世界のセレブ・ファミリーヒストリー

世界のセレブ・ファミリーヒストリー

英・米・豪・加で放送されている「ファミリーヒストリー」的番組 Who Do You Think You Areの興味深いエピソードを紹介します。セレブの家族史を通じて、世界の知らなかった出来事が見えてくる。今の世界を知る上でも、個人を知る上でも、色々興味深いこと満載です。

【女優:レベッカ・ギブニー】マオリの地、崩壊家庭の悲劇の歴史

エピローグ

オーストラリアで活躍する女優レベッカ・ギブニーは1964年ニュージーランド生まれ。オーストラリアの人気テレビドラマ「Packed to the Rafters」で母親役を演じ、人気を博した。

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夫、息子と3人で幸せに暮らすレベッカだが、自らは崩壊した家庭で育った。父親アルコール中毒で暴力をふるい、母親は自分の父親に虐待されて育ったという。

こういった事実から目を背けて生きていくのは簡単だが、向き合わないと前に進むこともできないのではと考えている。

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【俳優:パトリック・スチュアート】スタートレック俳優のルーツ:フランス前線で戦った父の二面性

プロローグ

サー・パトリック・スチュワート。日本でもスタートレックX-Menシリーズなどで有名な俳優である。

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2007年、舞台「マクベス」を、軍服を着て演じたパトリック。鏡に映った自分の姿の中に、軍人だった父親の面影を見て驚愕したという。

長い俳優生活の中で、父親を自分の中にチャネリングさせて演じてきた部分があったかもしれない、と語るパトリック。そしてそれは一体どういうところから来ているのか、理解したいという。

暴力を振るう夫、有能な軍人

パトリックは1940年、ヨークシャー地方マーフィールド生まれ。兄が2人いる。

母グラディスはマーフィールド生まれ、マーフィールド育ち、優しいがとてもおとなしい人物だった。

軍人だった父アルフレッドは、戦争で不在な事が多かった。一番上の兄が8歳になった時、両親は公式に結婚。パトリックが5歳の時にようやく家に帰ってきた。

それまでは母に可愛がられ、甘やかされて育ったが、父が帰ってきてからは生活は一変。

父は飲酒し、機嫌が悪くなることが多く、母親に暴力を振るったという。子供に対して手をあげることはなかったが、母に対する暴力は、時には警察や救急車を呼ぶこともあるほど酷かったという。

母はそれでも父の事を愛していたようで、父を残して出て行くことはありえない事だったという。

家庭では暴力を振るう父親だったのに対して、軍隊での父親の業績は素晴らしいものだったようだ。この二面性はどこから来るのだろうか。

父の従軍記録

帝国戦争博物館で父アルフレッドの従軍記録を確認する。

ルフレッドは1925年、19歳で軍に入隊。

入隊の日付を見てみると、長兄が生まれる2週間前となっていた。兄が生まれた時両親は結婚していなかったため、彼は婚外子として登録されている。まるで何かから逃げるように入隊したように感じるパトリック。

1933年に両親はようやく結婚。その後、父は連隊内の風紀・規律を取り締まる連隊警官(regimental police)の任務についた。連隊の兵士を厳しく取り締まるこの役職は、時に兵士から嫌われるような厳格な人間である必要があったという。

7年間の任務を終えたアルフレッドは、第二次世界大戦勃発後、34歳でまた軍に戻っている。

所属したのは、略してコイリー(K.O.Y.L.I)と呼ばれる軽歩兵部隊である。正式名はKing's Own Yorkshire Light Infantry

この部隊は戦闘要員ではなく、ドイツ軍との戦闘に備え、軍事物資を輸送するための運輸ネットワークを作るなどの、後方支援を行うためにフランスに派遣された。

部隊は十分な訓練も受けず、即任務につく必要があったため、軍での経験が豊富なアルフレッドの存在は重要であったと言う。

アヴウィルで見たもの

イギリス軍は、ドイツ軍の侵攻に備え、アントワープブリュッセルなど、フランス・ベルギー国境でも北部に重点をおいて準備を進めていたが、1940年5月から始まったドイツ軍の攻撃規模は想像以上であった。

ベルギー国境に向かうため、部隊は列車でフランスを北西に移動する。

当時の隊員の手記には「反対方向の電車には、ほとんど装備を持たないベルギー軍の兵士達が沢山乗っていた。我々の進行方向を指差して首を切るゼスチャーをしていた」とある。

父アルフレッドの乗った列車はアヴウィルという街で止まってしまう。街はドイツ軍の爆撃を受け、壊滅状態であった。

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現在のアヴウィル

空爆は続いていた。街は火と煙に覆われていた。電車から降り、左手にある運河にかかる橋を渡り、草むらに隠れるしかなかった」

アヴウィルを通る線路の上に立つパトリック。当時の隊員の手記から、父が列車を降り、爆撃から逃れた場所を確認する。

手記には、爆撃を受けた街の人々が逃げまどっている様子も書かれていた。「18歳ぐらいの娘が、ショックでおかしくなったのか、狂ったように笑いながら走っているのが見える。線路上にも人々が溢れかえったため、部隊は身動きを取ることができなくなり、電車の運転手も逃げてしまった。」

パトリックは子供の時に父がこの風景について話してくれたことを覚えているという。電車の窓からだらりと出ていた女の人の手。その手には指輪がはめられていたが、しばらくしてまた同じ場所に戻ると、その手から指輪が無くなっていたという。

まさしくこの場所で起こった光景を話してくれたことに気がつくパトリック。子供心に恐ろしくも面白い話だと思って聞いていたが、この話をした時の父の声は怒りが含まれていたかもしれない。

イギリス軍はどんどん北部に追い詰められ、その後、ダンケルクから兵士の撤退が始まった。

コイリーはそれでもすぐには撤退せず、地域がドイツ軍の手に落ちる数時間前にようやく撤退した、最後のイギリス軍部隊であったという。

シェルショック

イギリスに戻った父アルフレッドは、地元新聞のインタビューを受けていた。記事にはアルフレッド・スチュアート軍曹、とあった。イギリス帰還直前に昇格したらしい。

「フランスには3ヶ月いたが、ドイツ軍の残虐さ、特に子供に対する残虐さは忘れられない。3週間ほどはあまり食べるものもなく、ドイツ軍が侵攻する直前にようやく引き上げることができた。しかしその前に受けた爆撃によるシェル・ショックに今も苦しんでいる」

シェルショックとは第一次世界大戦で使われるようになった言葉で、いわゆるPTSDのこと。

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第一次大戦中の写真。目を見開き、視線が遠くに行くなどのシェルショックの症状が見られる兵士

パトリックは父がシェルショックについて話しているところを聞いたことがなかった。今になって、戦争を経験したことによるショック、怒り・・それが父親にあったことに気づく。

ドラグーン作戦

その後アルフレッドは1943年、エリート部隊、パラシュート部隊に志願し入隊する。その時すでに38歳。通常であれば退役する年齢で、肉体的にもきつくリスクも高いこの精鋭部隊に入隊した。

