世界のセレブ・ファミリーヒストリー

世界のセレブ・ファミリーヒストリー

英・米・豪・加で放送されている「ファミリーヒストリー」的番組 Who Do You Think You Areの興味深いエピソードを紹介します。セレブの家族史を通じて、世界の知らなかった出来事が見えてくる。今の世界を知る上でも、個人を知る上でも、色々興味深いこと満載です。

【俳優:ベン・メンデルソーン】作曲家メンデルスゾーンとの繋がりの謎・舞台に立った先祖?

プロローグ

オーストラリアの俳優、ベン・メンデルソーンティーンの頃からオーストラリアで俳優として活躍、悪役や複雑な過去を持つ役柄を演じることが多い。

Ben Mendelsohn as Orson Krennic-Rogue One (2016).jpg
By Taken from Star Wars Databank entry on Krennic: http://www.starwars.com/databank/director-orson-krennic, Link

最近では「スターウォーズ・ローグワン」、「ウィンストン・チャーチルヒトラーから世界を救った男」、そして「キャプテン・マーベル」にも出演するなど、ハリウッド映画でも活躍している。

ベンの父親は医者、母親は看護師。職場結婚した二人だったが、その後離婚。

ベンは最初母親と暮らしたがうまく行かず、再婚した父親の仕事についてアメリカに渡った。そこで数ヶ月間寄宿学校に入ったがすぐ退学。その後はオーストラリアに戻り、祖母と暮らした。その頃から演技に興味を持ち始めたという。

祖父母以前の先祖のことは何も知らないというベン。自分の家族は、何でこうなのかということを知りたい。

特に興味があるのが、有名なメンデルスゾーン一家と関係があるのかということ。

Moses Mendelson P7160073.JPG
By After Anton Graff - Upload by James Steakley. Das Jahrhundert der Freundschaft. Johann Wilhelm Ludwig Gleim und seine Zeitgenossen, ed. Ute Pott (Göttingen: Wallstein, 2004), p. 109., Public Domain, Link

ドイツのユダヤ人哲学者・啓蒙思想家モーゼス・メンデルスゾーン

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By James Warren Childe - watercolor painting, Public Domain, Link

そしてその孫で作曲家のフィリックス・メンデルスゾーン

名前のスペルは微妙に違うが、それほどよくある名前でもないので、何かつながりがあるのではないか。

メンデルソーン家に流れる音楽家の血

父方の祖父、オスカー・メンデルソーンは1896年生まれ。6人兄弟の末っ子で、化学者として活躍した。オスカーはジュリアード音楽院も卒業しており、オスカー・ミルソンという別名で、作曲活動もしていた。

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祖父の遺品箱の中から、オスカーが出版した楽譜が出てくる。さらにフィリックス・メンデルスゾーンの楽譜コレクションも出てきた。やはり何か関係があるのだろうか?

オスカーの父、ベンの曽祖父サウル・メンデルソーンはドイツ系のユダヤ人。

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1860年、16歳の時にベルリンから、現在人口4000人の街ナナンゴにやってきた。祖父オスカーもここで生まれた。

サウルはナナンゴに商店を2店持つ、地元の名士だった。

このサウルもまた、1891年に歌を出版していた。オーストラリアのフォークソングとして今も歌い継がれている「ブリスベーン・レディーズ」という歌。

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この歌は、イギリスの船乗りが歌っていた「スパニッシュ・レディーズ」という歌を、サウルが歌詞をクイーンズランドのカウボーイの生活に書き換えて出版したものだった。

オスカーの音楽を愛するDNAは、サウルから来ていたのかもしれない。

サウルはこの歌が流行るのを見届けることなく、その後胃がんで亡くなった。

死を覚悟したサウルが、妻や子供達に宛てて書いた手紙を読むベン。子供達の成長を見ることなく亡くなったのは残念だが、ベルリンから遠いオーストラリアに単身やってきて、大きな家族を作り、身を立てた人であった。

メンデルソーン家のルーツ・シュナイデミュール

サウルは1844年、プロイセンのシュナイデミュールという場所で生まれている。父の名前はメンタイン(Menthein)、母はヘンリエッタ。シュナイデミュールとはいったいどこなのか?現地に飛ぶベン。

