世界のセレブ・ファミリーヒストリー

世界のセレブ・ファミリーヒストリー

英・米・豪・加で放送されている「ファミリーヒストリー」的番組 Who Do You Think You Areの興味深いエピソードを紹介します。セレブの家族史を通じて、世界の知らなかった出来事が見えてくる。今の世界を知る上でも、個人を知る上でも、色々興味深いこと満載です。

【女優:リタ・ウィルソン】ムスリムだった父が語らなかった過去

プロローグ

トム・ハンクス夫人としても知られる女優、リタ・ウィルソンはギリシャ系アメリカ人。「めぐり逢えたら」をはじめ数多くの映画、テレビドラマに出演している。またギリシャ系移民の恋愛と結婚のドタバタを描いた大ヒット映画「マイ・ビッグ・ファット・グリーク・ウェディング」のプロデューサーも務めた。

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By Angela George, CC BY-SA 3.0, Link

ギリシャ人の母親については、生い立ちなど話をよく聞いていたが、父の過去については何も知らないという。

2年前(2010年)に亡くなった父はギリシャ生まれだが、子供の頃ブルガリアに移住したと聞いている。アメリカには20代の時に来た。アメリカに来る以前、ブルガリアで強制労働をさせられ、そこから脱走したという話を聞いたことがあるが、詳細は不明。精神的、肉体的にも辛い思い出を語りたくなかったのか、アメリカに来る前のことは誰も知らないのだという。

先祖のことというと、祖父母以前のことを調べることが多いと思うが、これはもっと直近の、自分に直接関わる部分。何でも良いからわかれば嬉しい。

ギリシャにあるムスリムの村

父の名前は、ハッサン・ハリル・イブラヒモフ。1960年にアメリカ市民権を得た時、名前を「アラン・ウィルソン」といういかにもアメリカ人らしい名前に変えた。

もともと父はムスリムだった。1920年ギリシャ北部で生まれたハッサン。この地域は長年オスマントルコ帝国の支配下にあり、そのような歴史の中では、キリスト教からムスリムに改宗するものも多かった。ギリシャにもまだ少数のムスリムが残っているらしい。

両親の結婚証明書に書かれた父の出生地は、ギリシャのオライオンという場所だった。

現在はオライオと呼ばれている村に向かうリタ。

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oraio by dubnsnow from Panoramio

ギリシャの村ではあるが、モスクがあり、祈りの声が聞こえる。

案内された家は、父が生まれた家だった。「ただいま・・・」と言いながら家に入るリタ。天井にはタバコの葉が干してあり、今は倉庫として使われているようだ。父の子供の頃の話など聞いたことがないリタは、ここで父がどんな子供時代を過ごしたのだろうと考え、感動でいっぱいになる。

父親のいとこたちが迎えてくれた。父の子供の頃の写真は残っていなかったが、祖父の写真を初めて見せてもらう。祖父はひょうきんな人物だったらしい。

しかし、通訳を介して祖父や父がいつブルガリアに行ったのかを尋ねても、話がはっきりしない。唯一わかったのは、ブルガリアのスモリアンという街に移ったということのみだった。

軍事裁判と懲役刑

とりあえずスモリアンに向かうリタ。

住民登録台帳に、ハッサンの父親と、5人のきょうだいの名前が見つかった。台帳が作られた年代から、1927年〜34年、ハッサンが7〜14歳の間のいつかにブルガリアにやってきたと考えられる。

1941年の軍の記録にハッサンの名前があった。クサンティ歩兵大隊に所属とある。ハッサンが20歳の時であった。

クサンティと呼ばれる地域は、ハッサンが生まれた当時はギリシャ領で、彼の出身地オライオもこのエリアにあった。しかしその後、ナチスの協力のもとブルガリアが侵略、ブルガリア領となる。

ハッサンはギリシャ人として生まれたが、この時点ではブルガリア人となり、ブルガリア軍に徴兵されて自分の生まれ故郷の占領任務に当たっていたことになる。

父が軍にいたことを初めて知ったリタ。

1年後、ハッサンは軍事裁判にかけられていた。罪状は、28本の瓶と、5レヴを盗んだことで、懲役3年8ヶ月、独房行きの判決だった。5レヴは現在の通貨にしても小銭ほどの金額。しかし軍は、規律と見せしめのため、厳しい刑罰を科したのであった。

現在はブルガリアにあるプロヴィディフという街の刑務所に収容されたハッサン。刑務所で労働に従事したことで刑期は短縮され、2年後には釈放された。

強制労働をさせられていた、という話を聞いたことはあったが、これは全くの刑務所。強制労働の話は、この刑務所の経験のことを言っていたのだろうか。父の優しく、楽しいことが大好きだった性格を考えると、過去のことを話したがらなかったのもわかる、と涙ながらに語るリタ。

つかの間の幸せと悲劇

釈放後、ハッサンはスモリアンに戻っていた。しかし1945年、刑務所のあったプロヴィディフへの移住許可を求めている。スモリアンは国境地帯で軍の管轄にあったため、この地域から移動するには許可が必要だったらしい。

プロヴィディフで、当時の国勢調査を見るリタ。1945年の台帳に父ハッサン・イブラヒモフと並び、アリス・ハッサン・イブラヒモヴァという女性の名前があった。

父はブルガリアで一度結婚していた。

婚姻証明書も見つかる。結婚したのは、1945年10月26日。奇しくも10月26日はリタの誕生日だった。

さらに二人の間には子供も生まれていた。結婚2ヶ月後の1945年12月26日、エミルという男の子が誕生。リタにとっては異母兄に当たる。プロヴィディフに移ってすぐ結婚したのは、アリスが身重だったからだろう。

しかし次に見せられたのは、アリスの死亡証明書だった。出産3日後に子癇(しかん)と呼ばれる痙攣症状により亡くなっていた。この症状は妊婦の頃より現れるもので、胎児も危険な状態になるという。

エミルも翌年、生後4ヶ月で亡くなっていた。死亡証明書を見て、涙が止まらなくなるリタ。

この時父ハッサンは24歳。この若さで、既にこんなに多くの辛い経験をしていたとは。つかの間の幸せをつかんだと思えば全て失ってしまった父。

エミルの誕生日は12月26日だが、実はリタの息子もその日に生まれている。そして自分の誕生日も10月26日。26はラッキーナンバーだと思っていたが、もしかしてエミルが自分のラッキースターとなって見守ってくれていたのでは・・と言葉を失うリタ。

この5年後、彼はどうにかしてアメリカに渡り、自分の母と結婚したわけだが、それまでの5年間に何があったのだろうか。

再びの逮捕、強制収容所

父が強制収容所にいたと言う話は本当なのだろうか。確認するため、ブルガリアの首都ソフィアに向かう。

機密ファイルが保管されている施設を訪れるリタ。

当時のブルガリアには、実際にソビエトのモデルに沿った収容所がいくつもあったと言う。

1944年、ソビエトブルガリアに侵攻。その後、ブルガリア共産党員たちがクーデターを起こし、社会主義国が設立されたが、これに反するものは逮捕され、収容所送りになった。この様な収容所は国内に100ほどあったという。

父の「機密ファイル」が見つかる。

  『ハッサン・ハリル・イブラヒモフはプロヴィディフでワイルドな生活を送っている。家に娼婦や軍人など様々な人物を招いてパーティーをしており、監視の必要あり』

当時のブルガリアは、近所の人々や当局がお互いを監視しあい、政府に反する行動を起こすものは密告されたり、逮捕されていた。

次に出てきたのは、警察での尋問記録。ハッサンはトルコ領事館員と知り合いになり、彼の手引きでトルコに逃げようとして、国境で捕まっていた。1946年10月、反逆者として捉えられたハッサンは、実際に強制収容所に送られたのであった。

収容所からの脱出

リタの父ハッサンはBogdanov Dolと言う場所にある収容所に送られていた。収容所の状態は劣悪で、最低限の食事しか与えられず、死ぬまで働かされたり、時に虐待死するものもあったと言う。

ハッサンのいた収容所では炭鉱での厳しい労働が待っていた。当時収容されていた人の記述によると、労働が終わり整列させられた時、少しでも逃げるそぶりがあれば、容赦なく銃殺された。逃げるそぶりがなくとも、監視員がそう思えば、銃殺対象になることさえあったと言う。

そんな状況の中、ハッサンはどのようにして脱走を図ったのか。

ハッサンの逃亡についての報告書が残っていた。

  『5月8日、夜10時から朝6時のシフトの間、10名を監視。11時半にワゴンを空にし、次の石炭が来るまで、全員が地面に座り休んでいた。1時半頃5名が石炭を取りに行ったが戻らず、5分後に捜索を開始。しかし逃亡者はワゴンの間の暗闇に隠れ見つけることができなかった。その後銃を5発打ち、他の監視員と捜索したが手がかりなし』

すごい!最高の報告書!と興奮するリタ。

収容所からの脱走は、そう頻繁に起こるものではなかったという。もう失うものはなかったハッサンは、命をかけて脱出を試み成功したのだった。

このことで、ハッサンはブルガリアの国家反逆者となった。脱走から26年後の1973年にまとめられた反逆者リストの中にも、反逆者第8011番として彼の名前が残っていた。

アメリカでの自由を愛した父。自分にとってはヒーローだと言うリタ。

感動の再会と父からの手紙

スモリアンに父の異母兄が見つかった。96歳になる叔父さんと涙の再会を果たすリタ。

話を聞くと、ハッサンだけでなく、兄も収容所に入っていたと言う。ハッサンは脱走したが、自分は妻子がいたため一緒に逃げることはできず、ハッサンの所在をめぐり尋問、拷問を受けたと言う。

