世界のセレブ・ファミリーヒストリー

世界のセレブ・ファミリーヒストリー

英・米・豪・加で放送されている「ファミリーヒストリー」的番組 Who Do You Think You Areの興味深いエピソードを紹介します。セレブの家族史を通じて、世界の知らなかった出来事が見えてくる。今の世界を知る上でも、個人を知る上でも、色々興味深いこと満載です。

【女優:ルビー・ワックス】ホロコーストと精神疾患の家族の歴史

プロローグ

コメディアン、女優、ルビー・ワックス。

Ruby Wax in 2016.jpg
By Jjnoordman - Own work, CC BY-SA 4.0, Link

長年イギリスで活躍しているが、生まれも育ちもアメリカ、イリノイ州

両親はオーストリア出身のユダヤ人で、ナチスの迫害を逃れアメリカにやってきた。

ルビーの両親の関係はあまり良くないものだったという。

ルビーは18歳の時、両親から逃れるようにヨーロッパへと戻ってきた。そしてイギリスで女優としてのキャリアを積むこととなった。

90年代になり、ルビーは精神を病み入院。それがきっかけとなり、ルビーは認知療法の学位を取り、精神衛生についての啓蒙活動にも力を入れるようになった。

自分の人生には、いつも不安がつきまとっていた。この原因は両親のせいだと思っているが、本当の原因は何なのか。その背景を知りたい。

母のスーツケース

ルビーの母親は、ヒステリーを起こし、意味不明、支離滅裂なことを叫ぶことがよくあった。父親は暴力的で、ルビーも子供の頃はベルトを持った父に追いかけられたりしたという。

父親はアメリカを愛していたが、母親はアメリカに馴染めず、自分の夫を嫌っていた。

両親の関係は最悪だったと思うが、もともとこうだったのか、それともふたりの間に何かがあったのだろうか。

20年前ルビーは実家の屋根裏部屋で、母親がオーストリアから持ってきたスーツケースを見つけた。中には書類や手紙、写真がたくさん入っていたが、ドイツ語を読めないルビーには内容がわからない。

戦争の時の経験をほとんど話さなかった両親。スーツケースの中からできた写真の人物も、手紙の差出人である「エラ」そして「サロ」は一体誰なのか。

獄中でエアロビクスのコーチだった?父

両親の過去を探るため、ウィーンに飛ぶ。

自分がユダヤ人という自覚があまりないというルビー。ホロコーストに関する映像などもほとんど見たことがないという。

当時、ウィーンでユダヤ人だということがどれだけ大変なことだったのか、ということも想像がつかない。

ルビーは父親が船に潜り込みアメリカに渡ったこと、その前にはナチスにより投獄されていたという話を聞いていた。

投獄されている間、父親はエアロビクスを教えていた、と言っていて、特につらい思いをしたような印象は受けなかった。その話は、まるで冒険談でも聞いているようだったという。

投獄・拷問

ルビーの父は、1938年4月から2ヶ月間投獄されていた。ナチスオーストリアを併合した1ヶ月後のことだった。

ヒトラーオーストリア併合から2日後にウィーンに入り、ウィーンの人々から熱狂的な歓迎を受けた。

その直後から、オーストリアに住むユダヤ人への襲撃が始まった。ルビーの父親も、特に理由があったわけではなく、単に彼がユダヤ人だという理由で逮捕、連行されていた。

スーツケースからルビーが見つけた手紙の一通は、投獄されていた父へ、母が送った手紙だった。

まだ結婚していないふたりだったが、その内容は愛情に溢れているものだった。両親の間にこんな感情があったとは、と驚くルビー。

拘置所で、エアロビクスのコーチとして他の囚人に運動の指導をしていたと信じて疑わなかったルビー。

しかし実際は、父も他の囚人も、拷問の一環として激しい運動をさせられていたことが明らかになる。

その「運動」のあまりの過酷さに、時に窓から飛び降りで自殺する者も出るほどであったという。

父から話を聞いた時はまだ子供だったし、父の言うことを信じていたが、なぜ本当のことを話してくれなかったんだろう。

アメリカへ

ルビーの父は2ヶ月ほどで釈放された。釈放される条件として、すぐに国から出て行くことを誓約する書類にサインさせられた。出て行かなかった場合、強制収容所送りが待っていた。

