【俳優:デヴィッド・スーシェ】名探偵ポワロ俳優の先祖は経歴詐称?苗字「スーシェ」の謎
プロローグ
名探偵ポワロ役で人気を博したイギリスの俳優、デヴィッド・スーシェ。
By Phil Chambers from Hamburg, Germany - IMG_6979.JPG, CC BY-SA 2.0, Link
ベルギー人探偵エルキュール・ポアロなど、様々な国籍の人物を演じることができるのは、自分のルーツが様々なヨーロッパの国にあるからだと考えている。
デヴィッドの父は医者で厳しい人であったという。自分はどちらかというと、写真家だった祖父と、ミュージック・ホールの踊り子だった祖母の影響を大きく受けていると考えている。
趣味の写真は祖父から学んだもの。また自分が演劇にのめり込み、厳しい父に対して自分は役者になる!と宣言したのも、祖母から受け継いだ血が騒いだのかもしれない。祖母の他にも、家系に役者の血が入っていないかが気になる。
また水が大好きなデヴィッドは、一時所有するボートに住んでいたこともあった。現在も、地元の運河修復保存を進める会の副会長を務めるなど、水との関わりは深い。先祖に何か水に関係する仕事をしていた人や船乗りがいたかどうかも、知りたい。
商船船長だった先祖
母方の祖母のルーツをたどる。
国勢調査から、デヴィッドの曽祖父に当たるウォルター・ジェザードの情報をたどる。ウォルターは1869年ケント州サンドイッチ生まれ。
ウォルターの父ジョージの職業は食品雑貨商。
そして彼の職業は、商船の船長。思いがけず、先祖の中に船乗りがいたと喜ぶデヴィッド。
グリニッジの国立海洋博物館で、ジョージの船長証書を見せてもらう。ジョージは14歳で船乗りとなった、航海歴38年のベテランであった。
さらに1860年、ジョージが船長を務めた帆船ハナ号が沈没した、と書かれた書類も見つかった。
当時の新聞記事を調べると、ハナ号はサフォックにあるケッシンランド沖で沈没したと書かれていた。
手袋をはめて証拠を見たりするのは、今までポアロ役で何度もやってきたけれど、まさに自分の先祖のことについて、手袋をはめて古い書類を確認したり、まるで探偵のように調査しているなんて・・!とまた嬉しそうなデヴィッド。
沈没したハナ号、意外な「再会」
より詳しい情報を求めて、事故があった場所に近い街、ローストフトに向かう。
地元の図書館で当時の地元の新聞を確認する。1860年5月、大型のハリケーンが発生。これにより、沖合で実に150の船が沈没、多くの犠牲が出たという。
事故があったのは5月だったが、ロンドンの数百マイル先では吹雪が観測されるなど、天候は恐ろしく荒れていた。ジョージの船はロンドンに石炭を運ぶ途中、突然嵐に襲われたらしい。
By Glen Denny, CC BY-SA 2.0, Link
ケッシンランドのビーチ
船をあっという間に飲み込むような大波。沈みゆくたくさんの船、そこにしがみつく船員達。しかし次の瞬間に船はあっという間に海に消えていく。新聞には、生々しい目撃談が書かれていた。
図書館にはまた、地元の海難救助の記録が残っていた。そこには、ハナ号の船員7名が、ジョン・クレギー率いる地元の船に救助されたことが記されていた。
地元の救命艇博物館に、同姓同名のジョン・クレギーという人物がいると聞き会いに行くデヴィッド。
まさしくその人物は、デヴィッドの先祖を救助したジョン・クレギーのひ孫であった。
ジョン・クレギーは仲間とともに漁船で船の引き上げ作業を行おうと沖に出たところで、没む直前のハナ号を発見。救助活動を行ったという。
ジョージはこの事故のあとも、また商船の仕事に戻ったとのことである。
自分の「水」のルーツを見つけることができたデヴィッド。また様々なヨーロッパの血を受け継ぐ彼にとって、自分の「イギリス人」の部分をより深く意識することができた。
写真家だった祖父、そして曽祖父
次は母方の祖父のルーツに目を向ける。
デヴィッドは子供の頃から母方の祖父と多くの時間を過ごし、人生で一番影響を受けた人物だったという。