ハッサンがアメリカから送ってきた手紙が残されていた。ハッサンの子供達にいつか渡そうと思ってとっておいたのだという。

ハッサンがアメリカに渡って8ヶ月後、1950年の手紙。涙ながらに読むリタ。

  『今ニューヨークにいます。アメリカではびっくりするくらい給料が高いです。夜は学校に通って英語を学んでいますが、もう言葉はかなり覚えました。これが終わったら別の学校に行って、ラジオとテレビ機器について勉強するつもり。ここでは学校は全部無料です。頭がよければ医者にだってなれるし、女の子だって手に入る。人生を謳歌できる場所です。アメリカに行く船の中では火夫として働いたけれど、乗っている船が沈没しかけました。その時、もしアメリカに無事についたら、ここで絶対のし上がってやる、と思ったのです。そして今、それを実現しようとしています』

  『近所にいたアルメニア人のおばさんのことを覚えている?あのおばさんは昔アメリカに行ったことがある、アメリカは地の底だ、なんて言っていたけれど、アメリカは地上の楽園だ、と伝えてください』

エピローグ

父は毎日のように God Bless Americaと言っていた。この手紙でも、自分はやり遂げたんだ、アメリカンドリームをつかんだんだ、と言う父の強い気持ちが伝わってくる。

色々な経験があって、父はより良い人生を求める様になったのだろう。父のことを知れば知るほど、父の芯の強さに触れ、尊敬する。

父の辛い経験を知ることになったが、青年としての父を知ることができたのが、何よりも嬉しい。

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Dailymailより

ひとこと

とてもドラマチックで感動的であり、色々なことを知ったエピソードでした。ギリシャは長年オスマントルコに支配され、独立の時には、それぞれの土地にいたキリスト教ととイスラム教徒の「交換」が行われたと言う話は聞いたことがありましたが、今でもギリシャにマイノリティとして残っているのは知りませんでした。

またこのエピソードを見た人が、オライオでリタが出会った父ハッサンのいとこたちは、ギリシャ語ではなくトルコ語を話していた、と指摘していました。

番組では言及がありませんでしたが、ウィキペディアなどには、リタの父ハッサンはポマク人との記述もあります。ポマク人は、ブルガリア人のムスリムで、番組で言われていたようにオスマントルコの時代にキリスト教から改宗した人達のようです。いとこたちがブルガリア語ではなく、トルコ語を話していたのは、どうもギリシャ政府の政策によるもののようです。(詳しくはこちらを)

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By Unknown - Scan from: Stoyan Raichevsky - Mohammedan Bulgarians (Pomaks), ISBN 9549308413, ISBN 978-9549308419, Public Domain, Link

生まれた時はギリシャだった場所が今度はブルガリアになり、そして共産国になり・・・。番組では省略されていましたが、トルコに逃げようとして捕まった時の供述書を画面を一時停止して見てみると、やはりイスラム教徒はブルガリアにいづらかったようで、イスラムの国トルコへ逃げようとしていた、というような動機も書かれていました。

またブルガリアにいる兄にニューヨークから送った手紙も、リタが読んでいたのはほんの一部分で、実際の手紙にはもっといろんなことが書かれていました。

これも目を凝らして、リタが読んでいた英語訳の紙を画面を一時停止して読んでみました。半分しか写っていなかったので、全文はわかりませんでしたが、収容所から脱走した後、最初はトルコにいたと書かれていました。そこから家族にしょっちゅう手紙を送っていたようです。また、ブルガリアにいる父や兄とは別に、母や弟たちの一部はギリシャに離れ離れになっていたようで、彼らはSiriusと言う島に2年間避難していた、とありました。この島がどこにあるのか、調べてもわからなかったのですが・・・。そこにニューヨークから色々と救援物資を送ってあげている、自分が(軍隊で)刑務所にいた時に助けてくれたから同じことをしている、また弟の一人はアテネの刑務所に入っていてもうすぐ出所する、と、自分以外の家族の近況も色々と書かれていました。

どうもハッサンだけでなく、この家族はブルガリアギリシャ、アメリカそしておそらくトルコと離れ離れになり、本当はもっと色々なドラマがあったような匂いがします。番組ではそこまで深追いしませんでしたが・・・。

アラン・ウィルソンという名前からは想像もつかないような、そんな壮絶な過去があったことなど微塵にも出さなかったお父さん。自分の父親がそんな過去を持っていたことを、亡くなった後に知ることとなったリタさんはもう涙涙の連続で、おじさんとの再会ではこちらも泣けてしまいました。

ギリシャ系といえば、「フルハウス」でおなじみのこちらの俳優さんの話もどうぞ。リタ・ウィルソンとジョン・ステイモスはギリシャ一家のドタバタ映画「マイ・ビッグ・ファット・グリーク・ウェディング2」で夫婦役で登場していました。

familyhistory.hatenadiary.com


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【料理研究家:メアリー・ベリー】スイーツの女王の先祖は評判の悪いパン屋?

プロローグ

メアリー・ベリーはイギリスの料理研究家・批評家。ベーキング、スイーツの専門家として知られ、70歳になってから出演したテレビ番組「Great British Baking Show」で大ブレーク。

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By Stephen Reed from England - https://www.flickr.com/photos/donhead/34039048853/, CC BY-SA 2.0, Link

結婚50年になる夫との間には3人の子供が生まれたが、そのうち一人を19歳の時、交通事故で亡くしている。

自分のルーツについて何も知らないというメアリー。父親はとてもエネルギッシュで導火線が短いタイプ。一方母はいつも家族を優先する落ち着いた人だった。

自分の先祖は、女性は花嫁修業をして過ごすなど、伝統的な、きちんとした普通の一家だったのではないかと思う。

先祖もパン職人

メアリーの父方の祖父母はイギリス東部、ノリッチの出身。祖母アメリアの父、ロバート・ホートンはノリッチのビジネスマンだった。

1830年ディレクトリーを調べると、そこに記されていた彼の職業は「パン職人」。

私にはベーキングの血が流れているのね!と喜ぶメアリー。

1868年のディレクトリーには、曽祖父ロバートの職業はパン職人兼建築業者、と書かれていた。同時にやるには相容れない職業のように思えるが、ビクトリア朝時代、このように複数の職業をかけ持つ起業家は多かったらしい。

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© Copyright Lewis Clarke

当時ロバートが店を構えていたストリートを訪ねるメアリー。今は普通の街並みが広がるこの場所は、ロバートの時代、ギャンブルや売春がはびこり、殺人や強盗もよく起こる、貧しく治安の悪い場所だったという。

貧しいエリアでどのようなパンを売っていたのだろう、と考えるメアリー。

国勢調査では、ロバートは3人の従業員を雇っていたとあった。小さな家族経営のパン屋で、貧しい地域にありながらも、それなりに成功していたのだろうか。

救貧院へのパン卸売

ロバートはワークハウスと呼ばれる救貧院に大量のパンを卸して財をなしたようだ。卸値は月に160ポンドほど。現在の換算で70万円以上になる。

手工業の中心地だったノリッチは産業の機械化に乗り遅れ、人々の貧困が問題となっていた。救貧院には数百人しか収容できず、ホームレスも大量に発生していた。

ロバートは貧困院だけでなく、このような貧民に提供するパン生産の契約もしていた。その額は現在の額で130万円と高額なものだった。

慎ましくパン屋を開いていると思っていたが、実際はずいぶんやり手だったようだ。

粗悪なパン

3人の従業員で、これだけの大量のパンをどうやって作っていたのだろうか。

当時の方法でパンを作るところを見学するメアリー。

毎日700〜800斤のパンを焼いていたというが、当時のパン工房は釜からの熱、そして小麦粉の粉塵で肺や皮膚をやられるなど、肉体的にとてもキツイところだった。大量の種を捏ねるのも全て手作業で、労働時間は毎日18〜21時間にものぼった。

パン職人の労働条件は過酷で、当時の調査では街のパン職人111人中、健康に問題がなかった職人は13人しかいなかったという。

1855年の新聞に、救貧院でパンを受け取る貧民から嘆願書が出された、という記事が見つかった。支給されるパンがあまりにもまずく、食べようがないという。しかし調査官が前日のパンを調べてみても特に問題はなかったため、この嘆願は却下されたという。

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By http://wellcomeimages.org/indexplus/obf_images/5f/f9/8582af09590b4b236ebd0088141f.jpg
Gallery: http://wellcomeimages.org/indexplus/image/L0006802.html, CC BY 4.0, Link食べ物を求めて救貧院に並ぶ貧民

ロバートに恨みを持つ人がやったのかしら、と考えるメアリー。実際のところはわからないが、無料でもらっているパンにわざわざ文句をつけたということは、よっぽど何か理由があったに違いない。もしかしたらパンに混ぜ物がしてあった可能性もある。調査官が確認した時には問題はなかったようだが・・。

社会保障がない時代、救貧院は教会が運営していた。この教区に30年以上いたロバートは、教会関係者のコネを使ってパンを卸す契約を結んだり、問題をもみ消すこともできたかもしれない。が、実際にどうだったのかはわからない。

1868年、ロバートは69歳で亡くなっている。パン職人にしては長生きであった。

嘆願書の事は悲しかったけど・・一生懸命働いた人だったと思いたい、とメアリー。

メアリーの高祖母、メアリー・ベリー

メアリーの父方の祖父はイギリス国教会の牧師だった。真面目で堅物、説教もたいして面白くなかったという。ビクトリア時代の厳しい家庭に育ったのではないかと考えるメアリー。

