世界のセレブ・ファミリーヒストリー

世界のセレブ・ファミリーヒストリー

英・米・豪・加で放送されている「ファミリーヒストリー」的番組 Who Do You Think You Areの興味深いエピソードを紹介します。セレブの家族史を通じて、世界の知らなかった出来事が見えてくる。今の世界を知る上でも、個人を知る上でも、色々興味深いこと満載です。

【コメディアン:アリステア・マクゴワン】アングロ・インディアン〜インドに根ざしたイギリス人先祖の謎

プロローグ

アリステア・マクゴワンはイギリスのコメディアン・俳優。テレビドラマやミュージカルなどの舞台でも活躍している。

マクゴワンと言う苗字はスコットランド系だが、彼の容貌はスコットランドらしくなく、とてもエキゾチック。昔はよく、あなたは何人なの?と聞かれたという。


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実はアリステアの父ジョージはインド生まれ、インド育ち。しかしインド人というわけではなく、長年インドに住んでいた英国人一家だったらしい。髪や瞳の色がダークなのは、ポルトガル人女性と結婚した先祖がいたから、と聞いている。

しかし父が亡くなった時に取り寄せたインドの出生証明書に、父の出自は「アングロ・インディアン」だと書かれていた。これは一体どういうことなのだろうか。父方の先祖の謎を探る。

カルカッタ生まれの父

ジョージは1928年、インド・カルカッタ生まれ。

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出生証明書を再度確認する。国籍・カースト欄に書かれていた「アングロ・インディアン」の文字。イギリス人なら、国籍・イギリスで良いはずだが・・・。

アリステアの母「インドで生まれ育ったアングロ・インディアンは、イギリス人でもない、インド人でもない、微妙な立ち位置にあったみたい。そのせいか、お父さんは自分はカルカッタ生まれだとは言っても、自分はアングロ・インディアンだ、とは一度も言ったことはなかったわね。カルカッタ生まれだということは誇りに思っていたみたいだけれど」

当時イギリスの植民地だったカルカッタ。父ジョージはインドが独立した6年後、1953年にイギリスに戻り、教師として働いた。

叔父とめぐるカルカッタ

インドをはじめて訪れるアリステア。インドを離れて以来60年ぶりにカルカッタを訪れるという叔父が案内してくれる。

アリステアの叔父「家族の中にインド人と結婚した人がいるという話は聞いたことがない。マクゴワン家はインド人との混血というわけではないと思う」

「当時インドで生まれたイギリス人は、自動的にアングロ・インディアンと呼ばれていた。マクゴワンの人間は髪や目の色が暗いが、何代か前にポルトガル人の奥さんをもらった人がいるからだと思う」

マクゴワン家はカルカッタの港近くに住んでいた。当時の住居を訪れる2人。

祖父セシルは港で荷役監督として働いていたが、趣味はボディービルディングで、レスリング王との異名をとるほどだった。ボディービルのジムを開き、地元民に人気だったという。

当時17歳だった父ジョージの写真も残っていた。

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ムキムキ親子

当時のパーティーの写真を見るアリステア。洋装をした様々な肌の色の人々が集まっている。叔父の説明では、「アングロ・インディアン」はインド生まれのイギリス人を指すというが、写真を見てみると、アングロ・インディアンの肌色は他のヨーロッパ系の住民に比べ、明らかに濃い。

アングロ・インディアンとは

マーヴィン・ブラウンというアングロ・インディアンの専門家に話を聞く。イギリス風の名前だが、出てきたのは小さなインド人のおじさん。彼もアングロ・インディアンだった。

アングロ・インディアンはイギリス人だが、インド人女性と結婚した先祖がいる混血の家系のことを指すという。

アングロ・インディアンの起源は、ポルトガルの時代にまでさかのぼる。ポルトガルは1510年頃、インド南部のゴアを植民地化した。1600年代に入り、イギリスが東インド会社を通じてインドを支配していく。

最初は、植民地にやってきたヨーロッパ人が、現地の女性と一時的な関係を持ち、子供が生まれるケースが多かったかもしれない。その後東インド会社は、地元に定着するためにも、また植民地経営に有用な人材を生み出すためにも、社員と現地女性との結婚を奨励するようになった。

生まれた子供はイギリス式の教育を受け、英語を母語とし、洋服を着て、キリスト教を信仰するなど、完全にイギリス人として育てられた。

曽祖父リチャード

叔父が持っていた曽祖父母の写真。

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曽祖父の名前はリチャード・マクゴワン、曽祖母はイザベル・スチュアート。インド人らしからぬ名前だが、写真を見ると完全にアングロ・インディアンだった。

彼らはアラハバードに住み、リチャードは電報局に勤務。

19世紀後半、イギリス政府はインドに鉄道、通信網を敷いたが、その建築監督の多くがアングロ・インディアンだった。1920年代、アングロ・インディアンの人口の半分が鉄道関連の職についていたという。アラハバードも鉄道の重要な拠点であった。

よりインド人に近い風貌のリチャード。彼の母親がインド人だったのだろうか。

親戚と対面

アラハバードのキリスト教墓地を訪れるアリステア。ここには多くのマクゴワン家の人々が埋葬されていた。

埋葬記録を確認すると、曽祖父リチャードは43歳の若さで、脳溢血で亡くなっていた。祖父セシルも、また父ジョージも脳溢血で亡くなっている。ぞくっとするアリステア。

現在もこの地域に住むマクゴワン家の人々を尋ねる。門柱の表札にマクゴワンとあるのを見て、ここはインドなのだよな・・信じられない、と変な気持ちになるアリステア。

中から出てきたのは、見た目は完全にインド人だが、レジー、ブライアン、ジョナサン・・と、英国風の名前を持つマクゴワン家の人々だった。

その中で高祖父が同じだという「みいとこ」がいた。彼によると、高祖父の名前はラルフ・ジョージ・マクゴワン。妻はエレン。

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ラルフは裁判所の事務員だった。

イギリス政府は、植民地での反乱などを恐れ、同じイギリス人であっても、アングロ・インディアンには権力・特権を与えないよう注意を払っていた。1795年にはすでにアングロ・インディアンの行動を制限する法律が制定されている。このため、ラルフは一生昇進することはなかったという。

高祖父ラルフは1836年生まれ。残されていた出生記録から、父親の名前はスートニアス・マクゴワン、アラハバードの隣、ミールザープルという街の行政官だったことがわかった。しかし、記録には母親の名前が書かれていない。

インド人女性と結婚した先祖

先祖が洗礼を受けた、ミールザープルの教会に向かう。

当時、インドに住む英国人女性の数が絶対的に少ないこともあり、インド人女性と結婚する英国人は多かったという。

当時の教会のパンフレットにスートニアスが、現地の高貴なムスリム女性と結婚したことが書かれていた。当時この地域の土地はイスラム教徒が所有しており、おそらく土地所有者の娘だったと考えられる。

妻がキリスト教徒ではなかったため、教会の出生記録に名前が書かれなかったようだ。

スートニアスは、キリスト教の中でも、スウェーデン神学者エマヌエル・スウィーデンボルグの教えを信仰していた。これは、三位一体を否定するもので、イギリス国教会の教えとは真っ向から対立するものだった。しかしこの考え方は、イスラム教の教義に通じるものでもあった。

イギリス国教会の宣教師達が、地元民達を改宗させようとしていたのに対し、スートニアスは彼らの宗教に敬意を表し、ムスリム女性と結婚したとも言える。それは当時にしてみれば非常に勇気のいることであったろう。スートニアスは信念の人であった。

初めてインドに来た先祖は誰?

インド人の先祖が誰だかわかったところで、次に気になるのは、スコットランドからインドに初めてやってきた先祖は誰かということ。

ムスリム女性と結婚したスートニアスはインド生まれ。

その父親の名前もスートニアスで、東インド会社の軍人だったが、こちらもベンガル生まれ。1798年に23歳の若さで亡くなっている。スートニアスという仰々しい名前の先祖が2人もいるのか!とアリステア。

彼の両親の名前はジョンとメアリー。このジョン・マクゴワンがスコットランドからやってきた人物だろうか?

