世界のセレブ・ファミリーヒストリー

世界のセレブ・ファミリーヒストリー

英・米・豪・加で放送されている「ファミリーヒストリー」的番組 Who Do You Think You Areの興味深いエピソードを紹介します。セレブの家族史を通じて、世界の知らなかった出来事が見えてくる。今の世界を知る上でも、個人を知る上でも、色々興味深いこと満載です。

【女優:リア・ミシェル】ドラマ・グリー女優のルーツ、火事、虐殺、移民法・・困難を乗り越えアメリカに来た曽祖母

プロローグ

テレビドラマ「グリー」でおなじみの女優、リア・ミシェル

Lea Michele Comic Con by Gage Skidmore.jpg
By Gage Skidmore - https://www.flickr.com/photos/gageskidmore/19157054024/, CC BY-SA 2.0, Link

8歳の頃からブロードウェイに出演するなど、女優のキャリアは長い。

ニューヨークでイタリア系の母、ユダヤ系の父の元に生まれた。

母方の家族のルーツは完全にイタリアで、リアもローマンカトリックとして育てられた。

父親も母方の家族と過ごすことが多く、父方の家族についてはあまり知らないという。

父方のルーツを探る

父方のサルファティ家は、スファラディ、つまりスペイン系ユダヤ人。

もともとスペインに定住していたスファラディ系のユダヤ人だが、15世紀頃にスペインから追放され世界中に散った。

リアの家族はその後トルコかギリシャ、またイスラエルにも行ったと聞いているがはっきりしない。

父親に話を聞くリア。

祖母セリア・シルビアの両親の名前はモリス、そしてベッシー・ヴィッシー。ベッシーの本当の名前はボニータだと思う。イスラエルと関係あると思うがどこからきたのかよくわからないという。

2人の結婚の時に撮った写真は、とても美しく着飾っていた。

出身地はトルコ?ギリシャ

2人の足跡を追うため、まずは国勢調査を調べる。

1940年、曽祖父モリスは46歳、曽祖母ベッシーは47歳。祖母セリアは15歳。曾祖父母の出身地はトルコと記録されていた。

それから10年前の1930年の国勢調査。ここでは、2人の出身地はギリシャと書かれている。トルコで生まれてギリシャに移ったのだろうか。混乱するリア。

また国勢調査には、アメリカに移民した年を書く欄があったが、ベッシーはモリスの2年後にアメリカに来ていたこともわかった。

さらに遡り、1929年の国勢調査。ここではまた出身地がトルコと書かれている。トルコなのか、ギリシャなのか。一体どういうことだろうか。

エリス島へ

曽祖母ベッシーは、1人でアメリカに移民してきて曽祖父と知り合ったのか。それとも、曽祖父に後から合流するために来たのか。移民の玄関口だったエリス島に向かうリア。

https://www.nps.gov/common/uploads/places/images/nri/20140902/siteadmin/28B468DA-A430-E361-953360F18D9853C5/28B468DA-A430-E361-953360F18D9853C5.jpg
nps.gov

1918年の乗船・上陸記録に曽祖母の名前があった。ベッシーの本当の名前はボニータではなく、ベヌータ。苗字はヴィッシー。当時28歳。

Ellis Island arrivals.jpg
By Underwood & Underwood - Library of Congress Prints and Photographs Division - http://hdl.loc.gov/loc.pnp/cph.3a17784, Public Domain, Link
エリス島での入国審査

出発したのは、イタリア・ジェノアから。当時第一次世界大戦中であったため、トルコやギリシャからの移民が安全に出航できる場所として、イタリアから船に乗ったようだ。

そして結婚歴の欄には、「未亡人」と書かれていた。

出身地は、ギリシャのサロニカ。現在テッサロニキと呼ばれる場所である。

この街がギリシャ領となったのは1912年。それ以前は長年オスマン帝国支配下にあった。国勢調査で出身地がトルコ、ギリシャとコロコロ変わっていたのは、このためだった。

そして最終目的地として記載されていたのは、ニューヨークではなく、なぜかモントリオール

色々と記録に不可解なことが多い。未亡人とはどういうことか?しかも曾祖父母はまだ結婚していなかったが、苗字が2人とも「ヴィッシー」と同じ。親戚同士の結婚だったのだろうか?

読み書きができるか、の答えは「No」。

1917年の移民法で、アメリカに移民する者は、自国の言葉で読み書きができる教育レベルになければならない、と定められていた。

これが原因で、曽祖母はエリス島で拘留されていた。

勾留、入国審査

当時移民が拘留されていた部屋を訪れるリア。ヒヤリングが行われるまで、移民は何段にもベッドがひしめき合う部屋に詰め込まれた。

Ellis Island dormitory room.JPG
By O - Own work (Own picture), Public Domain, Link

ヒヤリングが行われた部屋を見学する。ここで3人の移民調査官、通訳、証人の立会いのもと、入国審査が行われた。

ベッシーの入国審査について、50ページにのぼる議事録が残されていた。

  ー アメリカには1人で来た。生まれ育ちはギリシャのサロニカ。エスターという姉がいる。

  ー フィアンセはアメリカに住んで2年目。自分はフィアンセの兄弟と以前結婚していた。

当時、ユダヤ人の間では、夫が亡くなるとそのきょうだいが未亡人と結婚する慣習があった。ベッシーもこのためにアメリカに渡ったようである。

  ー フィアンセはどこに住んでいるのか? 
  ー モントリオールではなく、アメリカ。

  ー なぜ最終目的地がモントリオールなのか? 
  ー 読み書きが出来ないと言ったら、船のエージェントがモントリオールに行った方が良いと言ったから。

どうやら、移民法をかいくぐって入国するために、モントリオールに向かう、と答えたようである。

モリスも証言台に立っている。移民官の質問に、自分も彼女と一緒にモントリオールに行くのだと答えている。

モリスはミッチェル・タイヤカンパニーで働き、週に25ドル稼いでいる。また400ドルの貯金もあると、移民官に貯金を見せている。

  ー 結婚はいつする予定であるか。
  ー 今日。

しかし出された判断は入国拒否、強制送還だった。

モリスの嘆願書

第一次大戦の影響を受け、当時のアメリカには、ヨーロッパから大量に移民がやって来ていた。

移民に対する恐れや偏見から、1917年、政府は読み書きのできない移民は好ましくなく、国の財政的な負担になるとして、強制送還するとの法律を制定した。

しかし戦争中だったため実際の送還は難しく、滞在を許可されなかった移民たちはエリス島に留め置かれ、混乱状態になったという。

入国が拒否されて一年後の1919年8月、モリスがワシントンDCの移民局に送った嘆願書が見つかった。

そこにはフィアンセがニュージャージーの勾留施設に留め置かれていると書かれていた。

当時エリス島は軍事施設として利用されるようになったため、ベッシーは送還される条件で一時的な上陸が認められ、ニュージャージーに送られたようである。

その後、執行猶予付きで一時的滞在が認められていた。

嘆願書は、この執行猶予を取り下げ、ベッシーがアメリカに永住できるよう求めたものだった。

そこには、1917年8月18日にサロニカで大火事があり、街の全てが破壊されており、送還されても人が住めるような状態ではないこと、残っているのは年老いた母親だけであり、生活のすべがないことが説明されていた。

また自分には彼女を支える経済力があること、もともと彼女と結婚する予定であり、ベッシーの面倒を見るつもりであること。政府に崇高な人の心があるならば、この状況を考慮して欲しい、と切々と訴えが書かれていた。

これに対し、移民官が残した内部メモのやり取りには、「もし彼らが結婚すると、合法的に送還できなくなるので好ましくない」と書かれていた。

しかし1910年10月、曾祖父母は結婚。ベッシーはアメリカに残ることができるようになった。

あのきちんとした結婚写真は、結婚が彼らにとってどれだけ重要だったかを示すものだった。

ギリシャに残された家族のその後

ニューヨークで出された婚姻届から、ベッシーの本当の旧姓は「コヘンカ」であること、父の名はアイザック、母はミリアムであることがわかった。

セフォラディと呼ばれるスペイン系ユダヤ人は、スペインから追われた後、多くが地中海、特にトルコに移住した。

オスマン帝国領であったサロニカは、その中でもスペイン系のユダヤ人コミュニティの中心地で、20世紀初頭、サロニカの人口の実に半分が、このようなユダヤ人だった。

1917年、そんなサロニカで起こった大火は、街の3分の2を焼き尽くす大災害であった。

Thessaloniki-Aerialfire1.png
By Philly boy92 - http://www.macedonian-heritage.gr/, Public Domain, Link

特に街の中心部に住んでいたユダヤ人は大きな被害を受け、家を失った被災者7万5000人のうち実に5万人がユダヤ人だったという。

ユダヤ人コミュニティの被災者記録が残っていた。

焼け出されたベッシーの両親と五人の子供達の情報が見つかる。父イサックは火事の翌年に死亡。

母のミリアムは50歳、被災支援としてミルクを受け取った、と書かれていた。

ベッシーはアメリカに向かったが、ギリシャに残った残りの家族はその後どうなったのだろうか。

第二次大戦に入ると、ギリシャナチスドイツに占領される。

サロニカもドイツの支配下に入り、ユダヤ人は列車に乗せられ、バルカン半島を経由し、アウシュビッツに送られたという。

サロニカに住むユダヤ人5万人の多くが強制収容所に送られる運命となってしまった。

この先の情報を追うのは気が重いが、残りの家族の足跡をたどるため、ニューヨーク、ロウワーイストサイドにあるシナゴーグに向かう。

Kehila Kedosha Janina.jpg
By Harris Graber from New York City, United States - Kehila Kedosha Janina, CC BY-SA 2.0, Link
Kehila Kedosha Janiaと呼ばれる、ギリシャユダヤ人が集まるシナゴーグ

