世界のセレブ・ファミリーヒストリー

世界のセレブ・ファミリーヒストリー

英・米・豪・加で放送されている「ファミリーヒストリー」的番組 Who Do You Think You Areの興味深いエピソードを紹介します。セレブの家族史を通じて、世界の知らなかった出来事が見えてくる。今の世界を知る上でも、個人を知る上でも、色々興味深いこと満載です。

【イギリス政治家】ボリス・ジョンソン:保守派政治家の意外なトルコのルーツ・謎の貴族デ・フェフェルとは

プロローグ

政治家、ジャーナリストのボリス・ジョンソン(番組放送当時はロンドン市長。2018年1月現在はテレサ・メイ政権の外務大臣)は1964年生まれ。4人兄弟の長男である。

生粋のイギリス人政治家のように見える彼だが、先祖はロシア、リトアニア、ドイツ、フランスなど様々で、それはまるで「ひとりメルティングポット(人種のるつぼ)」状態。

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母方の先祖の中には、ポグロム(ロシアなどで起こったユダヤ人迫害)を逃れてロシアからイギリスに逃げ、後にアインシュタインのチェス仲間になったユダヤ人がいる。

また父方の祖父母はイギリス南部で農業を営んでいたが、その背景は普通の農夫とは程遠い興味深いものだったという。

祖母はいつも自分にはフランスかアルザス地方から来た貴族の血が流れている、と自慢気に話していた。それを聞いて子供心にまさか、と本気にしなかったが、実際はどうなのかはわからない。

そして祖父、ウィルフレッド・ジョンソンはイギリス人とトルコ人のハーフ。祖父の父親、ボリスにとっての曽祖父はトルコ人ジャーナリストで、政治家でもあったアリ・ケマルという人物。しかし彼のことや、その死についてはほとんど家族の間で語られることはなかった。

今回は、彼の家族に伝わる先祖の様々な謎についてせまる。

曽祖父の出生とジョンソンと言う苗字

父親スタンリーに話を聞く。祖父ウィルフレッドは1909年イギリス生まれ。しかし出生証明書にあった名前は「ウィルフレッド・ジョンソン」ではなく、「オスマン・ウィルフレッド・ケマル」だった。

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祖父ウィルフレッド

祖父が生まれた時、父であるアリ・ケマルは仕事で不在。そして母親は出産後死亡。

ウィルフレッドにとっては母方の祖母になるマーガレット・ブルンが出生届の届け人として記載されていた。このマーガレットの旧姓がジョンソンだった。

ウィルフレッドは姉のセルマと共に、祖母マーガレットにイギリスで育てられる。その間、父アリ・ケマルは仕事でトルコに滞在していた。

祖母マーガレットはイギリスに住む子供達の苗字をトルコの「ケマル」から、よりイギリスらしい自分の旧姓である「ジョンソン」に変えた。

もしかしたら自分の苗字もケマルだったかもしれないのか。保守党の政治家である自分の苗字がケマルだったら、いかにも多民族国家イギリスらしくて面白いじゃないか、キャメロン(当時の首相)におい、俺はケマルだぞ!なんて言ったりしてな!と冗談を言い合う2人。

祖父ウィルフレッドはアリ・ケマルのことはほとんど何も話さなかったと言う。自分の父親に会ったことがあるのかも定かではない。

曽祖父アリ・ケマルの生い立ち

曽祖父アリ・ケマルについて詳しいことを知るためにトルコへ飛ぶ。

アリ・ケマルは1869年、当時オスマン・トルコの首都だったイスタンブール生まれ。帝国の繁栄には影が見え始めていた頃だが、イスタンブールはそれでもコスモポリタンな街だった。

アリ・ケマルの孫に当たる、イスタンブール在住のいとこに案内され、彼の生まれたエリアを訪れる。

アリ・ケマルの父親は裕福な商人だった。アリ・ケマルは伝統的なイスラムの学校に通い、アラビア語を覚え、コーランを諳んじたという。

その後フランスに渡りジャーナリストになった。そして1903年、マーガレット・ジョンソンの娘、ウィニフレッド・ブルンと結婚した。その3年後に長女セルマが生まれている。

1908年、アリ・ケマルが40歳の時、妻ウィニフレッド、義理の母マーガレット、長女セルマ一家はトルコに移住する。イスタンブール郊外のベベックという場所に居を構え、ジャーナリストとしての仕事を続けた。

反政府の論陣を張っていたアリ・ケマル

曽祖父の記事が載った新聞を見るボリス。アリ・ケマルは主筆として、一面に大きな署名入りの論説を掲載していた。その内容は専門家に言わせると「危険なほど政治的」だという。

アリ・ケマルがトルコに戻って数週間後にトルコで革命が起こった。長年オスマントルコを支配していたスルタンは権力を奪われ、新政府が樹立された。

しかし一方、新政府による反対派への弾圧が始まる。アリ・ケマルは「自由のための革命のために、逆に自由が奪われている」と新政府や社会に対する批判を繰り広げ、コンセンサスで社会を構築していく重要性を強調していた。

この記事が出された4日前には、アリ・ケマルと似た論調を持つ反対派のジャーナリストが暗殺されたばかりだった。新政府がこのような批判を良しとはしなかったことは明らかで、アリ・ケマルも危険な立場にあった。

当時子供だったセルマの回想記が残っている。ある晩、母と祖母が父アリ・ケマルの帰りを心配して待っている様子が書かれていた。

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アリ・ケマルと娘セルマ

なかなか帰ってこなかった父がようやく帰ってきたのは夜中の3時。椅子に身を投げ出し大変なことになった、と嘆く父。手にした新聞を祖母が見ると、そこには彼、そして彼の友人7名の名前が、「数日以内に絞首刑にされるべき人物リスト」として掲載されていた。

祖母が新聞を見たってことは、彼女はトルコ語が読めたのか!とその部分に驚くボリス。このおばあちゃんはなんだかすごい人物だったに違いない。

アリ・ケマルは殺人予告が出た数日の間になんとかヨットを手配し、暗闇に紛れイスタンブールを脱出、そこからパリに逃れた。残りの7名はその後絞首されたという。

家族はトルコに残ったが、パリからトルコに残った妻に宛てた愛情あふれる手紙が残っている。

政治の表舞台へ

第一次世界大戦において、トルコはドイツ側に立ち敗戦する。その後、イギリス、フランス軍イスタンブールを占領し、連合軍がバックアップする政府が樹立された。アリ・ケマルはこの新政府の内務大臣に就任する。反政府ジャーナリストだった彼の立場が逆転し、政治的権力を持つ側となったのだった。

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内務大臣としてアリ・ケマルは抵抗運動を繰り広げるナショナリスト達の抑制に努めた。ナショナリストの中には、のちにトルコ建国の父となるムスタファ・ケマルも含まれていた。軍人であったムスタファ・ケマルであるが、連合軍の後ろ盾を持つ政府には従わず、トルコを独立に導こうと抵抗運動の指揮をとっていた。

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By NA - Ministry of Culture and Tourism of the Republic of Turkey, Public Domain, Link

ムスタファ・ケマル

新たな戦争の勃発を阻止したかったアリ・ケマルは、ムスタファ・ケマルの軍事指揮権を剥奪、彼の指揮には従わないよう、命令を下した。建国の父として今でも最大の尊敬を集める人物を敵に回してしまったことで、アリ・ケマルは現在のトルコでは反逆者と見られている。

アリ・ケマルがこのような命令を下した背景について語ることも、トルコの歴史学者の間でタブーな部分があるらしい。今回の取材でも、ようやくひとりの歴史学者がこのことについて話すことに合意してくれた。

ムスタファ・ケマルに対する命令を下した後、アリ・ケマルは辞職を余儀なくされた。その後はジャーナリストの仕事に戻り、トルコを破壊するようなナショナリストの活動に反対する記事を書き続けたという。

彼は彼なりに国のことを思っており、新たな戦争を起こしたくない、外交で解決したいという思いがあったのではないか。ムスタファ・ケマルを神聖化するあまり、彼に反対する人物がここまで反逆者扱いされるのはフェアではない、と考えるボリス。

壮絶な死

1922年、ナショナリストが権力を奪還する。アリ・ケマルは真っ先に攻撃の対象となり、その後殺害された。その詳細について、いとこから始めて話を聞くボリス。

逮捕され、尋問を受けたアリ・ケマルは、尋問後、建物から出たところを群衆にリンチされる形で殺された。アリ・ケマルを建物の外に出す際、人々がわざわざ集められ、彼をリンチするよう仕向けられたようである。

ナイフで刺され、倒れた彼の頭からは大量の血が流れたという。群衆は倒れたアリ・ケマルの所有物を略奪し、最後には遺体を木に吊るした。彼が履いていたズボンさえ奪われたという。

アリ・ケマルの足跡をたどってみて、彼のことを誇りに思った。彼は意見を強く持っていただけだった。彼がこのような形で殺されたことも不当だが、このようなリンチの被害者を、今でも犯罪者のように扱っていることにはさらに納得がいかない。彼は暴力に訴えるナショナリストの方法に異を唱えただけだった。祖父にとっては非常に辛い経験だったに違いないし、あまり知りたいとも思わなかったのではないだろうか。

祖母のルーツを探る

トルコのルーツについて語らなかった祖父に反して、祖母アイリーンは自分のフランス貴族のルーツを誇りに思い、デ・フェフェルという古いフランス貴族の血が流れているとよく話題にしていたし、祖母の振る舞いもとても上流階級的だったという。しかし貴族の末裔など、厳しい自然の中で羊を飼ったりと農業を営んでいた祖父母の暮らしからしてみると、あまりにもかけ離れた話で信じ難かった。