当時のウィーンには、ヨーロッパで最大のユダヤ人コミュニティがあった。

当初ナチスは、ユダヤ人を国から追放するという政策を公には掲げていたが、大量の難民の流入を恐れた近隣諸国はユダヤ人の入国を厳しく制限。多くのユダヤ人は行き場を失った。

そんな中、ルビーの父はなんとかベルギーに行くビザを入手。急いでルビーの母と結婚した。

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両親の結婚写真

ルビーの父は資金を国外に持ち出すことに成功し、1938年9月、ウィーンを脱出。当時でも珍しく、飛行機と電車を乗り継ぎ、ひとりベルギーに向かい、さらにアメリカに密航した。

当時アメリカでも、難民、特にユダヤ人難民が国に来ることに反対する声が多かった。

しかし父は賄賂を渡したか、なんらかの方法でアメリカに来ることができた。

迫害を目の当たりにした母

一方ルビーの母は、別ルートで単身アメリカに渡る。母の親戚がシカゴにいたため、正規のビザを取ってアメリカに向かった。

逃避行の列車の中では、金髪の母をアーリヤ人だと信じたナチスの将校が席を譲ったという。ナチスの思想なんて、ユダヤ人の現実も知らない、結局はそんな適当なものだった。

ルビーの母が国を離れたのは1938年12月。11月には、「水晶の夜」と呼ばれるユダヤ人を迫害する暴動がドイツ、オーストリアの各地で起こっている。

ユダヤ人の商店、シナゴーグや住居が襲撃・放火され、多くのユダヤ人が暴行されたり逮捕された。特にウィーンでの襲撃はひどいものだったという。

この事件が起こったとき、母親もその場にいたことになる。しかしそんな話は一言もしなかった。もしかして、これがトラウマになって母は精神を病んだのだろうか。90歳まで生きた母だったが、これが引き金で一生を台無しにしたのだろうか。

両親が結婚したシナゴーグに向かう。ウィーンで最大級だったというシナゴーグはもう残っていなかった。ここも両親が結婚した3か月後、「水晶の夜」で破壊されてしまっていた。

Leopoldstädter Tempel Gedenktafel, Vienna.jpg
Public Domain, Link

この時母親は24歳。

自分にとって両親はモンスターでしかなかった。でもここで見えてくる両親は、まったく別人のようだと感じるルビー。

自分にとっては、いつもイライラして何かに対して怒っている母親でしかなかったが、一言でもこのことを話してくれていたなら、少しは同情の余地があったかもしれない。

叔母からの手紙

スーツケースに入っていた、「エラ」と「サロ」から送られたたくさんの親密な手紙。ガブリエラ(エラ)、サロモン(サロ)はルビーの母にとっては叔母、叔父にあたる人物だった。

当時ガブリエラは60代なかば、サロモンは70歳ちかく。ルビーの母が無事アメリカに渡った後も、ウィーンに残されていた。

引退するまで、歯科医院を開いていたガブリエラとサロモン。彼らの住居兼仕事場だったアパートを訪ねる。

ガブリエラがルビーの母親に送った手紙。そこには食べ物が手に入らず、二人ともやせ細っていること、がんばって英語の勉強をしていることが書かれていた。

1941年頃のウィーンのユダヤ人の状況はますますひどいものになっていた。ミルクや卵といった食糧を買うことは禁止され、買い物も決まった店で、限られた時間内に済ませなければならなかった。

ユダヤ人のビジネスは接収されたり強制的に閉鎖されたため働くこともできず、また銀行口座も凍結された。

住む場所も制限されるようになったため、ガブリエラとサロモンも、自分たちのアパートを他の家族と共有しなくてはならなかった。

毎週多くのユダヤ人が列車に載せられ「追放」されたが、その列車が向かった先は収容所であった。

間に合わなかった書類

1941年半ばまでに13万人のユダヤ人がウィーンを脱出。しかしそれ以上のユダヤ人が収容所に送られていた。そんな中、ガブリエラとサロモンはなんとかアメリカに向かおうとしていた。

