世界のセレブ・ファミリーヒストリー

世界のセレブ・ファミリーヒストリー

英・米・豪・加で放送されている「ファミリーヒストリー」的番組 Who Do You Think You Areの興味深いエピソードを紹介します。セレブの家族史を通じて、世界の知らなかった出来事が見えてくる。今の世界を知る上でも、個人を知る上でも、色々興味深いこと満載です。

【女優:ジェーン・シーモア】ボンドガール、ドクター・クイン女優のルーツ:大叔母姉妹、ホロコーストからの逃避行

プロローグ

ハリウッド女優ジェーン・シーモアはイギリス生まれ。007「死ぬのは奴らだ」のボンドガール役、そして日本でもNHKで放映されていた「ドクター・クイン、大西部の女医物語」の主演をはじめ、数多くの映画、ドラマに出演している。

Jane Seymour CUN Award Party 2009.jpg
By Ilya Haykinson - File:2009 CUN Award Party Jane Seymour 036.JPG, CC BY-SA 3.0, Link

ジェーン・シーモア」という典型的な英国人の名前は実は芸名。本名はジョイス・ペネロペ・ウィレミナ・フランケンバーグ。母はオランダ生まれのオランダ人、父はポーランド系のユダヤ人。

父方の祖父がポーランドからイギリスに移住したので、ジェーンの家族はホロコーストを免れたが、親戚はホロコーストの犠牲になったものも多い。イギリス空軍の軍医だった父は、いとこの行方を探すため、ベルゲンベルゼン強制収容所に行ったと聞いている。

そんな中で、ホロコーストを生き延びた2人の大叔母がいる。当時フランスにいたミカエラ、そしてポーランドに残っていたヤドヴィガ姉妹。それは一体どのような経験だったのだろうか。

ゲットーへの強制移住

ワルシャワに向かうジェーン。大叔母ヤドヴィガは、ここでユダヤ系の産婦人科医ハーマン・テマーソンと結婚、息子ジェッツィと娘ハンナの2人の子供をもうけた。自分の父も産婦人科医だったというジェーン。父はハーマンの影響を大きく受けていたようだ。

家族はワルシャワの中でも、裕福なエリアに住んでいた。当時はコスモポリタンな街だったワルシャワ。特に医者という職業柄、ヤドヴィガの家族は、ポーランドの社会に十分溶け込んで生活していた。

しかし1939年、ドイツがワルシャワに侵攻。1940年10月にはユダヤ人を隔離するため、街の中心部の1.6キロ四方に高さ3メートルの壁を作り、40万人のユダヤ人をそこに押し込めた。いわゆるユダヤ人ゲットーである。

The Wall of ghetto in Warsaw - Building on Nazi-German order August 1940.jpg
By Unknown - "Warszawskie getto" Warszawa 1988
United States Holocaust Memorial Museum, Photograph #37295
Photograph description based on discussion at Kolejka Marecka Forum (Post # 7), Public Domain, Link

ゲットー区域内に家があったポーランド人は追い出され、代わりに別の場所にいたユダヤ人がそこに詰め込まれた。ポーランド人は「アーリア人区域」に住み普通の生活を送ったが、ユダヤ人たちは完全にそこから隔離・遮断されることとなった。

ヤドヴィガ達の家はたまたまゲットーが作られた区域内にあり、移動はまぬがれ、医療業務も続けていた。しかし混み合ったゲットー内での生活は苦しく、1942年には8万人が飢えや病気で亡くなっている。当時の映像では、ゲットー内のあちこちに人が倒れており、人々がそれを避けながら街を歩く姿が残っている。

ゲットーからの脱出

その年、ドイツはユダヤ人を虐殺することを決定。ゲットーから25万人がトレブリンカ絶滅収容所に送られ、そこで虐殺された。

Umschlagplatz loading.jpg
By Unknown - Popular museum piece in public domain available from a variety of sources: online (1) and (2) and others.
USHMM, courtesy of Żydowski Instytut Historyczny (Jewish Historical Institute in Warsaw)
Barbara Engelking; Jacek Leociak (2001) Getto Warszawskie - Przewodnik po nieistniejącym mieście, Warsaw: Wydawnictwo IFiS PAN ISBN 83-87632-83-x, Public Domain, Link
トレブリンカへ移送されるユダヤ

当時ヤドヴィガは50歳。ホロコーストを生き抜いた彼女であるが、収容所送りになっていれば、そこに行き着く前に力尽きて死んでいたと考えられる。実は収容所送りになる前に、ヤドヴィガとその家族はゲットーを脱出していたようだ。

当時、ポーランド側に協力者があれば、唯一ゲットーを抜け出す方法があった。それは「ゲットー」と「アーリア人区域」の境界にある裁判所の建物を通り抜けること。この建物にはゲットー側とアーリア側ふたつに出入り口の扉があった。

脱出するには、偽の書類を作り、裁判所に出頭するふりをして建物の中に入る。ユダヤの星がついた服を、人目のつかない場所で着替え、出来るだけポーランド人のふりをして、アーリア人側の出口から外に出る。おそらくポーランド人の協力者が待ち合わせをしていたと考えられる。この方法で、1000人ほどがゲットーから脱出したという。

裁判所の建物から何くわぬ顔をしてアーリア側に出るのは、とても勇気のいることだっただろう。ゲットーでの地獄とは裏腹に、そこにはまるで何もなかったかのような日常がある。しかし同時に、建物の周りには、脱出したユダヤ人を襲おうと待ち構えているポーランド人もいた。彼らはまずユダヤ人が身につけている宝石や貴重品などを奪った上で、ドイツ兵を呼んだという。アーリア側に出ても、油断はならなかった。そのため協力者の存在がとても重要だった。

ヤドヴィガだけでなく、夫も子供達も脱出に成功していたようだ。ホロコーストを生き延びた人々が記した回顧録にも、ヤドヴィガの夫、テマーソン医師が「アーリア側に潜伏していた」との記述が見つかった。

ポーランド人の中にも、ユダヤ人を助けようという人達が多くいたということだった。1942年9月にゲットーは完全に破壊・解体されたが、その際に多くのユダヤ人が逃亡した。ドイツ軍は、地元ポーランド人に、ユダヤ人の逃亡を助けたりかくまえば死刑にすると警告している。逃亡、潜伏を実現するには、本人だけでなく、周囲にも大きなリスクがあった。

Death penalty for Jews outside ghetto and for Poles helping Jews anyway 1941.jpg
By German Nazi Governor for district of Warsaw Ludwig Fischer - Archives of Institute of National Remeberance (IPN), Warsaw, Public Domain, Link
死刑を警告するチラシ

ワルシャワ蜂起

無事に脱出できても、ここから戦争が終わるまで3年もある。それまで一体どうしていたのだろうか。おそらくポーランド人の家に匿われていたはずだが、当時家族が全員で同じ場所に潜伏することは危険が大きすぎたため、おそらく家族はバラバラになっていたと考えられる。

1944年8月、民衆によるワルシャワ蜂起が起きる。当初はポーランド側が優勢であったが、ドイツ軍が制圧、20万人が処刑され、街はドイツ軍により完全に破壊されてしまった。アーリア人優越思想に突き動かされたドイツ軍にとっては、ユダヤ人同様、ポーランド人も劣等人種と見ていたため、街を壊滅させることには何のためらいもなかったという。

Warsaw Uprising - Four on a barricade.jpg
By Unknown - Antoni Przygoński (1980) Powstanie Warszawskie w sierpniu 1944 r.; Tom 1, Warsaw: Polskie Wydawnictwo Naukowe, pp. 112 ISBN 83-01-00293-X, Public Domain, Link
ワルシャワ蜂起、ドイツ軍と戦うレジスタンス

廃墟となった街の中でもなお、ヤドヴィガは隠れて暮らさなければならなかった。

夫、子供達の消息

銃痕がまだ残る当時の建物へ入っていくジェーン。そこで回顧録を手渡される。そこにはヤドヴィガの夫、ハーマンの最期が記されていた。1944年ナチスポーランドから撤退する。その様子を窓辺に立って見ていたハーマンは、撤退中のナチス軍に撃たれて亡くなっていた。たまたま窓辺にいたハーマン。それがたまたま目に入ったナチス兵。もう少しで戦争が終わるところだったのに。ハーマンはおそらく撤退直前に意味もなく殺された、最後の人物だったかもしれないという。

