世界のセレブ・ファミリーヒストリー

英・米・豪・加で放送されている「ファミリーヒストリー」的番組 Who Do You Think You Areの興味深いエピソードを紹介します。セレブの家族史を通じて、世界の知らなかった出来事が見えてくる。今の世界を知る上でも、個人を知る上でも、色々興味深いこと満載です。

【俳優・マーティン・フリーマン】シャーロック相棒のルーツ:前線で亡くなった祖父、盲目の曽祖父

プロローグ

TVドラマ「シャーロック」のワトソン役などで日本でも有名な俳優、マーティン・フリーマン

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b5/Martin_Freeman_during_filming_of_Sherlock_cropped.jpg

5人兄弟の末っ子であるマーティンは、10歳の時父を亡くした。父がいなくても大丈夫と、気丈に振る舞う子供時代だったが、年齢を重ねるごとに、父の不在は堪えたという。

父のことについて知る機会もなかったマーティンは、父のルーツについて知りたいと考えている。

ダンケルクで亡くなった祖父

兄から話を聞くマーティン。祖父レナードは、父が10歳の時、第二次大戦で亡くなったと聞いている。ダンケルクの戦いで亡くなったらしいが、詳細は不明。

国防省から祖父の記録を取り寄せる。そこにはRAMCに入隊、1940年5月25日、戦闘中に死亡とあった。ダンケルクの戦いが始まったのは、5月26日。やはり祖父はダンケルクで亡くなったのだろうか。

帝国戦争博物館に向かう。ここでRAMCとは、Royal Army Medical Corps、 英軍衛生部の略であること、祖父は第150医療部隊に属していたことが明らかになった。

1940年、フランス、ベルギー国境から迫ってきたドイツ軍は、国境北部だけでなく、南部からも重装備で迫ってきた。

劣勢だった連合軍は、北部へ追い詰められ、フランス北部海岸沿いの街ダンケルクから34万人の兵士が撤退した。撤退中にもドイツ軍からの爆撃は続き、祖父が属した衛生部隊は負傷兵の対応に追われたという。

British troops retreat dunkerque.png
By Frank Capra (film) - Divide and Conquer (Why We Fight #3) Public Domain (U.S. War Department): http://www.archive.org/details/DivideAndConquer, Public Domain, Link
ダンケルクから撤退するイギリス軍兵士

実際の撤退が始まったのは5月26〜27日。祖父はまさに撤退開始の数日前に亡くなっている。

残された部隊日誌には、5月25日、ルフトヴァッフェドイツ国防空軍)からの爆撃あり、2人死亡13人負傷、と記されていた。名前は書かれていなかったが、これが祖父なのだろうか。

祖父の部隊へ

マーティンは詳細を確かめるため、部隊の本部である、ヨークシャーの街、ハルに向かう。

ここでレナードが衛生兵として、戦地で医療補助を行っていたことがわかった。ダンケルクでは、多くの部隊が海岸へと急ぐ中、医療部隊はドイツ軍の爆撃で負傷した兵士達の手当に奔走したという。

さらに詳細な戦闘記録が残されていた。そこには、部隊が爆撃されたこと、フリーマン二等兵が死亡したことが書かれていた。

たった一行の記録だったが、それを読み言葉を失うマーティン。

さらにマーティンは、本部内のある建物に案内される。その壁には戦没者碑が埋め込まれており、そこには亡くなった祖父の名前も刻まれていた。祖父の部隊からは9人が犠牲になったという。

ここにずっと祖父の情報も、名前を刻んだメモリアルも存在していたのに、それを自分が今、初めて知ることに不思議な感慨を覚えるマーティン。

今までぼんやりとした存在でしかなく、ほとんど思い出すこともなかった祖父の名前が、目の前に現れた時の衝撃。祖父の存在をようやくリアルに感じることができたが、今まで知らなかったことも悔やまれる。

