【俳優:アラン・カミング】インパール作戦:日本軍と戦った祖父の死の謎を追う
プロローグ
ミュージカル「キャバレー」でトニー賞を受賞、映画「X-Men」などにも出演している俳優、アラン・カミングはスコットランド出身。
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第二次大戦中軍人だったアランの母方の祖父、トム・ダーリン。復員後も家には戻らず、その後銃の事故で亡くなったが、実際に事故だったのか少し怪しいという。
自宅に飾られている写真でしかしらない祖父の足跡、そして死の謎を追う。
母の話
「証拠を集めに行くミス・マープルみたいな気分だな」と母に話を聞きに行くアラン。
祖父トムは1916年生まれ。2歳で両親を亡くし、叔母に育てられた。17歳でキャメロン・ハイランダーズと呼ばれるスコットランドの部隊に入隊。駐留先で祖母と出会い結婚、アランの母も含め、子供を3人もうけた。
軍人だった父はフランスやビルマに駐留していて、家にはほとんどいなかった。軍では、オートバイに乗り、本部から各部隊に命令を伝えるクーリエの役割をしていたという。
家には祖父の遺品として、オートバイの試験に合格した際にもらったビールジョッキ、従軍手帳(正直で信頼できる人物、と書かれていた)、そして勲章が残っていた。勲章はどのような経緯でもらったかはわからないという。
母が祖父に最後に会ったのは、戦争が終わった8歳の時。除隊後は、マラヤ(現在のマレーシア)で警察官となり、1951年、現地で銃の掃除をしている際、残り弾に当たって亡くなったと聞いている。
キャメロン・ハイランダーズ
キャメロン・ハイランダーズについて知るため、エジンバラへ向かう。
この部隊は特に隊員間のつながりが強く、家族的な雰囲気がある部隊だったという。早くに両親を亡くしたトム。もしかしたら家族のようなつながりを求めていたのかもしれない。
By War Office official photographer - http://media.iwm.org.uk/iwm/mediaLib//40/media-40043/large.jpg
This is photograph H 655 from the collections of the Imperial War Museums.
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軍での記録では、1933年に兵站での調理を担当、高い評価を得ていた。1939年、試験に合格しメカニックに。試験は厳しい環境の中、オートバイで野山を走るもので、実家にあった記念ジョッキはその時のものだった。
1939年、部隊はフランス、ラ・バッセーでドイツからの攻撃に備えていた。しかし実際にやってきたドイツ軍の攻撃力は、見たこともないような圧倒的なものだった。イギリス軍はどんどん北部に追いやられ、最終的にはダンケルクからイギリスへ退避。
当時24歳のトムは、そのような中、自らの命も顧みず、前線にいる部隊にオートバイで情報を伝えた功績が評価され、メダルを受け取っていた。
ラ・バッセーの戦い
祖父が功績を残した状況について知るため、フランスに向かう。
ラ・バッセーにはライフル部隊が駐留、ドイツ軍が運河を渡ってダンケルクに向かおうとするのを必死に食い止めていたが、ドイツ軍の戦車が次々と現れる。
祖父はそんな中、隣町ヴィオレーヌにある本部からオートバイを飛ばし、前線の部隊にメッセージを伝えるだけでなく、機関銃や弾丸などの物資を運ぶため、何往復もしたという。
戦いの場所となったのは、さえぎるものは何もない平地で、祖父のオートバイは、まさに「射撃場に入り込んだ鴨」状態だった。武器を積んでいた箱に弾が当たれば、武器や銃弾もろとも爆発する恐れもあったが、マシンガンからの銃弾が飛び交う中を、祖父は走り抜けた。
スティーブ・マックイーンの戦争映画みたいだ、とアラン。祖父の向こう見ずなところに感嘆する。
一方で専門家は、トムは上司の命令に従うしっかりした兵隊だったということだろう、と指摘する。また長年所属する部隊は家族同然であり、前線で苦戦している仲間を見捨てておけないという気持ちもあったと考えられる。
しかしドイツの戦車部隊の威力にはかなわず、部隊の4分の3が戦死、行方不明となってしまった。トムは本部に退避、ダンケルク経由でイギリスに戻ったが、フランスで戦ったキャメロン・ハイランダー800人のうち、イギリスに帰還できたのはたった79人だけだった。
