世界のセレブ・ファミリーヒストリー

世界のセレブ・ファミリーヒストリー

英・米・豪・加で放送されている「ファミリーヒストリー」的番組 Who Do You Think You Areの興味深いエピソードを紹介します。セレブの家族史を通じて、世界の知らなかった出来事が見えてくる。今の世界を知る上でも、個人を知る上でも、色々興味深いこと満載です。

【司会者:リズ・ボニン】インド、フランス、そして奴隷 - 人種のるつぼカリブ海から来た先祖

プロローグ

リズ・ボニンはイギリスの動物・科学番組の司会者。フランス生まれ、アイルランド育ち。

https://vignette.wikia.nocookie.net/celebrity/images/9/9e/Liz_Bonnin.jpg/revision/latest?cb=20111214164829
from Celebrity Wiki

母はカリブ海トリニダードの出身で、インド、ポルトガル系の血を引く。父はカリブ海に浮かぶフランス領マルティニークの出身のフランス系。

おそらく他にも色々混じっていて、自分の人種が何かと聞かれるとうまく答えられない。

自分の先祖は、いつどういった理由でカリブ海にやってきたのか。そして特に気になっているのが、プランテーションで奴隷を所有していたかだという。

母のルーツ、トリニダード

まずは母方のルーツを知るため、子供の頃良く夏休みを過ごしたというトリニダードへ。

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首都ポートオブスペイン

トリニダードカリブ海の島の中でも最も人種が多様なところで、母方の祖父はインド系であった。

奴隷制が廃止された1845年以降、それに代わるさとうきびプランテーションの労働力として、インドから約15万人がトリニダードにやってきたという。

現在トリニダードの人種構成の中でも、こういったインド系の子孫が一番多い。

曽祖父ジョージと曽祖母アグネスの写真、また、ジョージが教会のメンバーに囲まれて写っている写真が見つかる。どちらもインド系の人々がきちっとした洋装をして写っているものであった。

さらにリズの大叔母シビルは、トリニダード南部、サンフェルナンドで長老派キリスト教会の設立に関わったこともわかった。

インド人なのに、なぜヒンズー教ではなくキリスト教徒なのか。不思議に思うリズはサンフェルナンドに向かう。

成功するための西洋化

サンフェルナンドのキリスト教会を訪ねるリズ。そこでは、曽祖父ジョージもこの教会のメンバーで、そこで結婚式をあげたことがわかった。

結婚証明書から、曽祖母の旧姓が「セルジュ(Serju)」であること、その父親の名はティモシー・セルジュであることもわかった。

ティモシー・セルジュもまた教会の主要メンバーであった。

インド人の先祖が洋装をしたキリスト教徒であることに多少の違和感を覚えるリズ。

しかし当時、キリスト教に転向することは、新たに教育の機会を得、社会的に上昇することを意味した。

ティモシーの死亡広告記事が見つかったが、そこには12人の子供がいたこと、また最終的には大きな商店を経営し、広大な土地を所有するなど非常に成功していたことがわかった。

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現在のサンフェルナンド、商店街

イギリス植民地時代、社会・経済的にどこに位置するかは、肌の色や宗教など、人種的要素が大きく左右した。

この枠をうち破り成功するには、キリスト教に改宗し、西洋化していくことが非常に重要であった。

インド人としての伝統を失っていくことは残念ではあるが、家族、子供の将来のためには、必要な選択だったのである。

インドからの移民記録

親戚が持っていた古い写真。そのうちの1枚に、ティモシーとその兄弟、そしてサリーを着た母親が写っていた。

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それぞれの人物の横に名前が書いてあるが、兄弟であるのに皆苗字が違う。

ティモシー・セルジュの「セルジュ」は家族の苗字ではなく、ティモシーのインド名であることがわかった。

彼らにはもともとインドの苗字がなかったので、西洋名とインド名を組み合わせて名前としたのだった。

ティモシー・セルジュの死亡証明書を確認してみると、彼の出生地はインドと書かれてあった。それを見てなぜか涙が出てくるリズ。

1872年のインドからの乗船名簿を調べると、当時8歳のセルジュの他、マンガル、アダー、ブンシーと、写真に書かれた4人の兄弟のインド名が見つかった。

母の名前はスダニー、父親はアナンディー。カーストは農業に従事する「コリー」。ウッタル・プラデーシュ州ラクシュマンプール村の出身であることもわかった。

自分のインドのルーツがはっきりわかったリズ。

またコリーという低いカーストに産まれながら、トリニダードで大きく成功したことに感銘を受ける。

高祖父の働いたプランテーション

インドからトリニダードへは、船で3ヶ月かかったという。

またインドからの渡航費用と引き換えに、プランテーションで5年間働く必要があった。

インドからの乗船名簿は、そのまま労働契約書でもあり、そこには「労働に適した体格、健康である」など、ある意味奴隷の記録と変わらない内容が書かれていた。

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ティモシー一家は、トリニダードの南、パルミストと呼ばれるプランテーションで働いた。

そこにあった砂糖精製工場の跡地に向かうリズ。

ここでの労働は朝6時から、時に夜9~10時まで続くこともあったという。奴隷ではないとはいえ、住まいは以前奴隷が暮らしていたバラックだったりと、状況的にはあまり変わらなかったとも言える。

8歳でトリニダードにやってきたティモシーもプランテーションで働かなければならなかったが、このプランテーションは比較的「リベラル」なところだったため、学校に通うこともできたという。

実際、ティモシーは18歳で学校の教員となっている。おそらく移住後すぐに学校に通えたのではと考えられる。

トリニダードに行かずインドに残っていたら、低いカーストから脱することもできず、教育を受ける機会もなかったかもしれない。

先祖がインドの文化を失いトリニダードで西洋化していったことは悲しいが、自分は低いカーストに生まれたわけではなく、その苦労もわからなかっただろうから、そこばかりにこだわるのはフェアではないだろう、と考えるリズ。そしてトリニダードで成功した先祖をとても誇りに思う。

父のルーツ、マルティニーク

リズの父はフランスの植民地であったマルティニーク出身で、フランス系。マルティニークは、さとうきびプランテーション奴隷制度の歴史がある島である。

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マルティニークのビーチ

リズはここに住む祖母にとても懐いていて、休みのたびに遊びに行っていた。おばあちゃん子であったという。

ここに住む叔母とともに、祖母の家だったところを訪れるリズ。子供の頃いとこたちと遊んだ記憶がよみがえる。

乳児だった祖母が、数人のきょうだいと写っている写真が出てくる。きょうだいが皆黒い服を着ているのは、母親が亡くなった直後で喪に服していたからだという。また、父親も数ヶ月前に亡くなっていた。

祖母の父、リズの曽祖父の名はアシル・グロデゾモ (Achille Gros Desormeaux)。少し変わった苗字であるが、マルティニークのフランス人として、プランテーションをいくつも持っていたという。

