世界のセレブ・ファミリーヒストリー

世界のセレブ・ファミリーヒストリー

英・米・豪・加で放送されている「ファミリーヒストリー」的番組 Who Do You Think You Areの興味深いエピソードを紹介します。セレブの家族史を通じて、世界の知らなかった出来事が見えてくる。今の世界を知る上でも、個人を知る上でも、色々興味深いこと満載です。

【フットボール選手:エミット・スミス】奴隷、混血・・200年前の先祖の過酷な歴史

プロローグ

ダラス・カウボーイ、アリゾナ・カーディナルズのランニングバックとして活躍した元フットボール・プレイヤー、エミット・スミス。

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By John Trainor, CC BY 2.0, Link

プロジェクト(低所得者用住宅)出身の彼は、フットボールで大きな夢をつかむことができたというが、家族のためにも自分のルーツを知りたいと考えている。

最終的にはアフリカから来たと思うが、どこの誰につながっているのか、それがわかったとき、それが自分にどんなインパクトを与えるのか、興味はつきない。

バーンド・コーンへ

エメットの家族はフロリダ州ペンサコーラ出身。しかし祖父母のバックグランドについては、ほとんど何も知らないという。

それは食べるものにも事欠くような苦労をしたから、過去のことなど話したいとも思わなかったのだと思う、と母。

父方のルーツについては、親戚ですでに調べた者がおり、高祖父母であるビル・ワトソン、ビクトリア・ワトソンが、アラバマ州バーンド・コーン(Burned Corn)出身だというところまで突き止めていた。

まるで探偵みたいだ、とエメットはアラバマへ飛ぶ。

現在はほぼゴーストタウンのように閑散としているバーンド・コーン。郵便局を覗いてみるが、閉鎖されているようだ。

Burnt Corn, Alabama, Lowrey's General Store and Post Office.JPG
By Bruin79 - Own work, CC BY-SA 4.0, Link
バーンド・コーンの郵便局だった建物

小さな商店で話を聞いてみる。ワトソン家について情報を探している、と高祖父母の名前と写真を出したところ、「俺も子孫だよ」

ジョー・ワトソンと名乗るその男性にとって、エメットの高祖父母は曾祖父母にあたり、エメットとはまたいとこの関係であることがわかった。

さらに情報を知りたければ、モンロー郡の庁舎に行くといいとアドバイスを受ける。

パーヤーという苗字

Alabama-Monroe County Courthouse retired.jpg
By Wmr36104 - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

郡庁舎のアーカイブに向かう。そこでは、過去の結婚証明書が保管されていたが、それは「黒人用」「白人用」に分けて製本されていた。

表紙に「colored(黒人用)」という文字を見てショックを受けるエメット。人種隔離政策が行われていた時代、バスで座る場所や水飲み場まで分けられていたのは知っていたが、実際にこのように文字としてはっきりと書かれているのを見るのは初めてだった。

それを見た時、セグリゲーション(隔離政策)の威力を感じたという。いかに黒人が隔離され、孤立させられ、アメリカ社会から遠ざけられていたかを目のあたりにさせられた。

1900年の国勢調査で、高祖父ビルが1862年、高祖母ビクトリアは1864年生まれであることがわかった。つまり、1865年以前に生まれた彼らは、奴隷として生まれたということになる。

彼らの結婚証明書から、高祖母ビクトリアの旧姓もわかった。それはパーヤー(Puryear)という、変わった苗字であった。

先祖が奴隷だった場合、奴隷所有者の苗字をそのまま自分の苗字として使っていることが多い。特にパーヤーという苗字は珍しいので、さらに情報を深く追える可能性が出てきた。

ビクトリアの死亡証明書から、父はプリンス・パーヤー、母はアニー・マクミランということもわかった。

ではプリンスの父は誰なのか。そしてこの「パーヤー」の苗字はどこから来ているのだろうか。

白人の血

1870年から、国勢調査アフリカ系アメリカ人の氏名が初めて記載されるようになった。この年の国勢調査に、高祖母ビクトリアの父、プリンスの情報があった。

人種記入欄に書かれていたのは、「M」。

これはムラート、つまり混血、それも白人と黒人の混血、という意味であった。

この他にも、50代のマライアという女性、そしてプリンスのきょうだいと思われる複数の氏名があったが、全て人種は「ムラート」であった。

年齢などからマライアがプリンスを始めとするきょうだいの母親と見られる。

母親も混血とあるが、では父親はどこから来たのか。

奴隷が混血である場合、父親は奴隷所有者や、奴隷を管理している人間であると考えられる。

自分にも少しでも白人の血が入っているという事実を受け止めるエミット。酷い話であるが、こういった情報がわかるということも凄いと感じる。

マライア一家の所有者は

1850年国勢調査でパーヤーという苗字を調べると、アレックス・パーヤーとその妻メアリーという白人の情報のみがヒットした。

アレックス・パーヤーが書いた手紙が見つかる。そこには「いいネグロが沢山手に入った」という記述があった。アレックス・パーヤーは奴隷商人であった。

彼の遺言書も見つかった。アラバマで奴隷取引をしていたアレックス・パーヤーであるが、もともとはバージニアの出身であることがわかった。

さらに妻メアリーの遺言書も見つかるが、夫から受け継いだ奴隷を、家族に引き渡す旨が書かれていた。

そこに書かれていたのは、マライアとその子供、5人の名前。高祖母ビクトリアの父の名前はプリンス・アルバートであった。

彼らにとって、奴隷は所有財産であり、彼らの名前は銀のスプーンやマホガニーの椅子、といった食器や家具と一緒に並べられていた。また家族の総額は2250ドルだとも。

土地やモノみたいに人間にこんな値段をつけるのか。このようなものを見ると、黒人が自由と平等のためになぜこれだけ戦ってきたのか、よくわかる。そしてこのような人たちが、今の自分、自分の行く道を作ってくれた。自分が経験してきたことは、彼らの壮絶な経験に比べると全くなんでもないように思える、とエミット。

パーヤー家の墓が残っていた。しかしここに立っている墓石は、白人のパーヤー家のもの。奴隷だったパーヤー家の墓は?と聞くと、フェンスの向こうの林を指さされる。しかしそこは荒れ果てた林であり、墓石も何も無い。このどこかにプリンスは眠っているという。

