世界のセレブ・ファミリーヒストリー

世界のセレブ・ファミリーヒストリー

英・米・豪・加で放送されている「ファミリーヒストリー」的番組 Who Do You Think You Areの興味深いエピソードを紹介します。セレブの家族史を通じて、世界の知らなかった出来事が見えてくる。今の世界を知る上でも、個人を知る上でも、色々興味深いこと満載です。

【女優】ミニー・ドライバー:勲章をテムズ川に投げた父

プロローグ

女優ミニー・ドライバー。映画「グッドウィル・ハンティング」ではアカデミー助演女優賞にノミネートされた。1970年ロンドン生まれ。

シングルマザーでもあり、(当時)4歳の息子ヘンリーとともにロサンゼルスに在住。

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By Justin Hoch, CC BY 2.0, Link


ミニーの父ロニーは息子ヘンリーが1歳の頃に亡くなった。短い間だったが孫の顔を見せることができたことは何よりも良かった。子供が生まれたことで、自分の中で家族とのつながりをもっと確認したい、そして息子に家族のことをもっと伝えたいという気持ちが強くなったという。

過去を語らなかった父

両親は1962年に出会い、13年間を共に過ごした。しかし父親は他に家庭を持っていた。両親が結婚していないことを、ミニーは12歳になるまで知らなかったという。また父方の祖父母にも会ったことがない。

父は第二次大戦中、空軍にいたらしい。たまたま友人が古本屋で戦争中の空軍について書かれた本を買ったところ、そこに父親の功績が書かれていた。

母親に話を聞くミニー。父ロニーは、ハンサムでおしゃれな人だった。他に家庭を持っていることはいつも頭に引っかかっていたが、大丈夫、君だけだ・・・という彼のセリフを信じて待っていた。でもそれは家族持ちの男の人がよく言う言葉なのよね。でもそれを信じて長く待ちすぎたかもね、と母。

戦争のことも自分のバックグウンドのことも決して話そうとせず、そこには何も語るまいという固い意思が見えたので、とても聞けなかったという。

父の出生証明書を確認する。1921年、スワンジー生まれ。父はチャールズ・エドモンド・ドライバー、母はメアリー・ジェシカ・ケリー。あれ、苗字が違う。2人は結婚していない。未婚で子供を産むのはこの家の伝統か何かなわけ?!と驚きながらも冗談を言うミニー。

父の功績が書かれた本を紐解く。そこには若い頃の父の写真も掲載されていた。激しい戦闘を戦い抜いた父は、殊勲飛行メダルを受け取ったとある。母によると、父はこのメダルをテムズ川に投げ捨てたらしい。自分はこのメダルを受け取る資格がないと語ったそうだが、その理由については母も知らなかった。

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母にとって父は世紀の恋人だったが、それにしても母があまりに父のことを知らないのに驚いた、とミニー。それだけ頑なに父が口を閉ざしていたということでもある。

ヘルゴラント・バイトの戦い

1939年12月18日、英国空軍の24機のウェリントン爆撃機イーストアングリアから出撃、ヘルゴラント・バイトのドイツ軍を急襲した。第二次世界大戦において、イギリスが行った最初の大規模空爆である。

18歳だった父ロニーも、戦闘機の前部に設置された機銃塔の銃手としてこの空爆に参加。128人の仲間とともに、ヴィルヘルムスハーフェン湾に停泊する軍艦を爆撃した。

しかしイギリス空軍は、攻撃を行う24機の爆撃機を、護衛無しで送り込んだ。この結果爆撃機はドイツ軍から猛烈な反撃を受け、大きな被害を被ることになる。

イギリス軍は、500ポンドの爆弾を数個軍艦に投下することに成功したが、装備の点ではドイツ軍の方が圧倒的に上であった。ドイツ軍とイギリス軍が使っていた銃弾を見せられ、その大きさのあまりの違いに驚くミニー。

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ドイツ軍の最新鋭戦闘機メッサーシュミット109sから激しい銃撃を受け、父が座っていた銃座の床は抜け落ち、足が海に着きそうになったという。さらに機内で火災が起きたが、父がとっさに火を素手で消し止め、負傷した仲間の脱出の手助けをした。この功績が認められ、父ロニーには殊勲飛行メダルが贈られた。

