【コメディアン】フレッド・アーミセン:日本のルーツ?
プロローグ
コメディアン、フレッド・アーミセンは、1966年ミシシッピ州出身。2002年から2013年まで、アメリカの人気コメディ番組サタデー・ナイト・ライブのキャストメンバーとして活躍。その後も様々な映画や、コメディドラマ「ポートランディア」などに出演している。
もともとはミュージシャンを目指し、バンドでドラムを叩いていたフレッド。バンドはレコード契約までしたが、全く人気が出ずに低迷。
By Richard Sandoval at flickr https://www.flickr.com/photos/hispaniclifestyle/14810641332/ - File:Fred Armisen at 2014 Imagen Awards.jpg, CC BY-SA 2.0, Link
その頃ビデオカメラを片手に、違うキャラクターになりきりバンドメンバーにインタビューをするなど、面白ビデオを作り、ライブの前に流したところ、逆にそれが人気になり人が集まるようになり、コメディアンに転向するきっかけとなった。
フレッドの父は1941年ドイツ生まれ。父方の祖母はドイツ人、そして祖父は日本から来たダンサーだったが、祖父については知らないことが多いという。
祖父はダンサー、振付け師として世界中を回っていた。祖父母は短い時間をともにしただけで、結婚しなかったため、父も大人になるまで自分の父親に会ったことはなかった。フレッドも4−5回ほど会っただけだと言う。
日本人舞踏家の祖父
フレッドの祖父の名前はマサミ・クニ。日本の有名な舞踏家、邦正美だった。
彼の記念館が今も東京にあることを聞き、そんな有名な人だったなんて驚くフレッド。
クニは戦時中、10年以上に渡りドイツに住んでいた。ナチスドイツのバックアップを受け、舞踏家としてドイツやヨーロッパ各地で活躍していたらしい。当時日本とドイツは同盟国だった。そのためにナチスドイツの援助のもと舞踊を教えていたのだろうか・・と考えるフレッド。
クニがドイツ部隊の慰問のため、前線を訪れて公演していたと言う新聞記事も見つかる。外国人のエンターテナーが前線を訪れるのは、これが初めてだったと言う。
舞踏家とは別の顔
またアメリカの戦争局のアーカイブに、彼の情報が残っていた。イスタンブールにいるアメリカの諜報員の報告で、そこにはクニはダンサーとしてヨーロッパの各都市を周りつつ、実は諜報活動を行っているエージェントの一人だと書かれていた。南ヨーロッパ・トルコ情勢について情報を探っており、日本の諜報員の中でも優秀なエージェントの一人だとある。
ダンサーなんて劇場にいるだけなのに、どうやって?と驚くフレッド。おそらくオフステージで色々な人と会う機会があったと考えられるが、彼が諜報員だった可能性を示す書類はこの報告書だけだという。
いろんなレベルで信じられない。ダンサーだけでなく諜報員・・・まるで映画みたいだと感嘆するフレッド。
祖父の本当のルーツ
邦正美のルーツを調べる。1933年の日本の新聞記事に彼の公演の情報が乗っていたが、そこには邦正美、本名朴永仁、と書かれていた。
え、自分は韓国人なの?今まで自分は日本人のクオーターと信じて疑わず、インタビューでもずっとそう言ってきたけれど、自分の認識が全てひっくり返る、と大ショックを受けるフレッド。
1910年日韓併合により、朝鮮半島は日本の統治下となる。関東大震災の際には朝鮮人虐殺が起きた時、祖父正美は日本の高校に通っていた。
自分のアイデンティティはある程度ナショナリティで決まる部分もある。日本食が好きなのは自分が日本人だからと思っていたけれど・・これからはキムチも好きになら無いといけないね、とフレッド。
さらに遡る朝鮮半島のルーツ
正美の家族は韓国・蔚山出身。彼の親戚がまだ蔚山に残っていた。
正美の父、曽祖父は上流階級に属し、西洋的な考えを取り込むことに積極的な開化派に属していた。この曽祖父の勧めで、正美は日本に留学している。
100年前にひいおじいさんが息子を日本に送ると決めたことで、今の自分があるんだね・・とフレッド。
族譜も残っていた。フレッドの5代前、1600年代まで先祖を遡ることができるものだった。ここまでは、信憑性が確認できたと言う。しかし族譜はさらに遡り、紀元前69年、63代に渡る情報が記されていた。ここまでくると本当かはわからないが、最終的にフレッドの祖先は、新羅の建国の祖、赫居世居西干にまでつながるという。
色々な発見に驚くフレッド。まずは親戚中に電話をしなくては・・・。
エピローグ
数週間後、東京に飛び、邦正美創作舞踏研究所を訪れるフレッド。記念室に祖父の衣装や写真、原稿などが展示されていた。
見れば見るほど、衣装など自分にセンスが似ている。自分の祖父だ、とはっきりつながりを感じる、と感動するフレッド。
ひとこと
普段はWho Do You Think You Areと言う番組を紹介していますが、ここでは別番組、Find Your Rootsと言うアメリカで放送されている番組からご紹介しました。
この番組は、ヘンリー・ゲイツ・ジュニアと言う歴史の教授がホストとなり、毎回2-3人の有名人のルーツについて紹介する番組です。一度に複数の人の情報が紹介されるため、一人一人の内容は短いものになっていますが、それぞれのゲストのルーツに何かしらの共通点(同じ地域だったり、意外な背景があったり)があるのが特徴です。
フォーマットも、ゲストが自分で色々な場所を巡って調べたり話を聞くのではなく、教授と番組スタッフが調査した内容を、アルバムにしてまとめ、それを1ページごとにめくってもらい、教授が説明するというスタイル。
普段の記事が長いので、今回はパパッと読める内容をこの番組から紹介してみました。他にも面白そうなエピソードがあればまた紹介します。
フレッド・アーミセンが出演していたサタデー・ナイト・ライブは、土曜日の夜に生放送でコントをする番組です。1975年から続く長寿番組で、毎回有名人のゲストを迎え、キャストメンバーと色々なコントをするのが特徴。日本でも有名な歴代のキャストメンバーといえば、一番わかりやすところでエディ・マーフィー、映画「ロスト・イン・トランスレーション」のビル・マーレイなど。ブルース・ブラザーズももともとはこの番組から生まれたキャラクターでした。
フレッド・アーミセンはその苗字と見かけから、アイスランドかどこかがルーツの人なのだとばかり思っていましたが、なんと、こんな背景を持っていたとは驚きでした。ちなみに彼のお母さんはベネズエラ出身だそうです。