白人の子孫はこうやって先祖の墓に行くことができるのに、奴隷の子孫はそれも叶わない、と涙を流すエミット。

当時4歳だったプリンスは、所有者であったメアリー・パーヤーの遺言により、母親と引き離されることなく、家族全員が同じ所有者に引き渡されている。

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By "Five hundred thousand strokes for freedom ; a series of anti-slavery tracts, of which half a million are now first issued by the friends of the Negro." by Armistead, Wilson, 1819?-1868 and "Picture of slavery in the United States of America. " by Bourne, George, 1780-1845 - New York Public Library, "Five hundred thousand strokes for freedom ; a series of anti-slavery tracts, of which half a million are now first issued by the friends of the Negro." by Armistead, Wilson, 1819?-1868 and "Picture of slavery in the United States of America. " by Bourne, George, 1780-1845, Public Domain, Link

当時奴隷の家族はバラバラに売られることが常であったため、これは非常に大きな意味を持つことであった。

マライアの父親

マライアの父親は誰なのか。やはりパーヤー家で生まれた奴隷なのかを探りに、バージニア州メックレンバーグ郡、ボイトンに向かう。

人口400人ほどのこの街に向かって車を走らせている間にも、「パーヤー」の名がつくタイヤ屋、花屋を通り過ぎる。

Boyd Tavern in Boydton Virginia.JPG
By Cnjnva - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

アレックス・パーヤーはこの地域に最初に入植した人物の1人で、このような宿も所有していた。このポーチに奴隷を並べ、奴隷のオークションも行われていたという。

「アメリカ・ザ・ビューティフルだね」とつぶやくエミット。奴隷の歴史を知れば知るほど辛さが増す。

マライアの出自についてさらに知るため、アレックス・パーヤーの父親サミュエルの情報を探す。

サミュエル・パーヤーの権利書が見つかる。権利書は他の公的書類とともに本として製本されているが、シリアル番号として22と印字されていた。「自分がずっと使っていた背番号だ」と不思議な気持ちになるエミット。

1826年の権利書には、マライアという名前の奴隷の少女を息子アレクサンダー(アレックス)に譲渡する、と書かれていた。マライアは当時11歳。

奴隷の歴史に詳しい専門家は、恐らくサミュエルが父親だろう、とエミットに伝える。恐らく奴隷所有者であったサミュエルが、「繁殖させた(breed)」結果だという。

「繁殖」させられた奴隷

「繁殖」という言葉にショックを受けるエミット。しかし奴隷を取引するために、まるで馬を育てるように、奴隷は白人所有者により「繁殖」させらていたのだった。奴隷はまるで家畜同然だったのである。

当時発行された、この地域の馬の出生記録、そして馬の血統をイギリスまでたどることができる冊子がある。それを見て、ある意味、馬の方がちゃんと記録が残っているという点で、奴隷より良い扱いを受けていたと感じるエミット。馬さえ先祖をたどることができるのに、自分はアフリカの自分の先祖のルーツをたどることさえできない。

マライアは1815年、この地域の農場で、奴隷の母親の元に生まれた。父親はサミュエルであったことは間違いないと思われる。

大抵の場合、所有者は妻に気兼ねして、自分の子供でもある奴隷を手元に置かず、母子を他に売り飛ばすことが多かったという。

しかしマライアは11歳になり、アレックス・パーヤーに引き継がれ、彼もマライアを売らずに手元に置いていたのは、恐らく「自分の妹である」という認識があったのではないかという。

ただしマライアはレイプによって生まれたと考えられる。

サミュエルは冷酷な人間だ、でも自分の先祖でもあると複雑な気持ちになるエミット。でも自分はサミュエルのような人間ではないということは確かだ。

自分の子供が生まれたあとも、引き離されることなく一緒に暮らすことができたマライア。そして国勢調査から、生まれた長女に、アレックスの妻と同じ、メアリーという名前をつけている。そこにはなんらかの家族の繋がりが見えてくる。

片足は奴隷、片足は白人社会の中で、バランスを保ちながら生き延びてきたマライア。そして自分の子供達と離れることなく、成長を見届けることができた。

情報はこれでデッドエンド、これ以上たどることはできなかったが、約200年、6代に渡る先祖をたどることができた。これ以上の情報を知ることができないのは残念だが、マライアという強い女性を知ることができたことを嬉しく思うエミット。

遺伝子テスト

アフリカでのルーツを書類から探ることができないため、エミットは遺伝子テストも受けていた。

その結果、7% ネイティブアメリカン、 12% ヨーロッパ系、そして81%アフリカ系であるという結果が出た。アフリカ系アメリカ人で、まず100%アフリカ系であるという結果はない。81%はその中でもかなり高い割合であるという。

また、アフリカの中でも、母方、父方とも、奴隷海岸と呼ばれた地域の出身であることがわかった。

現在のベニン共和国に飛ぶエミット。

この地域は、当時アフリカでも奴隷の輸出元として第二の規模があった場所であるという。

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By jbdodane - 20131010-DSC_3203, CC BY 2.0, Link

現在は博物館になっている、奴隷取引所に向かう。奴隷はここでチェックされ、選り分けられ、船に乗せられた。

ここで何があったかを考えると辛いが、ここで先祖が生き延びなければ、今の自分はいなかったと考えるエミット。

ある村の学校を訪ねるエミット。ここに通うのは、人身売買の被害者で身寄りのない子供たちだという。現在も、生活が苦しいため子供を労働力として売ることがあるのだという。

何百年前の話ではなく、今でもこうやって次のマライアが生まれていることに衝撃を受けるエミット。

エピローグ

この旅で、自分が探していたものが見つかったような気がする。アフリカの地に立ち、自分の先祖を感じ取ることができているような気がする。先祖がよく帰ってきてくれた、と喜んでいるように感じる。他にも色々な問題が見え、まさに目が開くような経験をたくさんしたと思う。アラバマの奴隷の魂の叫びも聞いた。自分の歴史、ヒストリーが「マイストーリー」になった瞬間。

ひとこと

自分のルーツを調べるには、移民記録や様々な登録情報をたどっていくのがお約束ですが、それがなかなかできないのが奴隷としてアメリカにやってきた人達の子孫。

この回は、知っているようで知らなかったアメリカでの奴隷の歴史や現実をリアルに見ることができた、結構衝撃的な回でした。

特にエミットが訪ねるアラバマバージニアの、それこそ人がほとんど住んでいないような街の風景。開拓時代からあまり変わっていないのではないかという感じで、そこがゴーストタウンにようになっているのは非常にぞくっとしましたし、奴隷所有者であったパーヤーの名前のついた看板が、道端にどんと現れたシーンも、まるで過去の亡霊がまだそこにいるかのようでした。

