世界のセレブ・ファミリーヒストリー

世界のセレブ・ファミリーヒストリー

英・米・豪・加で放送されている「ファミリーヒストリー」的番組 Who Do You Think You Areの興味深いエピソードを紹介します。セレブの家族史を通じて、世界の知らなかった出来事が見えてくる。今の世界を知る上でも、個人を知る上でも、色々興味深いこと満載です。

【俳優:デヴィッド・スーシェ】名探偵ポワロ俳優の先祖は経歴詐称?苗字「スーシェ」の謎

プロローグ

名探偵ポワロ役で人気を博したイギリスの俳優、デヴィッド・スーシェ

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By Phil Chambers from Hamburg, Germany - IMG_6979.JPG, CC BY-SA 2.0, Link

ベルギー人探偵エルキュール・ポアロなど、色々な国籍の人物を演じることができるのは、自分のルーツが様々なヨーロッパの国にあるからと考えている。

For blog post: Hercule Poirot

デヴィッドの父は医者で厳しい人だった。自分はどちらかというと、写真家だった祖父と、ミュージック・ホールの踊り子だった祖母の影響を大きく受けていると思う。

趣味の写真は祖父から学んだもの。また自分が演劇にのめり込み、厳しい父に対して自分は役者になる!と宣言したのも、祖母から受け継いだ血が騒いだのかもしれない。祖母のほかにも、家系に役者の血が入っていないかが気になる。

また水が大好きなデヴィッドは、ボートに住んでいたこともあった。現在も、地元の運河修復保存を進める会の副会長を務めるなど、水との関わりは深い。先祖に何か水に関係する仕事をしていた人や船乗りがいたかどうかも、知りたい。

商船船長だった先祖

母方の祖母のルーツをたどる。

国勢調査から、デヴィッドの曽祖父ウォルター・ジェザードの情報をたどる。ウォルターは1869年ケント州サンドイッチ生まれ。

そして彼の祖父ジョージの職業は、商船の船長。先祖の中に船乗りがいたと喜ぶデヴィッド。

グリニッジの国立海洋博物館で、ジョージの船長証書を見せてもらう。ジョージは14歳で船乗りとなった、航海歴38年のベテランだった。

さらに1860年、ジョージが船長だった帆船ハナ号が沈没した、という書類も見つかった。

当時の新聞記事を調べると、ハナ号はサフォックにあるケッシンランド沖で沈没したらしい。

手袋をはめて証拠を見るのは、今までポアロ役で何度もやってきたけれど、まさに自分の先祖のことについて、手袋をはめて古い書類を確認したり、こうやって探偵のように調査しているなんて・・!とまた嬉しそうなデヴィッド。

沈没したハナ号、意外な「再会」

事故があった海辺に近い街、ローストフトに向かう。

地元の図書館で当時の新聞を確認する。1860年5月、大型のハリケーンが発生。これにより、沖合で実に150の船が沈没、多くの犠牲者が出たという。

事故があったのは5月だったが、ロンドンの数百マイル先では吹雪が観測されるなど、天候は恐ろしく荒れていた。ジョージの船はロンドンに石炭を運ぶ途中、突然嵐に襲われたらしい。

Kessingland Beach - geograph.org.uk - 727697.jpg
By Glen Denny, CC BY-SA 2.0, Link
ケッシンランドのビーチ

船をあっという間に飲み込むような大波。沈んでいくたくさんの船、そこにしがみつく船員達。しかし次の瞬間に船はあっという間に海に消えていく。新聞には、生々しい目撃談が書かれていた。

図書館にはまた、地元の海難救助の記録が残っていた。そこには、ハナ号の船員7名が、ジョン・クレギー率いる地元の船に救助されたことが記されていた。

地元の救命艇博物館に、同姓同名のジョン・クレギーという人物がいると聞き会いに行くデヴィッド。

まさしくその人は、デヴィッドの先祖を救助したジョン・クレギーのひ孫だった。がっちり握手する二人。

ジョン・クレギーは仲間とともに漁船で船の引き上げ作業を行おうと沖に出たところで、没む直前のハナ号を発見。救助活動を行ったという。

ジョージはこの事故の後も、商船に乗り続けたという。

自分の「水」のルーツを見つけることができたデヴィッド。様々なヨーロッパの血を受け継ぐ彼だが、イギリス人の先祖のことを知り、自分の「イギリス人」の部分をより深く意識することができた。

写真家だった祖父、そして曽祖父

次は母方の祖父のルーツに目を向ける。

デヴィッドは子供の頃から母方の祖父と多くの時間を過ごした。人生で一番影響を受けたのが、この祖父だった。

デヴィッドの祖父、ジミー(ジェームス)・ジャシェーは、イギリスでも初期の新聞カメラマンとして有名な人物。

エドワード8世とシンプソン夫人のツーショット写真を初めてスクープしたり、アインシュタインチャーチルなど、当時の著名な人物の写真も多く撮影している。

https://blog.scienceandmediamuseum.org.uk/wp-content/uploads/2013/06/limbsandthelaw1.jpg
‘Limbs and the Law’, 1924, James Jarché © The Royal Photographic Society Collection
祖父の作品。番組でデヴィッドがこの写真の撮影場所であるハイドパークを訪れた

祖父ジミーの両親、デヴィッドの曽祖父母の名前はアーノルドとエミリー。1870~80年頃にパリからロンドンに移住してきたユダヤ人。

曽祖父アーノルドも写真家で、ロンドンで写真館を開いていた。

ロンドンに来る前は、パリで「エッフェルタワー・スタジオ」という写真館を経営していたらしい。しかし彼らが、フランス生まれフランス育ちのユダヤ人なのかは、家族の間でも謎だった。

祖父ジミーの苗字は、フランス風にジャシェー(Jarché)だったが、曽祖父母の苗字はジャシー(Jarchy)で、綴りが違う。これは祖父ジミーが、フランス風に苗字を変えたから、らしい。

曽祖父アーノルドがロンドンで写真館をしていた場所を訪れるデヴィッド。アーノルドが開業していた時代には、写真が一般にも広まり始めた頃で、ロンドンだけで写真館が300軒はあったという。

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By Hanna Fortmeier? - http://sites.google.com/site/prittsel/1850%E2%80%931900, Public Domain, Link
当時の写真館

当時の新聞に、アーノルドの写真館の広告が出ていた。

『フランス出身、パリで写真館を経営、多くの有名写真家の元で経験を積んできた写真家、アーノルド・ジャシーが新たに写真館をロンドンにオープン』

そこには彼が修行したというフランス人写真家の名前も羅列されていた。

広告を見て、自分はオシャレなフランスから来た、ということを妙に強調して特別感を出そうとしていないか?と感じるデヴィッド。そこには何か怪しさも感じる。

曽祖父の経歴詐称?