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すぐに連隊先任軍曹(regimental sergent major)に昇進した彼は1944年8月、フランス南部で行われたドラグーン作戦に参加する。

ドイツ軍の侵攻を防御するため、南フランスの海岸沿いの街に上陸するというこの作戦には、米英混合、約9000人の空挺兵が参加した。

父親が米軍の飛行機の前で、他の隊員と写っている写真を初めて見るパトリック。

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父とともに作戦に参加した元隊員とともにヘリコプターに乗り、父がパラシュートで飛び降りた場所に向かう。

朝4時、レ・ムイの街近くに飛び降りたという。眼下は霧で、まるで海に飛び込むようであったという。

www.pinterest.com
イギリス空挺部隊が作戦に参加している写真はこちら

当時、連合軍の司令部が設置されていた家を訪ねるパトリック。普通の民家から出てきた女性は、当時12歳。彼らが来たことでこの村での戦争は終わった、その日のことは今でもよく話題にのぼる、と語った。

ノルマンディー作戦の影に隠れて忘れられがちであるが、ドラグーン作戦は最も成功した作戦の一つであり、第2のD-dayとも言われている。この数ヶ月後にフランスは解放された。

父がどれだけ勇気のある男だったかを知るパトリック。そして自分がやっていることが、きっと好きだったに違いないと考える。自分の好きなことを一直線にやるという性格は、父から受け継いだものかもしれない。

部隊における「父親的存在」

作戦後イギリスに戻ったアルフレッドは、5ヶ月後の1945年1月、空挺第二部隊の連隊先任軍曹となる。この部隊は1944年9月のオランダ・アミアンの戦いで多大な犠牲を出し、部隊を再構築する必要があった。

立て直しは急を要した。そんな中、部隊の士気を上げるためには、彼のような経験豊かで、ある意味父親的な存在が必要不可欠であったという。

自分の子供にとってはあまり父親らしくなかった人が、部隊の多くの人達にとっては、父親代わりであった事に不思議な感慨を覚えるパトリック。「じぶんは父親を人間としてよく知らなかったのかもしれない」

兄との関係

話を家庭内に戻すと、長兄ジェフリーと父とはいつも折り合いが悪く、それは兄が成長するにつれ悪化したという。

長兄誕生直前の入隊や、長い間正式に結婚しなかった事なども合わせ、もしかしてジェフリーは父親の本当の子供ではなかったのではないかという疑惑を持つパトリック。

生まれ故郷ヨークシャーで記録をたどってみると、母グラディスが父アルフレッドに対し1925年に起こした裁判記録が見つかった。それは生まれた息子ジェフリーの養育費を要求するものだった。

1920年代は、シングルマザーにとってはまだまだ辛い時代であった。子供を持つ母親は仕事を得る事ができなかった上、家を借りる事も難しく、また生まれた子供が財産を受け継ぐ事もできなかったという。また世間の風当たりも強かったため、子供は養子に出される事も多かったという。

そんな中、内気な性格である母が法廷に立ったことは驚きであった。法廷に立つことで、世間の目にも晒されることになるが、子供を守るため必死だった。

ルフレッドはジェフリーが自分の子供であることを認めた。兄が実子であることを確認し、心のつかえが降りたパトリック。

シェルショックの影響

第一次大戦で明らかになった、シェルショックという症状。これが父にどのような影響を与えたのか専門家に話を聞く。

爆撃や戦闘などのトラウマから起こるこの症状は、通常の生活に戻っても、悪夢やフラッシュバック、そして時には暴力という形であらわれるという。

時が経てば治るというものでも無く、何十年も立ってからも、犯罪や、家庭内暴力という別の形で影響を及ぼすこともあるという。

第一次大戦後、このような兵士のために精神病院が作られたが、そこでの治療は電気ショックや催眠療法など、あまり効果が確認できるものとは言えなかった。

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まさに2万2000人もの兵士がこのような施設に入所したが、一生退院できず、家族と引き離されるものも多かったという。

戦争に寄る心の大きな傷。しかしこのような症状を訴えることは、自分の弱さを露呈すること、恥であるという考えもあったため、助けを求めない者も多いという。

そういった心の傷を抱える父親に、自分たちは何ができただろうか?というパトリックの質問に、あまり何もできなかったと思う、と専門家。

もちろんカウンセリングを受けるなどという対策はあるが、父親は戦争の時の気持ちをありのまま正直に話す、ということは絶対にしなかった。

父親が持つ戦争によるトラウマについて初めて知り、専門家と話したことで、安堵するパトリック。

エピローグ

父が好きで良く通っていたというパブで、次兄と話をするパトリック。

父の戦争の経験、シェルショックの話を兄と共有する。

母親に辛く当たっていたことは悲しいことだが、いろいろなことに説明がつく、と兄。それでも軍では素晴らしい成果を上げてきたということは、無意識にそういう気持ちを押さえつけていたのだろう。もしこういう話をすることができていたら、お互いにどんなに気持ちが楽だったろうか。

父の家庭内暴力については許すことはできないが、父親について、新たな側面を見ることができ、もう少し暖かい気持ちで父のことを思うことができるようになった。

そして母はとてももの静かで内気な人物であったが、兄の認知を求めて法廷に立つなど、強い面も持ち合わせていたことを知った。そしてもしかして、自分が今回父について知ったことを、母は全て知っていたのではないだろうか。だからこそ、父の元から去ろうとしなかったのかもしれない。

ひとこと

夏に終戦記念日が近づいてくると、戦争のことが話題になります。少なくとも私が子供の頃はそうでしたが、今はどうでしょうか。

最近映画「ダンケルク」も公開されましたが、今回のエピソードも、フランスの前線で戦った父親の話でした。

私の祖父もシベリア抑留されたそうですが、戦争の話については全く話さずに亡くなったので、戦時中どのような経験をしたのか、まだ知りません。話さなければ話さないほど、実は大きな衝撃、トラウマがあったのではないかと勘ぐってしまいます。

軍人としては立派な功績を残した父親、でも戦争の影はその人物の性格を変え、家庭内にも影響を及ぼし・・・。そういえばパトリック・スチュアート自身も、息子との関係がそれほどうまく行っていなかったような話もどこかで聞きました。もしかしたら戦争の影響は、世代を超えて続いていたのかもしれません。

ずいぶん後になってからでも、なぜ父がこういう人間であったか・・ということをこうやって理解でき、彼の中でいろいろなことに整理や説明がついたことは良かったですね。本来であれば、心を開いてこういうことを話し合える関係が望ましいですが、特に時代もあったでしょうし、親子の関係、なかなかそうは行かないものだったりするものです。

