【フットボール選手:エミット・スミス】奴隷、混血・・200年前の先祖の過酷な歴史
プロローグ
ダラス・カウボーイ、アリゾナ・カーディナルズのランニングバックとして活躍した元フットボール・プレイヤー、エミット・スミス。
By John Trainor, CC BY 2.0, Link
プロジェクト(低所得者用住宅)出身の彼は、フットボールで大きな夢をつかむことができたというが、家族のためにも自分のルーツを知りたいと考えている。
最終的にはアフリカから来たと思うが、どこの誰につながっているのか、それがわかったとき、それが自分にどんなインパクトを与えるのか、興味はつきない。
バーンド・コーンへ
エメットの家族はフロリダ州ペンサコーラ出身。しかし祖父母のバックグランドについては、ほとんど何も知らないという。
それは食べるものにも事欠くような苦労をしたから、過去のことなど話したいとも思わなかったのだと思う、と母。
父方のルーツについては、親戚ですでに調べた者がおり、高祖父母であるビル・ワトソン、ビクトリア・ワトソンが、アラバマ州バーンド・コーン(Burned Corn)出身だというところまで突き止めていた。
まるで探偵みたいだ、とエメットはアラバマへ飛ぶ。
現在はほぼゴーストタウンのように閑散としているバーンド・コーン。郵便局を覗いてみるが、閉鎖されているようだ。
By Bruin79 - Own work, CC BY-SA 4.0, Link
バーンド・コーンの郵便局だった建物
小さな商店で話を聞いてみる。ワトソン家について情報を探している、と高祖父母の名前と写真を出したところ、「俺も子孫だよ」
ジョー・ワトソンと名乗るその男性にとって、エメットの高祖父母は曾祖父母にあたり、エメットとはまたいとこの関係であることがわかった。
さらに情報を知りたければ、モンロー郡の庁舎に行くといいとアドバイスを受ける。
パーヤーという苗字
By Wmr36104 - Own work, CC BY-SA 3.0, Link
郡庁舎のアーカイブに向かう。そこでは、過去の結婚証明書が保管されていたが、それは「黒人用」「白人用」に分けて製本されていた。
表紙に「colored(黒人用)」という文字を見てショックを受けるエメット。人種隔離政策が行われていた時代、バスで座る場所や水飲み場まで分けられていたのは知っていたが、実際にこのように文字としてはっきりと書かれているのを見るのは初めてだった。
それを見た時、セグリゲーション(隔離政策)の威力を感じたという。いかに黒人が隔離され、孤立させられ、アメリカ社会から遠ざけられていたかを目のあたりにさせられた。
1900年の国勢調査で、高祖父ビルが1862年、高祖母ビクトリアは1864年生まれであることがわかった。つまり、1865年以前に生まれた彼らは、奴隷として生まれたということになる。
彼らの結婚証明書から、高祖母ビクトリアの旧姓もわかった。それはパーヤー(Puryear)という、変わった苗字であった。
先祖が奴隷だった場合、奴隷所有者の苗字をそのまま自分の苗字として使っていることが多い。特にパーヤーという苗字は珍しいので、さらに情報を深く追える可能性が出てきた。
ビクトリアの死亡証明書から、父はプリンス・パーヤー、母はアニー・マクミランということもわかった。
ではプリンスの父は誰なのか。そしてこの「パーヤー」の苗字はどこから来ているのだろうか。
白人の血
1870年から、国勢調査にアフリカ系アメリカ人の氏名が初めて記載されるようになった。この年の国勢調査に、高祖母ビクトリアの父、プリンスの情報があった。
人種記入欄に書かれていたのは、「M」。
これはムラート、つまり混血、それも白人と黒人の混血、という意味であった。
この他にも、50代のマライアという女性、そしてプリンスのきょうだいと思われる複数の氏名があったが、全て人種は「ムラート」であった。
年齢などからマライアがプリンスを始めとするきょうだいの母親と見られる。
母親も混血とあるが、では父親はどこから来たのか。
奴隷が混血である場合、父親は奴隷所有者や、奴隷を管理している人間であると考えられる。
自分にも少しでも白人の血が入っているという事実を受け止めるエミット。酷い話であるが、こういった情報がわかるということも凄いと感じる。
マライア一家の所有者は
1850年の国勢調査でパーヤーという苗字を調べると、アレックス・パーヤーとその妻メアリーという白人の情報のみがヒットした。
アレックス・パーヤーが書いた手紙が見つかる。そこには「いいネグロが沢山手に入った」という記述があった。アレックス・パーヤーは奴隷商人であった。
彼の遺言書も見つかった。アラバマで奴隷取引をしていたアレックス・パーヤーであるが、もともとはバージニアの出身であることがわかった。
さらに妻メアリーの遺言書も見つかるが、夫から受け継いだ奴隷を、家族に引き渡す旨が書かれていた。