そこで待っていたのは、イスラエルに住む又従姉妹、コヒーであった。コヒーと初めて対面するリア。

彼女はベッシーが入国審査の時に話していた姉、エスターの孫に当たる。

エルサレムにあるホロコースト博物館。ここでは、ホロコーストで家族が全滅し、先祖の情報も失ってしまった人達のために、亡くなった人について何か記憶があれば、それを登録しておけるようなアーカイブがあるという。

コヒーの父が、そこにミリアムの情報を登録していた。

サロニカで生まれたミリアムは72歳で、アウシュヴィッツで亡くなっていた。

ホロコーストを生き延びたのは、コヒーの父だけ。残りの家族は全て、アウシュヴィッツで亡くなったのだという。

ミリアムの写真を見て、目元が父にそっくりだという思うリア。

エピローグ

父に今までわかったことを説明するリア。父も感動し涙ぐむ。

そして長年会っていなかったという、父にとってはいとことなるコヒーとも再会を果たす。

父方にも、サロニカという土地に根ざしたユダヤ人という、とてもユニークなルーツがあることがわかったリア。

家族に起こった悲劇は悲しいが、こうやって家族のことを知ることができ、自分も次の世代に伝えられるのは素晴らしい。

イタリア系アメリカ人のような話し方をいつもする父親に「パパはすごくユダヤ人じゃない。もうイタリア人のふりするのやめなよ!」とつっこむ。

ひとこと

番組にお父さんが登場した時、喋り方やマナリズムが完全にイタリア系アメリカ人独特のものだったのがとても印象的だったんですが、なんと実はユダヤ人でした。

生まれ育ったニューヨークや、奥さんのイタリア系の大家族の影響だとは思いますが、ちょっと面白かったです。

文盲だったため、入国拒否され送還寸前だったひいおばあさんの話。

現在の大統領のもとでも、メキシコからの移民や、イスラム世界からの難民受け入れなどを嫌い、色々と移民法が変えられようとして、議論を呼んでいます。その中には、教育レベルに関する制限もまさに含まれています。

スキルのないものを移民として受け入れるのは、国の財政を圧迫する云々、も全く似たロジック。

アメリカ移民の多くは、例えば宗教弾圧だったり、アイルランドのジャガイモ飢饉だったり、ユダヤ人の迫害だったり、戦争だったりと、色々な形ではあれ、何かから逃げてきた難民だった、というのは今も昔も大して変わらないはずなのに。

でも先に来た人達は、そんなことをあっという間に忘れて、あとから来た人達に偏見を持ったり、色々と制限しようとしたり。

歴史から学ぶことはたくさんあるのに、と思いますが、喉元過ぎればなんとかで、こんなにも面白いくらい、同じことが繰り返されているのだな・・となんとも言えない気持ちになります。

ギリシャのサロニカ、テッサロニキについても、名前だけは世界史で習ったような気もします。が、また悲しいかな暗記の歴史の勉強では何も残っていませんでした。

この地に15世紀から住み着き、その街を形作っていた人達がナチスによって連れ去られ、虐殺され、跡形もなくいなくなってしまう・・。

その異様さも何とも言えませんでした。

今回のエピソードでは、本人のルーツとなる場所へは飛ばず、全てニューヨークで撮影が行われていました。

本人のスケジュールの問題などもあったのかもしれませんが、実際のところ、テッサロニキなどに行ってもあまり情報が残っていないのかもしれません。

番組ではリアがニューヨークにあるユダヤ人の歴史センターを訪れたりしていましたが、ユダヤ人が多く移民した先に、もしかしたら情報アーカイブも一緒に移動したのかもしれません。

イスラエルをはじめ、アメリカにもホロコースト博物館がありますが、強制収容所での情報なども、こういう場所に保管されていることも多いようです。

ランキング参加中です。クリックよろしくお願いします。
にほんブログ村 芸能ブログ 海外芸能情報へ
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
にほんブログ村

【女優:リヴ・タイラー】エアロスミスにつながるミュージシャンの血、そしてアフリカの血

プロローグ

リヴ・タイラー。「アルマゲドン」「ロードオブザリング」などで有名な女優である。

LivTylerLOTR03.jpg
By lichtmaedel2 at http://www.flickr.com/photos/bedpanjohn/ - http://flickr.com/photos/lichtmaedel2/2233038718/, CC BY-SA 3.0, Link<


父はエアロスミスのボーカル、スティーブン・タイラー、母はモデルのビビ・ビュエル。

Steve-Tyler.jpg
By S. Nadal - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

当時歌手のトッド・ラングレンと交際していた母ビビであるが、スティーブン・タイラーとの間にリヴが生まれる。

ラングレンは自分の子供ではないことを承知でリヴの父親となり、彼女が自分の本当の父親が誰かを知ったのは11歳の時であった。

イタリア系である父スティーブンの本当の苗字は「タラリコ」。

彼の父親、リヴの祖父ヴィクター・タラリコはクラシックピアノ奏者だった。

スティーブンの祖父、リヴの曽祖父ジョバンニ・タラリコはイタリア移民で、兄弟で地方を回る楽隊のミュージシャン。

音楽一家であったタラリコ家についての情報は多いが、スティーブンの母親、スーザン・ブランチェのルーツについては謎が多い。

祖母の顔写真を見ると、何かわからない謎めいた部分があるという。

祖母のルーツをたどる

地元の図書館を訪れるリヴ。

国勢調査から、祖母方の6代前の先祖であるロバート・エリオットまでたどることができた。

1860年の国勢調査では、ロバート・エリオットは60歳。1800年生まれで、職業は靴屋。ニューヨーク生まれで、妻と4人の子供がいた。

国勢調査の人種欄は空欄だった。これはこの地域の95%が白人だったため、特記すべきことがなければ空欄だったと考えられる。

10年後の1870年の国勢調査。69歳になったロバート・エリオットであるが、そこではなぜか彼の人種欄だけ「M」と書かれていた。

これは「ムラート」の略で、白人と黒人の混血という意味。

当時調査員により、手書きで書かれていた国勢調査だが、なぜか彼の「M」の部分だけ、まるで強調するように何重にも書いてあった。

10年前の調査には何も書いていなかったのに、と混乱するリヴ。

黒人の先祖、そしてスティーヴン・タイラーとの驚くべき共通点

さらに詳しく調べるため、ニューヨーク州クリントン郡、プラッツバーグに向かう。

1885年に出版された地域の歴史本に、「ロバート・エリオットという黒人(colored man) が、この土地に移住してきた」というくだりがあった。

やはり彼は黒人、または混血だったのだろうか。はっきりはわからない。

多様性のあるニューヨークで育った自分には想像がつかないが、この小さなコミュニティで有色人種として生活していくというのは、どんな感じだったのだろうか。今となっては、当時このコミュニティの人達が、肌の色の違いをどれだけ気にしていたかも、知る由がない。

1875年の新聞に、ロバート・エリオットの生い立ちが書かれていた。そこには、ロバート・エリオットは子供の頃ライト大佐の庇護に入り、プラッツバーグの戦い(1812年米英戦争での戦い)では、少年鼓手を務めた、と書かれていた。

This is crazy! と驚くリヴ。父、スティーヴン・タイラーは、実はもともとドラマー。その後ボーカルに駆り出されたが、本来はドラマーなのだという。先祖もドラムを叩いていたことに興奮する。

しかしライト大佐の庇護にあった、とは一体どういうことか。専門家は、これはおそらく「年季奴隷制(indentured servitude)」に基づく関係にあったのではという。

奴隷は死ぬまで誰かの所有物として労働を強いられるが、年季奴隷制の場合は、決まった期間が過ぎれば自由の身になれた。

ニューヨークでは、1799年から奴隷制廃止が始まったが、奴隷がすぐに自由になれたわけではなかった。

その過渡期の間、奴隷の母親から生まれたものは、この年季奴隷制のもと、28歳になると自由になれる、というルールがあった。

ロバート・エリオットもおそらく奴隷だった母親から生まれた可能性が高い。

ロバートの息子もまた・・

ロバート・エリオットの息子、ジョージ・ワシントン・エリオットは1837年生まれ。南北戦争時、ちょうど兵士として戦える年齢だったことから、入隊記録がないか調べる。

23歳のジョージの名前が見つかった。髪や目、肌の色など身体的特徴を書く欄には、髪の色、目の色ともに「黒」、肌の色は「浅黒い」と記入されていた。

1861年リンカーン大統領は南北戦争のため、国民に軍に志願するよう呼びかけ、多くがそれに応えた。

しかし一方、リンカーン大統領は黒人が入隊することには難色を示しており、この時点で黒人の入隊はできなかったという。

つまり、1861年の時点で入隊しているジョージは、白人として通っていたということであった。

自分のことを有色人種と思っていなかったか、または黒人のルーツを隠していたか・・自分自身をどのように見ていたかについては、謎である。

ジョージの軍での役割は何だったか。書類に書かれていたのは、

「ミュージシャン」。

祖父も、祖母の家系にも、代々ミュージシャンがいたことを発見し、小躍りするリヴ。

鼓手の役割

ジョージの軍での記録を調べるため、ワシントンDCに飛ぶ。

1862年の記録では、25歳のジョージは第一大隊、歩兵12連隊に所属。

ジョージもまた、鼓手であった。

Civil-War-US-Army-drummer.jpeg
By Unknown - Library of Congress, Prints & Photographs Division, LC-BH822-46 (original glass negative), converted to digital format by the Library of Congress, archival TIFF version (28 MB), cropped and converted to JPEG with the GIMP 2.4.5, image quality 88., Public Domain, Link
南北戦争時の少年鼓手