でも不思議な話ですよね。朝鮮半島で生まれた人が親に日本に送られ、その後ドイツに渡り、そこで知り合ったドイツ人女性と短い関係を持ち、そしてその子供がアメリカに渡り、そしてその孫がコメディアンとしてテレビで活躍している、と。時代の流れ、人の縁、色々な偶然が重なって、人は生まれ、命は繋がっていく・・とちょっとありきたりですが、そんなことを思うエピソードでした。スパイっていうのも驚きでしたけれどね。
【女優:ユーナ・スタッブス】シャーロック・ハドスン夫人のルーツ:ガーデン・シティで繋がった縁
プロローグ
イギリスの女優ユーナ・スタッブスは、1937年ハートフォードシャー生まれ。
女優・ダンサーとして60年以上にわたり活躍、最近ではドラマ「シャーロック」でハドスン夫人を演じている。
ユーナの父親は誰からも好かれる明るい性格だった。一方母親はあまり社交的でなく、時に鬱のようになることがあったが、家族が支え合って暮らしてきた。
ユーナの母方の曽祖父は、近代都市計画の基盤となった「ガーデン・シティ」の発案者、エベネザー・ハワード。
しかし父方のルーツについては、ユーナは自分の祖父母に会ったことがないばかりか、名前さえ知らないという。あんなに社交的で楽しい性格だった父、その両親に一度も会う機会がなかったのはなぜだろうか。
初めて知る父方の祖父母
父方のいとこ達を訪ねるユーナ。ユーナと違い、彼らは祖父母のことをよく知っていた。
初めて祖父母の写真を見る。祖父の名前はアーサー、祖母はアニー。
祖母アニーは型破りな性格で、一緒にいてとても楽しい人だったという。特に踊ることが好きで、お酒も嗜み、人生を謳歌するタイプ。ピリッとした性格で、とても強い女性だった。
祖父アーサーは親切で面白い人。おばあちゃんの尻に敷かれていたかもね、といとこ。
祖母アニーは1960年代に亡くなった。当時20代だったユーナが、ショービジネスの世界に足を踏み入れ、テレビへの出演を始めていた頃。ダンスが大好きだった祖母アニーは、そんなユーナをとても誇りに思い、ダンスがうまいのは私の遺伝だね、と言っていたという。
こんな素敵な祖父母になぜ会ったことがなかったんだろう?
おそらくユーナの母親とそりが合わなかったのだと思う、といとこ。シャイな性格の母は父の家族に圧倒されてしまったのではないか。また、祖母アニーのバックグラウンドについても、あまり良く思っていなかったかもしれない、という。
というのも、祖父母には、ユーナの父も含めて6人の息子がいたが、長男は夫アーサーとの間の子供ではなかった。また次男であるユーナの父は2人の間の子ではあるが、アニーはユーナの父を未婚のまま産んだのだという。
いとこ達に話を聞き、祖父母との交流があったことをとても羨ましく思ったユーナ。特に祖母の話を聞くほど、会いたかったと思う。特に自分のことを誇りに思ってくれていたなんて・・と胸がいっぱいになる。
祖母アニーの生い立ち
祖母アニーの生い立ちを知るため、ヨークに向かう。
アニーの出生証明書には、父親の名前がなかった。アニーは私生児として生まれていた。
アニーが6歳の頃の国勢調査を調べると、アニーは他の家族に養女として引き取られていた。アニーを迎え入れた養父は、盲目のカゴ編み職人。貧しい家庭だったと考えられる。そんな中でもアニーを引き取り、育ててくれたようだ。
1903年、18歳のアニーは未婚のまま出産する。出産した場所は、救貧院。ショックを受けるユーナ。
当時、未婚で貧困の女性が妊娠すると、救貧院に一時的に身を寄せ、出産するケースは多かったという。アニーはこの施設に5週間滞在して出産した。
この時代、病院はベストの医療を提供する場、というわけでは必ずしもなかった。裕福な人々は医者を自宅に呼び、手術も自宅で行ったという。いずれにせよ、アニーのような貧しい未婚女性が病院に行っても、受け入れてもらえなかった。このため、救貧院にあった医療施設を利用したと考えられる。
その5年後、アニーはユーナの父を出産。出産した場所は救貧院では無かった。
ユーナの父が生まれた住所を訪れるユーナ。ここで見せられたのは、祖父母アーサーとアニーの婚姻証明書。父が生後5ヶ月の時に、2人は結婚していた。父が生まれた住所は、祖父アーサーの家でもあった。
そして婚姻証明書に書かれた祖母アニーの住所は、その向かいの家。結婚前、2人はご近所同士だった。
祖父との不思議なつながり
その後、この地域に20年住んだ2人。子沢山であるが3部屋しかない狭い家で暮らしていた。
祖父の職業は、製菓職人。当時英国でも3つの指に入る大手、ラウントリー社のチョコレート工場で働いていた。
この事実に驚くユーナ。彼女は若い頃、ラウントリー社のコマーシャルに長年出演していたのだった。チョコレート工場を訪れたこともあったという。まさか自分のおじいさんがここで働いていたなんて。
1955年、彼女が出演したチョコレートのコマーシャル。
ラウントリー社をはじめ、イギリスのチョコレート会社の多くはクエーカー教徒によって創立されている。アルコールの代替としてココアを売り出したのが始まりだった。
ラウントリー社はクエーカーの価値観に基づき、週休二日制、会社付属の医療施設や年金など、当時としては非常に進歩的な福利厚生を提供する、優良企業だった。
従業員が会社の経営に参画する評議会もあり、ユーナの祖父もアーモンド部門の代表として、評議会のメンバーをつとめていた。
1929年、アーサーは工場の機械化により、余剰人員として解雇されてしまう。しかしラウントリー社はただ解雇したわけではなく、解雇対象となった従業員120人に資金援助を行い、次の就職先が見つかるよう支援した。
そしてアーサーが新たな職を得て移った先は、ウェリン・ガーデン・シティ。そこはユーナの母方の曽祖父、エベネザー・ハワードがデザインした街であった。なんという不思議なつながり!
ガーデン・シティを提唱した曽祖父
ユーナの母方の曽祖父はサー・エベネザー・ハワード。19世紀後半、「ガーデン・シティー」構想を提唱した人物だった。
By The original uploader was Marnanel at English Wikipedia - Transferred from en.wikipedia to Commons., Public Domain, Link
彼は都市と田園地方の良い部分を組み合わせてデザインされた住宅地を考案。これは日本にもあるニュータウンや田園都市計画にもつながる構想だった。
エベネザー・ハワードの功績は知っていても、彼の背景を全く知らないユーナ。彼は建築家だったのか?なぜこのようなことを考えるに至ったのか?