それにしても、自分のアリステア・マクゴワンというスコットランド的な名前に対して、調べても調べても全くスコットランドが出てこない。インドとのコネクションが深すぎてびっくりする。

アリステアの先祖は、なんと6世代にもわたりインドに根を下ろしていたのだった。

マクゴワン家、驚きの出身地

イギリスに戻り、ジョン・マクゴワンについての資料を大英図書館で閲覧する。

ジョンも東インド会社の軍人だった。そして妻の名前は、メアリーと記されていたが、フルネームはマリア・デ・クルス。この名前、彼女がポルトガル人の奥さんだろうか。

ジョンは下級兵士として軍に入隊したが、その後着々と昇進し、最後には少将になった。彼の遺言書も残っており、そこに残された資産一覧は、金の調度品や象3頭など豪華なものだった。

専門家によると、妻マリアはポルトガル人ではなく、キリスト教に改宗したインド人か、混血の女性だったと考えられる。名前からすると、おそらくインドとポルトガル人の混血だったのではないかという。

1765年、彼らがマドラスのセント・ジョージ要塞で結婚した記録が残っていた。ここはインドに初めて建設されたイギリスの交易、防衛のための場所だった。

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By Jan Van Ryne (1712–60); Publisher: Robert Sayer - Old source New source, パブリック・ドメイン, Link

東インド会社は兵士がインド人女性と結婚して子供をもうけることを奨励し、1687年には金銭的支援も与える布告も出している。こうして、アングロ・インディアンのコミュニティが生まれていたのだった。

エピローグ

では、肝心のジョンの出身地は?

ジョンの入隊記録も残っていた。そこに書かれていた出身国は・・

アイルランド

えーー!と驚くアリステア。スコットランドじゃあ、ないの?!大ショック。あんなにスコットランドを応援する歌を歌ったりしてたのに、アイルランドとは・・・。実際アイルランドのスリゴーという街にマクゴワンという苗字が多いのは知っていたが・・・自分の中でアイルランドに全くつながりも思い入れもない!

アイルランドとインド。思いがけなさすぎる自分のルーツに少しガクッとするアリステア。「みなさんこんにちは、私の名前はシェイマス・シンです」

(注:シェイマスはアイルランドの名前、シンはインドによくある苗字)

ひとこと

このエピソードは本当に面白かったです。スコットランドの血だ、ポルトガルの血だ、と思っていたものが、全部ひっくり返されるという・・(笑)

アングロ・インディアンという人達の存在もこのエピソードで初めて知りました。イギリスの名前、キリスト教を信仰しているけれど、見た目はもう完全にインド人な人達。本当に植民地時代の忘れ物といった感じがします。名前は同じなのに、ここまで見た目が違う一族が親戚として出てきたら、それはひっくり返って驚きますよね。

それにしても叔父さんは、自分達の中にインド人の血は入っていない、と言い切っていましたが、先祖の写真に写っている顔はどれも完全にインド人。間違いようがありません。勝手な推測ではありますが、なんとなく、家系にインド人の血が入っていることをあまり認めたくないような風潮があったんでしょうか。

そこは不思議な感じがしましたが、アングロ・インディアンがイギリス人としての誇りを持ちながらも、必ずしもイギリス人と同じ地位を持っていなかったことを考えると、複雑だったのだろうかなとも考えます。

結婚もアングロ・インディアン同士の場合が多かったようですので、ここで紹介されたムスリム女性や、ポルトガル・インド混血女性だけでなく、もっとインドの血は濃く受け継がれてきたのではと思いました。

植民地支配による混血の歴史については、こんなエピソードもありました

familyhistory.hatenadiary.com

そして最後の最後に、スコットランドがルーツじゃなかったことがわかった時の反応。どっひゃー!!という感じでした。日本だったら、沖縄のルーツを誇りに思ってカチャーシーを踊ったりしていたのに、蓋を開けてみたら福岡出身だった・・みたいな感じでしょうか(ちょっと違いますかね。笑)

ちなみにアリステア・マクゴワン、日本語では全く情報が出てこなかったのですが、主に有名人のものまねをすることで有名なコメディアンです。ものまね芸人ともまたちょっと違う感じなのですが、地方や階級によってアクセントが様々なイギリスらしく、有名人の声色やアクセントを自由自在に使い分ける職人技を持ち、自らのコメディーショーも持っていました。アクセントを使い分ける能力は、舞台などでも発揮されるようです。

【歌手:ライオネル・リッチー】謎の曽祖父、公民権運動への先駆け

プロローグ

言わずも知れた歌手、ライオネル・リッチー

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By U.S. State Department - https://www.flickr.com/photos/statephotos/38832214941/in/photolist-22ayQ4r-215bWSS-22atfBg, Public Domain, Link

アラバマ州タスキーギ生まれ。黒人の大学として歴史的にも有名なタスキーギ大学のキャンパスで育った。母、祖母ともにこの大学で教鞭をとっていたという。

自分はディープ・サウスで育ったと言うよりは、大学のキャンパスという守られた環境で育った、と語るライオネル。公民権運動が起こっている間も、ここは黒人が博士号をとったり、弁護士になれるような場所だった。両親は人種隔離政策のことについては話してくれなかったし、時にKKKが来るようなことがあれば、子供達を早く寝かせたと言う。

大学時代に結成したバンド、コモドアーズの活動を通じて、より自分の世界、視野が広がり、そして両親が自分に与えてくれた環境に感謝せざるをえなかった。しかし、自分たちにこのような環境を与えるまでにいたった最初の先祖は誰だったのか。家族の中の「ジャイアント」は誰だったのか知りたい。

語られることのなかった祖母の父

タスキーギで妹デボラに会い、話をする。1893年生まれの祖母アデレードは103歳まで生きたが、自分の父親について話すのを一度も聞いたことがなかった。

祖母の社会保障関連の書類から、祖母はナッシュビル生まれ、父の名前はジョン・ルイス・ブラウンであることがわかった。

祖母の両親、ライオネルにとっての曾祖父母の婚姻記録が見つかる。2人の結婚は1890年。

結婚当時、曾祖母は15歳、曽祖父は50歳。当時は12歳から結婚が許されたというが、2人の歳の差は当時でも普通ではなかった。12歳の娘がいるライオネルは、自分が父親だったらショットガンで撃つレベルだろう、とウッとなる。

1897年、離婚を求める書類が提出されていた。やはり歳の差がありすぎて考え方が合わないこと、2年前から別居していることなどから、離婚は認められた。

2人の歳の差を考えると、ジョン・ルイスはおそらく奴隷解放以前、奴隷として生まれた可能性がある。世代の違いだけでなく、そういった背景も考え方の違いに現れたのではないだろうかと考えるライオネル。

曽祖父が所属した団体

曾祖母が離婚を申請した際、曾祖母はナッシュビル、曽祖父はチャタヌガと離れて暮らしていた。ジョン・ルイスは妻と子供と離れ、何をしていたのだろうか。

当時のディレクトリをたどると、曽祖父の職業は、SGA、 Knights of Wise Menのエディター、と書かれていた。

エディターということは、まず彼は文盲ではなく、教育があったと考えられる。そして「Knights of Wise Men」とは一体何なのか。何かの雑誌なのか、団体なのか。

専門家に話を聞く。この「Knights of Wise Men」は、黒人による友愛組合(fraternal order - ライオンズクラブロータリークラブもこの部類に入る)で、経済互助会的な役割を果たしていたという。特にメンバーの医療費や死亡時の補償金などを提供しており、ある意味保険の先駆けのような活動を行っていた。

南北戦争後、南部においても、黒人が政治に参与し、社会改革に取り組む動きがあった。しかしそれは白人コミュニティの反発にあい長くは続かず、改革は後戻りしてしまっていた。

そんな中、1879年、曽祖父のような先見の明がある人物たちにより、黒人を支援するためのこの組合が設立された。全国的にもこのような活動は広がり、1882年までにメンバーは278名にもなっていたという。

このような活動は、のちに公民権運動を進める原動力になったとも言える。

公民権運動の先駆的団体のリーダーだった曽祖父

曽祖父の名前の前についていた「SGA」とは「Supreme Grand Archon」という肩書きの略だった。彼はこの組合の全国的なリーダーであった。さらに、彼が執筆した、組合の規約書も見つかる。そんなに大きなビジョンを持った人だったのか、と驚嘆するライオネル。

この団体はその後どうなったのだろうか。1891年の新聞記事によると、1885年天然痘の流行の際、保険金支払いにより資金源が枯渇して存続が危ぶまれる危機に。さらに財務責任者が資金を横領して逃亡するという憂き目にもあってしまった。

1915年までには、すでに全国的な組合ではなくなっていたことがわかった。

この時期は結婚も仕事もうまく行かず、おそらく色々なことを立て直そうとしていたのではないか、と考えるライオネル。曽祖父の当時の気持ちが容易に想像できる。そして公民権運動の先駆けになるような活動をしていた曽祖父を誇りに思う。

