世界のセレブ・ファミリーヒストリー

世界のセレブ・ファミリーヒストリー

英・米・豪・加で放送されている「ファミリーヒストリー」的番組 Who Do You Think You Areの興味深いエピソードを紹介します。セレブの家族史を通じて、世界の知らなかった出来事が見えてくる。今の世界を知る上でも、個人を知る上でも、色々興味深いこと満載です。

【女優:リタ・ウィルソン】ムスリムだった父が語らなかった過去

プロローグ

トム・ハンクス夫人としても知られる女優、リタ・ウィルソンはギリシャ系アメリカ人。「めぐり逢えたら」をはじめ数多くの映画、テレビドラマに出演している。またギリシャ系移民の恋愛と結婚のドタバタを描いた大ヒット映画「マイ・ビッグ・ファット・グリーク・ウェディング」のプロデューサーも務めた。

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By Angela George, CC BY-SA 3.0, Link

ギリシャ人の母親については、生い立ちなど話をよく聞いていたが、父の過去については何も知らないという。

2年前(2010年)に亡くなった父はギリシャ生まれだが、子供の頃ブルガリアに移住したと聞いている。アメリカには20代の時に来た。アメリカに来る以前、ブルガリアで強制労働をさせられ、そこから脱走したという話を聞いたことがあるが、詳細は不明。精神的、肉体的にも辛い思い出を語りたくなかったのか、アメリカに来る前のことは誰も知らないのだという。

先祖のことというと、祖父母以前のことを調べることが多いと思うが、これはもっと直近の、自分に直接関わる部分。何でも良いからわかれば嬉しい。

ギリシャにあるムスリムの村

父の名前は、ハッサン・ハリル・イブラヒモフ。1960年にアメリカ市民権を得た時、名前を「アラン・ウィルソン」といういかにもアメリカ人らしい名前に変えた。

もともと父はムスリムだった。1920年ギリシャ北部で生まれたハッサン。この地域は長年オスマントルコ帝国の支配下にあり、そのような歴史の中では、キリスト教からムスリムに改宗するものも多かった。ギリシャにもまだ少数のムスリムが残っているらしい。

両親の結婚証明書に書かれた父の出生地は、ギリシャのオライオンという場所だった。

現在はオライオと呼ばれている村に向かうリタ。

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oraio by dubnsnow from Panoramio

ギリシャの村ではあるが、モスクがあり、祈りの声が聞こえる。

案内された家は、父が生まれた家だった。「ただいま・・・」と言いながら家に入るリタ。天井にはタバコの葉が干してあり、今は倉庫として使われているようだ。父の子供の頃の話など聞いたことがないリタは、ここで父がどんな子供時代を過ごしたのだろうと考え、感動でいっぱいになる。

父親のいとこたちが迎えてくれた。父の子供の頃の写真は残っていなかったが、祖父の写真を初めて見せてもらう。祖父はひょうきんな人物だったらしい。

しかし、通訳を介して祖父や父がいつブルガリアに行ったのかを尋ねても、話がはっきりしない。唯一わかったのは、ブルガリアのスモリアンという街に移ったということのみだった。

軍事裁判と懲役刑

とりあえずスモリアンに向かうリタ。

住民登録台帳に、ハッサンの父親と、5人のきょうだいの名前が見つかった。台帳が作られた年代から、1927年〜34年、ハッサンが7〜14歳の間のいつかにブルガリアにやってきたと考えられる。

1941年の軍の記録にハッサンの名前があった。クサンティ歩兵大隊に所属とある。ハッサンが20歳の時であった。

クサンティと呼ばれる地域は、ハッサンが生まれた当時はギリシャ領で、彼の出身地オライオもこのエリアにあった。しかしその後、ナチスの協力のもとブルガリアが侵略、ブルガリア領となる。

ハッサンはギリシャ人として生まれたが、この時点ではブルガリア人となり、ブルガリア軍に徴兵されて自分の生まれ故郷の占領任務に当たっていたことになる。

父が軍にいたことを初めて知ったリタ。

1年後、ハッサンは軍事裁判にかけられていた。罪状は、28本の瓶と、5レヴを盗んだことで、懲役3年8ヶ月、独房行きの判決だった。5レヴは現在の通貨にしても小銭ほどの金額。しかし軍は、規律と見せしめのため、厳しい刑罰を科したのであった。

現在はブルガリアにあるプロヴィディフという街の刑務所に収容されたハッサン。刑務所で労働に従事したことで刑期は短縮され、2年後には釈放された。

強制労働をさせられていた、という話を聞いたことはあったが、これは全くの刑務所。強制労働の話は、この刑務所の経験のことを言っていたのだろうか。父の優しく、楽しいことが大好きだった性格を考えると、過去のことを話したがらなかったのもわかる、と涙ながらに語るリタ。

