世界のセレブ・ファミリーヒストリー

世界のセレブ・ファミリーヒストリー

英・米・豪・加で放送されている「ファミリーヒストリー」的番組 Who Do You Think You Areの興味深いエピソードを紹介します。セレブの家族史を通じて、世界の知らなかった出来事が見えてくる。今の世界を知る上でも、個人を知る上でも、色々興味深いこと満載です。

【イギリス政治家】ボリス・ジョンソン:保守派政治家の意外なトルコのルーツ・謎の貴族デ・フェフェルとは

プロローグ

政治家、ジャーナリストのボリス・ジョンソン(番組放送当時はロンドン市長。2018年1月現在はテレサ・メイ政権の外務大臣)は1964年生まれ。4人兄弟の長男である。

生粋のイギリス人政治家のように見える彼だが、先祖はロシア、リトアニア、ドイツ、フランスなど様々で、それはまるで「ひとりメルティングポット(人種のるつぼ)」状態。

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By Boris_Johnson_-opening_bell_at_NASDAQ-14Sept2009-3c.jpg: *Boris Johnson -opening bell at NASDAQ-14Sept2009.jpg: Think London
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母方の先祖の中には、ポグロム(ロシアなどで起こったユダヤ人迫害)を逃れてロシアからイギリスに逃げ、後にアインシュタインのチェス仲間になったユダヤ人がいる。

また父方の祖父母はイギリス南部で農業を営んでいたが、その背景は普通の農夫とは程遠い興味深いものだったという。

祖母はいつも自分にはフランスかアルザス地方から来た貴族の血が流れている、と自慢気に話していた。それを聞いて子供心にまさか、と本気にしなかったが、実際はどうなのかはわからない。

そして祖父、ウィルフレッド・ジョンソンはイギリス人とトルコ人のハーフ。祖父の父親、ボリスにとっての曽祖父はトルコ人ジャーナリストで、政治家でもあったアリ・ケマルという人物。しかし彼のことや、その死についてはほとんど家族の間で語られることはなかった。

今回は、彼の家族に伝わる先祖の様々な謎についてせまる。

曽祖父の出生とジョンソンと言う苗字

父親スタンリーに話を聞く。祖父ウィルフレッドは1909年イギリス生まれ。しかし出生証明書にあった名前は「ウィルフレッド・ジョンソン」ではなく、「オスマン・ウィルフレッド・ケマル」だった。

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祖父ウィルフレッド

祖父が生まれた時、父であるアリ・ケマルは仕事で不在。そして母親は出産後死亡。

ウィルフレッドにとっては母方の祖母になるマーガレット・ブルンが出生届の届け人として記載されていた。このマーガレットの旧姓がジョンソンだった。

ウィルフレッドは姉のセルマと共に、祖母マーガレットにイギリスで育てられる。その間、父アリ・ケマルは仕事でトルコに滞在していた。

祖母マーガレットはイギリスに住む子供達の苗字をトルコの「ケマル」から、よりイギリスらしい自分の旧姓である「ジョンソン」に変えた。

もしかしたら自分の苗字もケマルだったかもしれないのか。保守党の政治家である自分の苗字がケマルだったら、いかにも多民族国家イギリスらしくて面白いじゃないか、キャメロン(当時の首相)におい、俺はケマルだぞ!なんて言ったりしてな!と冗談を言い合う2人。

祖父ウィルフレッドはアリ・ケマルのことはほとんど何も話さなかったと言う。自分の父親に会ったことがあるのかも定かではない。

曽祖父アリ・ケマルの生い立ち

曽祖父アリ・ケマルについて詳しいことを知るためにトルコへ飛ぶ。

アリ・ケマルは1869年、当時オスマン・トルコの首都だったイスタンブール生まれ。帝国の繁栄には影が見え始めていた頃だが、イスタンブールはそれでもコスモポリタンな街だった。

アリ・ケマルの孫に当たる、イスタンブール在住のいとこに案内され、彼の生まれたエリアを訪れる。

アリ・ケマルの父親は裕福な商人だった。アリ・ケマルは伝統的なイスラムの学校に通い、アラビア語を覚え、コーランを諳んじたという。

その後フランスに渡りジャーナリストになった。そして1903年、マーガレット・ジョンソンの娘、ウィニフレッド・ブルンと結婚した。その3年後に長女セルマが生まれている。