視覚障害者だった曽祖父

レナードの家族についてさらにルーツをたどる。

レナードの出生証明書から、曽祖父リチャード・フリーマンは1853年生まれで、オルガン奏者だったことがわかった。祖父レナードは父が56歳の時に生まれている。

曽祖父リチャードが18歳の時の国勢調査を確認すると、備考欄には、生まれた時から盲目であると記載されていた。彼の居住地も、寄宿制の盲学校であった。

ロンドン王立盲人協会(Royal London Society for the Blind)に当時の記録が残っていた。

生徒がスポーツをしたり、様々な訓練を受けている当時の写真を見るマーティン。またリチャードの入学申込書も見つかった。そこにはフリーマン家には子供が5人おり、盲目のリチャードの世話や十分な教育に手が行き届かないことから、この学校に入学を希望する旨が書かれていた。まだ、彼が在学中、嘘をついて学校をサボり、怒られた記録も見つかる。

ビクトリア時代視覚障害者への教育はほとんど行われず、視覚障害を持つ子供は、将来物乞いなどをして生活することを余儀なくされる場合も多かった。

そんな中、子供を盲学校に入学させ、教育や職業訓練を受けさせようとしたリチャードの両親は、進歩的だったと言える。

ここでピアノ調律の技術を身につけたリチャード。盲学校では、視覚障害者にふさわしい技術として、音楽の訓練も積極的に行われていた。特にオルガニストやピアノ調律師といった技術は、かご編みなどといった他の技術よりも、経済的にもより有利であった。

サセックスでの裕福な暮らし

盲学校卒業後、リチャードはロンドンから南に1時間ほどいったところにあるサセックスの街ワージングで調律師として職を得ている。

当時の地元新聞に、彼のビジネスの広告も見つかった。

またリチャードは、地元セント・アンドリュース教会のオルガニストでもあった。

St Andrew's Church, West Tarring, Worthing.jpg
By The Voice of Hassocks - Own work, Public Domain, Link
現在のセント・アンドリュース教会

当時の教会の会報に、リチャードが教会で行ったオルガンコンサートのレポートが残されていた。そこからはバッハやハイドン、グノーなどの多くの難曲を、全てリチャードが暗譜し演奏していたことがわかる。

現在もリゾート地であるこの街は、当時高級住宅地として開発が進んでおり、上流階級の人々によるピアノの調律や音楽の需要が十分にある街であったという。

1881年国勢調査では、リチャードはここで結婚し、子供も2人もうけ、とても大きな家に住むなど、中流階級としての生活を満喫していたようである。

1891年の国勢調査では、子供は全部で6人に増えていた。しかしその年、最初の妻が心臓病で亡くなる。

ほどなくして同年、リチャードは2番目の妻と再婚。しかし1894年、リチャードは何らかの理由で教会のオルガニストの職を辞していた。

教会の会報には、「教会員には周知の理由により、オルガニストの職が空席になった」と書かれており、何らかのスキャンダルがあったと思われるが、詳細は不明である。

さらに1901年の国勢調査では、家族がバラバラになっていることがわかった。2番目の妻の名前は消えており、子供のうち1人は1895年に死亡。2人はロンドン、2人はサセックスに移り、1人の消息は不明。特に妻の足取りはこれ以上わからず、死亡証明書も見つからなかった。

3度目の結婚

1901年の国勢調査ではさらに、リチャードが3度目の結婚をし、ヨークシャーの街ハルで音楽教師としての職を得ていたことがわかっている。

妻エイダはリチャードより20歳若く、自らも音楽教師であった。また2人の間には、子供が6人生まれており、そのうちの1人がマーティンの祖父レナードであった。

ハルにエイダの孫がまだ住んでいると聞き、会いに行くマーティン。エイダは3歳の頃に視力を失ったこと、家事は裁縫なども含めて全てこなし、点字本を図書館から借りて、様々な文学を読むなど、教養にも溢れる人物だったという。