ただ祖母は大きな木箱に入った銀食器を持っていて、それは「デ・フェフェル・シルバー」と呼ばれていた。おばあちゃんのためにも「デ・フェフェル」の名を残したいと、親はボリスのミドルネームに「デ・フェフェル」とつけた。

叔母から話を聞く。祖母の父はスタンリー・ウィリアムズ。そして母はフランス人でマリー・ルイーズ・デ・フェフェルという。デ・フェフェルの名前は曽祖母から来ていた。

そして祖母の曾祖父母に当たる、チャールズ・デ・フェフェルとキャロライン・デ・フェフェルの写真が残っていた。

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チャールズの死亡証明書も残されていた。男爵だったチャールズは、1890年ミュンヘンで死亡。そこには様々な国の貴族の名前が親戚として記されており、チャールズは以前バイエルン王に仕えていたようだ。デ・フェフェル家はフランスではなく、ドイツの貴族だった。

キャロラインの謎

1871年まで、ドイツは独立した複数の王国からなる連合国だった。バイエルン王国はその中でも有力で、首都はミュンヘンにあった。

ミュンヘン国立図書館に向かう。

図書館には貴族の情報が登録された系譜帳が残されており、それによるとデ・フェフェル家が貴族となったのは1828年と比較的新しく、古い貴族の家系というわけではなかった。

デ・フェフェル家の紋章を見せてもらう。美しい紋章を前に、おばあちゃんが貴族の出だということを誇りに思い、デ・フェフェルの名前を守りたいと思ったのもわかる気がする、とボリス。

一方興味深いのは、チャールズではなく、その妻キャロラインのほうだった。

実はデ・フェフェル家の家系に興味を持った子孫はボリスが最初ではなかった。1869年に、キャロラインの義理の息子に当たるタフカーチェン伯爵が彼女の血筋について調べようとしていた。

キャロラインの旧姓はフォン・ローゼンバーグ。しかしこの名前は、バイエルン王国の貴族登録情報には含まれておらず、彼女の出自は全くの不明だった。

さらに20年後、キャロラインの死後再度この伯爵が調査を依頼していた。ここで、キャロラインの母親は女優であったことが明らかになったが、父親に関しては不明で、調査はここで終わっていた。当時「女優」は文字どおりではなく、売春婦などの職業を意味した可能性もある。実際伯爵はこの調査に関わった人達に、この情報を口外しないよう依頼していた。

秘密の結婚の謎

View of Augsburg City Hall and other historical buildings in Augsburg
By Alois Wüst - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

1836年、チャールズとキャロラインはアウクスブルグというミュンヘンから80キロ離れた場所で結婚している。この小さな街にわざわざ来て結婚したのは一体なぜだろうか。

アウクスブルグのアーカイブで、マイクロフィルムに残っていた2人の婚姻記録を確認する。

キャロラインは夫チャールズより6歳年上だった。そして結婚式は、アウグスブルグの司教自らが、邸宅内にあるプライベートチャペルで取り仕切り、立会人として有力な政治家の名前が連なるなど、尋常ではないものだった。また、婚姻の記録については、司教が全て保管するとあり、何かを隠そうとしているようにも見える。

もしかして妊娠していたのでは?という推理はあたり、キャロラインは結婚当時妊娠5ヶ月であったという。しかしここにも、キャロラインの父親の名前は無かった。

実際に結婚式が執り行われたチャペルを見学するボリス。ここで秘密裏に行われた結婚式。でも新興貴族と、女優の娘の結婚に、なぜこんなに大物の政治家達や司教が関わっているのか。誰の利益のためだろうか?

チャペルを訪れていたボリスのところに、アーカイブで婚姻記録を見せてくれた教授から連絡が入る。マイクロフィルムでなく、オリジナルを再度当たったところ、新しい情報が見つかったという。

デ・フェフェル・シルバーの謎解ける

アーカイブに舞い戻り、オリジナルを見る。そこには、キャロラインの名前の横に鉛筆で「ポール・フォン・ヴュルテンベルク王子の私生児」と書かれていた。これ、BBCのやらせで書き込んだんじゃないの?と驚くボリス。

しかしキャロラインが王室とつながりがあったため、このような形での結婚となったのは間違いなかった。

ヴュルテンベルク王国バイエルン王国に隣接する王国だった。当時の首都、シュトゥットガルトに向かう。

キャロラインの父ポールは、ヴュルテンベルク王ヴィルヘルム1世の弟だった。おばあちゃんが言っていた貴族の血は、フランスではなくドイツのものだった。

ここで気になるのは、王室、そして父ポールは娘を庇護したのかということ。金銭的援助はあったのか。そして何より、キャロラインは父親を知っていたのだろうか。

王室アーカイブにはキャロラインに関する分厚いファイルが残っていた。そこには、23歳のキャロラインがシュトゥットガルトに伯父であるヴィルヘルム1世を訪れ、庇護を求めたことが書かれていた。

それによると、キャロラインはそれまで父親とパリで暮らしていたが、望まない結婚をさせられそうになったため、家を飛び出したのだという。

またキャロラインは王から銀の食器を受け取っており、そのリストも残っていた。これはもしかして、家にあった「デ・フェフェル・シルバー」ではないか?

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昔銀食器と一緒に撮った写真と付き合わせてみると、コーヒーポットや砂糖入れなど、全て一致した。残念ながら、この銀食器は祖父母がオーストラリアに移住した時に売ってしまったが、これで全てが腑に落ちた。

さらなる王室との血縁

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By Mussklprozz at the German language Wikipedia, CC 表示-継承 3.0, Link

ヴュルテンベルク王家について知るため、城があるルートヴィヒスブルクに向かう。壮大な城を前に、この城の所有権を取り戻さないとな、と冗談を言うボリス。

Seele-Friedrich I..jpg<br>By Johann Baptist Seele - eingescannt aus: Hansmartin Decker-Hauff: Frauen im Hause Württemberg, Leinfelden-Echterdingen, 1997, パブリック・ドメイン, Link

ヴュルテンベルク王フリードリヒ

キャロラインの祖父にあたる人物は、ヴュルテンベルク王フリードリヒ。そしてその妻アウグステの母親は、オーガスタ・オブ・ウェールズ。そしてその父親はウェールズ公(皇太子)フレデリック・ルイス・ハノーヴァーであった。ウェールズって、あのイギリスの?と思わず聞くボリス。さらにさかのぼると、その父親はイギリス王ジョージ2世だった。

イギリス王室と繋がりがあるなんて、前からそうじゃないかと思ってたんだよ!と冗談を言うボリス。これはイギリス王室だけでなく、ヨーロッパ中の王室と血縁があるということでもあった。

遺伝的には関係していても、王位継承権があるわけではないのが残念だけれど。こうなったら法廷で戦って、このお城を取り戻すか!

エピローグ

自分が王室と関係あることを知って驚き以上にあっけに取られてしまった。自分はトルコ、ユダヤ、そしてデ・フェフェルという謎の外国の貴族などが混ざった変わった雑種だと思っていたので、何よりイギリス王室と関係があることがわかったのがとても嬉しい。自分の家系は、後にイギリスにやってきた「ニューカマー」の家系だと思っていたので、すごく変に感じる。

でも同時に、自分と同じように、気付かないだけで王室と血縁がある人は何千何万人もいるんだろう。遺伝子というのは過去からこうやって脈々とつながって来ていて、自分はその遺伝子を次に受け渡す一時的な所有者にすぎない。どこから来たのかも、これからどこに行くのかもわからない。それはすごく民主的なことだと思う。

おばあちゃんは正しかったのだな。笑うべきではなかった。では、これから王権を取り戻すために頑張るぞ!

ひとこと

Brexitの先鋒みたいな人のファミリーヒストリーがこんなにカラフルでドラマチックだったのは非常に興味深かったです。エピソードの中でも、自分の外国のルーツにばかり注目するのはPRとして良くないかもしれない、みたいなことをもぞもぞ言っていました。しかしイギリスって本当に多民族国家なのですね。イギリスに深いルーツが無いと思っていたからこそ、逆に保守的になるということもありえるんでしょうか。

ヨーロッパの王家との関係はやはり鉛筆書きの情報が見つかったところがハイライトでしたが、このプラチナブロンドの政治家のルーツがトルコにあったのが何より興味深かったです。テレビ番組なので多くの情報を端折っている部分もありましたが、アリ・ケマルの母はコーカサス系のチェルケス人、オリンピックが開催されたロシアのソチにもともといた民族だったそう。

アリ・ケマルはジャーナリストとしてヨーロッパを旅しており、ボリスの曾祖母と出会ったのはスイス。トルコやイギリスなどでも暮らしましたが、妻がボリスの祖父を産んでなくなった後は一人でトルコに戻り、そこで再婚していました。彼が政治の舞台に立ち始めた時、イギリスにいる子供達とはもう疎遠になっていたのかもしれません。

番組の中でイスタンブール在住のボリスの「いとこ」として登場した人物は、2度めの結婚で生まれた孫。彼も編集者だそう(ボリス・ジョンソンも新聞の編集者をしていました)。再婚で生まれたアリ・ケマルの息子は母親とずっとスイスで暮らしていましたが、ケマル・アタテュルクの死後トルコに戻り、外交官になったそうです。

またボリスの祖父、ウィルフレッドの姉セルマは後にケマル姓とトルコ国籍を取り戻したとか。

アリ・ケマルとアタテュルクのことについて語るのがトルコではまだタブー、というのも非常に興味深かったです。ケマル・アタテュルクの神格化はそこまですごいということなんでしょうが、それ以前のトルコの独立運動においても随分と暴力腐敗虐殺があったようですし、そういう部分に声をあげたアリ・ケマルが反逆者として扱われているのは、勝てば官軍なのか、やはり釈然としないものはあります。ただトルコの独立運動の詳細な歴史やアリ・ケマルの本当の立ち位置について詳しく知らないので、なんとも言えませんが・・。