この戦闘による肉体的な疲労よりも、精神的な打撃のほうが大きかったに違いない。祖父の戦う姿はカッコよくもあるが、そのトラウマを考えるとなんとも言えない。しかし当時はPTSDなどへの認識はあまり無く、戦闘のトラウマ治療を受ける兵士はそれほど多くはなかった。特に前線の兵士は、恐怖心をコントロールし、そのエネルギーを戦いに向けるよう訓練されたという。戦場から戻れば、その時のトラウマやストレスは、そのまま自分の中で処理して、次の戦闘に向かうしかなかった。
インドへの派遣、日本軍との戦い
1942年トムはインドに送られ、ジャングルでの戦闘訓練を受ける。
ビルマ経由でインドへの侵攻を目指す日本軍は、1944年、インド・ビルマ国境のコヒマに進軍していた。トムの部隊は、斜面にいる日本軍を上から急襲する作戦に出る。
命知らずの軍隊として恐れられていた日本軍との戦いは、捕虜になれば殺される恐れもあり、戦いは非常に緊迫したものであった。
トムの従軍手帳には、5月18日に銃傷で野戦病院に収容された記録があった。左手、右ひざ、足首を撃たれていたが、専門家は、これはおそらくライフルで撃たれたのでは無く、砲撃か手榴弾などによる負傷だと推測する。戦闘の2週間後には、デラ・ダンと呼ばれる場所の病院に収容されるが、7ヶ月後には遠く離れたムンバイ近郊のデオラリ(Deolali)に搬送され、2ヶ月を過ごしている。
従軍手帳には入院の記録があったものの、軍の公式記録は、1941年までのトムの戦闘記録は残っているものの、次の記録が1946年に飛んでいた。どうもページが1枚紛失している。
イギリスの古いスラングに「doolally」という言葉がある。一時的に気が狂った、という意味で、トムがいたデオラリ(Deolali)がまさにその語源となっている。ここには軍事病院の精神病棟があったのだった。フランスで多くの仲間を失った戦闘、そして日本軍との交戦、負傷。トムが受けた精神的ダメージは大きかった。
しかし戦後も、戦争の精神的トラウマから、治療を受けたということに対するスティグマは大きかったといい、このような記録は組織立って破棄されたらしい。今でもPTSDが問題になっているのに、軍が自らそんな情報を破棄するなんて。一方で、まるで戦闘マシーンのように思えていた祖父が、より人間らしく見えてきた、とアラン。
日本軍との交戦の記憶
日本軍の戦いは、一体どんなものだったのか。退役軍人会に連絡したところ、トムと同じ部隊に所属し、彼を覚えているという人が現れた。
現在89歳の戦友は、トムが25歳の時、19歳で入隊。トムは上司だったという。当時にしては背が高かったので、「ビッグトム」と呼ばれており、大きくて強そうで、実際に強かったという。すでにフランスでの戦闘経験があり、勲章ももらっているトムは仲間からも尊敬される存在だった。
1944年5月、コヒマ北部の村で、トムたちの部隊400人は、日本軍を見下ろす位置についた。トムはその中でも前線部隊にいた。
暗くなって日本軍の銃が火を吹き始め、銃弾が飛び交う激しい戦闘が続いたという。そして激しい雷雨が起こりはじめた午前2時半、雷の閃光とともに、日本軍が二手に分かれてイギリス軍の上手に回りこみ、この世のものとは思えないような恐ろしい叫び声、そしてバンザイと叫びながら銃剣で襲いかかってきた。この急襲により、部隊は散り散りになり、105人が戦死・負傷・行方不明となった。トムもこの間に負傷したようだ。
By Official photographer of No.9 Army Film and Photographic Unit. -
This is photograph IND 3698 from the collections of the Imperial War Museums (collection no. 4700-38)
, Public Domain, Link
戦闘のトラウマが祖父にあったと思うか?とのアランの問いに、戦友は、あの時代にはそんなものはなかったんだよ、というより、あっても気づかなかった。自分もそんなものはないと思っていた。でも自分も戦争から戻り、夜中に上官の名前を叫んで妻に起こされたり、子供が後ろに回り込んで驚かそうとするのに過剰反応して子供を怖がらせたりした。ストレスが無かったわけではなかったんだよ、と目に涙をためて答えた。
その後トムはイギリスに戻り、家族と再会するが、それが最後だった。帰国後は4年間、軍で事務職についていたが、その後も家に戻ることはなかったという。
マラヤへ
