世界のセレブ・ファミリーヒストリー

世界のセレブ・ファミリーヒストリー

英・米・豪・加で放送されている「ファミリーヒストリー」的番組 Who Do You Think You Areの興味深いエピソードを紹介します。セレブの家族史を通じて、世界の知らなかった出来事が見えてくる。今の世界を知る上でも、個人を知る上でも、色々興味深いこと満載です。

【司会者:アニータ・ラニ】祖父のもうひとつの家族、インド・パキスタン分断の悲劇

プロローグ

アニータ・ラニはイギリスのジャーナリスト、レポーター、テレビ番組の司会者。

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telegraph.co.uk Photo: Andrew Crowley

イギリス、ウエストヨークシャーで生まれ育ったアニータ。自分は伝統的なインディアン・ガールではないと考えている。

小さい時から、「女の子だから」してはいけないことがある、ということにいつも疑問を持っていた。

母の家族はパンジャブ州出身のシーク教徒だが、自分は英国教会の学校に通った。様々な宗教に触れた上で、今は無宗教だという。

母方の祖父の名前は、サン・シン。ターバンを巻き、ヒゲを生やし、完全にシーク教徒の格好をしている写真が残っている。

サン・シンは祖母と結婚する以前に一度結婚していて、子供もいたようだ。

しかし「パーティション」、インド・パキスタン分離独立の混乱で、最初の妻も子供も亡くなった、という話を聞いたことがある。が、それ以上のことは誰も知らないようだ。第一、パーティションの頃の話など誰もしたがらないのだという。

自分が生まれる前に亡くなったこの祖父について、もっと知りたい。

誰も知らないサン・シンの過去

ママジー(母方のおじさんの呼び名)の家に両親、親戚が集合して、祖父サン・シンについて話し合う。

祖父母が結婚したのは1948年。軍人の祖父の写真や、インド独立を記念した軍のメダルも見つかった。

サン・シンは今のパキスタンで生まれたと思うが、何年に生まれたか、誕生日を誰も知らない。

また最初の妻や子供の名前も、誰も知らなかった。

確か息子がいたと聞いているが、パーティションの際に息子は殺され、妻は井戸に身を投げたと聞いているという。

入隊記録からわかったこと

インドに飛ぶアニータ。

まずは祖父の軍での記録を調べに、首都ニューデリーへ。

家族が持っていた祖父の写真は、カシミールの軍事訓練学校で撮ったものだった。その後、サン・シンは26歳で英印軍(イギリス領インド軍)に入隊している。

入隊記録からさらに色々な情報が明らかになる。生まれたのは1916年。

そして父の名前はデルー・ラム。

なぜか苗字が違っていた。

また入隊前、モントゴメリー地区の運河局に勤務していたこともわかった。

イギリス風の地名であるが、今はパキスタンにある地域だったという。妻や子供もここに住んでいたようだ。

1947年、長年イギリスの植民地だったインドが独立を宣言。

同時に、ヒンズー教徒が主体であるインドと、イスラム教徒が主体であるパキスタンに、国は分裂した。

この「パーティション」により、パンジャブは、インド、パキスタンの二つに分断されてしまった。

パーティションが起きた時、サン・シンはボンベイの南、カーキーというパンジャブ州からは遠く離れたところで勤務していたが、残された家族は分断の混乱の真っ只中にいたと考えられる。

おじからの小包

インドに住むおじから小包が届く。中に入っていたのは、祖父が綴った手書きの自叙伝だった。

そこに書いてあった祖父の名前はサン・シンではなく、サン・ラム。

そして父の名はデルー・ラム、母はドゥンディー。

母ドゥンディーは、サン・シンが子供の頃に、村を襲った伝染病で亡くなったという。

村の名前はサルハリと言った。

家族の間では、パキスタン側で生まれたと思われていたサン・シンであるが、実はインド側にあるパンジャブの村出身であることがわかった。

一族の村へ

サルハリ村に向かうアニータ。

子供の頃からこのエリアにはよく遊びに来ていたというが、祖父の生まれた村に行くのは初めて。

村を襲った伝染病は、一体なんだったのか。サルハリ村で専門家から話を聞く。

第一次世界大戦の終わりごろ、「スペイン風邪」と呼ばれるインフルエンザが大流行した。このウィルスは戦争中、塹壕の中から広まり、1920年頃には、5000万人の死者を出すなど猛威を振るった。

ヨーロッパで第一次大戦に参加していたインドの軍隊が地元に戻り、インドにもこのウィルスが広まった。

当時の記録によると、病院では遺体を処理する暇もなく次々と人が亡くなったため、外も遺体や瀕死の病人でいっぱいになったという。これにより、インドでは1400万人もの死者が出た。

サン・シンの母もこのスペイン風邪の犠牲になった。

さらに驚くことに、サン・シンはもともとヒンズーの家庭に生まれていた。

しかしこの地域では、長男はシーク教徒にする習わしがあり、サン・シンもシーク教徒となった。その際「シン」というシークの苗字に変えたようだ。

Indian sikh soldiers in Italian campaign.jpg
By Loughlin (Sgt), No 2 Army Film & Photographic Unit -
This is photograph NA 11188 from the collections of the Imperial War Museums (collection no. 4700-39)
Version retrieved from sikhnet.com, Public Domain, Link
第二次大戦中イタリアの前線で戦うシーク教徒の兵士

また軍の記録には、彼のカーストは「ジャート」と書かれていたが、本当は壺などを作る陶工カーストである「タガー」の出身だという。

陶工だと軍人として箔がつかないので、農耕と軍人の背景があるジャートの出身だと嘘を書いたらしい。

アニータの親戚に当たるタガー一族が村に集まってくれた。一族の長ハージンダの祖父と、アニータの曽祖父がいとこ同士だという。村をあげての歓迎を受けるアニータ。

サン・シンが軍から村に戻ってきた時はまだ子供だったというハージンダ。パーティションの時、最初の妻、そしてサン・シンの父もパキスタン側にいて、そこで亡くなったと聞いてはいるが、妻や子供の名前を含め、詳細は知らなかった。

モントゴメリー地区への移住

サン・シンが入隊前にしていたモントゴメリー地区の仕事とは、一体何だったのか。

パンジャブとは5つの川、という意味で、その川に囲まれた地域の一部が、当時モントゴメリー地区と呼ばれていた。

イギリスの植民地政府はこのパンジャブ地方に9つもの運河を作り、実に600万エーカーの土地が灌漑する一大事業を行った。これにより多くの人々が、より良い暮らしを求め、この地域に移り住んだという。

Bhakra Main Canal.JPG
By Zenit - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

一方で、そこに住む「ジャングリー(未開の民)」という蔑称で呼ばれていた遊牧民系の人々は土地を追われることとなった。

妻を亡くしたサン・シンの父も、モントゴメリー地区に移住、商人として成功。村に残っていたサン・シンを呼び寄せ、教育も受けさせた。その後サン・シンは20歳で結婚し、運河での仕事も得るなど、順風満帆の生活を送っていたのであった。

第二次大戦が始まると、イギリス植民地政府は、英印軍への入隊希望者を募る。すでにカシミールで軍隊教育を受けていたサン・シンも入隊した。

そして電気技師部隊に所属していたサン・シンは、パーティションが起こった時にはインド南部に派遣され、家族とは離れ離れになっていたのだった。

インド・パキスタン分離独立(パーティション)とは

1947年、インドは独立を宣言する。その2日後に、イギリス政府はパキスタン、インドの国境を設定した。これにより、たった一晩でモンゴメリー地区はパキスタンになってしまった。

自分の居住地がイスラム教徒の支配下に置かれてしまったサン・シンの家族。

パーティションにより、彼らだけでなく、イスラム教徒、ヒンズー教ともに、それぞれ異なる側に置き去りにされてしまった人達が大量に生まれた。

さらにヒンズー教徒、イスラム教徒間での暴力的な衝突が多数発生した。特にモントゴメリー地区は、ヒンズー教徒に対する襲撃が最初に起きた場所だったという。

パーティションの悲劇

シーク教徒の聖地、アムリトサルに向かうアニータ。

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By Msdstefan, CC BY-SA 3.0, Link

ここで、当時を経験した84歳の老人に話を聞く。

彼の父は村の長であり、息子が6人、娘が2人、そして孫も多数いた。パーティションが始まり、村にイスラム教徒がやってきて、家族の中から女性を差し出せば、家や他の家族には手出しをしないと要求してきた。