パーヤーの名前がついたタイヤ屋の看板、ストリートビューで見ることができます。この地図を開けてストリートビューにして、道路の右側、右斜め後ろにちにあります。よかったら見てみて下さい。古臭い看板がさらになんとも言えない雰囲気です。

数日前には、別のフットボールプレイヤーですが、Kenny Easleyが殿堂入りし、その際に行ったスピーチで、Black lives matterに触れていました。そこで自分は奴隷の子孫、そして自分は混血である、そしてアメリカ人である、と語っており、ちょうどこのエピソードを思い出しました。

最近不穏だらけのアメリカ社会とアメリカ政治。過去は簡単に忘れられますが、ほんの200年前、こんなことが起きていたこと、そして公民権運動が起きるまで人種隔離政策が行われていたのも、本当に数十年前であることを考えると、恐ろしい気もします。

<アメリカ版、2010年>

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【俳優・マーティン・フリーマン】シャーロック相棒のルーツ:前線で亡くなった祖父、盲目の曽祖父

プロローグ

TVドラマ「シャーロック」のワトソン役などで日本でも有名な俳優、マーティン・フリーマン

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b5/Martin_Freeman_during_filming_of_Sherlock_cropped.jpg

5人兄弟の末っ子であるマーティンは、10歳の時父を亡くした。父がいなくても大丈夫と、気丈に振る舞う子供時代だったが、年齢を重ねるごとに、父の不在は堪えたという。

父のことについて知る機会もなかったマーティンは、父のルーツについて知りたいと考えている。

ダンケルクで亡くなった祖父

兄から話を聞くマーティン。祖父レナードは、父が10歳の時、第二次大戦で亡くなったと聞いている。ダンケルクの戦いで亡くなったらしいが、詳細は不明。

国防省から祖父の記録を取り寄せる。そこにはRAMCに入隊、1940年5月25日、戦闘中に死亡とあった。ダンケルクの戦いが始まったのは、5月26日。やはり祖父はダンケルクで亡くなったのだろうか。

帝国戦争博物館に向かう。ここでRAMCとは、Royal Army Medical Corps、 英軍衛生部の略であること、祖父は第150医療部隊に属していたことが明らかになった。

1940年、フランス、ベルギー国境から迫ってきたドイツ軍は、国境北部だけでなく、南部からも重装備で迫ってきた。

劣勢だった連合軍は、北部へ追い詰められ、フランス北部海岸沿いの街ダンケルクから34万人の兵士が撤退した。撤退中にもドイツ軍からの爆撃は続き、祖父が属した衛生部隊は負傷兵の対応に追われたという。

British troops retreat dunkerque.png
By Frank Capra (film) - Divide and Conquer (Why We Fight #3) Public Domain (U.S. War Department): http://www.archive.org/details/DivideAndConquer, Public Domain, Link
ダンケルクから撤退するイギリス軍兵士

実際の撤退が始まったのは5月26〜27日。祖父はまさに撤退開始の数日前に亡くなっている。

残された部隊日誌には、5月25日、ルフトヴァッフェドイツ国防空軍)からの爆撃あり、2人死亡13人負傷、と記されていた。名前は書かれていなかったが、これが祖父なのだろうか。

祖父の部隊へ

マーティンは詳細を確かめるため、部隊の本部である、ヨークシャーの街、ハルに向かう。

ここでレナードが衛生兵として、戦地で医療補助を行っていたことがわかった。ダンケルクでは、多くの部隊が海岸へと急ぐ中、医療部隊はドイツ軍の爆撃で負傷した兵士達の手当に奔走したという。

さらに詳細な戦闘記録が残されていた。そこには、部隊が爆撃されたこと、フリーマン二等兵が死亡したことが書かれていた。

たった一行の記録だったが、それを読み言葉を失うマーティン。

さらにマーティンは、本部内のある建物に案内される。その壁には戦没者碑が埋め込まれており、そこには亡くなった祖父の名前も刻まれていた。祖父の部隊からは9人が犠牲になったという。

ここにずっと祖父の情報も、名前を刻んだメモリアルも存在していたのに、それを自分が今、初めて知ることに不思議な感慨を覚えるマーティン。

今までぼんやりとした存在でしかなく、ほとんど思い出すこともなかった祖父の名前が、目の前に現れた時の衝撃。祖父の存在をようやくリアルに感じることができたが、今まで知らなかったことも悔やまれる。

視覚障害者だった曽祖父

レナードの家族についてさらにルーツをたどる。

レナードの出生証明書から、曽祖父リチャード・フリーマンは1853年生まれで、オルガン奏者だったことがわかった。祖父レナードは父が56歳の時に生まれている。

曽祖父リチャードが18歳の時の国勢調査を確認すると、備考欄には、生まれた時から盲目であると記載されていた。彼の居住地も、寄宿制の盲学校であった。

ロンドン王立盲人協会(Royal London Society for the Blind)に当時の記録が残っていた。

生徒がスポーツをしたり、様々な訓練を受けている当時の写真を見るマーティン。またリチャードの入学申込書も見つかった。そこにはフリーマン家には子供が5人おり、盲目のリチャードの世話や十分な教育に手が行き届かないことから、この学校に入学を希望する旨が書かれていた。まだ、彼が在学中、嘘をついて学校をサボり、怒られた記録も見つかる。

ビクトリア時代視覚障害者への教育はほとんど行われず、視覚障害を持つ子供は、将来物乞いなどをして生活することを余儀なくされる場合も多かった。

そんな中、子供を盲学校に入学させ、教育や職業訓練を受けさせようとしたリチャードの両親は、進歩的だったと言える。

ここでピアノ調律の技術を身につけたリチャード。盲学校では、視覚障害者にふさわしい技術として、音楽の訓練も積極的に行われていた。特にオルガニストやピアノ調律師といった技術は、かご編みなどといった他の技術よりも、経済的にもより有利であった。

サセックスでの裕福な暮らし

盲学校卒業後、リチャードはロンドンから南に1時間ほどいったところにあるサセックスの街ワージングで調律師として職を得ている。

当時の地元新聞に、彼のビジネスの広告も見つかった。

またリチャードは、地元セント・アンドリュース教会のオルガニストでもあった。

St Andrew's Church, West Tarring, Worthing.jpg
By The Voice of Hassocks - Own work, Public Domain, Link
現在のセント・アンドリュース教会

当時の教会の会報に、リチャードが教会で行ったオルガンコンサートのレポートが残されていた。そこからはバッハやハイドン、グノーなどの多くの難曲を、全てリチャードが暗譜し演奏していたことがわかる。