アーノルドが経営していた写真館の場所を調べるため、パリに向かう。

カルナヴァレ博物館で、写真館があった証拠を探す。当時の写真家や写真館の情報をまとめたディレクトリーを当たるが、そこにはアーノルドの名前も、彼が経営していたという「エッフェルタワー・スタジオ」の名前もなかった。

彼が写真技術をパリで習得したのは間違いないようだが、自分で写真館を経営していたというのは、嘘のようだ。

どうもパリ仕込みの写真の腕を誇張して宣伝したらしい。イギリス人が謎めいた外国のアクセントにコロッとやられるのを知って、それをうまく商売に使ったのではないか。アーノルド、やるなぁ!と笑うデヴィッド。

曽祖父母のルーツの謎

では彼らは本当にフランス生まれのユダヤ人だったのだろうか。彼らの結婚証明書が見つかる。

そこには、アーノルド、エミリーとも、ロシア出身であると書かれていた。フランスには、10年ほど住んでいたらしい。

結婚証明書にあった住所を元に、彼らが住んでいたパリのマレ地区、テュルネル通りを訪ねる。彼らが住んでいたアパルトマンのドアには、今でもメズーザーがつけられていた。

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By www.retardstrength.net (talk) - I created this work entirely by myself., CC BY 3.0, Link
ドアフレームにつけられたメズーザー

メズーザーは、入口につけられた棒のような飾りで、ユダヤ教信者は家に入るたびに、これに手を当ててお祈りの代わりにする。

そしてアパルトマンのすぐ隣は、シナゴーグだった。

photo de la façade
Par User:Gandalf55 — self-made by Author, Domaine public, Lien
テュルネル通りに今も残るシナゴーグ

革命後のフランスは、ヨーロッパの中でもユダヤ人差別があまり無い場所だった。ロシアでの迫害から逃れた多くのユダヤ人がフランスに移り、1880年頃には大きなユダヤ人コミュニティが出来ていた。

迫害から逃げるため、国外に出るということは非常に勇気のいることだったと思う。難民というバックグラウンドを持つ者は、先へ先へと進むための強い気力がどうしても必要になる。自分が何かに突き動かされるように、長年役者として演技を続けているのも、こういうところから来ている気がする、とデヴィッド。

父方のルーツ、スーシェ家の謎

デヴィッドの父方、スーシェ(Suchet)家も東ヨーロッパから来たユダヤ人一家だが、デヴィッドの父は南アフリカ生まれ。

苗字はもともとスシェドヴィッツ(Suchedowitz)といい、おそらくロシア系ではないか、という。

詳しい話を聞くため、ニュースキャスターである兄、ジョン・スーシェを訪ねる。兄によると、デヴィッドの父方の祖父、イジドールが南アフリカで苗字を「スーシェ」とフランス風に変えたという。

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By AIB London - https://www.flickr.com/photos/aib_london/14384499178/, CC BY 2.0, Link
兄ジョン・スーシェ。番組では弟ピーターも登場した

またイジドールはメーメルという場所の出身らしい。メーメルは現在のリトアニア・クライペダという町で、当時はプロイセン王国ドイツ帝国)の一部だった。

イジドールの南アフリカのパスポートの氏名欄は「スシェドビッツ、またはスーシェ」と書かれている。名前が長すぎるので簡単に短くしたのか、ユダヤ人っぽい名前だったので変えたのか。

イジドールはドイツ訛りがあり、ドイツ語も話したという。1896年に兄ベンジャミン、弟ジョセフの3人でメーメルから南アフリカに移住した。

祖父がロシア系だと思っていたデヴィッドにとって、ドイツ語を話したという祖父の話は意外だった。しかしメーメルはプロイセン王国の一部ではあったが、当時のロシア国境からは20キロしか離れていなかったというので、あながち間違いではなかった。

イジドールの両親の名前はジェイコブ(ヤコブ)とベイラ。

二人の家族は、それぞれ別の場所からメーメルに移住、ジェイコブが17歳、ベイラが14-15歳ごろにふたりは結婚した。

イジドールの家族は昔からメーメルにいたわけではないようだが、彼らはどこからやってきたのだろうか?

メーメルへ、そして新たな謎の「証拠」

メーメル、現在のリトアニア・クライペダに飛ぶデヴィッド。

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By Mantas Volungevicius - https://www.flickr.com/photos/112693323@N04/15223983163/, CC BY 2.0, Link
現在のクライペダ

港町であるメーメル。ここはユダヤ人にとって安全な場所として、近隣から多くのユダヤ人が集まっていた。しかし1890年頃には、周辺からの移住は禁止されたという。

ここでは、「スシェドヴィッツ」は「スハドヴィッチ」と発音されていたようだ。

1898年の住所録には、曾祖母ベイラの名前が未亡人として載っていた。しかし残りの家族の情報は、当時のユダヤ人コミュニティの記録にも残っていなかった。それ以前の記録を調べても、スハドヴィッチの名前は出てこない。

調査に行き詰まるデヴィッド。

そこに南アフリカの親戚から、デヴィッドに小包が届けられる。それは祖父イジドールの弟ジョセフが南アフリカの国籍を取った時の書類だった。

書類に書かれた、申請者のもともとの国籍を見て目をみはり、笑い出すデヴィッド。

そこに書かれていた国籍は、なんと「トルコ」

しかし生まれた場所は、ロシア、クラティンゲンとなっていた。このトルコ国籍は、後に取得したもののようだ。

兄ベンジャミンの申請書も同封されていたが、そこにも生まれた場所はクラティンゲンと書かれていた。

次男だった祖父イジドールもクラティンゲン生まれだと考えられる。

しかし、なぜトルコ国籍を持っていたのだろう?

ユダヤ居留地

クラティンゲンはメーメルからは車で北に30分ほどのところにあり、現在はクレティンガと呼ばれているリトアニアの都市。

ここは、Pale of settlementと呼ばれる、当時のロシアでユダヤ人が住むことを許されていたエリアの中にあった。

クレティンガに向かうデヴィッド。

Map showing the percentage of Jews in the Pale of Settlement and Congress Poland, The Jewish Encyclopedia (1905).jpg
By Not specified in source. - Herman Rosenthal; J.G. Lipman; Vasili Rosenthal; L. Wygodsky; M. Mysh; Abraham Galante (1905) "Russia" in The Jewish Encyclopedia: Vol. 10, Philipson–Samoscz, New York, N.Y.: Funk & Wagnalls, pp. 531, Public Domain, Link
地図の赤く囲まれた部分が居住を許された地域。クラティンゲンは左上のKovnoと書かれている地域にある

ロシアはエカテリーナ2世の頃から、国からユダヤ人を完全に排除・排斥する政策をとっていた。

現在のリトアニアモラビアウクライナベラルーシなど、バルト海から黒海に渡る特定のエリアにのみ、ユダヤ人が住むことを許していた。

居住が許された場所であっても、そこはユダヤ人にとって必ずしも住みやすい場所ではなかった。様々な機会や権利は制限され、貧困にあえぐものも多かった。

また「ポグロム」と呼ばれる、地元住民によるユダヤ人コミュニティへの攻撃、殺戮も絶えなかった。またロシア軍に徴兵されれば、宗教的な自由は奪われ、時に虐待や死が待っていたという。

当時ロシア・プロイセン国境沿いを走っていた鉄道路線が現在も使われている。その駅に立つデヴィッド。

自由を求め、ロシアからプロイセン側に渡ってきたユダヤ人達。しかしもちろん不法入国になるため、国境を超えることは勇気がいる事だっただろう。

自分はイギリスの安全な環境で育ってはいるが、先祖は安全を求め、移動に移動を重ねたユダヤ人。もしかしたら、ジェイコブは息子達が徴兵されないよう、ロシアからプロイセンに逃げたのかもしれない。

「スーシェ」の謎解き

「スハドヴィッチ」という苗字はドイツ風の名前であるが、もともとのヘブライ語の苗字があるはずである。

専門家が調べた結果、それは「ショハッド(Shokhet)」

ヘブライ語で「屠殺者」、ユダヤ教の決まりに従って動物を屠殺し、精肉する者、を意味する名前だった。

ヘブライ文字では特定の音の表記は省略される。ヘブライ語で書いた苗字を再びアルファベットで書き起こすと、「s、ch 、t」。 これは簡単にスーシェ(Suchet)に変換できる。

