【料理人:ルーク・グエン】ベトナム戦争が生んだ家族の分断、感動の家族の再会
プロローグ
オーストラリアの有名シェフ、ルーク・グエン。レストラン経営のほか、料理・旅番組にも多く出演している。
料理はバランス、味のハーモニーだと教えてくれた両親だが、家族の関係はバランスやハーモニーと程遠かったという。ベトナムからオーストラリアにやってきた両親は働き詰めで家におらず、特に父親のしつけは時に暴力を伴うほど厳しかった。
ベトナム難民としてオーストラリアにやってきた両親
ルークの両親は、ベトナム戦争後の共産党の支配を逃れるため、ベトナムから手造りのボートで脱出した。母親は当時ルークを妊娠しており、ルークは1978年、タイで生まれた。オーストラリアに移住するまでは、タイの難民キャンプで生活した。
シドニーに移住してからも生活は楽では無く、ルークや兄弟は5歳から家族のレストランの手伝いを始める。両親は学校の成績にも厳しかった。
父親は事あるごとに激高する性格で、子供の頃は些細な事で折檻を受けた。このことが原因で、ルークは現在父親とは疎遠となっている。
彼のレストランを母親が訪れ、情報を提供する。母方の祖父ラムサンが、両親がベトナムを離れる時に書いた手紙を見せられる。そこには娘夫婦がベトナムを離れる寂しさ、2度と会えない事への覚悟、孫達の将来のために国を離れる事への理解が書かれていた。
ここで母親のルーツはもともと中国だということが初めて明かされる。祖父ラムサンは20代の頃、中国に妻子を残しベトナムに移住、そこで別の家庭を持った。
母はベトナムでの2度目の結婚で生まれた。中国に残された息子はすでに亡くなっているという。
中国に残された祖父の最初の妻、そしてその家族の消息はわからないが、40年前に送られてきた手紙があるという。この住所を元に、ルークは中国に向かう。
母方の祖父の足跡を求め中国へ
40年前の住所から、福建省南抗村の村長を尋ねる。村長は祖父の最初の妻を知っているが今どこに住んでいるかはわからないという。住民台帳から1936年生まれで農業を営んでいることがわかった。
またこの村は500年前、政治的迫害を逃れ、中国中部からやってきた客家の村であり、ルークにも客家のルーツがあることがわかった。
福建土楼と呼ばれる客家の住宅を訪れるルーク。中国の客家の60%がこの地方に住んでいるという。また1930年代に書かれたこの地域の記録を紐解くと、当時この村の人口に見合う十分な農地が無かったことがわかった。このため、多くの人々が職を求めて出稼ぎに出た。ルークの祖父も、そのためにベトナムに渡ったのだった。
中国からベトナムに行くには、ボートに乗り数ヶ月かかったという。自分の両親もボートに乗ってベトナムを脱出したことを考えると、複雑な気持ちになるルーク。
中国に残された家族との再会
祖父の家族が見つかったと連絡を受け、緊張しながら向かうルーク。そこでは祖父の最初の妻・つまりルークにとっては義祖母と、多くの家族が待っていた。ようやく会いに来てくれたと号泣しながら彼を抱擁する義祖母。
今まで知らなかった自分の大家族に囲まれ圧倒されるルーク。この家は代々先祖が住んでいた家だという。
中国からベトナムに向かった祖父は、結局中国に残された自分の息子に会うことは無かったという。ベトナムに移って2年後、家族を呼び寄せようとしたが、祖父の母親がそれを拒んで実現しなかったのだという。手紙のやり取りはあったが、その後家族が再会することは無かった。
それでも祖父は、家系図を書き残すなど家族の絆を忘れないよう努力していた。その中には、しっかりとオーストラリアにいるルークの家族のことも書かれており、祖父の家族に対する愛情を感じるルーク。
厨房に案内されるルーク。様々な行事や先祖崇拝のためのお供え料理を祖父はここで作ってきたという。ここで義祖母とお供え料理を作り、家族と夕食を囲む。