現在もリゾート地であるこの街は、当時高級住宅地として開発が進んでおり、上流階級の人々によるピアノの調律や音楽の需要が十分にある街であったという。

1881年国勢調査では、リチャードはここで結婚し、子供も2人もうけ、とても大きな家に住むなど、中流階級としての生活を満喫していたようである。

1891年の国勢調査では、子供は全部で6人に増えていた。しかしその年、最初の妻が心臓病で亡くなる。

ほどなくして同年、リチャードは2番目の妻と再婚。しかし1894年、リチャードは何らかの理由で教会のオルガニストの職を辞していた。

教会の会報には、「教会員には周知の理由により、オルガニストの職が空席になった」と書かれており、何らかのスキャンダルがあったと思われるが、詳細は不明である。

さらに1901年の国勢調査では、家族がバラバラになっていることがわかった。2番目の妻の名前は消えており、子供のうち1人は1895年に死亡。2人はロンドン、2人はサセックスに移り、1人の消息は不明。特に妻の足取りはこれ以上わからず、死亡証明書も見つからなかった。

3度目の結婚

1901年の国勢調査ではさらに、リチャードが3度目の結婚をし、ヨークシャーの街ハルで音楽教師としての職を得ていたことがわかっている。

妻エイダはリチャードより20歳若く、自らも音楽教師であった。また2人の間には、子供が6人生まれており、そのうちの1人がマーティンの祖父レナードであった。

ハルにエイダの孫がまだ住んでいると聞き、会いに行くマーティン。エイダは3歳の頃に視力を失ったこと、家事は裁縫なども含めて全てこなし、点字本を図書館から借りて、様々な文学を読むなど、教養にも溢れる人物だったという。

1915年にリチャードが64歳で亡くなると、その後2度再婚したという。

子供の死と梅毒

国勢調査では、家庭で生まれた子供の数、そしてそのうち現在生存中の子供の数を書く欄がある。そこから、リチャードとエイダの間にいる子供6人の他に、夭折した子供がさらに6人もいることがわかった。

当時の子供の死亡率は15〜20%であったが、子供の半分が亡くなるというのはやはり何かあったのだろうか。そして残りの6人の子供は、なぜ生き残ったのだろうか。

亡くなった子供のうち4人の死亡証明書を見つけることができたマーティンは、それを持って小児科医を訪れる。

証明書の死亡理由は、未熟児、栄養不全などで、皆生後数ヶ月、時に数時間で亡くなっていた。水疱瘡、はしかを初めとする、目に見える症状がなかったこと、結核も疑われるが母親は90歳まで長生きしたことなどから考えて、一番疑われるのは、梅毒であるという。

さらに性病の専門家に話を聞くマーティン。

まず死産や早産だったケース、その後健康な子供が生まれたケースの間に、何年のギャップがあるかを確認するという。エイダの場合は、約8年。

梅毒に感染した妊婦が健康な子供を産む確率は、梅毒に感染した期間が長いほど高くなり、感染から健康な出産までにはだいたい4~6年ほどかかるという。

梅毒は20世紀初頭にペニシリンが発見されるまで、その強力な感染力から、ペストに次いで恐れられていたという。感染すると、顔や身体中の湿疹、そして角膜が濁り視力を失う。

エイダが3歳で視力を失ったのも、もしかして梅毒が関係しているのだろうか。

エイダの出生証明書から両親の名前を突き止め、そこからエイダの兄の死亡証明書を見つけることができた。エイダの兄は生後3ヶ月で、母子感染による先天性の梅毒が原因で亡くなっていた。

それからあまり間を置かずに生まれたエイダも、先天性梅毒にかかっていた可能性が非常に高いという。

ただし、出産時の問題から見て、エイダは2度感染している可能性があるという。おそらく2度目は、リチャードからの感染だと思われる。

当時のイギリスでは実に10人に1人が梅毒に感染していたため、これはそれほど珍しいケースではなかったという。

エピローグ

視力を失い、梅毒に2度感染したエイダであったが、6人の子供を育て、2度再婚し、90歳まで生きた。先祖をたどっていくと、このような驚くべき人物が必ず家族にいるもの。そして、自分はそういった素晴らしい人達によって生み出された存在である、ということに感慨を覚えるマーティン。

ひとこと

「シャーロック」の他にも「ホビット」を始めハリウッドでも活躍するマーティン、この回が放送された2009年は、テレビドラマ「The Office」が代表作として紹介されており、世界的にブレークする前でした。この番組では、出演者の自宅内部が撮影されることも多く、イギリスの有名人はずいぶんとつましく、普通の生活をしているな・・というところも垣間見えて興味深いです。

パトリック・スチュワート父親はフランス前線でも南でドイツ軍と戦っていましたが、マーティン・フリーマンの祖父は同時期に北の前線で亡くなっていました。

ただ従軍前の祖父の話がなかったり、曽祖父一家の調査については、国勢調査、出生・死亡・結婚証明書のみで調査を済ませてしまっている感もあり。2番目の奥さんや一部の子供の足取りがつかめなかったりもしましたが、ちょっと調査が表面的な感じもしないでもない回でした。

でも梅毒が昔はこんなに広がっていたなんて、驚きです。今は何かあるとすぐ抗生物質をもらえますが、そんなものがなかった時代、もっとちょっとした病気で死んでしまう人も多かったでしょうし、こうやって今はあまり見られない病気(と言いつつ、日本ではまた広がりつつあるというニュースも見ましたが)と共存していた人達も多かったのでしょうね。医療の進歩には感謝です。

<イギリス版、2009年>
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【女優:レベッカ・ギブニー】マオリの地、崩壊家庭の悲劇の歴史

エピローグ

オーストラリアで活躍する女優レベッカ・ギブニーは1964年ニュージーランド生まれ。オーストラリアの人気テレビドラマ「Packed to the Rafters」で母親役を演じ、人気を博した。

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夫、息子と3人で幸せに暮らすレベッカだが、自らは崩壊した家庭で育った。父親アルコール中毒で暴力をふるい、母親は自分の父親に虐待されて育ったという。

こういった事実から目を背けて生きていくのは簡単だが、向き合わないと前に進むこともできないのではと考えている。

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【俳優:パトリック・スチュアート】スタートレック俳優のルーツ:フランス前線で戦った父の二面性

プロローグ

サー・パトリック・スチュワート。日本でもスタートレックX-Menシリーズなどで有名な俳優である。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/14/Patrick_Stewart_by_Gage_Skidmore.jpg/389px-Patrick_Stewart_by_Gage_Skidmore.jpg