曽祖父のその後

曽祖父が妻子と離れて暮らしていたチャタヌガに向かう。組合の活動がうまくいかなくなった後、ここに移動したようだ。

1929年のディレクトリに当時90歳のジョン・ルイスの情報が残っていた。祖母が103歳まで生きたのはこの血筋だな、と考えるライオネル。

90歳のジョン・ルイスの職業は墓地の管理人。この時点で、組合はもうなくなっていたかもしれないが、彼は生活のためにずいぶん長い間働いていたことになる。またこの墓地は23エーカー(東京ドーム2個分)と広大なものであった。90歳でそんな広い場所を管理していたことも驚かれる。

チャタヌガで成功した黒人を集めた当時の書籍が見つかり、そこでジョン・ルイスも写真付きで紹介されていた。人間は生まれた時から死ぬまで、教育がいかに大事かということが、彼の言葉で雄弁に書かれていた。

写真を見て、自分とおでこのあたりがそっくりだ、というライオネル。

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ジョン・ルイスの死亡証明書。チャタヌガでなくなり、自分が管理していた墓地に埋葬されていた。また死亡証明書には、ジョン・ルイスの父親としてモーガン・ブラウンという名前が記されていた。しかし母親の名前は不明とも。

ジョン・ルイスが埋葬されている墓地を訪れる。黒人が多く埋葬されているというこの墓地は、墓石もあまりなく、うっそうとした林の中に落ち葉に埋もれた場所で、ライオネルが想像していたような場所ではなかった。

曽祖父が埋葬されているエリアを訪れるライオネル。曽祖父がここを歩き、そして今この一部になっていることを思い、涙する。

曽祖父の出生の謎

死亡証明書に書かれた、モーガン・ブラウンという名前。この父親は誰だったのか。曽祖父は奴隷だったのか、それとも自由な身で生まれたのか。

1924年ジョン・ルイスが85歳の時に申請していた黒人向け年金記録が見つかる。曽祖父は1861年、22歳の時南北戦争に参加しており、その際の軍人年金を受け取っていたのだった。書類には、当時、自分を「所有していた人物」の名前を書く欄があり、そこにはモーガン・W・ブラウンという名前が記されていた。

所有者と言う名前が大きく響く。彼は奴隷であった。

しかし所有者、そして別の書類では父親と記されていたこのモーガン・ブラウンとは誰なのか。

専門家に話を聞く。当時、この地域にモーガン・ブラウン(ドクター・ブラウン)という医者がおり、プランテーションも所有していたという。また、ドクター・ブラウンには、モーガン・W・ブラウンという名前の息子がいたという。

なんと1839年、ドクター・ブラウンの日記が残っていた。

「この日の夜、マライアが男の子を産んだ。子供にはルイスと名付けた」

ルイスとは、ジョン・ルイスのことである。そしてマライアはドクターの奴隷であった。この時代、奴隷所有者がわざわざこのようなことを日記に記すのは珍しいという。やはりドクターが父親ということだろうか。

ただしこの時ドクターは80歳。息子モーガン・Wは39歳。どちらかというと息子が父親である可能性の方が高いが、確実なことはわからなかった。

白人の先祖

マライアが妊娠中にドクターが書き残した遺言状も見つかった。そこには、マライアと、生まれてくる子供を奴隷から解放するよう、そして住む場所と、子供には2年間の教育を与えるよう、書かれていた。奴隷に対してこのような遺言を残すことは非常に珍しい。やはり何らかの血縁があったことは確かであろう。

遺言状の内容を、息子が実際に実行したかはわからないが、解放された後に必要であれば住む土地も用意されていた。

曽祖父の父親か、異母兄弟であると思われるモーガン・Wの肖像画も見つかった。

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この調査を始める時、奴隷制のあったひどい時代、こういう先祖がいるかもしれない、と言うことは考えた。実際にこうやって見ると、末恐ろしいものを感じる。しかし一方で、少しでも曽祖父やその母を守ろうとする思いがあったのことは、ほっとした。

この庇護により、曽祖父は教育を得ることができたわけだし、ある意味奴隷としての苦しみから逃れられた部分もあったかもしれない。自分が大学キャンパスという、守られた環境の中にいたのと似たものを感じる。

エピローグ

今回の調査でわかったことを子供達に伝えるライオネル。彼らのおかげで今の自分たちがあることを伝える。

今まで、曽祖父について語られなかったのは、何か悪い秘密があるからだと思っていた。祖母は何かを隠していたのではなく、単に知らなかったのだと思う。

彼らの強さ、家族だけでなく、黒人社会のために立ち上がった曽祖父の強さに驚嘆する。彼の夢が、今の自分たちの現実なのだ。

ひとこと

2月はアフリカン・ヒストリーの月ということで、アメリカでは公民権運動やキング牧師など黒人の歴史について学校でも色々と学ぶ機会がある月になっています。今月はできるだけそういったエピソードも紹介したいと思います。

南北戦争後、南部でも黒人が政治に積極的に参加するようになり、改革と平等を推し進める動きがあったこと、しかしその動きが白人により押し戻されてしまったという事実は興味深いです。今と前の政権にも何となく重なってしまいます。

以前にも奴隷制の背景についてはいくつかエピソードを紹介しましたが、必ず出てくる白人の先祖。ある意味奴隷は家畜同様だったため、所有者のレイプにより産み増やさせたという恐ろしい背景もあり、自分にそんな血が流れているということにゾッとしたり、怒りを覚えるエピソードもたくさんありました。

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その中でも、所有者が血縁を認めて何とか庇護しようとした形跡が見えるエピソードもありましたが、だからと言ってハートウォーミング、と思ってはいけませんね。

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【女優】クリスティーナ・アップルゲイト:母の記憶が無い父

プロローグ

女優、クリスティーナ・アップルゲイト

ロサンゼルス生まれ、ロサンゼルス育ち。母は女優、父はレコードプロデューサーと言うショービジネスの家庭に育った。子役の頃から活躍し、特に10年間続いたコメディードラマ「Married with Children」で一躍有名になった。

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By Gage Skidmore - https://www.flickr.com/photos/gageskidmore/14781869542/, CC BY 2.0, Link

両親はクリスティーナが5ヶ月の時に離婚、母に育てられた。父ボブとは離れて暮らしていたが、孫が生まれたことで、より交流するようになったという。

クリスティーナの父ボブは、母を知らずに育った。若くして亡くなったらしく、記憶が全くないどころか、名前さえ知らないらしい。何らかの理由で父ボブの面倒を見れなかったようで、またその死についても、あまり良い噂を聞いていない。

最近になり、子供達で父の出生証明書を取り寄せて初めて、父の母親の名前がラヴィーナだと言うことがわかった。

父は自分がどこからきたのか、誰なのかを知らない。それが原因で、色々な気持ちを押し込めてきたところがあると思う。今回は父の母、自分の祖母のことを明らかにすることで、父の長年の疑問をといてあげたい。

母親の記憶が全くない父

父ボブに話を聞く。出生証明書によると、1942年、ニュージャージー州トレントン生まれ。出生証明書を見るまで、実は自分はもっと歳をとっていると思っていたのでびっくりしたという。父の名前はポール・アップルゲイト、母の名前はラヴィーナ・ショー。

父方の祖母に育てられたという父。祖母が年老いたため、14歳頃から父親と暮らし始めた。自分の母の死については、7歳の頃、祖母に朝食のテーブルでさらっと「亡くなった」と言われたという。しかもバーの外で殴り殺されたと。自分の母親がそんな死に方をしたなんて信じたくない。母が誰なのか、何があったのか知りたい。

ニュージャージー州トレントンに向かうクリスティーナ。

祖父母の婚姻証明書を確認する。祖母ラヴィーナは1921年生まれ。19歳で結婚。また、父が生まれた時、ラヴィーナは実家に身を寄せていたこともわかった。出産前から祖父母は既に別居していたようだ。

母親の足跡をたどる

トレントンの図書館で地元の新聞情報を調べる。

1934年の社交欄にまた子供だった祖母ラヴィーナと妹の写真が掲載されていた。ニューヨークやフィラデルフィアに家族旅行をしたことが書かれている。また彼らの住所は、トレントンの中でも裕福な地域のものだった。

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6年後、1940年の国勢調査を調べる。父親は失業して4ヶ月。当時18歳のラヴィーナの最終学歴は中学2年で止まっていた。

大恐慌後のアメリカでは、少しでも家計を助けるため、子供が退学して働きに出ることは珍しいことではなかった。しかしこの国勢調査では、家族で働いているものは誰もいない。裕福な暮らしから、貧困におちいった家族の姿がそこにはあった。

暴力をふるっていた祖父?