1915年にリチャードが64歳で亡くなると、その後2度再婚したという。

子供の死と梅毒

国勢調査では、家庭で生まれた子供の数、そしてそのうち現在生存中の子供の数を書く欄がある。そこから、リチャードとエイダの間にいる子供6人の他に、夭折した子供がさらに6人もいることがわかった。

当時の子供の死亡率は15〜20%であったが、子供の半分が亡くなるというのはやはり何かあったのだろうか。そして残りの6人の子供は、なぜ生き残ったのだろうか。

亡くなった子供のうち4人の死亡証明書を見つけることができたマーティンは、それを持って小児科医を訪れる。

証明書の死亡理由は、未熟児、栄養不全などで、皆生後数ヶ月、時に数時間で亡くなっていた。水疱瘡、はしかを初めとする、目に見える症状がなかったこと、結核も疑われるが母親は90歳まで長生きしたことなどから考えて、一番疑われるのは、梅毒であるという。

さらに性病の専門家に話を聞くマーティン。

まず死産や早産だったケース、その後健康な子供が生まれたケースの間に、何年のギャップがあるかを確認するという。エイダの場合は、約8年。

梅毒に感染した妊婦が健康な子供を産む確率は、梅毒に感染した期間が長いほど高くなり、感染から健康な出産までにはだいたい4~6年ほどかかるという。

梅毒は20世紀初頭にペニシリンが発見されるまで、その強力な感染力から、ペストに次いで恐れられていたという。感染すると、顔や身体中の湿疹、そして角膜が濁り視力を失う。

エイダが3歳で視力を失ったのも、もしかして梅毒が関係しているのだろうか。

エイダの出生証明書から両親の名前を突き止め、そこからエイダの兄の死亡証明書を見つけることができた。エイダの兄は生後3ヶ月で、母子感染による先天性の梅毒が原因で亡くなっていた。

それからあまり間を置かずに生まれたエイダも、先天性梅毒にかかっていた可能性が非常に高いという。

ただし、出産時の問題から見て、エイダは2度感染している可能性があるという。おそらく2度目は、リチャードからの感染だと思われる。

当時のイギリスでは実に10人に1人が梅毒に感染していたため、これはそれほど珍しいケースではなかったという。

エピローグ

視力を失い、梅毒に2度感染したエイダであったが、6人の子供を育て、2度再婚し、90歳まで生きた。先祖をたどっていくと、このような驚くべき人物が必ず家族にいるもの。そして、自分はそういった素晴らしい人達によって生み出された存在である、ということに感慨を覚えるマーティン。

ひとこと

「シャーロック」の他にも「ホビット」を始めハリウッドでも活躍するマーティン、この回が放送された2009年は、テレビドラマ「The Office」が代表作として紹介されており、世界的にブレークする前でした。この番組では、出演者の自宅内部が撮影されることも多く、イギリスの有名人はずいぶんとつましく、普通の生活をしているな・・というところも垣間見えて興味深いです。

パトリック・スチュワート父親はフランス前線でも南でドイツ軍と戦っていましたが、マーティン・フリーマンの祖父は同時期に北の前線で亡くなっていました。

ただ従軍前の祖父の話がなかったり、曽祖父一家の調査については、国勢調査、出生・死亡・結婚証明書のみで調査を済ませてしまっている感もあり。2番目の奥さんや一部の子供の足取りがつかめなかったりもしましたが、ちょっと調査が表面的な感じもしないでもない回でした。

でも梅毒が昔はこんなに広がっていたなんて、驚きです。今は何かあるとすぐ抗生物質をもらえますが、そんなものがなかった時代、もっとちょっとした病気で死んでしまう人も多かったでしょうし、こうやって今はあまり見られない病気(と言いつつ、日本ではまた広がりつつあるというニュースも見ましたが)と共存していた人達も多かったのでしょうね。医療の進歩には感謝です。

<イギリス版、2009年>
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