エベネザー・ハワードはロンドン生まれ。
By Spudgun67 - Own work, CC BY-SA 4.0, Link
シティー中心街に近い彼の生地は、今でこそおしゃれな店が並んでいるが、当時は人々がひしめき合って暮らす、猥雑な街だった。狭い路地は真っ暗で、下水が道に溢れているなど衛生状態も悪かった。疫病も広がりやすく、郊外と比べ、都市部の住民の死亡率は2倍にもなったという。
パン屋の息子だったエベネザーは、その後地方の寄宿学校に入学する。スラムを見て育った経験と、田園地帯で学んだ経験が、のちの彼の考えに大きな影響を与えたことは間違いない。
15歳で学校を卒業後、エベネザーは速記係として弁護士事務所で働き始め、1880年代には英国議会の速記士となっている。
都市部のスラムは衛生面、モラル面からも大きな問題となっており、議会でも議題として取り上げられていた。議員達がこの問題について話し合うのを、直接聞き、記録していたエベネザー。スラムの現状を知っているからこそ、話し合いばかりで何も解決されない現実を歯がゆく思い、「ガーデン・シティ」の構想を温め始めたと考えられる。
ガーデン・シティ実現に向けて
1890年代になり、エベネザーは自分の考えを広めるため、本の出版に取りかかる。一介の速記士だった彼は、高額の出版費用を集めるため奔走した。
建築家だったわけでもなく、議会の速記をしていた曽祖父。そしてこの活動を本格的に始めたのが、40代に入ってからだと知り感嘆するユーナ。
本の下書き、そして街の構想図を見る。構想図では、円形の公園を中心に、市庁舎や博物館、病院やコンサートホールといった公共施設が並び、それぞれの住宅には庭がついているなど、緑の少ないロンドンに比べ、ゆったりした作りになっている。街の外側に工業地帯を置き、そしてその周囲を農場が囲う。自給自足も可能なデザインとなっていた。
By Ebenezer Howard - To-morrow: A Peaceful Path to Real Reform, London: Swan Sonnenschein & Co., Ltd., 1898., Public Domain, Link
1898年「明日ー真の改革にいたる平和な道」と題された本が出版される。革命ではなく、人々の協力で社会を変革していくことを説いたこの本を元に、エベネザーは英国中を講演してまわり、賛同者を募った。
そして1903年、エベネザーが53歳の時、資金調達に成功し、ついに最初のガーデン・シティを、ロンドン近郊のレッチワースに建設した。
By Jack1956 - Transferred from en.wikipedia to Commons., CC0, Link
情熱を持ってガーデン・シティの建築に奔走したエベネザーであったが、それには大きな犠牲もあった。彼がプロジェクトに奔走している間、速記士としての仕事は滞り、収入は止まった。安定した収入源がないため、家族は苦しい生活を強いられることになる。
1904年、妻リジーが彼に宛てた手紙に、安定した収入がないことへの不安が綴られている。夢を追う夫を支えてきた妻であったが、この手紙が書かれた1ヶ月後に亡くなった。夢が現実になる目前のことだった。
ウェリン・ガーデン・シティ
レッチワースでのガーデン・シティの建設は成功裏に終わったが、エベネザーはこのアイデアを一度きりのものとして終わらせたくはなかった。
1919年、70代に入っていたエベネザーは、新しいガーデン・シティ、ウェリン・ガーデン・シティの建設に取り掛かる。
エベネザーの当時の様子を、知り合いのノルウェー人建築家が、実業家シーボーム・ラウントリーに宛てた手紙に書き残している。ラウントリー氏は、ユーナの祖父が働いていた製菓会社ラウントリー社の2代目会長。社会改革事業にも積極的に乗り出しており、エベネザーのガーデン・シティ運動の支援者でもあった。
手紙には、新しいガーデン・シティ建設のために長年目をつけていた土地がオークションに出ることになったこと、それを知ったエベネザーが猛烈な情熱と勢いで資金をかき集め、土地を競り落としたことが書かれていた。数日後に行われるオークションに向けて短期間で2万7,000ポンドの資金を集めたエベネザー。資金の一部はオークション当日に集まったという。70歳で、決して裕福ではないエベネザーが、自分のためではなく、人々の生活を向上させることを夢見て、この多額の負債を抱え、新たな街の開発に乗り出したのだった。
こうして建てられたのが、ウェリン・ガーデン・シティである。
By Cmglee - Own work, CC BY-SA 4.0, Link
エベネザーもウェリン・ガーデン・シティに1921年に移り住んだ。1924年には彼の功績が認められ、大英帝国勲章が授与された。また1927年にはナイトの称号を得たが、翌年1928年に亡くなった。
遺体はウェリン・ガーデン・シティからレッチワースに運ばれ、沿道で多くの人が見送ったという。
エピローグ
ウェリン・ガーデンシティには、街の中心に彼の功績を讃える記念碑が建てられている。
ロンドンの厳しい住環境を目の当たりにして、私利私欲に走らず、ただただなんとかしたいと奔走した曽祖父。理想を現実にすることには多くの困難が伴っただろうが、長い時間をかけてそれをやり遂げた。そして今、彼の信念、アイデアが世界中に広がっている。
彼の功績だけでなく、彼がどんな人間だったかと部分を知るにつれ、曽祖父を誇りに思う。
エベネザーの死後もガーデンシティは発展し、多くの人が移り住んだ。そんな中にいたのが、ユーナの祖父母アーサーとアニーの一家だった。そしてその4年後、ユーナの両親は結婚した。全く違う背景の2人だが、ガーデンシティがあったからこそ、一緒になった縁だった。
ひとこと
「シャーロック」のキャストとして有名なユーナ・スタッブスの回を紹介しました。シャーロックのキャストはこの他にも2人、番組で紹介されています。
familyhistory.hatenadiary.com
familyhistory.hatenadiary.com
ユーナ・スタッブスは現在80歳。とてもチャーミングで可愛らしい話し方をする人。テレビや映画の出演数はかなりのものだそうで、番組にも紹介されていたチョコレートのコマーシャルなど、テレビ女優の先駆けでもあるそうです。日本でいうと、黒柳徹子さんともちょっとかぶる感じですね。
この番組で興味深かったのは、まずイギリスのチョコレート会社のこと。ラウントリー社をはじめ、フライ、キャドバリー社など、どれもクエーカー教徒によって始められたのだそうです。アルコールの代わりとしてココアを売っていたというのも、もともと宗教的な考えから始まったようなビジネスが、こうやって大きくなったのは面白いと思いました。社員に対する待遇も、当時にしてみればかなり進歩的。番組では、「当時のフェイスブックのようなもの」という社員のプロフィールを記した社報なども出てきました。
ラウントリー社は現在はネスレに買収され、今ラウントリーのブランドで残っているのは、フルーツのグミキャンディのようなものばかりで、チョコレートはもう作っていないようです。しかし当時、ヨークはチョコレートの街だったみたいです。
エベネザー・ハワードが提唱したガーデン・シティのアイデアは、世界中に広まり、Wikipediaではこの思想に基づいて建築された都市として、田園調布も挙げられていました。上にも地図を載せましたが、ガーデン・シティ、街の中心には広い公園があり、明らかに他の街とは違う様相をしています。今もここに住む人は多いですが、どんな暮らしぶりなのか気になりますね。