しかし彼の父親や村の男性達は、村の女性がそんな辱めを受けるくらいならば、自分たちの手で妻や娘達を殺す、と、大きな剣を手に持ち、娘達を一人一人呼んだという。娘達は黙って父の横に座り首を差し出し、斬首された。

この他にも、近くにあった井戸に80人以上の女性が飛び込み亡くなったという。あまりに多く飛び込んだため、15分で井戸は死体で一杯になったという。その間、子供と息子達は、無傷であった。

あまりのショックな話に涙を流すアニータ。

村の男性達の判断に大きな怒りを感じる。女性の運命を男性が決める世界に憤りも感じる。また同時に、そういう判断を受け入れ、自分から井戸に飛び込んだりする女性の勇気にも驚く。とにかく自分は今すごく混乱している、と語る。

このパーティションは、1400万人が避難する、世界最大の強制移動となった。

パキスタン側に残されたヒンズー教徒はインドへ、インド側に残されたイスラム教徒はパキスタンへと逃げた。

今までとなり同士生活していた人達の間に敵対関係が生まれ、それぞれ襲撃しあい、100万人もが犠牲になった。

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Fair use, Link
インドからパキスタン側に逃げるイスラム教徒

その中でも女性に対する扱い、被害は恐ろしいものであったが、長年その詳細は語られることはなかった。が、最近になって少しずつ表面化されてきたという。

当時を回想する手記が残っている。

パーティションでは、レイプされたり誘拐されるよりはと、多くの女性が自殺した。それは勇気ある行動、家族や村のために崇高な犠牲を払った、とも言われるが、それは男性視点での話である。ヒンズー教徒達は、自分たちの娘を井戸に投げ入れたり、生き埋めにするものもあった。焼き殺されたり、感電死するよう、電線をつかまされた者もいた。レイプされ、顔がわからなくなるまで乱暴され、そのまま放置された女性も多かった。そんな女性を見て、家族達は助けないどころか、今後どうしたら良いかわからない、こんなことなら生まれてこなければ良かったのに、と言った」

このようなことは、一部の村で起きたわけではなく、いたるところで起きていたという。

たった2世代前にこのようなことが起きていたことを知り、血が煮えたぎる思いにかられるアニータ。

これでは、女性より牛だったほうが生き延びる確率は高かったのではないだろうか。

サン・シンの家族

軍のアーカイブをさらに調べたところ、サン・シンの家族の情報が明らかになる。

妻の名前はプリタム・コー。パキスタンでの動乱の際死亡、と書かれていた。そして息子の名前も確認できた。

さらにサン・シンには娘もいた。名前はマヒンドラパーティションの時6歳だったようだ。今まで話にさえ出てこなかった娘の存在に驚くアニータ。

あまりにも色々な情報が出てきて、何かはわからないが、自分の中で何かが変わった気がする。思いもしなかった話を色々聞いて、芯からショックを受けた。今まで聞いたことを、自分の中でどう処理すればいいのか。様々な思いにかられるアニータ。

祖父が昔を語らなかったのも理解できる。話すと言ってもどこから話して良いかもわからなかっただろう。でも知ったからには、彼の子供である自分の母やおじおばたちにも知らせたい、と思う。

情報はここにあった、でも誰も聞かなかった

1948年、サン・シンはアニータの祖母と再婚。6人の子供をもうけ、パンジャブ地方東部の村に住んだ。今も長男であるおじがそこに住んでいる。

おじに会いに行くアニータ。

今までにわかったことをおじに話すアニータ。おじも自分の父親に以前娘がいたことは知らなかったと驚く。

しかし、息子のことは聞いていたという。

息子の名前はラジ。何と写真も持っていた。色あせた小さな子供の写真は、サン・シンが持ち歩いていたものだという。周囲に誰もいない時などに、取り出しては見ていたようだ。

さらに妻の写真も残っていた。

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ノーベル賞受賞したマララさんにそっくりにみえるんですが・・

一度だけ聞いた話によると、馬に乗って避難中、地元のジャングリー(土着の住民)が投げた槍がまず子供であるラジに当たったのだという。それから一緒に馬に乗っていたサン・シンの父が引きずり降ろされ、殺された。

この話はおじが7、8歳の時に聞いたという。「私はおじいさんの謎を追うためにずっと旅してきたというのに、おじさんは知っていたのね。でも何で今まで教えてくれなかったの?」という問いに、「だって誰も聞かなかったからな」と答えるおじ。

1975年、アニータが生まれる数年前に、サン・シンは亡くなった。

エピローグ

祖父の息子ラジや、最初の妻プリタム・コーの写真を見る事ができたのが特に素晴らしい経験だった、とアニータ。最初の妻の写真を見て、何か不思議なつながりを感じた。マヒンドラの写真がなかったのは残念だったが、その存在を知る事ができたのは何より良かった。

ガンジス川のほとり、ヒンズー教の聖地であるハリッドワーを訪れるアニータ。

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By Julian Nyča - Own work, CC BY 3.0, Link

インドでは、巡礼の際、聖職者のところを訪れ、家族の記録を残してもらう事が習わしとなっている。今回わかった祖父の最初の家族の死について記録してもらうため、アニータも聖職者のところに向かう。

村の名前ごとに管理されている大きな巻物には、何百年という家族の情報が記されている。

見てもらうと、1948年、再婚する数ヶ月前にサン・シンがすでにここを訪れ、パーティションで亡くなった家族の供養してもらっていた事がわかった。

サン・シンの次に訪れたのがアニータ。サン・シンの2番目の家族、自分の母やおじ、おばの情報を代わりに登録してもらう。

祖父がどんな人だったのか、ここからもよくわかる、とアニータ。最初の家族が生き延びていれば、自分は生まれる事がなかったことを不思議に思う。でも歴史は自分を通じてもまた続いていくことは、素晴らしい。

ひとこと

今回もあまり日本では知られていない、イギリスの有名人のエピソードをご紹介しました。

その個人を知らなくても、このようなエピソードを見ると、今までなんとなく覚えていたインド、パキスタンの分断の歴史が、よりパーソナルに見えてきます。そしてもっと色々知りたくなります。

インド人というと、ターバンを巻いた、というイメージがまだ強いでしょうか。しかしこれは北部パンジャブ地方のシーク教徒という少数の人達の習慣です。彼らは神様からもらった毛を切ったり剃ったりせず、ターバンでまとめます。また背が高く、体格が良く、兵士といえばシーク教徒、というイメージもあります。

またヒンズー教とは違い、カーストに寄る差別がありません。シーク寺院に行った事がありますが、お祈りのあとは皆で集まりご飯を食べるのも特徴で、これも階級に関係なく皆で平等に食事をする事を大事にしているからだそうです。

ヒンズー教徒の一家からシーク教徒を出す慣習があるというのは初めて聞き、面白いなと思いました。でも実は日本人でも希望すればシーク教徒になれるそうですよ。

それにしても、宗教は人を救う面がある一方で、同じくらい問題を引き起こしますね。さらに、辱めをうけるぐらいなら・・と自らの家族の手で殺される女性の話は、恐ろしいものでした。男性が全て主導していた世界だったとはいえ、亡くなった息子のことは家族の中に伝えられていても、娘の存在は完全に忘れ去られていたのも不憫でした。

でもこういう話、昔の日本に置き換えても、ありえますね。戦国時代だけでなく、それこそ第二次大戦中だって、ありましたね。

それが当たり前、当時は仕方ないこと、と思ってはいけません。

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【俳優、脚本家:マーク・ゲイティス】マイクロフト・ホームズ俳優のルーツ:一族の土地を取り戻したアイルランドの先祖

プロローグ

人気ドラマ「Shirlock」でシャーロック・ホームズの兄、マイクロフト・ホームズを演じる俳優マーク・ゲイティス。その他「ドクター・フー」への出演や、シャーロックをはじめ様々な脚本も手がけている。

Mark Gatiss by Gage Skidmore.jpg
By Gage Skidmore, CC BY-SA 3.0, Link

自分のキャリアは、「体育に対する一大リベンジ」だというマーク。体を動かすことが好きでなかった彼であるが、友人とホラー映画について話すことは大好きだったという。

そんなマークは、母方にアイルランドのルーツがあることに、ある意味執着とも言える興味を持っているという。先祖がアイルランド王だったらいいんだけどな!と冗談を言うマーク。