曽祖父の名前はエドワード、印刷工だったが、メアリーの父親も詳しいことは知らなかったようだ。

エドワードの出生証明書を調べる。エドワードの母、メアリーにとって高祖母に当たる人物の名前も、メアリー・ベリー。

そしてエドワードが生まれたのは、ノリッチでもスラム街に当たるところだった。

また出生証明書の父親の欄は空欄。またメアリーが結婚したという記録も見つからなかった。

メアリーの子供達

教会の洗礼記録を調べると、メアリーはエドワードの前にも、ヘンリー・オーガスタスという息子を産んでいた。が、ここにも父親の名前は無い。

またエドワードの他にも、エマという娘、ジョージ・フレドリックという息子が次々と産まれている。

通常、この時代、婚外子を産んだ女性は、その後その相手と結婚するか、そうでなくても数年以内に別の男性と結婚する場合が多かった。しかしメアリーは結婚することなく、数年おきに子供を産んでいた。

もしかして売春婦か何かだったのかしら、と考えるメアリー。

専門家は、おそらくメアリーは既婚者との間に子供をもうけていた可能性を指摘した。

4人の子供を産んだメアリーだが、最初の子供ヘンリー・オーガスタスを3ヶ月の時に、また娘のエマも亡くしていた。自分も息子を一人失っているが、一人でも辛いのに二人とは・・と言葉を失い涙ぐむメアリー。

メアリーの家族

子供を4人産み、ノリッジのスラムにいたというメアリー。彼女はどのような家庭で育ったのだろうか。また助けてくれる家族はいなかったのだろうか。

メアリーの父、クリストファー・ベリーは印刷・製本業者で、ノリッチでも良いエリアに住んでいた。

ベリー家は18世紀後半より3世代にわたり印刷業を営んでおり、大きな本屋も持つなど、ノリッジでも有数の印刷業者だったという。ではなぜメアリーはスラム街にいたのだろうか?

1811年の新聞に、クリストファー・ベリーの破産宣告に関する記事が出ていた。

事業を拡大しようとして失敗したようだ。

破産に伴い、家財道具が競売にかけられる。その当時の広告も残っていた。ソファ、フランス製のカーテン、マホガニーのダイニングテーブルなど、高級な調度品が列挙されている。これらのものが全て差し押さえられた。

とはいえ、破産イコール貧困ではなく、破産しても資産の5パーセントは持っておくことができた。

クリストファーは印刷機は手元に置き、新聞を発行するなどして再起を図ろうとしたようだ。

家族の悲劇

メアリーは実は8人きょうだいだった。

メアリーの母と、下の子供達6人が救貧院に入ったことを示す書類が見つかった。そこには、父クリストファーが週に20シリングを支払う、と書かれている。

当時11歳だったメアリーと、上のもう一人の子供は救貧院には入らなかった。父親の世話や家事をさせられていたのかもしれない。

20シリング払う経済能力があるのに、乳児を含めた幼い子供を救貧院に入れたことに、専門家も首をひねる。

救貧院の衛生環境は劣悪で、数百人の貧民に食事が与えられたが、そこにはナイフやフォークもなく、皆手づかみで食べるような、混み合って混乱した場所だったという。

専門家もとても異様な状況だというが、クリストファーはここに家族を捨てたようだ。

そしてメアリーの小さなきょうだいたちは、救貧院で次々と亡くなっていた。

それでも父親が援助の手を差し伸べることはなかったようだ。子供を次々と貧困の中亡くした母親の胸中はいかばかりだったろう。

メアリーはその後、未婚のまま子供を産むが、自分の息子に父親の名前をつけることはなかった。当時、長男には自分の父親の名前をつけることが多かったが、その代わり、メアリーは死んだきょうだい達の名前を子供につけている。

ここからも、メアリーの父親に対する気持ちが見て取れるのではないだろうか。

職人として生きのびたメアリー

メアリーとその息子、ジョージとエドワードはその後どうなっただろうか。

1851年の国勢調査で、メアリーはコルセットメーカーの職についていたことがわかった。

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By SAINT-ELME GAUTIER - LE CORSET A TRAVERS LES AGES, Public Domain, Link

コルセット作りは当時需要が高く、小さい子供がいたメアリーはおそらく家で内職的に仕事をしていたと考えられる。1週間に4−6シリングと、稼ぎはあまり良い仕事とは言えなかった。

しかしメアリーには得意の客も付き、客の家に出向いて採寸したり、客がメアリーの家にやってきてコルセットを注文することもあったようである。

またジョージは大工に、エドワードは印刷工見習いとなり、それぞれ手に職をつけた。

またエドワードは、その後も母親の近くに住居を構えていた。末っ子として、母をサポートしていたようだ。

メアリーは70歳で亡くなった。死亡証明書には、死亡を報告したのが息子エドワードであること、最後を看取ったのも彼であることが書かれていた。

最後まで子供がそばに寄り添っていたことに心を動かされるメアリー。

エピローグ

最後に自分の祖父母の墓を訪ねるメアリー。

パン屋として一生懸命働いただろうロバートもだが、最善を尽くして、救貧院を逃れ、家族のために生きたメアリー。

どちらも誇りに思うし感謝したい。

ひとこと

Great British Baking Show は、アマチュアのベーカーが、パンやケーキを焼き、一番を競うリアリティ番組。アメリカの似たようなリアリティ番組よりえげつなさがなく、見ていて楽しい番組です。

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メアリー・ベリーはその中で審査員として登場、焼かれたパンやケーキを味見して、批評するおばあちゃんです。

日本だったら・・・料理の鉄人の、岸朝子さんみたいな存在?(ちょっと古いですかね)そこにマーサ・スチュワートを混ぜたような感じでしょうか??

ベーキングに関する本なども色々出版しています。

Mary Berry's Baking Bible

Mary Berry's Baking Bible


ケータリングなど食べ物に関する仕事を続けてきた彼女ですが、一躍有名になったのはこのリアリティ番組によるところが大きいかもしれません。70をすぎてブレークするなんて、人生最後まで何があるかわかりませんね。

好きなことは一生懸命幾つになっても続けるのが大事だと感じます。

さてそんな彼女の先祖、ビクトリア時代のきちんとしたイギリスの家庭を想像していたのに、ちょっと悪徳風のパン職人だったり、家族を救貧院に捨てる父親だったり、未婚のままスラムで子供を何人も産んだ曽祖母だったりと、彼女が想像するような「きちんとした」像は全く見えてこず。

特に混ぜ物疑惑や、問題もみ消し疑惑があるパン職人の先祖については、なんとかポジティブに捉えようとしてましたが、実際の所どうだったのでしょうね。

良いことも悪いことも、赤裸々に見せてくれるのがこの番組の良いところでもあります。


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【女優:グウィネス・パルトロウ】カリブ海、ユダヤ人聖職者、二つの家族のルーツ

プロローグ

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By Georges Biard, CC BY-SA 3.0, Link

オスカー女優、グウィネス・パルトロウ。父は監督・プロデューサーの故ブルース・パルトロウ、母は女優のブライス・ダナーという芸能一家に生まれた。

父親っ子だったというグウィネス。無償の愛、そして家族を大事にするという精神は父から学んだという。

母方の家族は典型的なドイツ系WASP、一方父方は東欧のユダヤ系。異なる背景を持つ人々が一つ家族になる、というのはとてもクラシックな「アメリカン・ストーリー」だと思うが、家族や両親のこととなると、実は意外に真実を知らないのが本当のところではないかと考えている。

バルバドスとのつながり

まずは母方のルーツについて調べる。

母の先祖はカリブ海の島、バルバドスに関係があると聞いたことがある。母方の祖母、アイダ・メイがバルバドス出身なのではと調べたところ、アイダはフィラデルフィア生まれだった。しかしアイダの死亡証明書から、アイダの両親の名前がわかる。

その情報を元に、1910年の国勢調査を調べると、アイダの母、イザベルの出身地が「西インド諸島」となっていた。さらにイザベルの死亡証明書を調べると、そこにははっきりとバルバドス生まれと書かれていた。バルバドス出身だったのは、曽祖母のロザムンド・イザベル・スタウトだった。

死亡証明書にはイザベルはメイドだったと書かれており、晩年まで働かなければならなかったようだ。イザベルはなぜバルバドスからアメリカに来たのか。バルバドスでは、何をしていたのか。

乗船名簿を確認すると、イザベルは18歳の時、27歳の姉マーサとともにアメリカに渡ったことがわかった。しかも乗ったのは客船ではなく、商船で、乗客は彼女達2人だけ。荒々しい海の男達ばかりが乗っている船に、若い女性が2人で乗り込んだことに驚くグウィネス。

バルバドスへ

さらに情報を追うため、バルバドスに飛ぶ。

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By Barry haynes - Own work, CC BY-SA 4.0, Link

島での洗礼記録には、イザベルの父サミュエルは貿易会社の事務職をしていたと記されていた。1800年半ば頃のバルバドスは、カリブ海の重要な貿易拠点として、ラム、砂糖、モラセスの輸出、各地からの物資の輸入が盛んに行われていた。父サミュエルも、いずれは独立した貿易商を目指して働いていたと思われる。

父親の職業から考えて、暮らしぶりは悪くなかったはずだが、家族に何かがあったのだろうか。死亡証明書を確認してみると、1864年に母親サラが42歳で亡くなっていたことが明らかになった。またそこにはサラは未亡人とあったことから、母親が亡くなる前に、すでに父親も亡くなっていたと見られる。

