【首相の母:マーガレット・トルドー】イケメンカナダ首相のルーツは、アジアにあった!
プロローグ
カナダ首相、ジャスティン・トルドーの母、マーガレット・トルドー。
By Simon Fraser University - University Communications - https://www.flickr.com/photos/sfupamr/23754802184/, CC BY 2.0, Link
1971年、当時の首相で、30歳年上のピエール・トルドーと結婚、首相夫人となった。
3人の息子をもうけたが、のちに離婚。
息子の一人が、現在の首相ジャスティン・トルドーである。
By Radio Television Malacañang (RTVM) - [1], Public Domain, Link
離婚後は、暴露本を出版したり、ローリングストーンズのメンバーと噂になるなど、その言動が話題に。映画にも出演した。
一方、首相夫人であった頃は、周囲の目や重圧に苦しんだ。また息子の一人をスキー事故で亡くす悲劇にも見舞われている。
アジアにルーツ?母方の先祖の謎
マーガレットの父、ジェームス・シンクレアはカナダ政府の閣僚も務めたビジネスマン。シンクレア家については、多くの情報が伝えられているが、母方のルーツについては、わからないことが多いという。
母方の祖父の名前は、トーマス・カークパトリック・バーナード。
当時植民地であったインドネシア生まれで、1906年、15歳の時に家族とともにカナダに移住した。
曽祖父、チャールズ・バンドン・バーナードはシンガポール生まれのイギリス人。植民地での貿易に従事。
曾祖母アニー・オリファントはオランダ人で、インドネシアのゴムプランテーション所有者の娘であった。
当時の写真を見ると、多くの召使を抱えた、植民地での豪奢な暮らしが見て取れる。また曽祖父の顔立ちは、何となくアジア人の血が入っているようにも見える。
バーナード家には、アジア人の先祖がいるという伝説があるが、詳しいことはわからないのだという。
また、曽祖父からさらに3代遡ると、シンガポール創設の立役者の一人で、シンガポール理事官となったウィリアム・ファーカー(Farquhar)に行き着くという。
バーナード家のルーツを探るため、シンガポールに飛ぶ。
ラッフルズとの政争に敗れた先祖
東南アジアでの貿易拠点として、イギリスが創設した植民地、シンガポール。ウィリアム・ファーカーはどのような役割を果たしたのかを知るため、国立図書館に向かう。
1774年スコットランド生まれのファーカーは、17歳で東インド会社に入社。マラッカを統治するなど、東南アジアでの経験が豊富な軍人であった。
By
Unknown - [1]., Public Domain, Link
植民地での経験を買われ、ファーカーはシンガポール創設者であるスタンフォード・ラッフルズにシンガポール理事官としての役割を任命される。ラッフルズがイギリスに帰国している間、シンガポールの実質統治を行った。
しかしシンガポールの開発方針などをめぐり、ファーカーとラッフルズの意見は衝突する。
ラッフルズは海岸の利用は植民地政府のみの専有とし、開発を控えるよう指示。しかし地元の貿易商達から働きかけを受けたファーカーは、海岸沿いの土地を一部利用可能にするなど譲歩した。
また地元の文化への理解もあったファーカーは、ギャンブルや闘鶏も許可した。
ラッフルズの思惑とは違う植民地開発を進めていったファーカーは、ラッフルズと対立を深め、とうとう1823年、イギリスへの帰還命令が出されるに至った。
30年間に渡る東南アジアでの滞在後、シンガポールを離れることになったファーカー。
当時の記録では、彼を慕う様々な階級の人々が、数千人規模で彼の船を見送ったという。見送りの人々は歌を歌い、鐘を鳴らし、人々の目には涙が浮かんでいた、とあった。
ファーカーは政争には負けたけれど、とても同情心あふれる人物であったのではないか、とマーガレット。それは自分の心情にもつながるものを感じるという。
ウィリアム・ファーカー・コレクション
現地の言葉も覚え、東南アジアの自然に興味を持ったファーカーは、マラッカ赴任中、現地の画家に依頼し、東南アジアの草木や動物などの博物がを描かせている。
By
Unknown (anonymous Chinese artist). - [1]., Public Domain, Link
これらは現在貴重な資料として、シンガポール国立博物館で「ファーカー・コレクション」として展示されている。
博物館を訪れるマーガレット。
そこにはさらに、地元の華僑グループがファーカーに贈ったという、銀の豪奢な燭台も展示されていた。
彼は政争に敗れ、シンガポールの創設者として大きく名を残すことはできなかったが、この地域を愛し、現地の人からも愛され慕われていたという学芸員の話に大きく頷き、涙ぐむマーガレット。
ユーラシアンのルーツ
バーナード家に伝わるアジア人の先祖の謎は一体どこから来ているのか。
シンガポールではおなじみの、ラッフルズ・ホテルに向かうマーガレット。
ファーカーの妻の名前はアントワネット・クレメントといい、彼女の父親はフランス人。そして母親は地元のマレーシア人女性であった。
アジア人の血は、ファーカーの妻から来ていたのであった。
植民地においては、ヨーロッパからやってきた役人や貿易商と、現地の女性が結婚することはそれほど珍しいことではなかった。アントワネット・クレメントの父親も、植民地の役人であったという。
ファーカーとアントワネット・クレメントは25年間の結婚生活の間に6人の子供をもうけたが、帰国の辞令が出たファーカーは、シンガポールに家族を置き帰国の途についた。