母方のルーツを探る

マークの母はすでに亡くなっているため、父を訪ね、古い写真や書類を見せてもらう。

母方の祖父、ジェレマイア・オーケイン(O'Kane)は母が生まれた翌年に亡くなったため、母も自分の父親やその家族のことは知らずに育ったという。

祖父はアイルランド北部出身。医者として開業するため、イギリスに移ってきた。写真の祖父は鼻がマークそっくり。この鼻は母方の血であるらしい。

祖父はベルファストクイーンズ大学で医学を修めていた。

Queen's University of Belfast, Lanyon building, May 2006.jpg
By Fasach Nua(talk) - Fasach Nua(talk), Public Domain, Link

ベルファストに向かうマーク。クイーンズ大学の学籍簿に祖父の名前を見つける。

また祖父の出生証明書から、曽祖母の名前がマーガレット・オーケインであることがわかった。

1939年の、マーガレットの死亡広告記事が見つかる。マーガレットの旧姓はオームラン(O'Mullan)といい、アシュランマドフ(Ashlamaduff) という地域の大地主だったジェレマイア・オームランの娘である、と記されていた。

大地主だった先祖

当時の土地の記録を調べてみると、高祖父ジェレマイア・オームランは、1880年代に700エーカーもの土地を所有していた(東京ドームでいえば、66個分)。イギリスの支配下にあって、数少ない、最大のカトリック系の地主であった。

若い頃のジェレマイアの写真も見つかる。ここでも同じ鼻の先祖の登場に、この鼻、何世紀も呪われてたのか!と笑うマーク。

ジェレマイアの妻の旧姓はオーケイン。先祖ごとにオーケイン、オームラン同士が結婚しているようであるが、実はこの2つの苗字がこの地域には非常に多いらしい。

土地所有に関する書類も確認する。ジェレマイアの父、ジョージ・オームランもアシュランマドフに住んではいたが、その土地の所有者ではなく、小さなロットを借りているにすぎなかった。

息子ジェレマイアは一体どうやって大地主になったのか、謎である。

北アイルランド、イギリス侵略の歴史

アルスター(Ulster)と呼ばれる北アイルランド一帯は、1600年代初頭、ジェームス一世の時代のイギリスに侵略されている。

イギリスは地元の族長達から土地を奪い、ここをプロテスタント支配下とし、イギリスからの「入植」を進めた。

しかしその中でも、マークの先祖がいた地域は特に入植しにくい厳しい場所であったらしい。当時の記録によると、この地域は非常にゲーリック色が強く(ゲール語を話すなどアイルランド色が強かった)、鬱蒼とした森には狼や、盗賊もいたという。

イギリス政府は、「リヴァリ・カンパニー(livery company)」と呼ばれる団体に入植支援を依頼している。リヴァリ・カンパニーは大工や商人、魚屋など、職業別のギルド、同業者団体が法人化したもの。

政府は土地に住む地元のアイルランド人を追い出し、リヴァリ・カンパニーによる土地の所有、管理、入植を進めさせた。当時、地元アイルランド人が所有する土地は10%ほどしかなかったという。

リヴァリー・カンパニーは、アイルランドへの入植者を募るが、その厳しく敵対的な環境からうまく行かず、結局ジョージの時代、これらの土地は地元民に貸し出されていた。ジョージはその中でも、「グラック」と呼ばれる土地を借りていた。


現在のグラック。通り名しか残っていないが100人ほどが居住しているという

当時のグラックについて記録が残っていた。

「グラックは苔と山しかない場所で、ローマンカトリックしか住んでいない。耕作可能だった平地の賃貸契約が終わってしまった後、彼らはこの寒くて何もない、グラックの山間部にに追いやられた。入植以前、この地はオーケイン一族が支配していた。また山の麓はオームラン一族のものであった」

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Photo © John Naylor (cc-by-sa/2.0)
グラックの近くにある森

なんと、自分の先祖はジェントリー(地主)だったのか!と喜ぶマーク。アイルランドでは、このような地主はもともと王だったという。

しかし一族の長は皆「王」だったので、アイルランドには王が200人はいたと聞き、それは多すぎるな!とマーク。

実際に地域を車で走っていると、オーケイン、オームランの名がついた店の看板をたくさん見かける。この土地の王に返り咲くには、親戚をずいぶん倒さないといけないようだな・・とマーク。

地主と地元民の間にいたジョージ

ジョージが借りていた土地を訪ねる。

ジョージの妻はブリジット・オーケイン。ここでもまたオーケインの名前が出てきて笑うジョージ。

子供は8人いたが、彼が借りていた土地は家族を十分養えるほど豊かではなかった。

ジョージはロンドンの魚屋によるリヴァリ・カンパニー、Worshipful Company of Fishmongersから土地を借りていたが、家計を助けるため、同時にこの会社に雇われてもいた。

地主であるリヴァリ・カンパニーは、この土地を主に放牧に使っていたが、高地の痩せた土地を借りている地元民達が、十分な牧草が無くなると会社の土地に牛を連れてくるのを嫌っていた。

ジョージはこのような地元民が入り込まないよう土地を管理、また土地の賃貸料を地元民から徴収する仕事を任されていた。

1820〜30年代には人口が増加し、人々の暮らしはより苦しくなった。このため、土地所有者と地元民の間での緊張は高まっていった。

この頃、「キャプテン・ロック」と名乗る地元民たちのグループが、ジョージのような土地管理人に暴力的制裁、時には殺人を行うケースも多かったという。

実際にジョージも1827年、管理地に侵入してきた地元民の牛を捕らえた仕返しに、家を焼かれる被害にあっていた。

抑圧されていた地元の人たちのことを考えると、複雑な気持ちになるマーク。ジョージは地主、地元民の間に挟まれ、難しい立場にあったと言える。

ストーリーテラー、ジョージ

ジョージはもしかして村八分にされていなかっただろうかと心配になるマーク。

当時、北アイルランドの測量調査を行うプロジェクトが進んでおり、ジョン・オドノバンという人物が、この地域を調査していた。

彼がロンドンに書き送った手紙に、ジョージが登場している。

オドノバンは地域でももっとも「ワイルド」な場所であるグラックでジョージに出会う。ジョージは非常に聡明な人物で、アイルランド語をはじめ、この地域のことを色々と教えてくれたという。

手紙にも、ジョージから教えられた情報が書かれていた。これだけ色々と地元の情報に詳しかったということは、地元の人達と距離があった、ということでは決してないと思う、と専門家。

アイルランドの歴史は口承の歴史でもある。オドノバンはそのような情報も集めており、ジョージは彼に自分の先祖の武勇伝「オーケインの運命」という話をし、その内容も手紙に残されていた。

おそらくこれ以外にも、もっと色々な話をしたに違いない。脚本家でもあるマークは、先祖にストーリーテラーがいたことを喜ぶ。

地元の吸血鬼話

地元の民話研究者に話を聞くマーク。口承で歴史や事実を伝えていく伝統は、話が大きくて面白いほど長く伝わっていく。そのせいか、この地域には妖怪やモンスター的な話が多く残っているという。

ホラー映画好き、吸血鬼好きなマーク、オーケイン一族が関係している吸血鬼(アイルランド語でデルグデュール)の話が載った本を手渡される。

話の舞台となった夕暮れの丘の上に行き、本を開くマーク。

アバタック王の恐怖政治に疲れた民が、オーケインの王に暗殺を依頼する。アバタック王は殺され、一族の長の埋葬方法として、立ったまま埋葬されたが、翌日生き返って生き血を求めてきた。

聖職者に相談したオーケインの王は、吸血鬼と化したアバタック王が生き返らないよう、特別な木でできた剣で殺し、逆さに埋葬し、その周辺をイバラで囲い、上に石を置いたという。今でも地元の人は、夜、この場所には近寄らないという。

きっとジョージもこの話を知っていただろう。そしてオドノバンにも語ったかもしれない。

子供の頃ホラー映画の見過ぎかもしれないし、あまり美化してもいけないとは思うが、自分のストーリーテラーとしての血がどこからか来ているかと考えると、やはりここなのかもしれないと思う、とマーク。