このため、奴隷も所有していたと思う、と叔母。奴隷制が廃止された後も、奴隷の一部は家族とともに残ったと、叔母は伝え聞いていた。

奴隷所有者だった先祖

祖母とよく遊びに行ったというビーチを訪れるリズ。

ここで先祖に関する書類を見せられる。

まずは曽祖父アシルとその妻の結婚証明書。そこからアシルの父の名前がルイ・マリーといい、1828年生まれということがわかった。

マルティニーク奴隷制が廃止されたのは1848年。当時20歳だったルイ・マリーが奴隷所有者だった可能性は低いという。

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マルティニークさとうきび、バナナ畑

ルイ・マリーの父、リズからは5代前の先祖、フランソワ・アレクサンダーは、プランテーションを複数所有する大地主で、彼のプランテーションが一部まだ残っているという。

向かったプランテーションで見せられたのは、1838年に書かれた彼の所有財産リスト。

そこには7人の奴隷の名前が記されていた。名前の他に年齢、そしてそれぞれの「値段」も。

ルイ・ザン、47歳、1111フラン。
その娘、ベルナディン、18歳、1200フラン・・・

読みながら涙が止まらなくなってしまうリズ。思わずカメラを止めてもらう。

自分の家族に奴隷所有者がいるかもしれないことは予測していたけれど、実際に「所有物」としての奴隷の名前を目の当たりにしたショックの大きさは予想外であった。

この風景の中に奴隷がいて働かされていた、また自分の家族がそれに関わっていたことを想像すると、とても辛い、と語るリズ。

先祖と奴隷の驚くべき関係

フランソワ・アレクザンダーは地主としてどのような人物だったのだろうか。

1835年のフランソワ・アレクザンダーの結婚証明書が見つかる。妻の名はマリー・ジョセフ。さらにここでは、この届けが出された際、子供が8人いたことが記されていた。

結婚に漕ぎ付けるまでに子供がそれだけいたということは、2人は当時の社会が許さないような関係に2人はあったのだろうか。

さかのぼり、1831年の書類を見て「うわー」と頭を抱えるリズ。

そこには、マルティニーク総督府が、マリー・ジョセフとその子供6人を、奴隷から解放することを認めた書類であった。マリー・ジョセフは奴隷であった。

つまり、1828年生まれの高祖父ルイ・マリーは奴隷として生まれていたということでもあった。

奴隷所有者が奴隷を性的虐待し、子供が生まれることはよくあることであった。しかしこの場合、2人の間にはロマンスがあったようだ。

奴隷制度の時代のことをあまりロマンチックにしたくはないけれど、奴隷所有者として、自分の先祖は少しでもましな人間だったのかもしれない、とリズ。

さらなる事実

自分の息子が奴隷と結婚したことに対しての、彼らの両親の態度はどのようなものだったのだろうか。

フランソワ・アレクザンダーの父の名も、フランソワ・アレクザンダー。ここでは父をシニア、息子をジュニアと呼ぶ。そして妻の名前はポーリーン・ゾエ。

1804年に生まれた、ジュニアの弟、マーク・アントワンの洗礼記録が見つかる。

そこには、母であるポーリーン・ゾエが混血であること、母ポーリーン・ゾエは子供を2人産んだ後に、奴隷解放されたことが書かれていた。

奴隷と結婚したの母も元奴隷であり、ジュニアもまた混血であったのだった。

グロデゾモ家の歴史について、リズの遠い親戚が書いた本が見つかる。

そこには、シニア自身は白人で、彼の父はマルセイユからやってきたフランス人であることが書かれてあった。

ポーリン・ゾエとは彼女が奴隷だったこともあり、公式な結婚はしなかったが、シニアは彼女が自分の伴侶だということを公言していた。またそれは当時、非常に稀なことであったという。

しかし奴隷を伴侶としたことによる社会的な風当たりが無かったわけではない。このためシニアは、家族や子孫を社会や、混血の家族に不利となる法や制度から守るためにも、プランテーションの中に自分たちの世界、自分たちの楽園を作り上げようとしたという。

ポーリン・ゾエに全てを託したシニア

シニアのプランテーションの一部が今も残っており、その場所はデゾモ(Desormeaux)と呼ばれていた。

デゾモを訪れた先に集っていた老人たち。

「ここら辺は皆グロデゾモだよ!自分たちもグロデゾモの一族だ」

1831年、シニアが97歳で亡くなる2年前に書かれたという遺言状。そこには、ポーリン・ゾエとその子供達に全ての資産を残す、と書かれていた。

1831年は、白人が自分の資産を、人種にかかわらず奴隷から解放された人物に残すことが法的に許されるようになった年だという。

シニアは95歳でようやく子供を公的に認知し、伴侶であるポーリン・ゾエに資産を残すよう手配することができた。長生きしたおかげで、タイミング的にもラッキーであったと言える。

1848年、フランス政府は奴隷制を廃止する。その際、奴隷所有者には政府から賠償金が支払われた。そしてその支払先はポーリン・ゾエであった。

シニアの死後、彼の所有していた奴隷を受け継いでいたのである。

自らも奴隷であったが、その後解放され、さらに奴隷所有者になった。元奴隷の女性が奴隷所有者になる、というケースは非常に稀だったと考えられる。

エピローグ

祖母の墓参りをするリズ。

ポーリン・ゾエの人生は、まるでローラーコースターのようだった。そんな人生を生き延びた彼女はすごい女性だったのだと思う。

さらに自らも奴隷だった彼女が、のちに奴隷所有者になることはとても大変なことだったのではないだろうか。奴隷を彼女に遺したシニアの意図はわからないが、ポーリーン・ゾエを愛したのだと思う。

ひとこと

リズ・ボニンという人物を私は知りませんでしたが、彼女の多彩なバックグラウンドは、日本生まれ日本育ちの私にはちょっと想像できない複雑さ。これでは確かにあなたは何人?と聞かれると、何人、とひとくくりにする意味があるのかもわからなくなってしまいます。

彼女はフランス語ももちろん堪能で、マルティニークでは叔母さんも含め、現地の人達ともずっとフランス語で会話していました。

その語り口や、明らかになる先祖の過去に対する素直な反応が、なぜか見ていてとても好感が持てました。

あまり馴染みのないカリブ海の歴史も、非常に興味深かったです。

奴隷としてやってきたアフリカ人、そしてその後、それに変わる労働力としてやってきたインド人、そして植民地支配者としてやってきたヨーロッパの人々・・そんな人達の子孫が共存する、まさに人種のるつぼ。

トリニダードにいる彼女のいとこは完全に白人のおじさんでしたが、彼にとっても故郷はヨーロッパではなくて、このカリブ海の島なんだな、ということがなぜか不思議に思えたり。

番組で紹介されたトリニダードの街では、普通に中国人のおばちゃんも道を歩いていました。

先祖が奴隷所有者だったかどうかということは、非常にセンシティブな問題で、アメリカ版でも南部出身の有名人が、自分の先祖が奴隷を所有していることを知ってショックを受けたり、憤りを感じたりするエピソードがあったりしますが、この回は、その中でも2世代に渡る奴隷所有者と奴隷との結婚、また元奴隷の女性が奴隷所有者になった・・という点でとても印象的な回でした。

特に最初に奴隷を伴侶としたシニアは、家族や子孫を守るためにも、自分達の楽園のようなプランテーションを作ろうとしたということで、あの時代にあってなんて素晴らしい・・と一瞬思ったのですが、それでも結局は他の奴隷は奴隷としてキープしていたのですよね。プランテーションの運営に労働力は必要だったろうし。