イザベルは13歳で孤児となっていた。

商船に乗ったのは、客船よりも安かったからだと考えられる。

移民の背景

姉妹はそれまでお針子などで生計を立てていたようだが、当時バルバドスのイギリス人の社会的、経済的地位は苦しいものになっていたという。

200年に渡り、バルバドスではイギリス人による奴隷支配が行われていた。しかしイザベルの時代、奴隷解放から30年が過ぎ、教育を受けた元奴隷やその子孫が、新しい労働力となっていた。

これはバルバドスにいる労働階級のイギリス人にとっては、職を失うことを意味した。また島の人口は女性の方が多く、将来の結婚相手を見つけることも難しい状況になっていたという。

このような状況から脱するため、姉妹はより良い環境を求めてバルバドスを飛び出したようだ。自分を信じて、新しい世界に飛び出していった曽祖母に感銘を受けるグウィネス。

父方のルーツ

次は父のルーツについて探る。

父方の祖父バスター。グウィネスにとってはとても優しく、家族を大事にするおじいちゃんだったが、彼自身の生い立ちは決して幸せなものではなく、自分の母親についてもあまり良く言わなかったという。どうも母親がネグレクト気味だったようで、祖父の身なりがあまりにも汚かったため、学校から返されたこともあったという話は聞いたことがある。

叔母を訪ね、話を聞く。祖父バスターは1914年生まれ、ニューヨーク、クイーンズで育った。父の名前はマイクだが、本名はマイヤー。苗字もパルトロウではなく、もともとはパルトローヴィッチとユダヤ系の名前だった。

母アイダは料理、掃除といった家事を全くせず、部屋の中は新聞やゴミで溢れかえっている、いわゆるゴミ屋敷だったという。しかしアイダはハンターカレッジという大学を卒業するなど、実は優秀だったようだ。どうもアイダには、精神的な問題があったのでは、という。

優秀だった曽祖母と家族の悲劇

ハンターカレッジは教員育成のための女子大で、当時はノーマルカレッジと呼ばれていた。当時、ニューヨークで教職につくことは、女性にとって最高のキャリアだったという。学校によってはユダヤ人の入学を許さないところもあったが、この大学は人種は関係なく入学することができた。

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By George G. Rockwood - Harper's weekly : a journal of civilization. (New York : Harper' s Weekly Co., 1857-1916). Image ID: 801201, Public Domain, Link

アイダの当時の成績は平均82点と優秀なものだった。しかし出席日数をみていると、27日間も欠席しており、翌年には退学処分になっていた。一体何があったのか。

家庭に何らかの事情があったのではと、当時の国勢調査を調べる。アイダが大学に入る約10年前の調査では、アイダの両親、そして2人の兄弟が確認できたが、1900年の調査では母親と兄弟の1人の情報が消えている。

さらに調査したところ、1897年に母が肝硬変で死亡、さらに数ヶ月後に兄弟の1人が亡くなっていた。ちょうどアイダが学校を休みがちだった時期と重なっている。

自分が父親を亡くした時のことを思い出すグウィネス。それだけでも大きなショックなのに、さらにその上に兄弟を亡くしたなんて、自分だったら立ち直れないかもしれない。この出来事が、アイダののちの人生に大きな影を落としたのだろうか。

アイダにさらに降りかかる悲劇

その後アイダは結婚し、1910年までに6人の子供をもうけていた。しかし1920年国勢調査では、ヘレンという名前の娘の情報が消えていた。

死亡証明書をとってみると、ヘレンは1912年、3歳で亡くなっていた。死因は外傷性ショック、肋骨などの骨折と肺に穴が空いたこと。馬車に轢かれたのが原因だった。事故だったため、当時の記録も残っており、それによると道に飛び出したところを、気づかなかった馬車に轢かれたらしい。気がついた通行人達が大声で馬車を止めた時には、前輪と後輪の間に挟まっていたという、痛ましい事故だった。

ヘレンが亡くなったのは1912年7月20日。そして3週間後の8月12日には、マリオンという娘が生まれていたことも国勢調査で明らかになった。事故当時、アイダは臨月だった。

子供を最悪な形で亡くしたショックと悲しみ、そして直後の出産。出産後のホルモンの影響などを合わせて考えても、アイダは身も心もボロボロになってしまったのではないだろうか。そう考えると、以後子供の世話や家事もできなくなるような精神状態になってしまったのも頷ける。

母親に対する同情は全くなかったという祖父。このことを知っていたのだろうか。祖父がもしも知っていたら・・と思うグウィネス。と同時に、このような環境に育っても、家族に愛情を注いでくれた祖父のことを思う。

ユダヤ人聖職者だった先祖

次は曽祖父、マイヤーのルーツにスポットライトをあてる。マイヤーの父、グウィネスの高祖父サイモン(シムカ)は東欧から来たユダヤ教の聖職者(ラビ)だったと聞いている。またサイモンの家系は代々ラビだったらしい。自分もスピリチュアルなことに非常に興味があるので、そのルーツは特に気になるという。

https://i0.wp.com/i.dailymail.co.uk/i/pix/2011/04/02/article-1372687-0B72342400000578-688_634x472.jpg
dailymail.co.ukより 高祖父サイモン

ニューヨークにあるエルドリッジ・ストリート・シナゴーグに向かうグウィネス。そこで見せられたのは、高祖父サイモンの婚姻に関するポーランド語の書類だった。ポーランド北東部の小さな町で行われた結婚式を取り仕切ったのはサイモンの父、ハーシュ・パルトローヴィッチ。彼もまた、ラビであった。

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By AnneRuthmann - Own work, CC BY-SA 4.0, Link

次に出てきたのは、メモリアル・ブックと呼ばれるもの。グウィネスの先祖が住んだポーランドのこの町のユダヤ人も、ホロコーストで全滅し、すでにユダヤ人コミュニティは無くなっているが、ホロコーストを生き延びた人々が戦後集まり、コミュニティの思い出をまとめて本にしたものだという。ここにサイモンの父、ズヴィ・ハーシュについての記述があった。

そこには、ズヴィ・ハーシュが非常に素晴らしいラビであったこと、そしてカバラの使い手であったことが記されていた。カバラとは、ユダヤ教の秘術的なもの。そこにはさらに、町を大火が襲った時、ハーシュがバルコニーに出てハンカチを振ると途端に火が消え、おかげでユダヤ人コミュニティは火事を免れることができた、という言い伝えも記されていた。

自分もカバラを学んでいるというグウィネスは驚く。また聖職者、スピリチュアルな血が家系に流れていることを感慨深く思う。

さらに、高祖父サイモンが父ズヴィ・ハーシュに捧げた本が見つかる。ヘブライ語で書かれたこの本には、父についての思い出が書かれた一節があった。書斎でいつも戒律についての相談、議論をしていた父、いつもトーラを口にしていた父のこと。その優しい筆致に、涙を流すグウィネス。父を愛する強い気持ちが、この家族にはあるのだと感じる。

プロローグ

自分と父の関係、スピリチュアルなものへの興味など、様々な類似点を先祖に見つけたグウィネス。暗い影を持つ先祖がいると同時に、神聖なもの、父への愛など、光をもたらすような先祖がいる。そんな先祖の両面を見ることができたのは、とても素晴らしいことだった。この旅を通じて知ったことを、最後には母親と共有するグウィネス。父にも教えたかったと思う。

ひとこと

今回は、日本でも良く知られている人物を取り上げてみました。が、放送を見ていても内容が全て尻切れとんぼだな、という気がとてもしました。せっかくバルバドスに飛んだのに、ちょっと書類を見ただけで終わってしまったし、アメリカに渡ってからのことなど、もっと深掘りしないのかな、と不完全燃焼。

母親、兄弟、そして小さな娘を亡くした曽祖母アイダの話は悲劇的でした。本人や周囲の人からの話があったわけではないけれど、国勢調査や出生・死亡証明書という無機質にも見える情報を付き合わせて行くことで、その時の状況、そしてそれに伴う人間の心理状況に思いをはせる、そうして見えてくる答えがある。これは、家系学調査の醍醐味だろうなと思います。本当に、これはグウィネスのおじいさんに知らせてあげたかったですね。

代々ラビだったという先祖の話についても、結局2代しか特定できていないので、アメリカのマニアックな視聴者の間では、調査不足の声も上がっていました。

番組にも登場した教授がのちに家系学ブログに残したコメントによると、ズヴィ・ハーシュの父親がこの家系の中では最初のラビだったようです。この最初のラビの名前が、Paltielという比較的珍しい名前だったそうで、「Paltielの息子」という意味のポーランド語が、パルトローヴィッツ(パルトローヴィッチ)。これがその後の家族の苗字になり、グウィネスの祖父の代にパルトロウ、になったようです。

ハンカチを振って火事を消した話はマユツバものですが、そういえばカバラ、一時期マドンナがハマってたんですよね。こちらは正統派のものとはまたちょっと違うものだったようですが・・・。

またズヴィ・ハーシュの奥さんが名家の出のようで、こちらの家系をたどるとさらに多くのラビがいるようでした。番組の尺の問題もあるんでしょうが、あまりそういうところの深掘りがありませんでした。

特にこの番組のアメリカ版は、途中でコマーシャルがたくさん入るのもあって、35〜40分弱と短めなので、一度にいろんな先祖を調査すると、どうしても情報が浅くなりがちです。

一方イギリス版は国営のBBCなこともあって、がっつり50分ちょっとなので、今度は逆に濃すぎたり情報が多すぎると思うことも(苦笑)。編集って難しいですね。

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【女優:ジェーン・シーモア】ボンドガール、ドクター・クイン女優のルーツ:大叔母姉妹、ホロコーストからの逃避行