フランス語、そしてドイツ語の昔の書類をボリス・ジョンソンが翻訳なしでそのまますらすら読んでいたのにも驚きました。やはりヨーロッパの知識層。

そしてドイツの王権を取り戻すぞ!と冗談でいきまくボリス・ジョンソンに、城を案内していたドイツ人の専門家が「まあ頑張ってね。もしうまくいって、このお城の一室を賃貸にだすようだったら連絡して」と返していたのが面白かったです。2人とも半分真顔で冗談を言い合っていたあたりもヨーロピアンとアメリカンの違いでしょうか(笑)

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【女優:リタ・ウィルソン】ムスリムだった父が語らなかった過去

プロローグ

トム・ハンクス夫人としても知られる女優、リタ・ウィルソンはギリシャ系アメリカ人。「めぐり逢えたら」をはじめ数多くの映画、テレビドラマに出演している。またギリシャ系移民の恋愛と結婚のドタバタを描いた大ヒット映画「マイ・ビッグ・ファット・グリーク・ウェディング」のプロデューサーも務めた。

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By Angela George, CC BY-SA 3.0, Link

ギリシャ人の母親については、生い立ちなど話をよく聞いていたが、父の過去については何も知らないという。

2年前(2010年)に亡くなった父はギリシャ生まれだが、子供の頃ブルガリアに移住したと聞いている。アメリカには20代の時に来た。アメリカに来る以前、ブルガリアで強制労働をさせられ、そこから脱走したという話を聞いたことがあるが、詳細は不明。精神的、肉体的にも辛い思い出を語りたくなかったのか、アメリカに来る前のことは誰も知らないのだという。

先祖のことというと、祖父母以前のことを調べることが多いと思うが、これはもっと直近の、自分に直接関わる部分。何でも良いからわかれば嬉しい。

ギリシャにあるムスリムの村

父の名前は、ハッサン・ハリル・イブラヒモフ。1960年にアメリカ市民権を得た時、名前を「アラン・ウィルソン」といういかにもアメリカ人らしい名前に変えた。

もともと父はムスリムだった。1920年ギリシャ北部で生まれたハッサン。この地域は長年オスマントルコ帝国の支配下にあり、そのような歴史の中では、キリスト教からムスリムに改宗するものも多かった。ギリシャにもまだ少数のムスリムが残っているらしい。

両親の結婚証明書に書かれた父の出生地は、ギリシャのオライオンという場所だった。

現在はオライオと呼ばれている村に向かうリタ。

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oraio by dubnsnow from Panoramio

ギリシャの村ではあるが、モスクがあり、祈りの声が聞こえる。

案内された家は、父が生まれた家だった。「ただいま・・・」と言いながら家に入るリタ。天井にはタバコの葉が干してあり、今は倉庫として使われているようだ。父の子供の頃の話など聞いたことがないリタは、ここで父がどんな子供時代を過ごしたのだろうと考え、感動でいっぱいになる。

父親のいとこたちが迎えてくれた。父の子供の頃の写真は残っていなかったが、祖父の写真を初めて見せてもらう。祖父はひょうきんな人物だったらしい。

しかし、通訳を介して祖父や父がいつブルガリアに行ったのかを尋ねても、話がはっきりしない。唯一わかったのは、ブルガリアのスモリアンという街に移ったということのみだった。

軍事裁判と懲役刑

とりあえずスモリアンに向かうリタ。

住民登録台帳に、ハッサンの父親と、5人のきょうだいの名前が見つかった。台帳が作られた年代から、1927年〜34年、ハッサンが7〜14歳の間のいつかにブルガリアにやってきたと考えられる。

1941年の軍の記録にハッサンの名前があった。クサンティ歩兵大隊に所属とある。ハッサンが20歳の時であった。

クサンティと呼ばれる地域は、ハッサンが生まれた当時はギリシャ領で、彼の出身地オライオもこのエリアにあった。しかしその後、ナチスの協力のもとブルガリアが侵略、ブルガリア領となる。

ハッサンはギリシャ人として生まれたが、この時点ではブルガリア人となり、ブルガリア軍に徴兵されて自分の生まれ故郷の占領任務に当たっていたことになる。

父が軍にいたことを初めて知ったリタ。

1年後、ハッサンは軍事裁判にかけられていた。罪状は、28本の瓶と、5レヴを盗んだことで、懲役3年8ヶ月、独房行きの判決だった。5レヴは現在の通貨にしても小銭ほどの金額。しかし軍は、規律と見せしめのため、厳しい刑罰を科したのであった。

現在はブルガリアにあるプロヴィディフという街の刑務所に収容されたハッサン。刑務所で労働に従事したことで刑期は短縮され、2年後には釈放された。

強制労働をさせられていた、という話を聞いたことはあったが、これは全くの刑務所。強制労働の話は、この刑務所の経験のことを言っていたのだろうか。父の優しく、楽しいことが大好きだった性格を考えると、過去のことを話したがらなかったのもわかる、と涙ながらに語るリタ。

つかの間の幸せと悲劇

釈放後、ハッサンはスモリアンに戻っていた。しかし1945年、刑務所のあったプロヴィディフへの移住許可を求めている。スモリアンは国境地帯で軍の管轄にあったため、この地域から移動するには許可が必要だったらしい。

プロヴィディフで、当時の国勢調査を見るリタ。1945年の台帳に父ハッサン・イブラヒモフと並び、アリス・ハッサン・イブラヒモヴァという女性の名前があった。

父はブルガリアで一度結婚していた。

婚姻証明書も見つかる。結婚したのは、1945年10月26日。奇しくも10月26日はリタの誕生日だった。

さらに二人の間には子供も生まれていた。結婚2ヶ月後の1945年12月26日、エミルという男の子が誕生。リタにとっては異母兄に当たる。プロヴィディフに移ってすぐ結婚したのは、アリスが身重だったからだろう。

しかし次に見せられたのは、アリスの死亡証明書だった。出産3日後に子癇(しかん)と呼ばれる痙攣症状により亡くなっていた。この症状は妊婦の頃より現れるもので、胎児も危険な状態になるという。

エミルも翌年、生後4ヶ月で亡くなっていた。死亡証明書を見て、涙が止まらなくなるリタ。

この時父ハッサンは24歳。この若さで、既にこんなに多くの辛い経験をしていたとは。つかの間の幸せをつかんだと思えば全て失ってしまった父。

エミルの誕生日は12月26日だが、実はリタの息子もその日に生まれている。そして自分の誕生日も10月26日。26はラッキーナンバーだと思っていたが、もしかしてエミルが自分のラッキースターとなって見守ってくれていたのでは・・と言葉を失うリタ。

この5年後、彼はどうにかしてアメリカに渡り、自分の母と結婚したわけだが、それまでの5年間に何があったのだろうか。

再びの逮捕、強制収容所

父が強制収容所にいたと言う話は本当なのだろうか。確認するため、ブルガリアの首都ソフィアに向かう。

機密ファイルが保管されている施設を訪れるリタ。

当時のブルガリアには、実際にソビエトのモデルに沿った収容所がいくつもあったと言う。

1944年、ソビエトブルガリアに侵攻。その後、ブルガリア共産党員たちがクーデターを起こし、社会主義国が設立されたが、これに反するものは逮捕され、収容所送りになった。この様な収容所は国内に100ほどあったという。

父の「機密ファイル」が見つかる。

  『ハッサン・ハリル・イブラヒモフはプロヴィディフでワイルドな生活を送っている。家に娼婦や軍人など様々な人物を招いてパーティーをしており、監視の必要あり』

当時のブルガリアは、近所の人々や当局がお互いを監視しあい、政府に反する行動を起こすものは密告されたり、逮捕されていた。

次に出てきたのは、警察での尋問記録。ハッサンはトルコ領事館員と知り合いになり、彼の手引きでトルコに逃げようとして、国境で捕まっていた。1946年10月、反逆者として捉えられたハッサンは、実際に強制収容所に送られたのであった。

収容所からの脱出

リタの父ハッサンはBogdanov Dolと言う場所にある収容所に送られていた。収容所の状態は劣悪で、最低限の食事しか与えられず、死ぬまで働かされたり、時に虐待死するものもあったと言う。

ハッサンのいた収容所では炭鉱での厳しい労働が待っていた。当時収容されていた人の記述によると、労働が終わり整列させられた時、少しでも逃げるそぶりがあれば、容赦なく銃殺された。逃げるそぶりがなくとも、監視員がそう思えば、銃殺対象になることさえあったと言う。

そんな状況の中、ハッサンはどのようにして脱走を図ったのか。

ハッサンの逃亡についての報告書が残っていた。

  『5月8日、夜10時から朝6時のシフトの間、10名を監視。11時半にワゴンを空にし、次の石炭が来るまで、全員が地面に座り休んでいた。1時半頃5名が石炭を取りに行ったが戻らず、5分後に捜索を開始。しかし逃亡者はワゴンの間の暗闇に隠れ見つけることができなかった。その後銃を5発打ち、他の監視員と捜索したが手がかりなし』

すごい!最高の報告書!と興奮するリタ。

収容所からの脱走は、そう頻繁に起こるものではなかったという。もう失うものはなかったハッサンは、命をかけて脱出を試み成功したのだった。

このことで、ハッサンはブルガリアの国家反逆者となった。脱走から26年後の1973年にまとめられた反逆者リストの中にも、反逆者第8011番として彼の名前が残っていた。

アメリカでの自由を愛した父。自分にとってはヒーローだと言うリタ。

感動の再会と父からの手紙

スモリアンに父の異母兄が見つかった。96歳になる叔父さんと涙の再会を果たすリタ。

話を聞くと、ハッサンだけでなく、兄も収容所に入っていたと言う。ハッサンは脱走したが、自分は妻子がいたため一緒に逃げることはできず、ハッサンの所在をめぐり尋問、拷問を受けたと言う。