その後ヤドヴィガや子供たちはどうなったのだろうか。

50万人以上いたワルシャワユダヤ人のうち、生き残ったのは1万1000人。その中でワルシャワに戻って来たのは1000人にも満たなかった。

ワルシャワ市内、エルサレム通りのアパートを訪れるジェーン。ここは戦後、潜伏していたユダヤ人達がワルシャワでの生活を立て直すために集まった場所だという。ヤドヴィガもここで暮らし、家族の帰りを待った。ヤドヴィガが家族に連絡するよう呼びかけるメッセージカードが残っている。彼女の住所は家族にだけ知らせて欲しい、と書いてあるのは、まだ物資や住む場所も十分でなかった時代、おそらく自分がユダヤ人であることを必要以上に外部に知らせることは、まだ危険であったからだろうという。


Warsaw Ghetto destroyed by Germans, 1945.jpg
By Zbyszko Siemaszko, photographer of Central Photographic Agency (CAF) in Warsaw - The book: "Warszawa 1945-1970", Publisher: Wydawnictwo Sport i Turystyka, Warszawa, 1970, page 76-77, Public Domain, Link

ワルシャワの85%がドイツ軍によって破壊され、ポーランド全体では500万人がなくなり、そのうち300万人がユダヤ人であった。そんな絶望的な状況で、ヤドヴィガは家族の消息を待ち続けたのであった。そんな中、ヤドヴィガの娘で当時21歳だったハンナがベルゲンベルゼン強制収容所で目撃されたというニュースが舞い込んだ。

ドイツにあるこの収容所に、ワルシャワから直接送られたユダヤ人は少なかったが、のちに他の収容所の証拠を隠すため、東ヨーロッパからのユダヤ人がこの収容所に向けて死の行進を強いられていた。体力のないものは銃殺されたという。

父が収容所まで行って探しに行ったのはハンナだったんだ、と気がつくジェーン。

しかし収容所にハンナの姿はなかった。「ベルゼン収容所にいる形跡なし」との手紙が残っていた。

息子のジェッツィの消息も届かなかった。おそらく亡くなったと見られる。自分は生き延びたが、夫、子供を失い、家もコミュニティも街も全てを失ってしまったヤドヴィガ。これが自分だったら、もう気が狂ってしまうだろう、とジェーン。

もう1人の大叔母

もう1人の大叔母、ミカエラの足跡をたどるためパリに飛ぶ。

戦争前、ポーランドからパリに移っていたミカエラ。夫アーロン・シンガロウスキーと娘ハンナとリアの4人で暮らしていた。彼らが住んでいたのは、パリでも裕福なエリア。夫アーロンは、政治的な理由で職を失ったユダヤ人に新しい技術を教え、再就職を支援する団体のディレクターをしており、ユダヤ人コミュニティでも高い地位にいる人物だったという。

以前はベルリンにいたが、ヒットラーが政権を取ったのを機に1933年にパリに来た一家。当時のパリはユダヤ人をはじめ多くの外国人がヨーロッパ各地から避難してきており、ユダヤ人が住みやすい場所であったという。しかし1939年に戦争が始まると、状況は不透明になる。

1940年5月10日、ドイツ軍がオランダ、ベルギーへの侵攻を開始。これにより、フランス北部やベルギーから避難民が到着し始める。しかしドイツの侵攻が進むにつれ、パリも安全な場所ではなくなってきていた。人々はとにかく駅に行き、買える切符を買い、乗れる電車に飛び乗った。マットレスなどの家財道具一式を抱え、実にパリの人口の4分の3、約600万人がフランス南部へと大移動したという。

1940年6月には、ミカエラ一家もフランス南部、マルセイユへと避難している。

6月14日にはドイツ軍がパリを占拠する。フランス政府はドイツと休戦協定を結び、北部はドイツが占領、南部は傀儡政権であるヴィッシー政権の統治下となった。

亡命先を求めて

カエラ一家マルセイユを目指したのは、そこに領事館、そして港があったからで、いざとなればここから船に乗ってさらに脱出が可能だった。しかしミカエラ一家はフランスでは外国人。マルセイユで生活するにしても、居住許可証がなければ何もできない立場にあり、様々な許可を得たり、食料を得たりするのに奔走する毎日であった。

さらにマルセイユも安全な場所ではなくなってきていた。ドイツ軍に協力する立場にあるヴィッシー政権もまた、ユダヤ人狩りを開始。1941年にはすでに何千人もが強制収容所へと送られている。早く脱出しなければならない。しかしそのためには、書類を揃える必要があった。

当時のアメリカ領事館の前に行列を作る難民たちの写真がある。彼らは必要なビザを得るために何日も何日も並んだ。またその手続きも複雑なものだった。入国に必要なビザだけでなく、フランスからの出国許可も得なければならなかったのである。

カエラ一家は、アメリカに移民するビザを申請し、その許可が降りていた。しかしユダヤ人の再就職支援をする夫アーロンは、他のユダヤ人を助けるためにこの土地に残ることを選んでしまった。夫の仕事のためとはいえ、家族を守るためにミカエラは歯がゆい思いをしたのではないだろうか。

続いて1942年、一家はスイスへの渡航を申請する。こちらも許可が降りたが、ヴィシー政権により、出国を却下されてしまう。

一方ドイツが占領しているフランス北部では1942年7月からユダヤ人狩りが始まった。フランス警察は1万2000人のユダヤ人を逮捕。ドイツ軍に要請されたわけではなかったのに、そのうち4000人が子供だったという。彼らの多くがアウシュビッツに送られ、命を落とした。

あともう少しでアメリカかスイスに行けたのに、緊迫する状況の中八方塞がりになってしまった一家

一家がメキシコ行きのビザまで申請していた記録も見つかった。世界のどこでもいいから、どんなに遠くてもいいから、安全に受け入れてくれるところに行きたい。この悪夢を早く終わらせたい、という思いが伝わってくる。

さらに11月9日には、スイスのビザを再度申請、再び却下。

11月11日にドイツは南部に侵攻し、12日にはマルセイユも占領された。

Bundesarchiv Bild 101I-027-1476-20A, Marseille, Gare d'Arenc. Deportation von Juden.jpg
By Bundesarchiv, Bild 101I-027-1476-20A / Vennemann, Wolfgang / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, Link
収容所に送られるマルセイユユダヤ

ここでスイスで発行された書類を見せられるジェーン。そこにはドイツ語で「不法」と書いてあった。ドイツ軍がマルセイユに迫る中、一家は正規の方法での入国は無理だと諦め、国境を不法に超えてスイスに入国していた。彼らがスイスに到着した1週間後には、マルセイユユダヤ人は強制収容所に送られ、ユダヤ人が居住していた地域はダイナマイトで爆破されたという。間一髪の所で、家族は難を逃れていたのであった。

スイスに逃れた一家

スイスに向かうジェーン。今だと車で数時間でついてしまう。しかしミカエラ一家は、冬の厳しい寒さの中、隠れ家を転々とし、ほぼ徒歩で移動を繰り返した。子供を2人抱え、いつどこで捕まるか、撃たれるかもしれない恐怖、全てが不透明な中での逃避行。国境は林の中にあった。彼らはここを猛ダッシュしたのだろうか。

スイス政府が発行した実際の逮捕状を手にするジェーン。1943年1月17日夜11時、彼らはこの場所で逮捕された。

中立国のスイスには、ユダヤ人が逃げ込むことはできたが、スイスはユダヤ人受け入れを厳しく制限しており、不法入国した者はやはり収容所に入れられ、働くことは許されなかった。また何万人もがフランスに強制送還されたが、それは彼らにとって死を意味するものであった。

幸い、ミカエラ一家にはスイスにも資産があった。また夫アーロンの仕事の実績が買われ、職を得ることもできた。スイス政府は、スキルを持つ難民は歓迎したのである。一家はホテル暮らしを始めた。家族の安全を捨ててまで、マルセイユに止まり仕事を続けていたことが吉と出た形になった。

ヤドヴィガのその後

戦後、ミカエラポーランドで1人生き残った姉ヤドヴィガのため、スイスのビザを申請していた。ホロコーストを生き残ったユダヤ人でも、家を亡くし、貧困に陥ったり、そのトラウマや、さらなる迫害を恐れ、自国に帰れず難民のようになった人々は実に3000万人いたという。

ヤドヴィガには、1946年4月より、6ヶ月の滞在を許可するビザが降りた。ワルシャワの廃墟からやってきたヤドヴィガ、スイスの豪華なアパートをどう思っただろうか。そして自分は全てを亡くしたが、夫も子供も全て揃っている妹家族との生活はうまく行ったのだろうか。