デヴィッドの祖父、ジミー(ジェームス)・ジャシェーは、イギリスでも初期の新聞カメラマンとして有名な人物。エドワード8世とシンプソン夫人のツーショット写真を初めてスクープしたり、アインシュタインやチャーチルなど、当時の著名な人物の写真も多く撮影している。
‘Limbs and the Law’, 1924, James Jarché © The Royal Photographic Society Collection
祖父の作品。番組でデヴィッドがこの写真の撮影場所であるハイドパークを訪れた
祖父ジミーの両親、デヴィッドの曽祖父母の名前はアーノルドとエミリー。1870~80年頃にパリからロンドンに移住してきたユダヤ人で、曽祖父アーノルドも写真家であり、ロンドンで写真館を開いていた。
それ以前には、パリで「エッフェルタワー・スタジオ」と呼ばれる写真館を経営していたらしい。しかし彼らが、フランス生まれフランス育ちのユダヤ人なのかは、家族の間でも謎だった。
祖父ジミーの苗字は、フランス風にジャシェー(Jarché)。しかし曽祖父母の苗字はジャシー(Jarchy)で、Yで終わるスペルとなっている。これは後にジミーがフランス風に苗字を変えたらしい。
曽祖父アーノルドがロンドンで写真館をしていた場所を訪れるデヴィッド。アーノルドが開業していた時代には、写真が一般にも広まり始めた頃で、ロンドンだけで写真館が300軒はあったという。
By Hanna Fortmeier? - http://sites.google.com/site/prittsel/1850%E2%80%931900, Public Domain, Link
当時の写真館
当時の新聞に、アーノルドの写真館の広告記事があった。
『フランス出身、パリで写真館を経営、パリで多くの有名写真家の元で経験を積んできた写真家、アーノルド・ジャシーが新たに写真館をロンドンにオープン』
そこには彼が修行したというフランス人写真家の名前も羅列されていた。
自分はオシャレなフランスから来た、ということを妙に強調して特別感を出そうとしていないかと感じるデヴィッド。そこには何か怪しさも感じる。
曽祖父の経歴詐称?
アーノルドが経営していた写真館の場所を調べるため、パリに向かう。
カルナヴァレ博物館で、写真館があった証拠を探す。当時の写真家や写真館の情報をまとめたディレクトリーを当たるが、そこにはアーノルドの名前も、彼が経営していたという「エッフェルタワー・スタジオ」の名前もなかった。
彼が写真技術をパリで習得したのは間違いないようだが、自分で写真館を経営していたというのは、どうも嘘のようだ。
どうもパリ仕込みの写真の腕を誇張して宣伝したらしい。イギリス人が謎めいた外国のアクセントにコロッとやられるのを知って、それをうまく商売に使ったのではないか。アーノルド、やるなぁ!と笑うデヴィッド。
曽祖父母のルーツの謎
では彼らは本当にフランス生まれのユダヤ人だったのだろうか。彼らの結婚証明書が見つかる。
そこには、アーノルド、エミリーとも、ロシア出身であると書かれていた。フランスには、10年ほど住んでいたらしい。
結婚証明書にあった住所を元に、彼らが住んでいたパリのマレ地区、テュルネル通りを訪ねる。彼らが住んでいたアパルトマンのドアには、今でもメズーザーがつけられていた。これはユダヤ教信者が家に入るたびに、手を当てて祈るものである。
By www.retardstrength.net (talk) - I created this work entirely by myself., CC BY 3.0, Link
ドアフレームにつけられたメズーザー
そして建物のすぐ隣は、シナゴーグだった。
Par User:Gandalf55 — self-made by Author, Domaine public, Lien
テュルネル通りに今も残るシナゴーグ