英語でいうとうちは「ブッチャーさん」だったのか!とデヴィッド。

語尾の「ヴィッツ」または「ヴィッチ」は「息子」を意味する。つまりは「屠殺者の息子」が、苗字「スーシェ」のもともとの由来だった。

オリジナルのヘブライ語の苗字、「ショハッド」で再度調べたところ、ジェイコブ・ショハッド、ベイラ・ショハッドの名前で、曾祖父母の情報が見つかった。

そして彼らの出身地が、クレンティガからさらに80キロ離れた場所にあるトリシュキー(Tryškiai)という場所である事もわかった。

「スーシェ」家のルーツの小さな町へ、そして最後の謎解き

トリシュキーに向かうデヴィッド。

Tryškiai, ženklas.JPG
By Vilensija - Mano darbas, CC BY-SA 3.0, Nuoroda

この場所もユダヤ人居住地域の中にあり、昔は多くのユダヤ人が住んでいた。しかし200年の間に起きた度重なる迫害・虐殺により、ユダヤ人は全て消えてしまった。

残っているのは、町の外れに残るユダヤ人墓地のみ。現在の町の規模と比べても、とても大きな墓地である。ここにショハッド家の人々も眠っているのかもしれない。

最後に、メーメルで亡くなったジェイコブの死亡証明書が見つかる。トリシュキーで生まれたはずのジェイコブだが、そこには出生地はトルコ、と書かれていた。しかしそこに書かれた町の名前は、トルコには存在しない、架空のものだった。

ジェイコブはユダヤ人のアイデンティティを隠すために、ユダヤ人居住地にいる間に何らかの方法で家族とともにトルコ国籍を取得したのではないか。

トルコのパスポートを使うことで、家族はロシアからプロイセンに脱出し、ユダヤ人の移住が禁止されつつあったメーメルでも、合法的に滞在することができたと考えられる。

大叔父達の南アフリカ国籍申請書に、もともと国籍が「トルコ」とあったのも、このためであった。

エピローグ

曽祖父ジェイコブは家族をユダヤ人に対する抑圧そして虐殺から救うために力を尽くした。家族はそのあと、プロイセンを経て南アフリカ、そしてイギリスへ渡り、子孫たちは新しい可能性を広げることができた。

トリシュキーでデヴィッドの先祖探しの旅は終わった。しかし家族の旅はまさにここから始まったのだ、とデヴィッド。

ひとこと

NHKで放映されていたのをずっと見ていた名探偵ポワロ。懐かしいです。

そしてそのポワロ役だったデヴィッド・スーシェが自らのルーツを探るべく、まさにポワロ並に色々と先祖の謎を調べて行く今回のエピソードは、とても見応えがありました。

とはいっても、謎解きを実際にしたのは、調査を手伝った専門家なのですが。

それでもこの回では、デヴィッドさんが自らマイクロフィルムを回したり、本を調べたりと、かなり積極的に動いていました(エピソードによっては、その場所に行って専門家が調べてくれた書類を見せてもらうだけだったり、話を聞くだけの受け身な人もいます)。

ちなみに関係ありませんが、リトアニアで苗字の謎やトルコ国籍の謎を調べてくれた専門家の人が、能町みね子さんそっくりでした。笑

いずれにせよ、2008年に放送されたこの回は、初期の名作だと思います。先祖を調べる面白さを知ったきっかけにもなりました。ただ、出てきた情報も盛りだくさんすぎて、このエントリーも随分長くなってしまいました。

やはりユダヤ人の先祖の話が色々衝撃的で、最初に出てきた船乗りのおじいさんの話などすっかり忘れてしまうほどでした。

まずは写真家だったひいおじいさんの話。ヨーロッパには古い建物がそのまま残っていることが多いので、当時の住所に行けば同じ建物に当たる確率も高いですが、今回も住所を訪れてみたら、まさにその建物のドアにユダヤ教のシンボルがあったり、隣がシナゴーグだったりと、先祖がそこにいたという証拠がこんなにはっきり残っているのを発見するのは、まさに探偵の行動を追っているよう。

また大叔父の国籍が「トルコ」と書かれた書類を見た時のポワロさん、ではなくデヴィッドさんの反応。これもまるで探偵ドラマで新しい証拠を発見した時のようでした。

そして「スーシェ」という苗字の謎、非常に興味深かったです。ユダヤ教の決まりに従って動物を屠殺し、精肉する(英語ではコーシャー)人のことを「ショーヘート」と呼ぶことは、日本語のウィキペディアにもしっかり書かれていました。

移動する土地によって、自分達の苗字もどんどん変化していく。日本人の自分には、なかなか想像がつかない感覚です。

しかし何よりも、これを見て実感したのは、ユダヤ人がどれだけ迫害され、色々な土地に移動しては追われ、また別の地に移動し、を繰り返してきたかということです。

「ロシアからきたユダヤ人」と言うことで、詳細は取り上げられませんでしたが、「ロシア」からパリに移った曽祖父アーノルドの出生地も、さっと言及していただけでしたが、デュナボルグ(今のラトビア、ダウガフピルス)。このあたりもユダヤ人居住地だったのでしょうか。

ポグロム」という虐殺行為も、世界史で用語として「暗記」はしたような気もします。が、今回出て来た写真やイラストを見て、その恐ろしさや背景を、初めて実感しました。

こうやって居住地に追いやられ、迫害され、ということが、ナチスドイツの迫害が始まるよりもずっと以前から、各地で繰り返し繰り返しあったということを、より強く理解することができた気がします。

スーシェ家のルーツとして最後に紹介された町、トリシュキーについても少し調べてみましたが、第二次大戦前より、地元住民によるユダヤ人狩り、虐殺が行われ、ユダヤ人が一掃されていたこともわかりました。

ある意味、早めにそんなエリアから脱出し、南アフリカやイギリスに落ち着いた彼の家族はラッキーだったのかもしれません。

そんなユダヤ人一家の子孫であるデヴィッドさんは、イギリスで生まれ育ち、俳優として成功し、めでたしめでたし。以前であれば、そんな気分でこの番組を見ていました。

が、最近の世の中の流れを見ていると、ふと、ここでまた何がどう変わって、例えばまた世界でユダヤ人排斥が起こったら(アメリカでは大統領がそれに加担し始めていますし)。この人だってまた全てを捨ててどこかに逃げなければいけなくなるのだろうか、という考えが頭をよぎりました。

ユダヤ人に限ったことでなく、例えば日本に何かが起きて、日本人が国を捨てなければいけないような状況で、生きていくために他の国へ移動を繰り返さなければならないとしたら、どんな気持ちだろうか?

最近の不穏な世の中を見ていると、安定なんて、本当にあっけなく簡単にくつがえされてしまうものであると感じます。日本で生まれ育った自分には想像が難しい話ではありますが、土地を追われた彼らは新しい地に定住し、そこに根を下ろしたと思っても、政治の風向きでまたその土地を捨てざるを得なくなり、安全を求めて移動する、ということを、もう何千年も繰り返してきたんだな、ということがよくわかるエピソードでした。

実際、デヴィッドさんの家族も、たった3世代の間にこれだけの移動を繰り返しているわけで、考えたらこれはずいぶんしんどい。その是非はともかく、ユダヤ人がイスラエルという安住の地を夢見るのもさもありなん、なのかもしれません。

<イギリス版、2008年>

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【俳優:クリス・ノース】SATCミスター・ビッグのルーツ:大火、戦禍を乗り越えたアイルランドからの先祖

プロローグ

クリス・ノースはテレビドラマ「Law & Order」や「セックス・アンド・ザ・シティー」のミスター・ビッグ役で有名な俳優である。

ChrisNoth (cropped).jpg
By ChrisNoth.jpg: The original uploader was Seductivemelody at English Wikipedia
derivative work: Matthewedwards (talk) - ChrisNoth.jpg, CC BY-SA 3.0, Link