ジョージのその後、大地主となった息子

ジョージのその後を追う。

1836年、ジョージは厳冬で15頭の牛、そして馬を失っていた。状況を立て直すため借金をし、さらに土地を借りていた。

しかし1845年、アイルランドをジャガイモ飢饉が襲う。ジャガイモの不作がきっかけとなった飢饉で、実に100万人が亡くなり、多くの人々がアイルランドを後にした。

ジョージの息子5人のうち、4人はニューヨークやオーストラリアに渡ったが、ジェレマイアだけが地元に残った。

ジョージは1852年にはグラックの土地を手放し、1861年にはアシュマンラドフで亡くなっている。

ではなぜどうやってジェレマイアは大地主になったのか。

1875年、オーストラリアに移民していた兄が亡くなる。現地で成功していた兄は、現在の価値で5700万円ほどの遺産を残しており、その一部を弟、ジェレマイアが受け継ぐことになった。

1891年、ジェレマイアがアシュマラドフの土地を買った時の文書が見つかった。兄からの遺産で、他の良い土地を買うのではなく、もともと一族の土地だった場所をイギリスから買い戻したのであった。

アシュマラドフへ

この土地って、僕の?と聞くマーク。

実際は彼の親戚、ジェレマイアのひ孫であるベティー・アンという女性が所有者となっていた。

ティー・アンに会うマーク。彼女の息子もやはり同じ鼻をしているという。

ニューヨークで生まれた彼女であるが、家族はアイルランドに戻り、アシュマラドフで育ったという。

今はこの土地はオームラン家のいとこに貸しており、農場はまだ運営されていた。

今は廃屋となっている、彼女が育った家を見るマーク。

家族はオーストラリアやニューヨーク、色々な場所に散っていったが、この土地、この場所に戻りたい、という気持ちがとても強いことを感じた。

ジェレマイアも、この地で1908年、75歳で亡くなったという。

エピローグ

この地の「王」であった先祖。その土地を奪われ、土地から追いやられ、そしてその土地を取り返す・・。まるで西部劇のようだ。アイルランドが舞台の西部劇の映画を作ろうかな、とマーク。

この旅は本当に楽しかった。またここに戻ってきたい。次は軍隊を連れて自分の王国の一部を取り戻すとしようかな。

ひとこと

気がつけば、シャーロックのキャストの人も何人かこの番組に登場していましたので、ぼちぼちご紹介します。

マイクロフト役のマーク・ゲイティスの回は、結構地味な内容、でもアイルランドのディープな歴史を知ることができる回でした。

今でもアイルランドの北部の一部だけイギリスですが、彼が言うように、地元のアイルランド人から入植者が土地を取り上げ、彼らがどんどん痩せた土地に追いやられる・・というシチュエーションは、西部劇と言いますか、ネイティブアメリカンが経験した、アメリカ入植の歴史を彷彿とさせる部分もありました。

それにしても、アイルランド訛りはよく聞かないと時々よくわかりません(笑)発音と言うよりイントネーションが微妙に違うので、一瞬「今のは英語だった?」と思うようなことも。

またアイルランドの地元の言葉、ゲール語も英語とは全く違います。発音も喉から出すような音があってカタカナ表記がほぼ不可能だったり、土地名も、英語読みとは微妙に異なったり。

そしてアイルランドというと、やはり不思議な民話、何か神秘的なものがたくさんある・・というイメージは実際にあります。それこそ、セントパトリックスデーに登場する緑の小さいおじさんもその一つですね(笑)小さい時からホラー映画が大好きだったというマークさんが喜ぶのも頷ける感じでした。

シャーロックのキャストのファミリーヒストリー、こちらもどうぞ(残念ながらカンバーバッチさんはまだ登場していません)

familyhistory.hatenadiary.com
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【女優:リア・ミシェル】ドラマ・グリー女優のルーツ、火事、虐殺、移民法・・困難を乗り越えアメリカに来た曽祖母

プロローグ

テレビドラマ「グリー」でおなじみの女優、リア・ミシェル

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By Gage Skidmore - https://www.flickr.com/photos/gageskidmore/19157054024/, CC BY-SA 2.0, Link

8歳の頃からブロードウェイに出演するなど、女優のキャリアは長い。

ニューヨークでイタリア系の母、ユダヤ系の父の元に生まれた。

母方の家族のルーツは完全にイタリアで、リアもローマンカトリックとして育てられた。

父親も母方の家族と過ごすことが多く、父方の家族についてはあまり知らないという。

父方のルーツを探る

父方のサルファティ家は、スファラディ、つまりスペイン系ユダヤ人。

もともとスペインに定住していたスファラディ系のユダヤ人だが、15世紀頃にスペインから追放され世界中に散った。

リアの家族はその後トルコかギリシャ、またイスラエルにも行ったと聞いているがはっきりしない。

父親に話を聞くリア。

祖母セリア・シルビアの両親の名前はモリス、そしてベッシー・ヴィッシー。ベッシーの本当の名前はボニータだと思う。イスラエルと関係あると思うがどこからきたのかよくわからないという。

2人の結婚の時に撮った写真は、とても美しく着飾っていた。

出身地はトルコ?ギリシャ

2人の足跡を追うため、まずは国勢調査を調べる。

1940年、曽祖父モリスは46歳、曽祖母ベッシーは47歳。祖母セリアは15歳。曾祖父母の出身地はトルコと記録されていた。

それから10年前の1930年の国勢調査。ここでは、2人の出身地はギリシャと書かれている。トルコで生まれてギリシャに移ったのだろうか。混乱するリア。

また国勢調査には、アメリカに移民した年を書く欄があったが、ベッシーはモリスの2年後にアメリカに来ていたこともわかった。

さらに遡り、1929年の国勢調査。ここではまた出身地がトルコと書かれている。トルコなのか、ギリシャなのか。一体どういうことだろうか。

エリス島へ

曽祖母ベッシーは、1人でアメリカに移民してきて曽祖父と知り合ったのか。それとも、曽祖父に後から合流するために来たのか。移民の玄関口だったエリス島に向かうリア。

https://www.nps.gov/common/uploads/places/images/nri/20140902/siteadmin/28B468DA-A430-E361-953360F18D9853C5/28B468DA-A430-E361-953360F18D9853C5.jpg
nps.gov

1918年の乗船・上陸記録に曽祖母の名前があった。ベッシーの本当の名前はボニータではなく、ベヌータ。苗字はヴィッシー。当時28歳。

Ellis Island arrivals.jpg
By Underwood & Underwood - Library of Congress Prints and Photographs Division - http://hdl.loc.gov/loc.pnp/cph.3a17784, Public Domain, Link
エリス島での入国審査

出発したのは、イタリア・ジェノアから。当時第一次世界大戦中であったため、トルコやギリシャからの移民が安全に出航できる場所として、イタリアから船に乗ったようだ。

そして結婚歴の欄には、「未亡人」と書かれていた。

出身地は、ギリシャのサロニカ。現在テッサロニキと呼ばれる場所である。

この街がギリシャ領となったのは1912年。それ以前は長年オスマン帝国支配下にあった。国勢調査で出身地がトルコ、ギリシャとコロコロ変わっていたのは、このためだった。

そして最終目的地として記載されていたのは、ニューヨークではなく、なぜかモントリオール

色々と記録に不可解なことが多い。未亡人とはどういうことか?しかも曾祖父母はまだ結婚していなかったが、苗字が2人とも「ヴィッシー」と同じ。親戚同士の結婚だったのだろうか?

読み書きができるか、の答えは「No」。

1917年の移民法で、アメリカに移民する者は、自国の言葉で読み書きができる教育レベルになければならない、と定められていた。

これが原因で、曽祖母はエリス島で拘留されていた。

勾留、入国審査

当時移民が拘留されていた部屋を訪れるリア。ヒヤリングが行われるまで、移民は何段にもベッドがひしめき合う部屋に詰め込まれた。

Ellis Island dormitory room.JPG
By O - Own work (Own picture), Public Domain, Link