番組では先祖の情報を時系列にせず、さかのぼる形で紹介していたので、しばらく気づかなかったんですが、それが彼の死後ポーリーン・ゾエに渡り、息子のジュニアも奴隷所有者だったと。

そしてジュニアも奴隷との間に子供が何人も生まれても、長い間パートナーを解放せず、しばらくは奴隷のままだったという・・。

人権とか博愛とか、そういう理由で奴隷を解放したというよりは、所有者の目に止まり妻となり解放されたラッキーな奴隷がいた、ということなのかなあ、とも思ってしまいました。

ひとこと、の欄のはずがずいぶん長くなってしまいましたが、リズ・ボニンの自然科学番組はこんな感じです。


Meet Alucia - Galapagos: Episode 1 Preview - BBC One

<イギリス版、2016年>

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【歌手:アニー・レノックス】ユーリズミックス・ボーカルのルーツ:貧困との戦い、スコットランドで強く生きた女性達

ユーリズミックスリードボーカルアニー・レノックススコットランド出身。

Annie Lennox SING campaign, Vienna 2010 b.jpg
By Manfred Werner - Tsui - Own work, CC BY-SA 3.0, Link


祖父母とは仲が良かったが、それ以前の先祖のことは何も知らないという。

裕福な家系というよりは、労働者階級として一生懸命働いてきたルーツがあると考えている。

父方の祖母のルーツは

父方の祖母のルーツをたどるため、父の生まれ故郷スコットランドの港町アバディーンへ。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/Aberdeen_-_Schoolhill_leading_to_Upper_Kirkgate_-_geograph.org.uk_-_831777.jpg
アバディーンの町並み

叔母に家族の古い写真を見せてもらう。

祖母の父親は彼女が3歳の時に亡くなったため、祖母自身も父方の家族、ヘンダーソン家のことはよく知らなかったという。

アバディーンの図書館で出生証明書を調べると、祖母の父、アニーには曽祖父にあたる人物の名前はチャールズ・ヘンダーソン

チャールズの父親は蒸気機関車の火夫だった。

そして母親の名前はジェシーアバディーンよりもさらに北にある街、バンフの出身。

1851年の国勢調査を調べると、当時まだ3歳だったジェシーの名前があった。父親はすでに亡く、母親メアリーと、ジェシーを含め5人の子供が残されていた。

そしてジェシーの母、メアリーの職業欄に書かれていたのは「pauper(貧民)」。

貧民。今では使われることの無いこの呼名。いったい何があったのだろうか。

「貧民」の悲劇

ジェシーの故郷バンフへ向かうアニー。バンフの教会の記録から、ジェシーの父は38歳の時結核で亡くなったことがわかった。

まだ政府による社会保障も無いビクトリア時代ジェシーの母メアリーも、夫に先立たれ5人の小さな子供を抱えて、働くこともできず、あっという間に貧困に陥ってしまったのであった。

国勢調査に書かれていた「貧民」とは、働くこともままならず、援助を受け、貧困の中暮らしている人々を指す人々を指した言葉であった。

このような人々は、教会や地域が運営する慈善施設などで、必要最低限の援助を受けて暮らしていた。

当時彼らが住んでいた家を訪ねるアニー。現在半ば廃墟になったその建物の一室に、家族が詰め込まれて生活していたと考えられる。建物は狭く、明かりもほとんど入らず、家の中は暗かったという。

その後ジェシーが5歳の時に母親メアリーも亡くなったことが、教会の埋葬記録から明らかになった。ジェシーは孤児になってしまったのである。

きょうだいはその後、それぞれ個人の家に引き取られ、離れ離れになる。

ジェシーは慈善団体によりクルックシャンク家に送られているが、彼女が10歳の時「使いみちが無くなったから」という理由で、クルックシャンク家から送り返されたという記録が残っていた。

祖父に見捨てられた?孤児ジェシー

ジェシーの足取りを調べる前に、少し遡り、ジェシーの母親メアリーの生い立ちが明らかになる。

教会の洗礼記録から、メアリーは弁護士の父ジェームズ・ローズと、貧しい家庭出身の母との間に婚外子として生まれたことがわかった。両親は結婚せず、父ジェームズはメアリーが生後2ヶ月の時に別の女性と結婚していた。

また国勢調査から、娘メアリーが未亡人として貧困に苦しんでいる間、父ジェームズは妻、3人の娘、2人の召使と共に、メアリー達と実に目と鼻の先で暮らしていたことが明らかになる。

ジェシーをはじめ5人の子供を抱え、「貧民」として援助を受けながら暮らし、最後には亡くなってしまった娘がこんなに近くに住んでいたことを、父ジェームズは知っていたのだろうか。助けの手は差し出さなかったのだろうか。

ジェシーが身を寄せた意外な家庭

ここでさらに衝撃の事実が明らかになる。

教会の洗礼記録から、メアリーの父ジェームズには妹がいたことがわかった。

さらにその妹の婚姻記録に書かれていた結婚相手の苗字はクルックシャンク。

ジェシーは大叔母のところに送られていたのだった。

恐らくメイドとして働かされていたのだろう。そして理由はわからないが、「利用価値が無くなった」という理由で家を追い出された。

そこには親族としての愛情や同情というものは全く無く、自らの利益だけで子供を引き取り、使えなくなると送り返すなど、まるで10歳の子供をものとして扱っているように見える。

ビクトリア時代の酷いメロドラマのようだ、全てがダーク過ぎると憤るアニー。

特定の階級の人間であったら、自分のしたことに責任をとらずに子供を放置し、まるで無かったかのようにできることが許された時代。誰もジェシーに愛情を注ぐような人はいなかったように見える。

ジェシーのその後

再度国勢調査を調べると、13歳のジェシーはバンフからアバディーンに移っており、亜麻を加工しリネンを作る繊維工場で働いているとあった。

繊維工場と聞いてピンとくるアニー。その工場はアニーが子供の頃育った家のすぐ近所にあり、よく遊んでいた場所だった。

自分の先祖がそんなに近くで働いていたことに驚くアニー。

工場跡を訪れる。当時13歳のジェシーは恐らく毎日10時間、週に6日は働いていたという。

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当時2000人ほどの子供・女性が働いていたというこの工場。賃金も安く、仕事環境も非常に過酷なものであった。

工場で働く女性は、18歳になると賃金を全額支払われるようになるため、これを機会に結婚するなどして工場の仕事を辞めることが多かったようだ。

ジェシーもその後結婚し、アニーの曽祖父をはじめ4人の息子をもうけたが、35歳の時癌で亡くなった。

人生の選択肢が無く、苦労の多い人生であったが、せめて結婚生活は幸せであったことを願うアニー。ジェシーの人生を知った後で、その息子である曽祖父の写真を見て感慨を覚える。

女王の母とダンスした父方の祖父

次に調べるのは、父方の祖父、ウィリアム・ファーガソン。彼女が9歳の時に亡くなったが、アニーはこのおじいちゃんにとても懐いていたという。

父方の祖父母はロイヤルファミリーが夏の休暇を過ごすスコットランドのバルモラル城で、祖父は狩猟番、祖母は乳搾りをしていた。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4d/Balmoral_Castle.jpg

ギリー(Gillie)と呼ばれる狩猟番は害獣駆除を行ったりして領地の狩猟管理をした他、王家メンバーが狩猟をする際には猟銃に玉を詰めて手渡すなどのアテンダントとしての役割を果たしていた。

祖父はダンスがとても上手く、城のスタッフのために開かれた舞踏会で、当時ジョージ6世の王妃として城に滞在していたエリザベス女王の母とダンスを踊ったことがあるという。

美しい景色の中で、祖父母はある意味素晴らしい生活をしていたと感じるアニー。

狩猟番は鮭を捕まえることもあったという話に、子供の頃祖父が捕まえた鮭を食べさせてくれたことを思い出す。あの時の味が忘れられないという。

城での勤務記録から、祖父母がここで働いていたこと、祖母は結婚を機に城を離れたことも確認できた。

私生児だったのは誰?