最後に、祖父がベトナムに向かう船に乗った川辺を訪れる。家族のためボートに乗り外国に向かった祖父、そして自分の両親のことを思い、自分の母親が今ここに一緒に来れればよかったのにと涙ぐむ。
父方のルーツ・ベトナムへ
ルークの母方の祖父はその後サイゴン(現在のホーチミン)で果物商として生活を安定させる。
そこで出会った同業者が、ルークの父方の祖父であった。ルークの両親は、祖父同士が意気投合し、お見合い結婚したのだった。
自分の父親には数年間会っておらず、父の背景もよく知らないというルーク。
ホーチミンに住む叔母を訪ねると、そこで16世代に渡る家系図を見せられる。
父方の祖父は2005年まで存命していたが、ルークは会ったことがない。家系図によると、ベトナム南部サイゴンではなく、北部ハノイに近いハイフォンの生まれ。
また曽祖父もハノイ生まれで、気象台に勤めていたことがわかった。
ルークの父親は共産党、つまり北ベトナムと戦った経歴を持つため、家族は皆南部出身だと思っていたが、祖父、曽祖父が北部出身であることは驚きであった。
今まで祖父の話が出てこなかったのはそのためかもしれないと語るルーク。
フランス官吏の曽祖父、レジスタンスの祖父
祖父の生まれ故郷、ベトナム北部ハイフォンを訪れるルーク。曽祖父が勤めていた気象台もまだ残っていた。1902年にフランスが建てた気象台は、当時インドシナ地方の気象ネットワークを全て管理していたという。
気象台勤務時代の曽祖父の写真も見つかる。フランスがインドシナを支配していたこの時代、気象台で働くためには、フランス語が堪能である必要があったという。
祖父もまた、フランス式の教育を受けるエリート校に通っていたという。
1942年、曽祖父がサイゴンに転勤となる。当時、学生の間ではフランスに対するレジスタンスに参加する動きが出ており、サイゴン移住を機に、ルークの祖父もその一員となった。
フランス式の教育を受けたのになぜフランスへのレジスタンスに参加したのか。ハノイに残る祖父の母校を訪れるルーク。ここでの教育は、ベトナムの若者を「フランス人」として教育し、フランスの植民地運営の一端を担わせることが目的だったという。
しかしここで「自由平等博愛」精神を学んでも、植民地下でベトナム人がそれを享受することはないことに気づいた若者たちが、独立に向けて立ち上がることとなる。
実際レジスタンスのリーダーの多くは、フランス式教育を受けた若者であった。
1941年、ホーチミンがベトナムの独立を目指し、ベトミン(ベトナム独立同盟会)を設立。1945年にはベトナムの独立を宣言する。しかしそれに対抗するフランス軍との間で、9年に渡るインドシナ戦争が起こったのだった。
サイゴンでの祖父の活動
ホーチミンに戻りさらに祖父のレジスタンスとしての足跡をたどるルーク。叔父により、祖父はレジスタンス構成組織のリーダーだっただけでなく、祖母もそのメンバーだったことが明かされる。
ある日祖父がプロパガンダのビラを撒いているところをフランス警察に見つかってしまう。当時露天商をしていた祖母のバスケットの中にビラを隠したところ、代わりに祖母が逮捕され、拷問を受けることになってしまった。
自分のせいで逮捕されてしまった祖母に会いに拘置所に通ううちに二人は恋に落ち、結婚したのだという。
その後活動が失敗すると、祖父はジャングルに入り、ベトミンが拠点としていた「War Zone D」と呼ばれるエリアに1947年から実に7年間潜伏する。
祖母はその間も露天商として働き、ルークの父を出産した。
祖父はとても優しい人物であったという。なのに自分の父親はなぜあんなに気性が激しいのか。「16歳の頃でも、すぐに何かあると兄貴に殴られた。自分が間違っていなくても殴られたが、受け入れるしかなかったね」と笑う叔父だが、それを厳しい表情で聞くルーク。