2007年、舞台「マクベス」を、軍服を着て演じたパトリック。鏡に映った自分の姿の中に、軍人だった父親の面影を見て驚愕したという。

長い俳優生活の中で、父親を自分の中にチャネリングさせて演じてきた部分があったかもしれない、と語るパトリック。そしてそれは一体どういうところから来ているのか、理解したいという。

暴力を振るう夫、有能な軍人

パトリックは1940年、ヨークシャー地方マーフィールド生まれ。兄が2人いる。

母グラディスはマーフィールド生まれ、マーフィールド育ち、優しいがとてもおとなしい人物だった。

軍人だった父アルフレッドは、戦争で不在な事が多かった。一番上の兄が8歳になった時、両親は公式に結婚。パトリックが5歳の時にようやく家に帰ってきた。

それまでは母に可愛がられ、甘やかされて育ったが、父が帰ってきてからは生活は一変。

父は飲酒し、機嫌が悪くなることが多く、母親に暴力を振るったという。子供に対して手をあげることはなかったが、母に対する暴力は、時には警察や救急車を呼ぶこともあるほど酷かったという。

母はそれでも父の事を愛していたようで、父を残して出て行くことはありえない事だったという。

家庭では暴力を振るう父親だったのに対して、軍隊での父親の業績は素晴らしいものだったようだ。この二面性はどこから来るのだろうか。

父の従軍記録

帝国戦争博物館で父アルフレッドの従軍記録を確認する。

ルフレッドは1925年、19歳で軍に入隊。

入隊の日付を見てみると、長兄が生まれる2週間前となっていた。兄が生まれた時両親は結婚していなかったため、彼は婚外子として登録されている。まるで何かから逃げるように入隊したように感じるパトリック。

1933年に両親はようやく結婚。その後、父は連隊内の風紀・規律を取り締まる連隊警官(regimental police)の任務についた。連隊の兵士を厳しく取り締まるこの役職は、時に兵士から嫌われるような厳格な人間である必要があったという。

7年間の任務を終えたアルフレッドは、第二次世界大戦勃発後、34歳でまた軍に戻っている。

所属したのは、略してコイリー(K.O.Y.L.I)と呼ばれる軽歩兵部隊である。正式名はKing's Own Yorkshire Light Infantry

この部隊は戦闘要員ではなく、ドイツ軍との戦闘に備え、軍事物資を輸送するための運輸ネットワークを作るなどの、後方支援を行うためにフランスに派遣された。

部隊は十分な訓練も受けず、即任務につく必要があったため、軍での経験が豊富なアルフレッドの存在は重要であったと言う。

アヴウィルで見たもの

イギリス軍は、ドイツ軍の侵攻に備え、アントワープブリュッセルなど、フランス・ベルギー国境でも北部に重点をおいて準備を進めていたが、1940年5月から始まったドイツ軍の攻撃規模は想像以上であった。

ベルギー国境に向かうため、部隊は列車でフランスを北西に移動する。

当時の隊員の手記には「反対方向の電車には、ほとんど装備を持たないベルギー軍の兵士達が沢山乗っていた。我々の進行方向を指差して首を切るゼスチャーをしていた」とある。

父アルフレッドの乗った列車はアヴウィルという街で止まってしまう。街はドイツ軍の爆撃を受け、壊滅状態であった。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/da/Abbeville_place_du_pilori.jpg/640px-Abbeville_place_du_pilori.jpg
現在のアヴウィル

空爆は続いていた。街は火と煙に覆われていた。電車から降り、左手にある運河にかかる橋を渡り、草むらに隠れるしかなかった」

アヴウィルを通る線路の上に立つパトリック。当時の隊員の手記から、父が列車を降り、爆撃から逃れた場所を確認する。

手記には、爆撃を受けた街の人々が逃げまどっている様子も書かれていた。「18歳ぐらいの娘が、ショックでおかしくなったのか、狂ったように笑いながら走っているのが見える。線路上にも人々が溢れかえったため、部隊は身動きを取ることができなくなり、電車の運転手も逃げてしまった。」

パトリックは子供の時に父がこの風景について話してくれたことを覚えているという。電車の窓からだらりと出ていた女の人の手。その手には指輪がはめられていたが、しばらくしてまた同じ場所に戻ると、その手から指輪が無くなっていたという。

まさしくこの場所で起こった光景を話してくれたことに気がつくパトリック。子供心に恐ろしくも面白い話だと思って聞いていたが、この話をした時の父の声は怒りが含まれていたかもしれない。

イギリス軍はどんどん北部に追い詰められ、その後、ダンケルクから兵士の撤退が始まった。

コイリーはそれでもすぐには撤退せず、地域がドイツ軍の手に落ちる数時間前にようやく撤退した、最後のイギリス軍部隊であったという。

シェルショック

イギリスに戻った父アルフレッドは、地元新聞のインタビューを受けていた。記事にはアルフレッド・スチュアート軍曹、とあった。イギリス帰還直前に昇格したらしい。

「フランスには3ヶ月いたが、ドイツ軍の残虐さ、特に子供に対する残虐さは忘れられない。3週間ほどはあまり食べるものもなく、ドイツ軍が侵攻する直前にようやく引き上げることができた。しかしその前に受けた爆撃によるシェル・ショックに今も苦しんでいる」

シェルショックとは第一次世界大戦で使われるようになった言葉で、いわゆるPTSDのこと。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/cc/Shellshock2.jpg
第一次大戦中の写真。目を見開き、視線が遠くに行くなどのシェルショックの症状が見られる兵士

パトリックは父がシェルショックについて話しているところを聞いたことがなかった。今になって、戦争を経験したことによるショック、怒り・・それが父親にあったことに気づく。

ドラグーン作戦

その後アルフレッドは1943年、エリート部隊、パラシュート部隊に志願し入隊する。その時すでに38歳。通常であれば退役する年齢で、肉体的にもきつくリスクも高いこの精鋭部隊に入隊した。

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すぐに連隊先任軍曹(regimental sergent major)に昇進した彼は1944年8月、フランス南部で行われたドラグーン作戦に参加する。

ドイツ軍の侵攻を防御するため、南フランスの海岸沿いの街に上陸するというこの作戦には、米英混合、約9000人の空挺兵が参加した。

父親が米軍の飛行機の前で、他の隊員と写っている写真を初めて見るパトリック。

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父とともに作戦に参加した元隊員とともにヘリコプターに乗り、父がパラシュートで飛び降りた場所に向かう。