ハッサンがアメリカから送ってきた手紙が残されていた。ハッサンの子供達にいつか渡そうと思ってとっておいたのだという。

ハッサンがアメリカに渡って8ヶ月後、1950年の手紙。涙ながらに読むリタ。

  『今ニューヨークにいます。アメリカではびっくりするくらい給料が高いです。夜は学校に通って英語を学んでいますが、もう言葉はかなり覚えました。これが終わったら別の学校に行って、ラジオとテレビ機器について勉強するつもり。ここでは学校は全部無料です。頭がよければ医者にだってなれるし、女の子だって手に入る。人生を謳歌できる場所です。アメリカに行く船の中では火夫として働いたけれど、乗っている船が沈没しかけました。その時、もしアメリカに無事についたら、ここで絶対のし上がってやる、と思ったのです。そして今、それを実現しようとしています』

  『近所にいたアルメニア人のおばさんのことを覚えている?あのおばさんは昔アメリカに行ったことがある、アメリカは地の底だ、なんて言っていたけれど、アメリカは地上の楽園だ、と伝えてください』

エピローグ

父は毎日のように God Bless Americaと言っていた。この手紙でも、自分はやり遂げたんだ、アメリカンドリームをつかんだんだ、と言う父の強い気持ちが伝わってくる。

色々な経験があって、父はより良い人生を求める様になったのだろう。父のことを知れば知るほど、父の芯の強さに触れ、尊敬する。

父の辛い経験を知ることになったが、青年としての父を知ることができたのが、何よりも嬉しい。

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Dailymailより

ひとこと

とてもドラマチックで感動的であり、色々なことを知ったエピソードでした。ギリシャは長年オスマントルコに支配され、独立の時には、それぞれの土地にいたキリスト教ととイスラム教徒の「交換」が行われたと言う話は聞いたことがありましたが、今でもギリシャにマイノリティとして残っているのは知りませんでした。

またこのエピソードを見た人が、オライオでリタが出会った父ハッサンのいとこたちは、ギリシャ語ではなくトルコ語を話していた、と指摘していました。

番組では言及がありませんでしたが、ウィキペディアなどには、リタの父ハッサンはポマク人との記述もあります。ポマク人は、ブルガリア人のムスリムで、番組で言われていたようにオスマントルコの時代にキリスト教から改宗した人達のようです。いとこたちがブルガリア語ではなく、トルコ語を話していたのは、どうもギリシャ政府の政策によるもののようです。(詳しくはこちらを)

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By Unknown - Scan from: Stoyan Raichevsky - Mohammedan Bulgarians (Pomaks), ISBN 9549308413, ISBN 978-9549308419, Public Domain, Link

生まれた時はギリシャだった場所が今度はブルガリアになり、そして共産国になり・・・。番組では省略されていましたが、トルコに逃げようとして捕まった時の供述書を画面を一時停止して見てみると、やはりイスラム教徒はブルガリアにいづらかったようで、イスラムの国トルコへ逃げようとしていた、というような動機も書かれていました。

またブルガリアにいる兄にニューヨークから送った手紙も、リタが読んでいたのはほんの一部分で、実際の手紙にはもっといろんなことが書かれていました。

これも目を凝らして、リタが読んでいた英語訳の紙を画面を一時停止して読んでみました。半分しか写っていなかったので、全文はわかりませんでしたが、収容所から脱走した後、最初はトルコにいたと書かれていました。そこから家族にしょっちゅう手紙を送っていたようです。また、ブルガリアにいる父や兄とは別に、母や弟たちの一部はギリシャに離れ離れになっていたようで、彼らはSiriusと言う島に2年間避難していた、とありました。この島がどこにあるのか、調べてもわからなかったのですが・・・。そこにニューヨークから色々と救援物資を送ってあげている、自分が(軍隊で)刑務所にいた時に助けてくれたから同じことをしている、また弟の一人はアテネの刑務所に入っていてもうすぐ出所する、と、自分以外の家族の近況も色々と書かれていました。

どうもハッサンだけでなく、この家族はブルガリアギリシャ、アメリカそしておそらくトルコと離れ離れになり、本当はもっと色々なドラマがあったような匂いがします。番組ではそこまで深追いしませんでしたが・・・。

アラン・ウィルソンという名前からは想像もつかないような、そんな壮絶な過去があったことなど微塵にも出さなかったお父さん。自分の父親がそんな過去を持っていたことを、亡くなった後に知ることとなったリタさんはもう涙涙の連続で、おじさんとの再会ではこちらも泣けてしまいました。

ギリシャ系といえば、「フルハウス」でおなじみのこちらの俳優さんの話もどうぞ。リタ・ウィルソンとジョン・ステイモスはギリシャ一家のドタバタ映画「マイ・ビッグ・ファット・グリーク・ウェディング2」で夫婦役で登場していました。

familyhistory.hatenadiary.com


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【料理研究家:メアリー・ベリー】スイーツの女王の先祖は評判の悪いパン屋?

プロローグ

メアリー・ベリーはイギリスの料理研究家・批評家。ベーキング、スイーツの専門家として知られ、70歳になってから出演したテレビ番組「Great British Baking Show」で大ブレーク。

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By Stephen Reed from England - https://www.flickr.com/photos/donhead/34039048853/, CC BY-SA 2.0, Link

結婚50年になる夫との間には3人の子供がいるが、そのうち一人を19歳の時、交通事故で亡くしている。

自分のルーツについて何も知らないというメアリー。父親はとてもエネルギッシュで導火線が短いタイプ。一方母はいつも家族を優先する落ち着いた人だった。

自分の先祖は、女性は花嫁修業をして過ごすなど、伝統的な、きちんとした普通の一家だったのではないかと思う。

先祖もパン職人

メアリーの父方の祖父母はイギリス東部、ノリッチの出身。祖母アメリアの父、ロバート・ホートンはノリッチのビジネスマンだった。

1830年ディレクトリーを調べると、そこに記されていた彼の職業は「パン職人」。

私にはベーキングの血が流れているのね!と喜ぶメアリー。

http://s0.geograph.org.uk/geophotos/04/60/04/4600425_f32d236b.jpg
© Copyright Lewis Clarke

当時ロバートが店を構えていたストリートを訪ねるメアリー。今は普通の街並みが広がるこの場所は、ロバートの時代、ギャンブルや売春がはびこり、殺人や強盗もよく起こる、貧しく治安の悪い場所だった。

貧しいエリアでどのようなパンを売っていたのだろう、と考えるメアリー。

ロバートは3人の従業員を雇っていた。小さな家族経営のパン屋で、貧しい地域にありながらも、それなりに成功していたのだろうか。

救貧院へのパン卸売

ロバートはワークハウスと呼ばれる救貧院に大量のパンを卸して財をなしたようだ。卸値は月に160ポンドほど。現在の換算で70万円以上になる。

手工業の中心地だったノリッチは産業の機械化に乗り遅れ、人々の貧困が問題となっていた。救貧院には数百人しか収容できず、ホームレスも大量に発生していた。

ロバートは貧困院だけでなく、このような路上に溢れる貧民に配るパン生産の契約もしていた。その額は現在の額で130万円と高額なものだった。

慎ましくパン屋を開いていると思っていたが、実際はずいぶんやり手だったようだ。

粗悪なパン

3人の従業員で、これだけの大量のパンをどうやって作っていたのだろうか。

当時の方法でパンを作るところを見学するメアリー。

毎日700〜800斤のパンを焼いていたというが、当時のパン工房は釜からの熱、そして小麦粉の粉塵で肺や皮膚をやられるなど、肉体的にとてもキツイところだった。大量の種を捏ねるのも全て手作業で、労働時間は毎日18〜21時間。

パン職人の労働条件は過酷で、当時の調査では街のパン職人111人中、健康に問題がなかった職人は13人しかいなかったという。

1855年の新聞に、救貧院でパンを受け取る貧民から嘆願書が出された、という記事が見つかった。支給されるパンがあまりにもまずく、食べようがないという。しかし調査官が前日のパンを調べてみても特に問題はなかったため、この嘆願は却下された。

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By http://wellcomeimages.org/indexplus/obf_images/5f/f9/8582af09590b4b236ebd0088141f.jpg
Gallery: http://wellcomeimages.org/indexplus/image/L0006802.html, CC BY 4.0, Link食べ物を求めて救貧院に並ぶ貧民

ロバートに恨みを持つ人がやったのかしら、と考えるメアリー。実際のところはわからないが、無料でもらっているパンにわざわざ文句をつけたということは、よっぽど何か理由があったに違いない。もしかしたらパンに混ぜ物がしてあった可能性もある。調査官が確認した時には問題はなかったようだが・・。

社会保障がない時代、救貧院は教会が運営していた。この教区に30年以上いたロバートは、教会関係者のコネを使ってパンを卸す契約を結んだり、問題をもみ消すこともできたかもしれない。が、実際にどうだったのかはわからない。

1868年、ロバートは69歳で亡くなっている。パン職人にしては長生きであった。

嘆願書の事は悲しかったけど・・一生懸命働いた人だったと思いたい、とメアリー。

メアリーの高祖母、メアリー・ベリー

メアリーの父方の祖父はイギリス国教会の牧師だった。真面目で堅物、説教もたいして面白くなかったという。ビクトリア朝式の厳しい家庭に育ったのではないかと考えるメアリー。