1908年、アリ・ケマルが40歳の時、妻ウィニフレッド、義理の母マーガレット、長女セルマ一家はトルコに移住する。イスタンブール郊外のベベックという場所に居を構え、ジャーナリストとしての仕事を続けた。

反政府の論陣を張っていたアリ・ケマル

曽祖父の記事が載った新聞を見るボリス。アリ・ケマルは主筆として、一面に大きな署名入りの論説を掲載していた。その内容は専門家に言わせると「危険なほど政治的」だという。

アリ・ケマルがトルコに戻って数週間後にトルコで革命が起こった。長年オスマントルコを支配していたスルタンは権力を奪われ、新政府が樹立された。

しかし一方、新政府による反対派への弾圧が始まる。アリ・ケマルは「自由のための革命のために、逆に自由が奪われている」と新政府や社会に対する批判を繰り広げ、コンセンサスで社会を構築していく重要性を強調していた。

この記事が出された4日前には、アリ・ケマルと似た論調を持つ反対派のジャーナリストが暗殺されたばかりだった。新政府がこのような批判を良しとはしなかったことは明らかで、アリ・ケマルも危険な立場にあった。

当時子供だったセルマの回想記が残っている。ある晩、母と祖母が父アリ・ケマルの帰りを心配して待っている様子が書かれていた。

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アリ・ケマルと娘セルマ

なかなか帰ってこなかった父がようやく帰ってきたのは夜中の3時。椅子に身を投げ出し大変なことになった、と嘆く父。手にした新聞を祖母が見ると、そこには彼、そして彼の友人7名の名前が、「数日以内に絞首刑にされるべき人物リスト」として掲載されていた。

祖母が新聞を見たってことは、彼女はトルコ語が読めたのか!とその部分に驚くボリス。このおばあちゃんはなんだかすごい人物だったに違いない。

アリ・ケマルは殺人予告が出た数日の間になんとかヨットを手配し、暗闇に紛れイスタンブールを脱出、そこからパリに逃れた。残りの7名はその後絞首されたという。

家族はトルコに残ったが、パリからトルコに残った妻に宛てた愛情あふれる手紙が残っている。

政治の表舞台へ

第一次世界大戦において、トルコはドイツ側に立ち敗戦する。その後、イギリス、フランス軍イスタンブールを占領し、連合軍がバックアップする政府が樹立された。アリ・ケマルはこの新政府の内務大臣に就任する。反政府ジャーナリストだった彼の立場が逆転し、政治的権力を持つ側となったのだった。

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内務大臣としてアリ・ケマルは抵抗運動を繰り広げるナショナリスト達の抑制に努めた。ナショナリストの中には、のちにトルコ建国の父となるムスタファ・ケマルも含まれていた。軍人であったムスタファ・ケマルであるが、連合軍の後ろ盾を持つ政府には従わず、トルコを独立に導こうと抵抗運動の指揮をとっていた。

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By NA - Ministry of Culture and Tourism of the Republic of Turkey, Public Domain, Link

ムスタファ・ケマル

新たな戦争の勃発を阻止したかったアリ・ケマルは、ムスタファ・ケマルの軍事指揮権を剥奪、彼の指揮には従わないよう、命令を下した。建国の父として今でも最大の尊敬を集める人物を敵に回してしまったことで、アリ・ケマルは現在のトルコでは反逆者と見られている。

アリ・ケマルがこのような命令を下した背景について語ることも、トルコの歴史学者の間でタブーな部分があるらしい。今回の取材でも、ようやくひとりの歴史学者がこのことについて話すことに合意してくれた。

ムスタファ・ケマルに対する命令を下した後、アリ・ケマルは辞職を余儀なくされた。その後はジャーナリストの仕事に戻り、トルコを破壊するようなナショナリストの活動に反対する記事を書き続けたという。

彼は彼なりに国のことを思っており、新たな戦争を起こしたくない、外交で解決したいという思いがあったのではないか。ムスタファ・ケマルを神聖化するあまり、彼に反対する人物がここまで反逆者扱いされるのはフェアではない、と考えるボリス。