ヤドヴィガはその後、スイスで亡くなったという。

ヤドヴィガの墓を訪ねるジェーン。しかしそこでそこで墓石に不審な点を見つける。亡くなった日にちが刻印されていなかったのである。1946年10月とだけ。スイスに到着して数ヶ月で亡くなったようだ。

当時の新聞にヤドヴィガの死亡に関する記事が掲載されていた。

ジュネーブで1ヶ月前から行方不明になっていたポーランド人女性の遺体が見つかる。戦争で夫は行方不明、息子は射殺され、娘の消息は不明で、鬱状態にあった。彼女のビザは10月に切れるはずだった。』

全てを失い、また廃墟のワルシャワに戻らなければならない。全てに疲れ果て、自殺したと考えられる。

エピローグ

戦争を生き延びたが、1人取り残されたヤドヴィガ。戦後の生活は一層辛いものであっただろう。生き残るための戦いにも疲れ果て、もう先へは進めなくなってしまったのかもしれない。せめてこんな美しいところで最後を迎えたのが救いだろうか。

様々な苦難の中生き延びた大叔母姉妹。彼女たちの足跡を追い、家族の中にある不屈の精神を見た。

ひとこと

もうこのエピソードは、見ていても、これを書いている間も、とても辛かったです。

まず番組の最初に出てきた、当時の家族写真。最近ちょっとこの時代のファッションがまた戻ってきているせいもあり、彼らの表情、服装を見ていると、つい最近のパーティーで撮ったように見えます。そしてコスモポリタンな街だったワルシャワの映像も、ショッピング街の店先は、今でもインスタグラムに載っていてもおかしくないような風景。

それがもう一瞬で、地獄絵図です。ゲットーの道端で倒れて死にかけている子供、女性。その横を避けて歩く人達。そしてワルシャワ蜂起を経て街が広大な廃墟となっていく姿。

今でこそ、戦争が何年に終わったか知っていますので、彼らの足跡を、なんとなく時系列に見ています。当時渦中にいた人達が、いつ戦争が終わるかなんてわかるわけもなく、とにかく先が見えない恐怖と不安の中で脱出し、潜伏し、各地を逃げ回り・・・それも叶わない人々は、その場で野たれ死に。想像を絶します。

国外に脱出するのでさえ、ただ逃げればいいわけではなく、ビザを取り、許可証を取らないといけない。でも却下が続く無限ループ。しかもそうこうしている間も、食べ物はない、ナチスは近づいてくる、となるともうそれだけで精神が崩壊してしまいそうです。

ビザのことについては、ふと杉原千畝さんの話も思い出しました。このような状況では、見ず知らずの地、日本にも頼りたくなる人がいるのも当然でしょう(この場合は通過ビザでしたが)。今だって日本に難民申請をしている人達がいます。なぜ日本?と思うかもしれませんが、もう最後の最後の頼みの綱かもしれません。

「そうだ、難民しよう」なんて言うのが少し前にありましたが・・・。今でも極限の状況で出口を見つけようとしている人々はたくさんいるわけで、好き好んで「そうだ」なんて言っているのだと思ったらちょっとあまりにも、あまりにもです。

自国を守る必要もあるんでしょうが、スイス政府がユダヤ人の入国にキャップを設けていたり、「スキルのある難民ならオッケー」・・というのも最近もどこかで聞いたような話ですね・・。大叔母さんの一家は、ある意味お金があったのでどうにか助かった部分もあるでしょう。でも無い人は・・??ああ、辛い・・。

今回のエピソードを見ながら、なぜか今の世界の状況に色々と考えを巡らせてしまいました。

戦争前、フランスがユダヤ人の住みやすい場所だった、という話はこちらでも⇩
familyhistory.hatenadiary.com


今の時代もどんどん先が見えなくなってきました・・・次回はあまり悲劇の少ないものを紹介してみようかな・・
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【俳優:アラン・カミング】インパール作戦:日本軍と戦った祖父の死の謎を追う

プロローグ

ミュージカル「キャバレー」でトニー賞を受賞、映画「X-Men」などにも出演している俳優、アラン・カミングスコットランド出身。

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By gdcgraphics - http://www.flickr.com/photos/gdcgraphics/11804333623/, CC BY-SA 2.0, Link

第二次大戦中軍人だったアランの母方の祖父、トム・ダーリン。復員後も家には戻らず、その後銃の事故で亡くなったが、実際に事故だったのか少し怪しいという。

自宅に飾られている写真でしかしらない祖父の足跡、そして死の謎を追う。

母の話

「証拠を集めに行くミス・マープルみたいな気分だな」と母に話を聞きに行くアラン。

祖父トムは1916年生まれ。2歳で両親を亡くし、叔母に育てられた。17歳でキャメロン・ハイランダーズと呼ばれるスコットランドの部隊に入隊。駐留先で祖母と出会い結婚、アランの母も含め、子供を3人もうけた。

軍人だった父はフランスやビルマに駐留していて、家にはほとんどいなかった。軍では、オートバイに乗り、本部から各部隊に命令を伝えるクーリエの役割をしていたという。

家には祖父の遺品として、オートバイの試験に合格した際にもらったビールジョッキ、従軍手帳(正直で信頼できる人物、と書かれていた)、そして勲章が残っていた。勲章はどのような経緯でもらったかはわからないという。

母が祖父に最後に会ったのは、戦争が終わった8歳の時。除隊後は、マラヤ(現在のマレーシア)で警察官となり、1951年、現地で銃の掃除をしている際、残り弾に当たって亡くなったと聞いている。

キャメロン・ハイランダー

キャメロン・ハイランダーズについて知るため、エジンバラへ向かう。

この部隊は特に隊員間のつながりが強く、家族的な雰囲気がある部隊だったという。早くに両親を亡くしたトム。もしかしたら家族のようなつながりを求めていたのかもしれない。

Soldiers of the 1st Battalion Cameron Highlanders receive instruction on a Bren gun fitted on an anti-aircraft mounting at Aldershot, 1939. H655.jpg
By War Office official photographer - http://media.iwm.org.uk/iwm/mediaLib//40/media-40043/large.jpg

This is photograph H 655 from the collections of the Imperial War Museums.
, Public Domain, Link

軍での記録では、1933年に兵站での調理を担当、高い評価を得ていた。1939年、試験に合格しメカニックに。試験は厳しい環境の中、オートバイで野山を走るもので、実家にあった記念ジョッキはその時のものだった。

1939年、部隊はフランス、ラ・バッセーでドイツからの攻撃に備えていた。しかし実際にやってきたドイツ軍の攻撃力は、見たこともないような圧倒的なものだった。イギリス軍はどんどん北部に追いやられ、最終的にはダンケルクからイギリスへ退避。

当時24歳のトムは、そのような中、自らの命も顧みず、前線にいる部隊にオートバイで情報を伝えた功績が評価され、メダルを受け取っていた。

ラ・バッセーの戦い

祖父が功績を残した状況について知るため、フランスに向かう。

ラ・バッセーにはライフル部隊が駐留、ドイツ軍が運河を渡ってダンケルクに向かおうとするのを必死に食い止めていたが、ドイツ軍の戦車が次々と現れる。

祖父はそんな中、隣町ヴィオレーヌにある本部からオートバイを飛ばし、前線の部隊にメッセージを伝えるだけでなく、機関銃や弾丸などの物資を運ぶため、何往復もしたという。

戦いの場所となったのは、さえぎるものは何もない平地で、祖父のオートバイは、まさに「射撃場に入り込んだ鴨」状態だった。武器を積んでいた箱に弾が当たれば、武器や銃弾もろとも爆発する恐れもあったが、マシンガンからの銃弾が飛び交う中を、祖父は走り抜けた。

スティーブ・マックイーンの戦争映画みたいだ、とアラン。祖父の向こう見ずなところに感嘆する。

一方で専門家は、トムは上司の命令に従うしっかりした兵隊だったということだろう、と指摘する。また長年所属する部隊は家族同然であり、前線で苦戦している仲間を見捨てておけないという気持ちもあったと考えられる。

しかしドイツの戦車部隊の威力にはかなわず、部隊の4分の3が戦死、行方不明となってしまった。トムは本部に退避、ダンケルク経由でイギリスに戻ったが、フランスで戦ったキャメロン・ハイランダー800人のうち、イギリスに帰還できたのはたった79人だけだった。