ヒヤリングが行われた部屋を見学する。ここで3人の移民調査官、通訳、証人の立会いのもと、入国審査が行われた。

ベッシーの入国審査について、50ページにのぼる議事録が残されていた。

  ー アメリカには1人で来た。生まれ育ちはギリシャのサロニカ。エスターという姉がいる。

  ー フィアンセはアメリカに住んで2年目。自分はフィアンセの兄弟と以前結婚していた。

当時、ユダヤ人の間では、夫が亡くなるとそのきょうだいが未亡人と結婚する慣習があった。ベッシーもこのためにアメリカに渡ったようである。

  ー フィアンセはどこに住んでいるのか? 
  ー モントリオールではなく、アメリカ。

  ー なぜ最終目的地がモントリオールなのか? 
  ー 読み書きが出来ないと言ったら、船のエージェントがモントリオールに行った方が良いと言ったから。

どうやら、移民法をかいくぐって入国するために、モントリオールに向かう、と答えたようである。

モリスも証言台に立っている。移民官の質問に、自分も彼女と一緒にモントリオールに行くのだと答えている。

モリスはミッチェル・タイヤカンパニーで働き、週に25ドル稼いでいる。また400ドルの貯金もあると、移民官に貯金を見せている。

  ー 結婚はいつする予定であるか。
  ー 今日。

しかし出された判断は入国拒否、強制送還だった。

モリスの嘆願書

第一次大戦の影響を受け、当時のアメリカには、ヨーロッパから大量に移民がやって来ていた。

移民に対する恐れや偏見から、1917年、政府は読み書きのできない移民は好ましくなく、国の財政的な負担になるとして、強制送還するとの法律を制定した。

しかし戦争中だったため実際の送還は難しく、滞在を許可されなかった移民たちはエリス島に留め置かれ、混乱状態になったという。

入国が拒否されて一年後の1919年8月、モリスがワシントンDCの移民局に送った嘆願書が見つかった。

そこにはフィアンセがニュージャージーの勾留施設に留め置かれていると書かれていた。

当時エリス島は軍事施設として利用されるようになったため、ベッシーは送還される条件で一時的な上陸が認められ、ニュージャージーに送られたようである。

その後、執行猶予付きで一時的滞在が認められていた。

嘆願書は、この執行猶予を取り下げ、ベッシーがアメリカに永住できるよう求めたものだった。

そこには、1917年8月18日にサロニカで大火事があり、街の全てが破壊されており、送還されても人が住めるような状態ではないこと、残っているのは年老いた母親だけであり、生活のすべがないことが説明されていた。

また自分には彼女を支える経済力があること、もともと彼女と結婚する予定であり、ベッシーの面倒を見るつもりであること。政府に崇高な人の心があるならば、この状況を考慮して欲しい、と切々と訴えが書かれていた。

これに対し、移民官が残した内部メモのやり取りには、「もし彼らが結婚すると、合法的に送還できなくなるので好ましくない」と書かれていた。

しかし1910年10月、曾祖父母は結婚。ベッシーはアメリカに残ることができるようになった。

あのきちんとした結婚写真は、結婚が彼らにとってどれだけ重要だったかを示すものだった。

ギリシャに残された家族のその後

ニューヨークで出された婚姻届から、ベッシーの本当の旧姓は「コヘンカ」であること、父の名はアイザック、母はミリアムであることがわかった。

セフォラディと呼ばれるスペイン系ユダヤ人は、スペインから追われた後、多くが地中海、特にトルコに移住した。

オスマン帝国領であったサロニカは、その中でもスペイン系のユダヤ人コミュニティの中心地で、20世紀初頭、サロニカの人口の実に半分が、このようなユダヤ人だった。

1917年、そんなサロニカで起こった大火は、街の3分の2を焼き尽くす大災害であった。

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By Philly boy92 - http://www.macedonian-heritage.gr/, Public Domain, Link

特に街の中心部に住んでいたユダヤ人は大きな被害を受け、家を失った被災者7万5000人のうち実に5万人がユダヤ人だったという。

ユダヤ人コミュニティの被災者記録が残っていた。

焼け出されたベッシーの両親と五人の子供達の情報が見つかる。父イサックは火事の翌年に死亡。

母のミリアムは50歳、被災支援としてミルクを受け取った、と書かれていた。

ベッシーはアメリカに向かったが、ギリシャに残った残りの家族はその後どうなったのだろうか。

第二次大戦に入ると、ギリシャナチスドイツに占領される。

サロニカもドイツの支配下に入り、ユダヤ人は列車に乗せられ、バルカン半島を経由し、アウシュビッツに送られたという。

サロニカに住むユダヤ人5万人の多くが強制収容所に送られる運命となってしまった。

この先の情報を追うのは気が重いが、残りの家族の足跡をたどるため、ニューヨーク、ロウワーイストサイドにあるシナゴーグに向かう。

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By Harris Graber from New York City, United States - Kehila Kedosha Janina, CC BY-SA 2.0, Link
Kehila Kedosha Janiaと呼ばれる、ギリシャユダヤ人が集まるシナゴーグ

そこで待っていたのは、イスラエルに住む又従姉妹、コヒーであった。コヒーと初めて対面するリア。

彼女はベッシーが入国審査の時に話していた姉、エスターの孫に当たる。

エルサレムにあるホロコースト博物館。ここでは、ホロコーストで家族が全滅し、先祖の情報も失ってしまった人達のために、亡くなった人について何か記憶があれば、それを登録しておけるようなアーカイブがあるという。

コヒーの父が、そこにミリアムの情報を登録していた。

サロニカで生まれたミリアムは72歳で、アウシュヴィッツで亡くなっていた。

ホロコーストを生き延びたのは、コヒーの父だけ。残りの家族は全て、アウシュヴィッツで亡くなったのだという。

ミリアムの写真を見て、目元が父にそっくりだという思うリア。

エピローグ

父に今までわかったことを説明するリア。父も感動し涙ぐむ。

そして長年会っていなかったという、父にとってはいとことなるコヒーとも再会を果たす。

父方にも、サロニカという土地に根ざしたユダヤ人という、とてもユニークなルーツがあることがわかったリア。

家族に起こった悲劇は悲しいが、こうやって家族のことを知ることができ、自分も次の世代に伝えられるのは素晴らしい。

イタリア系アメリカ人のような話し方をいつもする父親に「パパはすごくユダヤ人じゃない。もうイタリア人のふりするのやめなよ!」とつっこむ。

ひとこと

番組にお父さんが登場した時、喋り方やマナリズムが完全にイタリア系アメリカ人独特のものだったのがとても印象的だったんですが、なんと実はユダヤ人でした。

生まれ育ったニューヨークや、奥さんのイタリア系の大家族の影響だとは思いますが、ちょっと面白かったです。

文盲だったため、入国拒否され送還寸前だったひいおばあさんの話。

現在の大統領のもとでも、メキシコからの移民や、イスラム世界からの難民受け入れなどを嫌い、色々と移民法が変えられようとして、議論を呼んでいます。その中には、教育レベルに関する制限もまさに含まれています。

スキルのないものを移民として受け入れるのは、国の財政を圧迫する云々、も全く似たロジック。

アメリカ移民の多くは、例えば宗教弾圧だったり、アイルランドのジャガイモ飢饉だったり、ユダヤ人の迫害だったり、戦争だったりと、色々な形ではあれ、何かから逃げてきた難民だった、というのは今も昔も大して変わらないはずなのに。

でも先に来た人達は、そんなことをあっという間に忘れて、あとから来た人達に偏見を持ったり、色々と制限しようとしたり。

歴史から学ぶことはたくさんあるのに、と思いますが、喉元過ぎればなんとかで、こんなにも面白いくらい、同じことが繰り返されているのだな・・となんとも言えない気持ちになります。

ギリシャのサロニカ、テッサロニキについても、名前だけは世界史で習ったような気もします。が、また悲しいかな暗記の歴史の勉強では何も残っていませんでした。

この地に15世紀から住み着き、その街を形作っていた人達がナチスによって連れ去られ、虐殺され、跡形もなくいなくなってしまう・・。

その異様さも何とも言えませんでした。

今回のエピソードでは、本人のルーツとなる場所へは飛ばず、全てニューヨークで撮影が行われていました。

本人のスケジュールの問題などもあったのかもしれませんが、実際のところ、テッサロニキなどに行ってもあまり情報が残っていないのかもしれません。

番組ではリアがニューヨークにあるユダヤ人の歴史センターを訪れたりしていましたが、ユダヤ人が多く移民した先に、もしかしたら情報アーカイブも一緒に移動したのかもしれません。

イスラエルをはじめ、アメリカにもホロコースト博物館がありますが、強制収容所での情報なども、こういう場所に保管されていることも多いようです。

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【女優:リヴ・タイラー】エアロスミスにつながるミュージシャンの血、そしてアフリカの血

プロローグ

リヴ・タイラー。「アルマゲドン」「ロードオブザリング」などで有名な女優である。

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By lichtmaedel2 at http://www.flickr.com/photos/bedpanjohn/ - http://flickr.com/photos/lichtmaedel2/2233038718/, CC BY-SA 3.0, Link<


父はエアロスミスのボーカル、スティーブン・タイラー、母はモデルのビビ・ビュエル。

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By S. Nadal - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