鼓手は、朝の起床の合図から、戦場で発砲やその他戦闘に関する合図をドラムで送る役割を果たした。

合図に合わせ、18種類の演奏方法があったという。戦場で大砲や銃弾が飛び交うような中でも、ドラムの音が聞こえれば、次にどうしたら良いかがわかったという。

実際に当時のドラムの演奏が再現される。感動で涙ぐむリヴ。

ジョージの部隊はメリーランド作戦に合流、アンティータムの戦いに参加していた。

アンティータムの戦いは、南軍が北部に侵攻してきたもので、北軍だけで犠牲は1万2000にのぼる壮絶な戦いだったという。

Battle of Antietam by Thulstrup.jpg
By Thure de Thulstrup - website of the Old Print Shop, New York City, Public Domain, Link

鼓手は非戦闘員で、ライフルなどの武器は持たなかったが、戦闘中はけが人の運搬や世話など、必要なことは何でもしたという。ジョージも戦闘のど真ん中にいたことは間違いない。

さらに1年後、ジョージは二等兵となっていた。

戦闘の犠牲で兵士不足だったこともあり、ジョージが戦闘員となるよう志願した可能性が高い。

さらに1863年7月2日から数日間の記録には、ゲティスバーグ近郊での戦闘に参加したことが記されていた。

ジョージは南北戦争において重要な戦いに2度も参加していたのであった。

ゲティスバーグの戦い

ゲティスバーグに向かうリヴ。実際に戦闘があった場所に立つ。

ここは犠牲がもっとも多く出た、「死の谷」と呼ばれるところだという。

1863年に南軍がこの地に侵攻して始まった戦いは、当初北軍が防御に苦戦。しかし2日目に指揮官ジョージ・ミードが複数の部隊を集め、反撃を開始。

この中にリヴの先祖ジョージの部隊も含まれていた。

南軍の兵士は背後の林に隠れていて、そこから急襲してきたという。兵士同士のぶつかり合い、マスケット銃での銃撃。

どちらにも多くの犠牲を出したあと、南軍は撤退。銃撃が止んだあとの戦場には、7000もの死体が転がっていたという。

Harvest of death, USA 1863.jpg
By Timothy H. O'Sullivan - (источник: Сергей Александрович Морозов. Творческая фотография. М.:Изд-во «Планета», 3-е изд., 1989, ISBN 5-85250-029-1), Public Domain, Link
戦闘後のゲティスバーグ

負傷者も3万3000と、南北戦争史上最悪の戦いであったが、北軍勝利した。

ジョージと同じ部隊の人が、家族に書いた手紙が残っている。

「我々は昼夜行進し、敵に向かっていった。

今、戦場で、何百もの死体に囲まれたところで手紙を書いている。

我々の部隊も、450人中、109人を失った。ここには何エーカーにも渡って、死体の山が連なっている。

今まででいちばん素晴らしい独立記念日を過ごしたが、決して気持ちの良い日というわけではなかった」(注:戦闘は7月1日から、独立記念日の前日7月3日まで続いた)

ジョージも同じ場所で、きっと似たような感慨を得ただろう。一度こんな経験をしたら、前の自分には戻れなかったかもしれない。

そして仲間がそれを知っていたかわからないが、彼は白人、ではなかった。

当時、北軍の黒人に対する態度、扱いは決して良いものではなかったという。北軍の中には奴隷制に反対するものもいたが、実際多くはそうではなく、黒人に対し、卑劣な態度をとるものも多かったという。

そんな中、南北戦争に参加したジョージ。彼にとって、この戦いはもっとパーソナルなものだったかもしれない。

こんな素晴らしい先祖のことを今まで知らなかったなんて、とリヴ。

ジョージのその後

1890年、ジョージは59歳の時に軍人恩給を申請している。ニューヨーク州サラトガのスカイラービルという小さな町に移り住んでいた。

彼の晩年を知るため、スカイラービルを訪ねる。

地元の図書館に、1912年、地域の歴史を記したパンフレットが残っていた。

そこには、17人の子供と9人の孫と写るジョージの写真があった。

ヒゲを生やし、威厳のある老人の顔。

南北戦争の退役軍人で、フリーメーソンのメンバーであると紹介されていた。

フリーメーソンは、カルトや怪しい団体というわけではなく、地元の名士が集まり、社交したり、慈善活動を行ったりする、いわば名士会のようなもの。

メーソンの制服を着て立っている彼の写真も見つかる。父スティーヴンの面影もある先祖の写真を見て圧倒され、感動するリヴ。

この地域では、白人用、黒人用のメーソンがあったというが、ジョージは白人のメーソンに参加していた。自らのアイデンティティは白人であったようだ。

エピローグ

自分が育った環境で知り合う人々のバックグラウンドは本当に様々で、皆色々な国から来た人ばかり。そんな多様性が普通の中で生活しているが、ジョージの時代、黒人の血が入っているということは、本当にビッグディールだったに違いない。

そして時代を生き延びるため、そんな背景が彼の人生の選択に大きな影響を与えたことは間違いないと思う、と語るリヴ。

スカイラービルに父スティーヴンも合流。リヴが今までに知った先祖のことを話す。

黒人の先祖がいると聞いたスティーヴン「やっぱり!なぜかはわからないけどずっとそんな気がしていた」。またドラマーが先祖に二人もいることに信じられない、と感動する。

先祖が自分たちの道を作ってくれたことに感慨を覚えるリヴ。人生が大きく変わるような経験だった。これからどのような人間として生きていくか、彼らの存在が心の指標になるような気がする。

最後に二人はジョージとその妻の墓参りをする。

リヴ「ジョージは南北戦争で二つの戦いを生き延びたのよ」

スティーヴン「俺もミュージックビジネスを生き延びたな。俺も英雄だ!」

ひとこと

アフリカ系アメリカ人の中で100%黒人という人はほぼいない、という話は以前エミット・スミスの回でも紹介されていましたが、今回はその逆バージョンでした。

familyhistory.hatenadiary.com

奴隷だったロバート・エリオットの母親も、所有者に子供を産まされたのかもしれません。

本当に、人種差別の歴史は根が深いです。

リンカーン大統領が黒人の入隊を最初は嫌っていたというのも意外でしたし、北軍が必ずしも奴隷制反対ではなかったというところも、もう少し掘り下げて知りたいところです。

ちなみに、南北戦争で黒人部隊ができたのは1863年に入ってからとのことでした。

南北戦争は日本でいうとちょうど幕末の頃ですが、当時の軍隊の記録や戦闘記録が感動するほどきちんと整理、保管されています。今回のジョージ・エリオットの従軍記録もそうですが、部隊の情報だけでなく、きちんと一人一人記録が残っています。

ナショナル・アーカイブなどで現物を見ることができますが、一部オンラインで見ることも可能です。

ゲティスバーグの戦いなど、南北戦争の戦いは、それこそ人と人との一騎打ち、戦争といっても非常に至近距離で行われていたようです。ちょうど写真が撮られるようになった時代ですので、戦闘後に死体が累々とある様子が残っていて、戦慄を感じます。

またゲティスバーグもそうですが、南北戦争の戦場となった場所は、今でも行くと、変な話ですが「まだ何かいる」ようなちょっと気持ち悪い感覚があったりします。本当に何もない山の中だったりするのですが・・ちょっと不気味です。日本でも古戦場で変な気分になるのと似ているのでしょうか。

さて先祖の中に今の自分とつながる職業を見つけたり、共通点を見つけたり・・というエピソードは結構あって、やはり何か遺伝子にその記憶が残されているのだろうか?と不思議になります。

が、一方で、先祖を5代も6代もたどると、自分の先祖はその間に100何十人もいるわけで、それは探せば一人ぐらいは似たような人がいてもおかしくないのかな、とも思ったりします。そこに焦点を当てがちですが、残りの数百人の先祖の血も、確実に自分に入っているわけです。

ただ今回は、スティーヴン・タイラーの父方にも母方にも音楽家の血が入っていた、ということでちょっとすごいな、という感じでした。

リヴ・タイラーは時々映画で見かけますが、ロックンローラーの娘ですが、とてもおっとりと静かに話すのが印象的でした。

そして最後に合流してきたスティーヴン・タイラー。そこにあった花をひょいとつまんでフッと匂いをかいだり、最後のコメントも「俺も音楽業界をサバイブした英雄だ!」と結局自分の話になったりと、あまりに典型的?なロックンローラーの行動で笑ってしまいました。

リヴも、父も母もクリエーティブで、天真爛漫なところがある、と語っていたのですが、親がこういう感じだと、逆に落ち着いた子供が育つのかもしれません(笑)。<アメリカ版、2017年放送>

ランキング参加中です。クリックよろしくお願いします。
にほんブログ村 芸能ブログ 海外芸能情報へ
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
にほんブログ村

【首相の母:マーガレット・トルドー】イケメンカナダ首相のルーツは、アジアにあった!