もしかして父親も自分の中で何が起こっているか、理解できていない面があったかもしれません。日本でもありえますね。

第一次大戦、第二次大戦中のシェルショックの患者の映像を見ましたが、普通に歩けなかったり、異様なほどの震えがあったり、とにかく狂ったように笑っていたり・・と恐ろしいものでした。シェルショック、PTSDは今の帰還兵も苦しめる症状で、アメリカではこういった帰還兵がホームレスになってしまうケースがとても多いことも問題になっています。

軍隊や戦争用語の日本語訳は、wikipediaなどを参考にしましたが、間違っていたらすみません。

ドラグーンの作戦については、日本ではどれくらい知られているんだろう・・とちょっと日本語で検索してみたところ、ほぼ戦争ゲームの攻略法のサイトばかりがヒットしてしまいました(苦笑)。

こういう個人の経験談や実際の映像を見た後で、これがエンターテイメントになっているのかと思ったらかなりがっくりきてしまいましたが、例えばこれが三国志に出てくる戦いの戦略ゲームだったら・・ここまでうわっと思わないですね。やはり時が経つと記憶が薄れ、単なる史実として消費されていってしまうんでしょうか。

そういう点では、今の若い人たちにとっては、第二次世界大戦の記憶というものも、私が子供の頃と比べるとどんどん遠いものになっているのかもしれません。

<イギリス版、2012年>

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【女優:シンシア・ニクソン】SATCキャストのルーツ:先祖は斧を手にした殺人鬼?

プロローグ

シンシア・ニクソンはテレビドラマ「セックス・アンド・ザ・シティ」の弁護士、ミランダ・ホッブス役で有名な女優。

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ニューヨークで生まれ育ったシンシアの両親は彼女が6歳の時に離婚。

普段は母と暮らし、週末になると父の家に行く生活であったが、父はとても可愛がってくれ、仲がよかったという。父はあまり自分のことを話さなかったので、彼のルーツについて知りたい。

マーサの夫はどこに?

ニューヨーク歴史協会を訪ねるシンシア。

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観光地としても有名なニューヨーク歴史協会

国勢調査などの情報から、自分から4代前の高祖父母の名前がわかる。高祖父はサミュエル・ニクソン、高祖母はメアリー・M・ニクソン。だが高祖母の旧姓がわからなかった。

そこでメアリーの死亡証明書を確認する。そこにはミズーリ生まれと記されていたが、父親の名前は不明とあった。母親の名前は、マーサ・カーナット(Curnutt)。

ここから、ミズーリでの結婚記録を探すと、マーサは1839年ノア・キャストー(Casto)という男性と結婚した記録が見つかった。

さらに1850年国勢調査を調べる。数年に一度行われる国勢調査であるが、この年から、家長だけでなく、家族全員の氏名、年齢が記載されるようになったのだという。

不思議なことに、マーサ・キャストーで調べても何もでてこない。

しかし旧姓であるマーサ・カーナットで調べると、38歳のマーサが、3人の子供メアリー、ノア、サラとともに、実家に身を寄せていたことがわかった。

また子供達の苗字は父親のキャストーではなく、カーナットとなっている。果たしてマーサの夫に何があったのか。

3人目の子供の父親は?

情報を探るため、次に見たのは南北戦争関連の記録。当時多くの人が、南北戦争後に年金の申請をしたという。申請書には家族構成や申請理由なども書かれているため、そこから何かわかるかもしれない。

南北戦争勃発時18歳だった、マーサの息子ノアの情報を探してみると、戦争から20年後の1881年の申請書が見つかった。

さらに申請したのはノア本人ではなく、母親のマーサであった。申請当時ノアは既に亡くなっていたようだ。

これらの情報は全てオンラインで調べることができたが、申請書に書かれている詳細は実物を見る必要がある。申請書を見るためワシントンDCのナショナルアーカイブに向かう。

実際の申請書を見てみると、申請書が提出された時マーサは69歳。ノア南北戦争で亡くなっていたことがわかった。

息子に頼って生活していたこと、夫は1842年に亡くなったと記されていた。

1839年に結婚し、シンシアの高祖母メアリーが生まれたのが1840年。まだ幼い時に父が亡くなっていたことがわかった。おそらく息子ノアはまだ母親のお腹の中にいたかもしれない。

しかし次女サラは国勢調査から1844年生まれであることがわかっている。ということは、夫ノア・キャストーの子供ではないということになる。

サラは誰の子供なのか?しかも子供達が、亡くなった夫の苗字を引き継いでいないのはなぜか?

ミズーリ州の記録に何かないか調べてみると、1843年、マーサ・キャストーの名前で裁判記録が見つかる。しかもそれは、殺人事件に関するものであった。

1843年の殺人事件

裁判記録には、マーサ・キャストーが過失致死で有罪になったことが書かれていた。しかし被害者が誰かについては書かれていない。

マーサ達が暮らしていた地域の歴史を記した本に、彼女が犯した殺人事件についての記述が残っていた。そこには、夫ノアが就寝中、マーサが斧で彼の頭を殴り殺したと書かれていた。またマーサが州の刑務所に入った歴史上2人目の女性であったことも記されていた。


事件の起きたミズーリ州バリー郡

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バリー郡裁判所

夫の死亡年は、年金申請書では1842年となっていたが、裁判記録では1843年。もし裁判記録が正しければ、1844年生まれの娘サラは夫の子供だった可能性はある。

マーサは妊娠中に夫を殺し、刑務所で子供を産んだということだろうか?

事件の真相

当時地域で発行されていた新聞を調べる。事件が起きた1843年7月のマイクロフィルムを調べると、「Horrible」というタイトルの記事が出てきた。

記事は、伝聞という形で書かれており、「この事件について語った人はその男性の名前を忘れてしまったということだが」という書き出しで、マーサやノアの名前は出てこないが、明らかにこの事件について触れられている。

それによると、想像もつかないような、言葉にするのも憚れるような、ひどい扱いを妻にしているある男性がいた。その男性はある日妻を起こし、自分と子供2人の朝食を作るよう要求した。また日没までにはお前の命はないから、せいぜいお祈りでもしているようにと妻に言った。

妻はキッチンで火を起こしたあと、ベッドでまだ眠っている夫を見て、斧をつかみ、彼の頭を斧で打った。斧は夫の目と目の間を通り、頭部が割れ、即死だったようだ。

妻はその後近所に走り、何が起きたかを話したという。当時の状況から、夫を殺さなければ、自分が殺されるような状況であったと考えられる。

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19世紀のアメリカでは当時女性の権利はなく、特に結婚すると、女性が持っていた財産や土地なども、全て夫の所有となった。また夫が妻を物理的に「罰する」ことも、法律で許されていたという。

新聞記事では、夫が妻を「不自然な形で」ひどく扱っていたとあり、おそらくひどい性的虐待があったのではないかと読み取れる。

ミズーリの何もない土地、夫に虐待され、周囲に頼れる家族もなく孤立し、マーサはギリギリの状態だったのではないか。何もしなければいずれは自分だけでなく、夫に子供達まで殺されると考えたかもしれない。