当時歌手のトッド・ラングレンと交際していた母ビビであるが、スティーブン・タイラーとの間にリヴが生まれる。

ラングレンは自分の子供ではないことを承知でリヴの父親となり、彼女が自分の本当の父親が誰かを知ったのは11歳の時であった。

イタリア系である父スティーブンの本当の苗字は「タラリコ」。

彼の父親、リヴの祖父ヴィクター・タラリコはクラシックピアノ奏者だった。

スティーブンの祖父、リヴの曽祖父ジョバンニ・タラリコはイタリア移民で、兄弟で地方を回る楽隊のミュージシャン。

音楽一家であったタラリコ家についての情報は多いが、スティーブンの母親、スーザン・ブランチェのルーツについては謎が多い。

祖母の顔写真を見ると、何かわからない謎めいた部分があるという。

祖母のルーツをたどる

地元の図書館を訪れるリヴ。

国勢調査から、祖母方の6代前の先祖であるロバート・エリオットまでたどることができた。

1860年の国勢調査では、ロバート・エリオットは60歳。1800年生まれで、職業は靴屋。ニューヨーク生まれで、妻と4人の子供がいた。

国勢調査の人種欄は空欄だった。これはこの地域の95%が白人だったため、特記すべきことがなければ空欄だったと考えられる。

10年後の1870年の国勢調査。69歳になったロバート・エリオットであるが、そこではなぜか彼の人種欄だけ「M」と書かれていた。

これは「ムラート」の略で、白人と黒人の混血という意味。

当時調査員により、手書きで書かれていた国勢調査だが、なぜか彼の「M」の部分だけ、まるで強調するように何重にも書いてあった。

10年前の調査には何も書いていなかったのに、と混乱するリヴ。

黒人の先祖、そしてスティーヴン・タイラーとの驚くべき共通点

さらに詳しく調べるため、ニューヨーク州クリントン郡、プラッツバーグに向かう。

1885年に出版された地域の歴史本に、「ロバート・エリオットという黒人(colored man) が、この土地に移住してきた」というくだりがあった。

やはり彼は黒人、または混血だったのだろうか。はっきりはわからない。

多様性のあるニューヨークで育った自分には想像がつかないが、この小さなコミュニティで有色人種として生活していくというのは、どんな感じだったのだろうか。今となっては、当時このコミュニティの人達が、肌の色の違いをどれだけ気にしていたかも、知る由がない。

1875年の新聞に、ロバート・エリオットの生い立ちが書かれていた。そこには、ロバート・エリオットは子供の頃ライト大佐の庇護に入り、プラッツバーグの戦い(1812年米英戦争での戦い)では、少年鼓手を務めた、と書かれていた。

This is crazy! と驚くリヴ。父、スティーヴン・タイラーは、実はもともとドラマー。その後ボーカルに駆り出されたが、本来はドラマーなのだという。先祖もドラムを叩いていたことに興奮する。

しかしライト大佐の庇護にあった、とは一体どういうことか。専門家は、これはおそらく「年季奴隷制(indentured servitude)」に基づく関係にあったのではという。

奴隷は死ぬまで誰かの所有物として労働を強いられるが、年季奴隷制の場合は、決まった期間が過ぎれば自由の身になれた。

ニューヨークでは、1799年から奴隷制廃止が始まったが、奴隷がすぐに自由になれたわけではなかった。

その過渡期の間、奴隷の母親から生まれたものは、この年季奴隷制のもと、28歳になると自由になれる、というルールがあった。

ロバート・エリオットもおそらく奴隷だった母親から生まれた可能性が高い。

ロバートの息子もまた・・

ロバート・エリオットの息子、ジョージ・ワシントン・エリオットは1837年生まれ。南北戦争時、ちょうど兵士として戦える年齢だったことから、入隊記録がないか調べる。

23歳のジョージの名前が見つかった。髪や目、肌の色など身体的特徴を書く欄には、髪の色、目の色ともに「黒」、肌の色は「浅黒い」と記入されていた。

1861年リンカーン大統領は南北戦争のため、国民に軍に志願するよう呼びかけ、多くがそれに応えた。

しかし一方、リンカーン大統領は黒人が入隊することには難色を示しており、この時点で黒人の入隊はできなかったという。

つまり、1861年の時点で入隊しているジョージは、白人として通っていたということであった。

自分のことを有色人種と思っていなかったか、または黒人のルーツを隠していたか・・自分自身をどのように見ていたかについては、謎である。

ジョージの軍での役割は何だったか。書類に書かれていたのは、

「ミュージシャン」。

祖父も、祖母の家系にも、代々ミュージシャンがいたことを発見し、小躍りするリヴ。

鼓手の役割

ジョージの軍での記録を調べるため、ワシントンDCに飛ぶ。

1862年の記録では、25歳のジョージは第一大隊、歩兵12連隊に所属。

ジョージもまた、鼓手であった。

Civil-War-US-Army-drummer.jpeg
By Unknown - Library of Congress, Prints & Photographs Division, LC-BH822-46 (original glass negative), converted to digital format by the Library of Congress, archival TIFF version (28 MB), cropped and converted to JPEG with the GIMP 2.4.5, image quality 88., Public Domain, Link
南北戦争時の少年鼓手

鼓手は、朝の起床の合図から、戦場で発砲やその他戦闘に関する合図をドラムで送る役割を果たした。

合図に合わせ、18種類の演奏方法があったという。戦場で大砲や銃弾が飛び交うような中でも、ドラムの音が聞こえれば、次にどうしたら良いかがわかったという。

実際に当時のドラムの演奏が再現される。感動で涙ぐむリヴ。

ジョージの部隊はメリーランド作戦に合流、アンティータムの戦いに参加していた。

アンティータムの戦いは、南軍が北部に侵攻してきたもので、北軍だけで犠牲は1万2000にのぼる壮絶な戦いだったという。

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By Thure de Thulstrup - website of the Old Print Shop, New York City, Public Domain, Link

鼓手は非戦闘員で、ライフルなどの武器は持たなかったが、戦闘中はけが人の運搬や世話など、必要なことは何でもしたという。ジョージも戦闘のど真ん中にいたことは間違いない。

さらに1年後、ジョージは二等兵となっていた。

戦闘の犠牲で兵士不足だったこともあり、ジョージが戦闘員となるよう志願した可能性が高い。

さらに1863年7月2日から数日間の記録には、ゲティスバーグ近郊での戦闘に参加したことが記されていた。

ジョージは南北戦争において重要な戦いに2度も参加していたのであった。

ゲティスバーグの戦い

ゲティスバーグに向かうリヴ。実際に戦闘があった場所に立つ。

ここは犠牲がもっとも多く出た、「死の谷」と呼ばれるところだという。

1863年に南軍がこの地に侵攻して始まった戦いは、当初北軍が防御に苦戦。しかし2日目に指揮官ジョージ・ミードが複数の部隊を集め、反撃を開始。

この中にリヴの先祖ジョージの部隊も含まれていた。

南軍の兵士は背後の林に隠れていて、そこから急襲してきたという。兵士同士のぶつかり合い、マスケット銃での銃撃。

どちらにも多くの犠牲を出したあと、南軍は撤退。銃撃が止んだあとの戦場には、7000もの死体が転がっていたという。

Harvest of death, USA 1863.jpg
By Timothy H. O'Sullivan - (источник: Сергей Александрович Морозов. Творческая фотография. М.:Изд-во «Планета», 3-е изд., 1989, ISBN 5-85250-029-1), Public Domain, Link
戦闘後のゲティスバーグ

負傷者も3万3000と、南北戦争史上最悪の戦いであったが、北軍勝利した。

ジョージと同じ部隊の人が、家族に書いた手紙が残っている。

「我々は昼夜行進し、敵に向かっていった。

今、戦場で、何百もの死体に囲まれたところで手紙を書いている。

我々の部隊も、450人中、109人を失った。ここには何エーカーにも渡って、死体の山が連なっている。

今まででいちばん素晴らしい独立記念日を過ごしたが、決して気持ちの良い日というわけではなかった」(注:戦闘は7月1日から、独立記念日の前日7月3日まで続いた)

ジョージも同じ場所で、きっと似たような感慨を得ただろう。一度こんな経験をしたら、前の自分には戻れなかったかもしれない。

そして仲間がそれを知っていたかわからないが、彼は白人、ではなかった。

当時、北軍の黒人に対する態度、扱いは決して良いものではなかったという。北軍の中には奴隷制に反対するものもいたが、実際多くはそうではなく、黒人に対し、卑劣な態度をとるものも多かったという。

