【歌手:ライオネル・リッチー】謎の曽祖父、公民権運動への先駆け
プロローグ
言わずも知れた歌手、ライオネル・リッチー。
By U.S. State Department - https://www.flickr.com/photos/statephotos/38832214941/in/photolist-22ayQ4r-215bWSS-22atfBg, Public Domain, Link
アラバマ州タスキーギ生まれ。黒人の大学として歴史的にも有名なタスキーギ大学のキャンパスで育った。母、祖母ともにこの大学で教鞭をとっていたという。
自分はディープ・サウスで育ったと言うよりは、大学のキャンパスという守られた環境で育った、と語るライオネル。公民権運動が起こっている間も、ここは黒人が博士号をとったり、弁護士になれるような場所だった。両親は人種隔離政策のことについては話してくれなかったし、時にKKKが来るようなことがあれば、子供達を早く寝かせたと言う。
大学時代に結成したバンド、コモドアーズの活動を通じて、より自分の世界、視野が広がり、そして両親が自分に与えてくれた環境に感謝せざるをえなかった。しかし、自分たちにこのような環境を与えるまでにいたった最初の先祖は誰だったのか。家族の中の「ジャイアント」は誰だったのか知りたい。
語られることのなかった祖母の父
タスキーギで妹デボラに会い、話をする。1893年生まれの祖母アデレードは103歳まで生きたが、自分の父親について話すのを一度も聞いたことがなかった。
祖母の社会保障関連の書類から、祖母はナッシュビル生まれ、父の名前はジョン・ルイス・ブラウンであることがわかった。
祖母の両親、ライオネルにとっての曾祖父母の婚姻記録が見つかる。2人の結婚は1890年。
結婚当時、曾祖母は15歳、曽祖父は50歳。当時は12歳から結婚が許されたというが、2人の歳の差は当時でも普通ではなかった。12歳の娘がいるライオネルは、自分が父親だったらショットガンで撃つレベルだろう、とウッとなる。
1897年、離婚を求める書類が提出されていた。やはり歳の差がありすぎて考え方が合わないこと、2年前から別居していることなどから、離婚は認められた。
2人の歳の差を考えると、ジョン・ルイスはおそらく奴隷解放以前、奴隷として生まれた可能性がある。世代の違いだけでなく、そういった背景も考え方の違いに現れたのではないだろうかと考えるライオネル。
曽祖父が所属した団体
曾祖母が離婚を申請した際、曾祖母はナッシュビル、曽祖父はチャタヌガと離れて暮らしていた。ジョン・ルイスは妻と子供と離れ、何をしていたのだろうか。
当時のディレクトリをたどると、曽祖父の職業は、SGA、 Knights of Wise Menのエディター、と書かれていた。
エディターということは、まず彼は文盲ではなく、教育があったと考えられる。そして「Knights of Wise Men」とは一体何なのか。何かの雑誌なのか、団体なのか。
専門家に話を聞く。この「Knights of Wise Men」は、黒人による友愛組合(fraternal order - ライオンズクラブやロータリークラブもこの部類に入る)で、経済互助会的な役割を果たしていたという。特にメンバーの医療費や死亡時の補償金などを提供しており、ある意味保険の先駆けのような活動を行っていた。
南北戦争後、南部においても、黒人が政治に参与し、社会改革に取り組む動きがあった。しかしそれは白人コミュニティの反発にあい長くは続かず、改革は後戻りしてしまっていた。
そんな中、1879年、曽祖父のような先見の明がある人物たちにより、黒人を支援するためのこの組合が設立された。全国的にもこのような活動は広がり、1882年までにメンバーは278名にもなっていたという。
このような活動は、のちに公民権運動を進める原動力になったとも言える。
公民権運動の先駆的団体のリーダーだった曽祖父
曽祖父の名前の前についていた「SGA」とは「Supreme Grand Archon」という肩書きの略だった。彼はこの組合の全国的なリーダーであった。さらに、彼が執筆した、組合の規約書も見つかる。そんなに大きなビジョンを持った人だったのか、と驚嘆するライオネル。
この団体はその後どうなったのだろうか。1891年の新聞記事によると、1885年天然痘の流行の際、保険金支払いにより資金源が枯渇して存続が危ぶまれる危機に。さらに財務責任者が資金を横領して逃亡するという憂き目にもあってしまった。
1915年までには、すでに全国的な組合ではなくなっていたことがわかった。
この時期は結婚も仕事もうまく行かず、おそらく色々なことを立て直そうとしていたのではないか、と考えるライオネル。曽祖父の当時の気持ちが容易に想像できる。そして公民権運動の先駆けになるような活動をしていた曽祖父を誇りに思う。
曽祖父のその後
曽祖父が妻子と離れて暮らしていたチャタヌガに向かう。組合の活動がうまくいかなくなった後、ここに移動したようだ。
1929年のディレクトリに当時90歳のジョン・ルイスの情報が残っていた。祖母が103歳まで生きたのはこの血筋だな、と考えるライオネル。