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By Canadian Forces - Canadian Forces; see also RAF Museum, Public Domain, Link

ブルックランド博物館に当時父が乗ったウェリントン空爆機が復元展示されている。実際父が入っていた機銃塔に入るミニー。どれだけ狭く、危険にさらされていたのかを実感する。

親友を失っていた父

この作戦に参加した兵士の最後の生き残りで、ロニーのこともよく知っていたという93歳の男性に会うミニー。ロニーは明るい男で、仕事のあとには飲みに行ったりする仲間だったという。

ヘリゴラント出撃の日、彼が自分の持ち物を友人達に形見分けのように渡していたのが、彼を見た最後だった。翌朝、彼の乗った戦闘機が撃墜され、彼と仲間が脱出したことを聞いたという。

無事帰還を果たした父だったが、この戦闘で親友を亡くしていた。同じく銃手だった「リリー」ことウォルター・リリー。彼は同じ戦闘機の後方銃座を担当していた。

軍の公式記録によると、父の乗った戦闘機は燃料タンクに被害を受け着水。父は戦闘機が着水すると救命ボートを出し、負傷した仲間を助け出した。しかし後方に座っていた親友リリーは既に亡くなっており、彼の遺体は戦闘機とともに海の底に沈んでしまったのだという。

この空爆に出撃した戦闘機24機のうち12機が失われ、出撃したほぼ半数の61人が亡くなった。

一躍英雄に

空軍博物館を訪れるミニー。空軍が発行したプレス用の公報に、父ロニーの長いインタビュー記事が掲載されていた。

「ドライバー航空士はスワンジー生まれだがウェールズ人ではなく、母はスコットランド、父はヨークシャー出身。スコットランド、ヨークシャーのタフさを受け継いだ。父はウールの売買人で、このため家族は各地を転々、ウェールズで生まれたのもそのためである。卒業後は父の会社を手伝った」

父のバックグランドが詳しく説明されていることに驚くミニー。空軍は、ロニーのようなごく普通の若者が、戦争で英雄になれる事を強調するため、こうして彼にスポットライトを当てたようだ。

この他にも全国紙に父が紹介されている記事も残っていたが、父は自分の功績よりも同乗のパイロットや仲間の功績について語るなど、とても謙虚な対応をしていた。

地元の新聞に、母親と写っている写真も掲載されていた。自分の祖母の写真を初めて見るミニー。制服姿の父は、火災を消した時につけていた手袋を持って写っていた。

戦争の傷

1940年3月にメダルを受け取ったロニーであるが、帰還後は空軍病院の精神病棟に入院した記録が残っていた。

18歳で自分の乗った戦闘機が撃墜され、手で火を消し仲間を助け、しかし親友は失った父。その後はプロパガンダのために駆り出され、望まない脚光を浴びた。精神のバランスが崩れても驚かない。

イギリス中部、ダービシャー、マトロックにあった病院を訪れるミニー。今では高級コンドミニアムになっている。ここで父ロニーは不安症との診断を受けて入院。

爆撃部隊に所属した12万5000人のうち、戦闘中5万5000人が死亡。生き残った隊員が重度の精神的ストレス、PTSDに苦しむ確率は非常に高かった。

特に過酷な戦闘の中戦友を失うショックは非常に大きなものであり、18歳でそれを経験した父が受けた衝撃は計り知れない。しかし当時のイギリス空軍は、このような精神的ダメージへの認識が低く、十分な対応・治療は行われなかった。

父ロニーも、おそらく睡眠薬と軽い運動、休息を取る事で自然な回復を待つ、といった程度の「治療」を受けたと考えられる。

ウォルター・リリーの戦死広告が見つかった。狙撃の名手だった彼は21歳の誕生日を迎えたばかりだった。ヘリゴラントでも2名を狙撃する功績を残したとある。「なのになぜ彼には勲章が与えられなかったんだろう」とミニー。おそらくそれは、父ロニーも持った疑問に違いなかった。