さらに過酷な刑務所での出来事

当時唯一の女性受刑者だったというマーサの刑務所での生活はどんなものだったのか。

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現在は閉鎖されているミズーリ州刑務所の建物

その頃のミズーリ州刑務所では男性受刑者が800人ほどいたが、もちろんマーサがその中に混じることはなく、食事なども独房で取り、刑務所の外で、判事の家で働くなどしていた。

マーサと同時期にこの刑務所で服役し、その頃の様子を本に書き記した元受刑者がいた。本にはマーサのことについても書かれていた。

それによると、マーサは当初判事の家で働かされていたが、判事の妻の虐待があまりにも酷く、逃げ出そうとしたという。

それが原因で独房に入れられ、しばらくは食べ物もあまり与えられなかったという。

その後、秋には刑務所で出産した。

マーサが刑務所に入所したのは1843年の8月、そして出産は1844年の秋。つまり父親は夫ノアではなく、他の誰かということになる。

子供の父親が誰かは今となってはわからないが、彼女にアクセスできた人物は、独房の鍵を持っていた看守や、働かされていた家の判事など、限られた人間だけであったはずである。

出産の時は、医者は独房に来るのを拒み、判事の妻(おそらく彼女の世話をしていた?)も人を近づけず、マーサは1人で出産しなければならなかった。たまたま近くにいた受刑者がずっと付き添ったというが、彼女を助けたのはこの受刑者1人だけであったという。

生まれた後も判事の妻が彼女や生まれた子供を人から遠ざけ、世話をさせなかったため、産後1週間の間、冬の寒い中、冷たい独房の中で過ごさなければならなかった。

冬の厳しいミズーリでは、暖をとるために独房の中にもストーブはあったが、火を使うことも禁じられ、子供には服も与えられず、しばらくは裸であったという。

その後ようやく独房から出されたというが、おそらく刑務所内で妊娠出産があったことを隠すため子供を意図的に殺そうとしたのではないかとも考えられる。

夫を殺すことで最悪の状態から逃れられると思ったマーサであったが、刑務所でさらに酷いことが起こった。刑務所内で唯一の女性だというだけで恐ろしいが、実際にこのようなことが起こったのを目の当たりにすると、本当に恐ろしいとシンシア。でも子供を守ろうと必死だったに違いない。

恩赦

マーサの懲役は5年だったが、結局2年後に恩赦され、出所することができたという。

ミズーリ州アーカイブに恩赦の記録を探す。

そこで見つかったのは、1844年に出された上申書。マーサが寒い刑務所の中で酷い環境にいたことを訴え、恩赦を要求したものであった。

またその署名欄を見てシンシアは驚く。何人もの人々の署名がそこにされていた。

その書類を裏返すと、裏にもさらに何十人もの署名があった。

しかもその署名は、のちに議員や知事になるような人物など、普通ならば貧しい女性1人のためにこのような署名をすることがあまり考えられないような、当時の有力者のものであった。

マーサや子供に対する同情もあっただろうが、刑務所で子供が生まれ、死んでしまったとなると、大スキャンダルとなるのを避けたいという政治的な意図もあったと思われる。「政治は時には有用ね」

マーサのこの経験、そして政治家が動いたことは、女性受刑者に対する待遇が大きく変わっていくターニングポイントになったという。

マーサはその後、1887年に75歳で亡くなった。

エピローグ

マーサの墓を訪れるシンシア。マーサの娘であり、シンシアの高祖母であるメアリーとその夫サミュエル・ニクソンの墓もあった。

「ここに来れて良かった」とお墓に語りかけるシンシア。

マーサの人生がどれだけ大変なものだったか、100年以上経って知ることになった。

誰も助けの手を差し伸べず、孤立無援だったところで何とか助けられ、刑務所を出て新たな生活を始めることができたマーサ。どんなに可能性が低くてもそれをうち破り、諦めずに進んでいったことはすごいと思う。自分も強い人間だと思うけれど、マーサはそれ以上。

そして自分で思っていなかったような形で歴史を作り、女性受刑者の待遇改善など、確かに歴史の中で何かを変えた。酷い出来事だったが、その中から何かポジティブなことも起きた。

ひとこと

セックス・アンド・ザ・シティ」のキャストの人、思えばこの番組でたくさん取り上げられているなと気づいたので、「ミランダ」の回も紹介してみました。出ていないのはシャーロット役のクリスティン・デービスだけかも。Mr.Bigのクリス・ノースも実はこの番組で先祖探しをしています。

タイトルは殺人鬼、なんて書いてしまいましたが、夫のDVから逃れるための殺人、そしておそらく刑務所でのレイプ、さらに非道な環境での出産・・など、見ていて震えがくるほど酷い話でした。

恩赦されて良かったですが、ミズーリの刑務所、今は閉鎖されている古い建物、外も中も陰惨で、当時もかなり無法地帯だったはずです(余談ですがこの建物は霊が出ると言って、よくアメリカの心霊系番組でも紹介されていた気もする・・それくらい怖い感じの建物)。

そんな中生き延びた先祖は、精神的にも肉体的にもとても強い女性だったのでしょう。ため息が出ました。

またこの回は、家系学調査の基本的な手順を知る上でも参考になる回でした。

アメリカ、イギリス、オーストラリアなど、昔の国勢調査ディレクトリーの情報は公開されていて、オンラインで簡単に調べることができます。

特にアメリカ版では、ancestory.com という先祖調査情報ポータルがスポンサーなこともあって、ここのサービスも多様されていますが、軍の記録、移民の乗船記録や婚姻、出生、死亡記録、そして墓石の情報まで、ありとあらゆる情報がオンラインにあがっています。

移民の国だからか、こういう情報を駆使して自分の先祖の家系図を作ることを趣味にしている人も多いですね。

また地元のアーカイブや図書館に行くと、オリジナルの書類が残っていて、きちんと整理されていて、アクセスできるところもすごい。

記事を書く上では省略していますが、番組では行く先々で歴史学者や当時の専門家、調査員がいて、調べ方を教えてくれたり、事前に調査したものを見せてくれたりしています。

その土地の歴史や、刑務所での経験を書いた本など、多分個人が出版したような本も、よくとってあったな、よく見つかったなと感心しきりでした。

先祖がみんな日本人な私はこういった情報を活用できないのが残念。

日本では古い国勢調査の情報をみたりできるんでしょうか?戸籍の情報なども、一定期間すぎると破棄されたりするんでしたっけ?

