【司会者:リズ・ボニン】インド、フランス、そして奴隷 - 人種のるつぼカリブ海から来た先祖
プロローグ
リズ・ボニンはイギリスの動物・科学番組の司会者。フランス生まれ、アイルランド育ち。
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母はカリブ海トリニダードの出身で、インド、ポルトガル系の血を引く。父はカリブ海に浮かぶフランス領マルティニークの出身のフランス系。
おそらく他にも色々混じっていて、自分の人種が何かと聞かれるとうまく答えられない。
自分の先祖は、いつどういった理由でカリブ海にやってきたのか。そして特に気になっているのが、プランテーションで奴隷を所有していたかだという。
母のルーツ、トリニダードへ
まずは母方のルーツを知るため、子供の頃良く夏休みを過ごしたというトリニダードへ。
トリニダードはカリブ海の島の中でも最も人種が多様なところで、母方の祖父はインド系であった。
奴隷制が廃止された1845年以降、それに代わるさとうきびプランテーションの労働力として、インドから約15万人がトリニダードにやってきたという。
現在トリニダードの人種構成の中でも、こういったインド系の子孫が一番多い。
曽祖父ジョージと曽祖母アグネスの写真、また、ジョージが教会のメンバーに囲まれて写っている写真が見つかる。どちらもインド系の人々がきちっとした洋装をして写っているものであった。
成功するための西洋化
サンフェルナンドのキリスト教会を訪ねるリズ。そこでは、曽祖父ジョージもこの教会のメンバーで、そこで結婚式をあげたことがわかった。
結婚証明書から、曽祖母の旧姓が「セルジュ(Serju)」であること、その父親の名はティモシー・セルジュであることもわかった。
ティモシー・セルジュもまた教会の主要メンバーであった。
インド人の先祖が洋装をしたキリスト教徒であることに多少の違和感を覚えるリズ。
しかし当時、キリスト教に転向することは、新たに教育の機会を得、社会的に上昇することを意味した。
ティモシーの死亡広告記事が見つかったが、そこには12人の子供がいたこと、また最終的には大きな商店を経営し、広大な土地を所有するなど非常に成功していたことがわかった。
イギリス植民地時代、社会・経済的にどこに位置するかは、肌の色や宗教など、人種的要素が大きく左右した。
この枠をうち破り成功するには、キリスト教に改宗し、西洋化していくことが非常に重要であった。
インド人としての伝統を失っていくことは残念ではあるが、家族、子供の将来のためには、必要な選択だったのである。
インドからの移民記録
親戚が持っていた古い写真。そのうちの1枚に、ティモシーとその兄弟、そしてサリーを着た母親が写っていた。
それぞれの人物の横に名前が書いてあるが、兄弟であるのに皆苗字が違う。
ティモシー・セルジュの「セルジュ」は家族の苗字ではなく、ティモシーのインド名であることがわかった。
彼らにはもともとインドの苗字がなかったので、西洋名とインド名を組み合わせて名前としたのだった。
ティモシー・セルジュの死亡証明書を確認してみると、彼の出生地はインドと書かれてあった。それを見てなぜか涙が出てくるリズ。
1872年のインドからの乗船名簿を調べると、当時8歳のセルジュの他、マンガル、アダー、ブンシーと、写真に書かれた4人の兄弟のインド名が見つかった。
母の名前はスダニー、父親はアナンディー。カーストは農業に従事する「コリー」。ウッタル・プラデーシュ州ラクシュマンプール村の出身であることもわかった。
自分のインドのルーツがはっきりわかったリズ。
高祖父の働いたプランテーションへ
インドからトリニダードへは、船で3ヶ月かかったという。
またインドからの渡航費用と引き換えに、プランテーションで5年間働く必要があった。
インドからの乗船名簿は、そのまま労働契約書でもあり、そこには「労働に適した体格、健康である」など、ある意味奴隷の記録と変わらない内容が書かれていた。
ティモシー一家は、トリニダードの南、パルミストと呼ばれるプランテーションで働いた。
そこにあった砂糖精製工場の跡地に向かうリズ。
ここでの労働は朝6時から、時に夜9~10時まで続くこともあったという。奴隷ではないとはいえ、住まいは以前奴隷が暮らしていたバラックだったりと、状況的にはあまり変わらなかったとも言える。
8歳でトリニダードにやってきたティモシーもプランテーションで働かなければならなかったが、このプランテーションは比較的「リベラル」なところだったため、学校に通うこともできたという。
実際、ティモシーは18歳で学校の教員となっている。おそらく移住後すぐに学校に通えたのではと考えられる。
トリニダードに行かずインドに残っていたら、低いカーストから脱することもできず、教育を受ける機会もなかったかもしれない。