結婚、友への思い

一度は退院したロニーであるが、ヘリゴランドの戦いから1年後、再度入院していた。しかしその後退院すると、1943年11月には少尉に、さらに1944年には中尉に昇進。

また中尉になった1944年に結婚。妻はイギリス大手通信会社会長の娘で、ロニーはこの結婚で社会的なステータスも得た。結婚写真を見るミニー。軍服を着て写っている父であるが、そこには殊勲飛行メダルはつけられていなかった。

18歳で壮絶な経験をした父。しかしその後も任務を続けることで前に進もうとしたんだと思う。そしてなぜメダルをテムズ川に捨てたのかも理解できる。自分の親友や多くの戦友を飲み込んだ水。そこに同じように、メダルを投げ捨てたのではないだろうか。

祖父母の結婚の謎

父方の祖父母に会ったことのないミニー。祖父母についてさらに調べるため、家族が戦争中に住んでいたストックトンという街に向かう。

ロニーの父、ミニーの祖父チャールズは若くして亡くなったと聞いている。父ロニーが生まれた時、祖父母は結婚していなかった。

父の出生証明書に書かれた母親の名前は「メアリー・ジェシカ・ケリー」。そしてその下には「旧姓マクレガー」と追記されていた。ケリーは、祖母が別の人物と結婚していた時の苗字のようだ。

オンラインで婚姻証明書を検索すると、祖父母は1936年、ロニーが15歳の時にようやく結婚していたことがわかった。これ以上の詳細を知るには、実際の証明書を取り寄せる必要があった。

親戚との対面

また1891年の国勢調査に、当時11歳の祖父チャールズの情報が見つかった。チャールズは5人きょうだい。父方の親戚に会ったことがないミニーは、ここから何とかして存命の親戚を見つけられないかと考える。

祖父の妹、モードの記録を辿ると、モードには1929年生まれの孫アイリーンがいることがわかった。選挙人名簿を調べたところ、84歳でまだ健在であることが判明。電話をかけ、会いに行くことになる。

アイリーンは祖父の妹の孫、ミニーにとってはまたいとこに当たる。苗字が同じなので、もしかして親戚ではないかと少し思っていたというアイリーン。ミニーの祖父母にも会ったことがあるという。祖父は無口で控えめだったが、祖母は明るく社交的な性格だった。息子ロニーのことを誇りに思っており、家には制服姿の息子の写真が多く飾ってあったという。

世代的には同じであるが、ミニーの祖父チャールズは遅く、アイリーンの祖母モードは早くに結婚して子供を持ったため、またいとこ同士でも40歳も歳の差があることを笑う2人。初めて会うのに、不思議に似たところがあると感じるミニー。祖父母が長年結婚しなかった理由についてはアイリーンも知らなかった。

祖父母の結婚証明書

ミニーの元に、祖父母の結婚証明書の写しが届く。祖父母が結婚した時、祖父は56歳、祖母は41歳。双方とも未亡人とあり、どちらも二度目の結婚だった。

祖母の最初の結婚は1917年。しかし翌年、夫はフランスで戦死していた。一方祖父の最初の結婚は1901年。

祖父母が再婚したのは1936年だが、祖父の最初の妻が亡くなったのは1932年だった。父ロニーは1921年生まれ。

父が生まれた時、祖父チャールズはまだ別の女性と結婚していたのだった。なんてこんがらがった家庭なんだか!と驚くミニー。

さらに最初の妻との間に、祖父チャールズはレスリーと言う名前の息子をもうけていたこともわかった。そしてなんと彼の職業は俳優。家族の中に役者と言うクレイジーな職業についた人が他にもいたなんて!と大喜びするミニー。果たして父ロニーはこのことを知っていたのだろうか。

役者だった叔父

当時の劇場のプログラムを見るミニー。地元の人気劇団の役者だったレスリーの芸名は、レスリー・ドライバーではなく、自分の母親の旧姓スタンクリフを名乗っていた。自分の父親のことを怒っていたんだろうか・・と考えるミニー。