壮絶な死

1922年、ナショナリストが権力を奪還する。アリ・ケマルは真っ先に攻撃の対象となり、その後殺害された。その詳細について、いとこから始めて話を聞くボリス。

逮捕され、尋問を受けたアリ・ケマルは、尋問後、建物から出たところを群衆にリンチされる形で殺された。アリ・ケマルを建物の外に出す際、人々がわざわざ集められ、彼をリンチするよう仕向けられたようである。

ナイフで刺され、倒れた彼の頭からは大量の血が流れたという。群衆は倒れたアリ・ケマルの所有物を略奪し、最後には遺体を木に吊るした。彼が履いていたズボンさえ奪われたという。

アリ・ケマルの足跡をたどってみて、彼のことを誇りに思った。彼は意見を強く持っていただけだった。彼がこのような形で殺されたことも不当だが、このようなリンチの被害者を、今でも犯罪者のように扱っていることにはさらに納得がいかない。彼は暴力に訴えるナショナリストの方法に異を唱えただけだった。祖父にとっては非常に辛い経験だったに違いないし、あまり知りたいとも思わなかったのではないだろうか。

祖母のルーツを探る

トルコのルーツについて語らなかった祖父に反して、祖母アイリーンは自分のフランス貴族のルーツを誇りに思い、デ・フェフェルという古いフランス貴族の血が流れているとよく話題にしていたし、祖母の振る舞いもとても上流階級的だったという。しかし貴族の末裔など、厳しい自然の中で羊を飼ったりと農業を営んでいた祖父母の暮らしからしてみると、あまりにもかけ離れた話で信じ難かった。

ただ祖母は大きな木箱に入った銀食器を持っていて、それは「デ・フェフェル・シルバー」と呼ばれていた。おばあちゃんのためにも「デ・フェフェル」の名を残したいと、親はボリスのミドルネームに「デ・フェフェル」とつけた。

叔母から話を聞く。祖母の父はスタンリー・ウィリアムズ。そして母はフランス人でマリー・ルイーズ・デ・フェフェルという。デ・フェフェルの名前は曽祖母から来ていた。

そして祖母の曾祖父母に当たる、チャールズ・デ・フェフェルとキャロライン・デ・フェフェルの写真が残っていた。

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チャールズの死亡証明書も残されていた。男爵だったチャールズは、1890年ミュンヘンで死亡。そこには様々な国の貴族の名前が親戚として記されており、チャールズは以前バイエルン王に仕えていたようだ。デ・フェフェル家はフランスではなく、ドイツの貴族だった。

キャロラインの謎

1871年まで、ドイツは独立した複数の王国からなる連合国だった。バイエルン王国はその中でも有力で、首都はミュンヘンにあった。

ミュンヘン国立図書館に向かう。

図書館には貴族の情報が登録された系譜帳が残されており、それによるとデ・フェフェル家が貴族となったのは1828年と比較的新しく、古い貴族の家系というわけではなかった。

デ・フェフェル家の紋章を見せてもらう。美しい紋章を前に、おばあちゃんが貴族の出だということを誇りに思い、デ・フェフェルの名前を守りたいと思ったのもわかる気がする、とボリス。

一方興味深いのは、チャールズではなく、その妻キャロラインのほうだった。

実はデ・フェフェル家の家系に興味を持った子孫はボリスが最初ではなかった。1869年に、キャロラインの義理の息子に当たるタフカーチェン伯爵が彼女の血筋について調べようとしていた。

キャロラインの旧姓はフォン・ローゼンバーグ。しかしこの名前は、バイエルン王国の貴族登録情報には含まれておらず、彼女の出自は全くの不明だった。

さらに20年後、キャロラインの死後再度この伯爵が調査を依頼していた。ここで、キャロラインの母親は女優であったことが明らかになったが、父親に関しては不明で、調査はここで終わっていた。当時「女優」は文字どおりではなく、売春婦などの職業を意味した可能性もある。実際伯爵はこの調査に関わった人達に、この情報を口外しないよう依頼していた。