つかの間の幸せと悲劇

釈放後、ハッサンはスモリアンに戻っていた。しかし1945年、刑務所のあったプロヴィディフへの移住許可を求めている。スモリアンは国境地帯で軍の管轄にあったため、この地域から移動するには許可が必要だったらしい。

プロヴィディフで、当時の国勢調査を見るリタ。1945年の台帳に父ハッサン・イブラヒモフと並び、アリス・ハッサン・イブラヒモヴァという女性の名前があった。

父はブルガリアで一度結婚していた。

婚姻証明書も見つかる。結婚したのは、1945年10月26日。奇しくも10月26日はリタの誕生日だった。

さらに二人の間には子供も生まれていた。結婚2ヶ月後の1945年12月26日、エミルという男の子が誕生。リタにとっては異母兄に当たる。プロヴィディフに移ってすぐ結婚したのは、アリスが身重だったからだろう。

しかし次に見せられたのは、アリスの死亡証明書だった。出産3日後に子癇(しかん)と呼ばれる痙攣症状により亡くなっていた。この症状は妊婦の頃より現れるもので、胎児も危険な状態になるという。

エミルも翌年、生後4ヶ月で亡くなっていた。死亡証明書を見て、涙が止まらなくなるリタ。

この時父ハッサンは24歳。この若さで、既にこんなに多くの辛い経験をしていたとは。つかの間の幸せをつかんだと思えば全て失ってしまった父。

エミルの誕生日は12月26日だが、実はリタの息子もその日に生まれている。そして自分の誕生日も10月26日。26はラッキーナンバーだと思っていたが、もしかしてエミルが自分のラッキースターとなって見守ってくれていたのでは・・と言葉を失うリタ。

この5年後、彼はどうにかしてアメリカに渡り、自分の母と結婚したわけだが、それまでの5年間に何があったのだろうか。

再びの逮捕、強制収容所

父が強制収容所にいたと言う話は本当なのだろうか。確認するため、ブルガリアの首都ソフィアに向かう。

機密ファイルが保管されている施設を訪れるリタ。

当時のブルガリアには、実際にソビエトのモデルに沿った収容所がいくつもあったと言う。

1944年、ソビエトブルガリアに侵攻。その後、ブルガリア共産党員たちがクーデターを起こし、社会主義国が設立されたが、これに反するものは逮捕され、収容所送りになった。この様な収容所は国内に100ほどあったという。

父の「機密ファイル」が見つかる。

  『ハッサン・ハリル・イブラヒモフはプロヴィディフでワイルドな生活を送っている。家に娼婦や軍人など様々な人物を招いてパーティーをしており、監視の必要あり』

当時のブルガリアは、近所の人々や当局がお互いを監視しあい、政府に反する行動を起こすものは密告されたり、逮捕されていた。

次に出てきたのは、警察での尋問記録。ハッサンはトルコ領事館員と知り合いになり、彼の手引きでトルコに逃げようとして、国境で捕まっていた。1946年10月、反逆者として捉えられたハッサンは、実際に強制収容所に送られたのであった。

収容所からの脱出

リタの父ハッサンはBogdanov Dolと言う場所にある収容所に送られていた。収容所の状態は劣悪で、最低限の食事しか与えられず、死ぬまで働かされたり、時に虐待死するものもあったと言う。

ハッサンのいた収容所では炭鉱での厳しい労働が待っていた。当時収容されていた人の記述によると、労働が終わり整列させられた時、少しでも逃げるそぶりがあれば、容赦なく銃殺された。逃げるそぶりがなくとも、監視員がそう思えば、銃殺対象になることさえあったと言う。

そんな状況の中、ハッサンはどのようにして脱走を図ったのか。

ハッサンの逃亡についての報告書が残っていた。

  『5月8日、夜10時から朝6時のシフトの間、10名を監視。11時半にワゴンを空にし、次の石炭が来るまで、全員が地面に座り休んでいた。1時半頃5名が石炭を取りに行ったが戻らず、5分後に捜索を開始。しかし逃亡者はワゴンの間の暗闇に隠れ見つけることができなかった。その後銃を5発打ち、他の監視員と捜索したが手がかりなし』

すごい!最高の報告書!と興奮するリタ。

収容所からの脱走は、そう頻繁に起こるものではなかったという。もう失うものはなかったハッサンは、命をかけて脱出を試み成功したのだった。

このことで、ハッサンはブルガリアの国家反逆者となった。脱走から26年後の1973年にまとめられた反逆者リストの中にも、反逆者第8011番として彼の名前が残っていた。

アメリカでの自由を愛した父。自分にとってはヒーローだと言うリタ。

感動の再会と父からの手紙

スモリアンに父の異母兄が見つかった。96歳になる叔父さんと涙の再会を果たすリタ。

話を聞くと、ハッサンだけでなく、兄も収容所に入っていたと言う。ハッサンは脱走したが、自分は妻子がいたため一緒に逃げることはできず、ハッサンの所在をめぐり尋問、拷問を受けたと言う。