アメリカに行くビザを得るためには、アメリカにいる親戚が金銭的なサポートをすることを証明する書類が必要だった。その書類を待ちわびているという手紙。

ビザのための書類をそろえることは大変で、結局彼らがルビーの母からこの書類を受け取るまでに、手紙からさらに6週間もかかっていた。

しかし書類が彼らの手元にようやく届いた頃、アメリカ政府はビザに必要な書類の条件を変更。受け取った書類だけでは、ビザを申請することはできなくなっていた。

さらに1941年7月、ウィーンのアメリカ領事館は閉館されてしまう。

働くこともままならず、外に出ることも危険な状態で、身動きを取ることのできなかったガブリエラとサロモン。

見捨てないでほしい、というガブリエラからの手紙。

しかし1941年10月、ドイツはいかなる移民も禁止する、という法律を施行する。これで、ユダヤ人が国外に出ることは不可能になってしまった。

叔母からの手紙もここで途絶える。

エラとサロの最期

その後この二人はどうなったのだろうか。

ホロコーストの犠牲者の情報を集めたオンラインデータベースを調べると、サロモンはチェコのテレジーン(テレージエンシュタット)にあったゲットーで殺害された、とあった。

ガブリエラも同様に亡くなっている。

自分の家族の中に、ホロコーストで亡くなった人がいたことが信じられない、とルビー。自分の家族はスマートに早いうちに脱出していたのだとばかり思っていた。しかし年老いた2人は、足止めをくらい、悲劇にあってしまった。

抗精神病薬を飲んでいるので、あまりこのことについて深く感じられなくて逆に良かった。そうでないと、たぶん自分がおかしくなってしまいそうだ。

ユダヤ人が運営する収容所兼ゲットー

大叔父、大叔母の最後の場所となったチェコ・テレジーンに、列車で向かうルビー。彼らもどこに行くともわからない列車に載せられていたかと思うと、寒気がする。

列車から降りた後、人々は2キロ半ほど歩かされ、ユダヤ人を収容するためのゲットーに向かわされた。

戦争前、テレジーンは小さな街だったが、ナチスがベルリンやウィーンの年老いたユダヤ人を収容するための場所として、多くのユダヤ人が送り込まれた。

このようなユダヤ人を収容するため、街の住人は自分たちの住居を明け渡さなければならなかったという。

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By Hans Weingartz - de.wikipedia からコモンズに IreasCommonsHelper を用いて移動されました。, CC BY-SA 2.0 de, Link

14万人が収容されたこの場所は、他の強制収容所とは違い、このような一般の住居を収容所代わりとしていた。ガス室や制服もなく、SSの指示のもと一部はユダヤ人が運営する形となっていた。

しかし住環境は劣悪で、食べ物もあまりなく、ひと部屋に大勢が重なり合うように暮らし、窓や水道、トイレなども無い場合もあった。このため疫病が蔓延、特に体力のない老人はどんどん亡くなっていった。

Many people clustered around a lit candle
By Bedřich Fritta - Ghetto Fighters House, Public Domain, Link

さらにこの収容所から、アウシュビッツやトレブリンカといった強制収容所に多くの人々が送られていった。

サロモンはこのゲットーに輸送されて1週間後に亡くなっていた。ガブリエラの記録は、残されていなかった。

サロモンとガブリエラが、強制収容所で亡くならず、苦しんだ時間も短かったのは、せめての救いだったかもしれない。

戦争前に亡くなった先祖の足跡

ガブリエラのきょうだいでルビーの祖父リチャード、その妹のオルガ、そして曾祖父ソロモンは皆戦争の前に亡くなっている。

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左からルビーの叔母ガブリエル、祖父リチャード、曾祖父ソロモン、大叔母オルガ

ウィーンの墓地で彼らの墓石を見つけるルビー。曾祖父ソロモン、祖父リチャードがそこに眠っていた。

自分につながりのある先祖がここにいたのに、今まで誰も教えてくれなかったなんて。

1933年に亡くなった大叔母オルガは、身寄りのない人々が埋葬されるエリアに、墓石もないまま埋葬されていた。

オルガの最後の住所は、今もウィーンにある精神病院だった。

精神病棟にいた大叔母

発作で暴れたり叫んだりする患者を収容した病棟を訪ねるルビー。母親も道の真ん中でいきなり叫びだしたりすることがあったという。もしかして何か遺伝的なものだったのかもしれない。

Penzing (Wien) - Kirche am Steinhof (3).JPG
By Bwag - Own work, CC BY-SA 4.0, Link