曽祖父の名前はエドワード。印刷工だった。

エドワードの出生証明書を調べる。エドワードの母、メアリーにとって高祖母に当たる人物の名前も、メアリー・ベリー。

そしてエドワードが生まれたのは、ノリッチでもスラム街に当たるところだった。

エドワードの出生証明書の父親の欄は空欄。母メアリーがその後結婚したという記録も見つからなかった。

メアリーの子供達

教会の洗礼記録を調べると、メアリーはエドワードの前にも、息子をひとり産んでいた。が、ここにも父親の名前は無い。

その後もふたりの子供が生まれているが、全て私生児だった。

この時代、婚外子を産んだ女性は、その後その相手と結婚するか、そうでなくても数年以内に別の男性と結婚する場合が多かった。しかしメアリーは結婚することなく、数年おきに子供を産んでいた。

もしかして売春婦か何かだったのかしら、と考えるメアリー。

専門家は、おそらくメアリーは既婚者との間に子供をもうけていた可能性を指摘した。

4人の子供を産んだメアリーだが、最初の子供を3ヶ月で、またエドワードのあとに生まれた娘も早くに亡くしていた。自分も息子を一人失っているが、一人でも辛いのに二人とは・・と言葉を失い涙ぐむメアリー。

メアリーの家族

子供を4人産み、ノリッジのスラムにいたというメアリー。彼女はどのような家庭で育ったのだろうか。また助けてくれる家族はいなかったのだろうか。

メアリーの父、クリストファー・ベリーは印刷・製本業者で、ノリッチでも高級住宅地に住んでいた。

ベリー家は18世紀後半より3世代にわたり印刷業を営み、大きな本屋も持つなど、ノリッジでも有数の印刷業者だったという。ではなぜメアリーはスラム街にいたのだろうか?

1811年の新聞に、クリストファー・ベリーの破産宣告の記事が出ていた。

事業を拡大しようとして失敗したようだ。

破産に伴い、家財道具が競売にかけられた時の広告も残っていた。ソファ、フランス製のカーテン、マホガニーのダイニングテーブルなど、高級な調度品が並んでいる。これらのものが全て差し押さえられた。

とはいえ、破産イコール即貧困ではなく、破産しても資産の5パーセントは持っておくことができた。

クリストファーは印刷機は手元に置き、新聞を発行するなどして再起を図ろうとしたようだ。

家族の悲劇

メアリーは実は8人きょうだいだった。

メアリーの母と、下のきょうだい6人が救貧院に入ったことを示す書類が見つかった。そこには、救貧院に入った家族に、父クリストファーが週に20シリングを支払うという条件が書かれていた。

当時11歳だったメアリーと、上のもう一人の子供は救貧院には入らなかった。父親の世話や家事をさせられていたのかもしれない。

20シリング払う経済能力があるのに、乳児を含めた幼い子供を救貧院に入れたことに、専門家も首をひねる。

救貧院の衛生環境は劣悪だった。数百人の貧民に食事が与えられたが、そこにはナイフやフォークもなく、皆手づかみで食べるような、混み合って混乱した場所だったという。

専門家もとても異様な状況だというが、クリストファーはどうやらここに家族を捨てたようだ。

そしてメアリーの小さなきょうだいたちは、救貧院で次々と亡くなっていた。

それでも父親が援助の手を差し伸べることはなかったようだ。子供を次々と貧困の中亡くした母親の胸中はいかばかりだったろう。

メアリーはその後、未婚のまま子供を産む。当時、長男には自分の父親の名前をつけることが多かったが、メアリーが息子に父親の名前をつけることはなかった。その代わり、メアリーは死んだきょうだい達の名前を子供につけている。

ここからも、メアリーの父親に対する気持ちが見て取れるのではないだろうか。

職人として生きのびたメアリー

メアリーとふたりの子供たちは、その後どうやって暮らしたのだろうか。

1851年の国勢調査で、メアリーはコルセットメーカーの職についていたことがわかった。

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By SAINT-ELME GAUTIER - LE CORSET A TRAVERS LES AGES, Public Domain, Link

コルセット作りは当時需要が高く、小さい子供がいたメアリーは家で内職的に仕事をしていたと考えられる。1週間に4−6シリングと、稼ぎはあまり良い仕事とは言えなかった。

しかしメアリーには得意の客も付き、客の家に出向いて採寸したり、客がメアリーの家にやってきてコルセットを注文することもあったようである。

曽祖父エドワードは印刷工見習い、もうひとりの兄弟も大工になり、それぞれ手に職をつけた。

またエドワードは、独立後も母親の近くに住居を構えていた。

メアリーは70歳で亡くなった。死亡証明書には、死亡を報告したのが息子エドワードであること、最後を看取ったのも彼であることが書かれていた。

最後まで子供がそばに寄り添っていたことに心を動かされるメアリー。

エピローグ

最後に自分の祖父母の墓を訪ねるメアリー。

パン屋として一生懸命働いただろうロバートもだが、最善を尽くして、救貧院を逃れ、家族のために生きたメアリー。

どちらも誇りに思うし感謝したい。

ひとこと

Great British Baking Show は、アマチュアのベーカーが、パンやケーキを焼き、一番を競うリアリティ番組アメリカの似たようなリアリティ番組よりえげつなさがなく、見ていて楽しい番組です。


メアリー・ベリーはその中で審査員として登場、焼かれたパンやケーキを味見して、批評するおばあちゃんです。

日本だったら・・・料理の鉄人の、岸朝子さんみたいな存在?(ちょっと古いですかね)そこにマーサ・スチュワートを混ぜたような感じでしょうか??

ベーキングに関する本なども色々出版しています。

Mary Berry's Baking Bible (English Edition)

Mary Berry's Baking Bible (English Edition)


ケータリングなど食べ物に関する仕事を続けてきた彼女ですが、一躍有名になったのはこのリアリティ番組によるところが大きいかもしれません。70をすぎてブレークするなんて、人生最後まで何があるかわかりませんね。

好きなことは一生懸命幾つになっても続けるのが大事だと感じます。

さてそんな彼女の先祖、ビクトリア時代のきちんとしたイギリスの家庭を想像していたのに、ちょっと悪徳風のパン職人だったり、家族を救貧院に捨てる父親だったり、未婚のままスラムで子供を何人も産んだ曽祖母だったりと、彼女が想像するような「きちんとした」像は全く見えてこず。

特に混ぜ物疑惑や、問題もみ消し疑惑があるパン職人の先祖については、なんとかポジティブに捉えようとしてましたが、実際の所どうだったのでしょうね。

良いことも悪いことも、赤裸々に見せてくれるのがこの番組の良いところでもあります。


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【女優:グウィネス・パルトロウ】カリブ海、ユダヤ人聖職者、二つの家族のルーツ

プロローグ

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By Georges Biard, CC BY-SA 3.0, Link

オスカー女優、グウィネス・パルトロウ。父は監督・プロデューサーの故ブルース・パルトロウ、母は女優のブライス・ダナーという芸能一家に生まれた。

父親っ子だったというグウィネス。無償の愛、そして家族を大事にするという精神は父から学んだという。

母方の家族は典型的なドイツ系WASP、一方父方は東欧のユダヤ系。異なる背景を持つ人々が一つ家族になる、というのはとてもクラシックな「アメリカン・ストーリー」だと思うが、家族や両親のこととなると、実は意外に真実を知らないのが本当のところではないかと考えている。

バルバドスとのつながり

まずは母方のルーツについて調べる。

母の先祖はカリブ海の島、バルバドスに関係があると聞いたことがある。母方の祖母、アイダ・メイがバルバドス出身なのではと調べたところ、アイダはフィラデルフィア生まれだった。しかしアイダの死亡証明書から、アイダの両親の名前がわかる。

その情報を元に、1910年の国勢調査を調べると、アイダの母、イザベルの出身地が「西インド諸島」となっていた。さらにイザベルの死亡証明書を調べると、そこにははっきりとバルバドス生まれと書かれていた。バルバドス出身だったのは、曽祖母のロザムンド・イザベル・スタウトだった。

死亡証明書にはイザベルはメイドだったと書かれており、晩年まで働かなければならなかったようだ。イザベルはなぜバルバドスからアメリカに来たのか。バルバドスでは、何をしていたのか。

乗船名簿を確認すると、イザベルは18歳の時、27歳の姉マーサとともにアメリカに渡ったことがわかった。しかも乗ったのは客船ではなく、商船で、乗客は彼女達2人だけ。荒々しい海の男達ばかりが乗っている船に、若い女性が2人で乗り込んだことに驚くグウィネス。

バルバドスへ

さらに情報を追うため、バルバドスに飛ぶ。

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By Barry haynes - Own work, CC BY-SA 4.0, Link

島での洗礼記録には、イザベルの父サミュエルは貿易会社の事務職をしていたと記されていた。1800年半ば頃のバルバドスは、カリブ海の重要な貿易拠点として、ラム、砂糖、モラセスの輸出、各地からの物資の輸入が盛んに行われていた。父サミュエルも、いずれは独立した貿易商を目指して働いていたと思われる。

父親の職業から考えて、暮らしぶりは悪くなかったはずだが、家族に何かがあったのだろうか。死亡証明書を確認してみると、1864年に母親サラが42歳で亡くなっていたことが明らかになった。またそこにはサラは未亡人とあったことから、母親が亡くなる前に、すでに父親も亡くなっていたと見られる。

イザベルは13歳で孤児となっていた。

商船に乗ったのは、客船よりも安かったからだと考えられる。

移民の背景

姉妹はそれまでお針子などで生計を立てていたようだが、当時バルバドスのイギリス人の社会的、経済的地位は苦しいものになっていたという。

200年に渡り、バルバドスではイギリス人による奴隷支配が行われていた。しかしイザベルの時代、奴隷解放から30年が過ぎ、教育を受けた元奴隷やその子孫が、新しい労働力となっていた。

これはバルバドスにいる労働階級のイギリス人にとっては、職を失うことを意味した。また島の人口は女性の方が多く、将来の結婚相手を見つけることも難しい状況になっていたという。