プロローグ

カナダ首相、ジャスティン・トルドーの母、マーガレット・トルドー。

Margaret Trudeau bandana.jpg
By Simon Fraser University - University Communications - https://www.flickr.com/photos/sfupamr/23754802184/, CC BY 2.0, Link

1971年、当時の首相で、30歳年上のピエール・トルドーと結婚、首相夫人となった。

3人の息子をもうけたが、のちに離婚。

息子の一人が、現在の首相ジャスティン・トルドーである。

Justin Trudeau and Benigno Aquino III November 2015 cropped.jpg
By Radio Television Malacañang (RTVM) - [1], Public Domain, Link

離婚後は、暴露本を出版したり、ローリングストーンズのメンバーと噂になるなど、その言動が話題に。映画にも出演した。

一方、首相夫人であった頃は、周囲の目や重圧に苦しんだ。また息子の一人をスキー事故で亡くす悲劇にも見舞われている。

これらが原因で双極性障害を患ったマーガレットは、現在精神疾患に関する啓蒙活動や、執筆活動も行っている。

アジアにルーツ?母方の先祖の謎

マーガレットの父、ジェームス・シンクレアはカナダ政府の閣僚も務めたビジネスマン。シンクレア家については、多くの情報が伝えられているが、母方のルーツについては、わからないことが多いという。

母方の祖父の名前は、トーマス・カークパトリック・バーナード。

当時植民地であったインドネシア生まれで、1906年、15歳の時に家族とともにカナダに移住した。

曽祖父、チャールズ・バンドン・バーナードはシンガポール生まれのイギリス人。植民地での貿易に従事。

曾祖母アニー・オリファントはオランダ人で、インドネシアのゴムプランテーション所有者の娘であった。

当時の写真を見ると、多くの召使を抱えた、植民地での豪奢な暮らしが見て取れる。また曽祖父の顔立ちは、何となくアジア人の血が入っているようにも見える。

バーナード家には、アジア人の先祖がいるという伝説があるが、詳しいことはわからないのだという。

また、曽祖父からさらに3代遡ると、シンガポール創設の立役者の一人で、シンガポール理事官となったウィリアム・ファーカー(Farquhar)に行き着くという。

バーナード家のルーツを探るため、シンガポールに飛ぶ。

ラッフルズとの政争に敗れた先祖

東南アジアでの貿易拠点として、イギリスが創設した植民地、シンガポール。ウィリアム・ファーカーはどのような役割を果たしたのかを知るため、国立図書館に向かう。

1774年スコットランド生まれのファーカーは、17歳で東インド会社に入社。マラッカを統治するなど、東南アジアでの経験が豊富な軍人であった。

Portrait of William Farquhar (c. 1830).jpg
By
Unknown
- [1]., Public Domain, Link

植民地での経験を買われ、ファーカーはシンガポール創設者であるスタンフォードラッフルズシンガポール理事官としての役割を任命される。ラッフルズがイギリスに帰国している間、シンガポールの実質統治を行った。

しかしシンガポールの開発方針などをめぐり、ファーカーとラッフルズの意見は衝突する。

ラッフルズは海岸の利用は植民地政府のみの専有とし、開発を控えるよう指示。しかし地元の貿易商達から働きかけを受けたファーカーは、海岸沿いの土地を一部利用可能にするなど譲歩した。

また地元の文化への理解もあったファーカーは、ギャンブルや闘鶏も許可した。

ラッフルズの思惑とは違う植民地開発を進めていったファーカーは、ラッフルズと対立を深め、とうとう1823年、イギリスへの帰還命令が出されるに至った。

30年間に渡る東南アジアでの滞在後、シンガポールを離れることになったファーカー。

当時の記録では、彼を慕う様々な階級の人々が、数千人規模で彼の船を見送ったという。見送りの人々は歌を歌い、鐘を鳴らし、人々の目には涙が浮かんでいた、とあった。

ファーカーは政争には負けたけれど、とても同情心あふれる人物であったのではないか、とマーガレット。それは自分の心情にもつながるものを感じるという。

ウィリアム・ファーカー・コレクション

現地の言葉も覚え、東南アジアの自然に興味を持ったファーカーは、マラッカ赴任中、現地の画家に依頼し、東南アジアの草木や動物などの博物がを描かせている。

Tibang Muntooa (William Farquhar Collection, 1819–1823).jpg
By
Unknown (anonymous Chinese artist).
- [1]., Public Domain, Link

これらは現在貴重な資料として、シンガポール国立博物館で「ファーカー・コレクション」として展示されている。

博物館を訪れるマーガレット。

そこにはさらに、地元の華僑グループがファーカーに贈ったという、銀の豪奢な燭台も展示されていた。

彼は政争に敗れ、シンガポールの創設者として大きく名を残すことはできなかったが、この地域を愛し、現地の人からも愛され慕われていたという学芸員の話に大きく頷き、涙ぐむマーガレット。

ユーラシアンのルーツ

バーナード家に伝わるアジア人の先祖の謎は一体どこから来ているのか。

シンガポールではおなじみの、ラッフルズ・ホテルに向かうマーガレット。

ファーカーの妻の名前はアントワネット・クレメントといい、彼女の父親はフランス人。そして母親は地元のマレーシア人女性であった。

アジア人の血は、ファーカーの妻から来ていたのであった。

植民地においては、ヨーロッパからやってきた役人や貿易商と、現地の女性が結婚することはそれほど珍しいことではなかった。アントワネット・クレメントの父親も、植民地の役人であったという。

ファーカーとアントワネット・クレメントは25年間の結婚生活の間に6人の子供をもうけたが、帰国の辞令が出たファーカーは、シンガポールに家族を置き帰国の途についた。

ファーカーは帰国後昇進、その後スコットランド女性と再婚し、さらに子供をもうけた。

しかし彼が現地の家族を完全に捨てたというわけではなく、十分な資産を置いて帰国したとのことである。

このラッフルズ・ホテルが建っている土地も、彼が残した資産の一部であった。

ファーカーの長女エスター・ファーカーが、フランシス・ジェームス・バーナードと結婚。ここでバーナード家とファーカー、そしてアジア人の先祖との繋がりが生まれたことがわかった。

フランス、そしてマレーシアからの先祖がいることがわかったマーガレット。

当時のシンガポールは、このようなヨーロッパ人とアジア人の混血である「ユーラシアン」の人々が新たな文化を生み出していた。

COLLECTIE TROPENMUSEUM Portret van een groep Indo-Europese meisjes Batavia TMnr 60031694.jpg
By Tropenmuseum, part of the National Museum of World Cultures, CC BY-SA 3.0, Link
バタビアで撮影された、ユーラシアンの子供達

ユーラシアン協会を訪れるマーガレット。マーガレットの家族も、いわば、シンガポールのユーラシアンコミュニティの一員であった。マーガレットは現地の人々と交流し、誕生日も祝ってもらう。

エスターのその後

バーナード家の最初のユーラシアンであるエスター。

フランシス・ジェームス・バーナードとは、ファーカーがシンガポールの責任者になる前後の1818年に結婚した。

フランシスはカルカッタ生まれのイギリス人。家柄は良かったが、当時すでにイギリス軍からドロップアウトしており、ファーカーがシンガポールの港での仕事を世話した。

しかし義父ファーカーがラッフルズとの政争に破れたため、その後、その職もラッフルズの関係者に奪われてしまう。

その後はシンガポールの警察署長の職についたが、1827年、貿易に乗り出そうと、オランダ領東インドで船を購入。現地に向かったまま2年経っても戻ってくることはなかった。

残されたエスターは5人の子供を抱え、行き場を失う。当時、エスターが金銭的な援助を東インド会社に求めた記録が残っていた。援助無しでは完全なる貧困に陥ってしまう、という懇願であった。

その後、政府からの援助があったかどうかの記録はないが、9年後の1838年エスターは41歳で亡くなった。

Gothic gate, Fort Canning Green, Singapore - 20110831.jpg
By Matt Kieffer. - Flickr: Gothic Gate entrance to Fort Canning Park, Singapore., CC BY-SA 2.0, Link
エスターが埋葬されているシンガポール中心部の墓地、フォート・キャニング・グリーン

墓地を訪れたマーガレット。壁に埋められた墓石を見つけ、辛かったであろう晩年に思いを馳せる。

エピローグ

エスターの墓参りをし、山の事故で亡くなった自分の息子のことを思い出すマーガレット。彼の墓も山にあるため、訪れるのが大変であるが、先祖の墓もこうしてまた遠いところにあった。

人生は豊かであると同時に悲しみも多いが、こうやって先祖に敬意を表する機会があって嬉しい。人は死んでも魂は生き続けるというが、エスターの魂を感じた気がする。そしてシンガポールがとても居心地の良い場所に感じる。

ひとこと

トランプに疲れはてたアメリカ人の間では、その対極にあるリーダーとして、カナダのジャスティン・トルドー首相を見ている感じがあります。若くてイケメン、難民を受け入れ、多様性を大事にしていく・・・。トルドーのイケメンぶりやそういった行動が、羨望と共にフェイスブックでシェアされることも度々。

カナダ人に言わせると、政治家として、そんないい所ばかりでもないようですが、隣の芝は青く見えるのでしょうね。

今回は、2シーズンしか続かなかったカナダ版より、首相の母、マーガレットさんの回をご紹介しました(放送時はまだ息子は首相ではなかった)。

このお母さんもかなりなキャラクター。もともとヒッピーだったようで、そんな奔放さに30歳年上の当時の首相ピエール・トルドーも惹かれたのだとか。

結婚するまで2人の関係は秘密にされており、首相とのハネムーンの様子がいきなりテレビで放送されたとかで、まさしく電撃婚。

離婚後、元夫となったトルドー氏が選挙に敗れた日、ニューヨークのスタジオ54で踊り狂っているところが激写され、選挙翌日の新聞のトップを飾ったそうです。

親権は元夫が持ち、慰謝料などもなかったことから、金銭的にも苦労し、暴露本の出版などにつながったようです。その部分でも、もしかして先祖のエスターと自分を重ねたところがあったかもしれません。