1954年、ウィスコンシン州で3人兄弟の末っ子として生まれたクリス。

父のチャールズ・ジェームス・ノースは第二次大戦中空軍に所属。その後朝鮮戦争では空母アンティータムに乗船し、勲章を得る活躍をした。除隊後は保険会社に勤務した。

母ジェーン・パーはニュース記者としてCBSで活躍するようになったが、クリスが10歳の頃に両親は離婚。そして1966年、彼が12歳の時に父は自動車事故で亡くなってしまった。

父の死で父方の家族とも疎遠になってしまったクリス。父のルーツについて知りたいと考えている。

父方のルーツ

父方の祖父母のこともあまり知らないというクリス。祖父ジョージはクリスが生まれる前に亡くなっている。

シカゴ在住だった祖母メイには、シカゴに遊びに行く時にしか会うことはなかった。祖母メイの旧姓はマグワイアで、おそらくアイルランド系だと考えられる。

シカゴに飛び、情報を集めるクリス。

祖父ジョージは裕福な家庭出身だったため、祖父母の結婚について新聞記事が出ていないか確認する(アメリカでは地元の新聞に結婚の告知広告を出したり、社交欄の記事になったりすることがある)。

すると当時の新聞の社交欄に祖父母の結婚に関する記事が見つかった。そこから祖母メイの父、つまり曽祖父の名前がC.J.マグワイアであることがわかった。

この名前をもとにさらに1900年の国勢調査を検索。曽祖父のフルネームはチャールズ・ジョン・マグワイア、カナダ生まれであることが確認できた。

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Public Domain, Link
当時の国勢調査。このように全て手書き

さらにさかのぼり、1880年国勢調査を調べる。すると、25歳のチャールズ、15歳のアグネス、12歳のジョンの3人兄弟の記録が見つかる。家族の筆頭主はチャールズとなっていた。両親がいないのはなぜか?

さらに10年前、1870年の記録をたどる。そこには14歳のチャールズをはじめ、家族の名前が全て記載されていた。チャールズの父、クリスの高祖父にあたる人物、デニスはアイルランド生まれの日雇い労働者。その妻アンはカナダ生まれ。

1870年から1880年の間に、家族に何か悲劇があったのだろうか。

シカゴ大火

当時のマグワイア家の住所はシカゴ市内第20区。シカゴ・リバーから数ブロックのところに彼らの住まいがあった。高祖父デニスは日雇い労働者だったため、港での荷運びなど様々な仕事をする上でも、仕事場に近い場所に住んでいたようである。

しかし1871年、シカゴ大火が起こる。3日間に渡り燃え続けたこの火事で、死者250人、10万人以上が家を失ったという。

Chicago-fire1.jpg
By John R. Chapin, died 1907 - From [1]. Originally from Harper's Weekly., パブリック・ドメイン, Link

街が燃えさかる様子を描いた当時の新聞のイラストを見て「まるでヒロシマのようだ」とつぶやくクリス。先祖が住んでいた地域も、火事の被害を受けて焼け野原になった。曽祖父チャールズの両親、デニスとアンは火事の犠牲になって、子供達だけが残されたのだろうか。

しかし火事から21年後、1892年の新聞に、母親アンの死亡記事が掲載されていた。火事の犠牲にはならなかったようだ。しかし、火災後になぜ子供達と離れて過ごしていたのかは不明。火事で怪我をして、子供の世話ができなくなった可能性もあるが、明確なことはわからなかった。

また、父親デニスのその後についても、全く情報を見つけることができなかった。

イギリス軍兵士だった5代前の先祖

調査の焦点は、デニスの父親、ジョン・マグワイアへ。クリスからは5代前の先祖にあたる。

アイルランド出身のジョンは、イギリス軍の兵士だったことがわかった。情報を探りに、ロンドンに向かう。

年金記録から、ジョン・マグワイアは歩兵連隊に所属、実に14年間も軍に所属していたこと、また半島戦争で勲章を得ていたこともわかった。

当時フランスを支配下におき、さらに勢力拡大をめざしていたナポレオン。しかしイギリスを直接侵略することは困難であった。

このため、まずはイギリス経済に打撃をあたえようと、1807年ポルトガルに侵攻。港を制圧、イギリスの地中海貿易ルートを断つ戦略に出た。

イギリス軍はこれに対抗するため、イベリア半島に兵を送り込んでいる。

軍の記録では、ジョン・マグワイアは射撃兵として、1811年にスペイン国境にも近いポルトガルの街、エルヴァス近郊に駐屯していたことがわかった。

彼はここで実際に戦闘に参加したのだろうか。

アルブエラの戦い

国境沿いの街エルヴァスに向かうクリス。さらにここから車でスペインの小さな村、アルブエラに向かう。

1811年5月6日、半島戦争の歴史の中でも有名な「アルブエラの戦い」に、ジョン・マグワイアも加わっていた。

Battle of Albuhera, by William Barnes Wollen.jpg
By William Barnes Wollen (1857-1936) - not stated, Public Domain, Link

3万4000のイギリス、スペイン、ポルトガル軍と、2万4,000のフランス軍が衝突したこの戦いは、当初はフランスが優勢であった。

その後数時間の激しい戦闘が続く。連合軍もなんとか踏みとどまっていたが、厳しい戦いを強いられていた。そんな時に投入されたのが、ジョンが所属していた部隊だった。

狙撃兵であったジョンは、200人のフランス兵がサーベルを持って迫ってくる中、逃げることもなく、仲間の兵の肩越しに銃を構えたという。当時はマスケット銃だったため、銃を構えては撃ち、後退して弾を詰め直し、また撃つ・・という攻撃を、まさに敵と18メートルの至近距離で行った。

イギリス軍の射撃のスピードがフランス軍より早かったこともあり、フランス軍は撤退。以降、フランス軍は劣勢に向かっていったというが、この戦いだけでまさに1万人もの犠牲者が出たという。このため、この戦いは「血のアルブエラ」とも呼ばれている。

目の前に敵が立ちはだかり、銃弾が飛び交うなか、後退することもなく踏みとどまって銃撃戦を行った先祖の勇気に感嘆するクリス。そして、そんなに激しい戦闘があったとは想像もつかないような静かな丘から、息子のためにお土産として石を拾っていく。

アイルランド人の苦難

半島戦争で勇敢に戦った先祖、ジョン・マグワイアは、兵士になる前はどんな人物であったのか。さらに情報を探るため、彼の故郷アイルランド・キャバン州に向かう。

Annalee river, Butlersbridge, Cavan Aug 2003.jpg
By Sarah777 at English Wikipedia - Transferred from en.wikipedia to Commons by Lvova using CommonsHelper., Public Domain, Link

この地域では1790年頃、国防と警備のための民兵隊が作られている。ジョン・マグワイアも1807年、地元の民兵隊に入隊。

さらに1809年、イギリス軍に入隊している。

入隊記録から、入隊前の職業は織物職人であることもわかった。当時は織物も工業化が進んだ時代であり、昔ながらの職人の仕事はどんどん減っていっていた。このため、経済的理由から入隊したのではと考えられる。

当時イギリスに併合されていたアイルランドカトリックアイルランド人は政府の職をはじめ、土地の売買や大学の進学、弁護士や医師になることは制限されるなど、様々な差別にあっていた。

当初は軍への入隊も禁止されていたが、フランスとの戦争などで兵隊が必要となり、規制が緩和された。

またプロテスタント系のイギリスにおいては、カトリック教会の建設や礼拝も厳しくコントロールされていた。自らもカトリックであるクリスは、信教の自由まで奪われていたことにショックを受ける。

イギリスに抑圧されているにもかかわらず、イギリス軍に入隊した背景には、やはり経済的な理由、生きていくために必要な手段であったことが大きい。「もちろん戦闘を生き延びられれば、の話だけれどね」