ファーカーは帰国後昇進、その後スコットランド女性と再婚し、さらに子供をもうけた。
しかし彼が現地の家族を完全に捨てたというわけではなく、十分な資産を置いて帰国したとのことである。
このラッフルズ・ホテルが建っている土地も、彼が残した資産の一部であった。
ファーカーの長女エスター・ファーカーが、フランシス・ジェームス・バーナードと結婚。ここでバーナード家とファーカー、そしてアジア人の先祖との繋がりが生まれたことがわかった。
フランス、そしてマレーシアからの先祖がいることがわかったマーガレット。
当時のシンガポールは、このようなヨーロッパ人とアジア人の混血である「ユーラシアン」の人々が新たな文化を生み出していた。
By Tropenmuseum, part of the National Museum of World Cultures, CC BY-SA 3.0, Link
バタビアで撮影された、ユーラシアンの子供達
ユーラシアン協会を訪れるマーガレット。マーガレットの家族も、いわば、シンガポールのユーラシアンコミュニティの一員であった。マーガレットは現地の人々と交流し、誕生日も祝ってもらう。
エスターのその後
バーナード家の最初のユーラシアンであるエスター。
フランシス・ジェームス・バーナードとは、ファーカーがシンガポールの責任者になる前後の1818年に結婚した。
フランシスはカルカッタ生まれのイギリス人。家柄は良かったが、当時すでにイギリス軍からドロップアウトしており、ファーカーがシンガポールの港での仕事を世話した。
しかし義父ファーカーがラッフルズとの政争に破れたため、その後、その職もラッフルズの関係者に奪われてしまう。
その後はシンガポールの警察署長の職についたが、1827年、貿易に乗り出そうと、オランダ領東インドで船を購入。現地に向かったまま2年経っても戻ってくることはなかった。
残されたエスターは5人の子供を抱え、行き場を失う。当時、エスターが金銭的な援助を東インド会社に求めた記録が残っていた。援助無しでは完全なる貧困に陥ってしまう、という懇願であった。
その後、政府からの援助があったかどうかの記録はないが、9年後の1838年、エスターは41歳で亡くなった。
By Matt Kieffer. - Flickr: Gothic Gate entrance to Fort Canning Park, Singapore., CC BY-SA 2.0, Link
エスターが埋葬されているシンガポール中心部の墓地、フォート・キャニング・グリーン
墓地を訪れたマーガレット。壁に埋められた墓石を見つけ、辛かったであろう晩年に思いを馳せる。
エピローグ
エスターの墓参りをし、山の事故で亡くなった自分の息子のことを思い出すマーガレット。彼の墓も山にあるため、訪れるのが大変であるが、先祖の墓もこうしてまた遠いところにあった。
人生は豊かであると同時に悲しみも多いが、こうやって先祖に敬意を表する機会があって嬉しい。人は死んでも魂は生き続けるというが、エスターの魂を感じた気がする。そしてシンガポールがとても居心地の良い場所に感じる。
ひとこと
トランプに疲れはてたアメリカ人の間では、その対極にあるリーダーとして、カナダのジャスティン・トルドー首相を見ている感じがあります。若くてイケメン、難民を受け入れ、多様性を大事にしていく・・・。トルドーのイケメンぶりやそういった行動が、羨望と共にフェイスブックでシェアされることも度々。
カナダ人に言わせると、政治家として、そんないい所ばかりでもないようですが、隣の芝は青く見えるのでしょうね。
今回は、2シーズンしか続かなかったカナダ版より、首相の母、マーガレットさんの回をご紹介しました(放送時はまだ息子は首相ではなかった)。
このお母さんもかなりなキャラクター。もともとヒッピーだったようで、そんな奔放さに30歳年上の当時の首相ピエール・トルドーも惹かれたのだとか。
結婚するまで2人の関係は秘密にされており、首相とのハネムーンの様子がいきなりテレビで放送されたとかで、まさしく電撃婚。
離婚後、元夫となったトルドー氏が選挙に敗れた日、ニューヨークのスタジオ54で踊り狂っているところが激写され、選挙翌日の新聞のトップを飾ったそうです。
親権は元夫が持ち、慰謝料などもなかったことから、金銭的にも苦労し、暴露本の出版などにつながったようです。その部分でも、もしかして先祖のエスターと自分を重ねたところがあったかもしれません。
ウィリアム・ファーカーについては、短い番組の中ではさらっと説明されただけですが、実際シンガポール設立に大きく貢献した歴史上の人物で、彼に関する出版物なども色々と出ています。
シンガポールを新たに植民地にするにあたっての、現地の有力者との交渉やお膳立てなども、もともとはファーカーが最初は全てやったようです。
彼の統治スタイルは、地元の文化や流れに任せるといったものだったようで、おかげでシンガポールは活気に満ちた街になったようですが、一方で阿片窟なども出来るなど、色々と猥雑な発展の仕方をしてしまったのが、ラッフルズさんの怒りを買ったようです。
番組の中では紹介されなかったバーナード家のその他の先祖達も、全員バタビア生まれ、またエスターのイギリス人の夫もカルカッタ生まれ。
シンガポールやマレーシア、インドネシア、そしてインドなど、長年植民地支配が行われた場所では、母国よりも、その土地で生まれ育ち、アジアを故郷とするヨーロッパ人も多かったのでしょう。
それもまた、何となく不思議な感覚ですが、この番組を見ていると、世界は本当に色々な人々の移動や流れで出来上がっているんだな、ということを実感します。
<カナダ版、2008年放送>
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