この戦闘による肉体的な疲労よりも、精神的な打撃のほうが大きかったに違いない。祖父の戦う姿はカッコよくもあるが、そのトラウマを考えるとなんとも言えない。しかし当時はPTSDなどへの認識はあまり無く、戦闘のトラウマ治療を受ける兵士はそれほど多くはなかった。特に前線の兵士は、恐怖心をコントロールし、そのエネルギーを戦いに向けるよう訓練されたという。戦場から戻れば、その時のトラウマやストレスは、そのまま自分の中で処理して、次の戦闘に向かうしかなかった。

インドへの派遣、日本軍との戦い

1942年トムはインドに送られ、ジャングルでの戦闘訓練を受ける。

ビルマ経由でインドへの侵攻を目指す日本軍は、1944年、インド・ビルマ国境のコヒマに進軍していた。トムの部隊は、斜面にいる日本軍を上から急襲する作戦に出る。

命知らずの軍隊として恐れられていた日本軍との戦いは、捕虜になれば殺される恐れもあり、戦いは非常に緊迫したものであった。

トムの従軍手帳には、5月18日に銃傷で野戦病院に収容された記録があった。左手、右ひざ、足首を撃たれていたが、専門家は、これはおそらくライフルで撃たれたのでは無く、砲撃か手榴弾などによる負傷だと推測する。戦闘の2週間後には、デラ・ダンと呼ばれる場所の病院に収容されるが、7ヶ月後には遠く離れたムンバイ近郊のデオラリ(Deolali)に搬送され、2ヶ月を過ごしている。

従軍手帳には入院の記録があったものの、軍の公式記録は、1941年までのトムの戦闘記録は残っているものの、次の記録が1946年に飛んでいた。どうもページが1枚紛失している。

イギリスの古いスラングに「doolally」という言葉がある。一時的に気が狂った、という意味で、トムがいたデオラリ(Deolali)がまさにその語源となっている。ここには軍事病院の精神病棟があったのだった。フランスで多くの仲間を失った戦闘、そして日本軍との交戦、負傷。トムが受けた精神的ダメージは大きかった。

しかし戦後も、戦争の精神的トラウマから、治療を受けたということに対するスティグマは大きかったといい、このような記録は組織立って破棄されたらしい。今でもPTSDが問題になっているのに、軍が自らそんな情報を破棄するなんて。一方で、まるで戦闘マシーンのように思えていた祖父が、より人間らしく見えてきた、とアラン。

日本軍との交戦の記憶

日本軍の戦いは、一体どんなものだったのか。退役軍人会に連絡したところ、トムと同じ部隊に所属し、彼を覚えているという人が現れた。

現在89歳の戦友は、トムが25歳の時、19歳で入隊。トムは上司だったという。当時にしては背が高かったので、「ビッグトム」と呼ばれており、大きくて強そうで、実際に強かったという。すでにフランスでの戦闘経験があり、勲章ももらっているトムは仲間からも尊敬される存在だった。

1944年5月、コヒマ北部の村で、トムたちの部隊400人は、日本軍を見下ろす位置についた。トムはその中でも前線部隊にいた。

暗くなって日本軍の銃が火を吹き始め、銃弾が飛び交う激しい戦闘が続いたという。そして激しい雷雨が起こりはじめた午前2時半、雷の閃光とともに、日本軍が二手に分かれてイギリス軍の上手に回りこみ、この世のものとは思えないような恐ろしい叫び声、そしてバンザイと叫びながら銃剣で襲いかかってきた。この急襲により、部隊は散り散りになり、105人が戦死・負傷・行方不明となった。トムもこの間に負傷したようだ。

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By Official photographer of No.9 Army Film and Photographic Unit. -
This is photograph IND 3698 from the collections of the Imperial War Museums (collection no. 4700-38)
, Public Domain, Link

戦闘のトラウマが祖父にあったと思うか?とのアランの問いに、戦友は、あの時代にはそんなものはなかったんだよ、というより、あっても気づかなかった。自分もそんなものはないと思っていた。でも自分も戦争から戻り、夜中に上官の名前を叫んで妻に起こされたり、子供が後ろに回り込んで驚かそうとするのに過剰反応して子供を怖がらせたりした。ストレスが無かったわけではなかったんだよ、と目に涙をためて答えた。

その後トムはイギリスに戻り、家族と再会するが、それが最後だった。帰国後は4年間、軍で事務職についていたが、その後も家に戻ることはなかったという。

マラヤへ

1949年、トムはマラヤの警察官になる。除隊し、家族と別れてからは、バイクの部品販売の会社に就職したが、それは1年と持たなかった。戦場での生きるか死ぬかの生活から、穏やかな郊外の暮らしには馴染めなかったようだ。

警察官になる申込書の婚姻欄は「別居中」となっていた。実際、海外からの帰還兵が普通の生活に戻れないケースは多く、軍でも問題になっていた。トムは家族への送金は絶やさなかったが、その後子供に会うことはなかった。

当時イギリスの植民地だったマラヤ(現在のマレーシア)でトムは警部補となった。独立の機運があがるマラヤでは、1948年ごろから共産党ゲリラによる植民地攻撃が激しくなっていた。

共産党と現地の人々のつながりを断つため、植民地政府は、新しい村を建設、約50万人を強制的に移住させた。村には物資が支給されたが、周りはワイヤで囲まれるなど、共産党ゲリラと接触できないようになっていたという。

トムはこういった新しい村のパトロールを行うと同時に、村人達からの信頼を勝ち取る必要があった。しかしマラヤ赴任後7ヶ月で、トムは35歳の若さで亡くなった。

死の真相

クアラルンプールに飛ぶアラン。

マラヤで発行された死亡証明書を取り寄せる。死因は頭部の重傷。司法解剖の結果、右耳の後ろから銃弾が入り込んでいたという。そんな風に銃を掃除するとは考えられないし、自殺するにも不自然な位置。もしかして、誰かに撃ち殺されたのでは・・と言ったところで外で大きな雷が鳴る。

トムが赴任していたチャーという村へ向かう。

ここは当時ゲリラ活動のホットスポットで、警察によるパトロールが昼夜行われていた。

当時同じ警官隊にいたイギリス人に話を聞く。トムは村の警備を担当していたが、彼の役割はジャングルを見回り、共産党員がいれば捕まえて殺す、というものだった。殺した遺体は村に持ち帰り、駐在所の前に並べて晒したという。

The Malayan Emergency 1948-1960 MAL35.jpg
By British official photographer - http://media.iwm.org.uk/iwm/mediaLib//55/media-55381/large.jpg

This is photograph MAL 35 from the collections of the Imperial War Museums.
, Public Domain, Link
マラヤ警官による「パトロール

遺体の身元確認のためであったが、共産党員に関わらないよう、見せしめの意味もあった。村の警備担当だったトムであるが、駐在所の前に死体が並べられると、その後処理は彼の担当だったという。

トムが亡くなった時、自分はその場にはいなかったが、と死の真相を語り始める同僚。

「彼は死ぬつもりは毛頭なかったとは思うが、ロシアンルーレットをやっていて死んだんだ。」

特にロシアンルーレットが現地で日常茶飯事に行われていたわけではないが、トムはしょっちゅうこれをやっていたらしい。自分でも公言していたし、地元の人達も知っていた。慣れた人なら、ピストルの感覚で弾がどこにあるかわかるのだと、地元のコーヒーショップで地元の人から金を集め、ギャンブル的にやっていたようだ。

この時ばかりは注意が足りなかったのか、運が尽きたのか、両方か。と語る同僚。あまりの予期せぬことに文字通り言葉を失うアラン。

地元の人々の愛情

トムのことを覚えていた地元の人に会うアラン。父親がマレー人コミュニティのリーダーで、トムと親しかったという兄弟。当時トムは尊敬の念を込めて、「トワン・ダリン(ダーリン、トムの苗字)」と呼ばれていた。毎日村中をパトロールする時は、子供たちが「トワン・ダリン!トワン・ダリン!」と手を振るなど、村人たちからは愛されていたという。

マレーシアにはマレー人、インド人、華人コミュニティがあるが、これらのコミュニティのリーダー達皆んなで飲みに行くなど、7ヶ月の駐在期間ではあったが、地元の人々の心を掴んでいたようだ。

トムが亡くなった後、地元の人達は街の遊歩道に「ダーリン・ウォーク」とトムの名前をつけて、敬意を表したという。「ダーリン・ウォーク」を訪れるアラン。

そこは公園の中にある遊歩道で、大きな看板も建てられていた。彼が亡くなったコーヒーショップも現在公園になっている敷地内にあった。

ロシアンルーレットというショッキングな亡くなり方をした祖父。一方で地元の人達が祖父に尊敬と愛情の念を抱き、地球の反対側で、彼を記念したこんなものを作っていてくれたなんて、と感動するアラン。トム・ダーリンはきっと疾風のように人生を最大限に駆け抜けた人だったんだと思う。