朝4時、レ・ムイの街近くに飛び降りたという。眼下は霧で、まるで海に飛び込むようであったという。

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イギリス空挺部隊が作戦に参加している写真はこちら

当時、連合軍の司令部が設置されていた家を訪ねるパトリック。普通の民家から出てきた女性は、当時12歳。彼らが来たことでこの村での戦争は終わった、その日のことは今でもよく話題にのぼる、と語った。

ノルマンディー作戦の影に隠れて忘れられがちであるが、ドラグーン作戦は最も成功した作戦の一つであり、第2のD-dayとも言われている。この数ヶ月後にフランスは解放された。

父がどれだけ勇気のある男だったかを知るパトリック。そして自分がやっていることが、きっと好きだったに違いないと考える。自分の好きなことを一直線にやるという性格は、父から受け継いだものかもしれない。

部隊における「父親的存在」

作戦後イギリスに戻ったアルフレッドは、5ヶ月後の1945年1月、空挺第二部隊の連隊先任軍曹となる。この部隊は1944年9月のオランダ・アミアンの戦いで多大な犠牲を出し、部隊を再構築する必要があった。

立て直しは急を要した。そんな中、部隊の士気を上げるためには、彼のような経験豊かで、ある意味父親的な存在が必要不可欠であったという。

自分の子供にとってはあまり父親らしくなかった人が、部隊の多くの人達にとっては、父親代わりであった事に不思議な感慨を覚えるパトリック。「じぶんは父親を人間としてよく知らなかったのかもしれない」

兄との関係

話を家庭内に戻すと、長兄ジェフリーと父とはいつも折り合いが悪く、それは兄が成長するにつれ悪化したという。

長兄誕生直前の入隊や、長い間正式に結婚しなかった事なども合わせ、もしかしてジェフリーは父親の本当の子供ではなかったのではないかという疑惑を持つパトリック。

生まれ故郷ヨークシャーで記録をたどってみると、母グラディスが父アルフレッドに対し1925年に起こした裁判記録が見つかった。それは生まれた息子ジェフリーの養育費を要求するものだった。

1920年代は、シングルマザーにとってはまだまだ辛い時代であった。子供を持つ母親は仕事を得る事ができなかった上、家を借りる事も難しく、また生まれた子供が財産を受け継ぐ事もできなかったという。また世間の風当たりも強かったため、子供は養子に出される事も多かったという。

そんな中、内気な性格である母が法廷に立ったことは驚きであった。法廷に立つことで、世間の目にも晒されることになるが、子供を守るため必死だった。

ルフレッドはジェフリーが自分の子供であることを認めた。兄が実子であることを確認し、心のつかえが降りたパトリック。

シェルショックの影響

第一次大戦で明らかになった、シェルショックという症状。これが父にどのような影響を与えたのか専門家に話を聞く。

爆撃や戦闘などのトラウマから起こるこの症状は、通常の生活に戻っても、悪夢やフラッシュバック、そして時には暴力という形であらわれるという。

時が経てば治るというものでも無く、何十年も立ってからも、犯罪や、家庭内暴力という別の形で影響を及ぼすこともあるという。

第一次大戦後、このような兵士のために精神病院が作られたが、そこでの治療は電気ショックや催眠療法など、あまり効果が確認できるものとは言えなかった。

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まさに2万2000人もの兵士がこのような施設に入所したが、一生退院できず、家族と引き離されるものも多かったという。

戦争に寄る心の大きな傷。しかしこのような症状を訴えることは、自分の弱さを露呈すること、恥であるという考えもあったため、助けを求めない者も多いという。

そういった心の傷を抱える父親に、自分たちは何ができただろうか?というパトリックの質問に、あまり何もできなかったと思う、と専門家。

もちろんカウンセリングを受けるなどという対策はあるが、父親は戦争の時の気持ちをありのまま正直に話す、ということは絶対にしなかった。

父親が持つ戦争によるトラウマについて初めて知り、専門家と話したことで、安堵するパトリック。

エピローグ

父が好きで良く通っていたというパブで、次兄と話をするパトリック。

父の戦争の経験、シェルショックの話を兄と共有する。

母親に辛く当たっていたことは悲しいことだが、いろいろなことに説明がつく、と兄。それでも軍では素晴らしい成果を上げてきたということは、無意識にそういう気持ちを押さえつけていたのだろう。もしこういう話をすることができていたら、お互いにどんなに気持ちが楽だったろうか。

父の家庭内暴力については許すことはできないが、父親について、新たな側面を見ることができ、もう少し暖かい気持ちで父のことを思うことができるようになった。

そして母はとてももの静かで内気な人物であったが、兄の認知を求めて法廷に立つなど、強い面も持ち合わせていたことを知った。そしてもしかして、自分が今回父について知ったことを、母は全て知っていたのではないだろうか。だからこそ、父の元から去ろうとしなかったのかもしれない。

ひとこと

夏に終戦記念日が近づいてくると、戦争のことが話題になります。少なくとも私が子供の頃はそうでしたが、今はどうでしょうか。

最近映画「ダンケルク」も公開されましたが、今回のエピソードも、フランスの前線で戦った父親の話でした。

私の祖父もシベリア抑留されたそうですが、戦争の話については全く話さずに亡くなったので、戦時中どのような経験をしたのか、まだ知りません。話さなければ話さないほど、実は大きな衝撃、トラウマがあったのではないかと勘ぐってしまいます。

軍人としては立派な功績を残した父親、でも戦争の影はその人物の性格を変え、家庭内にも影響を及ぼし・・・。そういえばパトリック・スチュアート自身も、息子との関係がそれほどうまく行っていなかったような話もどこかで聞きました。もしかしたら戦争の影響は、世代を超えて続いていたのかもしれません。

ずいぶん後になってからでも、なぜ父がこういう人間であったか・・ということをこうやって理解でき、彼の中でいろいろなことに整理や説明がついたことは良かったですね。本来であれば、心を開いてこういうことを話し合える関係が望ましいですが、特に時代もあったでしょうし、親子の関係、なかなかそうは行かないものだったりするものです。

もしかして父親も自分の中で何が起こっているか、理解できていない面があったかもしれません。日本でもありえますね。

第一次大戦、第二次大戦中のシェルショックの患者の映像を見ましたが、普通に歩けなかったり、異様なほどの震えがあったり、とにかく狂ったように笑っていたり・・と恐ろしいものでした。シェルショック、PTSDは今の帰還兵も苦しめる症状で、アメリカではこういった帰還兵がホームレスになってしまうケースがとても多いことも問題になっています。

軍隊や戦争用語の日本語訳は、wikipediaなどを参考にしましたが、間違っていたらすみません。

ドラグーンの作戦については、日本ではどれくらい知られているんだろう・・とちょっと日本語で検索してみたところ、ほぼ戦争ゲームの攻略法のサイトばかりがヒットしてしまいました(苦笑)。

こういう個人の経験談や実際の映像を見た後で、これがエンターテイメントになっているのかと思ったらかなりがっくりきてしまいましたが、例えばこれが三国志に出てくる戦いの戦略ゲームだったら・・ここまでうわっと思わないですね。やはり時が経つと記憶が薄れ、単なる史実として消費されていってしまうんでしょうか。

そういう点では、今の若い人たちにとっては、第二次世界大戦の記憶というものも、私が子供の頃と比べるとどんどん遠いものになっているのかもしれません。

<イギリス版、2012年>

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【女優:シンシア・ニクソン】SATCキャストのルーツ:先祖は斧を手にした殺人鬼?