そこに書かれていたのは、マライアとその子供、5人の名前。高祖母ビクトリアの父の名前はプリンス・アルバートであった。
彼らにとって、奴隷は所有財産であり、彼らの名前は銀のスプーンやマホガニーの椅子、といった食器や家具と一緒に並べられていた。また家族の総額は2250ドルだとも。
土地やモノみたいに人間にこんな値段をつけるのか。このようなものを見ると、黒人が自由と平等のためになぜこれだけ戦ってきたのか、よくわかる。そしてこのような人たちが、今の自分、自分の行く道を作ってくれた。自分が経験してきたことは、彼らの壮絶な経験に比べると全くなんでもないように思える、とエミット。
パーヤー家の墓が残っていた。しかしここに立っている墓石は、白人のパーヤー家のもの。奴隷だったパーヤー家の墓は?と聞くと、フェンスの向こうの林を指さされる。しかしそこは荒れ果てた林であり、墓石も何も無い。このどこかにプリンスは眠っているという。
白人の子孫はこうやって先祖の墓に行くことができるのに、奴隷の子孫はそれも叶わない、と涙を流すエミット。
当時4歳だったプリンスは、所有者であったメアリー・パーヤーの遺言により、母親と引き離されることなく、家族全員が同じ所有者に引き渡されている。
By "Five hundred thousand strokes for freedom ; a series of anti-slavery tracts, of which half a million are now first issued by the friends of the Negro." by Armistead, Wilson, 1819?-1868 and "Picture of slavery in the United States of America. " by Bourne, George, 1780-1845 - New York Public Library, "Five hundred thousand strokes for freedom ; a series of anti-slavery tracts, of which half a million are now first issued by the friends of the Negro." by Armistead, Wilson, 1819?-1868 and "Picture of slavery in the United States of America. " by Bourne, George, 1780-1845, Public Domain, Link
当時奴隷の家族はバラバラに売られることが常であったため、これは非常に大きな意味を持つことであった。
マライアの父親
マライアの父親は誰なのか。やはりパーヤー家で生まれた奴隷なのかを探りに、バージニア州メックレンバーグ郡、ボイトンに向かう。
人口400人ほどのこの街に向かって車を走らせている間にも、「パーヤー」の名がつくタイヤ屋、花屋を通り過ぎる。
By Cnjnva - Own work, CC BY-SA 3.0, Link
アレックス・パーヤーはこの地域に最初に入植した人物の1人で、このような宿も所有していた。このポーチに奴隷を並べ、奴隷のオークションも行われていたという。
「アメリカ・ザ・ビューティフルだね」とつぶやくエミット。奴隷の歴史を知れば知るほど辛さが増す。
マライアの出自についてさらに知るため、アレックス・パーヤーの父親サミュエルの情報を探す。
サミュエル・パーヤーの権利書が見つかる。権利書は他の公的書類とともに本として製本されているが、シリアル番号として22と印字されていた。「自分がずっと使っていた背番号だ」と不思議な気持ちになるエミット。
1826年の権利書には、マライアという名前の奴隷の少女を息子アレクサンダー(アレックス)に譲渡する、と書かれていた。マライアは当時11歳。
奴隷の歴史に詳しい専門家は、恐らくサミュエルが父親だろう、とエミットに伝える。恐らく奴隷所有者であったサミュエルが、「繁殖させた(breed)」結果だという。
「繁殖」させられた奴隷
「繁殖」という言葉にショックを受けるエミット。しかし奴隷を取引するために、まるで馬を育てるように、奴隷は白人所有者により「繁殖」させらていたのだった。奴隷はまるで家畜同然だったのである。
当時発行された、この地域の馬の出生記録、そして馬の血統をイギリスまでたどることができる冊子がある。それを見て、ある意味、馬の方がちゃんと記録が残っているという点で、奴隷より良い扱いを受けていたと感じるエミット。馬さえ先祖をたどることができるのに、自分はアフリカの自分の先祖のルーツをたどることさえできない。
