世界のセレブ・ファミリーヒストリー

世界のセレブ・ファミリーヒストリー

英・米・豪・加で放送されている「ファミリーヒストリー」的番組 Who Do You Think You Areの興味深いエピソードを紹介します。セレブの家族史を通じて、世界の知らなかった出来事が見えてくる。今の世界を知る上でも、個人を知る上でも、色々興味深いこと満載です。

【コメディアン:スー・パーキンズ】ブリティッシュ・ベイクオフ司会者のルーツ:戦争そして移民としての影

プロローグ

ブリティッシュ・ベイクオフの司会者として有名な、コメディアン、スー・パーキンズ。ロンドン南東部クロイドンで、父バーティー、母アンのもと、3人きょうだいの長女として育った。

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By User:Urregoluis, CC BY-SA 3.0, Link

自分の人生はとにかく全てのことにイエスと言い、全てをやりつくして前進し続けることの繰り返しだったように思う。しかし2017年に父が亡くなったのをきっかけに、一歩下がって、今自分の持っているものをもっとじっくりと大事にしようと考えるようになったという。

心を落ち着かせるために、人は瞑想することが多いが、頭の中で暴れまわる考えを落ち着かせ、心をリラックスさせる方法として、ボクシングに没頭しているスー。

父方の家族からは人に共感する心、しかし同時に人間は何をするかわからない恐ろしいものであるという恐怖感を、一方、母方の家族からは、とにかく休まず前へ前へと進んでいく、勢いのようなものを受け継いだと考えている。

自分の先祖たちが経験した色々な感情や経験はどんなものだったのか。自分の中に、その片鱗が少しでも残っているのか。自分がより良い人間になるためには、その中から取り除いたほうがいい要素があったりするのか、知りたい。

スーの祖父母たち

長年の仕事のパートナーで、ベイクオフの司会だけでなく、他の番組でもタッグを組んできた親友、メル・ギェドロイツと一緒に家族の写真を見るスー。


スーとメル

母方の祖母、リディア。祖母に関しては、とにかくいつも休みなく働き続けていたというイメージが残っている。移民の娘だったということしか知らないが、母方の家族から受け継がれている、前に進み続けるという気概は、移民だったという背景が関係しているような気がする。

自分の家族もリトアニアからの移民だというメルも、自分の先祖に似たようなことを感じると言う。

祖母リディアが子供時代の家族写真も出てくる。リディアの父母を囲むのは、リディアを含め8人の子供達。ドイツ、そして東欧と関係があるというのは聞いている。メルの祖先と同じリトアニアでご近所さん同士だったら面白いのに!と盛り上がる2人。

父方の祖父、アルバートについては、スーは何も知らないという。父が生まれた時、既にかなり高齢だったと聞いている。祖母の名前はフロレンス。2人が結婚した時、アルバートは41歳、フロレンスは22歳と随分歳が離れていた。結婚したのは1917年、第一次大戦真っ只中のコーンウォールアルバートは軍人だったらしい。戦争中だったのになぜこんな戦地と離れた場所で結婚できたのか不思議に思うスー。

また、フロレンスは有能な助産師だったらしい。残された手紙から、患者からも慕われていたことがわかり、涙ぐむ2人。

初めて知る父方祖父の生い立ち

会った事のない、父方の祖父アルバート・パーキンズの足跡をまずは追う。

祖父母が結婚した町、コーンウォール地方ボドミンに向かう。彼らが結婚した教会は、今はコンドミニアムになっており中に入ることはできなかった。

祖父アルバートは1875年生まれ。しかし、アルバートが6か月の頃、母親が死亡。1881年、5歳の時の国勢調査から、兄や妹がいたこと、父親は再婚し、継母と生活していたことがわかった。しかしその翌年、父は52歳で結核で亡くなっていた。そして実はその数か月前、継母も亡くなっていたことが死亡証明書からわかった。アルバートは孤児になってしまっていた。

当時、孤児はワークハウスと呼ばれる救貧院のようなところに行くしかなかったという。当時の記録から、彼が7歳の時、一緒に救貧院に入っていた兄だけが親戚に引き取られたことがわかり、悲しく思うスー。しかしその翌年には、アルバートも一緒に引き取られていた。