プロローグ

シンシア・ニクソンはテレビドラマ「セックス・アンド・ザ・シティ」の弁護士、ミランダ・ホッブス役で有名な女優。

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ニューヨークで生まれ育ったシンシアの両親は彼女が6歳の時に離婚。

普段は母と暮らし、週末になると父の家に行く生活であったが、父はとても可愛がってくれ、仲がよかったという。父はあまり自分のことを話さなかったので、彼のルーツについて知りたい。

マーサの夫はどこに?

ニューヨーク歴史協会を訪ねるシンシア。

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観光地としても有名なニューヨーク歴史協会

国勢調査などの情報から、自分から4代前の高祖父母の名前がわかる。高祖父はサミュエル・ニクソン、高祖母はメアリー・M・ニクソン。だが高祖母の旧姓がわからなかった。

そこでメアリーの死亡証明書を確認する。そこにはミズーリ生まれと記されていたが、父親の名前は不明とあった。母親の名前は、マーサ・カーナット(Curnutt)。

ここから、ミズーリでの結婚記録を探すと、マーサは1839年ノア・キャストー(Casto)という男性と結婚した記録が見つかった。

さらに1850年国勢調査を調べる。数年に一度行われる国勢調査であるが、この年から、家長だけでなく、家族全員の氏名、年齢が記載されるようになったのだという。

不思議なことに、マーサ・キャストーで調べても何もでてこない。

しかし旧姓であるマーサ・カーナットで調べると、38歳のマーサが、3人の子供メアリー、ノア、サラとともに、実家に身を寄せていたことがわかった。

また子供達の苗字は父親のキャストーではなく、カーナットとなっている。果たしてマーサの夫に何があったのか。

3人目の子供の父親は?

情報を探るため、次に見たのは南北戦争関連の記録。当時多くの人が、南北戦争後に年金の申請をしたという。申請書には家族構成や申請理由なども書かれているため、そこから何かわかるかもしれない。

南北戦争勃発時18歳だった、マーサの息子ノアの情報を探してみると、戦争から20年後の1881年の申請書が見つかった。

さらに申請したのはノア本人ではなく、母親のマーサであった。申請当時ノアは既に亡くなっていたようだ。

これらの情報は全てオンラインで調べることができたが、申請書に書かれている詳細は実物を見る必要がある。申請書を見るためワシントンDCのナショナルアーカイブに向かう。

実際の申請書を見てみると、申請書が提出された時マーサは69歳。ノア南北戦争で亡くなっていたことがわかった。

息子に頼って生活していたこと、夫は1842年に亡くなったと記されていた。

1839年に結婚し、シンシアの高祖母メアリーが生まれたのが1840年。まだ幼い時に父が亡くなっていたことがわかった。おそらく息子ノアはまだ母親のお腹の中にいたかもしれない。

しかし次女サラは国勢調査から1844年生まれであることがわかっている。ということは、夫ノア・キャストーの子供ではないということになる。

サラは誰の子供なのか?しかも子供達が、亡くなった夫の苗字を引き継いでいないのはなぜか?

ミズーリ州の記録に何かないか調べてみると、1843年、マーサ・キャストーの名前で裁判記録が見つかる。しかもそれは、殺人事件に関するものであった。

1843年の殺人事件

裁判記録には、マーサ・キャストーが過失致死で有罪になったことが書かれていた。しかし被害者が誰かについては書かれていない。

マーサ達が暮らしていた地域の歴史を記した本に、彼女が犯した殺人事件についての記述が残っていた。そこには、夫ノアが就寝中、マーサが斧で彼の頭を殴り殺したと書かれていた。またマーサが州の刑務所に入った歴史上2人目の女性であったことも記されていた。


事件の起きたミズーリ州バリー郡

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バリー郡裁判所

夫の死亡年は、年金申請書では1842年となっていたが、裁判記録では1843年。もし裁判記録が正しければ、1844年生まれの娘サラは夫の子供だった可能性はある。

マーサは妊娠中に夫を殺し、刑務所で子供を産んだということだろうか?

事件の真相

当時地域で発行されていた新聞を調べる。事件が起きた1843年7月のマイクロフィルムを調べると、「Horrible」というタイトルの記事が出てきた。

記事は、伝聞という形で書かれており、「この事件について語った人はその男性の名前を忘れてしまったということだが」という書き出しで、マーサやノアの名前は出てこないが、明らかにこの事件について触れられている。

それによると、想像もつかないような、言葉にするのも憚れるような、ひどい扱いを妻にしているある男性がいた。その男性はある日妻を起こし、自分と子供2人の朝食を作るよう要求した。また日没までにはお前の命はないから、せいぜいお祈りでもしているようにと妻に言った。

妻はキッチンで火を起こしたあと、ベッドでまだ眠っている夫を見て、斧をつかみ、彼の頭を斧で打った。斧は夫の目と目の間を通り、頭部が割れ、即死だったようだ。

妻はその後近所に走り、何が起きたかを話したという。当時の状況から、夫を殺さなければ、自分が殺されるような状況であったと考えられる。

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19世紀のアメリカでは当時女性の権利はなく、特に結婚すると、女性が持っていた財産や土地なども、全て夫の所有となった。また夫が妻を物理的に「罰する」ことも、法律で許されていたという。

新聞記事では、夫が妻を「不自然な形で」ひどく扱っていたとあり、おそらくひどい性的虐待があったのではないかと読み取れる。

ミズーリの何もない土地、夫に虐待され、周囲に頼れる家族もなく孤立し、マーサはギリギリの状態だったのではないか。何もしなければいずれは自分だけでなく、夫に子供達まで殺されると考えたかもしれない。