トムの最後と残された家族

ロシアンルーレットで亡くなったのは本当なのか、クアラルンプールのナショナル・アーカイブで公的記録を探す。

ファイルから出てきたのは、祖父が亡くなった日の警察の電報。そこにはパトロールから戻ったトムがコーヒーショップに行き、同僚警官に銃を貸すよう要求、銃弾を5つ抜き、シリンダーを回して自分の耳の上に当て、引き金を引いた、という報告が書かれていた。証言は本当だった。

祖母に祖父の死を知らせる手紙も残っていた。そこにはレボルバーを触っていた時の不慮の事故で亡くなった、と書かれていた。

そして、子供たちが父親を覚えておけるようなものが何もないため、遺品をぜひ送ってほしいという祖母からの手紙。

そして次の書類には、祖母宛てに遺品を送ったが、引き取り料金の4ポンドを祖母が払えないため、1年もの間荷物がリバプールの港に留め置かれている、と書かれていた。読みながら涙ぐむアラン。

その後家族は荷物を引き取ることができたが、祖父の死因が死因だったため、警察からの金銭的支援はこれで途絶えたという。

エピローグ

彼の生き方、戦場での経験を考えると、このような死に方をしたことはあまり驚かない。今も昔も、命を投げうち戦う兵士に対する感謝や尊敬の念を人々は持っているとは思うが、兵士が払う代償ー戦場でのトラウマやストレスを引きずって生きていかなければいけない、ということに人々はあまりにも無知ではないだろうか。祖父の人生は、まさに戦争のトラウマが生み出した悲劇だったように思う。

事実を知るのは辛いが、知らない方が辛いこともある。

ひとこと

まるで映画でも見ているようなおじいさんの人生。でもやはり大きなテーマは、戦争によるトラウマがその後の人生にどれだけ影響するか、ということ。帰還兵のPTSDについては、現在も十分な理解を得られていない部分もあり、兵士の仕事はリスペクトされている、と口ではいうものの、その後の社会適応に関する問題や支援はまだまだな部分も多いと感じることも多々あります。

俳優パトリック・スチュワートのお父さんも戦争でのPTSDに悩まされ、それが家族に大きな影響を与えていました。

第二次大戦後の日本でも、きっと似たケースは多かったのではと思います。生きるか死ぬかの状況を経験してきたのに、まるで何もなかったかのように日常が流れている環境に戻る・・というのはとても孤独で辛いものでしょう(とはいえ、敗戦国日本ではまるで何もなかったような日常とはいえず、今度は焦土からの復興、と国を立て直すことを頑張らないといけなかったので、また戦勝国敗戦国の帰還兵は状況がちがったかもしれません。逆に打ち込めることがあったほうが、よかったのかどうか・・)。

今回のエピソードでは、生き証人からの話を聞く場面が多かったですが、最後にちゃんと公的書類や記録にもあたって、その真偽を確かめていました。今でもちゃんと、おじいさんがなくなった時の警察と遺族のやり取りが残っているのは驚きでした。日本でも「ファミリーヒストリー」という番組をNHKでやっていますが、情報をかなり証言や記憶に頼っている部分も多いかな、という印象を持っていました。しかし先日放送していたオノ・ヨーコさんの回では、家族の間に伝わっている曾祖父母のあまりにドラマチックな出会いについて、古文書をあたってその真偽を確かめる場面があり、少し改善されたのかな、と思ったりもしました(話が少し飛びました)。

日本軍と交戦した話、これはインパール作戦と呼ばれているものの一部だったんですね、「コヒマの戦い」で調べると日本語でも、日本側の証言や情報が色々出てきて興味深かったです。イギリス側から見ると、日本の兵士はかなり恐ろしい存在として捉えられていて、戦友の証言でも、とにかく日本の兵士がこの世のものとは思えないような甲高い恐ろしい声をあげて襲ってくる、というのがかなりのトラウマになっていたようでした。

でも実際日本側の証言を見てみると、このインパール作戦というのはかなり無謀すぎるものだったらしく、日本軍の兵士は飢えに苦しみ、戦闘とは関係ないところでも多くの犠牲者が出たりと、かなり過酷な状況だったようです。そんな中での戦いは、ほぼ捨て身のものだったようでした。

双方の視点から見る戦い、勝っても負けても兵士は不幸。としかいいようがありません。

最後はロシアンルーレットで亡くなったおじいさん。多くの戦友を失い、自分の命の重さも、もうわからなくなってしまったのかもしれません。

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テーマごとに見る、世界のファミリーヒストリー(随時更新)

エピソードによっては、似たテーマを追っていることもよくあります。全てではありませんが、ここではその中から、共通するテーマを持つエピソードをご紹介します。随時更新予定です!

父母、祖父母など肉親の足跡を追うシリーズ(一番泣けます)

小さいとき亡くなった父の本当の年齢に衝撃!

家族を捨てて蒸発した祖父の足跡を追う

祖父の最初の妻と子供たちの悲劇

過去を全く話さなかった父親、驚きの過去
familyhistory.hatenadiary.com

ユダヤ人迫害と迫害からの逃亡の歴史

ドイツによるホロコースト以前からあったユダヤ人迫害の歴史がわかります


意外すぎる先祖

イケメン首相にアジア人の先祖

エアロスミスの先祖、実は・・・!

第二次世界大戦

イギリスのシリーズは、やはりフランス戦線の話が多いです

犯罪がらみ



奴隷の歴史

アメリカの奴隷の歴史

カリブ海の奴隷の歴史

【司会者:アニータ・ラニ】祖父のもうひとつの家族、インド・パキスタン分断の悲劇

プロローグ

アニータ・ラニはイギリスのジャーナリスト、レポーター、テレビ番組の司会者。

http://i.telegraph.co.uk/multimedia/archive/03511/anita_rani_3511870k.jpg
telegraph.co.uk Photo: Andrew Crowley

イギリス、ウエストヨークシャーで生まれ育ったアニータ。自分は伝統的なインディアン・ガールではないと考えている。

小さい時から、「女の子だから」してはいけないことがある、ということにいつも疑問を持っていた。

母の家族はパンジャブ州出身のシーク教徒だが、自分は英国教会の学校に通った。様々な宗教に触れた上で、今は無宗教だという。

母方の祖父の名前は、サン・シン。ターバンを巻き、ヒゲを生やし、完全にシーク教徒の格好をしている写真が残っている。

サン・シンは祖母と結婚する以前に一度結婚していて、子供もいたようだ。

しかし「パーティション」、インド・パキスタン分離独立の混乱で、最初の妻も子供も亡くなった、という話を聞いたことがある。が、それ以上のことは誰も知らないようだ。第一、パーティションの頃の話など誰もしたがらないのだという。

自分が生まれる前に亡くなったこの祖父について、もっと知りたい。

誰も知らないサン・シンの過去

ママジー(母方のおじさんの呼び名)の家に両親、親戚が集合して、祖父サン・シンについて話し合う。

祖父母が結婚したのは1948年。軍人の祖父の写真や、インド独立を記念した軍のメダルも見つかった。

サン・シンは今のパキスタンで生まれたと思うが、何年に生まれたか、誕生日を誰も知らない。

また最初の妻や子供の名前も、誰も知らなかった。

確か息子がいたと聞いているが、パーティションの際に息子は殺され、妻は井戸に身を投げたと聞いているという。

入隊記録からわかったこと

インドに飛ぶアニータ。

まずは祖父の軍での記録を調べに、首都ニューデリーへ。

家族が持っていた祖父の写真は、カシミールの軍事訓練学校で撮ったものだった。その後、サン・シンは26歳で英印軍(イギリス領インド軍)に入隊している。

入隊記録からさらに色々な情報が明らかになる。生まれたのは1916年。

そして父の名前はデルー・ラム。

なぜか苗字が違っていた。

また入隊前、モントゴメリー地区の運河局に勤務していたこともわかった。

イギリス風の地名であるが、今はパキスタンにある地域だったという。妻や子供もここに住んでいたようだ。

1947年、長年イギリスの植民地だったインドが独立を宣言。

同時に、ヒンズー教徒が主体であるインドと、イスラム教徒が主体であるパキスタンに、国は分裂した。

この「パーティション」により、パンジャブは、インド、パキスタンの二つに分断されてしまった。

パーティションが起きた時、サン・シンはボンベイの南、カーキーというパンジャブ州からは遠く離れたところで勤務していたが、残された家族は分断の混乱の真っ只中にいたと考えられる。