ウィリアム・ファーカーについては、短い番組の中ではさらっと説明されただけですが、実際シンガポール設立に大きく貢献した歴史上の人物で、彼に関する出版物なども色々と出ています。

シンガポールを新たに植民地にするにあたっての、現地の有力者との交渉やお膳立てなども、もともとはファーカーが最初は全てやったようです。

彼の統治スタイルは、地元の文化や流れに任せるといったものだったようで、おかげでシンガポールは活気に満ちた街になったようですが、一方で阿片窟なども出来るなど、色々と猥雑な発展の仕方をしてしまったのが、ラッフルズさんの怒りを買ったようです。

番組の中では紹介されなかったバーナード家のその他の先祖達も、全員バタビア生まれ、またエスターのイギリス人の夫もカルカッタ生まれ。

シンガポールやマレーシア、インドネシア、そしてインドなど、長年植民地支配が行われた場所では、母国よりも、その土地で生まれ育ち、アジアを故郷とするヨーロッパ人も多かったのでしょう。

それもまた、何となく不思議な感覚ですが、この番組を見ていると、世界は本当に色々な人々の移動や流れで出来上がっているんだな、ということを実感します。

<カナダ版、2008年放送>

ランキング参加中です。クリックよろしくお願いします。
にほんブログ村 芸能ブログ 海外芸能情報へ
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
にほんブログ村

【俳優:デヴィッド・スーシェ】名探偵ポワロ俳優の先祖は経歴詐称?苗字「スーシェ」の謎

プロローグ

名探偵ポワロ役で人気を博したイギリスの俳優、デヴィッド・スーシェ

David Suchet.jpg
By Phil Chambers from Hamburg, Germany - IMG_6979.JPG, CC BY-SA 2.0, Link

ベルギー人探偵エルキュール・ポアロなど、色々な国籍の人物を演じることができるのは、自分のルーツが様々なヨーロッパの国にあるからと考えている。

For blog post: Hercule Poirot

デヴィッドの父は医者で厳しい人だった。自分はどちらかというと、写真家だった祖父と、ミュージック・ホールの踊り子だった祖母の影響を大きく受けていると思う。

趣味の写真は祖父から学んだもの。また自分が演劇にのめり込み、厳しい父に対して自分は役者になる!と宣言したのも、祖母から受け継いだ血が騒いだのかもしれない。祖母のほかにも、家系に役者の血が入っていないかが気になる。

また水が大好きなデヴィッドは、ボートに住んでいたこともあった。現在も、地元の運河修復保存を進める会の副会長を務めるなど、水との関わりは深い。先祖に何か水に関係する仕事をしていた人や船乗りがいたかどうかも、知りたい。

商船船長だった先祖

母方の祖母のルーツをたどる。

国勢調査から、デヴィッドの曽祖父ウォルター・ジェザードの情報をたどる。ウォルターは1869年ケント州サンドイッチ生まれ。

そして彼の祖父ジョージの職業は、商船の船長。先祖の中に船乗りがいたと喜ぶデヴィッド。

グリニッジの国立海洋博物館で、ジョージの船長証書を見せてもらう。ジョージは14歳で船乗りとなった、航海歴38年のベテランだった。

さらに1860年、ジョージが船長だった帆船ハナ号が沈没した、という書類も見つかった。

当時の新聞記事を調べると、ハナ号はサフォックにあるケッシンランド沖で沈没したらしい。

手袋をはめて証拠を見るのは、今までポアロ役で何度もやってきたけれど、まさに自分の先祖のことについて、手袋をはめて古い書類を確認したり、こうやって探偵のように調査しているなんて・・!とまた嬉しそうなデヴィッド。

沈没したハナ号、意外な「再会」

事故があった海辺に近い街、ローストフトに向かう。

地元の図書館で当時の新聞を確認する。1860年5月、大型のハリケーンが発生。これにより、沖合で実に150の船が沈没、多くの犠牲者が出たという。

事故があったのは5月だったが、ロンドンの数百マイル先では吹雪が観測されるなど、天候は恐ろしく荒れていた。ジョージの船はロンドンに石炭を運ぶ途中、突然嵐に襲われたらしい。

Kessingland Beach - geograph.org.uk - 727697.jpg
By Glen Denny, CC BY-SA 2.0, Link
ケッシンランドのビーチ

船をあっという間に飲み込むような大波。沈んでいくたくさんの船、そこにしがみつく船員達。しかし次の瞬間に船はあっという間に海に消えていく。新聞には、生々しい目撃談が書かれていた。

図書館にはまた、地元の海難救助の記録が残っていた。そこには、ハナ号の船員7名が、ジョン・クレギー率いる地元の船に救助されたことが記されていた。

地元の救命艇博物館に、同姓同名のジョン・クレギーという人物がいると聞き会いに行くデヴィッド。

まさしくその人は、デヴィッドの先祖を救助したジョン・クレギーのひ孫だった。がっちり握手する二人。

ジョン・クレギーは仲間とともに漁船で船の引き上げ作業を行おうと沖に出たところで、没む直前のハナ号を発見。救助活動を行ったという。

ジョージはこの事故の後も、商船に乗り続けたという。

自分の「水」のルーツを見つけることができたデヴィッド。様々なヨーロッパの血を受け継ぐ彼だが、イギリス人の先祖のことを知り、自分の「イギリス人」の部分をより深く意識することができた。

写真家だった祖父、そして曽祖父

次は母方の祖父のルーツに目を向ける。

デヴィッドは子供の頃から母方の祖父と多くの時間を過ごした。人生で一番影響を受けたのが、この祖父だった。

デヴィッドの祖父、ジミー(ジェームス)・ジャシェーは、イギリスでも初期の新聞カメラマンとして有名な人物。

エドワード8世とシンプソン夫人のツーショット写真を初めてスクープしたり、アインシュタインチャーチルなど、当時の著名な人物の写真も多く撮影している。

https://blog.scienceandmediamuseum.org.uk/wp-content/uploads/2013/06/limbsandthelaw1.jpg
‘Limbs and the Law’, 1924, James Jarché © The Royal Photographic Society Collection
祖父の作品。番組でデヴィッドがこの写真の撮影場所であるハイドパークを訪れた

祖父ジミーの両親、デヴィッドの曽祖父母の名前はアーノルドとエミリー。1870~80年頃にパリからロンドンに移住してきたユダヤ人。

曽祖父アーノルドも写真家で、ロンドンで写真館を開いていた。

ロンドンに来る前は、パリで「エッフェルタワー・スタジオ」という写真館を経営していたらしい。しかし彼らが、フランス生まれフランス育ちのユダヤ人なのかは、家族の間でも謎だった。

祖父ジミーの苗字は、フランス風にジャシェー(Jarché)だったが、曽祖父母の苗字はジャシー(Jarchy)で、綴りが違う。これは祖父ジミーが、フランス風に苗字を変えたから、らしい。

曽祖父アーノルドがロンドンで写真館をしていた場所を訪れるデヴィッド。アーノルドが開業していた時代には、写真が一般にも広まり始めた頃で、ロンドンだけで写真館が300軒はあったという。

Olof Fortmeier studio.jpg
By Hanna Fortmeier? - http://sites.google.com/site/prittsel/1850%E2%80%931900, Public Domain, Link
当時の写真館

当時の新聞に、アーノルドの写真館の広告が出ていた。

『フランス出身、パリで写真館を経営、多くの有名写真家の元で経験を積んできた写真家、アーノルド・ジャシーが新たに写真館をロンドンにオープン』

そこには彼が修行したというフランス人写真家の名前も羅列されていた。

広告を見て、自分はオシャレなフランスから来た、ということを妙に強調して特別感を出そうとしていないか?と感じるデヴィッド。そこには何か怪しさも感じる。

曽祖父の経歴詐称?

