【司会者:アニータ・ラニ】祖父のもうひとつの家族、インド・パキスタン分断の悲劇
プロローグ
アニータ・ラニはイギリスのジャーナリスト、レポーター、テレビ番組の司会者。
telegraph.co.uk Photo: Andrew Crowley
イギリス、ウエストヨークシャーで生まれ育ったアニータ。自分は伝統的なインディアン・ガールではないと考えている。
小さい時から、「女の子だから」してはいけないことがある、ということにいつも疑問を持っていた。
母の家族はパンジャブ州出身のシーク教徒だが、自分は英国教会の学校に通った。様々な宗教に触れた上で、今は無宗教だという。
母方の祖父の名前は、サン・シン。ターバンを巻き、ヒゲを生やし、完全にシーク教徒の格好をしている写真が残っている。
サン・シンは祖母と結婚する以前に一度結婚していて、子供もいたようだ。
しかし「パーティション」、インド・パキスタン分離独立の混乱で、最初の妻も子供も亡くなった、という話を聞いたことがある。が、それ以上のことは誰も知らないようだ。第一、パーティションの頃の話など誰もしたがらないのだという。
自分が生まれる前に亡くなったこの祖父について、もっと知りたい。
誰も知らないサン・シンの過去
ママジー(母方のおじさんの呼び名)の家に両親、親戚が集合して、祖父サン・シンについて話し合う。
祖父母が結婚したのは1948年。軍人の祖父の写真や、インド独立を記念した軍のメダルも見つかった。
サン・シンは今のパキスタンで生まれたと思うが、何年に生まれたか、誕生日を誰も知らない。
また最初の妻や子供の名前も、誰も知らなかった。
確か息子がいたと聞いているが、パーティションの際に息子は殺され、妻は井戸に身を投げたと聞いているという。
入隊記録からわかったこと
インドに飛ぶアニータ。
まずは祖父の軍での記録を調べに、首都ニューデリーへ。
家族が持っていた祖父の写真は、カシミールの軍事訓練学校で撮ったものだった。その後、サン・シンは26歳で英印軍(イギリス領インド軍)に入隊している。
入隊記録からさらに色々な情報が明らかになる。生まれたのは1916年。
そして父の名前はデルー・ラム。
なぜか苗字が違っていた。
また入隊前、モントゴメリー地区の運河局に勤務していたこともわかった。
イギリス風の地名であるが、今はパキスタンにある地域だったという。妻や子供もここに住んでいたようだ。
1947年、長年イギリスの植民地だったインドが独立を宣言。
同時に、ヒンズー教徒が主体であるインドと、イスラム教徒が主体であるパキスタンに、国は分裂した。
この「パーティション」により、パンジャブは、インド、パキスタンの二つに分断されてしまった。
パーティションが起きた時、サン・シンはボンベイの南、カーキーというパンジャブ州からは遠く離れたところで勤務していたが、残された家族は分断の混乱の真っ只中にいたと考えられる。
おじからの小包
インドに住むおじから小包が届く。中に入っていたのは、祖父が綴った手書きの自叙伝だった。
そこに書いてあった祖父の名前はサン・シンではなく、サン・ラム。
そして父の名はデルー・ラム、母はドゥンディー。
母ドゥンディーは、サン・シンが子供の頃に、村を襲った伝染病で亡くなったという。
村の名前はサルハリと言った。
家族の間では、パキスタン側で生まれたと思われていたサン・シンであるが、実はインド側にあるパンジャブの村出身であることがわかった。
一族の村へ
サルハリ村に向かうアニータ。
子供の頃からこのエリアにはよく遊びに来ていたというが、祖父の生まれた村に行くのは初めて。
村を襲った伝染病は、一体なんだったのか。サルハリ村で専門家から話を聞く。
第一次世界大戦の終わりごろ、「スペイン風邪」と呼ばれるインフルエンザが大流行した。このウィルスは戦争中、塹壕の中から広まり、1920年頃には、5000万人の死者を出すなど猛威を振るった。