プロローグ

ハリウッド女優ジェーン・シーモアはイギリス生まれ。007「死ぬのは奴らだ」のボンドガール役、そして日本でもNHKで放映されていた「ドクター・クイン、大西部の女医物語」の主演をはじめ、数多くの映画、ドラマに出演している。

Jane Seymour CUN Award Party 2009.jpg
By Ilya Haykinson - File:2009 CUN Award Party Jane Seymour 036.JPG, CC BY-SA 3.0, Link

ジェーン・シーモア」という典型的な英国人の名前は実は芸名。本名はジョイス・ペネロペ・ウィレミナ・フランケンバーグ。母はオランダ生まれのオランダ人、父はポーランド系のユダヤ人。

父方の祖父がポーランドからイギリスに移住したので、ジェーンの家族はホロコーストを免れたが、親戚はホロコーストの犠牲になったものも多い。イギリス空軍の軍医だった父は、いとこの行方を探すため、ベルゲンベルゼン強制収容所に行ったと聞いている。

そんな中で、ホロコーストを生き延びた2人の大叔母がいる。当時フランスにいたミカエラ、そしてポーランドに残っていたヤドヴィガ姉妹。それは一体どのような経験だったのだろうか。

ゲットーへの強制移住

ワルシャワに向かうジェーン。大叔母ヤドヴィガは、ここでユダヤ系の産婦人科医ハーマン・テマーソンと結婚、息子ジェッツィと娘ハンナの2人の子供をもうけた。自分の父も産婦人科医だったというジェーン。父はハーマンの影響を大きく受けていたようだ。

家族はワルシャワの中でも、裕福なエリアに住んでいた。当時はコスモポリタンな街だったワルシャワ。特に医者という職業柄、ヤドヴィガの家族は、ポーランドの社会に十分溶け込んで生活していた。

しかし1939年、ドイツがワルシャワに侵攻。1940年10月にはユダヤ人を隔離するため、街の中心部の1.6キロ四方に高さ3メートルの壁を作り、40万人のユダヤ人をそこに押し込めた。いわゆるユダヤ人ゲットーである。

The Wall of ghetto in Warsaw - Building on Nazi-German order August 1940.jpg
By Unknown - "Warszawskie getto" Warszawa 1988
United States Holocaust Memorial Museum, Photograph #37295
Photograph description based on discussion at Kolejka Marecka Forum (Post # 7), Public Domain, Link

ゲットー区域内に家があったポーランド人は追い出され、代わりに別の場所にいたユダヤ人がそこに詰め込まれた。ポーランド人は「アーリア人区域」に住み普通の生活を送ったが、ユダヤ人たちは完全にそこから隔離・遮断されることとなった。

ヤドヴィガ達の家はたまたまゲットーが作られた区域内にあり、移動はまぬがれ、医療業務も続けていた。しかし混み合ったゲットー内での生活は苦しく、1942年には8万人が飢えや病気で亡くなっている。当時の映像では、ゲットー内のあちこちに人が倒れており、人々がそれを避けながら街を歩く姿が残っている。

ゲットーからの脱出

その年、ドイツはユダヤ人を虐殺することを決定。ゲットーから25万人がトレブリンカ絶滅収容所に送られ、そこで虐殺された。

Umschlagplatz loading.jpg
By Unknown - Popular museum piece in public domain available from a variety of sources: online (1) and (2) and others.
USHMM, courtesy of Żydowski Instytut Historyczny (Jewish Historical Institute in Warsaw)
Barbara Engelking; Jacek Leociak (2001) Getto Warszawskie - Przewodnik po nieistniejącym mieście, Warsaw: Wydawnictwo IFiS PAN ISBN 83-87632-83-x, Public Domain, Link
トレブリンカへ移送されるユダヤ

当時ヤドヴィガは50歳。ホロコーストを生き抜いた彼女であるが、収容所送りになっていれば、そこに行き着く前に力尽きて死んでいたと考えられる。実は収容所送りになる前に、ヤドヴィガとその家族はゲットーを脱出していたようだ。

当時、ポーランド側に協力者があれば、唯一ゲットーを抜け出す方法があった。それは「ゲットー」と「アーリア人区域」の境界にある裁判所の建物を通り抜けること。この建物にはゲットー側とアーリア側ふたつに出入り口の扉があった。

脱出するには、偽の書類を作り、裁判所に出頭するふりをして建物の中に入る。ユダヤの星がついた服を、人目のつかない場所で着替え、出来るだけポーランド人のふりをして、アーリア人側の出口から外に出る。おそらくポーランド人の協力者が待ち合わせをしていたと考えられる。この方法で、1000人ほどがゲットーから脱出したという。

裁判所の建物から何くわぬ顔をしてアーリア側に出るのは、とても勇気のいることだっただろう。ゲットーでの地獄とは裏腹に、そこにはまるで何もなかったかのような日常がある。しかし同時に、建物の周りには、脱出したユダヤ人を襲おうと待ち構えているポーランド人もいた。彼らはまずユダヤ人が身につけている宝石や貴重品などを奪った上で、ドイツ兵を呼んだという。アーリア側に出ても、油断はならなかった。そのため協力者の存在がとても重要だった。

ヤドヴィガだけでなく、夫も子供達も脱出に成功していたようだ。ホロコーストを生き延びた人々が記した回顧録にも、ヤドヴィガの夫、テマーソン医師が「アーリア側に潜伏していた」との記述が見つかった。

ポーランド人の中にも、ユダヤ人を助けようという人達が多くいたということだった。1942年9月にゲットーは完全に破壊・解体されたが、その際に多くのユダヤ人が逃亡した。ドイツ軍は、地元ポーランド人に、ユダヤ人の逃亡を助けたりかくまえば死刑にすると警告している。逃亡、潜伏を実現するには、本人だけでなく、周囲にも大きなリスクがあった。

Death penalty for Jews outside ghetto and for Poles helping Jews anyway 1941.jpg
By German Nazi Governor for district of Warsaw Ludwig Fischer - Archives of Institute of National Remeberance (IPN), Warsaw, Public Domain, Link
死刑を警告するチラシ

ワルシャワ蜂起

無事に脱出できても、ここから戦争が終わるまで3年もある。それまで一体どうしていたのだろうか。おそらくポーランド人の家に匿われていたはずだが、当時家族が全員で同じ場所に潜伏することは危険が大きすぎたため、おそらく家族はバラバラになっていたと考えられる。

1944年8月、民衆によるワルシャワ蜂起が起きる。当初はポーランド側が優勢であったが、ドイツ軍が制圧、20万人が処刑され、街はドイツ軍により完全に破壊されてしまった。アーリア人優越思想に突き動かされたドイツ軍にとっては、ユダヤ人同様、ポーランド人も劣等人種と見ていたため、街を壊滅させることには何のためらいもなかったという。

Warsaw Uprising - Four on a barricade.jpg
By Unknown - Antoni Przygoński (1980) Powstanie Warszawskie w sierpniu 1944 r.; Tom 1, Warsaw: Polskie Wydawnictwo Naukowe, pp. 112 ISBN 83-01-00293-X, Public Domain, Link
ワルシャワ蜂起、ドイツ軍と戦うレジスタンス

廃墟となった街の中でもなお、ヤドヴィガは隠れて暮らさなければならなかった。

夫、子供達の消息

銃痕がまだ残る当時の建物へ入っていくジェーン。そこで回顧録を手渡される。そこにはヤドヴィガの夫、ハーマンの最期が記されていた。1944年ナチスポーランドから撤退する。その様子を窓辺に立って見ていたハーマンは、撤退中のナチス軍に撃たれて亡くなっていた。たまたま窓辺にいたハーマン。それがたまたま目に入ったナチス兵。もう少しで戦争が終わるところだったのに。ハーマンはおそらく撤退直前に意味もなく殺された、最後の人物だったかもしれないという。

その後ヤドヴィガや子供たちはどうなったのだろうか。

50万人以上いたワルシャワユダヤ人のうち、生き残ったのは1万1000人。その中でワルシャワに戻って来たのは1000人にも満たなかった。

ワルシャワ市内、エルサレム通りのアパートを訪れるジェーン。ここは戦後、潜伏していたユダヤ人達がワルシャワでの生活を立て直すために集まった場所だという。ヤドヴィガもここで暮らし、家族の帰りを待った。ヤドヴィガが家族に連絡するよう呼びかけるメッセージカードが残っている。彼女の住所は家族にだけ知らせて欲しい、と書いてあるのは、まだ物資や住む場所も十分でなかった時代、おそらく自分がユダヤ人であることを必要以上に外部に知らせることは、まだ危険であったからだろうという。


Warsaw Ghetto destroyed by Germans, 1945.jpg
By Zbyszko Siemaszko, photographer of Central Photographic Agency (CAF) in Warsaw - The book: "Warszawa 1945-1970", Publisher: Wydawnictwo Sport i Turystyka, Warszawa, 1970, page 76-77, Public Domain, Link

ワルシャワの85%がドイツ軍によって破壊され、ポーランド全体では500万人がなくなり、そのうち300万人がユダヤ人であった。そんな絶望的な状況で、ヤドヴィガは家族の消息を待ち続けたのであった。そんな中、ヤドヴィガの娘で当時21歳だったハンナがベルゲンベルゼン強制収容所で目撃されたというニュースが舞い込んだ。