Seb Alfano films in Welwyn Garden City
Welwyn From the Skies! Bebop drone footage
ガーデン・シティをドローンで撮影した映像色々
番組ではユーナさんはハートフォードシャー生まれ、と紹介されていましたが、実際は、ハートフォードシャーにあるウェリン・ガーデンシティ生まれ。彼女も、ひいおじいさんが作った街で生まれていました。
【コメディアン:アリステア・マクゴワン】アングロ・インディアン〜インドに根ざしたイギリス人先祖の謎
プロローグ
アリステア・マクゴワンはイギリスのコメディアン・俳優。テレビドラマやミュージカルなどの舞台でも活躍している。
マクゴワンと言う苗字はスコットランド系だが、彼の容貌はスコットランドらしくなく、とてもエキゾチック。昔はよく、あなたは何人なの?と聞かれたという。
実はアリステアの父ジョージはインド生まれ、インド育ち。しかしインド人というわけではなく、長年インドに住んでいた英国人一家だったらしい。髪や瞳の色がダークなのは、ポルトガル人女性と結婚した先祖がいたから、と聞いている。
しかし父が亡くなった時に取り寄せたインドの出生証明書に、父の出自は「アングロ・インディアン」だと書かれていた。これは一体どういうことなのだろうか。父方の先祖の謎を探る。
カルカッタ生まれの父
出生証明書を再度確認する。国籍・カースト欄に書かれていた「アングロ・インディアン」の文字。イギリス人なら、国籍・イギリスで良いはずだが・・・。
アリステアの母「インドで生まれ育ったアングロ・インディアンは、イギリス人でもない、インド人でもない、微妙な立ち位置にあったみたい。そのせいか、お父さんは自分はカルカッタ生まれだとは言っても、自分はアングロ・インディアンだ、とは一度も言ったことはなかったわね。カルカッタ生まれだということは誇りに思っていたみたいだけれど」
当時イギリスの植民地だったカルカッタ。父ジョージはインドが独立した6年後、1953年にイギリスに戻り、教師として働いた。
叔父とめぐるカルカッタ
インドをはじめて訪れるアリステア。インドを離れて以来60年ぶりにカルカッタを訪れるという叔父が案内してくれる。
アリステアの叔父「家族の中にインド人と結婚した人がいるという話は聞いたことがない。マクゴワン家はインド人との混血というわけではないと思う」
「当時インドで生まれたイギリス人は、自動的にアングロ・インディアンと呼ばれていた。マクゴワンの人間は髪や目の色が暗いが、何代か前にポルトガル人の奥さんをもらった人がいるからだと思う」
マクゴワン家はカルカッタの港近くに住んでいた。当時の住居を訪れる2人。
祖父セシルは港で荷役監督として働いていたが、趣味はボディービルディングで、レスリング王との異名をとるほどだった。ボディービルのジムを開き、地元民に人気だったという。
当時17歳だった父ジョージの写真も残っていた。
当時のパーティーの写真を見るアリステア。洋装をした様々な肌の色の人々が集まっている。叔父の説明では、「アングロ・インディアン」はインド生まれのイギリス人を指すというが、写真を見てみると、アングロ・インディアンの肌色は他のヨーロッパ系の住民に比べ、明らかに濃い。
アングロ・インディアンとは
マーヴィン・ブラウンというアングロ・インディアンの専門家に話を聞く。イギリス風の名前だが、出てきたのは小さなインド人のおじさん。彼もアングロ・インディアンだった。
アングロ・インディアンはイギリス人だが、インド人女性と結婚した先祖がいる混血の家系のことを指すという。
アングロ・インディアンの起源は、ポルトガルの時代にまでさかのぼる。ポルトガルは1510年頃、インド南部のゴアを植民地化した。1600年代に入り、イギリスが東インド会社を通じてインドを支配していく。
最初は、植民地にやってきたヨーロッパ人が、現地の女性と一時的な関係を持ち、子供が生まれるケースが多かったかもしれない。その後東インド会社は、地元に定着するためにも、また植民地経営に有用な人材を生み出すためにも、社員と現地女性との結婚を奨励するようになった。
生まれた子供はイギリス式の教育を受け、英語を母語とし、洋服を着て、キリスト教を信仰するなど、完全にイギリス人として育てられた。
曽祖父リチャード
叔父が持っていた曽祖父母の写真。
曽祖父の名前はリチャード・マクゴワン、曽祖母はイザベル・スチュアート。インド人らしからぬ名前だが、写真を見ると完全にアングロ・インディアンだった。
彼らはアラハバードに住み、リチャードは電報局に勤務。
19世紀後半、イギリス政府はインドに鉄道、通信網を敷いたが、その建築監督の多くがアングロ・インディアンだった。1920年代、アングロ・インディアンの人口の半分が鉄道関連の職についていたという。アラハバードも鉄道の重要な拠点であった。
よりインド人に近い風貌のリチャード。彼の母親がインド人だったのだろうか。
親戚と対面
アラハバードのキリスト教墓地を訪れるアリステア。ここには多くのマクゴワン家の人々が埋葬されていた。
埋葬記録を確認すると、曽祖父リチャードは43歳の若さで、脳溢血で亡くなっていた。祖父セシルも、また父ジョージも脳溢血で亡くなっている。ぞくっとするアリステア。
現在もこの地域に住むマクゴワン家の人々を尋ねる。門柱の表札にマクゴワンとあるのを見て、ここはインドなのだよな・・信じられない、と変な気持ちになるアリステア。
中から出てきたのは、見た目は完全にインド人だが、レジー、ブライアン、ジョナサン・・と、英国風の名前を持つマクゴワン家の人々だった。
その中で高祖父が同じだという「みいとこ」がいた。彼によると、高祖父の名前はラルフ・ジョージ・マクゴワン。妻はエレン。
ラルフは裁判所の事務員だった。
イギリス政府は、植民地での反乱などを恐れ、同じイギリス人であっても、アングロ・インディアンには権力・特権を与えないよう注意を払っていた。1795年にはすでにアングロ・インディアンの行動を制限する法律が制定されている。このため、ラルフは一生昇進することはなかったという。
高祖父ラルフは1836年生まれ。残されていた出生記録から、父親の名前はスートニアス・マクゴワン、アラハバードの隣、ミールザープルという街の行政官だったことがわかった。しかし、記録には母親の名前が書かれていない。
インド人女性と結婚した先祖
先祖が洗礼を受けた、ミールザープルの教会に向かう。
当時、インドに住む英国人女性の数が絶対的に少ないこともあり、インド人女性と結婚する英国人は多かったという。
当時の教会のパンフレットにスートニアスが、現地の高貴なムスリム女性と結婚したことが書かれていた。当時この地域の土地はイスラム教徒が所有しており、おそらく土地所有者の娘だったと考えられる。
妻がキリスト教徒ではなかったため、教会の出生記録に名前が書かれなかったようだ。
スートニアスは、キリスト教の中でも、スウェーデンの神学者エマヌエル・スウィーデンボルグの教えを信仰していた。これは、三位一体を否定するもので、イギリス国教会の教えとは真っ向から対立するものだった。しかしこの考え方は、イスラム教の教義に通じるものでもあった。
イギリス国教会の宣教師達が、地元民達を改宗させようとしていたのに対し、スートニアスは彼らの宗教に敬意を表し、ムスリム女性と結婚したとも言える。それは当時にしてみれば非常に勇気のいることであったろう。スートニアスは信念の人であった。
初めてインドに来た先祖は誰?