ヨーロッパで第一次大戦に参加していたインドの軍隊が地元に戻り、インドにもこのウィルスが広まった。
当時の記録によると、病院では遺体を処理する暇もなく次々と人が亡くなったため、外も遺体や瀕死の病人でいっぱいになったという。これにより、インドでは1400万人もの死者が出た。
サン・シンの母もこのスペイン風邪の犠牲になった。
さらに驚くことに、サン・シンはもともとヒンズーの家庭に生まれていた。
しかしこの地域では、長男はシーク教徒にする習わしがあり、サン・シンもシーク教徒となった。その際「シン」というシークの苗字に変えたようだ。
By Loughlin (Sgt), No 2 Army Film & Photographic Unit -
This is photograph NA 11188 from the collections of the Imperial War Museums (collection no. 4700-39)
Version retrieved from sikhnet.com, Public Domain, Link
第二次大戦中イタリアの前線で戦うシーク教徒の兵士
また軍の記録には、彼のカーストは「ジャート」と書かれていたが、本当は壺などを作る陶工カーストである「タガー」の出身だという。
陶工だと軍人として箔がつかないので、農耕と軍人の背景があるジャートの出身だと嘘を書いたらしい。
アニータの親戚に当たるタガー一族が村に集まってくれた。一族の長ハージンダの祖父と、アニータの曽祖父がいとこ同士だという。村をあげての歓迎を受けるアニータ。
サン・シンが軍から村に戻ってきた時はまだ子供だったというハージンダ。パーティションの時、最初の妻、そしてサン・シンの父もパキスタン側にいて、そこで亡くなったと聞いてはいるが、妻や子供の名前を含め、詳細は知らなかった。
モントゴメリー地区への移住
サン・シンが入隊前にしていたモントゴメリー地区の仕事とは、一体何だったのか。
パンジャブとは5つの川、という意味で、その川に囲まれた地域の一部が、当時モントゴメリー地区と呼ばれていた。
イギリスの植民地政府はこのパンジャブ地方に9つもの運河を作り、実に600万エーカーの土地が灌漑する一大事業を行った。これにより多くの人々が、より良い暮らしを求め、この地域に移り住んだという。
By Zenit - Own work, CC BY-SA 3.0, Link
一方で、そこに住む「ジャングリー(未開の民)」という蔑称で呼ばれていた遊牧民系の人々は土地を追われることとなった。
妻を亡くしたサン・シンの父も、モントゴメリー地区に移住、商人として成功。村に残っていたサン・シンを呼び寄せ、教育も受けさせた。その後サン・シンは20歳で結婚し、運河での仕事も得るなど、順風満帆の生活を送っていたのであった。
第二次大戦が始まると、イギリス植民地政府は、英印軍への入隊希望者を募る。すでにカシミールで軍隊教育を受けていたサン・シンも入隊した。
そして電気技師部隊に所属していたサン・シンは、パーティションが起こった時にはインド南部に派遣され、家族とは離れ離れになっていたのだった。
インド・パキスタン分離独立(パーティション)とは
1947年、インドは独立を宣言する。その2日後に、イギリス政府はパキスタン、インドの国境を設定した。これにより、たった一晩でモンゴメリー地区はパキスタンになってしまった。
自分の居住地がイスラム教徒の支配下に置かれてしまったサン・シンの家族。
パーティションにより、彼らだけでなく、イスラム教徒、ヒンズー教ともに、それぞれ異なる側に置き去りにされてしまった人達が大量に生まれた。
さらにヒンズー教徒、イスラム教徒間での暴力的な衝突が多数発生した。特にモントゴメリー地区は、ヒンズー教徒に対する襲撃が最初に起きた場所だったという。
パーティションの悲劇
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ここで、当時を経験した84歳の老人に話を聞く。