1949年、トムはマラヤの警察官になる。除隊し、家族と別れてからは、バイクの部品販売の会社に就職したが、それは1年と持たなかった。戦場での生きるか死ぬかの生活から、穏やかな郊外の暮らしには馴染めなかったようだ。
警察官になる申込書の婚姻欄は「別居中」となっていた。実際、海外からの帰還兵が普通の生活に戻れないケースは多く、軍でも問題になっていた。トムは家族への送金は絶やさなかったが、その後子供に会うことはなかった。
当時イギリスの植民地だったマラヤ(現在のマレーシア)でトムは警部補となった。独立の機運があがるマラヤでは、1948年ごろから共産党ゲリラによる植民地攻撃が激しくなっていた。
共産党と現地の人々のつながりを断つため、植民地政府は、新しい村を建設、約50万人を強制的に移住させた。村には物資が支給されたが、周りはワイヤで囲まれるなど、共産党ゲリラと接触できないようになっていたという。
トムはこういった新しい村のパトロールを行うと同時に、村人達からの信頼を勝ち取る必要があった。しかしマラヤ赴任後7ヶ月で、トムは35歳の若さで亡くなった。
死の真相
クアラルンプールに飛ぶアラン。
マラヤで発行された死亡証明書を取り寄せる。死因は頭部の重傷。司法解剖の結果、右耳の後ろから銃弾が入り込んでいたという。そんな風に銃を掃除するとは考えられないし、自殺するにも不自然な位置。もしかして、誰かに撃ち殺されたのでは・・と言ったところで外で大きな雷が鳴る。
トムが赴任していたチャーという村へ向かう。
ここは当時ゲリラ活動のホットスポットで、警察によるパトロールが昼夜行われていた。
当時同じ警官隊にいたイギリス人に話を聞く。トムは村の警備を担当していたが、彼の役割はジャングルを見回り、共産党員がいれば捕まえて殺す、というものだった。殺した遺体は村に持ち帰り、駐在所の前に並べて晒したという。
By British official photographer - http://media.iwm.org.uk/iwm/mediaLib//55/media-55381/large.jpg
This is photograph MAL 35 from the collections of the Imperial War Museums.
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マラヤ警官による「パトロール」
遺体の身元確認のためであったが、共産党員に関わらないよう、見せしめの意味もあった。村の警備担当だったトムであるが、駐在所の前に死体が並べられると、その後処理は彼の担当だったという。
トムが亡くなった時、自分はその場にはいなかったが、と死の真相を語り始める同僚。
「彼は死ぬつもりは毛頭なかったとは思うが、ロシアンルーレットをやっていて死んだんだ。」
特にロシアンルーレットが現地で日常茶飯事に行われていたわけではないが、トムはしょっちゅうこれをやっていたらしい。自分でも公言していたし、地元の人達も知っていた。慣れた人なら、ピストルの感覚で弾がどこにあるかわかるのだと、地元のコーヒーショップで地元の人から金を集め、ギャンブル的にやっていたようだ。
この時ばかりは注意が足りなかったのか、運が尽きたのか、両方か。と語る同僚。あまりの予期せぬことに文字通り言葉を失うアラン。
地元の人々の愛情
トムのことを覚えていた地元の人に会うアラン。父親がマレー人コミュニティのリーダーで、トムと親しかったという兄弟。当時トムは尊敬の念を込めて、「トワン・ダリン(ダーリン、トムの苗字)」と呼ばれていた。毎日村中をパトロールする時は、子供たちが「トワン・ダリン!トワン・ダリン!」と手を振るなど、村人たちからは愛されていたという。
マレーシアにはマレー人、インド人、華人コミュニティがあるが、これらのコミュニティのリーダー達皆んなで飲みに行くなど、7ヶ月の駐在期間ではあったが、地元の人々の心を掴んでいたようだ。
トムが亡くなった後、地元の人達は街の遊歩道に「ダーリン・ウォーク」とトムの名前をつけて、敬意を表したという。「ダーリン・ウォーク」を訪れるアラン。
そこは公園の中にある遊歩道で、大きな看板も建てられていた。彼が亡くなったコーヒーショップも現在公園になっている敷地内にあった。
ロシアンルーレットというショッキングな亡くなり方をした祖父。一方で地元の人達が祖父に尊敬と愛情の念を抱き、地球の反対側で、彼を記念したこんなものを作っていてくれたなんて、と感動するアラン。トム・ダーリンはきっと疾風のように人生を最大限に駆け抜けた人だったんだと思う。