先祖がインドの文化を失いトリニダードで西洋化していったことは悲しいが、自分は低いカーストに生まれたわけではなく、その苦労もわからなかっただろうから、そこばかりにこだわるのはフェアではないだろう、と考えるリズ。そしてトリニダードで成功した先祖をとても誇りに思う。
父のルーツ、マルティニークへ
リズの父はフランスの植民地であったマルティニーク出身で、フランス系。マルティニークは、さとうきびプランテーションと奴隷制度の歴史がある島である。
マルティニークのビーチ
リズはここに住む祖母にとても懐いていて、休みのたびに遊びに行っていた。おばあちゃん子であったという。
ここに住む叔母とともに、祖母の家だったところを訪れるリズ。子供の頃いとこたちと遊んだ記憶がよみがえる。
乳児だった祖母が、数人のきょうだいと写っている写真が出てくる。きょうだいが皆黒い服を着ているのは、母親が亡くなった直後で喪に服していたからだという。また、父親も数ヶ月前に亡くなっていた。
祖母の父、リズの曽祖父の名はアシル・グロデゾモ (Achille Gros Desormeaux)。少し変わった苗字であるが、マルティニークのフランス人として、プランテーションをいくつも持っていたという。
このため、奴隷も所有していたと思う、と叔母。奴隷制が廃止された後も、奴隷の一部は家族とともに残ったと、叔母は伝え聞いていた。
奴隷所有者だった先祖
祖母とよく遊びに行ったというビーチを訪れるリズ。
ここで先祖に関する書類を見せられる。
まずは曽祖父アシルとその妻の結婚証明書。そこからアシルの父の名前がルイ・マリーといい、1828年生まれということがわかった。
マルティニークで奴隷制が廃止されたのは1848年。当時20歳だったルイ・マリーが奴隷所有者だった可能性は低いという。
ルイ・マリーの父、リズからは5代前の先祖、フランソワ・アレクサンダーは、プランテーションを複数所有する大地主で、彼のプランテーションが一部まだ残っているという。
向かったプランテーションで見せられたのは、1838年に書かれた彼の所有財産リスト。
そこには7人の奴隷の名前が記されていた。名前の他に年齢、そしてそれぞれの「値段」も。
ルイ・ザン、47歳、1111フラン。
その娘、ベルナディン、18歳、1200フラン・・・
読みながら涙が止まらなくなってしまうリズ。思わずカメラを止めてもらう。
自分の家族に奴隷所有者がいるかもしれないことは予測していたけれど、実際に「所有物」としての奴隷の名前を目の当たりにしたショックの大きさは予想外であった。
この風景の中に奴隷がいて働かされていた、また自分の家族がそれに関わっていたことを想像すると、とても辛い、と語るリズ。
先祖と奴隷の驚くべき関係
フランソワ・アレクザンダーは地主としてどのような人物だったのだろうか。
1835年のフランソワ・アレクザンダーの結婚証明書が見つかる。妻の名はマリー・ジョセフ。さらにここでは、この届けが出された際、子供が8人いたことが記されていた。
結婚に漕ぎ付けるまでに子供がそれだけいたということは、2人は当時の社会が許さないような関係に2人はあったのだろうか。
さかのぼり、1831年の書類を見て「うわー」と頭を抱えるリズ。
そこには、マルティニーク総督府が、マリー・ジョセフとその子供6人を、奴隷から解放することを認めた書類であった。マリー・ジョセフは奴隷であった。
つまり、1828年生まれの高祖父ルイ・マリーは奴隷として生まれていたということでもあった。
奴隷所有者が奴隷を性的虐待し、子供が生まれることはよくあることであった。しかしこの場合、2人の間にはロマンスがあったようだ。
奴隷制度の時代のことをあまりロマンチックにしたくはないけれど、奴隷所有者として、自分の先祖は少しでもましな人間だったのかもしれない、とリズ。
さらなる事実
自分の息子が奴隷と結婚したことに対しての、彼らの両親の態度はどのようなものだったのだろうか。
フランソワ・アレクザンダーの父の名も、フランソワ・アレクザンダー。ここでは父をシニア、息子をジュニアと呼ぶ。そして妻の名前はポーリーン・ゾエ。
1804年に生まれた、ジュニアの弟、マーク・アントワンの洗礼記録が見つかる。
そこには、母であるポーリーン・ゾエが混血であること、母ポーリーン・ゾエは子供を2人産んだ後に、奴隷解放されたことが書かれていた。
奴隷と結婚したの母も元奴隷であり、ジュニアもまた混血であったのだった。
グロデゾモ家の歴史について、リズの遠い親戚が書いた本が見つかる。
そこには、シニア自身は白人で、彼の父はマルセイユからやってきたフランス人であることが書かれてあった。
ポーリン・ゾエとは彼女が奴隷だったこともあり、公式な結婚はしなかったが、シニアは彼女が自分の伴侶だということを公言していた。またそれは当時、非常に稀なことであったという。