当時はドイツ(プロイセン)領だったシュナイデミュールは、現在はポーランドのピワという街となっていた。

当時の面影を探して街を歩いてみるが、戦争中の空爆で何も残っておらず、現在は無機的な古い近代アパートなどが建ちならぶ殺風景な場所になっていた。

1850年ごろは、街の人口の20%がユダヤ人だったが、1940年までにシナゴーグをはじめ、ユダヤ人に関連するものはすべて破壊されてしまった。

古いユダヤ墓地があったという場所に向かったが、そこに残っていたのは壁だけだった。地元の人によると、ナチス占領時代にはここにナチス政府の大きな建物があったという。

ユダヤ人の面影が跡形もなく消え去っていることに、空虚な気持ちになるベン。

有名なメンデルスゾーンとのつながりは

シュナイデミュールでのユダヤ人の記録はほとんど残っていないという。

しかし曾祖父サウルはオーストラリア移住前にベルリンにいたため、ベルリンのユダヤ人墓地の記録を調べたところ、サウルの両親、メンタインとヘンリエッタの埋葬記録が見つかった。

ユダヤ人関連の記録は多くが破壊されてしまっているため、1800年後半の記録が見つかったのは奇跡だった。実際、この書類も端に焼けた跡が残っている。

この記録から、高祖父メンタインもシュナイデミュール生まれだということがわかった。メンタインの父の名前はベレルで、商人だった。

ベンの先祖は代々このシュナイデミュールに住んでいたようだ。一方、有名なメンデルスゾーン一家の家系図も確認してみるが、こちらはハンブルグやベルリンなど、より「上流階級」な都市に住んでいた。

当時、ユダヤ人の自由な移動は制限されていた。貿易商などの仕事をしている場合は、各都市を移動することもできたが、家族をつれて移動することはまず考えられなかった。

そう考えても、ベンの一家と著名なメンデルスゾーン一家は、長い間地理的にも離れており、残念ながら関係はないと考えられる。

プロイセン国民となった先祖

高祖父メンタインの父、ベレルの名前が、最近出版された、シュナイデミュールのユダヤ人の歴史をまとめた本に見つかった。プロイセンの国民として市民権を取ることのできたユダヤ人のリストの中に、ベレルの名前があった。

市民権を取るのは簡単ではなく、さまざまな制約、条件があった。

芸術・農業・科学などの知識があることや、品行方正であること、芸術やビジネスの面で、何か国に貢献があった人物である必要があった。

羊毛商だったベレルは、これらの条件をクリアして晴れて正式なプロイセンの国民として認められていた。

そうかそうか・・、シュナイデミュール。良かったよね、シュナイデミュールで。と納得するベン。

母方のルーツ

次は母方のルーツを探る。母方の5代前の祖母、エリザベス・テンパニーは1842年、イギリス・ケンブリッジで生まれている。

11人きょうだいだったが、そのうちエリザベスと6人のきょうだいがオーストラリアに移民してきていた。

きょうだいは、少しずつオーストラリアにやってきたようだ。最初にやってきたのは、兄サミュエル。書類を見てみると、1847年、馬を盗んだ罪でオーストラリアに送られ、7年間服役していたことがわかった。

オーストラリア人だったら、先祖に犯罪者がやっぱりいるよね!素晴らしい!と喜ぶベン。

ベンの先祖であるエリザベスは、1863年、21歳の時にオーストラリアへとやってきた。

エリザベスの出生証明書にあった父親の名前は、アンドリュー・ジョン・テンパニー。職業は紙染職人。

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一方エリザベスの結婚証明書には、父親の職業は一転して「ジェントルマン」と書かれている。ジェントルマンだって!と爆笑するベン。

また、ケンブリッジの歴史が書かれた本に、アンドリュー・J・テンパニーという名前が出てくる。1830年代、ケンブリッジに劇場を建てるため、資金集めに奔走した人物として紹介されていた。

俳優だった先祖?