やはり古い書類や情報などは、きちんと記録・記憶・保存しておいて欲しいな、と思いました。

他のSATCキャストのファミリーヒストリーもあわせてどうぞ。

familyhistory.hatenadiary.com
familyhistory.hatenadiary.com
familyhistory.hatenadiary.com


<アメリカ版、2014年>

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【司会者:リズ・ボニン】インド、フランス、そして奴隷 - 人種のるつぼカリブ海から来た先祖

プロローグ

リズ・ボニンはイギリスの動物・科学番組の司会者。フランス生まれ、アイルランド育ち。

https://vignette.wikia.nocookie.net/celebrity/images/9/9e/Liz_Bonnin.jpg/revision/latest?cb=20111214164829
from Celebrity Wiki

母はカリブ海トリニダードの出身で、インド、ポルトガル系の血を引く。父はカリブ海に浮かぶフランス領マルティニークの出身のフランス系。

おそらく他にも色々混じっていて、自分の人種が何かと聞かれるとうまく答えられない。

自分の先祖は、いつどういった理由でカリブ海にやってきたのか。そして特に気になっているのが、プランテーションで奴隷を所有していたかだという。

母のルーツ、トリニダード

まずは母方のルーツを知るため、子供の頃良く夏休みを過ごしたというトリニダードへ。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/11/This_is_a_picture_of_the_city_of_port_of_spain_Trinidad_and_Tobago_taken_from_Picton_road_laventille_2014-04-06_09-12.jpg/1024px-This_is_a_picture_of_the_city_of_port_of_spain_Trinidad_and_Tobago_taken_from_Picton_road_laventille_2014-04-06_09-12.jpg
首都ポートオブスペイン

トリニダードカリブ海の島の中でも最も人種が多様なところで、母方の祖父はインド系であった。

奴隷制が廃止された1845年以降、それに代わるさとうきびプランテーションの労働力として、インドから約15万人がトリニダードにやってきたという。

現在トリニダードの人種構成の中でも、こういったインド系の子孫が一番多い。

曽祖父ジョージと曽祖母アグネスの写真、また、ジョージが教会のメンバーに囲まれて写っている写真が見つかる。どちらもインド系の人々がきちっとした洋装をして写っているものであった。

さらにリズの大叔母シビルは、トリニダード南部、サンフェルナンドで長老派キリスト教会の設立に関わったこともわかった。

インド人なのに、なぜヒンズー教ではなくキリスト教徒なのか。不思議に思うリズはサンフェルナンドに向かう。

成功するための西洋化

サンフェルナンドのキリスト教会を訪ねるリズ。そこでは、曽祖父ジョージもこの教会のメンバーで、そこで結婚式をあげたことがわかった。

結婚証明書から、曽祖母の旧姓が「セルジュ(Serju)」であること、その父親の名はティモシー・セルジュであることもわかった。

ティモシー・セルジュもまた教会の主要メンバーであった。

インド人の先祖が洋装をしたキリスト教徒であることに多少の違和感を覚えるリズ。

しかし当時、キリスト教に転向することは、新たに教育の機会を得、社会的に上昇することを意味した。

ティモシーの死亡広告記事が見つかったが、そこには12人の子供がいたこと、また最終的には大きな商店を経営し、広大な土地を所有するなど非常に成功していたことがわかった。

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現在のサンフェルナンド、商店街

イギリス植民地時代、社会・経済的にどこに位置するかは、肌の色や宗教など、人種的要素が大きく左右した。

この枠をうち破り成功するには、キリスト教に改宗し、西洋化していくことが非常に重要であった。

インド人としての伝統を失っていくことは残念ではあるが、家族、子供の将来のためには、必要な選択だったのである。

インドからの移民記録

親戚が持っていた古い写真。そのうちの1枚に、ティモシーとその兄弟、そしてサリーを着た母親が写っていた。

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それぞれの人物の横に名前が書いてあるが、兄弟であるのに皆苗字が違う。

ティモシー・セルジュの「セルジュ」は家族の苗字ではなく、ティモシーのインド名であることがわかった。

彼らにはもともとインドの苗字がなかったので、西洋名とインド名を組み合わせて名前としたのだった。

ティモシー・セルジュの死亡証明書を確認してみると、彼の出生地はインドと書かれてあった。それを見てなぜか涙が出てくるリズ。

1872年のインドからの乗船名簿を調べると、当時8歳のセルジュの他、マンガル、アダー、ブンシーと、写真に書かれた4人の兄弟のインド名が見つかった。

母の名前はスダニー、父親はアナンディー。カーストは農業に従事する「コリー」。ウッタル・プラデーシュ州ラクシュマンプール村の出身であることもわかった。

自分のインドのルーツがはっきりわかったリズ。

またコリーという低いカーストに産まれながら、トリニダードで大きく成功したことに感銘を受ける。

高祖父の働いたプランテーション

インドからトリニダードへは、船で3ヶ月かかったという。

またインドからの渡航費用と引き換えに、プランテーションで5年間働く必要があった。

インドからの乗船名簿は、そのまま労働契約書でもあり、そこには「労働に適した体格、健康である」など、ある意味奴隷の記録と変わらない内容が書かれていた。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/84/Newly_arrived_coolies_in_Trinidad.jpg

ティモシー一家は、トリニダードの南、パルミストと呼ばれるプランテーションで働いた。

そこにあった砂糖精製工場の跡地に向かうリズ。

ここでの労働は朝6時から、時に夜9~10時まで続くこともあったという。奴隷ではないとはいえ、住まいは以前奴隷が暮らしていたバラックだったりと、状況的にはあまり変わらなかったとも言える。

8歳でトリニダードにやってきたティモシーもプランテーションで働かなければならなかったが、このプランテーションは比較的「リベラル」なところだったため、学校に通うこともできたという。

実際、ティモシーは18歳で学校の教員となっている。おそらく移住後すぐに学校に通えたのではと考えられる。

トリニダードに行かずインドに残っていたら、低いカーストから脱することもできず、教育を受ける機会もなかったかもしれない。

先祖がインドの文化を失いトリニダードで西洋化していったことは悲しいが、自分は低いカーストに生まれたわけではなく、その苦労もわからなかっただろうから、そこばかりにこだわるのはフェアではないだろう、と考えるリズ。そしてトリニダードで成功した先祖をとても誇りに思う。

父のルーツ、マルティニーク

リズの父はフランスの植民地であったマルティニーク出身で、フランス系。マルティニークは、さとうきびプランテーション奴隷制度の歴史がある島である。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1d/Martinique_Beach_%28Salines%29.jpg
マルティニークのビーチ

リズはここに住む祖母にとても懐いていて、休みのたびに遊びに行っていた。おばあちゃん子であったという。

ここに住む叔母とともに、祖母の家だったところを訪れるリズ。子供の頃いとこたちと遊んだ記憶がよみがえる。

乳児だった祖母が、数人のきょうだいと写っている写真が出てくる。きょうだいが皆黒い服を着ているのは、母親が亡くなった直後で喪に服していたからだという。また、父親も数ヶ月前に亡くなっていた。

祖母の父、リズの曽祖父の名はアシル・グロデゾモ (Achille Gros Desormeaux)。少し変わった苗字であるが、マルティニークのフランス人として、プランテーションをいくつも持っていたという。