このような状況から脱するため、姉妹はより良い環境を求めてバルバドスを飛び出したようだ。自分を信じて、新しい世界に飛び出していった曽祖母に感銘を受けるグウィネス。

父方のルーツ

次は父のルーツについて探る。

父方の祖父バスター。グウィネスにとってはとても優しく、家族を大事にするおじいちゃんだったが、彼自身の生い立ちは決して幸せなものではなく、自分の母親についてもあまり良く言わなかったという。どうも母親がネグレクト気味だったようで、祖父の身なりがあまりにも汚かったため、学校から返されたこともあったという話は聞いたことがある。

叔母を訪ね、話を聞く。祖父バスターは1914年生まれ、ニューヨーク、クイーンズで育った。父の名前はマイクだが、本名はマイヤー。苗字もパルトロウではなく、もともとはパルトローヴィッチとユダヤ系の名前だった。

母アイダは料理、掃除といった家事を全くせず、部屋の中は新聞やゴミで溢れかえっている、いわゆるゴミ屋敷だったという。しかしアイダはハンターカレッジという大学を卒業するなど、実は優秀だったようだ。どうもアイダには、精神的な問題があったのでは、という。

優秀だった曽祖母と家族の悲劇

ハンターカレッジは教員育成のための女子大で、当時はノーマルカレッジと呼ばれていた。当時、ニューヨークで教職につくことは、女性にとって最高のキャリアだったという。学校によってはユダヤ人の入学を許さないところもあったが、この大学は人種は関係なく入学することができた。

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By George G. Rockwood - Harper's weekly : a journal of civilization. (New York : Harper' s Weekly Co., 1857-1916). Image ID: 801201, Public Domain, Link

アイダの当時の成績は平均82点と優秀なものだった。しかし出席日数をみていると、27日間も欠席しており、翌年には退学処分になっていた。一体何があったのか。

家庭に何らかの事情があったのではと、当時の国勢調査を調べる。アイダが大学に入る約10年前の調査では、アイダの両親、そして2人の兄弟が確認できたが、1900年の調査では母親と兄弟の1人の情報が消えている。

さらに調査したところ、1897年に母が肝硬変で死亡、さらに数ヶ月後に兄弟の1人が亡くなっていた。ちょうどアイダが学校を休みがちだった時期と重なっている。

自分が父親を亡くした時のことを思い出すグウィネス。それだけでも大きなショックなのに、さらにその上に兄弟を亡くしたなんて、自分だったら立ち直れないかもしれない。この出来事が、アイダののちの人生に大きな影を落としたのだろうか。

アイダにさらに降りかかる悲劇

その後アイダは結婚し、1910年までに6人の子供をもうけていた。しかし1920年国勢調査では、ヘレンという名前の娘の情報が消えていた。

死亡証明書をとってみると、ヘレンは1912年、3歳で亡くなっていた。死因は外傷性ショック、肋骨などの骨折と肺に穴が空いたこと。馬車に轢かれたのが原因だった。事故だったため、当時の記録も残っており、それによると道に飛び出したところを、気づかなかった馬車に轢かれたらしい。気がついた通行人達が大声で馬車を止めた時には、前輪と後輪の間に挟まっていたという、痛ましい事故だった。

ヘレンが亡くなったのは1912年7月20日。そして3週間後の8月12日には、マリオンという娘が生まれていたことも国勢調査で明らかになった。事故当時、アイダは臨月だった。

子供を最悪な形で亡くしたショックと悲しみ、そして直後の出産。出産後のホルモンの影響などを合わせて考えても、アイダは身も心もボロボロになってしまったのではないだろうか。そう考えると、以後子供の世話や家事もできなくなるような精神状態になってしまったのも頷ける。

母親に対する同情は全くなかったという祖父。このことを知っていたのだろうか。祖父がもしも知っていたら・・と思うグウィネス。と同時に、このような環境に育っても、家族に愛情を注いでくれた祖父のことを思う。

ユダヤ人聖職者だった先祖

次は曽祖父、マイヤーのルーツにスポットライトをあてる。マイヤーの父、グウィネスの高祖父サイモン(シムカ)は東欧から来たユダヤ教の聖職者(ラビ)だったと聞いている。またサイモンの家系は代々ラビだったらしい。自分もスピリチュアルなことに非常に興味があるので、そのルーツは特に気になるという。

https://i0.wp.com/i.dailymail.co.uk/i/pix/2011/04/02/article-1372687-0B72342400000578-688_634x472.jpg
dailymail.co.ukより 高祖父サイモン

ニューヨークにあるエルドリッジ・ストリート・シナゴーグに向かうグウィネス。そこで見せられたのは、高祖父サイモンの婚姻に関するポーランド語の書類だった。ポーランド北東部の小さな町で行われた結婚式を取り仕切ったのはサイモンの父、ハーシュ・パルトローヴィッチ。彼もまた、ラビであった。

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By AnneRuthmann - Own work, CC BY-SA 4.0, Link

次に出てきたのは、メモリアル・ブックと呼ばれるもの。グウィネスの先祖が住んだポーランドのこの町のユダヤ人も、ホロコーストで全滅し、すでにユダヤ人コミュニティは無くなっているが、ホロコーストを生き延びた人々が戦後集まり、コミュニティの思い出をまとめて本にしたものだという。ここにサイモンの父、ズヴィ・ハーシュについての記述があった。

そこには、ズヴィ・ハーシュが非常に素晴らしいラビであったこと、そしてカバラの使い手であったことが記されていた。カバラとは、ユダヤ教の秘術的なもの。そこにはさらに、町を大火が襲った時、ハーシュがバルコニーに出てハンカチを振ると途端に火が消え、おかげでユダヤ人コミュニティは火事を免れることができた、という言い伝えも記されていた。

自分もカバラを学んでいるというグウィネスは驚く。また聖職者、スピリチュアルな血が家系に流れていることを感慨深く思う。

さらに、高祖父サイモンが父ズヴィ・ハーシュに捧げた本が見つかる。ヘブライ語で書かれたこの本には、父についての思い出が書かれた一節があった。書斎でいつも戒律についての相談、議論をしていた父、いつもトーラを口にしていた父のこと。その優しい筆致に、涙を流すグウィネス。父を愛する強い気持ちが、この家族にはあるのだと感じる。

プロローグ

自分と父の関係、スピリチュアルなものへの興味など、様々な類似点を先祖に見つけたグウィネス。暗い影を持つ先祖がいると同時に、神聖なもの、父への愛など、光をもたらすような先祖がいる。そんな先祖の両面を見ることができたのは、とても素晴らしいことだった。この旅を通じて知ったことを、最後には母親と共有するグウィネス。父にも教えたかったと思う。

ひとこと

今回は、日本でも良く知られている人物を取り上げてみました。が、放送を見ていても内容が全て尻切れとんぼだな、という気がとてもしました。せっかくバルバドスに飛んだのに、ちょっと書類を見ただけで終わってしまったし、アメリカに渡ってからのことなど、もっと深掘りしないのかな、と不完全燃焼。

母親、兄弟、そして小さな娘を亡くした曽祖母アイダの話は悲劇的でした。本人や周囲の人からの話があったわけではないけれど、国勢調査や出生・死亡証明書という無機質にも見える情報を付き合わせて行くことで、その時の状況、そしてそれに伴う人間の心理状況に思いをはせる、そうして見えてくる答えがある。これは、家系学調査の醍醐味だろうなと思います。本当に、これはグウィネスのおじいさんに知らせてあげたかったですね。

代々ラビだったという先祖の話についても、結局2代しか特定できていないので、アメリカのマニアックな視聴者の間では、調査不足の声も上がっていました。

番組にも登場した教授がのちに家系学ブログに残したコメントによると、ズヴィ・ハーシュの父親がこの家系の中では最初のラビだったようです。この最初のラビの名前が、Paltielという比較的珍しい名前だったそうで、「Paltielの息子」という意味のポーランド語が、パルトローヴィッツ(パルトローヴィッチ)。これがその後の家族の苗字になり、グウィネスの祖父の代にパルトロウ、になったようです。

ハンカチを振って火事を消した話はマユツバものですが、そういえばカバラ、一時期マドンナがハマってたんですよね。こちらは正統派のものとはまたちょっと違うものだったようですが・・・。

またズヴィ・ハーシュの奥さんが名家の出のようで、こちらの家系をたどるとさらに多くのラビがいるようでした。番組の尺の問題もあるんでしょうが、あまりそういうところの深掘りがありませんでした。

特にこの番組のアメリカ版は、途中でコマーシャルがたくさん入るのもあって、35〜40分弱と短めなので、一度にいろんな先祖を調査すると、どうしても情報が浅くなりがちです。

一方イギリス版は国営のBBCなこともあって、がっつり50分ちょっとなので、今度は逆に濃すぎたり情報が多すぎると思うことも(苦笑)。編集って難しいですね。

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【女優:ジェーン・シーモア】ボンドガール、ドクター・クイン女優のルーツ:大叔母姉妹、ホロコーストからの逃避行

プロローグ

ハリウッド女優ジェーン・シーモアはイギリス生まれ。007「死ぬのは奴らだ」のボンドガール役、そして日本でもNHKで放映されていた「ドクター・クイン、大西部の女医物語」の主演をはじめ、数多くの映画、ドラマに出演している。

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By Ilya Haykinson - File:2009 CUN Award Party Jane Seymour 036.JPG, CC BY-SA 3.0, Link

ジェーン・シーモア」という典型的な英国人の名前は実は芸名。本名はジョイス・ペネロペ・ウィレミナ・フランケンバーグ。母はオランダ生まれのオランダ人、父はポーランド系のユダヤ人。