ドイツにあるこの収容所に、ワルシャワから直接送られたユダヤ人は少なかったが、のちに他の収容所の証拠を隠すため、東ヨーロッパからのユダヤ人がこの収容所に向けて死の行進を強いられていた。体力のないものは銃殺されたという。

父が収容所まで行って探しに行ったのはハンナだったんだ、と気がつくジェーン。

しかし収容所にハンナの姿はなかった。「ベルゼン収容所にいる形跡なし」との手紙が残っていた。

息子のジェッツィの消息も届かなかった。おそらく亡くなったと見られる。自分は生き延びたが、夫、子供を失い、家もコミュニティも街も全てを失ってしまったヤドヴィガ。これが自分だったら、もう気が狂ってしまうだろう、とジェーン。

もう1人の大叔母

もう1人の大叔母、ミカエラの足跡をたどるためパリに飛ぶ。

戦争前、ポーランドからパリに移っていたミカエラ。夫アーロン・シンガロウスキーと娘ハンナとリアの4人で暮らしていた。彼らが住んでいたのは、パリでも裕福なエリア。夫アーロンは、政治的な理由で職を失ったユダヤ人に新しい技術を教え、再就職を支援する団体のディレクターをしており、ユダヤ人コミュニティでも高い地位にいる人物だったという。

以前はベルリンにいたが、ヒットラーが政権を取ったのを機に1933年にパリに来た一家。当時のパリはユダヤ人をはじめ多くの外国人がヨーロッパ各地から避難してきており、ユダヤ人が住みやすい場所であったという。しかし1939年に戦争が始まると、状況は不透明になる。

1940年5月10日、ドイツ軍がオランダ、ベルギーへの侵攻を開始。これにより、フランス北部やベルギーから避難民が到着し始める。しかしドイツの侵攻が進むにつれ、パリも安全な場所ではなくなってきていた。人々はとにかく駅に行き、買える切符を買い、乗れる電車に飛び乗った。マットレスなどの家財道具一式を抱え、実にパリの人口の4分の3、約600万人がフランス南部へと大移動したという。

1940年6月には、ミカエラ一家もフランス南部、マルセイユへと避難している。

6月14日にはドイツ軍がパリを占拠する。フランス政府はドイツと休戦協定を結び、北部はドイツが占領、南部は傀儡政権であるヴィッシー政権の統治下となった。

亡命先を求めて

カエラ一家マルセイユを目指したのは、そこに領事館、そして港があったからで、いざとなればここから船に乗ってさらに脱出が可能だった。しかしミカエラ一家はフランスでは外国人。マルセイユで生活するにしても、居住許可証がなければ何もできない立場にあり、様々な許可を得たり、食料を得たりするのに奔走する毎日であった。

さらにマルセイユも安全な場所ではなくなってきていた。ドイツ軍に協力する立場にあるヴィッシー政権もまた、ユダヤ人狩りを開始。1941年にはすでに何千人もが強制収容所へと送られている。早く脱出しなければならない。しかしそのためには、書類を揃える必要があった。

当時のアメリカ領事館の前に行列を作る難民たちの写真がある。彼らは必要なビザを得るために何日も何日も並んだ。またその手続きも複雑なものだった。入国に必要なビザだけでなく、フランスからの出国許可も得なければならなかったのである。

カエラ一家は、アメリカに移民するビザを申請し、その許可が降りていた。しかしユダヤ人の再就職支援をする夫アーロンは、他のユダヤ人を助けるためにこの土地に残ることを選んでしまった。夫の仕事のためとはいえ、家族を守るためにミカエラは歯がゆい思いをしたのではないだろうか。

続いて1942年、一家はスイスへの渡航を申請する。こちらも許可が降りたが、ヴィシー政権により、出国を却下されてしまう。

一方ドイツが占領しているフランス北部では1942年7月からユダヤ人狩りが始まった。フランス警察は1万2000人のユダヤ人を逮捕。ドイツ軍に要請されたわけではなかったのに、そのうち4000人が子供だったという。彼らの多くがアウシュビッツに送られ、命を落とした。

あともう少しでアメリカかスイスに行けたのに、緊迫する状況の中八方塞がりになってしまった一家

一家がメキシコ行きのビザまで申請していた記録も見つかった。世界のどこでもいいから、どんなに遠くてもいいから、安全に受け入れてくれるところに行きたい。この悪夢を早く終わらせたい、という思いが伝わってくる。

さらに11月9日には、スイスのビザを再度申請、再び却下。

11月11日にドイツは南部に侵攻し、12日にはマルセイユも占領された。

Bundesarchiv Bild 101I-027-1476-20A, Marseille, Gare d'Arenc. Deportation von Juden.jpg
By Bundesarchiv, Bild 101I-027-1476-20A / Vennemann, Wolfgang / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, Link
収容所に送られるマルセイユユダヤ

ここでスイスで発行された書類を見せられるジェーン。そこにはドイツ語で「不法」と書いてあった。ドイツ軍がマルセイユに迫る中、一家は正規の方法での入国は無理だと諦め、国境を不法に超えてスイスに入国していた。彼らがスイスに到着した1週間後には、マルセイユユダヤ人は強制収容所に送られ、ユダヤ人が居住していた地域はダイナマイトで爆破されたという。間一髪の所で、家族は難を逃れていたのであった。

スイスに逃れた一家

スイスに向かうジェーン。今だと車で数時間でついてしまう。しかしミカエラ一家は、冬の厳しい寒さの中、隠れ家を転々とし、ほぼ徒歩で移動を繰り返した。子供を2人抱え、いつどこで捕まるか、撃たれるかもしれない恐怖、全てが不透明な中での逃避行。国境は林の中にあった。彼らはここを猛ダッシュしたのだろうか。

スイス政府が発行した実際の逮捕状を手にするジェーン。1943年1月17日夜11時、彼らはこの場所で逮捕された。

中立国のスイスには、ユダヤ人が逃げ込むことはできたが、スイスはユダヤ人受け入れを厳しく制限しており、不法入国した者はやはり収容所に入れられ、働くことは許されなかった。また何万人もがフランスに強制送還されたが、それは彼らにとって死を意味するものであった。

幸い、ミカエラ一家にはスイスにも資産があった。また夫アーロンの仕事の実績が買われ、職を得ることもできた。スイス政府は、スキルを持つ難民は歓迎したのである。一家はホテル暮らしを始めた。家族の安全を捨ててまで、マルセイユに止まり仕事を続けていたことが吉と出た形になった。

ヤドヴィガのその後

戦後、ミカエラポーランドで1人生き残った姉ヤドヴィガのため、スイスのビザを申請していた。ホロコーストを生き残ったユダヤ人でも、家を亡くし、貧困に陥ったり、そのトラウマや、さらなる迫害を恐れ、自国に帰れず難民のようになった人々は実に3000万人いたという。

ヤドヴィガには、1946年4月より、6ヶ月の滞在を許可するビザが降りた。ワルシャワの廃墟からやってきたヤドヴィガ、スイスの豪華なアパートをどう思っただろうか。そして自分は全てを亡くしたが、夫も子供も全て揃っている妹家族との生活はうまく行ったのだろうか。

ヤドヴィガはその後、スイスで亡くなったという。

ヤドヴィガの墓を訪ねるジェーン。しかしそこでそこで墓石に不審な点を見つける。亡くなった日にちが刻印されていなかったのである。1946年10月とだけ。スイスに到着して数ヶ月で亡くなったようだ。

当時の新聞にヤドヴィガの死亡に関する記事が掲載されていた。

ジュネーブで1ヶ月前から行方不明になっていたポーランド人女性の遺体が見つかる。戦争で夫は行方不明、息子は射殺され、娘の消息は不明で、鬱状態にあった。彼女のビザは10月に切れるはずだった。』

全てを失い、また廃墟のワルシャワに戻らなければならない。全てに疲れ果て、自殺したと考えられる。

エピローグ

戦争を生き延びたが、1人取り残されたヤドヴィガ。戦後の生活は一層辛いものであっただろう。生き残るための戦いにも疲れ果て、もう先へは進めなくなってしまったのかもしれない。せめてこんな美しいところで最後を迎えたのが救いだろうか。

様々な苦難の中生き延びた大叔母姉妹。彼女たちの足跡を追い、家族の中にある不屈の精神を見た。

ひとこと

もうこのエピソードは、見ていても、これを書いている間も、とても辛かったです。

まず番組の最初に出てきた、当時の家族写真。最近ちょっとこの時代のファッションがまた戻ってきているせいもあり、彼らの表情、服装を見ていると、つい最近のパーティーで撮ったように見えます。そしてコスモポリタンな街だったワルシャワの映像も、ショッピング街の店先は、今でもインスタグラムに載っていてもおかしくないような風景。

それがもう一瞬で、地獄絵図です。ゲットーの道端で倒れて死にかけている子供、女性。その横を避けて歩く人達。そしてワルシャワ蜂起を経て街が広大な廃墟となっていく姿。

今でこそ、戦争が何年に終わったか知っていますので、彼らの足跡を、なんとなく時系列に見ています。当時渦中にいた人達が、いつ戦争が終わるかなんてわかるわけもなく、とにかく先が見えない恐怖と不安の中で脱出し、潜伏し、各地を逃げ回り・・・それも叶わない人々は、その場で野たれ死に。想像を絶します。

国外に脱出するのでさえ、ただ逃げればいいわけではなく、ビザを取り、許可証を取らないといけない。でも却下が続く無限ループ。しかもそうこうしている間も、食べ物はない、ナチスは近づいてくる、となるともうそれだけで精神が崩壊してしまいそうです。