このため、奴隷も所有していたと思う、と叔母。奴隷制が廃止された後も、奴隷の一部は家族とともに残ったと、叔母は伝え聞いていた。

奴隷所有者だった先祖

祖母とよく遊びに行ったというビーチを訪れるリズ。

ここで先祖に関する書類を見せられる。

まずは曽祖父アシルとその妻の結婚証明書。そこからアシルの父の名前がルイ・マリーといい、1828年生まれということがわかった。

マルティニーク奴隷制が廃止されたのは1848年。当時20歳だったルイ・マリーが奴隷所有者だった可能性は低いという。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d3/Sugar_cane_banana_martinique.JPG
マルティニークさとうきび、バナナ畑

ルイ・マリーの父、リズからは5代前の先祖、フランソワ・アレクサンダーは、プランテーションを複数所有する大地主で、彼のプランテーションが一部まだ残っているという。

向かったプランテーションで見せられたのは、1838年に書かれた彼の所有財産リスト。

そこには7人の奴隷の名前が記されていた。名前の他に年齢、そしてそれぞれの「値段」も。

ルイ・ザン、47歳、1111フラン。
その娘、ベルナディン、18歳、1200フラン・・・

読みながら涙が止まらなくなってしまうリズ。思わずカメラを止めてもらう。

自分の家族に奴隷所有者がいるかもしれないことは予測していたけれど、実際に「所有物」としての奴隷の名前を目の当たりにしたショックの大きさは予想外であった。

この風景の中に奴隷がいて働かされていた、また自分の家族がそれに関わっていたことを想像すると、とても辛い、と語るリズ。

先祖と奴隷の驚くべき関係

フランソワ・アレクザンダーは地主としてどのような人物だったのだろうか。

1835年のフランソワ・アレクザンダーの結婚証明書が見つかる。妻の名はマリー・ジョセフ。さらにここでは、この届けが出された際、子供が8人いたことが記されていた。

結婚に漕ぎ付けるまでに子供がそれだけいたということは、2人は当時の社会が許さないような関係に2人はあったのだろうか。

さかのぼり、1831年の書類を見て「うわー」と頭を抱えるリズ。

そこには、マルティニーク総督府が、マリー・ジョセフとその子供6人を、奴隷から解放することを認めた書類であった。マリー・ジョセフは奴隷であった。

つまり、1828年生まれの高祖父ルイ・マリーは奴隷として生まれていたということでもあった。

奴隷所有者が奴隷を性的虐待し、子供が生まれることはよくあることであった。しかしこの場合、2人の間にはロマンスがあったようだ。

奴隷制度の時代のことをあまりロマンチックにしたくはないけれど、奴隷所有者として、自分の先祖は少しでもましな人間だったのかもしれない、とリズ。

さらなる事実

自分の息子が奴隷と結婚したことに対しての、彼らの両親の態度はどのようなものだったのだろうか。

フランソワ・アレクザンダーの父の名も、フランソワ・アレクザンダー。ここでは父をシニア、息子をジュニアと呼ぶ。そして妻の名前はポーリーン・ゾエ。

1804年に生まれた、ジュニアの弟、マーク・アントワンの洗礼記録が見つかる。

そこには、母であるポーリーン・ゾエが混血であること、母ポーリーン・ゾエは子供を2人産んだ後に、奴隷解放されたことが書かれていた。

奴隷と結婚したの母も元奴隷であり、ジュニアもまた混血であったのだった。

グロデゾモ家の歴史について、リズの遠い親戚が書いた本が見つかる。

そこには、シニア自身は白人で、彼の父はマルセイユからやってきたフランス人であることが書かれてあった。

ポーリン・ゾエとは彼女が奴隷だったこともあり、公式な結婚はしなかったが、シニアは彼女が自分の伴侶だということを公言していた。またそれは当時、非常に稀なことであったという。

しかし奴隷を伴侶としたことによる社会的な風当たりが無かったわけではない。このためシニアは、家族や子孫を社会や、混血の家族に不利となる法や制度から守るためにも、プランテーションの中に自分たちの世界、自分たちの楽園を作り上げようとしたという。

ポーリン・ゾエに全てを託したシニア

シニアのプランテーションの一部が今も残っており、その場所はデゾモ(Desormeaux)と呼ばれていた。

デゾモを訪れた先に集っていた老人たち。

「ここら辺は皆グロデゾモだよ!自分たちもグロデゾモの一族だ」

1831年、シニアが97歳で亡くなる2年前に書かれたという遺言状。そこには、ポーリン・ゾエとその子供達に全ての資産を残す、と書かれていた。

1831年は、白人が自分の資産を、人種にかかわらず奴隷から解放された人物に残すことが法的に許されるようになった年だという。

シニアは95歳でようやく子供を公的に認知し、伴侶であるポーリン・ゾエに資産を残すよう手配することができた。長生きしたおかげで、タイミング的にもラッキーであったと言える。

1848年、フランス政府は奴隷制を廃止する。その際、奴隷所有者には政府から賠償金が支払われた。そしてその支払先はポーリン・ゾエであった。

シニアの死後、彼の所有していた奴隷を受け継いでいたのである。

自らも奴隷であったが、その後解放され、さらに奴隷所有者になった。元奴隷の女性が奴隷所有者になる、というケースは非常に稀だったと考えられる。

エピローグ

祖母の墓参りをするリズ。

ポーリン・ゾエの人生は、まるでローラーコースターのようだった。そんな人生を生き延びた彼女はすごい女性だったのだと思う。

さらに自らも奴隷だった彼女が、のちに奴隷所有者になることはとても大変なことだったのではないだろうか。奴隷を彼女に遺したシニアの意図はわからないが、ポーリーン・ゾエを愛したのだと思う。

ひとこと

リズ・ボニンという人物を私は知りませんでしたが、彼女の多彩なバックグラウンドは、日本生まれ日本育ちの私にはちょっと想像できない複雑さ。これでは確かにあなたは何人?と聞かれると、何人、とひとくくりにする意味があるのかもわからなくなってしまいます。

彼女はフランス語ももちろん堪能で、マルティニークでは叔母さんも含め、現地の人達ともずっとフランス語で会話していました。

その語り口や、明らかになる先祖の過去に対する素直な反応が、なぜか見ていてとても好感が持てました。

あまり馴染みのないカリブ海の歴史も、非常に興味深かったです。

奴隷としてやってきたアフリカ人、そしてその後、それに変わる労働力としてやってきたインド人、そして植民地支配者としてやってきたヨーロッパの人々・・そんな人達の子孫が共存する、まさに人種のるつぼ。

トリニダードにいる彼女のいとこは完全に白人のおじさんでしたが、彼にとっても故郷はヨーロッパではなくて、このカリブ海の島なんだな、ということがなぜか不思議に思えたり。

番組で紹介されたトリニダードの街では、普通に中国人のおばちゃんも道を歩いていました。

先祖が奴隷所有者だったかどうかということは、非常にセンシティブな問題で、アメリカ版でも南部出身の有名人が、自分の先祖が奴隷を所有していることを知ってショックを受けたり、憤りを感じたりするエピソードがあったりしますが、この回は、その中でも2世代に渡る奴隷所有者と奴隷との結婚、また元奴隷の女性が奴隷所有者になった・・という点でとても印象的な回でした。