インド人の先祖が誰だかわかったところで、次に気になるのは、スコットランドからインドに初めてやってきた先祖は誰かということ。
ムスリム女性と結婚したスートニアスはインド生まれ。
その父親の名前もスートニアスで、東インド会社の軍人だったが、こちらもベンガル生まれ。1798年に23歳の若さで亡くなっている。スートニアスという仰々しい名前の先祖が2人もいるのか!とアリステア。
彼の両親の名前はジョンとメアリー。このジョン・マクゴワンがスコットランドからやってきた人物だろうか?
それにしても、自分のアリステア・マクゴワンというスコットランド的な名前に対して、調べても調べても全くスコットランドが出てこない。インドとのコネクションが深すぎてびっくりする。
アリステアの先祖は、なんと6世代にもわたりインドに根を下ろしていたのだった。
マクゴワン家、驚きの出身地
イギリスに戻り、ジョン・マクゴワンについての資料を大英図書館で閲覧する。
ジョンも東インド会社の軍人だった。そして妻の名前は、メアリーと記されていたが、フルネームはマリア・デ・クルス。この名前、彼女がポルトガル人の奥さんだろうか。
ジョンは下級兵士として軍に入隊したが、その後着々と昇進し、最後には少将になった。彼の遺言書も残っており、そこに残された資産一覧は、金の調度品や象3頭など豪華なものだった。
専門家によると、妻マリアはポルトガル人ではなく、キリスト教に改宗したインド人か、混血の女性だったと考えられる。名前からすると、おそらくインドとポルトガル人の混血だったのではないかという。
1765年、彼らがマドラスのセント・ジョージ要塞で結婚した記録が残っていた。ここはインドに初めて建設されたイギリスの交易、防衛のための場所だった。
By Jan Van Ryne (1712–60); Publisher: Robert Sayer - Old source New source, パブリック・ドメイン, Link
東インド会社は兵士がインド人女性と結婚して子供をもうけることを奨励し、1687年には金銭的支援も与える布告も出している。こうして、アングロ・インディアンのコミュニティが生まれていたのだった。
エピローグ
では、肝心のジョンの出身地は?
ジョンの入隊記録も残っていた。そこに書かれていた出身国は・・
「アイルランド」
えーー!と驚くアリステア。スコットランドじゃあ、ないの?!大ショック。あんなにスコットランドを応援する歌を歌ったりしてたのに、アイルランドとは・・・。実際アイルランドのスリゴーという街にマクゴワンという苗字が多いのは知っていたが・・・自分の中でアイルランドに全くつながりも思い入れもない!
アイルランドとインド。思いがけなさすぎる自分のルーツに少しガクッとするアリステア。「みなさんこんにちは、私の名前はシェイマス・シンです」
(注:シェイマスはアイルランドの名前、シンはインドによくある苗字)
ひとこと
このエピソードは本当に面白かったです。スコットランドの血だ、ポルトガルの血だ、と思っていたものが、全部ひっくり返されるという・・(笑)
アングロ・インディアンという人達の存在もこのエピソードで初めて知りました。イギリスの名前、キリスト教を信仰しているけれど、見た目はもう完全にインド人な人達。本当に植民地時代の忘れ物といった感じがします。名前は同じなのに、ここまで見た目が違う一族が親戚として出てきたら、それはひっくり返って驚きますよね。
それにしても叔父さんは、自分達の中にインド人の血は入っていない、と言い切っていましたが、先祖の写真に写っている顔はどれも完全にインド人。間違いようがありません。勝手な推測ではありますが、なんとなく、家系にインド人の血が入っていることをあまり認めたくないような風潮があったんでしょうか。
そこは不思議な感じがしましたが、アングロ・インディアンがイギリス人としての誇りを持ちながらも、必ずしもイギリス人と同じ地位を持っていなかったことを考えると、複雑だったのだろうかなとも考えます。
結婚もアングロ・インディアン同士の場合が多かったようですので、ここで紹介されたムスリム女性や、ポルトガル・インド混血女性だけでなく、もっとインドの血は濃く受け継がれてきたのではと思いました。
植民地支配による混血の歴史については、こんなエピソードもありました
そして最後の最後に、スコットランドがルーツじゃなかったことがわかった時の反応。どっひゃー!!という感じでした。日本だったら、沖縄のルーツを誇りに思ってカチャーシーを踊ったりしていたのに、蓋を開けてみたら福岡出身だった・・みたいな感じでしょうか(ちょっと違いますかね。笑)
ちなみにアリステア・マクゴワン、日本語では全く情報が出てこなかったのですが、主に有名人のものまねをすることで有名なコメディアンです。ものまね芸人ともまたちょっと違う感じなのですが、地方や階級によってアクセントが様々なイギリスらしく、有名人の声色やアクセントを自由自在に使い分ける職人技を持ち、自らのコメディーショーも持っていました。アクセントを使い分ける能力は、舞台などでも発揮されるようです。
【歌手:ライオネル・リッチー】謎の曽祖父、公民権運動への先駆け
プロローグ
言わずも知れた歌手、ライオネル・リッチー。
By U.S. State Department - https://www.flickr.com/photos/statephotos/38832214941/in/photolist-22ayQ4r-215bWSS-22atfBg, Public Domain, Link
アラバマ州タスキーギ生まれ。黒人の大学として歴史的にも有名なタスキーギ大学のキャンパスで育った。母、祖母ともにこの大学で教鞭をとっていたという。
自分はディープ・サウスで育ったと言うよりは、大学のキャンパスという守られた環境で育った、と語るライオネル。公民権運動が起こっている間も、ここは黒人が博士号をとったり、弁護士になれるような場所だった。両親は人種隔離政策のことについては話してくれなかったし、時にKKKが来るようなことがあれば、子供達を早く寝かせたと言う。