ハッサンがアメリカから送ってきた手紙が残されていた。ハッサンの子供達にいつか渡そうと思ってとっておいたのだという。

ハッサンがアメリカに渡って8ヶ月後、1950年の手紙。涙ながらに読むリタ。

  『今ニューヨークにいます。アメリカではびっくりするくらい給料が高いです。夜は学校に通って英語を学んでいますが、もう言葉はかなり覚えました。これが終わったら別の学校に行って、ラジオとテレビ機器について勉強するつもり。ここでは学校は全部無料です。頭がよければ医者にだってなれるし、女の子だって手に入る。人生を謳歌できる場所です。アメリカに行く船の中では火夫として働いたけれど、乗っている船が沈没しかけました。その時、もしアメリカに無事についたら、ここで絶対のし上がってやる、と思ったのです。そして今、それを実現しようとしています』

  『近所にいたアルメニア人のおばさんのことを覚えている?あのおばさんは昔アメリカに行ったことがある、アメリカは地の底だ、なんて言っていたけれど、アメリカは地上の楽園だ、と伝えてください』

エピローグ

父は毎日のように God Bless Americaと言っていた。この手紙でも、自分はやり遂げたんだ、アメリカンドリームをつかんだんだ、と言う父の強い気持ちが伝わってくる。

色々な経験があって、父はより良い人生を求める様になったのだろう。父のことを知れば知るほど、父の芯の強さに触れ、尊敬する。

父の辛い経験を知ることになったが、青年としての父を知ることができたのが、何よりも嬉しい。

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Dailymailより

ひとこと

とてもドラマチックで感動的であり、色々なことを知ったエピソードでした。ギリシャは長年オスマントルコに支配され、独立の時には、それぞれの土地にいたキリスト教ととイスラム教徒の「交換」が行われたと言う話は聞いたことがありましたが、今でもギリシャにマイノリティとして残っているのは知りませんでした。

またこのエピソードを見た人が、オライオでリタが出会った父ハッサンのいとこたちは、ギリシャ語ではなくトルコ語を話していた、と指摘していました。

番組では言及がありませんでしたが、ウィキペディアなどには、リタの父ハッサンはポマク人との記述もあります。ポマク人は、ブルガリア人のムスリムで、番組で言われていたようにオスマントルコの時代にキリスト教から改宗した人達のようです。いとこたちがブルガリア語ではなく、トルコ語を話していたのは、どうもギリシャ政府の政策によるもののようです。(詳しくはこちらを)

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By Unknown - Scan from: Stoyan Raichevsky - Mohammedan Bulgarians (Pomaks), ISBN 9549308413, ISBN 978-9549308419, Public Domain, Link

生まれた時はギリシャだった場所が今度はブルガリアになり、そして共産国になり・・・。番組では省略されていましたが、トルコに逃げようとして捕まった時の供述書を画面を一時停止して見てみると、やはりイスラム教徒はブルガリアにいづらかったようで、イスラムの国トルコへ逃げようとしていた、というような動機も書かれていました。

またブルガリアにいる兄にニューヨークから送った手紙も、リタが読んでいたのはほんの一部分で、実際の手紙にはもっといろんなことが書かれていました。

これも目を凝らして、リタが読んでいた英語訳の紙を画面を一時停止して読んでみました。半分しか写っていなかったので、全文はわかりませんでしたが、収容所から脱走した後、最初はトルコにいたと書かれていました。そこから家族にしょっちゅう手紙を送っていたようです。また、ブルガリアにいる父や兄とは別に、母や弟たちの一部はギリシャに離れ離れになっていたようで、彼らはSiriusと言う島に2年間避難していた、とありました。この島がどこにあるのか、調べてもわからなかったのですが・・・。そこにニューヨークから色々と救援物資を送ってあげている、自分が(軍隊で)刑務所にいた時に助けてくれたから同じことをしている、また弟の一人はアテネの刑務所に入っていてもうすぐ出所する、と、自分以外の家族の近況も色々と書かれていました。

どうもハッサンだけでなく、この家族はブルガリアギリシャ、アメリカそしておそらくトルコと離れ離れになり、本当はもっと色々なドラマがあったような匂いがします。番組ではそこまで深追いしませんでしたが・・・。

アラン・ウィルソンという名前からは想像もつかないような、そんな壮絶な過去があったことなど微塵にも出さなかったお父さん。自分の父親がそんな過去を持っていたことを、亡くなった後に知ることとなったリタさんはもう涙涙の連続で、おじさんとの再会ではこちらも泣けてしまいました。

ギリシャ系といえば、「フルハウス」でおなじみのこちらの俳優さんの話もどうぞ。リタ・ウィルソンとジョン・ステイモスはギリシャ一家のドタバタ映画「マイ・ビッグ・ファット・グリーク・ウェディング2」で夫婦役で登場していました。

familyhistory.hatenadiary.com


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