうです。アルコールの代わりとしてココアを売っていたというのも、もともと宗教的な考えから始まったようなビジネスが、こうやって大きくなったのは面白いと思いました。社員に対する待遇も、当時にしてみればかなり進歩的。番組では、「当時のフェイスブックのようなもの」という社員のプロフィールを記した社報なども出てきました。
ラウントリー社は現在はネスレに買収され、今ラウントリーのブランドで残っているのは、フルーツのグミキャンディのようなものばかりで、チョコレートはもう作っていないようです。しかし当時、ヨークはチョコレートの街だったみたいです。
エベネザー・ハワードが提唱したガーデン・シティのアイデアは、世界中に広まり、Wikipediaではこの思想に基づいて建築された都市として、田園調布も挙げられていました。上にも地図を載せましたが、ガーデン・シティ、街の中心には広い公園があり、明らかに他の街とは違う様相をしています。今もここに住む人は多いですが、どんな暮らしぶりなのか気になりますね。
Seb Alfano films in Welwyn Garden City
Welwyn From the Skies! Bebop drone footage
ガーデン・シティをドローンで撮影した映像色々
番組ではユーナさんはハートフォードシャー生まれ、と紹介されていましたが、実際は、ハートフォードシャーにあるウェリン・ガーデンシティ生まれ。彼女も、ひいおじいさんが作った街で生まれていました。