さらに過酷な刑務所での出来事

当時唯一の女性受刑者だったというマーサの刑務所での生活はどんなものだったのか。

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現在は閉鎖されているミズーリ州刑務所の建物

その頃のミズーリ州刑務所では男性受刑者が800人ほどいたが、もちろんマーサがその中に混じることはなく、食事なども独房で取り、刑務所の外で、判事の家で働くなどしていた。

マーサと同時期にこの刑務所で服役し、その頃の様子を本に書き記した元受刑者がいた。本にはマーサのことについても書かれていた。

それによると、マーサは当初判事の家で働かされていたが、判事の妻の虐待があまりにも酷く、逃げ出そうとしたという。

それが原因で独房に入れられ、しばらくは食べ物もあまり与えられなかったという。

その後、秋には刑務所で出産した。

マーサが刑務所に入所したのは1843年の8月、そして出産は1844年の秋。つまり父親は夫ノアではなく、他の誰かということになる。

子供の父親が誰かは今となってはわからないが、彼女にアクセスできた人物は、独房の鍵を持っていた看守や、働かされていた家の判事など、限られた人間だけであったはずである。

出産の時は、医者は独房に来るのを拒み、判事の妻(おそらく彼女の世話をしていた?)も人を近づけず、マーサは1人で出産しなければならなかった。たまたま近くにいた受刑者がずっと付き添ったというが、彼女を助けたのはこの受刑者1人だけであったという。

生まれた後も判事の妻が彼女や生まれた子供を人から遠ざけ、世話をさせなかったため、産後1週間の間、冬の寒い中、冷たい独房の中で過ごさなければならなかった。

冬の厳しいミズーリでは、暖をとるために独房の中にもストーブはあったが、火を使うことも禁じられ、子供には服も与えられず、しばらくは裸であったという。

その後ようやく独房から出されたというが、おそらく刑務所内で妊娠出産があったことを隠すため子供を意図的に殺そうとしたのではないかとも考えられる。

夫を殺すことで最悪の状態から逃れられると思ったマーサであったが、刑務所でさらに酷いことが起こった。刑務所内で唯一の女性だというだけで恐ろしいが、実際にこのようなことが起こったのを目の当たりにすると、本当に恐ろしいとシンシア。でも子供を守ろうと必死だったに違いない。

恩赦

マーサの懲役は5年だったが、結局2年後に恩赦され、出所することができたという。

ミズーリ州アーカイブに恩赦の記録を探す。

そこで見つかったのは、1844年に出された上申書。マーサが寒い刑務所の中で酷い環境にいたことを訴え、恩赦を要求したものであった。

またその署名欄を見てシンシアは驚く。何人もの人々の署名がそこにされていた。

その書類を裏返すと、裏にもさらに何十人もの署名があった。

しかもその署名は、のちに議員や知事になるような人物など、普通ならば貧しい女性1人のためにこのような署名をすることがあまり考えられないような、当時の有力者のものであった。

マーサや子供に対する同情もあっただろうが、刑務所で子供が生まれ、死んでしまったとなると、大スキャンダルとなるのを避けたいという政治的な意図もあったと思われる。「政治は時には有用ね」

マーサのこの経験、そして政治家が動いたことは、女性受刑者に対する待遇が大きく変わっていくターニングポイントになったという。

マーサはその後、1887年に75歳で亡くなった。

エピローグ

マーサの墓を訪れるシンシア。マーサの娘であり、シンシアの高祖母であるメアリーとその夫サミュエル・ニクソンの墓もあった。

「ここに来れて良かった」とお墓に語りかけるシンシア。

マーサの人生がどれだけ大変なものだったか、100年以上経って知ることになった。

誰も助けの手を差し伸べず、孤立無援だったところで何とか助けられ、刑務所を出て新たな生活を始めることができたマーサ。どんなに可能性が低くてもそれをうち破り、諦めずに進んでいったことはすごいと思う。自分も強い人間だと思うけれど、マーサはそれ以上。

そして自分で思っていなかったような形で歴史を作り、女性受刑者の待遇改善など、確かに歴史の中で何かを変えた。酷い出来事だったが、その中から何かポジティブなことも起きた。

ひとこと

セックス・アンド・ザ・シティ」のキャストの人、思えばこの番組でたくさん取り上げられているなと気づいたので、「ミランダ」の回も紹介してみました。出ていないのはシャーロット役のクリスティン・デービスだけかも。Mr.Bigのクリス・ノースも実はこの番組で先祖探しをしています。

タイトルは殺人鬼、なんて書いてしまいましたが、夫のDVから逃れるための殺人、そしておそらく刑務所でのレイプ、さらに非道な環境での出産・・など、見ていて震えがくるほど酷い話でした。

恩赦されて良かったですが、ミズーリの刑務所、今は閉鎖されている古い建物、外も中も陰惨で、当時もかなり無法地帯だったはずです(余談ですがこの建物は霊が出ると言って、よくアメリカの心霊系番組でも紹介されていた気もする・・それくらい怖い感じの建物)。

そんな中生き延びた先祖は、精神的にも肉体的にもとても強い女性だったのでしょう。ため息が出ました。

またこの回は、家系学調査の基本的な手順を知る上でも参考になる回でした。

アメリカ、イギリス、オーストラリアなど、昔の国勢調査ディレクトリーの情報は公開されていて、オンラインで簡単に調べることができます。

特にアメリカ版では、ancestory.com という先祖調査情報ポータルがスポンサーなこともあって、ここのサービスも多様されていますが、軍の記録、移民の乗船記録や婚姻、出生、死亡記録、そして墓石の情報まで、ありとあらゆる情報がオンラインにあがっています。

移民の国だからか、こういう情報を駆使して自分の先祖の家系図を作ることを趣味にしている人も多いですね。

また地元のアーカイブや図書館に行くと、オリジナルの書類が残っていて、きちんと整理されていて、アクセスできるところもすごい。

記事を書く上では省略していますが、番組では行く先々で歴史学者や当時の専門家、調査員がいて、調べ方を教えてくれたり、事前に調査したものを見せてくれたりしています。

その土地の歴史や、刑務所での経験を書いた本など、多分個人が出版したような本も、よくとってあったな、よく見つかったなと感心しきりでした。

先祖がみんな日本人な私はこういった情報を活用できないのが残念。

日本では古い国勢調査の情報をみたりできるんでしょうか?戸籍の情報なども、一定期間すぎると破棄されたりするんでしたっけ?

やはり古い書類や情報などは、きちんと記録・記憶・保存しておいて欲しいな、と思いました。

他のSATCキャストのファミリーヒストリーもあわせてどうぞ。

familyhistory.hatenadiary.com
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<アメリカ版、2014年>

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