マライアは1815年、この地域の農場で、奴隷の母親の元に生まれた。父親はサミュエルであったことは間違いないと思われる。
大抵の場合、所有者は妻に気兼ねして、自分の子供でもある奴隷を手元に置かず、母子を他に売り飛ばすことが多かったという。
しかしマライアは11歳になり、アレックス・パーヤーに引き継がれ、彼もマライアを売らずに手元に置いていたのは、恐らく「自分の妹である」という認識があったのではないかという。
ただしマライアはレイプによって生まれたと考えられる。
サミュエルは冷酷な人間だ、でも自分の先祖でもあると複雑な気持ちになるエミット。でも自分はサミュエルのような人間ではないということは確かだ。
自分の子供が生まれたあとも、引き離されることなく一緒に暮らすことができたマライア。そして国勢調査から、生まれた長女に、アレックスの妻と同じ、メアリーという名前をつけている。そこにはなんらかの家族の繋がりが見えてくる。
片足は奴隷、片足は白人社会の中で、バランスを保ちながら生き延びてきたマライア。そして自分の子供達と離れることなく、成長を見届けることができた。
情報はこれでデッドエンド、これ以上たどることはできなかったが、約200年、6代に渡る先祖をたどることができた。これ以上の情報を知ることができないのは残念だが、マライアという強い女性を知ることができたことを嬉しく思うエミット。
遺伝子テスト
アフリカでのルーツを書類から探ることができないため、エミットは遺伝子テストも受けていた。
その結果、7% ネイティブアメリカン、 12% ヨーロッパ系、そして81%アフリカ系であるという結果が出た。アフリカ系アメリカ人で、まず100%アフリカ系であるという結果はない。81%はその中でもかなり高い割合であるという。
また、アフリカの中でも、母方、父方とも、奴隷海岸と呼ばれた地域の出身であることがわかった。
現在のベニン共和国に飛ぶエミット。
この地域は、当時アフリカでも奴隷の輸出元として第二の規模があった場所であるという。
By jbdodane - 20131010-DSC_3203, CC BY 2.0, Link
現在は博物館になっている、奴隷取引所に向かう。奴隷はここでチェックされ、選り分けられ、船に乗せられた。
ここで何があったかを考えると辛いが、ここで先祖が生き延びなければ、今の自分はいなかったと考えるエミット。
ある村の学校を訪ねるエミット。ここに通うのは、人身売買の被害者で身寄りのない子供たちだという。現在も、生活が苦しいため子供を労働力として売ることがあるのだという。
何百年前の話ではなく、今でもこうやって次のマライアが生まれていることに衝撃を受けるエミット。
エピローグ
この旅で、自分が探していたものが見つかったような気がする。アフリカの地に立ち、自分の先祖を感じ取ることができているような気がする。先祖がよく帰ってきてくれた、と喜んでいるように感じる。他にも色々な問題が見え、まさに目が開くような経験をたくさんしたと思う。アラバマの奴隷の魂の叫びも聞いた。自分の歴史、ヒストリーが「マイストーリー」になった瞬間。
ひとこと
自分のルーツを調べるには、移民記録や様々な登録情報をたどっていくのがお約束ですが、それがなかなかできないのが奴隷としてアメリカにやってきた人達の子孫。
この回は、知っているようで知らなかったアメリカでの奴隷の歴史や現実をリアルに見ることができた、結構衝撃的な回でした。
特にエミットが訪ねるアラバマやバージニアの、それこそ人がほとんど住んでいないような街の風景。開拓時代からあまり変わっていないのではないかという感じで、そこがゴーストタウンにようになっているのは非常にぞくっとしましたし、奴隷所有者であったパーヤーの名前のついた看板が、道端にどんと現れたシーンも、まるで過去の亡霊がまだそこにいるかのようでした。
パーヤーの名前がついたタイヤ屋の看板、ストリートビューで見ることができます。この地図を開けてストリートビューにして、道路の右側、右斜め後ろにちにあります。よかったら見てみて下さい。古臭い看板がさらになんとも言えない雰囲気です。
数日前には、別のフットボールプレイヤーですが、Kenny Easleyが殿堂入りし、その際に行ったスピーチで、Black lives matterに触れていました。そこで自分は奴隷の子孫、そして自分は混血である、そしてアメリカ人である、と語っており、ちょうどこのエピソードを思い出しました。
最近不穏だらけのアメリカ社会とアメリカ政治。過去は簡単に忘れられますが、ほんの200年前、こんなことが起きていたこと、そして公民権運動が起きるまで人種隔離政策が行われていたのも、本当に数十年前であることを考えると、恐ろしい気もします。
<アメリカ版、2010年>
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