当時の精神病棟での治療は、患者を落ち着かせるために長時間風呂に漬けたり、作業療法をしたりするものだった。

オルガはここでお針子の作業をしていたようだ。

ルビーの家族は、ウィーンに来る前はモラビア(現在のチェコ)、ブルノという街に住んでいた。

オルガがチェコでも精神病院に入っていた記録が見つかる。24歳から亡くなるまでの30年間、ほとんどの年月を、精神病院で過ごしたようだ。

母親は良く吠えるように叫んでいた。オルガもここで叫んでいたのだろうか。自分の母とオルガは同じような病気を持っていたのかもしれない。これが遺伝だとしたら・・自分が精神病棟に入らないですんでいるのは、ユーモアのセンスで乗り切っているからかもしれない。

曾祖母もまた

ウィーンに来る前の家族の様子について知るため、チェコ・ブルノに向かうルビー。

ここではオルガの情報は見つからなかったが、オルガの母親、ルビーの曾祖母バーサがブルノの精神病棟に入院していたという情報が見つかった。

当時の新聞記事も残っている。そこにはバーサが突然家具を売り払い、自殺をほのめかす手紙を残して出奔したことが書かれていた。

自殺は阻止され、バーサは精神病棟に入院するが、7か月後に結核で31歳の若さで亡くなっていた。

娘オルガが入院する19年前、1884年のことだった。

オルガやガブリエラなど残された子供達は、まだ10歳にもなっていなかった。

エピローグ

自分の母、そして曾祖母、大叔母と家族に精神を病んだ先祖がいたことがわかったルビー。

長年セラピーにお金をかけるより、自分の先祖についてもっと早くに調べていれば良かったかもしれない。

先祖のことを知ることで、自分がなぜこうなのかということも理解できた。

曾祖母も大叔母も精神病棟に入るような症状があって、母にも同じ症状があったということ。そして自分が絶えず不安を感じている理由がわかった。

彼女たちはある意味自分の「パイオニア」で、力尽きるまで生き続けたことを誇りに思う。

ひとこと

このエピソードはとても複雑な気持ちになるものでした。

本人も精神疾患があるというルビー・ワックス。家族のメンタルヘルスの歴史に向き合い、自分がなぜいつも不安にさいなまれるのか、という原因の一つを見る赤裸々なエピソードでした。

しかし一方で、両親との関係が悪かったとはいえ、ここまでホロコーストに関して無知なものなのか・・と驚く部分も。

自分の家族はスマートに逃げられたと思っていた、ウィーンでユダヤ人であるということがどれだけ大変だったか想像もつかない・・・そして新しい情報がわかるたびに、ぽかーんと口を開けて反応するのは、うーん、ちょっとこれは・・と思った視聴者も多かったようです。

薬を飲んでるから、感情的に深く入り込めない・・そして精神を病んだ先祖がいることが分かった時も、情報を調べてくれた相手に精神疾患に関するちょっとひねくれたジョークを言おうとして「いえぜんぜん笑えない話ですから」とたしなめられたりもしていました。

お母さんの状態もとても悪かったようですね。遺伝的なもの、そしてユダヤ人迫害のトラウマが、さらに状況を悪くしたかもしれません。

そして娘にはそれを語らなかった両親。

色々な要素があったとは思いますが、親の代で直接経験したことでも、これだけ無知でいられるわけです。ホロコーストはなかったと言ってしまう遠い日本の整形外科医の老人のことを思い出してしまいました。

大叔父・大叔母が収容されたゲットー。ホロコーストというと、即貨物列車に載せられ、収容所に入れられ、ガス室に送られるものだというイメージがありましたが、色々な形があったのだということがわかりました。

このゲットーは老人のほか、特権ユダヤ人などが輸送され、文化活動があったり、ユダヤ人による運営がされたりと、想像していたものとは違うものでした。といっても別にパラダイスというわけではありません。やはり劣悪な環境の中で、多くの人が亡くなり、またここから強制収容所に人々が送られたそうです。

またこのような「比較的環境の良い」収容所を作って公開することで、赤十字や世界に対して、ホロコーストの隠れ蓑としていた部分もあるようです。詳しくはこちらWikipediaのエントリーをご覧ください。

実際にこの場所に行かれた方のレポートはこちら

「収容所のオーケストラ」のエピソードはNHKでも放送されたそうです。そのことについては、こちらもご覧ください。

そのほか、家族がホロコーストにあった有名人のエピソードはこちら

familyhistory.hatenadiary.com
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