実際イギリス軍に入隊して初めて、きちんとした服やブーツを手に入れることができた、というアイルランド人も多かったという。

しかし軍で功績をあげたとしても、除隊後のアイルランドでの生活は楽ではなかったのではないか。

記録をたどると、1840年マグワイア家がアイルランドからカナダに移民した記録が見つかった。ジョン・マグワイア本人は軍から年金を受け取っていたが、やはり子供の将来を考えたのではないかと思われる(ジョンの孫にあたる、曽祖父チャールズは国勢調査にあった通り、カナダで生まれている)。

エピローグ

ジョンの入隊記録に書かれていた出身地は、ノックブライドという小さな村。

この地域に唯一ある墓地を訪れるクリス。墓石は苔むし、ただの石になっているものも多いが、1400年代から村人が埋葬されているこのどこかに、マグワイア家の先祖も埋葬されていると思われる。

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Photo © Eric Jones (cc-by-sa/2.0)

先祖が大変な状況、政治的に抑圧された中で行きていかなければいけなかったことがよくわかった、とクリス。ここで育てばタフにならざるをえなかったのだろう。ジョン・マグワイアが生き残るために必要な選択をしてきたこともよくわかった。

父も軍人だったが、もしかしたら子供の頃に半島戦争で勇敢に戦ったジョン・マグワイアの話を聞いて育ったかもしれない。自分の息子にも先祖の話を伝えていくだろう。自分にとっても、発見の多い経験だった。

ひとこと

セックス・アンド・ザ・シティのキャストが随分この番組で取り上げられていますが、今回はミスター・ビッグを紹介してみました。

カナダに移住した後にシカゴに移った理由や、大火の後の両親の足取りがわからないなど、調査が中途半端な感じもする回でした。

大火後、兄弟3人だけで暮らしていたことが国勢調査でわかったのですが、その記録に書かれていた住所は「scattered homes on the prairie」というものでした。

それだけ読むと「大草原に点在する家」??と謎すぎる住所だったのですが、番組の中で説明にあたった歴史専門家は、この住所の意味も調べてみたけれどわからない、聞いたことが無い、で終わっていました。

ちょっとscattered homes で調べてみましたら、特にイギリスなどで、身寄りのない子供達を地域の住宅に住まわせ、そこから学校に通わせるといった施設がこの名前で呼ばれていました。低所得者用の住宅がこう呼ばれている場合もありました。別に大草原の小さな家的なものではなかったようです(笑)。

prairieは大草原、ではなくて、シカゴにPrairie Avenue という通りがあるので、そこだったのではないだろうか・・実際の国勢調査を見ていないのでなんともいえませんが、Prairie Avenue自体は彼らが大火以前に住んでいた場所からは大して遠くないようですので、ここなんじゃないかなあと勝手に思っています。

ネットで少し検索しただけですが、少し自分もミステリーをとく探偵気分になりました。時間があれば、後で国勢調査の情報にアクセスしてみようかなとも思います。

さてここで取り上げられたシカゴ大火。番組では話題になりませんでしたが、火事の原因として、ある女性が牛の乳を絞ろうとした時に牛がランタンを蹴り、その火が干し草に燃え移った、という話が火事が鎮火する前から広まったそうです。

結局それはある新聞記者の捏造だったそうですが、疑いをかけられた女性は貧しいアイルランド系の移民。

1840年後半にアイルランドでジャガイモ飢饉が起き、多くがアメリカに移民してきました(クリスの先祖が移民してきたのも1840年飢饉が始まるちょっと前でした)。

当時アイルランド系移民に対する差別はかなりあったそうで、この女性もある意味スケープゴートにされたと考えられています。

新聞記者はその後、話をでっちあげたことを認めたそうですが、すでに広まった噂を鎮めることはできず。この女性と牛の(!)名誉回復は近年になって行われたそうです。

新たな移民への差別、蔑視、フェイクニュースの拡散・・・そしてフェイクニュースだとわかっても、それを広めて、自分の気に入らないグループを責める人々。

なんとなく、今にも通じる話のような気もします。気もする、というかまさしくそうです。歴史が繰り返されすぎていて愕然とします。

ナポレオンの半島戦争は、世界史で習ったはずなのに、全く記憶に残っていませんでした。でもこのようなパーソナルな形で語られると、そういうことだったのか・・とまた歴史を紐解きたくなってきました。

実際の戦争の経緯はもっともっと複雑なものですが、例えばこのゴヤの作品も、この時代のスペインを描いたもので、銃を構えているのはナポレオンのフランス兵です。そういうことだったのか、と今になってようやくピンときました。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fd/El_Tres_de_Mayo%2C_by_Francisco_de_Goya%2C_from_Prado_thin_black_margin.jpg/1280px-El_Tres_de_Mayo%2C_by_Francisco_de_Goya%2C_from_Prado_thin_black_margin.jpg

By El_Tres_de_Mayo,_by_Francisco_de_Goya,_from_Prado_in_Google_Earth.jpg: Francisco de Goya
derivative work: Papa Lima Whiskey 2 - This file was derived from  El Tres de Mayo, by Francisco de Goya, from Prado in Google Earth.jpg, Public Domain, Link

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<アメリカ版、2016年>

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【フットボール選手:エミット・スミス】奴隷、混血・・200年前の先祖の過酷な歴史

プロローグ

ダラス・カウボーイ、アリゾナ・カーディナルズのランニングバックとして活躍した元フットボール・プレイヤー、エミット・スミス。

refer to caption
By John Trainor, CC BY 2.0, Link

プロジェクト(低所得者用住宅)出身の彼は、フットボールで大きな夢をつかむことができたというが、家族のためにも自分のルーツを知りたいと考えている。

最終的にはアフリカから来たと思うが、どこの誰につながっているのか、それがわかったとき、それが自分にどんなインパクトを与えるのか、興味はつきない。

バーンド・コーンへ

エメットの家族はフロリダ州ペンサコーラ出身。しかし祖父母のバックグランドについては、ほとんど何も知らないという。

それは食べるものにも事欠くような苦労をしたから、過去のことなど話したいとも思わなかったのだと思う、と母。

父方のルーツについては、親戚ですでに調べた者がおり、高祖父母であるビル・ワトソン、ビクトリア・ワトソンが、アラバマ州バーンド・コーン(Burned Corn)出身だというところまで突き止めていた。

まるで探偵みたいだ、とエメットはアラバマへ飛ぶ。

現在はほぼゴーストタウンのように閑散としているバーンド・コーン。郵便局を覗いてみるが、閉鎖されているようだ。

Burnt Corn, Alabama, Lowrey's General Store and Post Office.JPG
By Bruin79 - Own work, CC BY-SA 4.0, Link
バーンド・コーンの郵便局だった建物

小さな商店で話を聞いてみる。ワトソン家について情報を探している、と高祖父母の名前と写真を出したところ、「俺も子孫だよ」

ジョー・ワトソンと名乗るその男性にとって、エメットの高祖父母は曾祖父母にあたり、エメットとはまたいとこの関係であることがわかった。

さらに情報を知りたければ、モンロー郡の庁舎に行くといいとアドバイスを受ける。

パーヤーという苗字

Alabama-Monroe County Courthouse retired.jpg
By Wmr36104 - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

郡庁舎のアーカイブに向かう。そこでは、過去の結婚証明書が保管されていたが、それは「黒人用」「白人用」に分けて製本されていた。

表紙に「colored(黒人用)」という文字を見てショックを受けるエメット。人種隔離政策が行われていた時代、バスで座る場所や水飲み場まで分けられていたのは知っていたが、実際にこのように文字としてはっきりと書かれているのを見るのは初めてだった。