革命後のフランスは、ヨーロッパの中でもユダヤ人差別があまり無い場所だった。ロシアでの迫害から逃れた多くのユダヤ人がフランスに移り、1880年頃には大きなユダヤ人コミュニティが出来ていた。
迫害から逃げるため、国外に出るということは非常に勇気のいることだったと思う。難民というバックグラウンドを持つ者は、先へ先へと進むための強い気力がどうしても必要になる。自分が何かに突き動かされるように、長年役者として演技を続けているのも、こういうところから来ている気がする、とデヴィッド。
父方のルーツ、スーシェ家の謎
デヴィッドの父方、スーシェ(Suchet)家も東ヨーロッパから来たユダヤ人一家だが、デヴィッドの父は南アフリカ生まれである。
苗字はもともとスシェドヴィッツ(Suchedowitz)といい、おそらくロシア系ではないか、という。
詳しい話を聞くため、ニュースキャスターである兄、ジョン・スーシェを訪ねる。兄によると、デヴィッドの父方の祖父、イジドールが南アフリカで苗字をスーシェとフランス風に変えたという。
By AIB London - https://www.flickr.com/photos/aib_london/14384499178/, CC BY 2.0, Link
兄ジョン・スーシェ。番組では弟ピーターも登場した
またイジドールはメーメルという場所の出身らしい。メーメルは現在のリトアニア・クライペダという町で、当時はプロイセン王国(ドイツ帝国)の一部だった。
南アフリカに住むいとこが、イジドールのパスポートを持っていた。パスポートの氏名欄には「スシェドビッツ、またはスーシェ」と書かれている。名前がややこしいので短くしたのでは、といとこ。ユダヤ人すぎる名前だからだろうか、とも考えるデヴィッド。
イジドールはドイツ訛りがあり、ドイツ語も話したという。1896年に兄ベンジャミン、弟ジョセフの3人でメーメルから南アフリカに移住した。
イジドールの両親の名前がジェイコブ(ヤコブ)とベイラ。一家がメーメルに「移住した」あと、ジェイコブが17歳の時に、当時14~15歳だったベイラと結婚したという。
祖父がロシア系だと思っていたデヴィッドにとって、ドイツ語を話したという祖父の話は意外だった。しかしメーメルはプロイセン王国の一部ではあったが、当時のロシア国境からは実際20キロしか離れていなかった。
しかしイジドールの両親の家族がメーメルへ「移住」した、とはどういうことか?彼らはどこから来たのか?
メーメルへ、そして新たな謎の「証拠」
メーメル、現在のリトアニア・クライペダに飛ぶデヴィッド。
By Mantas Volungevicius - https://www.flickr.com/photos/112693323@N04/15223983163/, CC BY 2.0, Link
現在のクライペダ
港町であるメーメル。ここはユダヤ人にとって安全な場所として、近隣から多くのユダヤ人が集まっていた。しかし1890年頃には、周辺からの移住は禁止されたという。
ここでは、「スシェドヴィッツ」は「スハドヴィッチ」と発音されていたようだ。
1898年の住所録には、曾祖母ベイラの名前が未亡人として記載されていた。しかし残りの家族の情報は、当時のユダヤ人コミュニティの記録にも残っていなかった。それ以前の記録を調べても、スハドヴィッチの名前は出てこない。
調査に行き詰まるデヴィッド。
そこに南アフリカにいるいとこから、小包が届けられる。それは祖父イジドールの弟ジョセフが南アフリカの市民権を取得した時の書類だった。市民権申請時の国籍欄を見て目をみはり、笑い出すデヴィッド。
そこに書かれていた国籍は、なんと「トルコ」
しかし申請書に書かれていた出生地はロシア、クラティンゲン。このトルコ国籍は、後に取得したもののようだ。
同封されていた兄ベンジャミンの申請書にも出生はクラティンゲンとあった。次男だった祖父イジドールもクラティンゲン生まれだと考えられる。
しかし、なぜトルコ国籍なのだろう?