アニーが気になっていたのは、家族の間で、祖父が私生児だったという噂があることだった。

祖父の生年月日を元に国勢調査を調べると、そこにはきちんと両親の名前が記されていた。ただし、彼の母親が妊娠6ヶ月の時に結婚したことがわかった。

結婚してからできた子供ではなかったが、私生児というわけではなかったようだ。

さらに祖父の父、つまり曽祖父ジョージの出生記録を確認してみると、まさにそこに彼が私生児として生まれたことが記されていた。家族の間でこの情報が間違って伝わっていたことがわかった。

教会での「裁判」

ジョージが生まれたのはブレマー(Breamer)という小さな村。ジョージの母親イザベラ・マカーティーの実家がある場所だった。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/30/Braemar_from_Morrone.jpg/1280px-Braemar_from_Morrone.jpg

当時、裁判所が無いような小さな村では、それに代わり、教会の長老による「kirk session」と呼ばれる小会が開かれていた。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/43/Lorimer%2C_Ordination.jpg

この教会で行われた小会の記録に、ジョージの母イザベラが召喚され、不貞罪を問われたことが記されていた。

イザベラは2年間他の村で召使として働いていたとき、農場労働者であったウィリアム・ファーガソンとの間に関係をもち、妊娠したのだという。

小会はこのような罪を裁き、村の風紀を管理するほか、父親を特定し、父親が生まれた子供に対し金銭的な援助をするよう求める役割も担っていた。

しかしここでは小会が父親であるウィリアム・ファーガソンを見つけ出したという記録は残っていなかった。イザベラは子供の父親から援助を受けることなく、シングルマザーとして、ジョージを育てたようである。

2度の小会への「訴え」

記録をたどるとさらに数年後、イザベラが自主的に小会に出頭した記録も見つかった。

彼女はさらに時計技師である別の男性との子供を身ごもっていた。しかし彼女と時計技師との間には結婚の約束があったという。

しかしこの男性が結婚の約束を反古にしてしまったため、不貞罪には当たらないことを訴えるものであった。

関係があったのは一度だけであること、結婚の約束があったからそれを許したこと、また結婚の意思があることを彼が彼女の家族にも伝えたこと、しかしその約束を紙に書き記したものはないことなど、非常に詳細な情報が残されていた。

2人目の子供の出生証明書にはイザベラの署名が残されていたが、それは「X」の印がついているだけだった。彼女は文盲だったのである。

またさらに数年後、イザベラはまた小会に訴えを起こしている。

3度目となる小会への出頭は、子供達への教育のための資金援助を求めるためであった。

文盲であった彼女は、子供達には同じ思いをさせたくなかったのである。教会により、この願いは聞き入れられ、子供達への学費が支給されることとなった。

イザベラのその後

イザベラの生まれた家を訪れるアニー。丘の上にある貧しい農家は、厳しい環境でありながらも、とても美しいところだった。

イザベラはここで鶏を育てながら暮らし、子供達が家を出てからも一人暮らしを続け、1913年に83歳で亡くなった。

教育のための資金援助を求めた以外は、貧しいながらも生活費の援助を求めることはなかったという。

貧しい村であったため、多くの人々が都市に職を求めて出て行ったが、彼女は村に残り、ギリギリでなんとか生活しつつ、天寿を全うしたようである。

長生きしたため、おそらくアニーが大好きだった祖父も、イザベラに会いにここを訪れたかもしれない。

女手ひとつで子供2人を育て、晩年は丘の上で1人暮らし。とても強い女性だった。

プロローグ

今回取り上げた2人の女性、ジェシーとイザベラ。2人に共通するのは、「貧困との戦い」だとアニーは語る。都市部での貧困、農村での貧困、一体どちらがましだったかとも考えるが、貧困という苦難にどちらがましという答えはなかっただろう。

ビクトリア時代スコットランドとその苦難について、より現実的に感じることができた。また先祖がこうやって困難のなか生き抜いてくれたことで、今の自分があることを非常に感謝している。

ひとこと

イギリス版で良く紹介されるのが、ビクトリア時代。特にこの時代、貧困に苦しんだ先祖の話は実は良く出てきます。場所はロンドンだったり、アイルランドだったり・・そして今回は舞台はスコットランドでした。

やはり印象に残るのは、今のように政府が何か支援してくれるということが無い時代だったので、一度貧困に陥ると非常に生活は困難で悲惨なものであったということ。

オリバーツイストなどのディッケンズの世界を地で行く話は山ほどあったのでしょう。高祖母ジェシーが大叔母に引き取られるも、メイドとして働かされ、挙句の果てには送り返されるなど、まるでキャンディキャンディか小公女か何かのようです。

そういえばロンドンオリンピックの開会式で、病院や社会保障ができたことを表現するパフォーマンスがありましたが、そういうものができた意義はやはり大きかったのだろうな・・と思いました。

それにしても、スコットランドのお城の風景や、イザベラの生家の風景など、スコットランドの自然、過酷ではあったといえ、その美しさはなんとも言えませんでした。

アニー・レノックスそしてユーリズミックスといえば、こちらの歌もどうぞ。


Eurythmics - Sweet Dreams (Are Made Of This) (Official Video)

<イギリス版、2012年>

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【女優:キム・キャトラル】SATCキャストのルーツ:70年前突然消えた祖父

プロローグ

テレビドラマ「セックス・アンド・ザ・シティー」のサマンサ・ジョーンズ役で有名な女優キム・キャトラル

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By George Pimental - Flickr: 'Meet Monica Velour' 1, Canadian Film Centre, CC BY 2.0, Link

多くの人が彼女を奔放なニューヨーカー、サマンサ役に重ねるが、ルーツはイギリス。リバプールで生まれ、リバプールが故郷だという。

キムが知りたいのは、母方の祖父、ジョージ・バー(Baugh)について。祖父は約70年前、キムの母が8歳の時に蒸発し、その後の消息は不明である。

突然消えた祖父

母と叔母達を尋ねるキム。

家族に残された祖父の唯一の写真は、75年前、親戚の結婚式で撮られた集合写真。

しかし皆が集合している写真の中に祖父の姿はない。彼は集合写真には参加せず、その後ろの建物の窓の中から、カーテンの影に隠れ、顔を少しだけ出した状態で写っているだけだった(下の写真、カーテンが少しめくれているところに顔がある)。