父方の祖父がポーランドからイギリスに移住したので、ジェーンの家族はホロコーストを免れたが、親戚はホロコーストの犠牲になったものも多い。イギリス空軍の軍医だった父は、いとこの行方を探すため、ベルゲンベルゼン強制収容所に行ったと聞いている。

そんな中で、ホロコーストを生き延びた2人の大叔母がいる。当時フランスにいたミカエラ、そしてポーランドに残っていたヤドヴィガ姉妹。それは一体どのような経験だったのだろうか。

ゲットーへの強制移住

ワルシャワに向かうジェーン。大叔母ヤドヴィガは、ここでユダヤ系の産婦人科医ハーマン・テマーソンと結婚、息子ジェッツィと娘ハンナの2人の子供をもうけた。自分の父も産婦人科医だったというジェーン。父はハーマンの影響を大きく受けていたようだ。

家族はワルシャワの中でも、裕福なエリアに住んでいた。当時はコスモポリタンな街だったワルシャワ。特に医者という職業柄、ヤドヴィガの家族は、ポーランドの社会に十分溶け込んで生活していた。

しかし1939年、ドイツがワルシャワに侵攻。1940年10月にはユダヤ人を隔離するため、街の中心部の1.6キロ四方に高さ3メートルの壁を作り、40万人のユダヤ人をそこに押し込めた。いわゆるユダヤ人ゲットーである。

The Wall of ghetto in Warsaw - Building on Nazi-German order August 1940.jpg
By Unknown - "Warszawskie getto" Warszawa 1988
United States Holocaust Memorial Museum, Photograph #37295
Photograph description based on discussion at Kolejka Marecka Forum (Post # 7), Public Domain, Link

ゲットー区域内に家があったポーランド人は追い出され、代わりに別の場所にいたユダヤ人がそこに詰め込まれた。ポーランド人は「アーリア人区域」に住み普通の生活を送ったが、ユダヤ人たちは完全にそこから隔離・遮断されることとなった。

ヤドヴィガ達の家はたまたまゲットーが作られた区域内にあり、移動はまぬがれ、医療業務も続けていた。しかし混み合ったゲットー内での生活は苦しく、1942年には8万人が飢えや病気で亡くなっている。当時の映像では、ゲットー内のあちこちに人が倒れており、人々がそれを避けながら街を歩く姿が残っている。

ゲットーからの脱出

その年、ドイツはユダヤ人を虐殺することを決定。ゲットーから25万人がトレブリンカ絶滅収容所に送られ、そこで虐殺された。

Umschlagplatz loading.jpg
By Unknown - Popular museum piece in public domain available from a variety of sources: online (1) and (2) and others.
USHMM, courtesy of Żydowski Instytut Historyczny (Jewish Historical Institute in Warsaw)
Barbara Engelking; Jacek Leociak (2001) Getto Warszawskie - Przewodnik po nieistniejącym mieście, Warsaw: Wydawnictwo IFiS PAN ISBN 83-87632-83-x, Public Domain, Link
トレブリンカへ移送されるユダヤ

当時ヤドヴィガは50歳。ホロコーストを生き抜いた彼女であるが、収容所送りになっていれば、そこに行き着く前に力尽きて死んでいたと考えられる。実は収容所送りになる前に、ヤドヴィガとその家族はゲットーを脱出していたようだ。

当時、ポーランド側に協力者があれば、唯一ゲットーを抜け出す方法があった。それは「ゲットー」と「アーリア人区域」の境界にある裁判所の建物を通り抜けること。この建物にはゲットー側とアーリア側ふたつに出入り口の扉があった。

脱出するには、偽の書類を作り、裁判所に出頭するふりをして建物の中に入る。ユダヤの星がついた服を、人目のつかない場所で着替え、出来るだけポーランド人のふりをして、アーリア人側の出口から外に出る。おそらくポーランド人の協力者が待ち合わせをしていたと考えられる。この方法で、1000人ほどがゲットーから脱出したという。

裁判所の建物から何くわぬ顔をしてアーリア側に出るのは、とても勇気のいることだっただろう。ゲットーでの地獄とは裏腹に、そこにはまるで何もなかったかのような日常がある。しかし同時に、建物の周りには、脱出したユダヤ人を襲おうと待ち構えているポーランド人もいた。彼らはまずユダヤ人が身につけている宝石や貴重品などを奪った上で、ドイツ兵を呼んだという。アーリア側に出ても、油断はならなかった。そのため協力者の存在がとても重要だった。

ヤドヴィガだけでなく、夫も子供達も脱出に成功していたようだ。ホロコーストを生き延びた人々が記した回顧録にも、ヤドヴィガの夫、テマーソン医師が「アーリア側に潜伏していた」との記述が見つかった。

ポーランド人の中にも、ユダヤ人を助けようという人達が多くいたということだった。1942年9月にゲットーは完全に破壊・解体されたが、その際に多くのユダヤ人が逃亡した。ドイツ軍は、地元ポーランド人に、ユダヤ人の逃亡を助けたりかくまえば死刑にすると警告している。逃亡、潜伏を実現するには、本人だけでなく、周囲にも大きなリスクがあった。

Death penalty for Jews outside ghetto and for Poles helping Jews anyway 1941.jpg
By German Nazi Governor for district of Warsaw Ludwig Fischer - Archives of Institute of National Remeberance (IPN), Warsaw, Public Domain, Link
死刑を警告するチラシ

ワルシャワ蜂起

無事に脱出できても、ここから戦争が終わるまで3年もある。それまで一体どうしていたのだろうか。おそらくポーランド人の家に匿われていたはずだが、当時家族が全員で同じ場所に潜伏することは危険が大きすぎたため、おそらく家族はバラバラになっていたと考えられる。

1944年8月、民衆によるワルシャワ蜂起が起きる。当初はポーランド側が優勢であったが、ドイツ軍が制圧、20万人が処刑され、街はドイツ軍により完全に破壊されてしまった。アーリア人優越思想に突き動かされたドイツ軍にとっては、ユダヤ人同様、ポーランド人も劣等人種と見ていたため、街を壊滅させることには何のためらいもなかったという。

Warsaw Uprising - Four on a barricade.jpg
By Unknown - Antoni Przygoński (1980) Powstanie Warszawskie w sierpniu 1944 r.; Tom 1, Warsaw: Polskie Wydawnictwo Naukowe, pp. 112 ISBN 83-01-00293-X, Public Domain, Link
ワルシャワ蜂起、ドイツ軍と戦うレジスタンス

廃墟となった街の中でもなお、ヤドヴィガは隠れて暮らさなければならなかった。

夫、子供達の消息

銃痕がまだ残る当時の建物へ入っていくジェーン。そこで回顧録を手渡される。そこにはヤドヴィガの夫、ハーマンの最期が記されていた。1944年ナチスポーランドから撤退する。その様子を窓辺に立って見ていたハーマンは、撤退中のナチス軍に撃たれて亡くなっていた。たまたま窓辺にいたハーマン。それがたまたま目に入ったナチス兵。もう少しで戦争が終わるところだったのに。ハーマンはおそらく撤退直前に意味もなく殺された、最後の人物だったかもしれないという。

その後ヤドヴィガや子供たちはどうなったのだろうか。

50万人以上いたワルシャワユダヤ人のうち、生き残ったのは1万1000人。その中でワルシャワに戻って来たのは1000人にも満たなかった。

ワルシャワ市内、エルサレム通りのアパートを訪れるジェーン。ここは戦後、潜伏していたユダヤ人達がワルシャワでの生活を立て直すために集まった場所だという。ヤドヴィガもここで暮らし、家族の帰りを待った。ヤドヴィガが家族に連絡するよう呼びかけるメッセージカードが残っている。彼女の住所は家族にだけ知らせて欲しい、と書いてあるのは、まだ物資や住む場所も十分でなかった時代、おそらく自分がユダヤ人であることを必要以上に外部に知らせることは、まだ危険であったからだろうという。


Warsaw Ghetto destroyed by Germans, 1945.jpg
By Zbyszko Siemaszko, photographer of Central Photographic Agency (CAF) in Warsaw - The book: "Warszawa 1945-1970", Publisher: Wydawnictwo Sport i Turystyka, Warszawa, 1970, page 76-77, Public Domain, Link

ワルシャワの85%がドイツ軍によって破壊され、ポーランド全体では500万人がなくなり、そのうち300万人がユダヤ人であった。そんな絶望的な状況で、ヤドヴィガは家族の消息を待ち続けたのであった。そんな中、ヤドヴィガの娘で当時21歳だったハンナがベルゲンベルゼン強制収容所で目撃されたというニュースが舞い込んだ。

ドイツにあるこの収容所に、ワルシャワから直接送られたユダヤ人は少なかったが、のちに他の収容所の証拠を隠すため、東ヨーロッパからのユダヤ人がこの収容所に向けて死の行進を強いられていた。体力のないものは銃殺されたという。

父が収容所まで行って探しに行ったのはハンナだったんだ、と気がつくジェーン。

しかし収容所にハンナの姿はなかった。「ベルゼン収容所にいる形跡なし」との手紙が残っていた。

息子のジェッツィの消息も届かなかった。おそらく亡くなったと見られる。自分は生き延びたが、夫、子供を失い、家もコミュニティも街も全てを失ってしまったヤドヴィガ。これが自分だったら、もう気が狂ってしまうだろう、とジェーン。

もう1人の大叔母

もう1人の大叔母、ミカエラの足跡をたどるためパリに飛ぶ。

戦争前、ポーランドからパリに移っていたミカエラ。夫アーロン・シンガロウスキーと娘ハンナとリアの4人で暮らしていた。彼らが住んでいたのは、パリでも裕福なエリア。夫アーロンは、政治的な理由で職を失ったユダヤ人に新しい技術を教え、再就職を支援する団体のディレクターをしており、ユダヤ人コミュニティでも高い地位にいる人物だったという。