ユダヤ人居留地
クラティンゲンはメーメルからは車で北に30分ほどのところにあり、現在はクレティンガと呼ばれているリトアニアの都市。
ここは、Pale of settlementと呼ばれる、当時のロシアでユダヤ人の居留が許されていたエリアの中にあった。
クレティンガに向かうデヴィッド。
By Not specified in source. - Herman Rosenthal; J.G. Lipman; Vasili Rosenthal; L. Wygodsky; M. Mysh; Abraham Galante (1905) "Russia" in The Jewish Encyclopedia: Vol. 10, Philipson–Samoscz, New York, N.Y.: Funk & Wagnalls, pp. 531, Public Domain, Link
地図の赤く囲まれた部分が居留地域。クラティンゲンは左上のKovnoと書かれている地域にある
ロシアはエカテリーナ2世の頃から、国からユダヤ人を完全に排除・排斥する政策をとっていた。現在のリトアニア、モラビア、ウクライナやベラルーシなど、バルト海から黒海に渡る特定のエリアにのみ、ユダヤ人の居留を許していた。
居留が許された場所であっても、そこはユダヤ人にとって必ずしも住みやすい場所ではなかった。様々な機会や権利は制限され、貧困にあえぐものも多かった。
また「ポグロム」と呼ばれる、地元住民によるユダヤ人コミュニティへの攻撃、殺戮も絶えなかった。またロシア軍に徴兵されれば、宗教的な自由は奪われ、時に虐待や死が待っていたという。
当時ロシア・プロイセン国境沿いを走っていた鉄道路線が現在も使われている。その駅に立つデヴィッド。自由を求め、ロシアからプロイセン側に渡ってきたユダヤ人達。しかしもちろん不法入国になるため、国境を超えることは勇気がいる事だっただろう。
自分はイギリスの安全な環境で育ってはいるが、先祖はもともと安全を求め、移動に移動を重ねたユダヤ人。もしかしたら、ジェイコブは息子達が徴兵されないよう、ロシアからプロイセンに逃げたのかもしれない。
「スーシェ」の謎解き
「スハドヴィッチ」という苗字はドイツ風の名前であるが、もともとのヘブライ語の苗字があるはずである。専門家が調べた結果、それは「ショハッド(Shokhet)」
ヘブライ語で「屠殺者」、ユダヤ教の決まりに従って動物を屠殺し、精肉する者、を意味する名前だった。
ヘブライ文字では特定の音の表記は省略される。ヘブライ語で書いた苗字を再びアルファベットで書き起こすと、「s、ch 、t」。 これは簡単にスーシェ(Suchet)に変換できる。
英語でいうとうちは「ブッチャーさん」だったのか!とデヴィッド。
また語尾の「ヴィッツ」または「ヴィッチ」は「息子」を意味する。つまりは「屠殺者の息子」が、苗字「スーシェ」のもともとの由来だった。
この「ショハッド」で再度調べたところ、ジェイコブ・ショハッド、ベイラ・ショハッドの名前で、曾祖父母の情報が見つかった。そして彼らの出身地が、クレンティガからさらに80キロ離れた場所にあるトリシュキー(Tryškiai)という場所である事もわかった。
「スーシェ」家のルーツの小さな町へ、そして最後の謎解き
トリシュキーに向かうデヴィッド。
By Vilensija - Mano darbas, CC BY-SA 3.0, Nuoroda
この場所もユダヤ人居留地域の中にあり、昔は多くのユダヤ人が住んでいたが、それから200年の間に起きた度重なる迫害・虐殺により、ユダヤ人は全て消えてしまった。
残っているのは、町の外れに残るユダヤ人墓地のみ。現在の町の規模を考えると非常に大きな墓地である。ここにショハッド家の人々も眠っているのかもしれない。
最後に、メーメルで亡くなったジェイコブの死亡証明書が見つかる。トリシュキーで生まれたはずのジェイコブであるが、証明書には出生地はトルコ、と書かれていた。しかしそこに書かれた町の名前は、トルコには存在しない、架空のものだった。
ジェイコブはユダヤ人のアイデンティティを隠すために、居留地にいながら何らかの形で家族とともにトルコ国籍を取得したのではないか。トルコのパスポートを使うことで、家族はロシアからプロイセンに脱出し、ユダヤ人の移住が禁止されつつあったメーメルでも、合法的に滞在することができたと考えられる。
大叔父達の南アフリカ市民権申請書に、国籍が「トルコ」とあったのも、このためであった。
エピローグ
曽祖父ジェイコブは家族をユダヤ人に対する抑圧そして虐殺から救うために力を尽くした。家族はそのあと、プロイセンを経て南アフリカ、そしてイギリスへ渡り、子孫たちは新しい可能性を広げることができたのである。
トリシュキーでデヴィッドの先祖探しの旅は終わった。しかし家族の旅はまさにここから始まったのだ、とデヴィッド。
ひとこと