そんな中、南北戦争に参加したジョージ。彼にとって、この戦いはもっとパーソナルなものだったかもしれない。

こんな素晴らしい先祖のことを今まで知らなかったなんて、とリヴ。

ジョージのその後

1890年、ジョージは59歳の時に軍人恩給を申請している。ニューヨーク州サラトガのスカイラービルという小さな町に移り住んでいた。

彼の晩年を知るため、スカイラービルを訪ねる。

地元の図書館に、1912年、地域の歴史を記したパンフレットが残っていた。

そこには、17人の子供と9人の孫と写るジョージの写真があった。

ヒゲを生やし、威厳のある老人の顔。

南北戦争の退役軍人で、フリーメーソンのメンバーであると紹介されていた。

フリーメーソンは、カルトや怪しい団体というわけではなく、地元の名士が集まり、社交したり、慈善活動を行ったりする、いわば名士会のようなもの。

メーソンの制服を着て立っている彼の写真も見つかる。父スティーヴンの面影もある先祖の写真を見て圧倒され、感動するリヴ。

この地域では、白人用、黒人用のメーソンがあったというが、ジョージは白人のメーソンに参加していた。自らのアイデンティティは白人であったようだ。

エピローグ

自分が育った環境で知り合う人々のバックグラウンドは本当に様々で、皆色々な国から来た人ばかり。そんな多様性が普通の中で生活しているが、ジョージの時代、黒人の血が入っているということは、本当にビッグディールだったに違いない。

そして時代を生き延びるため、そんな背景が彼の人生の選択に大きな影響を与えたことは間違いないと思う、と語るリヴ。

スカイラービルに父スティーヴンも合流。リヴが今までに知った先祖のことを話す。

黒人の先祖がいると聞いたスティーヴン「やっぱり!なぜかはわからないけどずっとそんな気がしていた」。またドラマーが先祖に二人もいることに信じられない、と感動する。

先祖が自分たちの道を作ってくれたことに感慨を覚えるリヴ。人生が大きく変わるような経験だった。これからどのような人間として生きていくか、彼らの存在が心の指標になるような気がする。

最後に二人はジョージとその妻の墓参りをする。

リヴ「ジョージは南北戦争で二つの戦いを生き延びたのよ」

スティーヴン「俺もミュージックビジネスを生き延びたな。俺も英雄だ!」

ひとこと

アフリカ系アメリカ人の中で100%黒人という人はほぼいない、という話は以前エミット・スミスの回でも紹介されていましたが、今回はその逆バージョンでした。

familyhistory.hatenadiary.com

奴隷だったロバート・エリオットの母親も、所有者に子供を産まされたのかもしれません。

本当に、人種差別の歴史は根が深いです。

リンカーン大統領が黒人の入隊を最初は嫌っていたというのも意外でしたし、北軍が必ずしも奴隷制反対ではなかったというところも、もう少し掘り下げて知りたいところです。

ちなみに、南北戦争で黒人部隊ができたのは1863年に入ってからとのことでした。

南北戦争は日本でいうとちょうど幕末の頃ですが、当時の軍隊の記録や戦闘記録が感動するほどきちんと整理、保管されています。今回のジョージ・エリオットの従軍記録もそうですが、部隊の情報だけでなく、きちんと一人一人記録が残っています。

ナショナル・アーカイブなどで現物を見ることができますが、一部オンラインで見ることも可能です。

ゲティスバーグの戦いなど、南北戦争の戦いは、それこそ人と人との一騎打ち、戦争といっても非常に至近距離で行われていたようです。ちょうど写真が撮られるようになった時代ですので、戦闘後に死体が累々とある様子が残っていて、戦慄を感じます。

またゲティスバーグもそうですが、南北戦争の戦場となった場所は、今でも行くと、変な話ですが「まだ何かいる」ようなちょっと気持ち悪い感覚があったりします。本当に何もない山の中だったりするのですが・・ちょっと不気味です。日本でも古戦場で変な気分になるのと似ているのでしょうか。

さて先祖の中に今の自分とつながる職業を見つけたり、共通点を見つけたり・・というエピソードは結構あって、やはり何か遺伝子にその記憶が残されているのだろうか?と不思議になります。

が、一方で、先祖を5代も6代もたどると、自分の先祖はその間に100何十人もいるわけで、それは探せば一人ぐらいは似たような人がいてもおかしくないのかな、とも思ったりします。そこに焦点を当てがちですが、残りの数百人の先祖の血も、確実に自分に入っているわけです。

ただ今回は、スティーヴン・タイラーの父方にも母方にも音楽家の血が入っていた、ということでちょっとすごいな、という感じでした。

リヴ・タイラーは時々映画で見かけますが、ロックンローラーの娘ですが、とてもおっとりと静かに話すのが印象的でした。

そして最後に合流してきたスティーヴン・タイラー。そこにあった花をひょいとつまんでフッと匂いをかいだり、最後のコメントも「俺も音楽業界をサバイブした英雄だ!」と結局自分の話になったりと、あまりに典型的?なロックンローラーの行動で笑ってしまいました。

リヴも、父も母もクリエーティブで、天真爛漫なところがある、と語っていたのですが、親がこういう感じだと、逆に落ち着いた子供が育つのかもしれません(笑)。<アメリカ版、2017年放送>

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【首相の母:マーガレット・トルドー】イケメンカナダ首相のルーツは、アジアにあった!

プロローグ

カナダ首相、ジャスティン・トルドーの母、マーガレット・トルドー。

Margaret Trudeau bandana.jpg
By Simon Fraser University - University Communications - https://www.flickr.com/photos/sfupamr/23754802184/, CC BY 2.0, Link

1971年、当時の首相で、30歳年上のピエール・トルドーと結婚、首相夫人となった。

3人の息子をもうけたが、のちに離婚。

息子の一人が、現在の首相ジャスティン・トルドーである。

Justin Trudeau and Benigno Aquino III November 2015 cropped.jpg
By Radio Television Malacañang (RTVM) - [1], Public Domain, Link

離婚後は、暴露本を出版したり、ローリングストーンズのメンバーと噂になるなど、その言動が話題に。映画にも出演した。

一方、首相夫人であった頃は、周囲の目や重圧に苦しんだ。また息子の一人をスキー事故で亡くす悲劇にも見舞われている。

これらが原因で双極性障害を患ったマーガレットは、現在精神疾患に関する啓蒙活動や、執筆活動も行っている。

アジアにルーツ?母方の先祖の謎

マーガレットの父、ジェームス・シンクレアはカナダ政府の閣僚も務めたビジネスマン。シンクレア家については、多くの情報が伝えられているが、母方のルーツについては、わからないことが多いという。

母方の祖父の名前は、トーマス・カークパトリック・バーナード。

当時植民地であったインドネシア生まれで、1906年、15歳の時に家族とともにカナダに移住した。

曽祖父、チャールズ・バンドン・バーナードはシンガポール生まれのイギリス人。植民地での貿易に従事。

曾祖母アニー・オリファントはオランダ人で、インドネシアのゴムプランテーション所有者の娘であった。

当時の写真を見ると、多くの召使を抱えた、植民地での豪奢な暮らしが見て取れる。また曽祖父の顔立ちは、何となくアジア人の血が入っているようにも見える。

バーナード家には、アジア人の先祖がいるという伝説があるが、詳しいことはわからないのだという。

また、曽祖父からさらに3代遡ると、シンガポール創設の立役者の一人で、シンガポール理事官となったウィリアム・ファーカー(Farquhar)に行き着くという。

バーナード家のルーツを探るため、シンガポールに飛ぶ。

ラッフルズとの政争に敗れた先祖

東南アジアでの貿易拠点として、イギリスが創設した植民地、シンガポール。ウィリアム・ファーカーはどのような役割を果たしたのかを知るため、国立図書館に向かう。

1774年スコットランド生まれのファーカーは、17歳で東インド会社に入社。マラッカを統治するなど、東南アジアでの経験が豊富な軍人であった。

Portrait of William Farquhar (c. 1830).jpg
By
Unknown
- [1]., Public Domain, Link

植民地での経験を買われ、ファーカーはシンガポール創設者であるスタンフォードラッフルズシンガポール理事官としての役割を任命される。ラッフルズがイギリスに帰国している間、シンガポールの実質統治を行った。