90歳のジョン・ルイスの職業は墓地の管理人。この時点で、組合はもうなくなっていたかもしれないが、彼は生活のためにずいぶん長い間働いていたことになる。またこの墓地は23エーカー(東京ドーム2個分)と広大なものであった。90歳でそんな広い場所を管理していたことも驚かれる。
チャタヌガで成功した黒人を集めた当時の書籍が見つかり、そこでジョン・ルイスも写真付きで紹介されていた。人間は生まれた時から死ぬまで、教育がいかに大事かということが、彼の言葉で雄弁に書かれていた。
写真を見て、自分とおでこのあたりがそっくりだ、というライオネル。
ジョン・ルイスの死亡証明書。チャタヌガでなくなり、自分が管理していた墓地に埋葬されていた。また死亡証明書には、ジョン・ルイスの父親としてモーガン・ブラウンという名前が記されていた。しかし母親の名前は不明とも。
ジョン・ルイスが埋葬されている墓地を訪れる。黒人が多く埋葬されているというこの墓地は、墓石もあまりなく、うっそうとした林の中に落ち葉に埋もれた場所で、ライオネルが想像していたような場所ではなかった。
曽祖父が埋葬されているエリアを訪れるライオネル。曽祖父がここを歩き、そして今この一部になっていることを思い、涙する。
曽祖父の出生の謎
死亡証明書に書かれた、モーガン・ブラウンという名前。この父親は誰だったのか。曽祖父は奴隷だったのか、それとも自由な身で生まれたのか。
1924年、ジョン・ルイスが85歳の時に申請していた黒人向け年金記録が見つかる。曽祖父は1861年、22歳の時南北戦争に参加しており、その際の軍人年金を受け取っていたのだった。書類には、当時、自分を「所有していた人物」の名前を書く欄があり、そこにはモーガン・W・ブラウンという名前が記されていた。
所有者と言う名前が大きく響く。彼は奴隷であった。
しかし所有者、そして別の書類では父親と記されていたこのモーガン・ブラウンとは誰なのか。
専門家に話を聞く。当時、この地域にモーガン・ブラウン(ドクター・ブラウン)という医者がおり、プランテーションも所有していたという。また、ドクター・ブラウンには、モーガン・W・ブラウンという名前の息子がいたという。
なんと1839年、ドクター・ブラウンの日記が残っていた。
「この日の夜、マライアが男の子を産んだ。子供にはルイスと名付けた」
ルイスとは、ジョン・ルイスのことである。そしてマライアはドクターの奴隷であった。この時代、奴隷所有者がわざわざこのようなことを日記に記すのは珍しいという。やはりドクターが父親ということだろうか。
ただしこの時ドクターは80歳。息子モーガン・Wは39歳。どちらかというと息子が父親である可能性の方が高いが、確実なことはわからなかった。
白人の先祖
マライアが妊娠中にドクターが書き残した遺言状も見つかった。そこには、マライアと、生まれてくる子供を奴隷から解放するよう、そして住む場所と、子供には2年間の教育を与えるよう、書かれていた。奴隷に対してこのような遺言を残すことは非常に珍しい。やはり何らかの血縁があったことは確かであろう。
遺言状の内容を、息子が実際に実行したかはわからないが、解放された後に必要であれば住む土地も用意されていた。
曽祖父の父親か、異母兄弟であると思われるモーガン・Wの肖像画も見つかった。
この調査を始める時、奴隷制のあったひどい時代、こういう先祖がいるかもしれない、と言うことは考えた。実際にこうやって見ると、末恐ろしいものを感じる。しかし一方で、少しでも曽祖父やその母を守ろうとする思いがあったのことは、ほっとした。
この庇護により、曽祖父は教育を得ることができたわけだし、ある意味奴隷としての苦しみから逃れられた部分もあったかもしれない。自分が大学キャンパスという、守られた環境の中にいたのと似たものを感じる。
エピローグ
今回の調査でわかったことを子供達に伝えるライオネル。彼らのおかげで今の自分たちがあることを伝える。
今まで、曽祖父について語られなかったのは、何か悪い秘密があるからだと思っていた。祖母は何かを隠していたのではなく、単に知らなかったのだと思う。
彼らの強さ、家族だけでなく、黒人社会のために立ち上がった曽祖父の強さに驚嘆する。彼の夢が、今の自分たちの現実なのだ。
ひとこと
2月はアフリカン・ヒストリーの月ということで、アメリカでは公民権運動やキング牧師など黒人の歴史について学校でも色々と学ぶ機会がある月になっています。今月はできるだけそういったエピソードも紹介したいと思います。
南北戦争後、南部でも黒人が政治に積極的に参加するようになり、改革と平等を推し進める動きがあったこと、しかしその動きが白人により押し戻されてしまったという事実は興味深いです。今と前の政権にも何となく重なってしまいます。
以前にも奴隷制の背景についてはいくつかエピソードを紹介しましたが、必ず出てくる白人の先祖。ある意味奴隷は家畜同様だったため、所有者のレイプにより産み増やさせたという恐ろしい背景もあり、自分にそんな血が流れているということにゾッとしたり、怒りを覚えるエピソードもたくさんありました。
その中でも、所有者が血縁を認めて何とか庇護しようとした形跡が見えるエピソードもありましたが、だからと言ってハートウォーミング、と思ってはいけませんね。