秘密の結婚の謎

View of Augsburg City Hall and other historical buildings in Augsburg
By Alois Wüst - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

1836年、チャールズとキャロラインはアウクスブルグというミュンヘンから80キロ離れた場所で結婚している。この小さな街にわざわざ来て結婚したのは一体なぜだろうか。

アウクスブルグのアーカイブで、マイクロフィルムに残っていた2人の婚姻記録を確認する。

キャロラインは夫チャールズより6歳年上だった。そして結婚式は、アウグスブルグの司教自らが、邸宅内にあるプライベートチャペルで取り仕切り、立会人として有力な政治家の名前が連なるなど、尋常ではないものだった。また、婚姻の記録については、司教が全て保管するとあり、何かを隠そうとしているようにも見える。

もしかして妊娠していたのでは?という推理はあたり、キャロラインは結婚当時妊娠5ヶ月であったという。しかしここにも、キャロラインの父親の名前は無かった。

実際に結婚式が執り行われたチャペルを見学するボリス。ここで秘密裏に行われた結婚式。でも新興貴族と、女優の娘の結婚に、なぜこんなに大物の政治家達や司教が関わっているのか。誰の利益のためだろうか?

チャペルを訪れていたボリスのところに、アーカイブで婚姻記録を見せてくれた教授から連絡が入る。マイクロフィルムでなく、オリジナルを再度当たったところ、新しい情報が見つかったという。

デ・フェフェル・シルバーの謎解ける

アーカイブに舞い戻り、オリジナルを見る。そこには、キャロラインの名前の横に鉛筆で「ポール・フォン・ヴュルテンベルク王子の私生児」と書かれていた。これ、BBCのやらせで書き込んだんじゃないの?と驚くボリス。

しかしキャロラインが王室とつながりがあったため、このような形での結婚となったのは間違いなかった。

ヴュルテンベルク王国バイエルン王国に隣接する王国だった。当時の首都、シュトゥットガルトに向かう。

キャロラインの父ポールは、ヴュルテンベルク王ヴィルヘルム1世の弟だった。おばあちゃんが言っていた貴族の血は、フランスではなくドイツのものだった。

ここで気になるのは、王室、そして父ポールは娘を庇護したのかということ。金銭的援助はあったのか。そして何より、キャロラインは父親を知っていたのだろうか。

王室アーカイブにはキャロラインに関する分厚いファイルが残っていた。そこには、23歳のキャロラインがシュトゥットガルトに伯父であるヴィルヘルム1世を訪れ、庇護を求めたことが書かれていた。

それによると、キャロラインはそれまで父親とパリで暮らしていたが、望まない結婚をさせられそうになったため、家を飛び出したのだという。

またキャロラインは王から銀の食器を受け取っており、そのリストも残っていた。これはもしかして、家にあった「デ・フェフェル・シルバー」ではないか?

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昔銀食器と一緒に撮った写真と付き合わせてみると、コーヒーポットや砂糖入れなど、全て一致した。残念ながら、この銀食器は祖父母がオーストラリアに移住した時に売ってしまったが、これで全てが腑に落ちた。

さらなる王室との血縁

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By Mussklprozz at the German language Wikipedia, CC 表示-継承 3.0, Link

ヴュルテンベルク王家について知るため、城があるルートヴィヒスブルクに向かう。壮大な城を前に、この城の所有権を取り戻さないとな、と冗談を言うボリス。

Seele-Friedrich I..jpg<br>By Johann Baptist Seele - eingescannt aus: Hansmartin Decker-Hauff: Frauen im Hause Württemberg, Leinfelden-Echterdingen, 1997, パブリック・ドメイン, Link

ヴュルテンベルク王フリードリヒ

キャロラインの祖父にあたる人物は、ヴュルテンベルク王フリードリヒ。そしてその妻アウグステの母親は、オーガスタ・オブ・ウェールズ。そしてその父親はウェールズ公(皇太子)フレデリック・ルイス・ハノーヴァーであった。ウェールズって、あのイギリスの?と思わず聞くボリス。さらにさかのぼると、その父親はイギリス王ジョージ2世だった。

イギリス王室と繋がりがあるなんて、前からそうじゃないかと思ってたんだよ!と冗談を言うボリス。これはイギリス王室だけでなく、ヨーロッパ中の王室と血縁があるということでもあった。

遺伝的には関係していても、王位継承権があるわけではないのが残念だけれど。こうなったら法廷で戦って、このお城を取り戻すか!