ホーチミン南部にある「War Zone D」は、ベトミンの拠点となった100キロ四方のジャングル地帯で、訓練や情報収集、戦闘の意思決定などが行われていた。彼らはいわゆるゲリラ戦法で戦ったため、フランス軍はこの地域には入り込めなかったという。
無尽に張り巡らされた地下壕に入るルーク。ベトミンはここに潜伏し、時にフランス軍を急襲するなどした。
レジスタンス活動が家族に落とした影
祖父のレジスタンスとしての活動は、グエン家に影をもたらす。当時の政治犯が集められ、拷問を受けたという建物を訪れるルーク。ここで政治活動の代償を支払ったのは、祖父ではなく、曽祖父であった。
大叔父(祖父の弟)によると、ある日フランス警察が突然訪れ家宅捜索を行い、そこに居合わせた曽祖父を連行してしまう。原因は祖父のレジスタンス活動であることは明らかであった。
曽祖父は3時間の拷問を受け、家に戻されるが、その後強制労働キャンプに送られてしまう。拷問と強制労働で受けたダメージから回復することなく、曽祖父は1950年50歳で亡くなった。
「息子と父を、戦争が家族をそれぞれ違う側に引き裂いてしまったのだった。それは君の家族にも影響を及ぼしたんだよ」
ベトナム戦争が引き起こした家族の分断
1954年、フランス軍は撤退するが、今度は国が南北に分裂、1959年にはベトナム戦争が勃発する。共産圏の拡大を懸念するアメリカは資金と軍隊を投入、オーストラリアもそれに続いた。
ルークの父は、アメリカやオーストラリアと共に、南ベトナムで共産主義、つまりベトミンと闘っている。つまり、レジスタンスだった父と敵対関係であったと言える。
大叔父に話を聞くルーク。ベトナム戦争時、祖父は戦闘に参加するには歳をとってしまっていたが、「兄は明らかにまだベトミンと連絡をとっていたようだが、皆黙っていた。自分は士官学校に行ったので、卒業後はベトミンと戦わなければならなかったんだよ」
ベトミンの多くはその後ベトコンとしてアメリカ軍と戦い、勝利を収めた。
ベトミンと連絡を取っていた祖父はその後政府での仕事を得たが、敗者側であった大叔父は、その後再教育キャンプという名の強制収容所に入れられ、戻ってきたのは10年後であった。
戦争は、国の内部、そして家族の中でも、勝者、敗者という分断を生み出したのだった。
それでも祖父のことを愛している?と聞くルークに、兄弟だから当然だと答える大叔父。
ルークの父もまた、アメリカ側で戦ったため、このような収容所に入れられる可能性もあった。1977年、両親とまだ小さかったルークのきょうだい2人は、ボートに乗り、国を脱出した。
プロローグ
自分の家族の歴史のキーワードは犠牲とサバイバルだと語るルーク。家族のために中国を出た母方の祖父、国のために戦った父方の祖父、そして家族のためにベトナムを出た両親。
そして祖父達のことを知ることで、自分の両親がなぜこういう人達なのかを理解することができた。まだ自分の心の中にわだかまりはあるが、少しはそれが和らいだ、とも。
ひとこと
アジア人の有名人を取り上げた数少ない回、興味深く見ました。オーストラリアの有名人シェフということで、私は全く知りませんでしたが、彼はベトナムでもテレビ番組などに出演して、ある意味故郷に錦を飾っているようです。
父親がかなり理不尽に暴力を振るう人だったようで、父親のことを話すとき彼の表情が硬くなるのが印象的でした。一度は和解したものの、また過去を思い出すようなことが起こり、以降数年間連絡をとっていないとのこと。
こういうところも赤裸々に話すところは、日本のファミリーヒストリーではあまり考えられないかも?お父さんもこの番組を見たと思いますが、その後歩み寄れたのでしょうか。でも心の平穏のためには、距離を置くという解決策も時には必要であることはよくわかります。