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これほど顔を隠したがっているのはなぜだろうか。

自分の父親が蒸発した日のことを覚えている母。当時8歳だった母は、朝早く、窓をノックする音がするので開けると外に父が立っており、鉛筆や塗り絵などを見せて、自分と一緒に来ないかと聞かれたのだという。でも行かないと答えると、父はそのまま行ってしまった。

話しながら涙する母と叔母達。

大恐慌の影響が色濃く残る時代、残された家族は生活のすべがなく、家財道具を売り払い、貧しい生活を強いられることとなった。

家具も無く、暖を取る火、食べるものさえ手に入らないこともあり、ゴキブリやネズミがいるような過酷な生活環境であったという。

しかし親戚やキムの母親にとって祖母にあたる人も近所に住んでいたにもかかわらず、援助の手は一切差し伸べられなかったという。

祖父の妹一家を探す

キムの母が、祖母(キムの曽祖母)のことが載っている地元の新聞の切り抜きを持っていた。

それは、祖母が自分の娘のために作ったウェディングドレスを、今度は孫が着て結婚式を挙げたことを紹介するものだった。

「バー家の子供達には私が作ったウェディングドレスを」と記事では語られているが、同じ孫であるはずのキムの母や叔母達は、まるでバー家の一員としてはみなされず、完全に無視されてきた形であった。

新聞記事で紹介されていた「娘」エドナ・バーは、キムの祖父の妹にあたる。そして母から受け継いだウェディングドレスを着た「孫」の名前はレスリーラドクリフ

70年たった今も、母や叔母達の心の傷が深いことに驚くキム。そして小さな娘3人を、金銭的な援助もないまま残して消えた祖父に怒りを覚える。

キムはまず母のいとこにあたる、レスリーラドクリフを探すことにする。

大叔母達との再会

当時の新聞記事を頼りに、レスリーラドクリフの家を尋ねるキム。ドアをノックしたが留守であった。

しかし隣人がレスリーの母、キムにとっては大叔母にあたるエドナが健在なこと、またキムの祖父には妹が2人いること、そして彼女達の連絡先を教えてくれた。

連絡先を訪ねると、祖父が蒸発した時はまだ子供だったという大叔母2人がキムを迎えてくれる。

兄ジョージは一箇所にじっとしていられない人で、時に警察が彼を連れ帰ってくることもあったという。

また結婚生活が幸せではないという話をしていたことを覚えていた。彼の母親は責任を持って家庭に戻るよう説得したが、結局蒸発してしまったのだという。

これは当時大きなスキャンダルであり、以降彼のことは一家の恥として、あまり触れられることはなかった。

大叔母達も、祖父の写真は一枚も持っていなかった。蒸発後、彼から連絡が来ることも一切なかったという。彼女達も、自分達の兄がどうなったのか知りたいと心から思っていた。

新しい家庭を築いていた祖父

リバプール滞在中のキムに書類が届けられる。

それは当時30歳の祖父が、21歳のイザベラ・オリバーと結婚したことを示す結婚証明書であった。

結婚したのは、まさに蒸発した翌年の1939年。しかも蒸発した際、離婚したわけではないため、重婚したことになる。

サノバビッチ・・とつぶやくキム。

祖父は自分の名前を変えるでもなく、リバプールから3時間ほど北にあるダーハムという街の近くの小さな村に、新しい妻と住んでいた。

住民簿を見ると、妻の親戚達に囲まれて暮らしていたようである。

また3人の子供にも恵まれていた。キムより後に生まれた子供さえいた。

子供の誕生記録を見る限りでは、少なくとも1959年まではこの村に住んでいたようだ。

祖父が住んでいた村に向かうキム。そこで地元のパブに立ち寄り、このあたりでバーという苗字を聞いたことがないか尋ねる。

心当たりは見つからなかったが、そこにあった電話帳に、妻の親戚と思われるオリバー家の電話番号があった。

電話してみると、電話に出たのは、イザベラの弟の妻・・つまりジョージにとっては義理の妹にあたる女性であった。

明らかになる祖父のその後

祖父の義理の妹に会いに行くキム。

当時彼らは隣同士で暮らしていたといい、ジョージとイザベラはとても良い夫婦だったという。

2人はマンチェスターで出会い、実は子供は4人いるという。最初の子供はマンチェスターで生まれたため、村での出生記録に残っていなかった。

2人の結婚式の写真もあったが、なぜか自分の結婚の写真であるにもかかわらず、祖父の姿が切り取られていた。写真を撮られるのが嫌いであったようだ。

過去のことは全く話さない人だったため、イザベラも彼が過去に結婚し、子供がいた事は知らなかったようだ。彼らにとってもジョージが過去に幼い娘3人を捨てて家を出たという事実は非常に驚きであった。

その後ジョージは海軍に入隊した。海軍の制服を着て家族で写っている写真を見るキム。初めて見る祖父の顔だった。「海軍に入ったのね。でも彼は英雄では全く無いわね」

次に見せられたのは、家族でビーチでくつろぎ微笑む写真。過去を背負って少しでも影のある表情をしていたならば少しは許せたかもしれないが、過去は完全に捨てて、振り返りもしなかったのではという満ち足りた表情に悲しみを覚えるキム。

自分の祖父についてはネガティブなイメージしかない一方で、話を聞くと、楽しくて良いおじさんだった、という事実にも複雑な気持ちになる。

そして最後に出てきたのは、船の甲板で撮られた家族写真。それは彼らがオーストラリアに移住した時に撮られたものだという。

突然の移民

ジョージ一家は1961年、突然オーストラリアに移住していったのだという。

家族を伴ってはいたが、いきなりの決断に、妻の家族はこれでもう二度と会うことはできないと悲しんだという。ここでも身勝手なことをした、彼らしい、と考えるキム。

その後ジョージ・バーは1974年にオーストラリアで亡くなったという。またイザベラも1990年に死去している。

祖父ジョージ・バーは思った通りの人物であった、これからオーストラリアまで行って調査を進め、さらに彼がどれだけ身勝手だったかをこれ以上知る価値があるのだろうか、と考えるキム。

ここで調査はやめ、今まで分かったことを母と叔母達に伝えることにした。

明かされる真実

母、叔母達にジョージ・バーのその後の足取りを伝えるキム。

家族を捨てた父に怒りを感じる母、叔母達は、時を待たずに名前さえ変えずに結婚した父に驚き、自分の結婚式の写真を切り取ったことにも、重婚という犯罪を犯したのだからこうしたのだろう、彼ならやりかねない、と呆れる。

しかし父の写真を見て、父が消えた当時1歳だった叔母が号泣。全てがトゥーマッチだと皆堰を切ったように涙を流す。

海軍の制服を着て写っている祖父であったが、実際に戦闘に参加することはなく、ドックに勤務していたという。「やっぱりね」と答える母。

自分たちを捨てた罪の意識は少しでもなかったのか、と問う母や叔母達には、ビーチで微笑む家族写真は酷なものであった。

何も心配せず、幸せに微笑む家族の写真。彼の中で、自分達の存在は完全に消されていたのだ、と考える。

しかしこうやって事実を知ったことで、これからは父がなぜ消えたか、何があったのかを意識的に考える必要がなくなったので安心した、でも今の私達を見て、自分がしたことを後悔してほしい、と答える母。