アーノルドが経営していた写真館の場所を調べるため、パリに向かう。

カルナヴァレ博物館で、写真館があった証拠を探す。当時の写真家や写真館の情報をまとめたディレクトリーを当たるが、そこにはアーノルドの名前も、彼が経営していたという「エッフェルタワー・スタジオ」の名前もなかった。

彼が写真技術をパリで習得したのは間違いないようだが、自分で写真館を経営していたというのは、嘘のようだ。

どうもパリ仕込みの写真の腕を誇張して宣伝したらしい。イギリス人が謎めいた外国のアクセントにコロッとやられるのを知って、それをうまく商売に使ったのではないか。アーノルド、やるなぁ!と笑うデヴィッド。

曽祖父母のルーツの謎

では彼らは本当にフランス生まれのユダヤ人だったのだろうか。彼らの結婚証明書が見つかる。

そこには、アーノルド、エミリーとも、ロシア出身であると書かれていた。フランスには、10年ほど住んでいたらしい。

結婚証明書にあった住所を元に、彼らが住んでいたパリのマレ地区、テュルネル通りを訪ねる。彼らが住んでいたアパルトマンのドアには、今でもメズーザーがつけられていた。

Mezuzah-RS.jpg
By www.retardstrength.net (talk) - I created this work entirely by myself., CC BY 3.0, Link
ドアフレームにつけられたメズーザー

メズーザーは、入口につけられた棒のような飾りで、ユダヤ教信者は家に入るたびに、これに手を当ててお祈りの代わりにする。

そしてアパルトマンのすぐ隣は、シナゴーグだった。

photo de la façade
Par User:Gandalf55 — self-made by Author, Domaine public, Lien
テュルネル通りに今も残るシナゴーグ

革命後のフランスは、ヨーロッパの中でもユダヤ人差別があまり無い場所だった。ロシアでの迫害から逃れた多くのユダヤ人がフランスに移り、1880年頃には大きなユダヤ人コミュニティが出来ていた。

迫害から逃げるため、国外に出るということは非常に勇気のいることだったと思う。難民というバックグラウンドを持つ者は、先へ先へと進むための強い気力がどうしても必要になる。自分が何かに突き動かされるように、長年役者として演技を続けているのも、こういうところから来ている気がする、とデヴィッド。

父方のルーツ、スーシェ家の謎

デヴィッドの父方、スーシェ(Suchet)家も東ヨーロッパから来たユダヤ人一家だが、デヴィッドの父は南アフリカ生まれ。

苗字はもともとスシェドヴィッツ(Suchedowitz)といい、おそらくロシア系ではないか、という。

詳しい話を聞くため、ニュースキャスターである兄、ジョン・スーシェを訪ねる。兄によると、デヴィッドの父方の祖父、イジドールが南アフリカで苗字を「スーシェ」とフランス風に変えたという。

John Suchet 2013.jpg
By AIB London - https://www.flickr.com/photos/aib_london/14384499178/, CC BY 2.0, Link
兄ジョン・スーシェ。番組では弟ピーターも登場した

またイジドールはメーメルという場所の出身らしい。メーメルは現在のリトアニア・クライペダという町で、当時はプロイセン王国ドイツ帝国)の一部だった。

イジドールの南アフリカのパスポートの氏名欄は「スシェドビッツ、またはスーシェ」と書かれている。名前が長すぎるので簡単に短くしたのか、ユダヤ人っぽい名前だったので変えたのか。

イジドールはドイツ訛りがあり、ドイツ語も話したという。1896年に兄ベンジャミン、弟ジョセフの3人でメーメルから南アフリカに移住した。

祖父がロシア系だと思っていたデヴィッドにとって、ドイツ語を話したという祖父の話は意外だった。しかしメーメルはプロイセン王国の一部ではあったが、当時のロシア国境からは20キロしか離れていなかったというので、あながち間違いではなかった。

イジドールの両親の名前はジェイコブ(ヤコブ)とベイラ。

二人の家族は、それぞれ別の場所からメーメルに移住、ジェイコブが17歳、ベイラが14-15歳ごろにふたりは結婚した。

イジドールの家族は昔からメーメルにいたわけではないようだが、彼らはどこからやってきたのだろうか?

メーメルへ、そして新たな謎の「証拠」

メーメル、現在のリトアニア・クライペダに飛ぶデヴィッド。

Quite summer evening in the port city Klaipeda.jpg
By Mantas Volungevicius - https://www.flickr.com/photos/112693323@N04/15223983163/, CC BY 2.0, Link
現在のクライペダ

港町であるメーメル。ここはユダヤ人にとって安全な場所として、近隣から多くのユダヤ人が集まっていた。しかし1890年頃には、周辺からの移住は禁止されたという。

ここでは、「スシェドヴィッツ」は「スハドヴィッチ」と発音されていたようだ。

1898年の住所録には、曾祖母ベイラの名前が未亡人として載っていた。しかし残りの家族の情報は、当時のユダヤ人コミュニティの記録にも残っていなかった。それ以前の記録を調べても、スハドヴィッチの名前は出てこない。

調査に行き詰まるデヴィッド。

そこに南アフリカの親戚から、デヴィッドに小包が届けられる。それは祖父イジドールの弟ジョセフが南アフリカの国籍を取った時の書類だった。

書類に書かれた、申請者のもともとの国籍を見て目をみはり、笑い出すデヴィッド。

そこに書かれていた国籍は、なんと「トルコ」

しかし生まれた場所は、ロシア、クラティンゲンとなっていた。このトルコ国籍は、後に取得したもののようだ。

兄ベンジャミンの申請書も同封されていたが、そこにも生まれた場所はクラティンゲンと書かれていた。

次男だった祖父イジドールもクラティンゲン生まれだと考えられる。

しかし、なぜトルコ国籍を持っていたのだろう?

ユダヤ居留地

クラティンゲンはメーメルからは車で北に30分ほどのところにあり、現在はクレティンガと呼ばれているリトアニアの都市。

ここは、Pale of settlementと呼ばれる、当時のロシアでユダヤ人が住むことを許されていたエリアの中にあった。

クレティンガに向かうデヴィッド。

Map showing the percentage of Jews in the Pale of Settlement and Congress Poland, The Jewish Encyclopedia (1905).jpg
By Not specified in source. - Herman Rosenthal; J.G. Lipman; Vasili Rosenthal; L. Wygodsky; M. Mysh; Abraham Galante (1905) "Russia" in The Jewish Encyclopedia: Vol. 10, Philipson–Samoscz, New York, N.Y.: Funk & Wagnalls, pp. 531, Public Domain, Link
地図の赤く囲まれた部分が居住を許された地域。クラティンゲンは左上のKovnoと書かれている地域にある

ロシアはエカテリーナ2世の頃から、国からユダヤ人を完全に排除・排斥する政策をとっていた。

現在のリトアニアモラビアウクライナベラルーシなど、バルト海から黒海に渡る特定のエリアにのみ、ユダヤ人が住むことを許していた。

居住が許された場所であっても、そこはユダヤ人にとって必ずしも住みやすい場所ではなかった。様々な機会や権利は制限され、貧困にあえぐものも多かった。

また「ポグロム」と呼ばれる、地元住民によるユダヤ人コミュニティへの攻撃、殺戮も絶えなかった。またロシア軍に徴兵されれば、宗教的な自由は奪われ、時に虐待や死が待っていたという。

当時ロシア・プロイセン国境沿いを走っていた鉄道路線が現在も使われている。その駅に立つデヴィッド。

自由を求め、ロシアからプロイセン側に渡ってきたユダヤ人達。しかしもちろん不法入国になるため、国境を超えることは勇気がいる事だっただろう。

自分はイギリスの安全な環境で育ってはいるが、先祖は安全を求め、移動に移動を重ねたユダヤ人。もしかしたら、ジェイコブは息子達が徴兵されないよう、ロシアからプロイセンに逃げたのかもしれない。

「スーシェ」の謎解き

「スハドヴィッチ」という苗字はドイツ風の名前であるが、もともとのヘブライ語の苗字があるはずである。

専門家が調べた結果、それは「ショハッド(Shokhet)」

ヘブライ語で「屠殺者」、ユダヤ教の決まりに従って動物を屠殺し、精肉する者、を意味する名前だった。

ヘブライ文字では特定の音の表記は省略される。ヘブライ語で書いた苗字を再びアルファベットで書き起こすと、「s、ch 、t」。 これは簡単にスーシェ(Suchet)に変換できる。

英語でいうとうちは「ブッチャーさん」だったのか!とデヴィッド。

語尾の「ヴィッツ」または「ヴィッチ」は「息子」を意味する。つまりは「屠殺者の息子」が、苗字「スーシェ」のもともとの由来だった。

オリジナルのヘブライ語の苗字、「ショハッド」で再度調べたところ、ジェイコブ・ショハッド、ベイラ・ショハッドの名前で、曾祖父母の情報が見つかった。

そして彼らの出身地が、クレンティガからさらに80キロ離れた場所にあるトリシュキー(Tryškiai)という場所である事もわかった。

「スーシェ」家のルーツの小さな町へ、そして最後の謎解き

トリシュキーに向かうデヴィッド。

Tryškiai, ženklas.JPG
By Vilensija - Mano darbas, CC BY-SA 3.0, Nuoroda

この場所もユダヤ人居住地域の中にあり、昔は多くのユダヤ人が住んでいた。しかし200年の間に起きた度重なる迫害・虐殺により、ユダヤ人は全て消えてしまった。

残っているのは、町の外れに残るユダヤ人墓地のみ。現在の町の規模と比べても、とても大きな墓地である。ここにショハッド家の人々も眠っているのかもしれない。

最後に、メーメルで亡くなったジェイコブの死亡証明書が見つかる。トリシュキーで生まれたはずのジェイコブだが、そこには出生地はトルコ、と書かれていた。しかしそこに書かれた町の名前は、トルコには存在しない、架空のものだった。

ジェイコブはユダヤ人のアイデンティティを隠すために、ユダヤ人居住地にいる間に何らかの方法で家族とともにトルコ国籍を取得したのではないか。

トルコのパスポートを使うことで、家族はロシアからプロイセンに脱出し、ユダヤ人の移住が禁止されつつあったメーメルでも、合法的に滞在することができたと考えられる。

大叔父達の南アフリカ国籍申請書に、もともと国籍が「トルコ」とあったのも、このためであった。

エピローグ

曽祖父ジェイコブは家族をユダヤ人に対する抑圧そして虐殺から救うために力を尽くした。家族はそのあと、プロイセンを経て南アフリカ、そしてイギリスへ渡り、子孫たちは新しい可能性を広げることができた。