それを見た時、セグリゲーション(隔離政策)の威力を感じたという。いかに黒人が隔離され、孤立させられ、アメリカ社会から遠ざけられていたかを目のあたりにさせられた。

1900年の国勢調査で、高祖父ビルが1862年、高祖母ビクトリアは1864年生まれであることがわかった。つまり、1865年以前に生まれた彼らは、奴隷として生まれたということになる。

彼らの結婚証明書から、高祖母ビクトリアの旧姓もわかった。それはパーヤー(Puryear)という、変わった苗字であった。

先祖が奴隷だった場合、奴隷所有者の苗字をそのまま自分の苗字として使っていることが多い。特にパーヤーという苗字は珍しいので、さらに情報を深く追える可能性が出てきた。

ビクトリアの死亡証明書から、父はプリンス・パーヤー、母はアニー・マクミランということもわかった。

ではプリンスの父は誰なのか。そしてこの「パーヤー」の苗字はどこから来ているのだろうか。

白人の血

1870年から、国勢調査アフリカ系アメリカ人の氏名が初めて記載されるようになった。この年の国勢調査に、高祖母ビクトリアの父、プリンスの情報があった。

人種記入欄に書かれていたのは、「M」。

これはムラート、つまり混血、それも白人と黒人の混血、という意味であった。

この他にも、50代のマライアという女性、そしてプリンスのきょうだいと思われる複数の氏名があったが、全て人種は「ムラート」であった。

年齢などからマライアがプリンスを始めとするきょうだいの母親と見られる。

母親も混血とあるが、では父親はどこから来たのか。

奴隷が混血である場合、父親は奴隷所有者や、奴隷を管理している人間であると考えられる。

自分にも少しでも白人の血が入っているという事実を受け止めるエミット。酷い話であるが、こういった情報がわかるということも凄いと感じる。

マライア一家の所有者は

1850年国勢調査でパーヤーという苗字を調べると、アレックス・パーヤーとその妻メアリーという白人の情報のみがヒットした。

アレックス・パーヤーが書いた手紙が見つかる。そこには「いいネグロが沢山手に入った」という記述があった。アレックス・パーヤーは奴隷商人であった。

彼の遺言書も見つかった。アラバマで奴隷取引をしていたアレックス・パーヤーであるが、もともとはバージニアの出身であることがわかった。

さらに妻メアリーの遺言書も見つかるが、夫から受け継いだ奴隷を、家族に引き渡す旨が書かれていた。

そこに書かれていたのは、マライアとその子供、5人の名前。高祖母ビクトリアの父の名前はプリンス・アルバートであった。

彼らにとって、奴隷は所有財産であり、彼らの名前は銀のスプーンやマホガニーの椅子、といった食器や家具と一緒に並べられていた。また家族の総額は2250ドルだとも。

土地やモノみたいに人間にこんな値段をつけるのか。このようなものを見ると、黒人が自由と平等のためになぜこれだけ戦ってきたのか、よくわかる。そしてこのような人たちが、今の自分、自分の行く道を作ってくれた。自分が経験してきたことは、彼らの壮絶な経験に比べると全くなんでもないように思える、とエミット。

パーヤー家の墓が残っていた。しかしここに立っている墓石は、白人のパーヤー家のもの。奴隷だったパーヤー家の墓は?と聞くと、フェンスの向こうの林を指さされる。しかしそこは荒れ果てた林であり、墓石も何も無い。このどこかにプリンスは眠っているという。

白人の子孫はこうやって先祖の墓に行くことができるのに、奴隷の子孫はそれも叶わない、と涙を流すエミット。

当時4歳だったプリンスは、所有者であったメアリー・パーヤーの遺言により、母親と引き離されることなく、家族全員が同じ所有者に引き渡されている。

Slavery19.jpg
By "Five hundred thousand strokes for freedom ; a series of anti-slavery tracts, of which half a million are now first issued by the friends of the Negro." by Armistead, Wilson, 1819?-1868 and "Picture of slavery in the United States of America. " by Bourne, George, 1780-1845 - New York Public Library, "Five hundred thousand strokes for freedom ; a series of anti-slavery tracts, of which half a million are now first issued by the friends of the Negro." by Armistead, Wilson, 1819?-1868 and "Picture of slavery in the United States of America. " by Bourne, George, 1780-1845, Public Domain, Link

当時奴隷の家族はバラバラに売られることが常であったため、これは非常に大きな意味を持つことであった。

マライアの父親

マライアの父親は誰なのか。やはりパーヤー家で生まれた奴隷なのかを探りに、バージニア州メックレンバーグ郡、ボイトンに向かう。

人口400人ほどのこの街に向かって車を走らせている間にも、「パーヤー」の名がつくタイヤ屋、花屋を通り過ぎる。

Boyd Tavern in Boydton Virginia.JPG
By Cnjnva - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

アレックス・パーヤーはこの地域に最初に入植した人物の1人で、このような宿も所有していた。このポーチに奴隷を並べ、奴隷のオークションも行われていたという。

「アメリカ・ザ・ビューティフルだね」とつぶやくエミット。奴隷の歴史を知れば知るほど辛さが増す。

マライアの出自についてさらに知るため、アレックス・パーヤーの父親サミュエルの情報を探す。

サミュエル・パーヤーの権利書が見つかる。権利書は他の公的書類とともに本として製本されているが、シリアル番号として22と印字されていた。「自分がずっと使っていた背番号だ」と不思議な気持ちになるエミット。

1826年の権利書には、マライアという名前の奴隷の少女を息子アレクサンダー(アレックス)に譲渡する、と書かれていた。マライアは当時11歳。

奴隷の歴史に詳しい専門家は、恐らくサミュエルが父親だろう、とエミットに伝える。恐らく奴隷所有者であったサミュエルが、「繁殖させた(breed)」結果だという。

「繁殖」させられた奴隷

「繁殖」という言葉にショックを受けるエミット。しかし奴隷を取引するために、まるで馬を育てるように、奴隷は白人所有者により「繁殖」させらていたのだった。奴隷はまるで家畜同然だったのである。

当時発行された、この地域の馬の出生記録、そして馬の血統をイギリスまでたどることができる冊子がある。それを見て、ある意味、馬の方がちゃんと記録が残っているという点で、奴隷より良い扱いを受けていたと感じるエミット。馬さえ先祖をたどることができるのに、自分はアフリカの自分の先祖のルーツをたどることさえできない。

マライアは1815年、この地域の農場で、奴隷の母親の元に生まれた。父親はサミュエルであったことは間違いないと思われる。

大抵の場合、所有者は妻に気兼ねして、自分の子供でもある奴隷を手元に置かず、母子を他に売り飛ばすことが多かったという。

しかしマライアは11歳になり、アレックス・パーヤーに引き継がれ、彼もマライアを売らずに手元に置いていたのは、恐らく「自分の妹である」という認識があったのではないかという。

ただしマライアはレイプによって生まれたと考えられる。

サミュエルは冷酷な人間だ、でも自分の先祖でもあると複雑な気持ちになるエミット。でも自分はサミュエルのような人間ではないということは確かだ。

自分の子供が生まれたあとも、引き離されることなく一緒に暮らすことができたマライア。そして国勢調査から、生まれた長女に、アレックスの妻と同じ、メアリーという名前をつけている。そこにはなんらかの家族の繋がりが見えてくる。

片足は奴隷、片足は白人社会の中で、バランスを保ちながら生き延びてきたマライア。そして自分の子供達と離れることなく、成長を見届けることができた。

情報はこれでデッドエンド、これ以上たどることはできなかったが、約200年、6代に渡る先祖をたどることができた。これ以上の情報を知ることができないのは残念だが、マライアという強い女性を知ることができたことを嬉しく思うエミット。