大学時代に結成したバンド、コモドアーズの活動を通じて、より自分の世界、視野が広がり、そして両親が自分に与えてくれた環境に感謝せざるをえなかった。しかし、自分たちにこのような環境を与えるまでにいたった最初の先祖は誰だったのか。家族の中の「ジャイアント」は誰だったのか知りたい。
語られることのなかった祖母の父
タスキーギで妹デボラに会い、話をする。1893年生まれの祖母アデレードは103歳まで生きたが、自分の父親について話すのを一度も聞いたことがなかった。
祖母の社会保障関連の書類から、祖母はナッシュビル生まれ、父の名前はジョン・ルイス・ブラウンであることがわかった。
祖母の両親、ライオネルにとっての曾祖父母の婚姻記録が見つかる。2人の結婚は1890年。
結婚当時、曾祖母は15歳、曽祖父は50歳。当時は12歳から結婚が許されたというが、2人の歳の差は当時でも普通ではなかった。12歳の娘がいるライオネルは、自分が父親だったらショットガンで撃つレベルだろう、とウッとなる。
1897年、離婚を求める書類が提出されていた。やはり歳の差がありすぎて考え方が合わないこと、2年前から別居していることなどから、離婚は認められた。
2人の歳の差を考えると、ジョン・ルイスはおそらく奴隷解放以前、奴隷として生まれた可能性がある。世代の違いだけでなく、そういった背景も考え方の違いに現れたのではないだろうかと考えるライオネル。
曽祖父が所属した団体
曾祖母が離婚を申請した際、曾祖母はナッシュビル、曽祖父はチャタヌガと離れて暮らしていた。ジョン・ルイスは妻と子供と離れ、何をしていたのだろうか。
当時のディレクトリをたどると、曽祖父の職業は、SGA、 Knights of Wise Menのエディター、と書かれていた。
エディターということは、まず彼は文盲ではなく、教育があったと考えられる。そして「Knights of Wise Men」とは一体何なのか。何かの雑誌なのか、団体なのか。
専門家に話を聞く。この「Knights of Wise Men」は、黒人による友愛組合(fraternal order - ライオンズクラブやロータリークラブもこの部類に入る)で、経済互助会的な役割を果たしていたという。特にメンバーの医療費や死亡時の補償金などを提供しており、ある意味保険の先駆けのような活動を行っていた。
南北戦争後、南部においても、黒人が政治に参与し、社会改革に取り組む動きがあった。しかしそれは白人コミュニティの反発にあい長くは続かず、改革は後戻りしてしまっていた。
そんな中、1879年、曽祖父のような先見の明がある人物たちにより、黒人を支援するためのこの組合が設立された。全国的にもこのような活動は広がり、1882年までにメンバーは278名にもなっていたという。
このような活動は、のちに公民権運動を進める原動力になったとも言える。
公民権運動の先駆的団体のリーダーだった曽祖父
曽祖父の名前の前についていた「SGA」とは「Supreme Grand Archon」という肩書きの略だった。彼はこの組合の全国的なリーダーであった。さらに、彼が執筆した、組合の規約書も見つかる。そんなに大きなビジョンを持った人だったのか、と驚嘆するライオネル。
この団体はその後どうなったのだろうか。1891年の新聞記事によると、1885年天然痘の流行の際、保険金支払いにより資金源が枯渇して存続が危ぶまれる危機に。さらに財務責任者が資金を横領して逃亡するという憂き目にもあってしまった。
1915年までには、すでに全国的な組合ではなくなっていたことがわかった。
この時期は結婚も仕事もうまく行かず、おそらく色々なことを立て直そうとしていたのではないか、と考えるライオネル。曽祖父の当時の気持ちが容易に想像できる。そして公民権運動の先駆けになるような活動をしていた曽祖父を誇りに思う。
曽祖父のその後
曽祖父が妻子と離れて暮らしていたチャタヌガに向かう。組合の活動がうまくいかなくなった後、ここに移動したようだ。
1929年のディレクトリに当時90歳のジョン・ルイスの情報が残っていた。祖母が103歳まで生きたのはこの血筋だな、と考えるライオネル。
90歳のジョン・ルイスの職業は墓地の管理人。この時点で、組合はもうなくなっていたかもしれないが、彼は生活のためにずいぶん長い間働いていたことになる。またこの墓地は23エーカー(東京ドーム2個分)と広大なものであった。90歳でそんな広い場所を管理していたことも驚かれる。
チャタヌガで成功した黒人を集めた当時の書籍が見つかり、そこでジョン・ルイスも写真付きで紹介されていた。人間は生まれた時から死ぬまで、教育がいかに大事かということが、彼の言葉で雄弁に書かれていた。
写真を見て、自分とおでこのあたりがそっくりだ、というライオネル。
ジョン・ルイスの死亡証明書。チャタヌガでなくなり、自分が管理していた墓地に埋葬されていた。また死亡証明書には、ジョン・ルイスの父親としてモーガン・ブラウンという名前が記されていた。しかし母親の名前は不明とも。
ジョン・ルイスが埋葬されている墓地を訪れる。黒人が多く埋葬されているというこの墓地は、墓石もあまりなく、うっそうとした林の中に落ち葉に埋もれた場所で、ライオネルが想像していたような場所ではなかった。
曽祖父が埋葬されているエリアを訪れるライオネル。曽祖父がここを歩き、そして今この一部になっていることを思い、涙する。
曽祖父の出生の謎
死亡証明書に書かれた、モーガン・ブラウンという名前。この父親は誰だったのか。曽祖父は奴隷だったのか、それとも自由な身で生まれたのか。
1924年、ジョン・ルイスが85歳の時に申請していた黒人向け年金記録が見つかる。曽祖父は1861年、22歳の時南北戦争に参加しており、その際の軍人年金を受け取っていたのだった。書類には、当時、自分を「所有していた人物」の名前を書く欄があり、そこにはモーガン・W・ブラウンという名前が記されていた。
所有者と言う名前が大きく響く。彼は奴隷であった。
しかし所有者、そして別の書類では父親と記されていたこのモーガン・ブラウンとは誰なのか。
専門家に話を聞く。当時、この地域にモーガン・ブラウン(ドクター・ブラウン)という医者がおり、プランテーションも所有していたという。また、ドクター・ブラウンには、モーガン・W・ブラウンという名前の息子がいたという。