しかしシンガポールの開発方針などをめぐり、ファーカーとラッフルズの意見は衝突する。

ラッフルズは海岸の利用は植民地政府のみの専有とし、開発を控えるよう指示。しかし地元の貿易商達から働きかけを受けたファーカーは、海岸沿いの土地を一部利用可能にするなど譲歩した。

また地元の文化への理解もあったファーカーは、ギャンブルや闘鶏も許可した。

ラッフルズの思惑とは違う植民地開発を進めていったファーカーは、ラッフルズと対立を深め、とうとう1823年、イギリスへの帰還命令が出されるに至った。

30年間に渡る東南アジアでの滞在後、シンガポールを離れることになったファーカー。

当時の記録では、彼を慕う様々な階級の人々が、数千人規模で彼の船を見送ったという。見送りの人々は歌を歌い、鐘を鳴らし、人々の目には涙が浮かんでいた、とあった。

ファーカーは政争には負けたけれど、とても同情心あふれる人物であったのではないか、とマーガレット。それは自分の心情にもつながるものを感じるという。

ウィリアム・ファーカー・コレクション

現地の言葉も覚え、東南アジアの自然に興味を持ったファーカーは、マラッカ赴任中、現地の画家に依頼し、東南アジアの草木や動物などの博物がを描かせている。

Tibang Muntooa (William Farquhar Collection, 1819–1823).jpg
By
Unknown (anonymous Chinese artist).
- [1]., Public Domain, Link

これらは現在貴重な資料として、シンガポール国立博物館で「ファーカー・コレクション」として展示されている。

博物館を訪れるマーガレット。

そこにはさらに、地元の華僑グループがファーカーに贈ったという、銀の豪奢な燭台も展示されていた。

彼は政争に敗れ、シンガポールの創設者として大きく名を残すことはできなかったが、この地域を愛し、現地の人からも愛され慕われていたという学芸員の話に大きく頷き、涙ぐむマーガレット。

ユーラシアンのルーツ

バーナード家に伝わるアジア人の先祖の謎は一体どこから来ているのか。

シンガポールではおなじみの、ラッフルズ・ホテルに向かうマーガレット。

ファーカーの妻の名前はアントワネット・クレメントといい、彼女の父親はフランス人。そして母親は地元のマレーシア人女性であった。

アジア人の血は、ファーカーの妻から来ていたのであった。

植民地においては、ヨーロッパからやってきた役人や貿易商と、現地の女性が結婚することはそれほど珍しいことではなかった。アントワネット・クレメントの父親も、植民地の役人であったという。

ファーカーとアントワネット・クレメントは25年間の結婚生活の間に6人の子供をもうけたが、帰国の辞令が出たファーカーは、シンガポールに家族を置き帰国の途についた。

ファーカーは帰国後昇進、その後スコットランド女性と再婚し、さらに子供をもうけた。

しかし彼が現地の家族を完全に捨てたというわけではなく、十分な資産を置いて帰国したとのことである。

このラッフルズ・ホテルが建っている土地も、彼が残した資産の一部であった。

ファーカーの長女エスター・ファーカーが、フランシス・ジェームス・バーナードと結婚。ここでバーナード家とファーカー、そしてアジア人の先祖との繋がりが生まれたことがわかった。

フランス、そしてマレーシアからの先祖がいることがわかったマーガレット。

当時のシンガポールは、このようなヨーロッパ人とアジア人の混血である「ユーラシアン」の人々が新たな文化を生み出していた。

COLLECTIE TROPENMUSEUM Portret van een groep Indo-Europese meisjes Batavia TMnr 60031694.jpg
By Tropenmuseum, part of the National Museum of World Cultures, CC BY-SA 3.0, Link
バタビアで撮影された、ユーラシアンの子供達

ユーラシアン協会を訪れるマーガレット。マーガレットの家族も、いわば、シンガポールのユーラシアンコミュニティの一員であった。マーガレットは現地の人々と交流し、誕生日も祝ってもらう。

エスターのその後

バーナード家の最初のユーラシアンであるエスター。

フランシス・ジェームス・バーナードとは、ファーカーがシンガポールの責任者になる前後の1818年に結婚した。

フランシスはカルカッタ生まれのイギリス人。家柄は良かったが、当時すでにイギリス軍からドロップアウトしており、ファーカーがシンガポールの港での仕事を世話した。

しかし義父ファーカーがラッフルズとの政争に破れたため、その後、その職もラッフルズの関係者に奪われてしまう。

その後はシンガポールの警察署長の職についたが、1827年、貿易に乗り出そうと、オランダ領東インドで船を購入。現地に向かったまま2年経っても戻ってくることはなかった。

残されたエスターは5人の子供を抱え、行き場を失う。当時、エスターが金銭的な援助を東インド会社に求めた記録が残っていた。援助無しでは完全なる貧困に陥ってしまう、という懇願であった。

その後、政府からの援助があったかどうかの記録はないが、9年後の1838年エスターは41歳で亡くなった。

Gothic gate, Fort Canning Green, Singapore - 20110831.jpg
By Matt Kieffer. - Flickr: Gothic Gate entrance to Fort Canning Park, Singapore., CC BY-SA 2.0, Link
エスターが埋葬されているシンガポール中心部の墓地、フォート・キャニング・グリーン

墓地を訪れたマーガレット。壁に埋められた墓石を見つけ、辛かったであろう晩年に思いを馳せる。

エピローグ

エスターの墓参りをし、山の事故で亡くなった自分の息子のことを思い出すマーガレット。彼の墓も山にあるため、訪れるのが大変であるが、先祖の墓もこうしてまた遠いところにあった。

人生は豊かであると同時に悲しみも多いが、こうやって先祖に敬意を表する機会があって嬉しい。人は死んでも魂は生き続けるというが、エスターの魂を感じた気がする。そしてシンガポールがとても居心地の良い場所に感じる。

ひとこと

トランプに疲れはてたアメリカ人の間では、その対極にあるリーダーとして、カナダのジャスティン・トルドー首相を見ている感じがあります。若くてイケメン、難民を受け入れ、多様性を大事にしていく・・・。トルドーのイケメンぶりやそういった行動が、羨望と共にフェイスブックでシェアされることも度々。

カナダ人に言わせると、政治家として、そんないい所ばかりでもないようですが、隣の芝は青く見えるのでしょうね。

今回は、2シーズンしか続かなかったカナダ版より、首相の母、マーガレットさんの回をご紹介しました(放送時はまだ息子は首相ではなかった)。

このお母さんもかなりなキャラクター。もともとヒッピーだったようで、そんな奔放さに30歳年上の当時の首相ピエール・トルドーも惹かれたのだとか。

結婚するまで2人の関係は秘密にされており、首相とのハネムーンの様子がいきなりテレビで放送されたとかで、まさしく電撃婚。

離婚後、元夫となったトルドー氏が選挙に敗れた日、ニューヨークのスタジオ54で踊り狂っているところが激写され、選挙翌日の新聞のトップを飾ったそうです。

親権は元夫が持ち、慰謝料などもなかったことから、金銭的にも苦労し、暴露本の出版などにつながったようです。その部分でも、もしかして先祖のエスターと自分を重ねたところがあったかもしれません。

ウィリアム・ファーカーについては、短い番組の中ではさらっと説明されただけですが、実際シンガポール設立に大きく貢献した歴史上の人物で、彼に関する出版物なども色々と出ています。

シンガポールを新たに植民地にするにあたっての、現地の有力者との交渉やお膳立てなども、もともとはファーカーが最初は全てやったようです。

彼の統治スタイルは、地元の文化や流れに任せるといったものだったようで、おかげでシンガポールは活気に満ちた街になったようですが、一方で阿片窟なども出来るなど、色々と猥雑な発展の仕方をしてしまったのが、ラッフルズさんの怒りを買ったようです。

番組の中では紹介されなかったバーナード家のその他の先祖達も、全員バタビア生まれ、またエスターのイギリス人の夫もカルカッタ生まれ。

シンガポールやマレーシア、インドネシア、そしてインドなど、長年植民地支配が行われた場所では、母国よりも、その土地で生まれ育ち、アジアを故郷とするヨーロッパ人も多かったのでしょう。

それもまた、何となく不思議な感覚ですが、この番組を見ていると、世界は本当に色々な人々の移動や流れで出来上がっているんだな、ということを実感します。

<カナダ版、2008年放送>

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