父が生まれた時、祖父母は既に別居していた。2人の間に何があったのか。

2人の結婚について、大量の法廷資料が見つかる。

1942年10月、ラヴィーナが提出した上申書。父はその1ヶ月後の11月に生まれており、ラヴィーナは臨月の妊婦だった。

2人は結婚後数ヶ月は一緒に暮らしたが、その後別居していた。

上申書には祖父ポールが祖母ラヴィーナに暴力をふるっていた詳細が書かれていた。祖父がもう暴力は振るわないと約束したため、祖母はいったん祖父の元に戻ったが、暴力は続いた。最後には祖父が祖母を追い出す形で別居。

祖母ラヴィーナは、自分と生まれてくる子供のために金銭的支援をする約束を祖父から取り付けたが、一銭も支払われていない。そのことを訴えるものであった。

親権をめぐる争い

離婚そのものは1945年に成立。父ボブの親権は祖母ラヴィーナに渡ったが、その後祖父ポールが親権を取り戻そうと裁判を起こしていた。

祖父が提出した書類には、離婚前、祖母が家を出た後なんども戻るよう求めたが、祖母が他の男性と同居を始めたため、(当時不倫は逮捕の対象ともなった)祖母をまだ愛していたが、離婚した方が彼女のためになると思い合意した、とあった。

しかし離婚後、祖母は他の男性と同居しながらも、祖父との関係を続けており、また祖母が子供をおいて明け方に酔って帰ってくることもあったという。

また子供の養育費は出すが、祖母は職についているため、慰謝料を払うことは拒否するとも。

さらに添付されていた医者の診断書には、2歳の父ボブが肺炎にかかっていること、また栄養失調が疑われることが書かれていた。

一連のやりとりを読み、祖父母に大きな怒りを覚えるクリスティーナ。

それに対して祖母は、酒を飲み暴れていたのは祖父ポールのほうであること、男性と同居などしていないこと、子供が肺炎にかかってしまったが、それまでは健康そのもので、大事に育ててきたと反論。仕事などで出かける時は自分の母親か、上階に住む大家に預けていたことを証明する書類を提出していた。

この時代、離婚後の親権はほぼ自動的に母親に渡されていた。祖父ポールが親権を得るには、祖母ラヴィーナが母親としてふさわしくないことを証明しなくてはならなかったが、提出された証拠は十分ではないとして、親権は母親であるラヴィーナが持つ判決が下された。

母のその後

父ボブは、自分の母親とは一緒に暮らしたことはないと言っていたが、実際は短い間でも生活していたらしい。

しかし公的な記録はここで途絶えており、その後、なぜ父が父方の祖母に引き取られたのかはわからなかった。

ショッキングな情報が次から次へと出てきて、涙とともに怒りを覚えるクリスティーナ。一方だけの話を信じるのは難しいし、誰かのことを悪く思うのはいけないことだとは思うが、自分の祖父母を悪く思ってしまうことが悲しい。

1946年、ラヴィーナの母親の死亡証明書が見つかった。離婚裁判が終わってあまり時間が立たずに亡くなっていた。裁判では、子供の面倒は自分の母親が見てくれていると述べていたことから、子供の面倒を見てくれる人を急に亡くし、急遽父方の祖母が面倒を見るようになったのかもしれない。

その後ラヴィーナはどうなったのだろうか。

新聞記事を検索してみると、ラヴィーナ・ウォルトンの名前で死亡広告が見つかった。その後再婚したらしい。1955年、33歳で亡くなっていた。記事には、残された子供として、父ボブの名前も記載されていた。父が13歳の頃のことだったが、父は何も知らなかったことになる。

死亡証明書を確認してみる。死因は結核。しかし同時に、慢性アルコール中毒による肝硬変も併発していた。

ということは・・・、裁判で祖父ポールが主張していたことには真実もあったのかもしれない。

祖母ラヴィーナが埋葬された場所も明らかになった。

おそらく自分の母が亡くなって、息子を見てもらえる人がいなくなったため、祖母は父を手放すしかなかったのではないか。色々な疑問は最後まで解けなかったが、少なくとも父に、自分の母親の死が、言われていたようなひどいものではなかったことを伝えることはできる、とクリスティーナ。

プロローグ

トレントンに父を呼び、今までにわかったことを説明する。子供時代のものではあるが、母の写真を見て泣き笑いをする父。初めて見る母の写真だった。両親の結婚、離婚、そして死について話す。

自分の両親には何も良いこと、幸せはなかったのか、とショックを受ける父。それに対し、この物語の一番良いことは、父、あなただと語るクリスティーナ。負のパターンを破り、父は自分の子供達を強く、賢く、才能を持ち、戦う力を持つ人間に育ててくれた。そしてそれを、誰から教えられることもなく、誰からの助けを得ることもなく父はやり遂げた。

二人で墓地を訪れる。事務所で祖母が埋葬された場所を確認してもらう。埋葬場所には、墓石は建てられていないと言う。

またこの墓所に埋葬されている人のリストを見ると、そこには父ボブの名前も記されていた。父の分のロットも購入してあったのである。生きている間はともに過ごせなかったが、せめていつか息子と隣同士で埋葬されたいという、母の願いがそこにあった。

母のことをもっと知りたかった。自分は母親のことを全く知らないのに、こんなに思ってくれていたとは。と父。

涙ながらに埋葬された場所を訪れる父。70歳にして初めて自分が誰なのかわかった。そして、必ず墓碑を立てると約束する。

アップルゲート家は何も特別な家ではないと思う。影のある話はあったが、大事なのはそれでも先に進んでいくことだと思う、とクリスティーナ。そして父への強い愛情を確認する。

3ヶ月後、父ボブにより、墓地には新しい墓碑が建てられた。墓碑には、「お母さん、ようやく見つけたよ」というメッセージが刻まれている。

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ひとこと

この番組を通じて、自分の両親のことを調べるエピソードはたくさんありましたが、今回は、父親のために、娘が調査を進めるエピソードでした。この番組では色々な時代の背景や知らなかった歴史を知ることができるのも好きな部分ですが、今回の調査はかなり「パーソナル」なものでした。この番組愛好家の間では、アメリカ版ではこのエピソードが良かった、という意見も多いようです。

特に裁判記録は、かなり細かく赤裸々な陳述が残っており、特に2歳の子供が肺炎と栄養失調の疑いがあるという診断書は、見ていてうわあ、かわいそうに・・ととても重たかったです。

真相が明らかになった時もお父さんはずいぶんショックを受けていたようですが、そこをクリスティーナ・アップルゲイトが、この話の良い部分は、父が誰の助けもなく子供を立派に育ててくれたことだ、とうまくまとめてつい涙が出てきました。が、よく考えたら彼女も子供が生まれるまでは父親と少し疎遠だった、と最初に語っていたような・・。父親はその後再婚して、クリスティーナには異母きょうだいもいるようですので、子供全員を代表してそう語った、ということでしょう。

【女優】ミニー・ドライバー:勲章をテムズ川に投げた父

プロローグ

女優ミニー・ドライバー。映画「グッドウィル・ハンティング」ではアカデミー助演女優賞にノミネートされた。1970年ロンドン生まれ。

シングルマザーでもあり、(当時)4歳の息子ヘンリーとともにロサンゼルスに在住。

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By Justin Hoch, CC BY 2.0, Link


ミニーの父ロニーは息子ヘンリーが1歳の頃に亡くなった。短い間だったが孫の顔を見せることができたことは何よりも良かった。子供が生まれたことで、自分の中で家族とのつながりをもっと確認したい、そして息子に家族のことをもっと伝えたいという気持ちが強くなったという。

過去を語らなかった父

両親は1962年に出会い、13年間を共に過ごした。しかし父親は他に家庭を持っていた。両親が結婚していないことを、ミニーは12歳になるまで知らなかったという。また父方の祖父母にも会ったことがない。

父は第二次大戦中、空軍にいたらしい。たまたま友人が古本屋で戦争中の空軍について書かれた本を買ったところ、そこに父親の功績が書かれていた。

母親に話を聞くミニー。父ロニーは、ハンサムでおしゃれな人だった。他に家庭を持っていることはいつも頭に引っかかっていたが、大丈夫、君だけだ・・・という彼のセリフを信じて待っていた。でもそれは家族持ちの男の人がよく言う言葉なのよね。でもそれを信じて長く待ちすぎたかもね、と母。