写真では、とてもまじめで厳しそうなビクトリア朝の紳士に見える祖父。子供の頃に両親を亡くした悲しく寂しい経験がその裏にあるのではと考えるスー。

その後アルバートは、軍に入隊。「コーンウォール公爵の軽歩兵」と呼ばれる部隊に配属され、12年間軍人として任務を果たした。当時の記録から身長は165センチと小柄だったことがわかる。インドに1897年から1年間派遣され、その後ボーア戦争勃発時には、南アフリカには行かず、ボーア戦争の捕虜が移送されたスリランカに数年駐在したという。1914年第一次大戦勃発時は既に40歳だったっが、志願してサロニカに送られた。

その後、負傷して除隊。理由として「トレンチフット」と書かれていた。これは、長時間水はけの悪い塹壕にいて、足がずっと水に浸かっている状態になり、足指が壊死してしまう状況を指す。祖父の場合はそれほど状態は酷くはなかったようだが、これが原因で戦争が終わる頃、ウィルトシャーにあるバルフォード・キャンプと呼ばれる基地に戻った。

助産師として活躍した祖母

バルフォード・キャンプはスーの父親が生まれた場所でもある。祖父母が住んでいた宿舎を訪れるスー。彼らはここで他の多くの軍人一家とともに生活していた。祖母フロレンスは主婦をしていたが、ある日助産師になることを決意。1900年代に入るまで、助産師は特に資格が必要ではなかったため、いわゆる藪医者的な存在であまり評判の良い職業ではなかったという。その後規制が設けられ、きちんとした資格とするために、助産師になるための研修や試験などが導入された。フロレンスはそんな研修を受けた初期の女性だったといえる。

試験代、助産師の制服や医療機器などは自前で用意しなければならなかったため、労働階級の人間が助産師になることは大変だった。それまできちんとした教育を受けてこなかったフロレンスだが、ラテン語の医療用語などを覚え、12か月の研修ののち、1928年に助産師としての資格を得た。

主婦から助産師となったフロレンスを夫アルバートは全面的にサポートし、子育ても積極的に行ったという話を聞き、嬉しく思うスー。

その後、祖母はサウサンプトン自治体が指定する助産師に選ばれている。これは優秀で腕の良い助産師だったということだった。その後第二次大戦がはじまり、サウサンプトンはドイツ軍の空襲被害を多く受けたが、そんな状況の中、祖母は走り回り、出産をサポートした。当時、助産師の制服の一部として、空襲から身を守るためにヘルメットを支給して欲しいという嘆願書が助産師達から自治体に提出されたが、却下されてしまったという。

何も無い所から立ち上がり、軍人や助産師というプロフェッショナルとして働いた祖父母。誇りに思うと同時に、過酷な環境の中でひたすら仕事に身を捧げ、一生を終えたことに複雑な思いも感じるスー。

ドイツ系だった母方一家

母方の家族、ミューラー家の足跡を追う。祖母リディアの父、エミルはドイツ出身の移民だということしか知らないスー。1911年の国勢調査では、一家がロンドンのテムズ川の南、サザークにいたことがわかった。

View of Tower Bridge from Shad Thames
By © User:Colin / Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0, Link

川沿いには有名なタワーブリッジも立つこの地域は、開発が進み、彼らの住所を訪れると高層ビルの建設が行われているところだった。当時はこの近辺には大きなドイツコミュニティがあり、ルーテル派の教会がいくつもあったという。祖母リディアの両親もそのような教会で結婚。結婚証明書には、曾祖父エミルの職業は仕立て屋となっていた。また曾祖父母の両親の職業はどちらも農民とあった。

自分の覚えている祖母リディアは、声も存在感も大きい、いかにもコックニー(下町ロンドン)の女性という感じだったが、1911年の国勢調査では家族全員「ドイツ人」と記載されている。しかし家族がドイツのルーツについて話すことはなかったというスー。これはまさしくこの頃、第一次大戦が勃発し、イギリス国内でドイツ人に対する排斥が始まったことが、大きく関係しているようだ。

収容所に送られたドイツ人

ビクトリア女王の夫アルバート王子はドイツ出身。1840年に行われたロイヤルウェディングをきっかけに、クリスマスツリーを飾る風習や幼稚園、デリなど、様々なドイツの文化がイギリスに持ち込まれ、人々に受け入れられていた。しかし1914年に始まった第一次大戦勃発で、人々のドイツに対する向ける目は疑惑へと変わる。特に1915年に起きたルシタニア号事件(イギリスの豪華客船がドイツ潜水艦の攻撃を受け沈没)を受け人々の怒りが爆発、事件の翌日から民衆がドイツ人の商店や家を襲う排斥運動が起きた。