エピローグ

この旅は母や叔母達のためにしたものであったが、非常に辛いものだった。でも同時に、ジョージ・バーがしてきたことを明かした瞬間、自分の母や叔母達がどんなに強い女性であるかを目のあたりにすることができ、自分に今ある家族がどんなに素晴らしいかを知ることができたことが、何よりのギフトであった。

その後キムの母、叔母達はオーストラリアにいるきょうだい達と連絡をとりあうようになったという。

ひとこと

セックス・アンド・ザ・シティつながりで、キム・キャトラルの回も紹介しました。もともとイギリス版で放送されたものですが、後にアメリカ版でも放送されました。

この番組、当時の歴史や社会を知ることもできる点が面白いところでもありますが、この回は蒸発した祖父個人に焦点を置き、とにかく人探しをするという、とてもパーソナルで、そしてとても感情にも訴える回でした。

少ない情報をもとに、親戚などを見つけじわじわと核心に迫っていく・・というのも、ある意味ちょっとサスペンスではありましたが、父に捨てられたキムのお母さん、おばさん達の真実を知った時の反応がなんともいえませんでした。

特にキムのお母さんは長女で、父親がいなくなった時の記憶もあるからか、真実を告げられた時、叔母達が涙を流しているのに対して、かなり背筋をしゃんとして毅然としていたのも印象的でした。

また突然のキムの訪問に対応してくれた、祖父の二度目の家族の人達・・。彼らにとっては良い人だったのに、急に彼の隠された過去が明らかになり、さらにキムが昔の写真を見ながら彼は身勝手な人だなどとネガティブなことを色々というので、「本当にそうですね・・」と相槌はうっていましたが、かなり戸惑っているのではと思いました。

そういった点でもこのおじいさんは色んな人に迷惑をかけまくっていますね。親戚の結婚写真に、窓の中のカーテンの影からまるで亡霊のようにしか顔が写っていないのも異様でした。

そしてキム・キャトラル、やはりサマンサの役のイメージがつよすぎますが、もともとイギリスの人だったのですね。母や叔母達と、お茶はいかが?などといかにもイギリス人的な会話をしているのが、すごく不思議な感じがしました。

<イギリス版、アメリカ版、2009年>

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【女優:サラ・ジェシカ・パーカー】SATCキャストのルーツ:先祖は魔女?!

プロローグ

日本でも「セックス・アンド・ザ・シティー」で有名な女優サラ・ジェシカ・パーカー

Sarah Jessica Parker 2 Shankbone 2009 Tribeca.jpg
By David Shankbone - David Shankbone, CC BY 3.0, Link

7人兄弟という大家族で育った彼女、父親のルーツは東欧から来たユダヤ人であるが、母親のルーツについてはあまり知らないという。

まさかメイフラワーに乗ってアメリカに来たような先祖はいないとは思うが、母のためにも、母のルーツについて知りたいと語る。

ホッジという苗字

サラ・ジェシカの母はオハイオ州シンシナティのドイツ人コミュニティで生まれ育った。

母方の祖父はバイエルン地方からやって来たドイツ系アメリカ人。

母方の祖母の旧姓もドイツ系。

しかし祖母の母、つまり曽祖母の旧姓は「ホッジ(Hodge)」。イギリス系の響きを持つ苗字だった。

先祖は皆ドイツ系だと思っていたところに、意外な苗字が出てきたことにワクワクするサラ・ジェシカ。

シンシナティの図書館を訪れると、そこでこの「ホッジ」という苗字が、アメリカの中でもニューイングランド地方で16~17世紀から見られる古い苗字であることを知らされる。

高祖父の名前はエルバ・ホッジ。彼の死亡証明書から、さらにエルバの両親の名前がわかった。

その情報を元に1860年の国勢調査を調べると、当時10代であったエルバの父が、未亡人である母親と暮らしている記録が見つかった。彼の父親に果たして何があったのか。

ゴールドラッシュ、西へ向かった先祖

高祖父エルバの父の死亡広告記事が見つかる(アメリカでは個人が亡くなると、地元の新聞に生い立ちを記した広告を出すことが今でも多い)。

そこには、彼の父親ジョン・ホッジは1849年、ゴールドラッシュのカリフォルニアに向かう際に亡くなったと書かれていた。

カリフォルニアで金が見つかったのが1848年。以降世界中から何万人という人々が一攫千金を夢見てカリフォルニアに集まった、まさにゴールドラッシュの初期である。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d0/Mining_claim_No_8_above_Bonanza_Creek_showing_Grand_Forks%2C_mouth_of_Eldorado%2C_Gold_Hill%2C_and_Big_Skookum%2C_Yukon_Territory%2C_ca_%28HEGG_473%29.jpeg

さらに1850年カリフォルニア州国勢調査に、ジョン・ホッジが鉱夫として登録されているのが見つかる。なぜか死亡広告に書かれていた父の死亡年と1年ずれていた。

ジョン・ホッジの名前が入った契約書も見つかる。それは当時、5人のメンバーと200ドルずつ出資し、オハイオからカリフォルニアにともに向かうことを約束したものであった。

当時カリフォルニアに向かうには、シエラネバダ山脈を超えなくてはならず、10マイル進むたびに一人が死ぬと言われるほど、非常に厳しい道のりであったという。

彼がオハイオからカリフォルニアに向かった際、妻は妊娠2ヶ月だった。妻が身ごもっているのを知らずに、西へ向かったのかもしれない。

エルドラドへ

ジョン・ホッジが国勢調査に登録されていた、カリフォルニア州エルドラドに向かうサラ・ジェシカ。

オレゴンからエルドラドに通じる道の両脇は、当時人々が金を求めて掘り返した状態のままとなっており、時間が止まっているようで圧巻である。

http://cdn.history.com/sites/2/2016/08/GettyImages-57026461.jpg

当時この土地には何万人もの人々が集まり、テントで生活しながら金を掘り続けていたという。

ここで、ジョン・ホッジとともにカリフォルニアからやってきた仲間の日記のコピーが手渡される。

そこには1850年、ジョン・ホッジともう一人の仲間が病に倒れ、6週間後に亡くなったこと、その旨を知らせるため故郷に手紙を書き送ったことが記されていた。

読みながら涙ぐむサラ・ジェシカ。

ジョン・ホッジが亡くなった時、息子はまだ2ヶ月。息子の存在もおそらく知らずに亡くなったのであろう。また、ジョン・ホッジが亡くなったニュースが届くにもかなり時間がかかったと思われる。

一攫千金はならず、悲劇に終わってしまったカリフォルニア行きであったが、自分の先祖が、ゴールドラッシュというアメリカの大きな歴史的出来事の一部であったことに感慨を覚えるサラ・ジェシカ。

ボストンへ

ホッジという苗字の謎を探るために、次はボストンへ。果たして彼女の先祖となるホッジ家は、植民地時代から続く古い家系なのだろうか。

ここで、ゴールドラッシュの最中亡くなったジョン・ホッジに関する書類から、両親の名前が判明する。彼の父親独立戦争前後に生まれており、つまりは「アメリカ人」第一世代であった。