彼の父は村の長であり、息子が6人、娘が2人、そして孫も多数いた。パーティションが始まり、村にイスラム教徒がやってきて、家族の中から女性を差し出せば、家や他の家族には手出しをしないと要求してきた。
しかし彼の父親や村の男性達は、村の女性がそんな辱めを受けるくらいならば、自分たちの手で妻や娘達を殺す、と、大きな剣を手に持ち、娘達を一人一人呼んだという。娘達は黙って父の横に座り首を差し出し、斬首された。
この他にも、近くにあった井戸に80人以上の女性が飛び込み亡くなったという。あまりに多く飛び込んだため、15分で井戸は死体で一杯になったという。その間、子供と息子達は、無傷であった。
あまりのショックな話に涙を流すアニータ。
村の男性達の判断に大きな怒りを感じる。女性の運命を男性が決める世界に憤りも感じる。また同時に、そういう判断を受け入れ、自分から井戸に飛び込んだりする女性の勇気にも驚く。とにかく自分は今すごく混乱している、と語る。
このパーティションは、1400万人が避難する、世界最大の強制移動となった。
パキスタン側に残されたヒンズー教徒はインドへ、インド側に残されたイスラム教徒はパキスタンへと逃げた。
今までとなり同士生活していた人達の間に敵対関係が生まれ、それぞれ襲撃しあい、100万人もが犠牲になった。
Fair use, Link
インドからパキスタン側に逃げるイスラム教徒
その中でも女性に対する扱い、被害は恐ろしいものであったが、長年その詳細は語られることはなかった。が、最近になって少しずつ表面化されてきたという。
当時を回想する手記が残っている。
「パーティションでは、レイプされたり誘拐されるよりはと、多くの女性が自殺した。それは勇気ある行動、家族や村のために崇高な犠牲を払った、とも言われるが、それは男性視点での話である。ヒンズー教徒達は、自分たちの娘を井戸に投げ入れたり、生き埋めにするものもあった。焼き殺されたり、感電死するよう、電線をつかまされた者もいた。レイプされ、顔がわからなくなるまで乱暴され、そのまま放置された女性も多かった。そんな女性を見て、家族達は助けないどころか、今後どうしたら良いかわからない、こんなことなら生まれてこなければ良かったのに、と言った」
このようなことは、一部の村で起きたわけではなく、いたるところで起きていたという。
たった2世代前にこのようなことが起きていたことを知り、血が煮えたぎる思いにかられるアニータ。
これでは、女性より牛だったほうが生き延びる確率は高かったのではないだろうか。
サン・シンの家族
軍のアーカイブをさらに調べたところ、サン・シンの家族の情報が明らかになる。
妻の名前はプリタム・コー。パキスタンでの動乱の際死亡、と書かれていた。そして息子の名前も確認できた。
さらにサン・シンには娘もいた。名前はマヒンドラ。パーティションの時6歳だったようだ。今まで話にさえ出てこなかった娘の存在に驚くアニータ。
あまりにも色々な情報が出てきて、何かはわからないが、自分の中で何かが変わった気がする。思いもしなかった話を色々聞いて、芯からショックを受けた。今まで聞いたことを、自分の中でどう処理すればいいのか。様々な思いにかられるアニータ。
祖父が昔を語らなかったのも理解できる。話すと言ってもどこから話して良いかもわからなかっただろう。でも知ったからには、彼の子供である自分の母やおじおばたちにも知らせたい、と思う。
情報はここにあった、でも誰も聞かなかった
1948年、サン・シンはアニータの祖母と再婚。6人の子供をもうけ、パンジャブ地方東部の村に住んだ。今も長男であるおじがそこに住んでいる。
おじに会いに行くアニータ。
今までにわかったことをおじに話すアニータ。おじも自分の父親に以前娘がいたことは知らなかったと驚く。
しかし、息子のことは聞いていたという。
息子の名前はラジ。何と写真も持っていた。色あせた小さな子供の写真は、サン・シンが持ち歩いていたものだという。周囲に誰もいない時などに、取り出しては見ていたようだ。