戦争のことも自分のバックグウンドのことも決して話そうとせず、そこには何も語るまいという固い意思が見えたので、とても聞けなかったという。

父の出生証明書を確認する。1921年、スワンジー生まれ。父はチャールズ・エドモンド・ドライバー、母はメアリー・ジェシカ・ケリー。あれ、苗字が違う。2人は結婚していない。未婚で子供を産むのはこの家の伝統か何かなわけ?!と驚きながらも冗談を言うミニー。

父の功績が書かれた本を紐解く。そこには若い頃の父の写真も掲載されていた。激しい戦闘を戦い抜いた父は、殊勲飛行メダルを受け取ったとある。母によると、父はこのメダルをテムズ川に投げ捨てたらしい。自分はこのメダルを受け取る資格がないと語ったそうだが、その理由については母も知らなかった。

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母にとって父は世紀の恋人だったが、それにしても母があまりに父のことを知らないのに驚いた、とミニー。それだけ頑なに父が口を閉ざしていたということでもある。

ヘルゴラント・バイトの戦い

1939年12月18日、英国空軍の24機のウェリントン爆撃機イーストアングリアから出撃、ヘルゴラント・バイトのドイツ軍を急襲した。第二次世界大戦において、イギリスが行った最初の大規模空爆である。

18歳だった父ロニーも、戦闘機の前部に設置された機銃塔の銃手としてこの空爆に参加。128人の仲間とともに、ヴィルヘルムスハーフェン湾に停泊する軍艦を爆撃した。

しかしイギリス空軍は、攻撃を行う24機の爆撃機を、護衛無しで送り込んだ。この結果爆撃機はドイツ軍から猛烈な反撃を受け、大きな被害を被ることになる。

イギリス軍は、500ポンドの爆弾を数個軍艦に投下することに成功したが、装備の点ではドイツ軍の方が圧倒的に上であった。ドイツ軍とイギリス軍が使っていた銃弾を見せられ、その大きさのあまりの違いに驚くミニー。

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ドイツ軍の最新鋭戦闘機メッサーシュミット109sから激しい銃撃を受け、父が座っていた銃座の床は抜け落ち、足が海に着きそうになったという。さらに機内で火災が起きたが、父がとっさに火を素手で消し止め、負傷した仲間の脱出の手助けをした。この功績が認められ、父ロニーには殊勲飛行メダルが贈られた。

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By Canadian Forces - Canadian Forces; see also RAF Museum, Public Domain, Link

ブルックランド博物館に当時父が乗ったウェリントン空爆機が復元展示されている。実際父が入っていた機銃塔に入るミニー。どれだけ狭く、危険にさらされていたのかを実感する。

親友を失っていた父

この作戦に参加した兵士の最後の生き残りで、ロニーのこともよく知っていたという93歳の男性に会うミニー。ロニーは明るい男で、仕事のあとには飲みに行ったりする仲間だったという。

ヘリゴラント出撃の日、彼が自分の持ち物を友人達に形見分けのように渡していたのが、彼を見た最後だった。翌朝、彼の乗った戦闘機が撃墜され、彼と仲間が脱出したことを聞いたという。

無事帰還を果たした父だったが、この戦闘で親友を亡くしていた。同じく銃手だった「リリー」ことウォルター・リリー。彼は同じ戦闘機の後方銃座を担当していた。

軍の公式記録によると、父の乗った戦闘機は燃料タンクに被害を受け着水。父は戦闘機が着水すると救命ボートを出し、負傷した仲間を助け出した。しかし後方に座っていた親友リリーは既に亡くなっており、彼の遺体は戦闘機とともに海の底に沈んでしまったのだという。

この空爆に出撃した戦闘機24機のうち12機が失われ、出撃したほぼ半数の61人が亡くなった。

一躍英雄に

空軍博物館を訪れるミニー。空軍が発行したプレス用の公報に、父ロニーの長いインタビュー記事が掲載されていた。

「ドライバー航空士はスワンジー生まれだがウェールズ人ではなく、母はスコットランド、父はヨークシャー出身。スコットランド、ヨークシャーのタフさを受け継いだ。父はウールの売買人で、このため家族は各地を転々、ウェールズで生まれたのもそのためである。卒業後は父の会社を手伝った」

父のバックグランドが詳しく説明されていることに驚くミニー。空軍は、ロニーのようなごく普通の若者が、戦争で英雄になれる事を強調するため、こうして彼にスポットライトを当てたようだ。

この他にも全国紙に父が紹介されている記事も残っていたが、父は自分の功績よりも同乗のパイロットや仲間の功績について語るなど、とても謙虚な対応をしていた。

地元の新聞に、母親と写っている写真も掲載されていた。自分の祖母の写真を初めて見るミニー。制服姿の父は、火災を消した時につけていた手袋を持って写っていた。

戦争の傷

1940年3月にメダルを受け取ったロニーであるが、帰還後は空軍病院の精神病棟に入院した記録が残っていた。

18歳で自分の乗った戦闘機が撃墜され、手で火を消し仲間を助け、しかし親友は失った父。その後はプロパガンダのために駆り出され、望まない脚光を浴びた。精神のバランスが崩れても驚かない。

イギリス中部、ダービシャー、マトロックにあった病院を訪れるミニー。今では高級コンドミニアムになっている。ここで父ロニーは不安症との診断を受けて入院。

爆撃部隊に所属した12万5000人のうち、戦闘中5万5000人が死亡。生き残った隊員が重度の精神的ストレス、PTSDに苦しむ確率は非常に高かった。

特に過酷な戦闘の中戦友を失うショックは非常に大きなものであり、18歳でそれを経験した父が受けた衝撃は計り知れない。しかし当時のイギリス空軍は、このような精神的ダメージへの認識が低く、十分な対応・治療は行われなかった。

父ロニーも、おそらく睡眠薬と軽い運動、休息を取る事で自然な回復を待つ、といった程度の「治療」を受けたと考えられる。

ウォルター・リリーの戦死広告が見つかった。狙撃の名手だった彼は21歳の誕生日を迎えたばかりだった。ヘリゴラントでも2名を狙撃する功績を残したとある。「なのになぜ彼には勲章が与えられなかったんだろう」とミニー。おそらくそれは、父ロニーも持った疑問に違いなかった。

結婚、友への思い

一度は退院したロニーであるが、ヘリゴランドの戦いから1年後、再度入院していた。しかしその後退院すると、1943年11月には少尉に、さらに1944年には中尉に昇進。

また中尉になった1944年に結婚。妻はイギリス大手通信会社会長の娘で、ロニーはこの結婚で社会的なステータスも得た。結婚写真を見るミニー。軍服を着て写っている父であるが、そこには殊勲飛行メダルはつけられていなかった。

18歳で壮絶な経験をした父。しかしその後も任務を続けることで前に進もうとしたんだと思う。そしてなぜメダルをテムズ川に捨てたのかも理解できる。自分の親友や多くの戦友を飲み込んだ水。そこに同じように、メダルを投げ捨てたのではないだろうか。

祖父母の結婚の謎

父方の祖父母に会ったことのないミニー。祖父母についてさらに調べるため、家族が戦争中に住んでいたストックトンという街に向かう。

ロニーの父、ミニーの祖父チャールズは若くして亡くなったと聞いている。父ロニーが生まれた時、祖父母は結婚していなかった。

父の出生証明書に書かれた母親の名前は「メアリー・ジェシカ・ケリー」。そしてその下には「旧姓マクレガー」と追記されていた。ケリーは、祖母が別の人物と結婚していた時の苗字のようだ。

オンラインで婚姻証明書を検索すると、祖父母は1936年、ロニーが15歳の時にようやく結婚していたことがわかった。これ以上の詳細を知るには、実際の証明書を取り寄せる必要があった。

親戚との対面

また1891年の国勢調査に、当時11歳の祖父チャールズの情報が見つかった。チャールズは5人きょうだい。父方の親戚に会ったことがないミニーは、ここから何とかして存命の親戚を見つけられないかと考える。

祖父の妹、モードの記録を辿ると、モードには1929年生まれの孫アイリーンがいることがわかった。選挙人名簿を調べたところ、84歳でまだ健在であることが判明。電話をかけ、会いに行くことになる。

アイリーンは祖父の妹の孫、ミニーにとってはまたいとこに当たる。苗字が同じなので、もしかして親戚ではないかと少し思っていたというアイリーン。ミニーの祖父母にも会ったことがあるという。祖父は無口で控えめだったが、祖母は明るく社交的な性格だった。息子ロニーのことを誇りに思っており、家には制服姿の息子の写真が多く飾ってあったという。