ビザのことについては、ふと杉原千畝さんの話も思い出しました。このような状況では、見ず知らずの地、日本にも頼りたくなる人がいるのも当然でしょう(この場合は通過ビザでしたが)。今だって日本に難民申請をしている人達がいます。なぜ日本?と思うかもしれませんが、もう最後の最後の頼みの綱かもしれません。

「そうだ、難民しよう」なんて言うのが少し前にありましたが・・・。今でも極限の状況で出口を見つけようとしている人々はたくさんいるわけで、好き好んで「そうだ」なんて言っているのだと思ったらちょっとあまりにも、あまりにもです。

自国を守る必要もあるんでしょうが、スイス政府がユダヤ人の入国にキャップを設けていたり、「スキルのある難民ならオッケー」・・というのも最近もどこかで聞いたような話ですね・・。大叔母さんの一家は、ある意味お金があったのでどうにか助かった部分もあるでしょう。でも無い人は・・??ああ、辛い・・。

今回のエピソードを見ながら、なぜか今の世界の状況に色々と考えを巡らせてしまいました。

戦争前、フランスがユダヤ人の住みやすい場所だった、という話はこちらでも⇩
familyhistory.hatenadiary.com


今の時代もどんどん先が見えなくなってきました・・・次回はあまり悲劇の少ないものを紹介してみようかな・・
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【俳優:アラン・カミング】日本軍と戦った祖父の死の謎を追う

プロローグ

ミュージカル「キャバレー」でトニー賞を受賞、映画「X-Men」などにも出演している俳優、アラン・カミングスコットランド出身。

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By gdcgraphics - http://www.flickr.com/photos/gdcgraphics/11804333623/, CC BY-SA 2.0, Link

第二次大戦中軍人だったアランの母方の祖父、トム・ダーリン。復員後も家には戻らず、その後銃の事故で亡くなったが、実際に事故だったのか少し怪しいという。

自宅に飾られている写真でしかしらない祖父の足跡、そして死の謎を追う。

母の話

「証拠を集めに行くミス・マープルみたいな気分だな」と母に話を聞きに行くアラン。

祖父トムは1916年生まれ。2歳で両親を亡くし、叔母に育てられた。17歳でキャメロン・ハイランダーズと呼ばれるスコットランドの部隊に入隊。駐留先で祖母と出会い結婚、アランの母も含め、子供を3人もうけた。

軍人だった父はフランスやビルマに駐留していて、家にはほとんどいなかった。軍では、オートバイに乗り、本部から各部隊に命令を伝えるクーリエの役割をしていたという。

家には祖父の遺品として、オートバイの試験に合格した際にもらったビールジョッキ、従軍手帳(正直で信頼できる人物、と書かれていた)、そして勲章が残っていた。勲章はどのような経緯でもらったかはわからないという。

母が祖父に最後に会ったのは、戦争が終わった8歳の時。除隊後は、マラヤ(現在のマレーシア)で警察官となり、1951年、現地で銃の掃除をしている際、残り弾に当たって亡くなったと聞いている。

キャメロン・ハイランダー

キャメロン・ハイランダーズについて知るため、エジンバラへ向かう。

この部隊は特に隊員間のつながりが強く、家族的な雰囲気がある部隊だったという。早くに両親を亡くしたトム。もしかしたら家族のようなつながりを求めていたのかもしれない。

Soldiers of the 1st Battalion Cameron Highlanders receive instruction on a Bren gun fitted on an anti-aircraft mounting at Aldershot, 1939. H655.jpg
By War Office official photographer - http://media.iwm.org.uk/iwm/mediaLib//40/media-40043/large.jpg

This is photograph H 655 from the collections of the Imperial War Museums.
, Public Domain, Link

軍での記録では、1933年に兵站での調理を担当、高い評価を得ていた。1939年、試験に合格しメカニックに。試験は厳しい環境の中、オートバイで野山を走るもので、実家にあった記念ジョッキはその時のものだった。

1939年、部隊はフランス、ラ・バッセーでドイツからの攻撃に備えていた。しかし実際にやってきたドイツ軍の攻撃力は、見たこともないような圧倒的なものだった。イギリス軍はどんどん北部に追いやられ、最終的にはダンケルクからイギリスへ退避。

当時24歳のトムは、そのような中、自らの命も顧みず、前線にいる部隊にオートバイで情報を伝えた功績が評価され、メダルを受け取っていた。

ラ・バッセーの戦い

祖父が功績を残した状況について知るため、フランスに向かう。

ラ・バッセーにはライフル部隊が駐留、ドイツ軍が運河を渡ってダンケルクに向かおうとするのを必死に食い止めていたが、ドイツ軍の戦車が次々と現れる。

祖父はそんな中、隣町ヴィオレーヌにある本部からオートバイを飛ばし、前線の部隊にメッセージを伝えるだけでなく、機関銃や弾丸などの物資を運ぶため、何往復もしたという。

戦いの場所となったのは、さえぎるものは何もない平地で、祖父のオートバイは、まさに「射撃場に入り込んだ鴨」状態だった。武器を積んでいた箱に弾が当たれば、武器や銃弾もろとも爆発する恐れもあったが、マシンガンからの銃弾が飛び交う中を、祖父は走り抜けた。

スティーブ・マックイーンの戦争映画みたいだ、とアラン。祖父の向こう見ずなところに感嘆する。

一方で専門家は、トムは上司の命令に従うしっかりした兵隊だったということだろう、と指摘する。また長年所属する部隊は家族同然であり、前線で苦戦している仲間を見捨てておけないという気持ちもあったと考えられる。

しかしドイツの戦車部隊の威力にはかなわず、部隊の4分の3が戦死、行方不明となってしまった。トムは本部に退避、ダンケルク経由でイギリスに戻ったが、フランスで戦ったキャメロン・ハイランダー800人のうち、イギリスに帰還できたのはたった79人だけだった。

この戦闘による肉体的な疲労よりも、精神的な打撃のほうが大きかったに違いない。祖父の戦う姿はカッコよくもあるが、そのトラウマを考えるとなんとも言えない。しかし当時はPTSDなどへの認識はあまり無く、戦闘のトラウマ治療を受ける兵士はそれほど多くはなかった。特に前線の兵士は、恐怖心をコントロールし、そのエネルギーを戦いに向けるよう訓練されたという。戦場から戻れば、その時のトラウマやストレスは、そのまま自分の中で処理して、次の戦闘に向かうしかなかった。

インドへの派遣、日本軍との戦い

1942年トムはインドに送られ、ジャングルでの戦闘訓練を受ける。

ビルマ経由でインドへの侵攻を目指す日本軍は、1944年、インド・ビルマ国境のコヒマに進軍していた。トムの部隊は、斜面にいる日本軍を上から急襲する作戦に出る。

命知らずの軍隊として恐れられていた日本軍との戦いは、捕虜になれば殺される恐れもあり、戦いは非常に緊迫したものであった。

トムの従軍手帳には、5月18日に銃傷で野戦病院に収容された記録があった。左手、右ひざ、足首を撃たれていたが、専門家は、これはおそらくライフルで撃たれたのでは無く、砲撃か手榴弾などによる負傷だと推測する。戦闘の2週間後には、デラ・ダンと呼ばれる場所の病院に収容されるが、7ヶ月後には遠く離れたムンバイ近郊のデオラリ(Deolali)に搬送され、2ヶ月を過ごしている。

従軍手帳には入院の記録があったものの、軍の公式記録は、1941年までのトムの戦闘記録は残っているものの、次の記録が1946年に飛んでいた。どうもページが1枚紛失している。

イギリスの古いスラングに「doolally」という言葉がある。一時的に気が狂った、という意味で、トムがいたデオラリ(Deolali)がまさにその語源となっている。ここには軍事病院の精神病棟があったのだった。フランスで多くの仲間を失った戦闘、そして日本軍との交戦、負傷。トムが受けた精神的ダメージは大きかった。

しかし戦後も、戦争の精神的トラウマから、治療を受けたということに対するスティグマは大きかったといい、このような記録は組織立って破棄されたらしい。今でもPTSDが問題になっているのに、軍が自らそんな情報を破棄するなんて。一方で、まるで戦闘マシーンのように思えていた祖父が、より人間らしく見えてきた、とアラン。

日本軍との交戦の記憶

日本軍の戦いは、一体どんなものだったのか。退役軍人会に連絡したところ、トムと同じ部隊に所属し、彼を覚えているという人が現れた。

現在89歳の戦友は、トムが25歳の時、19歳で入隊。トムは上司だったという。当時にしては背が高かったので、「ビッグトム」と呼ばれており、大きくて強そうで、実際に強かったという。すでにフランスでの戦闘経験があり、勲章ももらっているトムは仲間からも尊敬される存在だった。

1944年5月、コヒマ北部の村で、トムたちの部隊400人は、日本軍を見下ろす位置についた。トムはその中でも前線部隊にいた。

暗くなって日本軍の銃が火を吹き始め、銃弾が飛び交う激しい戦闘が続いたという。そして激しい雷雨が起こりはじめた午前2時半、雷の閃光とともに、日本軍が二手に分かれてイギリス軍の上手に回りこみ、この世のものとは思えないような恐ろしい叫び声、そしてバンザイと叫びながら銃剣で襲いかかってきた。この急襲により、部隊は散り散りになり、105人が戦死・負傷・行方不明となった。トムもこの間に負傷したようだ。

IND 003698 Garrison Hill Kohima.jpg
By Official photographer of No.9 Army Film and Photographic Unit. -
This is photograph IND 3698 from the collections of the Imperial War Museums (collection no. 4700-38)
, Public Domain, Link