さらに妻の写真も残っていた。
ノーベル賞受賞したマララさんにそっくりにみえるんですが・・
一度だけ聞いた話によると、馬に乗って避難中、地元のジャングリー(土着の住民)が投げた槍がまず子供であるラジに当たったのだという。それから一緒に馬に乗っていたサン・シンの父が引きずり降ろされ、殺された。
この話はおじが7、8歳の時に聞いたという。「私はおじいさんの謎を追うためにずっと旅してきたというのに、おじさんは知っていたのね。でも何で今まで教えてくれなかったの?」という問いに、「だって誰も聞かなかったからな」と答えるおじ。
1975年、アニータが生まれる数年前に、サン・シンは亡くなった。
エピローグ
祖父の息子ラジや、最初の妻プリタム・コーの写真を見る事ができたのが特に素晴らしい経験だった、とアニータ。最初の妻の写真を見て、何か不思議なつながりを感じた。マヒンドラの写真がなかったのは残念だったが、その存在を知る事ができたのは何より良かった。
ガンジス川のほとり、ヒンズー教の聖地であるハリッドワーを訪れるアニータ。
By Julian Nyča - Own work, CC BY 3.0, Link
インドでは、巡礼の際、聖職者のところを訪れ、家族の記録を残してもらう事が習わしとなっている。今回わかった祖父の最初の家族の死について記録してもらうため、アニータも聖職者のところに向かう。
村の名前ごとに管理されている大きな巻物には、何百年という家族の情報が記されている。
見てもらうと、1948年、再婚する数ヶ月前にサン・シンがすでにここを訪れ、パーティションで亡くなった家族の供養してもらっていた事がわかった。
サン・シンの次に訪れたのがアニータ。サン・シンの2番目の家族、自分の母やおじ、おばの情報を代わりに登録してもらう。
祖父がどんな人だったのか、ここからもよくわかる、とアニータ。最初の家族が生き延びていれば、自分は生まれる事がなかったことを不思議に思う。でも歴史は自分を通じてもまた続いていくことは、素晴らしい。
ひとこと
今回もあまり日本では知られていない、イギリスの有名人のエピソードをご紹介しました。
その個人を知らなくても、このようなエピソードを見ると、今までなんとなく覚えていたインド、パキスタンの分断の歴史が、よりパーソナルに見えてきます。そしてもっと色々知りたくなります。
インド人というと、ターバンを巻いた、というイメージがまだ強いでしょうか。しかしこれは北部パンジャブ地方のシーク教徒という少数の人達の習慣です。彼らは神様からもらった毛を切ったり剃ったりせず、ターバンでまとめます。また背が高く、体格が良く、兵士といえばシーク教徒、というイメージもあります。
またヒンズー教とは違い、カーストに寄る差別がありません。シーク寺院に行った事がありますが、お祈りのあとは皆で集まりご飯を食べるのも特徴で、これも階級に関係なく皆で平等に食事をする事を大事にしているからだそうです。
ヒンズー教徒の一家からシーク教徒を出す慣習があるというのは初めて聞き、面白いなと思いました。でも実は日本人でも希望すればシーク教徒になれるそうですよ。
それにしても、宗教は人を救う面がある一方で、同じくらい問題を引き起こしますね。さらに、辱めをうけるぐらいなら・・と自らの家族の手で殺される女性の話は、恐ろしいものでした。男性が全て主導していた世界だったとはいえ、亡くなった息子のことは家族の中に伝えられていても、娘の存在は完全に忘れ去られていたのも不憫でした。
でもこういう話、昔の日本に置き換えても、ありえますね。戦国時代だけでなく、それこそ第二次大戦中だって、ありましたね。
それが当たり前、当時は仕方ないこと、と思ってはいけません。
いつも読んでいただきありがとうございます。
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