世代的には同じであるが、ミニーの祖父チャールズは遅く、アイリーンの祖母モードは早くに結婚して子供を持ったため、またいとこ同士でも40歳も歳の差があることを笑う2人。初めて会うのに、不思議に似たところがあると感じるミニー。祖父母が長年結婚しなかった理由についてはアイリーンも知らなかった。

祖父母の結婚証明書

ミニーの元に、祖父母の結婚証明書の写しが届く。祖父母が結婚した時、祖父は56歳、祖母は41歳。双方とも未亡人とあり、どちらも二度目の結婚だった。

祖母の最初の結婚は1917年。しかし翌年、夫はフランスで戦死していた。一方祖父の最初の結婚は1901年。

祖父母が再婚したのは1936年だが、祖父の最初の妻が亡くなったのは1932年だった。父ロニーは1921年生まれ。

父が生まれた時、祖父チャールズはまだ別の女性と結婚していたのだった。なんてこんがらがった家庭なんだか!と驚くミニー。

さらに最初の妻との間に、祖父チャールズはレスリーと言う名前の息子をもうけていたこともわかった。そしてなんと彼の職業は俳優。家族の中に役者と言うクレイジーな職業についた人が他にもいたなんて!と大喜びするミニー。果たして父ロニーはこのことを知っていたのだろうか。

役者だった叔父

当時の劇場のプログラムを見るミニー。地元の人気劇団の役者だったレスリーの芸名は、レスリー・ドライバーではなく、自分の母親の旧姓スタンクリフを名乗っていた。自分の父親のことを怒っていたんだろうか・・と考えるミニー。

1930年代、マンチェスターストックポートにある劇場で活躍したレスリー。専属劇団が毎週新しい演目を上演するレパートリーシアターと言う形態は、英国の有名なコメディアンロニー・バーカーやエリック・サイクスをはじめ、テレビや映画で活躍した俳優を多く輩出した。

レスリーもコメディなどに多く出演。主役を張ることもあった。またマンチェスターやロンドン、ニューヨークなど様々なアクセントを操り、色々な役をこなせる役者だったという。

1944年に急遽代役で出演した演目「Peg of my heart」が大きな評判を呼び、翌週の地元の新聞で大きく取り上げられていた。それによると、サイレントフィルムの子役として役者のキャリアを開始。おかしな笑い方で有名とあった。自分の笑い方もずいぶん変で・・ここから来ているのね、と笑うミニー。

妻は同じ劇団にいたグレース・マカイ。ビリー・マカイと言うステージネームで舞台にたっていた。2人の写真を見るミニー。レスリーは父にそっくりだった。

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1945年に主役で舞台に登場したのを最後に、1947年にレスリーは死去。38歳の若さだった。新聞の死亡広告記事には、残された娘、ジーンの名前も記されていた。

1945年のステージのパンフレットには、キャストとしてレスリーの娘ジーンの名前も載っていた。子役の1人として、父娘で共演したらしい。

さらに、レスリーの娘ジーンがまだ健在であることもわかった。電話番号を渡されるミニー。ジーンはカメラの前に出ることは辞退したが、電話で話をする。

父に腹違いの兄弟がいることは知っていたが、レスリーとロニーが会ったことはないという。子供の頃祖父母には会ったことがあるが、あまり記憶はなかった。しかしたった一枚だけ、祖父母の写真があるという。その写真を送るとジーンは約束してくれた。

エピローグ

ロサンゼルスの自宅に祖父母の写真が届く。それを息子と見るミニー。

子供にきちんと家族のことを伝えたかったと言うミニー。しかし事実を知れば知るほど、新しい疑問もどんどん湧いてくる。父はなぜ全てを秘密にしていたのだろう。今、父と話せたら。

しかし息子に、ここで知った素晴らしい事実を話すことができるのが、何よりも嬉しい。

ひとこと

今回もまた、父親と言う直近の「先祖」のファミリーヒストリーをご紹介しました。ミニー・ドライバー、アメリカ映画にも登場する女優さん。イギリス人ですが、ちゃんとアメリカンアクセントを話すアメリカ人役もできる女優さんです。そのおじさんも色々なアクセントを使い分けられる役者だったのは偶然とはいえ、こういうのは何か「血」みたいなのがあるのかなぁと不思議になります。

先祖の中に自分と同じ職業や似た傾向を持つ人がいる、と言うエピソードは今までにも結構ありました。

先祖にドラマー

物語の語り手

カバラの使い手

先祖もパン屋

政治家、ジャーナリスト

また今回のエピソードでは、先祖に未婚の母が多い(まあ、言ったら不倫が多いと言いましょうか・・)ことも明らかになっていましたが、こういうことも家族の中での傾向、と言うのはあるんでしょうか。

二重の家庭生活を送っていたミニーのお父さんですが、退役後は、ロイヤルファミリーなどに投資のアドバイスをするような会社を作りずいぶん成功したようです(後に倒産)。

双方の家族とも、お互いの家族の存在は何も知らなかったようです。ミニーには実はお姉さんもいるそう。ずいぶんマメな人だったんでしょうか、お父さん。クリケットの試合で双方の家族が同席した頃から、愛人家族の存在がばれて離婚になったそうですが、そこはツメが甘いような。でもその後二つの家族とも和解したようで、そういう人柄だったんでしょうか。

第二次大戦の様々な戦線で戦い、PTSDを患った父や祖父のエピソードは、今までにもいくつか出てきました。


メダルを川に投げた話は印象的でしたが、18歳、まだ高校生、ティーンエージャーがこんな経験をするところを想像しただけでいたたまれません。それはやはり後々の人生に大きな影響を与えたのは想像に難くありません。それが不倫の理由にはならないかもですが・・(苦笑)。

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【イギリス政治家】ボリス・ジョンソン:保守派政治家の意外なトルコのルーツ・謎の貴族デ・フェフェルとは

プロローグ

政治家、ジャーナリストのボリス・ジョンソン(番組放送当時はロンドン市長。2018年1月現在はテレサ・メイ政権の外務大臣)は1964年生まれ。4人兄弟の長男である。

生粋のイギリス人政治家のように見える彼だが、先祖はロシア、リトアニア、ドイツ、フランスなど様々で、それはまるで「ひとりメルティングポット(人種のるつぼ)」状態。

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母方の先祖の中には、ポグロム(ロシアなどで起こったユダヤ人迫害)を逃れてロシアからイギリスに逃げ、後にアインシュタインのチェス仲間になったユダヤ人がいる。

また父方の祖父母はイギリス南部で農業を営んでいたが、その背景は普通の農夫とは程遠い興味深いものだったという。

祖母はいつも自分にはフランスかアルザス地方から来た貴族の血が流れている、と自慢気に話していた。それを聞いて子供心にまさか、と本気にしなかったが、実際はどうなのかはわからない。

そして祖父、ウィルフレッド・ジョンソンはイギリス人とトルコ人のハーフ。祖父の父親、ボリスにとっての曽祖父はトルコ人ジャーナリストで、政治家でもあったアリ・ケマルという人物。しかし彼のことや、その死についてはほとんど家族の間で語られることはなかった。

今回は、彼の家族に伝わる先祖の様々な謎についてせまる。

曽祖父の出生とジョンソンと言う苗字

父親スタンリーに話を聞く。祖父ウィルフレッドは1909年イギリス生まれ。しかし出生証明書にあった名前は「ウィルフレッド・ジョンソン」ではなく、「オスマン・ウィルフレッド・ケマル」だった。

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祖父ウィルフレッド

祖父が生まれた時、父であるアリ・ケマルは仕事で不在。そして母親は出産後死亡。

ウィルフレッドにとっては母方の祖母になるマーガレット・ブルンが出生届の届け人として記載されていた。このマーガレットの旧姓がジョンソンだった。

ウィルフレッドは姉のセルマと共に、祖母マーガレットにイギリスで育てられる。その間、父アリ・ケマルは仕事でトルコに滞在していた。

祖母マーガレットはイギリスに住む子供達の苗字をトルコの「ケマル」から、よりイギリスらしい自分の旧姓である「ジョンソン」に変えた。

もしかしたら自分の苗字もケマルだったかもしれないのか。保守党の政治家である自分の苗字がケマルだったら、いかにも多民族国家イギリスらしくて面白いじゃないか、キャメロン(当時の首相)におい、俺はケマルだぞ!なんて言ったりしてな!と冗談を言い合う2人。