なんと1839年、ドクター・ブラウンの日記が残っていた。
「この日の夜、マライアが男の子を産んだ。子供にはルイスと名付けた」
ルイスとは、ジョン・ルイスのことである。そしてマライアはドクターの奴隷であった。この時代、奴隷所有者がわざわざこのようなことを日記に記すのは珍しいという。やはりドクターが父親ということだろうか。
ただしこの時ドクターは80歳。息子モーガン・Wは39歳。どちらかというと息子が父親である可能性の方が高いが、確実なことはわからなかった。
白人の先祖
マライアが妊娠中にドクターが書き残した遺言状も見つかった。そこには、マライアと、生まれてくる子供を奴隷から解放するよう、そして住む場所と、子供には2年間の教育を与えるよう、書かれていた。奴隷に対してこのような遺言を残すことは非常に珍しい。やはり何らかの血縁があったことは確かであろう。
遺言状の内容を、息子が実際に実行したかはわからないが、解放された後に必要であれば住む土地も用意されていた。
曽祖父の父親か、異母兄弟であると思われるモーガン・Wの肖像画も見つかった。
この調査を始める時、奴隷制のあったひどい時代、こういう先祖がいるかもしれない、と言うことは考えた。実際にこうやって見ると、末恐ろしいものを感じる。しかし一方で、少しでも曽祖父やその母を守ろうとする思いがあったのことは、ほっとした。
この庇護により、曽祖父は教育を得ることができたわけだし、ある意味奴隷としての苦しみから逃れられた部分もあったかもしれない。自分が大学キャンパスという、守られた環境の中にいたのと似たものを感じる。
エピローグ
今回の調査でわかったことを子供達に伝えるライオネル。彼らのおかげで今の自分たちがあることを伝える。
今まで、曽祖父について語られなかったのは、何か悪い秘密があるからだと思っていた。祖母は何かを隠していたのではなく、単に知らなかったのだと思う。
彼らの強さ、家族だけでなく、黒人社会のために立ち上がった曽祖父の強さに驚嘆する。彼の夢が、今の自分たちの現実なのだ。
ひとこと
2月はアフリカン・ヒストリーの月ということで、アメリカでは公民権運動やキング牧師など黒人の歴史について学校でも色々と学ぶ機会がある月になっています。今月はできるだけそういったエピソードも紹介したいと思います。
南北戦争後、南部でも黒人が政治に積極的に参加するようになり、改革と平等を推し進める動きがあったこと、しかしその動きが白人により押し戻されてしまったという事実は興味深いです。今と前の政権にも何となく重なってしまいます。
以前にも奴隷制の背景についてはいくつかエピソードを紹介しましたが、必ず出てくる白人の先祖。ある意味奴隷は家畜同様だったため、所有者のレイプにより産み増やさせたという恐ろしい背景もあり、自分にそんな血が流れているということにゾッとしたり、怒りを覚えるエピソードもたくさんありました。
その中でも、所有者が血縁を認めて何とか庇護しようとした形跡が見えるエピソードもありましたが、だからと言ってハートウォーミング、と思ってはいけませんね。
【女優】クリスティーナ・アップルゲイト:母の記憶が無い父
プロローグ
女優、クリスティーナ・アップルゲイト。
ロサンゼルス生まれ、ロサンゼルス育ち。母は女優、父はレコードプロデューサーと言うショービジネスの家庭に育った。子役の頃から活躍し、特に10年間続いたコメディードラマ「Married with Children」で一躍有名になった。
By Gage Skidmore - https://www.flickr.com/photos/gageskidmore/14781869542/, CC BY 2.0, Link
両親はクリスティーナが5ヶ月の時に離婚、母に育てられた。父ボブとは離れて暮らしていたが、孫が生まれたことで、より交流するようになったという。
クリスティーナの父ボブは、母を知らずに育った。若くして亡くなったらしく、記憶が全くないどころか、名前さえ知らないらしい。何らかの理由で父ボブの面倒を見れなかったようで、またその死についても、あまり良い噂を聞いていない。
最近になり、子供達で父の出生証明書を取り寄せて初めて、父の母親の名前がラヴィーナだと言うことがわかった。
父は自分がどこからきたのか、誰なのかを知らない。それが原因で、色々な気持ちを押し込めてきたところがあると思う。今回は父の母、自分の祖母のことを明らかにすることで、父の長年の疑問をといてあげたい。
母親の記憶が全くない父
父ボブに話を聞く。出生証明書によると、1942年、ニュージャージー州トレントン生まれ。出生証明書を見るまで、実は自分はもっと歳をとっていると思っていたのでびっくりしたという。父の名前はポール・アップルゲイト、母の名前はラヴィーナ・ショー。
父方の祖母に育てられたという父。祖母が年老いたため、14歳頃から父親と暮らし始めた。自分の母の死については、7歳の頃、祖母に朝食のテーブルでさらっと「亡くなった」と言われたという。しかもバーの外で殴り殺されたと。自分の母親がそんな死に方をしたなんて信じたくない。母が誰なのか、何があったのか知りたい。
祖父母の婚姻証明書を確認する。祖母ラヴィーナは1921年生まれ。19歳で結婚。また、父が生まれた時、ラヴィーナは実家に身を寄せていたこともわかった。出産前から祖父母は既に別居していたようだ。
母親の足跡をたどる
トレントンの図書館で地元の新聞情報を調べる。
1934年の社交欄にまた子供だった祖母ラヴィーナと妹の写真が掲載されていた。ニューヨークやフィラデルフィアに家族旅行をしたことが書かれている。また彼らの住所は、トレントンの中でも裕福な地域のものだった。
6年後、1940年の国勢調査を調べる。父親は失業して4ヶ月。当時18歳のラヴィーナの最終学歴は中学2年で止まっていた。
大恐慌後のアメリカでは、少しでも家計を助けるため、子供が退学して働きに出ることは珍しいことではなかった。しかしこの国勢調査では、家族で働いているものは誰もいない。裕福な暮らしから、貧困におちいった家族の姿がそこにはあった。
暴力をふるっていた祖父?