おじからの小包

インドに住むおじから小包が届く。中に入っていたのは、祖父が綴った手書きの自叙伝だった。

そこに書いてあった祖父の名前はサン・シンではなく、サン・ラム。

そして父の名はデルー・ラム、母はドゥンディー。

母ドゥンディーは、サン・シンが子供の頃に、村を襲った伝染病で亡くなったという。

村の名前はサルハリと言った。

家族の間では、パキスタン側で生まれたと思われていたサン・シンであるが、実はインド側にあるパンジャブの村出身であることがわかった。

一族の村へ

サルハリ村に向かうアニータ。

子供の頃からこのエリアにはよく遊びに来ていたというが、祖父の生まれた村に行くのは初めて。

村を襲った伝染病は、一体なんだったのか。サルハリ村で専門家から話を聞く。

第一次世界大戦の終わりごろ、「スペイン風邪」と呼ばれるインフルエンザが大流行した。このウィルスは戦争中、塹壕の中から広まり、1920年頃には、5000万人の死者を出すなど猛威を振るった。

ヨーロッパで第一次大戦に参加していたインドの軍隊が地元に戻り、インドにもこのウィルスが広まった。

当時の記録によると、病院では遺体を処理する暇もなく次々と人が亡くなったため、外も遺体や瀕死の病人でいっぱいになったという。これにより、インドでは1400万人もの死者が出た。

サン・シンの母もこのスペイン風邪の犠牲になった。

さらに驚くことに、サン・シンはもともとヒンズーの家庭に生まれていた。

しかしこの地域では、長男はシーク教徒にする習わしがあり、サン・シンもシーク教徒となった。その際「シン」というシークの苗字に変えたようだ。

Indian sikh soldiers in Italian campaign.jpg
By Loughlin (Sgt), No 2 Army Film & Photographic Unit -
This is photograph NA 11188 from the collections of the Imperial War Museums (collection no. 4700-39)
Version retrieved from sikhnet.com, Public Domain, Link
第二次大戦中イタリアの前線で戦うシーク教徒の兵士

また軍の記録には、彼のカーストは「ジャート」と書かれていたが、本当は壺などを作る陶工カーストである「タガー」の出身だという。

陶工だと軍人として箔がつかないので、農耕と軍人の背景があるジャートの出身だと嘘を書いたらしい。

アニータの親戚に当たるタガー一族が村に集まってくれた。一族の長ハージンダの祖父と、アニータの曽祖父がいとこ同士だという。村をあげての歓迎を受けるアニータ。

サン・シンが軍から村に戻ってきた時はまだ子供だったというハージンダ。パーティションの時、最初の妻、そしてサン・シンの父もパキスタン側にいて、そこで亡くなったと聞いてはいるが、妻や子供の名前を含め、詳細は知らなかった。

モントゴメリー地区への移住

サン・シンが入隊前にしていたモントゴメリー地区の仕事とは、一体何だったのか。

パンジャブとは5つの川、という意味で、その川に囲まれた地域の一部が、当時モントゴメリー地区と呼ばれていた。

イギリスの植民地政府はこのパンジャブ地方に9つもの運河を作り、実に600万エーカーの土地が灌漑する一大事業を行った。これにより多くの人々が、より良い暮らしを求め、この地域に移り住んだという。

Bhakra Main Canal.JPG
By Zenit - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

一方で、そこに住む「ジャングリー(未開の民)」という蔑称で呼ばれていた遊牧民系の人々は土地を追われることとなった。

妻を亡くしたサン・シンの父も、モントゴメリー地区に移住、商人として成功。村に残っていたサン・シンを呼び寄せ、教育も受けさせた。その後サン・シンは20歳で結婚し、運河での仕事も得るなど、順風満帆の生活を送っていたのであった。

第二次大戦が始まると、イギリス植民地政府は、英印軍への入隊希望者を募る。すでにカシミールで軍隊教育を受けていたサン・シンも入隊した。

そして電気技師部隊に所属していたサン・シンは、パーティションが起こった時にはインド南部に派遣され、家族とは離れ離れになっていたのだった。

インド・パキスタン分離独立(パーティション)とは

1947年、インドは独立を宣言する。その2日後に、イギリス政府はパキスタン、インドの国境を設定した。これにより、たった一晩でモンゴメリー地区はパキスタンになってしまった。

自分の居住地がイスラム教徒の支配下に置かれてしまったサン・シンの家族。

パーティションにより、彼らだけでなく、イスラム教徒、ヒンズー教ともに、それぞれ異なる側に置き去りにされてしまった人達が大量に生まれた。

さらにヒンズー教徒、イスラム教徒間での暴力的な衝突が多数発生した。特にモントゴメリー地区は、ヒンズー教徒に対する襲撃が最初に起きた場所だったという。

パーティションの悲劇

シーク教徒の聖地、アムリトサルに向かうアニータ。

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By Msdstefan, CC BY-SA 3.0, Link

ここで、当時を経験した84歳の老人に話を聞く。

彼の父は村の長であり、息子が6人、娘が2人、そして孫も多数いた。パーティションが始まり、村にイスラム教徒がやってきて、家族の中から女性を差し出せば、家や他の家族には手出しをしないと要求してきた。

しかし彼の父親や村の男性達は、村の女性がそんな辱めを受けるくらいならば、自分たちの手で妻や娘達を殺す、と、大きな剣を手に持ち、娘達を一人一人呼んだという。娘達は黙って父の横に座り首を差し出し、斬首された。

この他にも、近くにあった井戸に80人以上の女性が飛び込み亡くなったという。あまりに多く飛び込んだため、15分で井戸は死体で一杯になったという。その間、子供と息子達は、無傷であった。

あまりのショックな話に涙を流すアニータ。

村の男性達の判断に大きな怒りを感じる。女性の運命を男性が決める世界に憤りも感じる。また同時に、そういう判断を受け入れ、自分から井戸に飛び込んだりする女性の勇気にも驚く。とにかく自分は今すごく混乱している、と語る。

このパーティションは、1400万人が避難する、世界最大の強制移動となった。

パキスタン側に残されたヒンズー教徒はインドへ、インド側に残されたイスラム教徒はパキスタンへと逃げた。

今までとなり同士生活していた人達の間に敵対関係が生まれ、それぞれ襲撃しあい、100万人もが犠牲になった。

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Fair use, Link
インドからパキスタン側に逃げるイスラム教徒

その中でも女性に対する扱い、被害は恐ろしいものであったが、長年その詳細は語られることはなかった。が、最近になって少しずつ表面化されてきたという。

当時を回想する手記が残っている。

パーティションでは、レイプされたり誘拐されるよりはと、多くの女性が自殺した。それは勇気ある行動、家族や村のために崇高な犠牲を払った、とも言われるが、それは男性視点での話である。ヒンズー教徒達は、自分たちの娘を井戸に投げ入れたり、生き埋めにするものもあった。焼き殺されたり、感電死するよう、電線をつかまされた者もいた。レイプされ、顔がわからなくなるまで乱暴され、そのまま放置された女性も多かった。そんな女性を見て、家族達は助けないどころか、今後どうしたら良いかわからない、こんなことなら生まれてこなければ良かったのに、と言った」

このようなことは、一部の村で起きたわけではなく、いたるところで起きていたという。

たった2世代前にこのようなことが起きていたことを知り、血が煮えたぎる思いにかられるアニータ。

これでは、女性より牛だったほうが生き延びる確率は高かったのではないだろうか。

サン・シンの家族

軍のアーカイブをさらに調べたところ、サン・シンの家族の情報が明らかになる。

妻の名前はプリタム・コー。パキスタンでの動乱の際死亡、と書かれていた。そして息子の名前も確認できた。

さらにサン・シンには娘もいた。名前はマヒンドラパーティションの時6歳だったようだ。今まで話にさえ出てこなかった娘の存在に驚くアニータ。

あまりにも色々な情報が出てきて、何かはわからないが、自分の中で何かが変わった気がする。思いもしなかった話を色々聞いて、芯からショックを受けた。今まで聞いたことを、自分の中でどう処理すればいいのか。様々な思いにかられるアニータ。

祖父が昔を語らなかったのも理解できる。話すと言ってもどこから話して良いかもわからなかっただろう。でも知ったからには、彼の子供である自分の母やおじおばたちにも知らせたい、と思う。