特に最初に奴隷を伴侶としたシニアは、家族や子孫を守るためにも、自分達の楽園のようなプランテーションを作ろうとしたということで、あの時代にあってなんて素晴らしい・・と一瞬思ったのですが、それでも結局は他の奴隷は奴隷としてキープしていたのですよね。プランテーションの運営に労働力は必要だったろうし。

番組では先祖の情報を時系列にせず、さかのぼる形で紹介していたので、しばらく気づかなかったんですが、それが彼の死後ポーリーン・ゾエに渡り、息子のジュニアも奴隷所有者だったと。

そしてジュニアも奴隷との間に子供が何人も生まれても、長い間パートナーを解放せず、しばらくは奴隷のままだったという・・。

人権とか博愛とか、そういう理由で奴隷を解放したというよりは、所有者の目に止まり妻となり解放されたラッキーな奴隷がいた、ということなのかなあ、とも思ってしまいました。

ひとこと、の欄のはずがずいぶん長くなってしまいましたが、リズ・ボニンの自然科学番組はこんな感じです。


Meet Alucia - Galapagos: Episode 1 Preview - BBC One

<イギリス版、2016年>

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【歌手:アニー・レノックス】ユーリズミックス・ボーカルのルーツ:貧困との戦い、スコットランドで強く生きた女性達

ユーリズミックスリードボーカルアニー・レノックススコットランド出身。

Annie Lennox SING campaign, Vienna 2010 b.jpg
By Manfred Werner - Tsui - Own work, CC BY-SA 3.0, Link


祖父母とは仲が良かったが、それ以前の先祖のことは何も知らないという。

裕福な家系というよりは、労働者階級として一生懸命働いてきたルーツがあると考えている。

父方の祖母のルーツは

父方の祖母のルーツをたどるため、父の生まれ故郷スコットランドの港町アバディーンへ。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/Aberdeen_-_Schoolhill_leading_to_Upper_Kirkgate_-_geograph.org.uk_-_831777.jpg
アバディーンの町並み

叔母に家族の古い写真を見せてもらう。

祖母の父親は彼女が3歳の時に亡くなったため、祖母自身も父方の家族、ヘンダーソン家のことはよく知らなかったという。

アバディーンの図書館で出生証明書を調べると、祖母の父、アニーには曽祖父にあたる人物の名前はチャールズ・ヘンダーソン

チャールズの父親は蒸気機関車の火夫だった。

そして母親の名前はジェシーアバディーンよりもさらに北にある街、バンフの出身。

1851年の国勢調査を調べると、当時まだ3歳だったジェシーの名前があった。父親はすでに亡く、母親メアリーと、ジェシーを含め5人の子供が残されていた。

そしてジェシーの母、メアリーの職業欄に書かれていたのは「pauper(貧民)」。

貧民。今では使われることの無いこの呼名。いったい何があったのだろうか。

「貧民」の悲劇

ジェシーの故郷バンフへ向かうアニー。バンフの教会の記録から、ジェシーの父は38歳の時結核で亡くなったことがわかった。

まだ政府による社会保障も無いビクトリア時代ジェシーの母メアリーも、夫に先立たれ5人の小さな子供を抱えて、働くこともできず、あっという間に貧困に陥ってしまったのであった。

国勢調査に書かれていた「貧民」とは、働くこともままならず、援助を受け、貧困の中暮らしている人々を指す人々を指した言葉であった。

このような人々は、教会や地域が運営する慈善施設などで、必要最低限の援助を受けて暮らしていた。

当時彼らが住んでいた家を訪ねるアニー。現在半ば廃墟になったその建物の一室に、家族が詰め込まれて生活していたと考えられる。建物は狭く、明かりもほとんど入らず、家の中は暗かったという。

その後ジェシーが5歳の時に母親メアリーも亡くなったことが、教会の埋葬記録から明らかになった。ジェシーは孤児になってしまったのである。

きょうだいはその後、それぞれ個人の家に引き取られ、離れ離れになる。

ジェシーは慈善団体によりクルックシャンク家に送られているが、彼女が10歳の時「使いみちが無くなったから」という理由で、クルックシャンク家から送り返されたという記録が残っていた。

祖父に見捨てられた?孤児ジェシー

ジェシーの足取りを調べる前に、少し遡り、ジェシーの母親メアリーの生い立ちが明らかになる。

教会の洗礼記録から、メアリーは弁護士の父ジェームズ・ローズと、貧しい家庭出身の母との間に婚外子として生まれたことがわかった。両親は結婚せず、父ジェームズはメアリーが生後2ヶ月の時に別の女性と結婚していた。

また国勢調査から、娘メアリーが未亡人として貧困に苦しんでいる間、父ジェームズは妻、3人の娘、2人の召使と共に、メアリー達と実に目と鼻の先で暮らしていたことが明らかになる。

ジェシーをはじめ5人の子供を抱え、「貧民」として援助を受けながら暮らし、最後には亡くなってしまった娘がこんなに近くに住んでいたことを、父ジェームズは知っていたのだろうか。助けの手は差し出さなかったのだろうか。

ジェシーが身を寄せた意外な家庭

ここでさらに衝撃の事実が明らかになる。

教会の洗礼記録から、メアリーの父ジェームズには妹がいたことがわかった。

さらにその妹の婚姻記録に書かれていた結婚相手の苗字はクルックシャンク。

ジェシーは大叔母のところに送られていたのだった。

恐らくメイドとして働かされていたのだろう。そして理由はわからないが、「利用価値が無くなった」という理由で家を追い出された。

そこには親族としての愛情や同情というものは全く無く、自らの利益だけで子供を引き取り、使えなくなると送り返すなど、まるで10歳の子供をものとして扱っているように見える。

ビクトリア時代の酷いメロドラマのようだ、全てがダーク過ぎると憤るアニー。

特定の階級の人間であったら、自分のしたことに責任をとらずに子供を放置し、まるで無かったかのようにできることが許された時代。誰もジェシーに愛情を注ぐような人はいなかったように見える。

ジェシーのその後

再度国勢調査を調べると、13歳のジェシーはバンフからアバディーンに移っており、亜麻を加工しリネンを作る繊維工場で働いているとあった。

繊維工場と聞いてピンとくるアニー。その工場はアニーが子供の頃育った家のすぐ近所にあり、よく遊んでいた場所だった。

自分の先祖がそんなに近くで働いていたことに驚くアニー。

工場跡を訪れる。当時13歳のジェシーは恐らく毎日10時間、週に6日は働いていたという。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8b/Benton_County_flax_mill_automatic_cleaning_machine_-_NARA_-_283917.jpg