当時の新聞記事を見るスー。掲載されている事件現場の写真は、曾祖父母の家からそう遠くないところだった。当時、ロンドンだけで2000件のドイツ系商店が襲われたという。

その後、イギリス政府はイギリスに住むドイツ人移民男性を敵国人ということで家族から引き離し、イギリス本土からは離れたマン島の施設に収容し始める。

エミルも38歳の時ここに送られてしまう。単にドイツから来たというだけで、仕事、家族、全てから引き離されてしまったのである。

View of a Pow Camp, Isle of Man, 1915-1919 Art.IWMART17053.jpg
By <a href="https://en.wikipedia.org/wiki/en:George_Kenner" class="extiw" title="w:en:George Kenner"><span title="artist (1888-1971)">George Kenner</span></a> - <a rel="nofollow" class="external free" href="http://media.iwm.org.uk/iwm/mediaLib//146/media-146036/large.jpg">http://media.iwm.org.uk/iwm/mediaLib//146/media-146036/large.jpg
This is photograph <a rel="nofollow" class="external text" href="https://www.iwm.org.uk/collections/item/object/15045">Art.IWM ART 17053</a> from the collections of the <a rel="nofollow" class="external text" href="https://www.iwm.org.uk/">Imperial War Museums</a>., Public Domain, Link

ドイツ移民を収容した施設はノッカロー(Knockaloe)キャンプと呼ばれ、ピーク時には2万3000人が収容されていた。それぞれの小屋に30人ほどが押し込まれており、家族から離れ、プライバシーの無い生活に、精神的に追い詰められたり自殺するものもあったという。その後、被収容者の精神衛生のために、演劇やスポーツなどが奨励された。フィジカルトレーニングの手法として有名なピラティスも、ドイツ人であったジョセフ・ピラティスマン島に収容されていた際に発案した運動方法がもとになっている。

当時の収容所の写真にはミシンも写っており、仕立て屋のワークショップがあったことがうかがえる。手に職を持っていた曾祖父は、仲間の服を修繕するなど、自分の仕事を収容所に持ち込み、時間を過ごすことができた点で、他の被収容者よりはラッキーだったかもしれない、という。

一方残された曾祖母は、子供達を養い、仕立て屋商売を続けるため必死で働いた。当時のことやドイツ系であるというバックグラウンドを家族の誰も話さなかったのは、そういうことだったのかと理解するスー。

多分とにかく前に進めという思いは、曾祖父エミルから来ているのではないかと考えるスー。収容所でも働き続けることで、自分と家族を救うことができたのではないかと。他の国出身だということだけで、ヘイトの対象になってしまうことに憤りを感じながらも、一方いつも自分の中にある、なんともいえない恥のような、不安な気持ちもこういう家族の経験から来ているのかもしれない、とも思う。

意外な曾祖母のルーツ

母方の祖母、リディアの母親であるアナ。1901年の国勢調査を見ると、彼女の出身地はロシアとなっていた。

1901年のセンサス。21歳の曾祖母アナ。生まれた場所はロシアとなっていた。ナヴィニンカイ(Navininkai)と呼ばれる曾祖母の出生地は、当時はロシア領であったが、現在はリトアニアにある。メルと一緒だ!と喜ぶスー。

曾祖母のルーツをたどるため、リトアニアに向かうスー。ドイツ国境にもほど近いこの地域には、18世紀頃、多くのドイツ人が安い農地を求めて移住してきたのだという。現地では、曾祖母の祖父母まで家系を辿ることができた。また曾祖母は11人きょうだいの長女だったこともわかった。

実際に先祖が住んでいた土地に向かう。全く何もない、だだっ広く寒々とした土地であるが、一族を知っていたという人の証言では、この地域でも一番大きな農地、大きな家を持つ豪農であったといい、このあたりの土地はスーの先祖の名前でいまだに呼ばれているという。

移民というと、貧しく何もないところから新天地を求めて移住したというイメージがあるが、どうやらスーの先祖はこの土地で繁栄していたようである。なのになぜここからいなくなってしまったのだろうか。