中国もベトナムも当時重婚は良くあったことだそうで、2度目の奥さんの孫を中国の家族が涙と笑顔で迎え入れているところもとても印象的でした。いきなり大家族に囲まれて「シュールだ」と言っていましたが、そりゃそうでしょうね。
またベトナム戦争についても、まずは植民地支配への抵抗があり、さらに共産主義対民主主義の対立が起こった悲劇の歴史が良くわかりました。皆ベトナムの独立という同じ夢を持っていたのに、それぞれが違う側についてしまったことによる家族の分断。
昔日本にもベトナム難民が多くやってきましたが、色々差別もあったと記憶しています。彼らの苦労をどれだけ理解していたでしょうか。
<オーストラリア版、Season 7 Episode 3 2015年>
【俳優:チャールズ・ダンス】ゲーム・オブ・スローンズキャストのルーツ・母の意外な先祖・見知らぬ父の足跡
プロローグ
イギリスの俳優、チャールズ・ダンス。1980年にヒットしたTVドラマ「The Jewel in the Crown」出演のほか、最近では「ゲーム・オブ・スローンズ」でのタイウィン・ラニスター役で有名。
今まで貴族の役を演じることが多かった彼だが、彼自身のバックグランドは貴族とは程遠いものだと言う。
母親は13歳から召使として働き始め、ウェイトレスやハウスキーパーなどで生計をたててきた。家族のことはほとんど話さなかった。
父親に至っては彼が4歳の時に亡くなったため、記憶も無く、エンジニアだったということ以外は全く何も知らないという。
自分の成人した2人の子供、そして4歳になる娘が、自分たちのバックグランドを知らないまま歳をとって欲しくない、と彼は語る。
母方の曽祖父出生の謎
母親のルーツを探るため、まず10歳年上の兄マイケルを尋ねる。チャールズとマイケルは、実は父親が違う兄弟だということは、大きくなってから母親から知らされた。マイケルの父親が誰かは知らされなかったという。
兄が知っていた母方の祖父母の名前をもとに、祖父母の結婚証明書が見つかる。証明書には、祖父の職業は木挽、祖母の父親(曽祖父)ジョージは保険勧誘員とあった。それなりに教育があり労働者階級でも上のほうに位置していたようだ。
さらに曽祖父ジョージについて、彼の出生証明書、そして当時の国勢調査の情報を調べると、なぜかそこに書かれた彼の父親の苗字が、それぞれ「ゴールド」「ブース」と違っていた。
ここで分かったのは、曽祖父ジョージは、彼の両親がダブル不倫をして生まれた子供だということだった。出生届を出す際、母親が本来の結婚相手、ブース夫人として届けを出す必要があったため、父親の欄に不倫相手のファーストネームと、自分の夫の苗字「ブース」を組み合わせた名前を書き込んでいた。
曽祖父の両親は、法的に結婚していないことを隠して生活しなければならなかったが、その後さらに6人の子供をもうけた。
「フッヴォイ家」を探る
ダブル不倫をしたジョージの母、チャールズの高祖母エマの出生地はロンドンの高級住宅街マリルボーン。そして彼女の旧姓は、聞きなれない「Futvoye(フッヴォイ)」というものだった。
フッヴォイ家について知るため、チャールズはフッヴォイ家の末裔が先祖について調べたアーカイブがあるというDerbyshireに向かう。
フッヴォイ家はもともとベルギーのスパという街から1791年にイギリスに来たという。そして高祖母エマには11人のきょうだいがいた。きょうだいはそれぞれカナダ軍の重職についたり、家庭教師として働くなど教育のある家庭だった。
エマの父シャルル・フランソワは「芸術家」であったというが、どの分野の芸術家であったかはわからなかった。