紙染職人、ジェントルマン、劇場設立者、そして馬泥棒の父親。一体こられは同じ人物なのか。エリザベスの父、アンドリュー・ジョン・テンパニーの足跡を追い、イギリスへと向かう。

当時のケンブリッジシェイクスピア・クラブの公演のパンフレット。ここに、アンドリュー・テンパニーの名前があった。悪役やおどけ役などで舞台に登場している。これが本当に自分の先祖なんだろうか?とベン。

当時のケンブリッジのことが書かれた別の本に、劇場設立の立役者、アンドリュー・テンパニーについての記述があり、そこにはアンドリューは紙染職人だったと書かれていた。

「向こう見ずな性格で、そんなところがケンブリッジの学生に人気があった。あまり先を見ない性格のため、いきあたりばったりな暮らしぶりではあったが、その分臨機応変に対応する力にたけていた」

うーん、向こう見ずなところとか、自分にものすごく似てるじゃないか・・、とベン。

舞台でつける黒いストッキングが行方不明になったときも、素早く自分の足を黒く塗ることで解決したという。

紙染職人だったアンドリューだが、ケンブリッジの裕福な学生と交流することで、自分もジェントルマン風にふるまうようになったのだろうか。

悲劇の結末

ケンブリッジの舞台に立っていたアンドリューのその後を追う。

1851年の国勢調査では、職業は引き続き紙染職人で、10歳、9歳、5歳の子供の名前があった。

20年後の1871年。そこに子供の名前はなく、アンドリューも住居を移転。職業は会計士。60代になっていたアンドリューだが、この期に及んで転職をしたのだろうか?

そして1876年の死亡証明書。ここでの彼の職業は、事務員となっていた。しかし亡くなった場所は、ロンドンのワークハウス、救貧院であった。

ワークハウスだった建物を訪れるベン。

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By Peter Higgimbothom - http://www.cqout.com/item.asp?id=4872846, Public Domain, Link

ワークハウスは、貧困に陥った者を収容する施設だったが、着心地の悪い制服、質の悪い食事や混み合った部屋など、入所したものが長居しないよう、決して居心地の良い作りとはなっていなかった。

働けない老人もここに収容されており、アンドリューは1875年に入所、4か月後、ここで73歳で亡くなった。

転落の人生

アンドリューはなぜ、ワークハウスでひとり亡くなったのだろうか。

25年前の情報にさかのぼる。1849年、妻アナの死亡証明書。アナは49歳でコレラで亡くなっていた。当時コレラが世界で大流行しており、感染すると1−2日であっという間に亡くなってしまったという。

アンドリューには10歳から7歳の4人の子供が残された。

また、先を見ない彼の向こう見ずな性格も災いした。彼はロンドンで不動産投資をし、それを貸し出すなどしていたが結局失敗、破産してしまう。

長男には馬泥棒の前にも前科があった。このような盗みに走ったことも、理由がつく。

ちょうど当時は、貧困から逃れ、仕事を求めてオーストラリアに向かう移民が増えていた時期だった。家族は新天地を求めてオーストラリアに向かったと考えられる。

ワークハウスの混みあった食堂で、水のようなスープをひとりすすっていたのかと思うとなんとも言えない。まるでディッケンズに出てくる登場人物のような悲惨な結末だった。

大きなため息をつくベン。

アンドリューの人生の終わり方はひどいものだった。自分の子孫が彼のことを思い出してここにやってくるなんて、思ってもみなかっただろうな。ケンブリッジの舞台にたっていたアンドリューだけれど、こうやって子孫が取材にやってきて、より多くの人に彼の存在が知られた・・ということは、長い時間がたって、彼がより大きな舞台に立った、と言えるのかな。

エピローグ

アンドリュー達が最後に住んでいたロンドンの住所を訪ねてみるベン。

ロンドン中心街にほど近いポーツマス・ストリート。アンドリューはこの通りの13番地から16番地の不動産を4件所有していた。中心街なので、もう古い建物は残っていないと思うが・・と見つけた建物は、ディッケンズ時代のものを扱う骨董品店。建物自体もとても古く見えるものだった。

中に入って番地を聞くベン。まだ店内に置いてあった、店の立て看板に住所が書いてあった。それを外に持ってくるベン。住所はまさしく、ポーツマスストリート13・14番地だった。