トリシュキーでデヴィッドの先祖探しの旅は終わった。しかし家族の旅はまさにここから始まったのだ、とデヴィッド。

ひとこと

NHKで放映されていたのをずっと見ていた名探偵ポワロ。懐かしいです。

そしてそのポワロ役だったデヴィッド・スーシェが自らのルーツを探るべく、まさにポワロ並に色々と先祖の謎を調べて行く今回のエピソードは、とても見応えがありました。

とはいっても、謎解きを実際にしたのは、調査を手伝った専門家なのですが。

それでもこの回では、デヴィッドさんが自らマイクロフィルムを回したり、本を調べたりと、かなり積極的に動いていました(エピソードによっては、その場所に行って専門家が調べてくれた書類を見せてもらうだけだったり、話を聞くだけの受け身な人もいます)。

ちなみに関係ありませんが、リトアニアで苗字の謎やトルコ国籍の謎を調べてくれた専門家の人が、能町みね子さんそっくりでした。笑

いずれにせよ、2008年に放送されたこの回は、初期の名作だと思います。先祖を調べる面白さを知ったきっかけにもなりました。ただ、出てきた情報も盛りだくさんすぎて、このエントリーも随分長くなってしまいました。

やはりユダヤ人の先祖の話が色々衝撃的で、最初に出てきた船乗りのおじいさんの話などすっかり忘れてしまうほどでした。

まずは写真家だったひいおじいさんの話。ヨーロッパには古い建物がそのまま残っていることが多いので、当時の住所に行けば同じ建物に当たる確率も高いですが、今回も住所を訪れてみたら、まさにその建物のドアにユダヤ教のシンボルがあったり、隣がシナゴーグだったりと、先祖がそこにいたという証拠がこんなにはっきり残っているのを発見するのは、まさに探偵の行動を追っているよう。

また大叔父の国籍が「トルコ」と書かれた書類を見た時のポワロさん、ではなくデヴィッドさんの反応。これもまるで探偵ドラマで新しい証拠を発見した時のようでした。

そして「スーシェ」という苗字の謎、非常に興味深かったです。ユダヤ教の決まりに従って動物を屠殺し、精肉する(英語ではコーシャー)人のことを「ショーヘート」と呼ぶことは、日本語のウィキペディアにもしっかり書かれていました。

移動する土地によって、自分達の苗字もどんどん変化していく。日本人の自分には、なかなか想像がつかない感覚です。

しかし何よりも、これを見て実感したのは、ユダヤ人がどれだけ迫害され、色々な土地に移動しては追われ、また別の地に移動し、を繰り返してきたかということです。

「ロシアからきたユダヤ人」と言うことで、詳細は取り上げられませんでしたが、「ロシア」からパリに移った曽祖父アーノルドの出生地も、さっと言及していただけでしたが、デュナボルグ(今のラトビア、ダウガフピルス)。このあたりもユダヤ人居住地だったのでしょうか。

ポグロム」という虐殺行為も、世界史で用語として「暗記」はしたような気もします。が、今回出て来た写真やイラストを見て、その恐ろしさや背景を、初めて実感しました。

こうやって居住地に追いやられ、迫害され、ということが、ナチスドイツの迫害が始まるよりもずっと以前から、各地で繰り返し繰り返しあったということを、より強く理解することができた気がします。

スーシェ家のルーツとして最後に紹介された町、トリシュキーについても少し調べてみましたが、第二次大戦前より、地元住民によるユダヤ人狩り、虐殺が行われ、ユダヤ人が一掃されていたこともわかりました。

ある意味、早めにそんなエリアから脱出し、南アフリカやイギリスに落ち着いた彼の家族はラッキーだったのかもしれません。

そんなユダヤ人一家の子孫であるデヴィッドさんは、イギリスで生まれ育ち、俳優として成功し、めでたしめでたし。以前であれば、そんな気分でこの番組を見ていました。

が、最近の世の中の流れを見ていると、ふと、ここでまた何がどう変わって、例えばまた世界でユダヤ人排斥が起こったら(アメリカでは大統領がそれに加担し始めていますし)。この人だってまた全てを捨ててどこかに逃げなければいけなくなるのだろうか、という考えが頭をよぎりました。

ユダヤ人に限ったことでなく、例えば日本に何かが起きて、日本人が国を捨てなければいけないような状況で、生きていくために他の国へ移動を繰り返さなければならないとしたら、どんな気持ちだろうか?

最近の不穏な世の中を見ていると、安定なんて、本当にあっけなく簡単にくつがえされてしまうものであると感じます。日本で生まれ育った自分には想像が難しい話ではありますが、土地を追われた彼らは新しい地に定住し、そこに根を下ろしたと思っても、政治の風向きでまたその土地を捨てざるを得なくなり、安全を求めて移動する、ということを、もう何千年も繰り返してきたんだな、ということがよくわかるエピソードでした。

実際、デヴィッドさんの家族も、たった3世代の間にこれだけの移動を繰り返しているわけで、考えたらこれはずいぶんしんどい。その是非はともかく、ユダヤ人がイスラエルという安住の地を夢見るのもさもありなん、なのかもしれません。

<イギリス版、2008年>

ランキング参加中です。クリックよろしくお願いします。
にほんブログ村 芸能ブログ 海外芸能情報へ
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
にほんブログ村

【俳優:クリス・ノース】SATCミスター・ビッグのルーツ:大火、戦禍を乗り越えたアイルランドからの先祖

プロローグ

クリス・ノースはテレビドラマ「Law & Order」や「セックス・アンド・ザ・シティー」のミスター・ビッグ役で有名な俳優である。

ChrisNoth (cropped).jpg
By ChrisNoth.jpg: The original uploader was Seductivemelody at English Wikipedia
derivative work: Matthewedwards (talk) - ChrisNoth.jpg, CC BY-SA 3.0, Link

1954年、ウィスコンシン州で3人兄弟の末っ子として生まれたクリス。

父のチャールズ・ジェームス・ノースは第二次大戦中空軍に所属。その後朝鮮戦争では空母アンティータムに乗船し、勲章を得る活躍をした。除隊後は保険会社に勤務した。

母ジェーン・パーはニュース記者としてCBSで活躍するようになったが、クリスが10歳の頃に両親は離婚。そして1966年、彼が12歳の時に父は自動車事故で亡くなってしまった。

父の死で父方の家族とも疎遠になってしまったクリス。父のルーツについて知りたいと考えている。

父方のルーツ

父方の祖父母のこともあまり知らないというクリス。祖父ジョージはクリスが生まれる前に亡くなっている。

シカゴ在住だった祖母メイには、シカゴに遊びに行く時にしか会うことはなかった。祖母メイの旧姓はマグワイアで、おそらくアイルランド系だと考えられる。

シカゴに飛び、情報を集めるクリス。

祖父ジョージは裕福な家庭出身だったため、祖父母の結婚について新聞記事が出ていないか確認する(アメリカでは地元の新聞に結婚の告知広告を出したり、社交欄の記事になったりすることがある)。

すると当時の新聞の社交欄に祖父母の結婚に関する記事が見つかった。そこから祖母メイの父、つまり曽祖父の名前がC.J.マグワイアであることがわかった。

この名前をもとにさらに1900年の国勢調査を検索。曽祖父のフルネームはチャールズ・ジョン・マグワイア、カナダ生まれであることが確認できた。

1900 census Olsen Barca.gif
Public Domain, Link
当時の国勢調査。このように全て手書き

さらにさかのぼり、1880年国勢調査を調べる。すると、25歳のチャールズ、15歳のアグネス、12歳のジョンの3人兄弟の記録が見つかる。家族の筆頭主はチャールズとなっていた。両親がいないのはなぜか?

さらに10年前、1870年の記録をたどる。そこには14歳のチャールズをはじめ、家族の名前が全て記載されていた。チャールズの父、クリスの高祖父にあたる人物、デニスはアイルランド生まれの日雇い労働者。その妻アンはカナダ生まれ。

1870年から1880年の間に、家族に何か悲劇があったのだろうか。

シカゴ大火

当時のマグワイア家の住所はシカゴ市内第20区。シカゴ・リバーから数ブロックのところに彼らの住まいがあった。高祖父デニスは日雇い労働者だったため、港での荷運びなど様々な仕事をする上でも、仕事場に近い場所に住んでいたようである。

しかし1871年、シカゴ大火が起こる。3日間に渡り燃え続けたこの火事で、死者250人、10万人以上が家を失ったという。

Chicago-fire1.jpg
By John R. Chapin, died 1907 - From [1]. Originally from Harper's Weekly., パブリック・ドメイン, Link

街が燃えさかる様子を描いた当時の新聞のイラストを見て「まるでヒロシマのようだ」とつぶやくクリス。先祖が住んでいた地域も、火事の被害を受けて焼け野原になった。曽祖父チャールズの両親、デニスとアンは火事の犠牲になって、子供達だけが残されたのだろうか。

しかし火事から21年後、1892年の新聞に、母親アンの死亡記事が掲載されていた。火事の犠牲にはならなかったようだ。しかし、火災後になぜ子供達と離れて過ごしていたのかは不明。火事で怪我をして、子供の世話ができなくなった可能性もあるが、明確なことはわからなかった。