遺伝子テスト

アフリカでのルーツを書類から探ることができないため、エミットは遺伝子テストも受けていた。

その結果、7% ネイティブアメリカン、 12% ヨーロッパ系、そして81%アフリカ系であるという結果が出た。アフリカ系アメリカ人で、まず100%アフリカ系であるという結果はない。81%はその中でもかなり高い割合であるという。

また、アフリカの中でも、母方、父方とも、奴隷海岸と呼ばれた地域の出身であることがわかった。

現在のベニン共和国に飛ぶエミット。

この地域は、当時アフリカでも奴隷の輸出元として第二の規模があった場所であるという。

Plage de Ouidah Benin.jpg
By jbdodane - 20131010-DSC_3203, CC BY 2.0, Link

現在は博物館になっている、奴隷取引所に向かう。奴隷はここでチェックされ、選り分けられ、船に乗せられた。

ここで何があったかを考えると辛いが、ここで先祖が生き延びなければ、今の自分はいなかったと考えるエミット。

ある村の学校を訪ねるエミット。ここに通うのは、人身売買の被害者で身寄りのない子供たちだという。現在も、生活が苦しいため子供を労働力として売ることがあるのだという。

何百年前の話ではなく、今でもこうやって次のマライアが生まれていることに衝撃を受けるエミット。

エピローグ

この旅で、自分が探していたものが見つかったような気がする。アフリカの地に立ち、自分の先祖を感じ取ることができているような気がする。先祖がよく帰ってきてくれた、と喜んでいるように感じる。他にも色々な問題が見え、まさに目が開くような経験をたくさんしたと思う。アラバマの奴隷の魂の叫びも聞いた。自分の歴史、ヒストリーが「マイストーリー」になった瞬間。

ひとこと

自分のルーツを調べるには、移民記録や様々な登録情報をたどっていくのがお約束ですが、それがなかなかできないのが奴隷としてアメリカにやってきた人達の子孫。

この回は、知っているようで知らなかったアメリカでの奴隷の歴史や現実をリアルに見ることができた、結構衝撃的な回でした。

特にエミットが訪ねるアラバマバージニアの、それこそ人がほとんど住んでいないような街の風景。開拓時代からあまり変わっていないのではないかという感じで、そこがゴーストタウンにようになっているのは非常にぞくっとしましたし、奴隷所有者であったパーヤーの名前のついた看板が、道端にどんと現れたシーンも、まるで過去の亡霊がまだそこにいるかのようでした。

パーヤーの名前がついたタイヤ屋の看板、ストリートビューで見ることができます。この地図を開けてストリートビューにして、道路の右側、右斜め後ろにちにあります。よかったら見てみて下さい。古臭い看板がさらになんとも言えない雰囲気です。

数日前には、別のフットボールプレイヤーですが、Kenny Easleyが殿堂入りし、その際に行ったスピーチで、Black lives matterに触れていました。そこで自分は奴隷の子孫、そして自分は混血である、そしてアメリカ人である、と語っており、ちょうどこのエピソードを思い出しました。

最近不穏だらけのアメリカ社会とアメリカ政治。過去は簡単に忘れられますが、ほんの200年前、こんなことが起きていたこと、そして公民権運動が起きるまで人種隔離政策が行われていたのも、本当に数十年前であることを考えると、恐ろしい気もします。

<アメリカ版、2010年>

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【俳優・マーティン・フリーマン】シャーロック相棒のルーツ:前線で亡くなった祖父、盲目の曽祖父

プロローグ

TVドラマ「シャーロック」のワトソン役などで日本でも有名な俳優、マーティン・フリーマン

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b5/Martin_Freeman_during_filming_of_Sherlock_cropped.jpg

5人兄弟の末っ子であるマーティンは、10歳の時父を亡くした。父がいなくても大丈夫と、気丈に振る舞う子供時代だったが、年齢を重ねるごとに、父の不在は堪えたという。

父のことについて知る機会もなかったマーティンは、父のルーツについて知りたいと考えている。

ダンケルクで亡くなった祖父

兄から話を聞くマーティン。祖父レナードは、父が10歳の時、第二次大戦で亡くなったと聞いている。ダンケルクの戦いで亡くなったらしいが、詳細は不明。

国防省から祖父の記録を取り寄せる。そこにはRAMCに入隊、1940年5月25日、戦闘中に死亡とあった。ダンケルクの戦いが始まったのは、5月26日。やはり祖父はダンケルクで亡くなったのだろうか。

帝国戦争博物館に向かう。ここでRAMCとは、Royal Army Medical Corps、 英軍衛生部の略であること、祖父は第150医療部隊に属していたことが明らかになった。

1940年、フランス、ベルギー国境から迫ってきたドイツ軍は、国境北部だけでなく、南部からも重装備で迫ってきた。

劣勢だった連合軍は、北部へ追い詰められ、フランス北部海岸沿いの街ダンケルクから34万人の兵士が撤退した。撤退中にもドイツ軍からの爆撃は続き、祖父が属した衛生部隊は負傷兵の対応に追われたという。

British troops retreat dunkerque.png
By Frank Capra (film) - Divide and Conquer (Why We Fight #3) Public Domain (U.S. War Department): http://www.archive.org/details/DivideAndConquer, Public Domain, Link
ダンケルクから撤退するイギリス軍兵士

実際の撤退が始まったのは5月26〜27日。祖父はまさに撤退開始の数日前に亡くなっている。

残された部隊日誌には、5月25日、ルフトヴァッフェドイツ国防空軍)からの爆撃あり、2人死亡13人負傷、と記されていた。名前は書かれていなかったが、これが祖父なのだろうか。

祖父の部隊へ

マーティンは詳細を確かめるため、部隊の本部である、ヨークシャーの街、ハルに向かう。

ここでレナードが衛生兵として、戦地で医療補助を行っていたことがわかった。ダンケルクでは、多くの部隊が海岸へと急ぐ中、医療部隊はドイツ軍の爆撃で負傷した兵士達の手当に奔走したという。

さらに詳細な戦闘記録が残されていた。そこには、部隊が爆撃されたこと、フリーマン二等兵が死亡したことが書かれていた。

たった一行の記録だったが、それを読み言葉を失うマーティン。

さらにマーティンは、本部内のある建物に案内される。その壁には戦没者碑が埋め込まれており、そこには亡くなった祖父の名前も刻まれていた。祖父の部隊からは9人が犠牲になったという。

ここにずっと祖父の情報も、名前を刻んだメモリアルも存在していたのに、それを自分が今、初めて知ることに不思議な感慨を覚えるマーティン。

今までぼんやりとした存在でしかなく、ほとんど思い出すこともなかった祖父の名前が、目の前に現れた時の衝撃。祖父の存在をようやくリアルに感じることができたが、今まで知らなかったことも悔やまれる。

視覚障害者だった曽祖父

レナードの家族についてさらにルーツをたどる。

レナードの出生証明書から、曽祖父リチャード・フリーマンは1853年生まれで、オルガン奏者だったことがわかった。祖父レナードは父が56歳の時に生まれている。

曽祖父リチャードが18歳の時の国勢調査を確認すると、備考欄には、生まれた時から盲目であると記載されていた。彼の居住地も、寄宿制の盲学校であった。

ロンドン王立盲人協会(Royal London Society for the Blind)に当時の記録が残っていた。

生徒がスポーツをしたり、様々な訓練を受けている当時の写真を見るマーティン。またリチャードの入学申込書も見つかった。そこにはフリーマン家には子供が5人おり、盲目のリチャードの世話や十分な教育に手が行き届かないことから、この学校に入学を希望する旨が書かれていた。まだ、彼が在学中、嘘をついて学校をサボり、怒られた記録も見つかる。