情報はここにあった、でも誰も聞かなかった

1948年、サン・シンはアニータの祖母と再婚。6人の子供をもうけ、パンジャブ地方東部の村に住んだ。今も長男であるおじがそこに住んでいる。

おじに会いに行くアニータ。

今までにわかったことをおじに話すアニータ。おじも自分の父親に以前娘がいたことは知らなかったと驚く。

しかし、息子のことは聞いていたという。

息子の名前はラジ。何と写真も持っていた。色あせた小さな子供の写真は、サン・シンが持ち歩いていたものだという。周囲に誰もいない時などに、取り出しては見ていたようだ。

さらに妻の写真も残っていた。

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ノーベル賞受賞したマララさんにそっくりにみえるんですが・・

一度だけ聞いた話によると、馬に乗って避難中、地元のジャングリー(土着の住民)が投げた槍がまず子供であるラジに当たったのだという。それから一緒に馬に乗っていたサン・シンの父が引きずり降ろされ、殺された。

この話はおじが7、8歳の時に聞いたという。「私はおじいさんの謎を追うためにずっと旅してきたというのに、おじさんは知っていたのね。でも何で今まで教えてくれなかったの?」という問いに、「だって誰も聞かなかったからな」と答えるおじ。

1975年、アニータが生まれる数年前に、サン・シンは亡くなった。

エピローグ

祖父の息子ラジや、最初の妻プリタム・コーの写真を見る事ができたのが特に素晴らしい経験だった、とアニータ。最初の妻の写真を見て、何か不思議なつながりを感じた。マヒンドラの写真がなかったのは残念だったが、その存在を知る事ができたのは何より良かった。

ガンジス川のほとり、ヒンズー教の聖地であるハリッドワーを訪れるアニータ。

Haridwar Ganga 6.JPG
By Julian Nyča - Own work, CC BY 3.0, Link

インドでは、巡礼の際、聖職者のところを訪れ、家族の記録を残してもらう事が習わしとなっている。今回わかった祖父の最初の家族の死について記録してもらうため、アニータも聖職者のところに向かう。

村の名前ごとに管理されている大きな巻物には、何百年という家族の情報が記されている。

見てもらうと、1948年、再婚する数ヶ月前にサン・シンがすでにここを訪れ、パーティションで亡くなった家族の供養してもらっていた事がわかった。

サン・シンの次に訪れたのがアニータ。サン・シンの2番目の家族、自分の母やおじ、おばの情報を代わりに登録してもらう。

祖父がどんな人だったのか、ここからもよくわかる、とアニータ。最初の家族が生き延びていれば、自分は生まれる事がなかったことを不思議に思う。でも歴史は自分を通じてもまた続いていくことは、素晴らしい。

ひとこと

今回もあまり日本では知られていない、イギリスの有名人のエピソードをご紹介しました。

その個人を知らなくても、このようなエピソードを見ると、今までなんとなく覚えていたインド、パキスタンの分断の歴史が、よりパーソナルに見えてきます。そしてもっと色々知りたくなります。

インド人というと、ターバンを巻いた、というイメージがまだ強いでしょうか。しかしこれは北部パンジャブ地方のシーク教徒という少数の人達の習慣です。彼らは神様からもらった毛を切ったり剃ったりせず、ターバンでまとめます。また背が高く、体格が良く、兵士といえばシーク教徒、というイメージもあります。

またヒンズー教とは違い、カーストに寄る差別がありません。シーク寺院に行った事がありますが、お祈りのあとは皆で集まりご飯を食べるのも特徴で、これも階級に関係なく皆で平等に食事をする事を大事にしているからだそうです。

ヒンズー教徒の一家からシーク教徒を出す慣習があるというのは初めて聞き、面白いなと思いました。でも実は日本人でも希望すればシーク教徒になれるそうですよ。

それにしても、宗教は人を救う面がある一方で、同じくらい問題を引き起こしますね。さらに、辱めをうけるぐらいなら・・と自らの家族の手で殺される女性の話は、恐ろしいものでした。男性が全て主導していた世界だったとはいえ、亡くなった息子のことは家族の中に伝えられていても、娘の存在は完全に忘れ去られていたのも不憫でした。

でもこういう話、昔の日本に置き換えても、ありえますね。戦国時代だけでなく、それこそ第二次大戦中だって、ありましたね。

それが当たり前、当時は仕方ないこと、と思ってはいけません。

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【俳優、脚本家:マーク・ゲイティス】マイクロフト・ホームズ俳優のルーツ:一族の土地を取り戻したアイルランドの先祖

プロローグ

人気ドラマ「Shirlock」でシャーロック・ホームズの兄、マイクロフト・ホームズを演じる俳優マーク・ゲイティス。その他「ドクター・フー」への出演や、シャーロックをはじめ様々な脚本も手がけている。

Mark Gatiss by Gage Skidmore.jpg
By Gage Skidmore, CC BY-SA 3.0, Link

自分のキャリアは、「体育に対する一大リベンジ」だというマーク。体を動かすことが好きでなかった彼であるが、友人とホラー映画について話すことは大好きだったという。

そんなマークは、母方にアイルランドのルーツがあることに、ある意味執着とも言える興味を持っているという。先祖がアイルランド王だったらいいんだけどな!と冗談を言うマーク。

母方のルーツを探る

マークの母はすでに亡くなっているため、父を訪ね、古い写真や書類を見せてもらう。

母方の祖父、ジェレマイア・オーケイン(O'Kane)は母が生まれた翌年に亡くなったため、母も自分の父親やその家族のことは知らずに育ったという。

祖父はアイルランド北部出身。医者として開業するため、イギリスに移ってきた。写真の祖父は鼻がマークそっくり。この鼻は母方の血であるらしい。

祖父はベルファストクイーンズ大学で医学を修めていた。

Queen's University of Belfast, Lanyon building, May 2006.jpg
By Fasach Nua(talk) - Fasach Nua(talk), Public Domain, Link

ベルファストに向かうマーク。クイーンズ大学の学籍簿に祖父の名前を見つける。

また祖父の出生証明書から、曽祖母の名前がマーガレット・オーケインであることがわかった。

1939年の、マーガレットの死亡広告記事が見つかる。マーガレットの旧姓はオームラン(O'Mullan)といい、アシュランマドフ(Ashlamaduff) という地域の大地主だったジェレマイア・オームランの娘である、と記されていた。

大地主だった先祖

当時の土地の記録を調べてみると、高祖父ジェレマイア・オームランは、1880年代に700エーカーもの土地を所有していた(東京ドームでいえば、66個分)。イギリスの支配下にあって、数少ない、最大のカトリック系の地主であった。

若い頃のジェレマイアの写真も見つかる。ここでも同じ鼻の先祖の登場に、この鼻、何世紀も呪われてたのか!と笑うマーク。

ジェレマイアの妻の旧姓はオーケイン。先祖ごとにオーケイン、オームラン同士が結婚しているようであるが、実はこの2つの苗字がこの地域には非常に多いらしい。

土地所有に関する書類も確認する。ジェレマイアの父、ジョージ・オームランもアシュランマドフに住んではいたが、その土地の所有者ではなく、小さなロットを借りているにすぎなかった。

息子ジェレマイアは一体どうやって大地主になったのか、謎である。

北アイルランド、イギリス侵略の歴史

アルスター(Ulster)と呼ばれる北アイルランド一帯は、1600年代初頭、ジェームス一世の時代のイギリスに侵略されている。

イギリスは地元の族長達から土地を奪い、ここをプロテスタント支配下とし、イギリスからの「入植」を進めた。

しかしその中でも、マークの先祖がいた地域は特に入植しにくい厳しい場所であったらしい。当時の記録によると、この地域は非常にゲーリック色が強く(ゲール語を話すなどアイルランド色が強かった)、鬱蒼とした森には狼や、盗賊もいたという。

イギリス政府は、「リヴァリ・カンパニー(livery company)」と呼ばれる団体に入植支援を依頼している。リヴァリ・カンパニーは大工や商人、魚屋など、職業別のギルド、同業者団体が法人化したもの。

政府は土地に住む地元のアイルランド人を追い出し、リヴァリ・カンパニーによる土地の所有、管理、入植を進めさせた。当時、地元アイルランド人が所有する土地は10%ほどしかなかったという。

リヴァリー・カンパニーは、アイルランドへの入植者を募るが、その厳しく敵対的な環境からうまく行かず、結局ジョージの時代、これらの土地は地元民に貸し出されていた。ジョージはその中でも、「グラック」と呼ばれる土地を借りていた。