また、父親デニスのその後についても、全く情報を見つけることができなかった。

イギリス軍兵士だった5代前の先祖

調査の焦点は、デニスの父親、ジョン・マグワイアへ。クリスからは5代前の先祖にあたる。

アイルランド出身のジョンは、イギリス軍の兵士だったことがわかった。情報を探りに、ロンドンに向かう。

年金記録から、ジョン・マグワイアは歩兵連隊に所属、実に14年間も軍に所属していたこと、また半島戦争で勲章を得ていたこともわかった。

当時フランスを支配下におき、さらに勢力拡大をめざしていたナポレオン。しかしイギリスを直接侵略することは困難であった。

このため、まずはイギリス経済に打撃をあたえようと、1807年ポルトガルに侵攻。港を制圧、イギリスの地中海貿易ルートを断つ戦略に出た。

イギリス軍はこれに対抗するため、イベリア半島に兵を送り込んでいる。

軍の記録では、ジョン・マグワイアは射撃兵として、1811年にスペイン国境にも近いポルトガルの街、エルヴァス近郊に駐屯していたことがわかった。

彼はここで実際に戦闘に参加したのだろうか。

アルブエラの戦い

国境沿いの街エルヴァスに向かうクリス。さらにここから車でスペインの小さな村、アルブエラに向かう。

1811年5月6日、半島戦争の歴史の中でも有名な「アルブエラの戦い」に、ジョン・マグワイアも加わっていた。

Battle of Albuhera, by William Barnes Wollen.jpg
By William Barnes Wollen (1857-1936) - not stated, Public Domain, Link

3万4000のイギリス、スペイン、ポルトガル軍と、2万4,000のフランス軍が衝突したこの戦いは、当初はフランスが優勢であった。

その後数時間の激しい戦闘が続く。連合軍もなんとか踏みとどまっていたが、厳しい戦いを強いられていた。そんな時に投入されたのが、ジョンが所属していた部隊だった。

狙撃兵であったジョンは、200人のフランス兵がサーベルを持って迫ってくる中、逃げることもなく、仲間の兵の肩越しに銃を構えたという。当時はマスケット銃だったため、銃を構えては撃ち、後退して弾を詰め直し、また撃つ・・という攻撃を、まさに敵と18メートルの至近距離で行った。

イギリス軍の射撃のスピードがフランス軍より早かったこともあり、フランス軍は撤退。以降、フランス軍は劣勢に向かっていったというが、この戦いだけでまさに1万人もの犠牲者が出たという。このため、この戦いは「血のアルブエラ」とも呼ばれている。

目の前に敵が立ちはだかり、銃弾が飛び交うなか、後退することもなく踏みとどまって銃撃戦を行った先祖の勇気に感嘆するクリス。そして、そんなに激しい戦闘があったとは想像もつかないような静かな丘から、息子のためにお土産として石を拾っていく。

アイルランド人の苦難

半島戦争で勇敢に戦った先祖、ジョン・マグワイアは、兵士になる前はどんな人物であったのか。さらに情報を探るため、彼の故郷アイルランド・キャバン州に向かう。

Annalee river, Butlersbridge, Cavan Aug 2003.jpg
By Sarah777 at English Wikipedia - Transferred from en.wikipedia to Commons by Lvova using CommonsHelper., Public Domain, Link

この地域では1790年頃、国防と警備のための民兵隊が作られている。ジョン・マグワイアも1807年、地元の民兵隊に入隊。

さらに1809年、イギリス軍に入隊している。

入隊記録から、入隊前の職業は織物職人であることもわかった。当時は織物も工業化が進んだ時代であり、昔ながらの職人の仕事はどんどん減っていっていた。このため、経済的理由から入隊したのではと考えられる。

当時イギリスに併合されていたアイルランドカトリックアイルランド人は政府の職をはじめ、土地の売買や大学の進学、弁護士や医師になることは制限されるなど、様々な差別にあっていた。

当初は軍への入隊も禁止されていたが、フランスとの戦争などで兵隊が必要となり、規制が緩和された。

またプロテスタント系のイギリスにおいては、カトリック教会の建設や礼拝も厳しくコントロールされていた。自らもカトリックであるクリスは、信教の自由まで奪われていたことにショックを受ける。

イギリスに抑圧されているにもかかわらず、イギリス軍に入隊した背景には、やはり経済的な理由、生きていくために必要な手段であったことが大きい。「もちろん戦闘を生き延びられれば、の話だけれどね」

実際イギリス軍に入隊して初めて、きちんとした服やブーツを手に入れることができた、というアイルランド人も多かったという。

しかし軍で功績をあげたとしても、除隊後のアイルランドでの生活は楽ではなかったのではないか。

記録をたどると、1840年マグワイア家がアイルランドからカナダに移民した記録が見つかった。ジョン・マグワイア本人は軍から年金を受け取っていたが、やはり子供の将来を考えたのではないかと思われる(ジョンの孫にあたる、曽祖父チャールズは国勢調査にあった通り、カナダで生まれている)。

エピローグ

ジョンの入隊記録に書かれていた出身地は、ノックブライドという小さな村。

この地域に唯一ある墓地を訪れるクリス。墓石は苔むし、ただの石になっているものも多いが、1400年代から村人が埋葬されているこのどこかに、マグワイア家の先祖も埋葬されていると思われる。

http://s0.geograph.org.uk/geophotos/03/82/71/3827175_72c9719d.jpg
Photo © Eric Jones (cc-by-sa/2.0)

先祖が大変な状況、政治的に抑圧された中で行きていかなければいけなかったことがよくわかった、とクリス。ここで育てばタフにならざるをえなかったのだろう。ジョン・マグワイアが生き残るために必要な選択をしてきたこともよくわかった。

父も軍人だったが、もしかしたら子供の頃に半島戦争で勇敢に戦ったジョン・マグワイアの話を聞いて育ったかもしれない。自分の息子にも先祖の話を伝えていくだろう。自分にとっても、発見の多い経験だった。

ひとこと

セックス・アンド・ザ・シティのキャストが随分この番組で取り上げられていますが、今回はミスター・ビッグを紹介してみました。

カナダに移住した後にシカゴに移った理由や、大火の後の両親の足取りがわからないなど、調査が中途半端な感じもする回でした。

大火後、兄弟3人だけで暮らしていたことが国勢調査でわかったのですが、その記録に書かれていた住所は「scattered homes on the prairie」というものでした。

それだけ読むと「大草原に点在する家」??と謎すぎる住所だったのですが、番組の中で説明にあたった歴史専門家は、この住所の意味も調べてみたけれどわからない、聞いたことが無い、で終わっていました。

ちょっとscattered homes で調べてみましたら、特にイギリスなどで、身寄りのない子供達を地域の住宅に住まわせ、そこから学校に通わせるといった施設がこの名前で呼ばれていました。低所得者用の住宅がこう呼ばれている場合もありました。別に大草原の小さな家的なものではなかったようです(笑)。

prairieは大草原、ではなくて、シカゴにPrairie Avenue という通りがあるので、そこだったのではないだろうか・・実際の国勢調査を見ていないのでなんともいえませんが、Prairie Avenue自体は彼らが大火以前に住んでいた場所からは大して遠くないようですので、ここなんじゃないかなあと勝手に思っています。

ネットで少し検索しただけですが、少し自分もミステリーをとく探偵気分になりました。時間があれば、後で国勢調査の情報にアクセスしてみようかなとも思います。

さてここで取り上げられたシカゴ大火。番組では話題になりませんでしたが、火事の原因として、ある女性が牛の乳を絞ろうとした時に牛がランタンを蹴り、その火が干し草に燃え移った、という話が火事が鎮火する前から広まったそうです。

結局それはある新聞記者の捏造だったそうですが、疑いをかけられた女性は貧しいアイルランド系の移民。

1840年後半にアイルランドでジャガイモ飢饉が起き、多くがアメリカに移民してきました(クリスの先祖が移民してきたのも1840年飢饉が始まるちょっと前でした)。

当時アイルランド系移民に対する差別はかなりあったそうで、この女性もある意味スケープゴートにされたと考えられています。

新聞記者はその後、話をでっちあげたことを認めたそうですが、すでに広まった噂を鎮めることはできず。この女性と牛の(!)名誉回復は近年になって行われたそうです。

新たな移民への差別、蔑視、フェイクニュースの拡散・・・そしてフェイクニュースだとわかっても、それを広めて、自分の気に入らないグループを責める人々。

なんとなく、今にも通じる話のような気もします。気もする、というかまさしくそうです。歴史が繰り返されすぎていて愕然とします。

ナポレオンの半島戦争は、世界史で習ったはずなのに、全く記憶に残っていませんでした。でもこのようなパーソナルな形で語られると、そういうことだったのか・・とまた歴史を紐解きたくなってきました。

実際の戦争の経緯はもっともっと複雑なものですが、例えばこのゴヤの作品も、この時代のスペインを描いたもので、銃を構えているのはナポレオンのフランス兵です。そういうことだったのか、と今になってようやくピンときました。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fd/El_Tres_de_Mayo%2C_by_Francisco_de_Goya%2C_from_Prado_thin_black_margin.jpg/1280px-El_Tres_de_Mayo%2C_by_Francisco_de_Goya%2C_from_Prado_thin_black_margin.jpg

By El_Tres_de_Mayo,_by_Francisco_de_Goya,_from_Prado_in_Google_Earth.jpg: Francisco de Goya
derivative work: Papa Lima Whiskey 2 - This file was derived from  El Tres de Mayo, by Francisco de Goya, from Prado in Google Earth.jpg, Public Domain, Link

他のSATCキャストの記事もどうぞ

familyhistory.hatenadiary.com
familyhistory.hatenadiary.com
familyhistory.hatenadiary.com


<アメリカ版、2016年>

ランキング参加中です。よろしくお願いします。
にほんブログ村 芸能ブログ 海外芸能情報へ
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
にほんブログ村