戦闘のトラウマが祖父にあったと思うか?とのアランの問いに、戦友は、あの時代にはそんなものはなかったんだよ、というより、あっても気づかなかった。自分もそんなものはないと思っていた。でも自分も戦争から戻り、夜中に上官の名前を叫んで妻に起こされたり、子供が後ろに回り込んで驚かそうとするのに過剰反応して子供を怖がらせたりした。ストレスが無かったわけではなかったんだよ、と目に涙をためて答えた。

その後トムはイギリスに戻り、家族と再会するが、それが最後だった。帰国後は4年間、軍で事務職についていたが、その後も家に戻ることはなかったという。

マラヤへ

1949年、トムはマラヤの警察官になる。除隊し、家族と別れてからは、バイクの部品販売の会社に就職したが、それは1年と持たなかった。戦場での生きるか死ぬかの生活から、穏やかな郊外の暮らしには馴染めなかったようだ。

警察官になる申込書の婚姻欄は「別居中」となっていた。実際、海外からの帰還兵が普通の生活に戻れないケースは多く、軍でも問題になっていた。トムは家族への送金は絶やさなかったが、その後子供に会うことはなかった。

当時イギリスの植民地だったマラヤ(現在のマレーシア)でトムは警部補となった。独立の機運があがるマラヤでは、1948年ごろから共産党ゲリラによる植民地攻撃が激しくなっていた。

共産党と現地の人々のつながりを断つため、植民地政府は、新しい村を建設、約50万人を強制的に移住させた。村には物資が支給されたが、周りはワイヤで囲まれるなど、共産党ゲリラと接触できないようになっていたという。

トムはこういった新しい村のパトロールを行うと同時に、村人達からの信頼を勝ち取る必要があった。しかしマラヤ赴任後7ヶ月で、トムは35歳の若さで亡くなった。

死の真相

クアラルンプールに飛ぶアラン。

マラヤで発行された死亡証明書を取り寄せる。死因は頭部の重傷。司法解剖の結果、右耳の後ろから銃弾が入り込んでいたという。そんな風に銃を掃除するとは考えられないし、自殺するにも不自然な位置。もしかして、誰かに撃ち殺されたのでは・・と言ったところで外で大きな雷が鳴る。

トムが赴任していたチャーという村へ向かう。

ここは当時ゲリラ活動のホットスポットで、警察によるパトロールが昼夜行われていた。

当時同じ警官隊にいたイギリス人に話を聞く。トムは村の警備を担当していたが、彼の役割はジャングルを見回り、共産党員がいれば捕まえて殺す、というものだった。殺した遺体は村に持ち帰り、駐在所の前に並べて晒したという。

The Malayan Emergency 1948-1960 MAL35.jpg
By British official photographer - http://media.iwm.org.uk/iwm/mediaLib//55/media-55381/large.jpg

This is photograph MAL 35 from the collections of the Imperial War Museums.
, Public Domain, Link
マラヤ警官による「パトロール

遺体の身元確認のためであったが、共産党員に関わらないよう、見せしめの意味もあった。村の警備担当だったトムであるが、駐在所の前に死体が並べられると、その後処理は彼の担当だったという。

トムが亡くなった時、自分はその場にはいなかったが、と死の真相を語り始める同僚。

「彼は死ぬつもりは毛頭なかったとは思うが、ロシアンルーレットをやっていて死んだんだ。」

特にロシアンルーレットが現地で日常茶飯事に行われていたわけではないが、トムはしょっちゅうこれをやっていたらしい。自分でも公言していたし、地元の人達も知っていた。慣れた人なら、ピストルの感覚で弾がどこにあるかわかるのだと、地元のコーヒーショップで地元の人から金を集め、ギャンブル的にやっていたようだ。

この時ばかりは注意が足りなかったのか、運が尽きたのか、両方か。と語る同僚。あまりの予期せぬことに文字通り言葉を失うアラン。

地元の人々の愛情

トムのことを覚えていた地元の人に会うアラン。父親がマレー人コミュニティのリーダーで、トムと親しかったという兄弟。当時トムは尊敬の念を込めて、「トワン・ダリン(ダーリン、トムの苗字)」と呼ばれていた。毎日村中をパトロールする時は、子供たちが「トワン・ダリン!トワン・ダリン!」と手を振るなど、村人たちからは愛されていたという。

マレーシアにはマレー人、インド人、華人コミュニティがあるが、これらのコミュニティのリーダー達皆んなで飲みに行くなど、7ヶ月の駐在期間ではあったが、地元の人々の心を掴んでいたようだ。

トムが亡くなった後、地元の人達は街の遊歩道に「ダーリン・ウォーク」とトムの名前をつけて、敬意を表したという。「ダーリン・ウォーク」を訪れるアラン。

そこは公園の中にある遊歩道で、大きな看板も建てられていた。彼が亡くなったコーヒーショップも現在公園になっている敷地内にあった。

ロシアンルーレットというショッキングな亡くなり方をした祖父。一方で地元の人達が祖父に尊敬と愛情の念を抱き、地球の反対側で、彼を記念したこんなものを作っていてくれたなんて、と感動するアラン。トム・ダーリンはきっと疾風のように人生を最大限に駆け抜けた人だったんだと思う。

トムの最後と残された家族

ロシアンルーレットで亡くなったのは本当なのか、クアラルンプールのナショナル・アーカイブで公的記録を探す。

ファイルから出てきたのは、祖父が亡くなった日の警察の電報。そこにはパトロールから戻ったトムがコーヒーショップに行き、同僚警官に銃を貸すよう要求、銃弾を5つ抜き、シリンダーを回して自分の耳の上に当て、引き金を引いた、という報告が書かれていた。証言は本当だった。

祖母に祖父の死を知らせる手紙も残っていた。そこにはレボルバーを触っていた時の不慮の事故で亡くなった、と書かれていた。

そして、子供たちが父親を覚えておけるようなものが何もないため、遺品をぜひ送ってほしいという祖母からの手紙。

そして次の書類には、祖母宛てに遺品を送ったが、引き取り料金の4ポンドを祖母が払えないため、1年もの間荷物がリバプールの港に留め置かれている、と書かれていた。読みながら涙ぐむアラン。

その後家族は荷物を引き取ることができたが、祖父の死因が死因だったため、警察からの金銭的支援はこれで途絶えたという。

エピローグ

彼の生き方、戦場での経験を考えると、このような死に方をしたことはあまり驚かない。今も昔も、命を投げうち戦う兵士に対する感謝や尊敬の念を人々は持っているとは思うが、兵士が払う代償ー戦場でのトラウマやストレスを引きずって生きていかなければいけない、ということに人々はあまりにも無知ではないだろうか。祖父の人生は、まさに戦争のトラウマが生み出した悲劇だったように思う。

事実を知るのは辛いが、知らない方が辛いこともある。

ひとこと

まるで映画でも見ているようなおじいさんの人生。でもやはり大きなテーマは、戦争によるトラウマがその後の人生にどれだけ影響するか、ということ。帰還兵のPTSDについては、現在も十分な理解を得られていない部分もあり、兵士の仕事はリスペクトされている、と口ではいうものの、その後の社会適応に関する問題や支援はまだまだな部分も多いと感じることも多々あります。

俳優パトリック・スチュワートのお父さんも戦争でのPTSDに悩まされ、それが家族に大きな影響を与えていました。

第二次大戦後の日本でも、きっと似たケースは多かったのではと思います。生きるか死ぬかの状況を経験してきたのに、まるで何もなかったかのように日常が流れている環境に戻る・・というのはとても孤独で辛いものでしょう(とはいえ、敗戦国日本ではまるで何もなかったような日常とはいえず、今度は焦土からの復興、と国を立て直すことを頑張らないといけなかったので、また戦勝国敗戦国の帰還兵は状況がちがったかもしれません。逆に打ち込めることがあったほうが、よかったのかどうか・・)。

今回のエピソードでは、生き証人からの話を聞く場面が多かったですが、最後にちゃんと公的書類や記録にもあたって、その真偽を確かめていました。今でもちゃんと、おじいさんがなくなった時の警察と遺族のやり取りが残っているのは驚きでした。日本でも「ファミリーヒストリー」という番組をNHKでやっていますが、情報をかなり証言や記憶に頼っている部分も多いかな、という印象を持っていました。しかし先日放送していたオノ・ヨーコさんの回では、家族の間に伝わっている曾祖父母のあまりにドラマチックな出会いについて、古文書をあたってその真偽を確かめる場面があり、少し改善されたのかな、と思ったりもしました(話が少し飛びました)。

日本軍と交戦した話、これはインパール作戦と呼ばれているものの一部だったんですね、「コヒマの戦い」で調べると日本語でも、日本側の証言や情報が色々出てきて興味深かったです。イギリス側から見ると、日本の兵士はかなり恐ろしい存在として捉えられていて、戦友の証言でも、とにかく日本の兵士がこの世のものとは思えないような甲高い恐ろしい声をあげて襲ってくる、というのがかなりのトラウマになっていたようでした。

でも実際日本側の証言を見てみると、このインパール作戦というのはかなり無謀すぎるものだったらしく、日本軍の兵士は飢えに苦しみ、戦闘とは関係ないところでも多くの犠牲者が出たりと、かなり過酷な状況だったようです。そんな中での戦いは、ほぼ捨て身のものだったようでした。

双方の視点から見る戦い、勝っても負けても兵士は不幸。としかいいようがありません。

最後はロシアンルーレットで亡くなったおじいさん。多くの戦友を失い、自分の命の重さも、もうわからなくなってしまったのかもしれません。

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