トムの最後と残された家族
ロシアンルーレットで亡くなったのは本当なのか、クアラルンプールのナショナル・アーカイブで公的記録を探す。
ファイルから出てきたのは、祖父が亡くなった日の警察の電報。そこにはパトロールから戻ったトムがコーヒーショップに行き、同僚警官に銃を貸すよう要求、銃弾を5つ抜き、シリンダーを回して自分の耳の上に当て、引き金を引いた、という報告が書かれていた。証言は本当だった。
祖母に祖父の死を知らせる手紙も残っていた。そこにはレボルバーを触っていた時の不慮の事故で亡くなった、と書かれていた。
そして、子供たちが父親を覚えておけるようなものが何もないため、遺品をぜひ送ってほしいという祖母からの手紙。
そして次の書類には、祖母宛てに遺品を送ったが、引き取り料金の4ポンドを祖母が払えないため、1年もの間荷物がリバプールの港に留め置かれている、と書かれていた。読みながら涙ぐむアラン。
その後家族は荷物を引き取ることができたが、祖父の死因が死因だったため、警察からの金銭的支援はこれで途絶えたという。
エピローグ
彼の生き方、戦場での経験を考えると、このような死に方をしたことはあまり驚かない。今も昔も、命を投げうち戦う兵士に対する感謝や尊敬の念を人々は持っているとは思うが、兵士が払う代償ー戦場でのトラウマやストレスを引きずって生きていかなければいけない、ということに人々はあまりにも無知ではないだろうか。祖父の人生は、まさに戦争のトラウマが生み出した悲劇だったように思う。
事実を知るのは辛いが、知らない方が辛いこともある。
ひとこと
まるで映画でも見ているようなおじいさんの人生。でもやはり大きなテーマは、戦争によるトラウマがその後の人生にどれだけ影響するか、ということ。帰還兵のPTSDについては、現在も十分な理解を得られていない部分もあり、兵士の仕事はリスペクトされている、と口ではいうものの、その後の社会適応に関する問題や支援はまだまだな部分も多いと感じることも多々あります。
俳優パトリック・スチュワートのお父さんも戦争でのPTSDに悩まされ、それが家族に大きな影響を与えていました。
第二次大戦後の日本でも、きっと似たケースは多かったのではと思います。生きるか死ぬかの状況を経験してきたのに、まるで何もなかったかのように日常が流れている環境に戻る・・というのはとても孤独で辛いものでしょう(とはいえ、敗戦国日本ではまるで何もなかったような日常とはいえず、今度は焦土からの復興、と国を立て直すことを頑張らないといけなかったので、また戦勝国と敗戦国の帰還兵は状況がちがったかもしれません。逆に打ち込めることがあったほうが、よかったのかどうか・・)。
今回のエピソードでは、生き証人からの話を聞く場面が多かったですが、最後にちゃんと公的書類や記録にもあたって、その真偽を確かめていました。今でもちゃんと、おじいさんがなくなった時の警察と遺族のやり取りが残っているのは驚きでした。日本でも「ファミリーヒストリー」という番組をNHKでやっていますが、情報をかなり証言や記憶に頼っている部分も多いかな、という印象を持っていました。しかし先日放送していたオノ・ヨーコさんの回では、家族の間に伝わっている曾祖父母のあまりにドラマチックな出会いについて、古文書をあたってその真偽を確かめる場面があり、少し改善されたのかな、と思ったりもしました(話が少し飛びました)。
日本軍と交戦した話、これはインパール作戦と呼ばれているものの一部だったんですね、「コヒマの戦い」で調べると日本語でも、日本側の証言や情報が色々出てきて興味深かったです。イギリス側から見ると、日本の兵士はかなり恐ろしい存在として捉えられていて、戦友の証言でも、とにかく日本の兵士がこの世のものとは思えないような甲高い恐ろしい声をあげて襲ってくる、というのがかなりのトラウマになっていたようでした。
でも実際日本側の証言を見てみると、このインパール作戦というのはかなり無謀すぎるものだったらしく、日本軍の兵士は飢えに苦しみ、戦闘とは関係ないところでも多くの犠牲者が出たりと、かなり過酷な状況だったようです。そんな中での戦いは、ほぼ捨て身のものだったようでした。
双方の視点から見る戦い、勝っても負けても兵士は不幸。としかいいようがありません。
最後はロシアンルーレットで亡くなったおじいさん。多くの戦友を失い、自分の命の重さも、もうわからなくなってしまったのかもしれません。
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