そして母親の名前はアビゲイル・エルウェル(Elwell)。このエルウェルという苗字もニューイングランドにルーツを持つ非常に古いもので、さらにそこから4世代前まで遡ることができた。

アビゲイルから4代前、最初の「エルウェル」として確認できたのはサミュエル・エルウェルで、メイフラワー号がアメリカに到着した15年後の1635年生まれ。

ここで、1620年から1635年の間に、イギリスからアメリカ大陸に渡ってきた人達の名簿を調べてみると(そんなものが残っているのが驚き!)、そこにサミュエルの父、ロバート・エルウェルの名前が確認できた。イギリスのどこからやってきたかはわからなかったが、このロバート・エルウェルがアメリカにおけるエルウェル家の元祖である、と言える。

また記録から、ロバート・エルウェルがセイラムの教会に入会した記録を見つけ、驚くサラ・ジェシカ。

セイラムといえば、魔女裁判で有名なところである。

魔女裁判が起きたのは1692年だが、ロバートはそれ以前に亡くなっていたことがわかった。しかしその息子サミュエルと妻エスターは、まさしく魔女裁判真っ只中のセーラムにいたことになる。

集団ヒステリーの中、理不尽な理由から多くの無実の人達が魔女のレッテルを貼られ、処刑されたセイラムの魔女裁判。当時この地域に住む人々の中で、なんらかの形でこの魔女裁判に関わらなかった者はいなかったという。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7e/Witchcraft_at_Salem_Village.jpg

サミュエルとエスターは、魔女裁判に一体どのように関わったのだろうか。

1692年の法廷記録を探すと、エスターの名前がヒットした。

他人を魔女として告発したのではなく、魔女として裁かれていた方がまだ人間として良いが・・と不安でいっぱいになるサラ・ジェシカ。

魔女の告発

法廷記録を調べてみると、サラ・ジェシカの先祖、エスター・エルウェルは、別の2人の女性とともに、魔術を使った疑いで逮捕状が出されていた。

近所の女性に魔術を使い、身体に甚大な被害をもたらした、というものである。

信じられない、クレイジーだとショックを受けるサラ・ジェシカ。

300年前のオリジナルの書類が残されていた。そこには、近所の17歳の娘が、エスターと他の女性2人が、被害者の女性の首を締めているのを見た、という目撃証言が記されていた。

被害者の女性は、その晩亡くなったという。

周囲の人々に魔女だと指差されて、一体どんな気持ちだんだろうか、考えるだけで頭がグラグラする、とかなりショックを受け少し感情的になるサラ・ジェシカ。

セイラムへ

実際にエスターは魔女として処刑されてしまったのだろうか、その後を調べるためセイラムへ向かう。

魔女裁判に詳しい専門家によると、当時、何かミステリアスで説明のつかないことが起こると、全て魔術のせいにされていたのだという。

エスターのこの事件は、近所の女性が原因不明の急病で亡くなったため、その説明をつけるために、目撃証言をした17歳の少女が呼ばれたのだという。

そしてこの目撃証言は、本人が実際にそれを見たのではなく、なんとその少女による「霊視」、つまりはエスターをはじめとする3人が、亡くなった女性の首を締める「幻影が見える」と証言したものであった。

当時、魔女が呪いをかけるところが見えると主張する若い女性がおり、魔女裁判の時にはこのような証言が有効なものとして取り上げられていた。そして魔女裁判にかけられたものは、ほぼ全員が罪に問われたという。

しかしエスターは非常にラッキーであった。彼女に対する疑いがかけられたのは1692年の11月。しかしその前月10月に、魔女裁判を行っていた法廷の解散命令が出たため、彼女に対する裁判は実際には行われなかった。いわば、彼女は魔女の疑いをかけられた一番最後の人物の1人であった、とも言える。

結局エスターはその後、82歳まで生きることができた。

絶妙なタイミングで難を逃れることができたエスターだが、もしこの裁判が続いていたなら先祖は一体どうなっていたのか。

エスターのように生き残ることができなかった人達を思い、無実の罪で処刑された人達の墓参りをするサラ・ジェシカ。

エピローグ

魔女裁判に先祖が巻き込まれた歴史を知り、あの時代に対する見方が大きく変わった、と語るサラ・ジェシカ。

また自分が誰であるかという今までの認識も、全て大きくひっくり返る経験であった。

アメリカという国に対する強い思いはあるが、自分がこの国の過去、歴史とそれほど深いつながりがあると思っていなかった。自分がここまでアメリカ人だ、と今まで感じたことがなかった。でも本当にここにルーツがある、自分は本当のアメリカ人なのだと、今は思える。

ひとこと

この番組のアメリカ版は2010年にNBCで始まりました。彼女の回が第一回でした。しばらくしてこの番組は別のチャンネルに移ってしまったんですが、イギリス版と比べてもかなり「フィールグッド」的な作りになってるなという印象でした。最後に何かバラード入れてみたり。

それにしても魔女狩り怖い!!なんとなくセイラムの魔女裁判のことは知っていましたが、実際の目撃証言ではなくて、霊視を証言として取り上げるとは、そっちの方が魔女みたいです。

集団ヒステリーって本当に恐ろしいですね。でも今の時代だって、似たようなことが起こらないとは限らないですよね。いや、実はもう起きているのかもしれません。そういえばトランプ大統領が、自分とロシアの関係をみんなが疑うのは壮大な魔女狩りだ、みたいなことは言ってますね(苦笑)

サラ・ジェシカ・パーカーはお父さんがユダヤ系(東欧からということなので、おそらくユダヤ人迫害を逃れてやってきたのでしょうか)、お母さんがドイツ系ということで、自分がそこまで生粋のアメリカ人である、という意識が今までなかったようです。

こちらから見たら十分アメリカ人、と思いますが、蓋を開けてみるとアメリカって意外と歴史が長い。まだまだ自分たちは新参者だという意識があったりするんでしょうか。そこはちょっと意外でした。<アメリカ版、2010年、S1E1>

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【俳優:ジョン・ステイモス】フルハウス、ジェシーおいたんのルーツ・ギリシャで起きた殺人事件

プロローグ

ジョン・ステイモスは、テレビドラマ「フルハウス」で日本でも有名なアメリカの俳優。

John Stamos at PaleyFest 2013.jpg
By iDominick - http://www.flickr.com/photos/82924988@N05/15645095078/, CC BY-SA 2.0, Link

ステイモス家は、祖父の代にギリシャから移民してきた。両親とも既に亡くなっているが、父親は家族のことをとても大事にしていたという。

家族はギリシャ料理のレストランを経営していた。彼も13歳からレストランの仕事を手伝い、俳優の仕事をはじめた後も、しばらく手伝い続けたという。

祖父ジョン・ビル・ステイモスは、エリス島を経由してロサンゼルスに移住した。もの静かだった祖父は自分のことをあまり語ることはなかった。

ギリシャ人としての誇りを強く持っているものの、実はギリシャでのルーツはよくわからない。両親とギリシャに行ったことはあるが、祖父の出身地である村を訪れることもなかったという。