ビクトリア時代視覚障害者への教育はほとんど行われず、視覚障害を持つ子供は、将来物乞いなどをして生活することを余儀なくされる場合も多かった。

そんな中、子供を盲学校に入学させ、教育や職業訓練を受けさせようとしたリチャードの両親は、進歩的だったと言える。

ここでピアノ調律の技術を身につけたリチャード。盲学校では、視覚障害者にふさわしい技術として、音楽の訓練も積極的に行われていた。特にオルガニストやピアノ調律師といった技術は、かご編みなどといった他の技術よりも、経済的にもより有利であった。

サセックスでの裕福な暮らし

盲学校卒業後、リチャードはロンドンから南に1時間ほどいったところにあるサセックスの街ワージングで調律師として職を得ている。

当時の地元新聞に、彼のビジネスの広告も見つかった。

またリチャードは、地元セント・アンドリュース教会のオルガニストでもあった。

St Andrew's Church, West Tarring, Worthing.jpg
By The Voice of Hassocks - Own work, Public Domain, Link
現在のセント・アンドリュース教会

当時の教会の会報に、リチャードが教会で行ったオルガンコンサートのレポートが残されていた。そこからはバッハやハイドン、グノーなどの多くの難曲を、全てリチャードが暗譜し演奏していたことがわかる。

現在もリゾート地であるこの街は、当時高級住宅地として開発が進んでおり、上流階級の人々によるピアノの調律や音楽の需要が十分にある街であったという。

1881年国勢調査では、リチャードはここで結婚し、子供も2人もうけ、とても大きな家に住むなど、中流階級としての生活を満喫していたようである。

1891年の国勢調査では、子供は全部で6人に増えていた。しかしその年、最初の妻が心臓病で亡くなる。

ほどなくして同年、リチャードは2番目の妻と再婚。しかし1894年、リチャードは何らかの理由で教会のオルガニストの職を辞していた。

教会の会報には、「教会員には周知の理由により、オルガニストの職が空席になった」と書かれており、何らかのスキャンダルがあったと思われるが、詳細は不明である。

さらに1901年の国勢調査では、家族がバラバラになっていることがわかった。2番目の妻の名前は消えており、子供のうち1人は1895年に死亡。2人はロンドン、2人はサセックスに移り、1人の消息は不明。特に妻の足取りはこれ以上わからず、死亡証明書も見つからなかった。

3度目の結婚

1901年の国勢調査ではさらに、リチャードが3度目の結婚をし、ヨークシャーの街ハルで音楽教師としての職を得ていたことがわかっている。

妻エイダはリチャードより20歳若く、自らも音楽教師であった。また2人の間には、子供が6人生まれており、そのうちの1人がマーティンの祖父レナードであった。

ハルにエイダの孫がまだ住んでいると聞き、会いに行くマーティン。エイダは3歳の頃に視力を失ったこと、家事は裁縫なども含めて全てこなし、点字本を図書館から借りて、様々な文学を読むなど、教養にも溢れる人物だったという。

1915年にリチャードが64歳で亡くなると、その後2度再婚したという。

子供の死と梅毒

国勢調査では、家庭で生まれた子供の数、そしてそのうち現在生存中の子供の数を書く欄がある。そこから、リチャードとエイダの間にいる子供6人の他に、夭折した子供がさらに6人もいることがわかった。

当時の子供の死亡率は15〜20%であったが、子供の半分が亡くなるというのはやはり何かあったのだろうか。そして残りの6人の子供は、なぜ生き残ったのだろうか。

亡くなった子供のうち4人の死亡証明書を見つけることができたマーティンは、それを持って小児科医を訪れる。

証明書の死亡理由は、未熟児、栄養不全などで、皆生後数ヶ月、時に数時間で亡くなっていた。水疱瘡、はしかを初めとする、目に見える症状がなかったこと、結核も疑われるが母親は90歳まで長生きしたことなどから考えて、一番疑われるのは、梅毒であるという。

さらに性病の専門家に話を聞くマーティン。

まず死産や早産だったケース、その後健康な子供が生まれたケースの間に、何年のギャップがあるかを確認するという。エイダの場合は、約8年。

梅毒に感染した妊婦が健康な子供を産む確率は、梅毒に感染した期間が長いほど高くなり、感染から健康な出産までにはだいたい4~6年ほどかかるという。

梅毒は20世紀初頭にペニシリンが発見されるまで、その強力な感染力から、ペストに次いで恐れられていたという。感染すると、顔や身体中の湿疹、そして角膜が濁り視力を失う。

エイダが3歳で視力を失ったのも、もしかして梅毒が関係しているのだろうか。

エイダの出生証明書から両親の名前を突き止め、そこからエイダの兄の死亡証明書を見つけることができた。エイダの兄は生後3ヶ月で、母子感染による先天性の梅毒が原因で亡くなっていた。

それからあまり間を置かずに生まれたエイダも、先天性梅毒にかかっていた可能性が非常に高いという。

ただし、出産時の問題から見て、エイダは2度感染している可能性があるという。おそらく2度目は、リチャードからの感染だと思われる。

当時のイギリスでは実に10人に1人が梅毒に感染していたため、これはそれほど珍しいケースではなかったという。

エピローグ

視力を失い、梅毒に2度感染したエイダであったが、6人の子供を育て、2度再婚し、90歳まで生きた。先祖をたどっていくと、このような驚くべき人物が必ず家族にいるもの。そして、自分はそういった素晴らしい人達によって生み出された存在である、ということに感慨を覚えるマーティン。

ひとこと

「シャーロック」の他にも「ホビット」を始めハリウッドでも活躍するマーティン、この回が放送された2009年は、テレビドラマ「The Office」が代表作として紹介されており、世界的にブレークする前でした。この番組では、出演者の自宅内部が撮影されることも多く、イギリスの有名人はずいぶんとつましく、普通の生活をしているな・・というところも垣間見えて興味深いです。

パトリック・スチュワート父親はフランス前線でも南でドイツ軍と戦っていましたが、マーティン・フリーマンの祖父は同時期に北の前線で亡くなっていました。

ただ従軍前の祖父の話がなかったり、曽祖父一家の調査については、国勢調査、出生・死亡・結婚証明書のみで調査を済ませてしまっている感もあり。2番目の奥さんや一部の子供の足取りがつかめなかったりもしましたが、ちょっと調査が表面的な感じもしないでもない回でした。

でも梅毒が昔はこんなに広がっていたなんて、驚きです。今は何かあるとすぐ抗生物質をもらえますが、そんなものがなかった時代、もっとちょっとした病気で死んでしまう人も多かったでしょうし、こうやって今はあまり見られない病気(と言いつつ、日本ではまた広がりつつあるというニュースも見ましたが)と共存していた人達も多かったのでしょうね。医療の進歩には感謝です。

<イギリス版、2009年>
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【女優:レベッカ・ギブニー】マオリの地、崩壊家庭の悲劇の歴史

エピローグ

オーストラリアで活躍する女優レベッカ・ギブニーは1964年ニュージーランド生まれ。オーストラリアの人気テレビドラマ「Packed to the Rafters」で母親役を演じ、人気を博した。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f1/Rebecca_Gibney_%288482061062%29.jpg/320px-Rebecca_Gibney_%288482061062%29.jpg

夫、息子と3人で幸せに暮らすレベッカだが、自らは崩壊した家庭で育った。父親アルコール中毒で暴力をふるい、母親は自分の父親に虐待されて育ったという。

こういった事実から目を背けて生きていくのは簡単だが、向き合わないと前に進むこともできないのではと考えている。

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