NHKで放映されていたのをずっと見ていた名探偵ポワロ。懐かしいです。
そしてそのポワロ役だったデヴィッド・スーシェが自らのルーツを探るべく、まさにポワロ並に色々と先祖の謎を調べて行く今回のエピソードは、とても見応えがありました。
とはいっても、謎解きを実際にしたのは、調査を手伝った専門家なのですが。
それでもこの回では、デヴィッドさんが自らマイクロフィルムを回したり、本を調べたりと、かなり積極的に動いていました(エピソードによっては、その場所に行って専門家が調べてくれた書類を見せてもらうだけだったり、話を聞くだけの受け身な人もいます)。
ちなみに関係ありませんが、リトアニアで苗字の謎やトルコ国籍の謎を調べてくれた専門家の人が、能町みね子さんそっくりでした。笑
いずれにせよ、2008年に放送されたこの回は、初期の名作だと思います。先祖を調べる面白さを知ったきっかけにもなりました。ただ、出てきた情報も盛りだくさんすぎて、このエントリーも随分長くなってしまいました。
やはりユダヤ人の先祖の話が色々衝撃的で、最初に出てきた船乗りのおじいさんの話などすっかり忘れてしまうほどでした。
まずは写真家だったひいおじいさんの話。ヨーロッパには古い建物がそのまま残っていることが多いので、当時の住所に行けば同じ建物に当たる確率も高いですが、今回も住所を訪れてみたら、まさにその建物のドアにユダヤ教のシンボルがあったり、隣がシナゴーグだったりと、先祖がそこにいたという証拠がこんなにはっきり残っているのを発見するのは、まさに探偵の行動を追っているよう。
また大叔父の国籍が「トルコ」と書かれた書類を見た時のポワロさん、ではなくデヴィッドさんの反応。これもまるで探偵ドラマで新しい証拠を発見した時のようでした。
そして「スーシェ」という苗字の謎、非常に興味深かったです。ユダヤ教の決まりに従って動物を屠殺し、精肉する(英語ではコーシャー)人のことを「ショーヘート」と呼ぶことは、日本語のウィキペディアにもしっかり書かれていました。
移動する土地によって、自分達の苗字もどんどん変化していく。日本人の自分には、なかなか想像がつかない感覚です。
しかし何よりも、これを見て実感したのは、ユダヤ人がどれだけ迫害され、色々な土地に移動しては追われ、また別の地に移動し、を繰り返してきたかということです。
「ロシアからきたユダヤ人」と言うことで、詳細は取り上げられませんでしたが、「ロシア」からパリに移った曽祖父アーノルドの出生地も、さっと言及していただけでしたが、デュナボルグ(今のラトビア、ダウガフピルス)。このあたりも居留地だったのでしょうか。
「ポグロム」という虐殺行為も、世界史で用語として「暗記」はしたような気もします。が、今回出て来た写真やイラストを見て、その恐ろしさや背景を、初めて実感しました。
こうやって居留地に追いやられ、迫害され、ということが、ナチスドイツの迫害が始まるよりもずっと以前から、各地で繰り返し繰り返しあったということを、より強く理解することができた気がします。
スーシェ家のルーツとして最後に紹介された町、トリシュキーについても少し調べてみましたが、第二次大戦前より、地元住民によるユダヤ人狩り、虐殺が行われ、ユダヤ人が一掃されていたこともわかりました。
ある意味、早めにそんなエリアから脱出し、南アフリカやイギリスに落ち着いた彼の家族はラッキーだったのかもしれません。
そんなユダヤ人一家の子孫であるデヴィッドさんは、イギリスで生まれ育ち、俳優として成功し、めでたしめでたし。以前であれば、そんな気分でこの番組を見ていました。
が、最近の世の中の流れを見ていると、ふと、ここでまた何がどう変わって、例えばまたユダヤ人排斥が起こったら(アメリカでは大統領がそれに加担し始めていますし)。この人だってまた全てを捨ててどこかに逃げなければいけなくなるのだろうか、という考えが頭をよぎりました。
ユダヤ人に限ったことでなく、例えば日本に何かが起きて、日本人が国を捨てなければいけないような状況で、生きていくために他の国へ移動を繰り返さなければならないとしたら、どんな気持ちだろうか?
最近の不穏な世の中を見ていると、安定なんて、本当にあっけなく簡単にくつがえされてしまうものであると感じます。日本で生まれ育った自分には想像が難しい話ではありますが、土地を追われた彼らは新しい地に定住し、そこに根を下ろしたと思っても、政治の風向きでまたその土地を捨てざるを得なくなり、安全を求めて移動する、ということを、もう何千年も繰り返してきたんだな、ということがよくわかるエピソードでした。
実際、たった3世代前まででこれだけの移動を繰り返しているわけで、考えたらこれはずいぶんしんどい。その是非はともかく、ユダヤ人がイスラエルという安住の地を夢見るのもさもありなん、なのかもしれません。
<イギリス版、2008年>
ランキング参加中です。クリックよろしくお願いします。
にほんブログ村