祖父ウィルフレッドはアリ・ケマルのことはほとんど何も話さなかったと言う。自分の父親に会ったことがあるのかも定かではない。

曽祖父アリ・ケマルの生い立ち

曽祖父アリ・ケマルについて詳しいことを知るためにトルコへ飛ぶ。

アリ・ケマルは1869年、当時オスマン・トルコの首都だったイスタンブール生まれ。帝国の繁栄には影が見え始めていた頃だが、イスタンブールはそれでもコスモポリタンな街だった。

アリ・ケマルの孫に当たる、イスタンブール在住のいとこに案内され、彼の生まれたエリアを訪れる。

アリ・ケマルの父親は裕福な商人だった。アリ・ケマルは伝統的なイスラムの学校に通い、アラビア語を覚え、コーランを諳んじたという。

その後フランスに渡りジャーナリストになった。そして1903年、マーガレット・ジョンソンの娘、ウィニフレッド・ブルンと結婚した。その3年後に長女セルマが生まれている。

1908年、アリ・ケマルが40歳の時、妻ウィニフレッド、義理の母マーガレット、長女セルマ一家はトルコに移住する。イスタンブール郊外のベベックという場所に居を構え、ジャーナリストとしての仕事を続けた。

反政府の論陣を張っていたアリ・ケマル

曽祖父の記事が載った新聞を見るボリス。アリ・ケマルは主筆として、一面に大きな署名入りの論説を掲載していた。その内容は専門家に言わせると「危険なほど政治的」だという。

アリ・ケマルがトルコに戻って数週間後にトルコで革命が起こった。長年オスマントルコを支配していたスルタンは権力を奪われ、新政府が樹立された。

しかし一方、新政府による反対派への弾圧が始まる。アリ・ケマルは「自由のための革命のために、逆に自由が奪われている」と新政府や社会に対する批判を繰り広げ、コンセンサスで社会を構築していく重要性を強調していた。

この記事が出された4日前には、アリ・ケマルと似た論調を持つ反対派のジャーナリストが暗殺されたばかりだった。新政府がこのような批判を良しとはしなかったことは明らかで、アリ・ケマルも危険な立場にあった。

当時子供だったセルマの回想記が残っている。ある晩、母と祖母が父アリ・ケマルの帰りを心配して待っている様子が書かれていた。

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アリ・ケマルと娘セルマ

なかなか帰ってこなかった父がようやく帰ってきたのは夜中の3時。椅子に身を投げ出し大変なことになった、と嘆く父。手にした新聞を祖母が見ると、そこには彼、そして彼の友人7名の名前が、「数日以内に絞首刑にされるべき人物リスト」として掲載されていた。

祖母が新聞を見たってことは、彼女はトルコ語が読めたのか!とその部分に驚くボリス。このおばあちゃんはなんだかすごい人物だったに違いない。

アリ・ケマルは殺人予告が出た数日の間になんとかヨットを手配し、暗闇に紛れイスタンブールを脱出、そこからパリに逃れた。残りの7名はその後絞首されたという。

家族はトルコに残ったが、パリからトルコに残った妻に宛てた愛情あふれる手紙が残っている。

政治の表舞台へ

第一次世界大戦において、トルコはドイツ側に立ち敗戦する。その後、イギリス、フランス軍イスタンブールを占領し、連合軍がバックアップする政府が樹立された。アリ・ケマルはこの新政府の内務大臣に就任する。反政府ジャーナリストだった彼の立場が逆転し、政治的権力を持つ側となったのだった。

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内務大臣としてアリ・ケマルは抵抗運動を繰り広げるナショナリスト達の抑制に努めた。ナショナリストの中には、のちにトルコ建国の父となるムスタファ・ケマルも含まれていた。軍人であったムスタファ・ケマルであるが、連合軍の後ろ盾を持つ政府には従わず、トルコを独立に導こうと抵抗運動の指揮をとっていた。

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By NA - Ministry of Culture and Tourism of the Republic of Turkey, Public Domain, Link

ムスタファ・ケマル

新たな戦争の勃発を阻止したかったアリ・ケマルは、ムスタファ・ケマルの軍事指揮権を剥奪、彼の指揮には従わないよう、命令を下した。建国の父として今でも最大の尊敬を集める人物を敵に回してしまったことで、アリ・ケマルは現在のトルコでは反逆者と見られている。

アリ・ケマルがこのような命令を下した背景について語ることも、トルコの歴史学者の間でタブーな部分があるらしい。今回の取材でも、ようやくひとりの歴史学者がこのことについて話すことに合意してくれた。

ムスタファ・ケマルに対する命令を下した後、アリ・ケマルは辞職を余儀なくされた。その後はジャーナリストの仕事に戻り、トルコを破壊するようなナショナリストの活動に反対する記事を書き続けたという。

彼は彼なりに国のことを思っており、新たな戦争を起こしたくない、外交で解決したいという思いがあったのではないか。ムスタファ・ケマルを神聖化するあまり、彼に反対する人物がここまで反逆者扱いされるのはフェアではない、と考えるボリス。

壮絶な死

1922年、ナショナリストが権力を奪還する。アリ・ケマルは真っ先に攻撃の対象となり、その後殺害された。その詳細について、いとこから始めて話を聞くボリス。

逮捕され、尋問を受けたアリ・ケマルは、尋問後、建物から出たところを群衆にリンチされる形で殺された。アリ・ケマルを建物の外に出す際、人々がわざわざ集められ、彼をリンチするよう仕向けられたようである。

ナイフで刺され、倒れた彼の頭からは大量の血が流れたという。群衆は倒れたアリ・ケマルの所有物を略奪し、最後には遺体を木に吊るした。彼が履いていたズボンさえ奪われたという。

アリ・ケマルの足跡をたどってみて、彼のことを誇りに思った。彼は意見を強く持っていただけだった。彼がこのような形で殺されたことも不当だが、このようなリンチの被害者を、今でも犯罪者のように扱っていることにはさらに納得がいかない。彼は暴力に訴えるナショナリストの方法に異を唱えただけだった。祖父にとっては非常に辛い経験だったに違いないし、あまり知りたいとも思わなかったのではないだろうか。

祖母のルーツを探る

トルコのルーツについて語らなかった祖父に反して、祖母アイリーンは自分のフランス貴族のルーツを誇りに思い、デ・フェフェルという古いフランス貴族の血が流れているとよく話題にしていたし、祖母の振る舞いもとても上流階級的だったという。しかし貴族の末裔など、厳しい自然の中で羊を飼ったりと農業を営んでいた祖父母の暮らしからしてみると、あまりにもかけ離れた話で信じ難かった。

ただ祖母は大きな木箱に入った銀食器を持っていて、それは「デ・フェフェル・シルバー」と呼ばれていた。おばあちゃんのためにも「デ・フェフェル」の名を残したいと、親はボリスのミドルネームに「デ・フェフェル」とつけた。

叔母から話を聞く。祖母の父はスタンリー・ウィリアムズ。そして母はフランス人でマリー・ルイーズ・デ・フェフェルという。デ・フェフェルの名前は曽祖母から来ていた。

そして祖母の曾祖父母に当たる、チャールズ・デ・フェフェルとキャロライン・デ・フェフェルの写真が残っていた。

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チャールズの死亡証明書も残されていた。男爵だったチャールズは、1890年ミュンヘンで死亡。そこには様々な国の貴族の名前が親戚として記されており、チャールズは以前バイエルン王に仕えていたようだ。デ・フェフェル家はフランスではなく、ドイツの貴族だった。

キャロラインの謎

1871年まで、ドイツは独立した複数の王国からなる連合国だった。バイエルン王国はその中でも有力で、首都はミュンヘンにあった。

ミュンヘン国立図書館に向かう。

図書館には貴族の情報が登録された系譜帳が残されており、それによるとデ・フェフェル家が貴族となったのは1828年と比較的新しく、古い貴族の家系というわけではなかった。

デ・フェフェル家の紋章を見せてもらう。美しい紋章を前に、おばあちゃんが貴族の出だということを誇りに思い、デ・フェフェルの名前を守りたいと思ったのもわかる気がする、とボリス。

一方興味深いのは、チャールズではなく、その妻キャロラインのほうだった。

実はデ・フェフェル家の家系に興味を持った子孫はボリスが最初ではなかった。1869年に、キャロラインの義理の息子に当たるタフカーチェン伯爵が彼女の血筋について調べようとしていた。