以前はベルリンにいたが、ヒットラーが政権を取ったのを機に1933年にパリに来た一家。当時のパリはユダヤ人をはじめ多くの外国人がヨーロッパ各地から避難してきており、ユダヤ人が住みやすい場所であったという。しかし1939年に戦争が始まると、状況は不透明になる。

1940年5月10日、ドイツ軍がオランダ、ベルギーへの侵攻を開始。これにより、フランス北部やベルギーから避難民が到着し始める。しかしドイツの侵攻が進むにつれ、パリも安全な場所ではなくなってきていた。人々はとにかく駅に行き、買える切符を買い、乗れる電車に飛び乗った。マットレスなどの家財道具一式を抱え、実にパリの人口の4分の3、約600万人がフランス南部へと大移動したという。

1940年6月には、ミカエラ一家もフランス南部、マルセイユへと避難している。

6月14日にはドイツ軍がパリを占拠する。フランス政府はドイツと休戦協定を結び、北部はドイツが占領、南部は傀儡政権であるヴィッシー政権の統治下となった。

亡命先を求めて

カエラ一家マルセイユを目指したのは、そこに領事館、そして港があったからで、いざとなればここから船に乗ってさらに脱出が可能だった。しかしミカエラ一家はフランスでは外国人。マルセイユで生活するにしても、居住許可証がなければ何もできない立場にあり、様々な許可を得たり、食料を得たりするのに奔走する毎日であった。

さらにマルセイユも安全な場所ではなくなってきていた。ドイツ軍に協力する立場にあるヴィッシー政権もまた、ユダヤ人狩りを開始。1941年にはすでに何千人もが強制収容所へと送られている。早く脱出しなければならない。しかしそのためには、書類を揃える必要があった。

当時のアメリカ領事館の前に行列を作る難民たちの写真がある。彼らは必要なビザを得るために何日も何日も並んだ。またその手続きも複雑なものだった。入国に必要なビザだけでなく、フランスからの出国許可も得なければならなかったのである。

カエラ一家は、アメリカに移民するビザを申請し、その許可が降りていた。しかしユダヤ人の再就職支援をする夫アーロンは、他のユダヤ人を助けるためにこの土地に残ることを選んでしまった。夫の仕事のためとはいえ、家族を守るためにミカエラは歯がゆい思いをしたのではないだろうか。

続いて1942年、一家はスイスへの渡航を申請する。こちらも許可が降りたが、ヴィシー政権により、出国を却下されてしまう。

一方ドイツが占領しているフランス北部では1942年7月からユダヤ人狩りが始まった。フランス警察は1万2000人のユダヤ人を逮捕。ドイツ軍に要請されたわけではなかったのに、そのうち4000人が子供だったという。彼らの多くがアウシュビッツに送られ、命を落とした。

あともう少しでアメリカかスイスに行けたのに、緊迫する状況の中八方塞がりになってしまった一家

一家がメキシコ行きのビザまで申請していた記録も見つかった。世界のどこでもいいから、どんなに遠くてもいいから、安全に受け入れてくれるところに行きたい。この悪夢を早く終わらせたい、という思いが伝わってくる。

さらに11月9日には、スイスのビザを再度申請、再び却下。

11月11日にドイツは南部に侵攻し、12日にはマルセイユも占領された。

Bundesarchiv Bild 101I-027-1476-20A, Marseille, Gare d'Arenc. Deportation von Juden.jpg
By Bundesarchiv, Bild 101I-027-1476-20A / Vennemann, Wolfgang / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, Link
収容所に送られるマルセイユユダヤ

ここでスイスで発行された書類を見せられるジェーン。そこにはドイツ語で「不法」と書いてあった。ドイツ軍がマルセイユに迫る中、一家は正規の方法での入国は無理だと諦め、国境を不法に超えてスイスに入国していた。彼らがスイスに到着した1週間後には、マルセイユユダヤ人は強制収容所に送られ、ユダヤ人が居住していた地域はダイナマイトで爆破されたという。間一髪の所で、家族は難を逃れていたのであった。

スイスに逃れた一家

スイスに向かうジェーン。今だと車で数時間でついてしまう。しかしミカエラ一家は、冬の厳しい寒さの中、隠れ家を転々とし、ほぼ徒歩で移動を繰り返した。子供を2人抱え、いつどこで捕まるか、撃たれるかもしれない恐怖、全てが不透明な中での逃避行。国境は林の中にあった。彼らはここを猛ダッシュしたのだろうか。

スイス政府が発行した実際の逮捕状を手にするジェーン。1943年1月17日夜11時、彼らはこの場所で逮捕された。

中立国のスイスには、ユダヤ人が逃げ込むことはできたが、スイスはユダヤ人受け入れを厳しく制限しており、不法入国した者はやはり収容所に入れられ、働くことは許されなかった。また何万人もがフランスに強制送還されたが、それは彼らにとって死を意味するものであった。

幸い、ミカエラ一家にはスイスにも資産があった。また夫アーロンの仕事の実績が買われ、職を得ることもできた。スイス政府は、スキルを持つ難民は歓迎したのである。一家はホテル暮らしを始めた。家族の安全を捨ててまで、マルセイユに止まり仕事を続けていたことが吉と出た形になった。

ヤドヴィガのその後

戦後、ミカエラポーランドで1人生き残った姉ヤドヴィガのため、スイスのビザを申請していた。ホロコーストを生き残ったユダヤ人でも、家を亡くし、貧困に陥ったり、そのトラウマや、さらなる迫害を恐れ、自国に帰れず難民のようになった人々は実に3000万人いたという。

ヤドヴィガには、1946年4月より、6ヶ月の滞在を許可するビザが降りた。ワルシャワの廃墟からやってきたヤドヴィガ、スイスの豪華なアパートをどう思っただろうか。そして自分は全てを亡くしたが、夫も子供も全て揃っている妹家族との生活はうまく行ったのだろうか。

ヤドヴィガはその後、スイスで亡くなったという。

ヤドヴィガの墓を訪ねるジェーン。しかしそこでそこで墓石に不審な点を見つける。亡くなった日にちが刻印されていなかったのである。1946年10月とだけ。スイスに到着して数ヶ月で亡くなったようだ。

当時の新聞にヤドヴィガの死亡に関する記事が掲載されていた。

ジュネーブで1ヶ月前から行方不明になっていたポーランド人女性の遺体が見つかる。戦争で夫は行方不明、息子は射殺され、娘の消息は不明で、鬱状態にあった。彼女のビザは10月に切れるはずだった。』

全てを失い、また廃墟のワルシャワに戻らなければならない。全てに疲れ果て、自殺したと考えられる。

エピローグ

戦争を生き延びたが、1人取り残されたヤドヴィガ。戦後の生活は一層辛いものであっただろう。生き残るための戦いにも疲れ果て、もう先へは進めなくなってしまったのかもしれない。せめてこんな美しいところで最後を迎えたのが救いだろうか。

様々な苦難の中生き延びた大叔母姉妹。彼女たちの足跡を追い、家族の中にある不屈の精神を見た。

ひとこと

もうこのエピソードは、見ていても、これを書いている間も、とても辛かったです。

まず番組の最初に出てきた、当時の家族写真。最近ちょっとこの時代のファッションがまた戻ってきているせいもあり、彼らの表情、服装を見ていると、つい最近のパーティーで撮ったように見えます。そしてコスモポリタンな街だったワルシャワの映像も、ショッピング街の店先は、今でもインスタグラムに載っていてもおかしくないような風景。

それがもう一瞬で、地獄絵図です。ゲットーの道端で倒れて死にかけている子供、女性。その横を避けて歩く人達。そしてワルシャワ蜂起を経て街が広大な廃墟となっていく姿。

今でこそ、戦争が何年に終わったか知っていますので、彼らの足跡を、なんとなく時系列に見ています。当時渦中にいた人達が、いつ戦争が終わるかなんてわかるわけもなく、とにかく先が見えない恐怖と不安の中で脱出し、潜伏し、各地を逃げ回り・・・それも叶わない人々は、その場で野たれ死に。想像を絶します。

国外に脱出するのでさえ、ただ逃げればいいわけではなく、ビザを取り、許可証を取らないといけない。でも却下が続く無限ループ。しかもそうこうしている間も、食べ物はない、ナチスは近づいてくる、となるともうそれだけで精神が崩壊してしまいそうです。

ビザのことについては、ふと杉原千畝さんの話も思い出しました。このような状況では、見ず知らずの地、日本にも頼りたくなる人がいるのも当然でしょう(この場合は通過ビザでしたが)。今だって日本に難民申請をしている人達がいます。なぜ日本?と思うかもしれませんが、もう最後の最後の頼みの綱かもしれません。

「そうだ、難民しよう」なんて言うのが少し前にありましたが・・・。今でも極限の状況で出口を見つけようとしている人々はたくさんいるわけで、好き好んで「そうだ」なんて言っているのだと思ったらちょっとあまりにも、あまりにもです。

自国を守る必要もあるんでしょうが、スイス政府がユダヤ人の入国にキャップを設けていたり、「スキルのある難民ならオッケー」・・というのも最近もどこかで聞いたような話ですね・・。大叔母さんの一家は、ある意味お金があったのでどうにか助かった部分もあるでしょう。でも無い人は・・??ああ、辛い・・。

今回のエピソードを見ながら、なぜか今の世界の状況に色々と考えを巡らせてしまいました。

戦争前、フランスがユダヤ人の住みやすい場所だった、という話はこちらでも⇩
familyhistory.hatenadiary.com


今の時代もどんどん先が見えなくなってきました・・・次回はあまり悲劇の少ないものを紹介してみようかな・・
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