現在のグラック。通り名しか残っていないが100人ほどが居住しているという

当時のグラックについて記録が残っていた。

「グラックは苔と山しかない場所で、ローマンカトリックしか住んでいない。耕作可能だった平地の賃貸契約が終わってしまった後、彼らはこの寒くて何もない、グラックの山間部にに追いやられた。入植以前、この地はオーケイン一族が支配していた。また山の麓はオームラン一族のものであった」

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Photo © John Naylor (cc-by-sa/2.0)
グラックの近くにある森

なんと、自分の先祖はジェントリー(地主)だったのか!と喜ぶマーク。アイルランドでは、このような地主はもともと王だったという。

しかし一族の長は皆「王」だったので、アイルランドには王が200人はいたと聞き、それは多すぎるな!とマーク。

実際に地域を車で走っていると、オーケイン、オームランの名がついた店の看板をたくさん見かける。この土地の王に返り咲くには、親戚をずいぶん倒さないといけないようだな・・とマーク。

地主と地元民の間にいたジョージ

ジョージが借りていた土地を訪ねる。

ジョージの妻はブリジット・オーケイン。ここでもまたオーケインの名前が出てきて笑うジョージ。

子供は8人いたが、彼が借りていた土地は家族を十分養えるほど豊かではなかった。

ジョージはロンドンの魚屋によるリヴァリ・カンパニー、Worshipful Company of Fishmongersから土地を借りていたが、家計を助けるため、同時にこの会社に雇われてもいた。

地主であるリヴァリ・カンパニーは、この土地を主に放牧に使っていたが、高地の痩せた土地を借りている地元民達が、十分な牧草が無くなると会社の土地に牛を連れてくるのを嫌っていた。

ジョージはこのような地元民が入り込まないよう土地を管理、また土地の賃貸料を地元民から徴収する仕事を任されていた。

1820〜30年代には人口が増加し、人々の暮らしはより苦しくなった。このため、土地所有者と地元民の間での緊張は高まっていった。

この頃、「キャプテン・ロック」と名乗る地元民たちのグループが、ジョージのような土地管理人に暴力的制裁、時には殺人を行うケースも多かったという。

実際にジョージも1827年、管理地に侵入してきた地元民の牛を捕らえた仕返しに、家を焼かれる被害にあっていた。

抑圧されていた地元の人たちのことを考えると、複雑な気持ちになるマーク。ジョージは地主、地元民の間に挟まれ、難しい立場にあったと言える。

ストーリーテラー、ジョージ

ジョージはもしかして村八分にされていなかっただろうかと心配になるマーク。

当時、北アイルランドの測量調査を行うプロジェクトが進んでおり、ジョン・オドノバンという人物が、この地域を調査していた。

彼がロンドンに書き送った手紙に、ジョージが登場している。

オドノバンは地域でももっとも「ワイルド」な場所であるグラックでジョージに出会う。ジョージは非常に聡明な人物で、アイルランド語をはじめ、この地域のことを色々と教えてくれたという。

手紙にも、ジョージから教えられた情報が書かれていた。これだけ色々と地元の情報に詳しかったということは、地元の人達と距離があった、ということでは決してないと思う、と専門家。

アイルランドの歴史は口承の歴史でもある。オドノバンはそのような情報も集めており、ジョージは彼に自分の先祖の武勇伝「オーケインの運命」という話をし、その内容も手紙に残されていた。

おそらくこれ以外にも、もっと色々な話をしたに違いない。脚本家でもあるマークは、先祖にストーリーテラーがいたことを喜ぶ。

地元の吸血鬼話

地元の民話研究者に話を聞くマーク。口承で歴史や事実を伝えていく伝統は、話が大きくて面白いほど長く伝わっていく。そのせいか、この地域には妖怪やモンスター的な話が多く残っているという。

ホラー映画好き、吸血鬼好きなマーク、オーケイン一族が関係している吸血鬼(アイルランド語でデルグデュール)の話が載った本を手渡される。

話の舞台となった夕暮れの丘の上に行き、本を開くマーク。

アバタック王の恐怖政治に疲れた民が、オーケインの王に暗殺を依頼する。アバタック王は殺され、一族の長の埋葬方法として、立ったまま埋葬されたが、翌日生き返って生き血を求めてきた。

聖職者に相談したオーケインの王は、吸血鬼と化したアバタック王が生き返らないよう、特別な木でできた剣で殺し、逆さに埋葬し、その周辺をイバラで囲い、上に石を置いたという。今でも地元の人は、夜、この場所には近寄らないという。

きっとジョージもこの話を知っていただろう。そしてオドノバンにも語ったかもしれない。

子供の頃ホラー映画の見過ぎかもしれないし、あまり美化してもいけないとは思うが、自分のストーリーテラーとしての血がどこからか来ているかと考えると、やはりここなのかもしれないと思う、とマーク。

ジョージのその後、大地主となった息子

ジョージのその後を追う。

1836年、ジョージは厳冬で15頭の牛、そして馬を失っていた。状況を立て直すため借金をし、さらに土地を借りていた。

しかし1845年、アイルランドをジャガイモ飢饉が襲う。ジャガイモの不作がきっかけとなった飢饉で、実に100万人が亡くなり、多くの人々がアイルランドを後にした。

ジョージの息子5人のうち、4人はニューヨークやオーストラリアに渡ったが、ジェレマイアだけが地元に残った。

ジョージは1852年にはグラックの土地を手放し、1861年にはアシュマンラドフで亡くなっている。

ではなぜどうやってジェレマイアは大地主になったのか。

1875年、オーストラリアに移民していた兄が亡くなる。現地で成功していた兄は、現在の価値で5700万円ほどの遺産を残しており、その一部を弟、ジェレマイアが受け継ぐことになった。

1891年、ジェレマイアがアシュマラドフの土地を買った時の文書が見つかった。兄からの遺産で、他の良い土地を買うのではなく、もともと一族の土地だった場所をイギリスから買い戻したのであった。

アシュマラドフへ

この土地って、僕の?と聞くマーク。

実際は彼の親戚、ジェレマイアのひ孫であるベティー・アンという女性が所有者となっていた。

ティー・アンに会うマーク。彼女の息子もやはり同じ鼻をしているという。

ニューヨークで生まれた彼女であるが、家族はアイルランドに戻り、アシュマラドフで育ったという。

今はこの土地はオームラン家のいとこに貸しており、農場はまだ運営されていた。

今は廃屋となっている、彼女が育った家を見るマーク。

家族はオーストラリアやニューヨーク、色々な場所に散っていったが、この土地、この場所に戻りたい、という気持ちがとても強いことを感じた。

ジェレマイアも、この地で1908年、75歳で亡くなったという。

エピローグ

この地の「王」であった先祖。その土地を奪われ、土地から追いやられ、そしてその土地を取り返す・・。まるで西部劇のようだ。アイルランドが舞台の西部劇の映画を作ろうかな、とマーク。

この旅は本当に楽しかった。またここに戻ってきたい。次は軍隊を連れて自分の王国の一部を取り戻すとしようかな。

ひとこと

気がつけば、シャーロックのキャストの人も何人かこの番組に登場していましたので、ぼちぼちご紹介します。

マイクロフト役のマーク・ゲイティスの回は、結構地味な内容、でもアイルランドのディープな歴史を知ることができる回でした。

今でもアイルランドの北部の一部だけイギリスですが、彼が言うように、地元のアイルランド人から入植者が土地を取り上げ、彼らがどんどん痩せた土地に追いやられる・・というシチュエーションは、西部劇と言いますか、ネイティブアメリカンが経験した、アメリカ入植の歴史を彷彿とさせる部分もありました。

それにしても、アイルランド訛りはよく聞かないと時々よくわかりません(笑)発音と言うよりイントネーションが微妙に違うので、一瞬「今のは英語だった?」と思うようなことも。

またアイルランドの地元の言葉、ゲール語も英語とは全く違います。発音も喉から出すような音があってカタカナ表記がほぼ不可能だったり、土地名も、英語読みとは微妙に異なったり。

そしてアイルランドというと、やはり不思議な民話、何か神秘的なものがたくさんある・・というイメージは実際にあります。それこそ、セントパトリックスデーに登場する緑の小さいおじさんもその一つですね(笑)小さい時からホラー映画が大好きだったというマークさんが喜ぶのも頷ける感じでした。

シャーロックのキャストのファミリーヒストリー、こちらもどうぞ(残念ながらカンバーバッチさんはまだ登場していません)

familyhistory.hatenadiary.com
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