エピローグ

自分が王室と関係あることを知って驚き以上にあっけに取られてしまった。自分はトルコ、ユダヤ、そしてデ・フェフェルという謎の外国の貴族などが混ざった変わった雑種だと思っていたので、何よりイギリス王室と関係があることがわかったのがとても嬉しい。自分の家系は、後にイギリスにやってきた「ニューカマー」の家系だと思っていたので、すごく変に感じる。

でも同時に、自分と同じように、気付かないだけで王室と血縁がある人は何千何万人もいるんだろう。遺伝子というのは過去からこうやって脈々とつながって来ていて、自分はその遺伝子を次に受け渡す一時的な所有者にすぎない。どこから来たのかも、これからどこに行くのかもわからない。それはすごく民主的なことだと思う。

おばあちゃんは正しかったのだな。笑うべきではなかった。では、これから王権を取り戻すために頑張るぞ!

ひとこと

Brexitの先鋒みたいな人のファミリーヒストリーがこんなにカラフルでドラマチックだったのは非常に興味深かったです。エピソードの中でも、自分の外国のルーツにばかり注目するのはPRとして良くないかもしれない、みたいなことをもぞもぞ言っていました。しかしイギリスって本当に多民族国家なのですね。イギリスに深いルーツが無いと思っていたからこそ、逆に保守的になるということもありえるんでしょうか。

ヨーロッパの王家との関係はやはり鉛筆書きの情報が見つかったところがハイライトでしたが、このプラチナブロンドの政治家のルーツがトルコにあったのが何より興味深かったです。テレビ番組なので多くの情報を端折っている部分もありましたが、アリ・ケマルの母はコーカサス系のチェルケス人、オリンピックが開催されたロシアのソチにもともといた民族だったそう。

アリ・ケマルはジャーナリストとしてヨーロッパを旅しており、ボリスの曾祖母と出会ったのはスイス。トルコやイギリスなどでも暮らしましたが、妻がボリスの祖父を産んでなくなった後は一人でトルコに戻り、そこで再婚していました。彼が政治の舞台に立ち始めた時、イギリスにいる子供達とはもう疎遠になっていたのかもしれません。

番組の中でイスタンブール在住のボリスの「いとこ」として登場した人物は、2度めの結婚で生まれた孫。彼も編集者だそう(ボリス・ジョンソンも新聞の編集者をしていました)。再婚で生まれたアリ・ケマルの息子は母親とずっとスイスで暮らしていましたが、ケマル・アタテュルクの死後トルコに戻り、外交官になったそうです。

またボリスの祖父、ウィルフレッドの姉セルマは後にケマル姓とトルコ国籍を取り戻したとか。

アリ・ケマルとアタテュルクのことについて語るのがトルコではまだタブー、というのも非常に興味深かったです。ケマル・アタテュルクの神格化はそこまですごいということなんでしょうが、それ以前のトルコの独立運動においても随分と暴力腐敗虐殺があったようですし、そういう部分に声をあげたアリ・ケマルが反逆者として扱われているのは、勝てば官軍なのか、やはり釈然としないものはあります。ただトルコの独立運動の詳細な歴史やアリ・ケマルの本当の立ち位置について詳しく知らないので、なんとも言えませんが・・。

フランス語、そしてドイツ語の昔の書類をボリス・ジョンソンが翻訳なしでそのまますらすら読んでいたのにも驚きました。やはりヨーロッパの知識層。

そしてドイツの王権を取り戻すぞ!と冗談でいきまくボリス・ジョンソンに、城を案内していたドイツ人の専門家が「まあ頑張ってね。もしうまくいって、このお城の一室を賃貸にだすようだったら連絡して」と返していたのが面白かったです。2人とも半分真顔で冗談を言い合っていたあたりもヨーロピアンとアメリカンの違いでしょうか(笑)

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