キャロラインの旧姓はフォン・ローゼンバーグ。しかしこの名前は、バイエルン王国の貴族登録情報には含まれておらず、彼女の出自は全くの不明だった。

さらに20年後、キャロラインの死後再度この伯爵が調査を依頼していた。ここで、キャロラインの母親は女優であったことが明らかになったが、父親に関しては不明で、調査はここで終わっていた。当時「女優」は文字どおりではなく、売春婦などの職業を意味した可能性もある。実際伯爵はこの調査に関わった人達に、この情報を口外しないよう依頼していた。

秘密の結婚の謎

View of Augsburg City Hall and other historical buildings in Augsburg
By Alois Wüst - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

1836年、チャールズとキャロラインはアウクスブルグというミュンヘンから80キロ離れた場所で結婚している。この小さな街にわざわざ来て結婚したのは一体なぜだろうか。

アウクスブルグのアーカイブで、マイクロフィルムに残っていた2人の婚姻記録を確認する。

キャロラインは夫チャールズより6歳年上だった。そして結婚式は、アウグスブルグの司教自らが、邸宅内にあるプライベートチャペルで取り仕切り、立会人として有力な政治家の名前が連なるなど、尋常ではないものだった。また、婚姻の記録については、司教が全て保管するとあり、何かを隠そうとしているようにも見える。

もしかして妊娠していたのでは?という推理はあたり、キャロラインは結婚当時妊娠5ヶ月であったという。しかしここにも、キャロラインの父親の名前は無かった。

実際に結婚式が執り行われたチャペルを見学するボリス。ここで秘密裏に行われた結婚式。でも新興貴族と、女優の娘の結婚に、なぜこんなに大物の政治家達や司教が関わっているのか。誰の利益のためだろうか?

チャペルを訪れていたボリスのところに、アーカイブで婚姻記録を見せてくれた教授から連絡が入る。マイクロフィルムでなく、オリジナルを再度当たったところ、新しい情報が見つかったという。

デ・フェフェル・シルバーの謎解ける

アーカイブに舞い戻り、オリジナルを見る。そこには、キャロラインの名前の横に鉛筆で「ポール・フォン・ヴュルテンベルク王子の私生児」と書かれていた。これ、BBCのやらせで書き込んだんじゃないの?と驚くボリス。

しかしキャロラインが王室とつながりがあったため、このような形での結婚となったのは間違いなかった。

ヴュルテンベルク王国バイエルン王国に隣接する王国だった。当時の首都、シュトゥットガルトに向かう。

キャロラインの父ポールは、ヴュルテンベルク王ヴィルヘルム1世の弟だった。おばあちゃんが言っていた貴族の血は、フランスではなくドイツのものだった。

ここで気になるのは、王室、そして父ポールは娘を庇護したのかということ。金銭的援助はあったのか。そして何より、キャロラインは父親を知っていたのだろうか。

王室アーカイブにはキャロラインに関する分厚いファイルが残っていた。そこには、23歳のキャロラインがシュトゥットガルトに伯父であるヴィルヘルム1世を訪れ、庇護を求めたことが書かれていた。

それによると、キャロラインはそれまで父親とパリで暮らしていたが、望まない結婚をさせられそうになったため、家を飛び出したのだという。

またキャロラインは王から銀の食器を受け取っており、そのリストも残っていた。これはもしかして、家にあった「デ・フェフェル・シルバー」ではないか?

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昔銀食器と一緒に撮った写真と付き合わせてみると、コーヒーポットや砂糖入れなど、全て一致した。残念ながら、この銀食器は祖父母がオーストラリアに移住した時に売ってしまったが、これで全てが腑に落ちた。

さらなる王室との血縁

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By Mussklprozz at the German language Wikipedia, CC 表示-継承 3.0, Link

ヴュルテンベルク王家について知るため、城があるルートヴィヒスブルクに向かう。壮大な城を前に、この城の所有権を取り戻さないとな、と冗談を言うボリス。

Seele-Friedrich I..jpg<br>By Johann Baptist Seele - eingescannt aus: Hansmartin Decker-Hauff: Frauen im Hause Württemberg, Leinfelden-Echterdingen, 1997, パブリック・ドメイン, Link

ヴュルテンベルク王フリードリヒ

キャロラインの祖父にあたる人物は、ヴュルテンベルク王フリードリヒ。そしてその妻アウグステの母親は、オーガスタ・オブ・ウェールズ。そしてその父親はウェールズ公(皇太子)フレデリック・ルイス・ハノーヴァーであった。ウェールズって、あのイギリスの?と思わず聞くボリス。さらにさかのぼると、その父親はイギリス王ジョージ2世だった。

イギリス王室と繋がりがあるなんて、前からそうじゃないかと思ってたんだよ!と冗談を言うボリス。これはイギリス王室だけでなく、ヨーロッパ中の王室と血縁があるということでもあった。

遺伝的には関係していても、王位継承権があるわけではないのが残念だけれど。こうなったら法廷で戦って、このお城を取り戻すか!

エピローグ

自分が王室と関係あることを知って驚き以上にあっけに取られてしまった。自分はトルコ、ユダヤ、そしてデ・フェフェルという謎の外国の貴族などが混ざった変わった雑種だと思っていたので、何よりイギリス王室と関係があることがわかったのがとても嬉しい。自分の家系は、後にイギリスにやってきた「ニューカマー」の家系だと思っていたので、すごく変に感じる。

でも同時に、自分と同じように、気付かないだけで王室と血縁がある人は何千何万人もいるんだろう。遺伝子というのは過去からこうやって脈々とつながって来ていて、自分はその遺伝子を次に受け渡す一時的な所有者にすぎない。どこから来たのかも、これからどこに行くのかもわからない。それはすごく民主的なことだと思う。

おばあちゃんは正しかったのだな。笑うべきではなかった。では、これから王権を取り戻すために頑張るぞ!

ひとこと

Brexitの先鋒みたいな人のファミリーヒストリーがこんなにカラフルでドラマチックだったのは非常に興味深かったです。エピソードの中でも、自分の外国のルーツにばかり注目するのはPRとして良くないかもしれない、みたいなことをもぞもぞ言っていました。しかしイギリスって本当に多民族国家なのですね。イギリスに深いルーツが無いと思っていたからこそ、逆に保守的になるということもありえるんでしょうか。

ヨーロッパの王家との関係はやはり鉛筆書きの情報が見つかったところがハイライトでしたが、このプラチナブロンドの政治家のルーツがトルコにあったのが何より興味深かったです。テレビ番組なので多くの情報を端折っている部分もありましたが、アリ・ケマルの母はコーカサス系のチェルケス人、オリンピックが開催されたロシアのソチにもともといた民族だったそう。

アリ・ケマルはジャーナリストとしてヨーロッパを旅しており、ボリスの曾祖母と出会ったのはスイス。トルコやイギリスなどでも暮らしましたが、妻がボリスの祖父を産んでなくなった後は一人でトルコに戻り、そこで再婚していました。彼が政治の舞台に立ち始めた時、イギリスにいる子供達とはもう疎遠になっていたのかもしれません。

番組の中でイスタンブール在住のボリスの「いとこ」として登場した人物は、2度めの結婚で生まれた孫。彼も編集者だそう(ボリス・ジョンソンも新聞の編集者をしていました)。再婚で生まれたアリ・ケマルの息子は母親とずっとスイスで暮らしていましたが、ケマル・アタテュルクの死後トルコに戻り、外交官になったそうです。

またボリスの祖父、ウィルフレッドの姉セルマは後にケマル姓とトルコ国籍を取り戻したとか。

アリ・ケマルとアタテュルクのことについて語るのがトルコではまだタブー、というのも非常に興味深かったです。ケマル・アタテュルクの神格化はそこまですごいということなんでしょうが、それ以前のトルコの独立運動においても随分と暴力腐敗虐殺があったようですし、そういう部分に声をあげたアリ・ケマルが反逆者として扱われているのは、勝てば官軍なのか、やはり釈然としないものはあります。ただトルコの独立運動の詳細な歴史やアリ・ケマルの本当の立ち位置について詳しく知らないので、なんとも言えませんが・・。

フランス語、そしてドイツ語の昔の書類をボリス・ジョンソンが翻訳なしでそのまますらすら読んでいたのにも驚きました。やはりヨーロッパの知識層。

そしてドイツの王権を取り戻すぞ!と冗談でいきまくボリス・ジョンソンに、城を案内していたドイツ人の専門家が「まあ頑張ってね。もしうまくいって、このお城の一室を賃貸にだすようだったら連絡して」と返していたのが面白かったです。2人とも半分真顔で冗談を言い合っていたあたりもヨーロピアンとアメリカンの違いでしょうか(笑)

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