ここでエマの父母の肖像画を見せられるチャールズ。特にエマの母親の肖像画が、自分にそっくりだと驚く。「自分が女装しているようだ」
母親の先祖は貧しい家柄だと思っていたのに、ベルギー出身の裕福な家庭にいきついたことにも驚くチャールズ。またこの肖像画が、もしかしたら芸術家であったというシャルル・フランソワが描いたものではないかとも期待する。
シノワズリーで成功したフッヴォイ家
芸術家であったというシャルル・フランソワに興味を持つチャールズ。ケンブリッジのフィッツウィリアム美術館に向かう。そこで見せられたのは、皿の下絵のようなもの。中国人が凧をあげている柄で、紙の裏にはフッヴォイという名前とロンドン・マリルボーンの住所が印字されていた。
また画材商からシャルル・フランソワが大量の画材道具を仕入れていた記録も見つかる。
さらに謎をとくため、ケンブリッジのクレイドンハウスに向かうチャールズ。この屋敷の内装は非常に凝ったオリエンタル趣味。そこで見せられた新聞広告から、シャルル・フランソワは当時流行したシノワズリーという東洋趣味の美術に深く関わっていたことがわかった。
特に「ジャパンニング」といわれる日本の蒔絵を模倣した木箱を作る方法は、当時の上流階級の女性の趣味としても広まっており、彼はその指導、材料の販売まで幅広く行っていた。美術館で見た下絵も、蒔絵の図案として販売していたものだった。
シャルル・フランソワが店を構えていたマリルボーンの住所を尋ねると、そこは現在本屋になっていた。当時の店舗の絵とくらべてみても、あまり内装も変わっていなかった。
なぜベルギーからやってきたか
フットヴォイト家はなぜベルギーからイギリスにやって来たのか。ベルギーのスパという街は、その名前の通り温泉があり、上流階級の人々が湯治や休暇で集まる歓楽街で、湯治施設を「スパ」と呼ぶのは、この土地名から来ているという。
ベルギーでもフッヴォイ家は、スパを訪れる上流階級向けの土産物として珍重された蒔絵「ジャパンニング」を生業にして成功していた。
しかしフランス革命の余波を受け、1789年ベルギーでも反乱が起きる。貴族向けの商売をしていたフッヴォイ家はロンドンに逃げ、そこで店を構えることとなった。
特にマリルボーンは裕福な移民が暮らす場所だったため、ここが選ばれたと考えられる。
またフッヴォイ家は、ロンドンでこの蒔絵やオリエンタルアートを、ロイヤルファミリーにも教えていたことが、当時の新聞記事から明らかにもなった。
若い頃から召使として働いてきた自分の母親の先祖は、東ロンドンの貧しい労働階級だとばかり思っていたが、自分の先祖がこんな遠くから来て成功していただなんて、母親自身も全く知らなかっただろうし自分も驚きだと語るチャールズ。
全く知らなかった父親の足跡
次はほとんど何も知らない父親、ウォルター・ダンスについて調べるチャールズ。父は1949年、彼が4歳の時に亡くなった。亡くなった当時50代で、一度離婚歴があるという。
彼が持っている父親の唯一の写真は、軍服を来た若い頃のもの。専門家に写真を見てもらう。第一次世界大戦のものと思っていた軍服は、実はそれ以前の1900年代のものだとわかる。
1949年に50歳代で父親は亡くなったはずなのに、計算が合わない。この写真の人物は自分の父親ではないのではと考え始めるチャールズ。
しかし当時の軍人登録から、ウォルター・ダンスは1900年、25歳だったことが判明する。自分が思っていたより、父親はずっと歳を取っていた。彼が生まれた時、父親はなんと72歳だった。
父ウォルターは、1899年に起こった南アフリカのボーア戦争に志願していた。その記録から、当時既に結婚しており、ノラという娘、自分にとっては50歳年上の姉がいたこともわかった。