1930年代、マンチェスターストックポートにある劇場で活躍したレスリー。専属劇団が毎週新しい演目を上演するレパートリーシアターと言う形態は、英国の有名なコメディアンロニー・バーカーやエリック・サイクスをはじめ、テレビや映画で活躍した俳優を多く輩出した。

レスリーもコメディなどに多く出演。主役を張ることもあった。またマンチェスターやロンドン、ニューヨークなど様々なアクセントを操り、色々な役をこなせる役者だったという。

1944年に急遽代役で出演した演目「Peg of my heart」が大きな評判を呼び、翌週の地元の新聞で大きく取り上げられていた。それによると、サイレントフィルムの子役として役者のキャリアを開始。おかしな笑い方で有名とあった。自分の笑い方もずいぶん変で・・ここから来ているのね、と笑うミニー。

妻は同じ劇団にいたグレース・マカイ。ビリー・マカイと言うステージネームで舞台にたっていた。2人の写真を見るミニー。レスリーは父にそっくりだった。

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1945年に主役で舞台に登場したのを最後に、1947年にレスリーは死去。38歳の若さだった。新聞の死亡広告記事には、残された娘、ジーンの名前も記されていた。

1945年のステージのパンフレットには、キャストとしてレスリーの娘ジーンの名前も載っていた。子役の1人として、父娘で共演したらしい。

さらに、レスリーの娘ジーンがまだ健在であることもわかった。電話番号を渡されるミニー。ジーンはカメラの前に出ることは辞退したが、電話で話をする。

父に腹違いの兄弟がいることは知っていたが、レスリーとロニーが会ったことはないという。子供の頃祖父母には会ったことがあるが、あまり記憶はなかった。しかしたった一枚だけ、祖父母の写真があるという。その写真を送るとジーンは約束してくれた。

エピローグ

ロサンゼルスの自宅に祖父母の写真が届く。それを息子と見るミニー。

子供にきちんと家族のことを伝えたかったと言うミニー。しかし事実を知れば知るほど、新しい疑問もどんどん湧いてくる。父はなぜ全てを秘密にしていたのだろう。今、父と話せたら。

しかし息子に、ここで知った素晴らしい事実を話すことができるのが、何よりも嬉しい。

ひとこと

今回もまた、父親と言う直近の「先祖」のファミリーヒストリーをご紹介しました。ミニー・ドライバー、アメリカ映画にも登場する女優さん。イギリス人ですが、ちゃんとアメリカンアクセントを話すアメリカ人役もできる女優さんです。そのおじさんも色々なアクセントを使い分けられる役者だったのは偶然とはいえ、こういうのは何か「血」みたいなのがあるのかなぁと不思議になります。

先祖の中に自分と同じ職業や似た傾向を持つ人がいる、と言うエピソードは今までにも結構ありました。

先祖にドラマー

物語の語り手

カバラの使い手

先祖もパン屋

政治家、ジャーナリスト

また今回のエピソードでは、先祖に未婚の母が多い(まあ、言ったら不倫が多いと言いましょうか・・)ことも明らかになっていましたが、こういうことも家族の中での傾向、と言うのはあるんでしょうか。

二重の家庭生活を送っていたミニーのお父さんですが、退役後は、ロイヤルファミリーなどに投資のアドバイスをするような会社を作りずいぶん成功したようです(後に倒産)。

双方の家族とも、お互いの家族の存在は何も知らなかったようです。ミニーには実はお姉さんもいるそう。ずいぶんマメな人だったんでしょうか、お父さん。クリケットの試合で双方の家族が同席した頃から、愛人家族の存在がばれて離婚になったそうですが、そこはツメが甘いような。でもその後二つの家族とも和解したようで、そういう人柄だったんでしょうか。

第二次大戦の様々な戦線で戦い、PTSDを患った父や祖父のエピソードは、今までにもいくつか出てきました。


メダルを川に投げた話は印象的でしたが、18歳、まだ高校生、ティーンエージャーがこんな経験をするところを想像しただけでいたたまれません。それはやはり後々の人生に大きな影響を与えたのは想像に難くありません。それが不倫の理由にはならないかもですが・・(苦笑)。

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