ひとこと

このエピソードは2009年、約10年前にオーストラリアで放送されたもので、見た当時はメンデルスゾーンに似た名前の役者がオーストラリアにいるんだな、位にしか思っていなかったのですが、ここのところ(筆者でも知っている)メジャーな映画にも出演するようになり、ああこの人だったな、と思い紹介してみました。10年前の番組ではまだ若い感じでしたが、最近ではより渋い役者さんとなっていますね。

まず有名な作曲家のメンデルスゾーンユダヤ人ということを知りませんでした。キリスト教をモチーフにした音楽も作曲していますし、ピンとこなかったのですが父親の代でキリスト教に改宗し、苗字もユダヤ人的なメンデルスゾーンから「バルトルディ」に変えていたそうです。それでも「ユダヤ人」といろいろ揶揄されたりしていたようです、知りませんでした。

長年その土地に根付き、銀行家や商人として各地で活躍していたユダヤ人でも、国籍を取ったり、自由に動くのに制約があったのだなあということもわかるエピソードでした。

結局このメンデルスゾーン一家とのつながりはなかったようですが、もっともっとさかのぼるとわからなかったかもしれませんよね。ちなみに有名なメンデルスゾーンの名前のスペルは「Mendelssohn」、ベン・メンデルソーンのほうは「Mendelsohn」。Sが多いか少ないかの違いがありました。

だいたい東ヨーロッパにユダヤ人の先祖がいる場合、その土地に行っても、ポグロムと呼ばれる迫害やナチスユダヤ人狩りにあい、そこにユダヤ人が住んでいた形跡は跡形もない・・というケースは今までに何度もありましたが、今回もそのパターンでした。

シュナイデミュールでも、水晶の夜と呼ばれるドイツ各地で起きたユダヤ人迫害の際に、シナゴーグなどが焼かれ、その後残ったユダヤ人もナチスに連行され収容所送りとなったようです。水晶の夜については、Wikipediaのエントリーもありますのでご覧ください。

一方母方のイギリスの先祖の話、なぜ母方の母方の・・とこの人を選んだのかな、と思ったら、やはり何か演劇に関係がある先祖だったので意図的に選んで紹介したんだろうな、という感じはしました。今までも先祖にも役者がいた、という俳優のエピソードもいくつかありました。やはり先祖も何代もさかのぼれば何人もいますから、その中から何かしらの共通点がある人が出てきてもおかしくはないですね。

話が前後しているので、子供の数などが色々変わっていますが、11人子供がいて、奥さんが亡くなったときは大半は独立していたということでしょうか。年代を整理してみると、奥さんが亡くなる数年前に長男はすでにオーストラリアに送られていますし、救貧院に入ったのも亡くなる数ヶ月前、それから20年は経った後です。

ベンの先祖が結婚した時は、もしかしたらまだ羽振りがよかったんでしょうか・・だからこそ父親の職業をジェントルマン、と書いたのかもしれません。

いつ破産したのかよくわからないので、実際に子供たちがオーストラリアに移民した経緯や、彼がひとりロンドンで亡くなった本当の背景ははっきりしない部分もありました。ちょっとここは編集のマジックでごまかされていますね。

しかし向こう見ずで、職人だけれどもケンブリッジの学生と交流があり、好きな演劇で舞台に立っていた・・というのはちょっと面白い経歴ですね。明治の時代、下町の職人さんが、東大生と一緒に演劇活動をしていた感覚でしょうか。

最後にロンドンに残っていた先祖が所有していた建物、骨董品屋(Old Curiosity Shop)、という名前がついていますが、実際は靴屋さんのようです。建物は1567年に建てられたものだそうです。

このウェブサイトによりますと、チャールズ2世の時代はバターやチーズを作る工房で、1900年ごろまでは、廃紙業者が所有していた、とあります。もしかしてこれが、ベンの先祖のことなんでしょうか。

最近のストリートビューを見てみると、周囲にあったより近代的なビルが壊されて、新たな開発が進んでいるようですが、まだこの建物は残っているようで良かったです。