父が生まれた時、祖父母は既に別居していた。2人の間に何があったのか。
2人の結婚について、大量の法廷資料が見つかる。
1942年10月、ラヴィーナが提出した上申書。父はその1ヶ月後の11月に生まれており、ラヴィーナは臨月の妊婦だった。
2人は結婚後数ヶ月は一緒に暮らしたが、その後別居していた。
上申書には祖父ポールが祖母ラヴィーナに暴力をふるっていた詳細が書かれていた。祖父がもう暴力は振るわないと約束したため、祖母はいったん祖父の元に戻ったが、暴力は続いた。最後には祖父が祖母を追い出す形で別居。
祖母ラヴィーナは、自分と生まれてくる子供のために金銭的支援をする約束を祖父から取り付けたが、一銭も支払われていない。そのことを訴えるものであった。
親権をめぐる争い
離婚そのものは1945年に成立。父ボブの親権は祖母ラヴィーナに渡ったが、その後祖父ポールが親権を取り戻そうと裁判を起こしていた。
祖父が提出した書類には、離婚前、祖母が家を出た後なんども戻るよう求めたが、祖母が他の男性と同居を始めたため、(当時不倫は逮捕の対象ともなった)祖母をまだ愛していたが、離婚した方が彼女のためになると思い合意した、とあった。
しかし離婚後、祖母は他の男性と同居しながらも、祖父との関係を続けており、また祖母が子供をおいて明け方に酔って帰ってくることもあったという。
また子供の養育費は出すが、祖母は職についているため、慰謝料を払うことは拒否するとも。
さらに添付されていた医者の診断書には、2歳の父ボブが肺炎にかかっていること、また栄養失調が疑われることが書かれていた。
一連のやりとりを読み、祖父母に大きな怒りを覚えるクリスティーナ。
それに対して祖母は、酒を飲み暴れていたのは祖父ポールのほうであること、男性と同居などしていないこと、子供が肺炎にかかってしまったが、それまでは健康そのもので、大事に育ててきたと反論。仕事などで出かける時は自分の母親か、上階に住む大家に預けていたことを証明する書類を提出していた。
この時代、離婚後の親権はほぼ自動的に母親に渡されていた。祖父ポールが親権を得るには、祖母ラヴィーナが母親としてふさわしくないことを証明しなくてはならなかったが、提出された証拠は十分ではないとして、親権は母親であるラヴィーナが持つ判決が下された。
母のその後
父ボブは、自分の母親とは一緒に暮らしたことはないと言っていたが、実際は短い間でも生活していたらしい。
しかし公的な記録はここで途絶えており、その後、なぜ父が父方の祖母に引き取られたのかはわからなかった。
ショッキングな情報が次から次へと出てきて、涙とともに怒りを覚えるクリスティーナ。一方だけの話を信じるのは難しいし、誰かのことを悪く思うのはいけないことだとは思うが、自分の祖父母を悪く思ってしまうことが悲しい。
1946年、ラヴィーナの母親の死亡証明書が見つかった。離婚裁判が終わってあまり時間が立たずに亡くなっていた。裁判では、子供の面倒は自分の母親が見てくれていると述べていたことから、子供の面倒を見てくれる人を急に亡くし、急遽父方の祖母が面倒を見るようになったのかもしれない。
その後ラヴィーナはどうなったのだろうか。
新聞記事を検索してみると、ラヴィーナ・ウォルトンの名前で死亡広告が見つかった。その後再婚したらしい。1955年、33歳で亡くなっていた。記事には、残された子供として、父ボブの名前も記載されていた。父が13歳の頃のことだったが、父は何も知らなかったことになる。
死亡証明書を確認してみる。死因は結核。しかし同時に、慢性アルコール中毒による肝硬変も併発していた。
ということは・・・、裁判で祖父ポールが主張していたことには真実もあったのかもしれない。
祖母ラヴィーナが埋葬された場所も明らかになった。
おそらく自分の母が亡くなって、息子を見てもらえる人がいなくなったため、祖母は父を手放すしかなかったのではないか。色々な疑問は最後まで解けなかったが、少なくとも父に、自分の母親の死が、言われていたようなひどいものではなかったことを伝えることはできる、とクリスティーナ。
プロローグ
トレントンに父を呼び、今までにわかったことを説明する。子供時代のものではあるが、母の写真を見て泣き笑いをする父。初めて見る母の写真だった。両親の結婚、離婚、そして死について話す。
自分の両親には何も良いこと、幸せはなかったのか、とショックを受ける父。それに対し、この物語の一番良いことは、父、あなただと語るクリスティーナ。負のパターンを破り、父は自分の子供達を強く、賢く、才能を持ち、戦う力を持つ人間に育ててくれた。そしてそれを、誰から教えられることもなく、誰からの助けを得ることもなく父はやり遂げた。
二人で墓地を訪れる。事務所で祖母が埋葬された場所を確認してもらう。埋葬場所には、墓石は建てられていないと言う。
またこの墓所に埋葬されている人のリストを見ると、そこには父ボブの名前も記されていた。父の分のロットも購入してあったのである。生きている間はともに過ごせなかったが、せめていつか息子と隣同士で埋葬されたいという、母の願いがそこにあった。
母のことをもっと知りたかった。自分は母親のことを全く知らないのに、こんなに思ってくれていたとは。と父。
涙ながらに埋葬された場所を訪れる父。70歳にして初めて自分が誰なのかわかった。そして、必ず墓碑を立てると約束する。
アップルゲート家は何も特別な家ではないと思う。影のある話はあったが、大事なのはそれでも先に進んでいくことだと思う、とクリスティーナ。そして父への強い愛情を確認する。
3ヶ月後、父ボブにより、墓地には新しい墓碑が建てられた。墓碑には、「お母さん、ようやく見つけたよ」というメッセージが刻まれている。
ひとこと
この番組を通じて、自分の両親のことを調べるエピソードはたくさんありましたが、今回は、父親のために、娘が調査を進めるエピソードでした。この番組では色々な時代の背景や知らなかった歴史を知ることができるのも好きな部分ですが、今回の調査はかなり「パーソナル」なものでした。この番組愛好家の間では、アメリカ版ではこのエピソードが良かった、という意見も多いようです。
特に裁判記録は、かなり細かく赤裸々な陳述が残っており、特に2歳の子供が肺炎と栄養失調の疑いがあるという診断書は、見ていてうわあ、かわいそうに・・ととても重たかったです。
真相が明らかになった時もお父さんはずいぶんショックを受けていたようですが、そこをクリスティーナ・アップルゲイトが、この話の良い部分は、父が誰の助けもなく子供を立派に育ててくれたことだ、とうまくまとめてつい涙が出てきました。が、よく考えたら彼女も子供が生まれるまでは父親と少し疎遠だった、と最初に語っていたような・・。父親はその後再婚して、クリスティーナには異母きょうだいもいるようですので、子供全員を代表してそう語った、ということでしょう。