ボーア戦争に参加した兵士に与えられたメダルを見せてもらうチャールズ。彼の部隊は南アフリカでゲリラと闘うなど過酷な経験をしたことも記録から判明する。
全く知らなかった父親の軌跡を知って感動するチャールズ。
姉に起こった悲劇
戦争から戻ってきたチャールズはその後どうしたか。オンラインで国勢調査を調べてみると、ウォルターにはその後もう一人子供が生まれたが、その後亡くなったことがわかった。
ロンドンの住宅街アクトンに向かうチャールズ。そこで見せられたのは、もう一人の姉メアリーの出生証明書と、死亡証明書。5歳のメアリーは、当時住宅建設が進んでいたこの場所で、崩れた足場が頭部を直撃して亡くなっていたことがわかった。
同じ年齢の娘がいるチャールズはショックを受ける。
意外な場所に見つかった親戚
メアリーの死後の家族の消息を当時の居住記録から調べるが、1924年でその足跡が途切れる。
彼らの消息をつかむきっかけになったのが、当時の新聞に掲載されていた、南アフリカでの電気技師の求人。
エンジニアであり、南アフリカでの経験があった彼が応募したのではないかと、その後の渡航記録を調べると、ウォルターとその妻が南アフリカ行きの船に乗った記録が見つかった。
彼らの娘、ノラが南アフリカ出身の男性と結婚したため、数年後一緒に住むために南アフリカに移住したことがわかった。
その後ノラは1993年に南アフリカで亡くなっていたが、彼女の娘が南アフリカ・プレトリアにまだ住んでいるという。
彼女に会いに南アフリカに向かうチャールズ。自分のいとこが訪ねて来たと思った彼女であったが、実は大叔父と聞いて驚く。
ノラの遺品から、彼女が書いた自伝が出て来る。そこには彼が知らなかった、いたずら好きでユーモアのセンスがあった父親の姿が書かれていた。読みながら涙ぐむチャールズ。
南アフリカからウォルターがロンドンに戻ったのは、手術が必要な病にかかったためだった。しかしロンドンに着いた直後、彼の妻が病死してしまう。前の妻とは離婚したと聞いていたが、実は死別していたのであった。
そして間をおかずにウォルターはチャールズの母と結婚。
母の死後すぐに再婚した父を、ノラはこころよく思わなかったであろう。南アフリカに残された家族と、チャールズ達がお互いのことを知ることはなかったのだろう存在を知ることがなかったのは、このためではないかと考えるチャールズ。
エピローグ
父親の写真を1枚しか持っていなかったチャールズ。家族のアルバムの中から、新たに父親の写真をもらう。
南アフリカに自分の家族を見つけたチャールズ。そして全く知らなかった自分の父親について知り、自分との共通点も知ったことで、自分のことを知ることもできた。父の事を誇りに思うし、父が生きている間にもっと父のことを知りたかった、と語る。
ひとこと
あまり日本では知られていない人物でも、そのファミリーヒストリーはなかなか面白いので気にせずどんどん紹介したいと思います(ゲームオブスローンはさすがに人気でしょうか)。
遠い古い先祖をたどるより、自分の知らなかった父母や祖父母など、より直近の先祖を調べるエピソードの方が感動が大きい気がします。
また、チャールズダンス本人も、高齢になってから生まれた子供がいるなど、知らない間になんとなく父親と人生がパラレルになっている部分があるのがなんとも不思議な回でした。
母親は苦労されたようですが、その詳細は紹介されませんでした。世代間でも生活レベルに大きな浮き沈みがありますね。
蒔絵のことはジャパン、陶磁器のことはチャイナと呼ばれていますが、蒔絵を自らの手で施すのが上流階級の趣味として広がっていたのも面白かったです。
個人的には、マリルボーンにある、現在本屋になっている場所、ここでよく立ち読みしたり本を買っていたので、自分が知っている場所が出てきたことも少し驚きでした。
<シリーズ14、エピソード1、2017年7月>