当時2000人ほどの子供・女性が働いていたというこの工場。賃金も安く、仕事環境も非常に過酷なものであった。

工場で働く女性は、18歳になると賃金を全額支払われるようになるため、これを機会に結婚するなどして工場の仕事を辞めることが多かったようだ。

ジェシーもその後結婚し、アニーの曽祖父をはじめ4人の息子をもうけたが、35歳の時癌で亡くなった。

人生の選択肢が無く、苦労の多い人生であったが、せめて結婚生活は幸せであったことを願うアニー。ジェシーの人生を知った後で、その息子である曽祖父の写真を見て感慨を覚える。

女王の母とダンスした父方の祖父

次に調べるのは、父方の祖父、ウィリアム・ファーガソン。彼女が9歳の時に亡くなったが、アニーはこのおじいちゃんにとても懐いていたという。

父方の祖父母はロイヤルファミリーが夏の休暇を過ごすスコットランドのバルモラル城で、祖父は狩猟番、祖母は乳搾りをしていた。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4d/Balmoral_Castle.jpg

ギリー(Gillie)と呼ばれる狩猟番は害獣駆除を行ったりして領地の狩猟管理をした他、王家メンバーが狩猟をする際には猟銃に玉を詰めて手渡すなどのアテンダントとしての役割を果たしていた。

祖父はダンスがとても上手く、城のスタッフのために開かれた舞踏会で、当時ジョージ6世の王妃として城に滞在していたエリザベス女王の母とダンスを踊ったことがあるという。

美しい景色の中で、祖父母はある意味素晴らしい生活をしていたと感じるアニー。

狩猟番は鮭を捕まえることもあったという話に、子供の頃祖父が捕まえた鮭を食べさせてくれたことを思い出す。あの時の味が忘れられないという。

城での勤務記録から、祖父母がここで働いていたこと、祖母は結婚を機に城を離れたことも確認できた。

私生児だったのは誰?

アニーが気になっていたのは、家族の間で、祖父が私生児だったという噂があることだった。

祖父の生年月日を元に国勢調査を調べると、そこにはきちんと両親の名前が記されていた。ただし、彼の母親が妊娠6ヶ月の時に結婚したことがわかった。

結婚してからできた子供ではなかったが、私生児というわけではなかったようだ。

さらに祖父の父、つまり曽祖父ジョージの出生記録を確認してみると、まさにそこに彼が私生児として生まれたことが記されていた。家族の間でこの情報が間違って伝わっていたことがわかった。

教会での「裁判」

ジョージが生まれたのはブレマー(Breamer)という小さな村。ジョージの母親イザベラ・マカーティーの実家がある場所だった。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/30/Braemar_from_Morrone.jpg/1280px-Braemar_from_Morrone.jpg

当時、裁判所が無いような小さな村では、それに代わり、教会の長老による「kirk session」と呼ばれる小会が開かれていた。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/43/Lorimer%2C_Ordination.jpg

この教会で行われた小会の記録に、ジョージの母イザベラが召喚され、不貞罪を問われたことが記されていた。

イザベラは2年間他の村で召使として働いていたとき、農場労働者であったウィリアム・ファーガソンとの間に関係をもち、妊娠したのだという。

小会はこのような罪を裁き、村の風紀を管理するほか、父親を特定し、父親が生まれた子供に対し金銭的な援助をするよう求める役割も担っていた。

しかしここでは小会が父親であるウィリアム・ファーガソンを見つけ出したという記録は残っていなかった。イザベラは子供の父親から援助を受けることなく、シングルマザーとして、ジョージを育てたようである。

2度の小会への「訴え」

記録をたどるとさらに数年後、イザベラが自主的に小会に出頭した記録も見つかった。

彼女はさらに時計技師である別の男性との子供を身ごもっていた。しかし彼女と時計技師との間には結婚の約束があったという。

しかしこの男性が結婚の約束を反古にしてしまったため、不貞罪には当たらないことを訴えるものであった。

関係があったのは一度だけであること、結婚の約束があったからそれを許したこと、また結婚の意思があることを彼が彼女の家族にも伝えたこと、しかしその約束を紙に書き記したものはないことなど、非常に詳細な情報が残されていた。

2人目の子供の出生証明書にはイザベラの署名が残されていたが、それは「X」の印がついているだけだった。彼女は文盲だったのである。

またさらに数年後、イザベラはまた小会に訴えを起こしている。

3度目となる小会への出頭は、子供達への教育のための資金援助を求めるためであった。

文盲であった彼女は、子供達には同じ思いをさせたくなかったのである。教会により、この願いは聞き入れられ、子供達への学費が支給されることとなった。

イザベラのその後

イザベラの生まれた家を訪れるアニー。丘の上にある貧しい農家は、厳しい環境でありながらも、とても美しいところだった。

イザベラはここで鶏を育てながら暮らし、子供達が家を出てからも一人暮らしを続け、1913年に83歳で亡くなった。

教育のための資金援助を求めた以外は、貧しいながらも生活費の援助を求めることはなかったという。

貧しい村であったため、多くの人々が都市に職を求めて出て行ったが、彼女は村に残り、ギリギリでなんとか生活しつつ、天寿を全うしたようである。

長生きしたため、おそらくアニーが大好きだった祖父も、イザベラに会いにここを訪れたかもしれない。

女手ひとつで子供2人を育て、晩年は丘の上で1人暮らし。とても強い女性だった。

プロローグ

今回取り上げた2人の女性、ジェシーとイザベラ。2人に共通するのは、「貧困との戦い」だとアニーは語る。都市部での貧困、農村での貧困、一体どちらがましだったかとも考えるが、貧困という苦難にどちらがましという答えはなかっただろう。

ビクトリア時代スコットランドとその苦難について、より現実的に感じることができた。また先祖がこうやって困難のなか生き抜いてくれたことで、今の自分があることを非常に感謝している。

ひとこと

イギリス版で良く紹介されるのが、ビクトリア時代。特にこの時代、貧困に苦しんだ先祖の話は実は良く出てきます。場所はロンドンだったり、アイルランドだったり・・そして今回は舞台はスコットランドでした。

やはり印象に残るのは、今のように政府が何か支援してくれるということが無い時代だったので、一度貧困に陥ると非常に生活は困難で悲惨なものであったということ。

オリバーツイストなどのディッケンズの世界を地で行く話は山ほどあったのでしょう。高祖母ジェシーが大叔母に引き取られるも、メイドとして働かされ、挙句の果てには送り返されるなど、まるでキャンディキャンディか小公女か何かのようです。

そういえばロンドンオリンピックの開会式で、病院や社会保障ができたことを表現するパフォーマンスがありましたが、そういうものができた意義はやはり大きかったのだろうな・・と思いました。

それにしても、スコットランドのお城の風景や、イザベラの生家の風景など、スコットランドの自然、過酷ではあったといえ、その美しさはなんとも言えませんでした。

アニー・レノックスそしてユーリズミックスといえば、こちらの歌もどうぞ。


Eurythmics - Sweet Dreams (Are Made Of This) (Official Video)

<イギリス版、2012年>

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