ギリシャに親戚はいるのか。ギリシャを訪れルーツを探る。

孤児となった祖父

アテネに向かうジョン。

ステイモス家の本来の苗字は「スタマトポロス」。アメリカに移住した後、発音しやすい「ステイモス」に変えた。

祖父の情報を元に調べたところ、祖父の両親の名前がわかり、ペロポネス半島の都市、トリポリの近郊にあるカクーリという人口1500人の村に住民登録情報が見つかる。

曾祖父母には3人の息子がいた。そのうちの一人が「ヤニス」つまりギリシャ語読みの「ジョン」、彼の祖父であった。

さらに祖父の学籍簿が見つかるが、当時13歳の彼の欄には「孤児」と書かれていた。

祖父の表情に寂しそうな影があったことを思い出すジョン。非常に家族を大事にする祖父であったが、自分が孤児だったからかもしれない、と考える。

曾祖父母の死の謎

彼らの出身地、カクーリ村を管轄する区の建物に向かうジョン。

ここでは、1916年に未亡人として曽祖母が土地を売った記録が残っていた。学籍簿には孤児と書いてあったが、どうやら母親は生きていたようだ。

父権が強いギリシャでは、当時父親がいなければ孤児と見なされていたという。学籍簿の記載もそのためであった。

売った土地は半エーカーで、売却額は875ドラクマ。当時の月収の3ヶ月分と、非常に安いものであった。

この土地は、曾祖父母が結婚する時に、曽祖父から贈られたものであり、当時女性にとっては唯一の財産であったという。それほど大事な土地を売り払わなければいけなかったのはなぜか。

次に見せられたのは小さな新聞記事。それは土地を売る11年前の1905年のもので、曽祖父がピストルで撃たれ殺されたというものであった。

曽祖父を撃った犯人は

新聞記事には、曽祖父がヤニス・コリオポロスという男に殺されたとあった。また彼はなぜかわからないが、「ユダ」というニックネームがついていたという。どうやら二人は知り合いだったようで、なんらかの裏切りがあったようだ。

殺された当時曽祖父は38歳、曽祖母は20代後半。祖父に至ってはまだ1歳で、父を全く知らずに育ったのであった。

実はこの地域では、スタマトポロス家はよく知られている一家だという。一方曽祖父を殺したコリオポロス家は、数世代に渡り、法に反することをしてきたと評判のある一家だった。

名誉を大事にするギリシャ人。何かいざこざがあったのだろうか。そして曽祖母が大事な土地を売るまでの11年間、何があったのか。

10年かかった裁判と曽祖母の強い意志

現地の裁判記録を探してみると、1915年の裁判記録が出てきた。実際に事件が起こったのは1905年。実に10年後に行われた裁判である。一体何があったのか。

裁判記録から、事件後犯人であるヤニス・コリオポロスが逃亡したことが明らかになった。このため、犯人逮捕の上での裁判ができなかったのだ。

しかしその間も、曽祖母は何度も警察に足を運び、事件を捜査するよう依頼を続け、10年後に犯人不在のまま裁判が行われたのであった。

判決は懲役15年と裁判費用の負担。しかし犯人が不在のままだったため、結局裁判費用は曽祖母が支払うこととなった。

土地の売却が行われたのは裁判の3ヶ月後。裁判費用を賄うためだったと考えられる。

曽祖母は夫の名誉を守るため、犯人を有罪にするまで戦った強い女性であった。

事件の真相

裁判記録には、口論の末、頭に血がのぼった犯人により、曽祖父は銃殺されたとあるが、目撃者の供述がないため、詳しいことはわからなかった。

このため、実際にカクーリ村に向かい、話を聞いてみることにする。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d9/Lykaion_looking_East.jpg

山の中の小さな村のある家を訪ねると、そこで出迎えてくれた年配の女性は父のいとこであった。またこの家で祖父も生まれ育ったのだという。

さらにこの村の人口の名前の半分が、スタマトポロスだという。

殺人は誤解から起きたことが明らかになる。

ヤニス・コリオポロスの兄弟が犯罪を犯し、それを追っていた警察が曽祖父のもとを訪れ居場所を尋ねた。曽祖父は知らないと答えたが、その直後に警察はヤニスの兄弟を見つけ射殺した。ジョンの曽祖父が警察に告げ口をしたのではと訝るコリオポロス家との間に緊張が生まれてしまった。

曽祖父はそんな緊張を解くため、その当時生まれたジョンの祖父が洗礼を受ける際、ヤニスにゴッドファーザーになることを依頼。また祖父をヤニスと名付けた。

祖父が1歳になった頃、ヤニス・コリオポロスが市場で他の男と喧嘩をしているところに曽祖父が出くわした。曽祖父はヤニスを喧嘩から引き離そうとしたが、頭に血が上っていたヤニスは、勢い余って曽祖父の頭部をピストルで撃ってしまった。曽祖母も祖父を連れて市場に向かっており、それを目撃してしまう。曽祖父はその場で亡くなった。

夫を失った曽祖母は、神父のもとを尋ね、夫を殺した犯人と同じ名前を持つ息子を、洗礼しなおせないか談判したという。それは叶わなかった。またジョン自身も、曽祖父を殺した犯人と自分が同じ名前であることに複雑な気持ちになる(ヤニス=ジョン)。

曽祖母はとても強い人だった。それは家族への愛情から来る強さであったといとこはジョンに語った。

エピローグ

祖父はのちに、この村の教会に時計を贈っている。

いとこと共にスタマトポロス家の墓参りをするジョン。その間に、教会の時計台から鐘が鳴り始め、祖父の存在を意識する。

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また祖父が生まれ育った家は、スタマトポロス家全員のものだから、と家の鍵を手渡されるジョン。またこの村に戻ってこなければと思う。

なぜ祖父がアメリカに渡り成功できたか、曽祖母が3人の息子を育てられたか。それは家族の愛情からくる強さと勇気から来るものだった。「スタマトポロス」という苗字をジョンは何度もつぶやいた。

ひとこと

日本人である自分にとっては、最初「白人」で全部くくっていたアメリカ人も、当たり前ですが実は色々な背景を持つことに気付かされます。

ギリシャ系の移民は、ヨーロッパからアメリカに渡ってきた移民としては比較的新しく、ギリシャ人のルーツに非常に誇りを持っているというイメージがあります。映画「My Big Fat Greek Wedding」をご覧になった人もいるでしょうか。結婚相手はギリシャ系じゃなければダメ!なんていう話も実際にあったりなかったり。そういえばこの映画の続編に、ジョン・ステイモスも少しですが出演しています。

ギリシャそのものも、貧困に苦しんだ歴史あり、今も経済危機などで大変な国ではあります。一度訪れたことがありますが、歴史がありビーチの美しい国。なんとか頑張って立て直して欲しいものです。

移民した後で自分の長い苗字を、アメリカ人が発音しやすいように短く変える、というのは移民あるあるですね。他にも東欧系の名前やユダヤ系の名前など、中には係官が名前を聞いてよくわからないので適当にスペルしたものが、アメリカでの苗字になったり・・。ヤニスがジョンになったりと、読み方も変えて、アメリカ社会に溶け込んでいったこともわかります。

過去の殺人事件の真相や、ひいおばあさんが土地を売って裁判費用に当てた話など、無機質な記録一つで色々なドラマやその裏に隠された意思がわかるところも、家族の歴史を調べる上での醍醐味と言ったところでしょうか。

<アメリカ版、2017年>

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