しかし奴隷を伴侶としたことによる社会的な風当たりが無かったわけではない。このためシニアは、家族や子孫を社会や、混血の家族に不利となる法や制度から守るためにも、プランテーションの中に自分たちの世界、自分たちの楽園を作り上げようとしたという。
ポーリン・ゾエに全てを託したシニア
シニアのプランテーションの一部が今も残っており、その場所はデゾモ(Desormeaux)と呼ばれていた。
デゾモを訪れた先に集っていた老人たち。
「ここら辺は皆グロデゾモだよ!自分たちもグロデゾモの一族だ」
1831年、シニアが97歳で亡くなる2年前に書かれたという遺言状。そこには、ポーリン・ゾエとその子供達に全ての資産を残す、と書かれていた。
1831年は、白人が自分の資産を、人種にかかわらず奴隷から解放された人物に残すことが法的に許されるようになった年だという。
シニアは95歳でようやく子供を公的に認知し、伴侶であるポーリン・ゾエに資産を残すよう手配することができた。長生きしたおかげで、タイミング的にもラッキーであったと言える。
1848年、フランス政府は奴隷制を廃止する。その際、奴隷所有者には政府から賠償金が支払われた。そしてその支払先はポーリン・ゾエであった。
シニアの死後、彼の所有していた奴隷を受け継いでいたのである。
自らも奴隷であったが、その後解放され、さらに奴隷所有者になった。元奴隷の女性が奴隷所有者になる、というケースは非常に稀だったと考えられる。
エピローグ
祖母の墓参りをするリズ。
ポーリン・ゾエの人生は、まるでローラーコースターのようだった。そんな人生を生き延びた彼女はすごい女性だったのだと思う。
さらに自らも奴隷だった彼女が、のちに奴隷所有者になることはとても大変なことだったのではないだろうか。奴隷を彼女に遺したシニアの意図はわからないが、ポーリーン・ゾエを愛したのだと思う。
ひとこと
リズ・ボニンという人物を私は知りませんでしたが、彼女の多彩なバックグラウンドは、日本生まれ日本育ちの私にはちょっと想像できない複雑さ。これでは確かにあなたは何人?と聞かれると、何人、とひとくくりにする意味があるのかもわからなくなってしまいます。
彼女はフランス語ももちろん堪能で、マルティニークでは叔母さんも含め、現地の人達ともずっとフランス語で会話していました。
その語り口や、明らかになる先祖の過去に対する素直な反応が、なぜか見ていてとても好感が持てました。
あまり馴染みのないカリブ海の歴史も、非常に興味深かったです。
奴隷としてやってきたアフリカ人、そしてその後、それに変わる労働力としてやってきたインド人、そして植民地支配者としてやってきたヨーロッパの人々・・そんな人達の子孫が共存する、まさに人種のるつぼ。
トリニダードにいる彼女のいとこは完全に白人のおじさんでしたが、彼にとっても故郷はヨーロッパではなくて、このカリブ海の島なんだな、ということがなぜか不思議に思えたり。
番組で紹介されたトリニダードの街では、普通に中国人のおばちゃんも道を歩いていました。
先祖が奴隷所有者だったかどうかということは、非常にセンシティブな問題で、アメリカ版でも南部出身の有名人が、自分の先祖が奴隷を所有していることを知ってショックを受けたり、憤りを感じたりするエピソードがあったりしますが、この回は、その中でも2世代に渡る奴隷所有者と奴隷との結婚、また元奴隷の女性が奴隷所有者になった・・という点でとても印象的な回でした。
特に最初に奴隷を伴侶としたシニアは、家族や子孫を守るためにも、自分達の楽園のようなプランテーションを作ろうとしたということで、あの時代にあってなんて素晴らしい・・と一瞬思ったのですが、それでも結局は他の奴隷は奴隷としてキープしていたのですよね。プランテーションの運営に労働力は必要だったろうし。
番組では先祖の情報を時系列にせず、さかのぼる形で紹介していたので、しばらく気づかなかったんですが、それが彼の死後ポーリーン・ゾエに渡り、息子のジュニアも奴隷所有者だったと。
そしてジュニアも奴隷との間に子供が何人も生まれても、長い間パートナーを解放せず、しばらくは奴隷のままだったという・・。
人権とか博愛とか、そういう理由で奴隷を解放したというよりは、所有者の目に止まり妻となり解放されたラッキーな奴隷がいた、ということなのかなあ、とも思ってしまいました。
ひとこと、の欄のはずがずいぶん長くなってしまいましたが、リズ・ボニンの自然科学番組はこんな感じです。
Meet Alucia - Galapagos: Episode 1 Preview - BBC One
<イギリス版、2016年>
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