ヒットラーそしてソ連の影

スーの曾祖母アナがイギリスに渡ったあとも、一家は3-40年ほどこの土地に住み続けていたらしい。しかし1939年にヒットラーのドイツ軍がポーランドに侵攻。その際、ドイツはソ連と不可侵条約を結び、ポーランドの一部がドイツに、リトアニアの一部がソ連に渡ることとなった。このため、一家はソ連領となったリトアニアに残るか、ドイツに行くかの選択を迫られたのである。この時、多くのドイツ系リトアニア人がドイツ政府のオファーを受け入れドイツに戻ったという。

自らが卓越した人種「アーリア人」だと信じるドイツ政府は、東ヨーロッパにいるドイツ系マイノリティをドイツに呼び戻す運動を行っていた。荷車を引いた馬車でドイツに戻るドイツ系東欧人一家、そこにナチの旗を掲げて人々が出迎える写真などが残っている。一方、ドイツに戻るには、自分が正真正銘のドイツ人であることを証明する必要もあった。

ドイツの移民局の書類の中から、スーの曾祖母の弟、アルバート一家の情報も見つかる。一家は1941年ドイツに戻り、再定住のための施設に収容された。そこでは顔写真が撮られ、身体検査や様々な測定が行われたという。これは鼻の高さや目の間の距離、頭の形などを測るというもので、その結果により、「アーリア人」「平均以上」「平均」「平均以下」「混血」「却下」というカテゴリーに分けられたという。この全く科学的根拠もない人種プロファイリングで、家族は「平均以下」との判定を受けた。

またアルバートの妻、エミリアの家族の情報も見つかった。エミリアの姉妹、アデラインには聴覚障害学習障害があったという。ナチス政権はユダヤ人以外にも、障害者を排除しようとしており、アデラインが1942年に処刑されたという記録が残っていた。結局家族は1年間収容施設で過ごした後、ドイツには定住せず、リトアニアに戻っていった。

しかし1944年、ソ連リトアニアに侵攻。アルバートソビエト軍に捕まり、その後は農業労働に従事させられたという。戦後1957年に、ドイツに再度帰国を申請した。

エピローグ

歴史を学ぶとき、歴史の中には自分達のような普通の人達が普通に生きていて、でも政府や権力の決めたことに人生を左右されてしまうのも彼らだということを、つい忘れてしまう。しかし家族を通じてこんなに色々な歴史的な体験をするとは、と驚くスー。リトアニアからドイツに戻れば体を測定され、ドイツ人として十分ではないとレッテルを張られあげくの果てには殺され、またリトアニアに戻ればドイツ人だとして迫害された。曾祖母はイギリスに渡ってこういう状況から逃れることができたのは良かったが、思えばイギリスでも敵国人だとして排斥されている。

暗い気持ちで旅の終わりを迎えるスーだが、最後にリトアニアには珍しく、曾祖母アナが洗礼を受けた教会がまだ残っているというので、見に行くことにする。父方の祖父母が結婚した教会はコンドミニアムになっていたが、果たしてここは。

するとその教会はスーが愛してやまないボクシングのジムとして使われていた。リングに立ち、あまりの結末に驚き笑うスーであった。

終わりに

もうだいぶ前に交代してしまいましたが、ブリティッシュ・ベイクオフの司会として人気だったスー・パーキンズのファミリーヒストリーを紹介しました。番組では一緒に司会をしていたメルも、他の仕事でもずっと相棒だったんですね。

また2人のルーツがたまたまリトアニアと一緒だった、という偶然、またメルの先祖の名前がついた地名がリトアニアにあるらしく、あなたの先祖の名前のついた土地もあると面白いわね、などと話していたら実際そうだった、という偶然もありました。

このエピソードで驚いたのはやはり、イギリスが敵国ドイツの移民を国内で隔離収容していたという事実でしょうか。アメリカでも第二次大戦中は日系人が財産などを没収され収容所に入れられていましたが、他国でもあったのですね。

スー・パーキンズ、こういうドキュメンタリーを見ていると、結構鬱々とした面がある人なんだなーという印象も持ちました。

familyhistory.hatenadiary.com

【女優:スカーレット・ヨハンソン】北欧・ユダヤのルーツ

プロローグ

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By Gage Skidmore, CC BY-SA 3.0, Link

日本では「スカヨハ」とも呼ばれる女優、スカーレット・ヨハンソン。父はデンマークからの移民、母のルーツは東欧にある。

スカーレットが子供の頃、家族の生活はとても苦しく、ずっと生活保護に頼っていたという。そんな中、スカーレットが7歳の時にきょうだいとともに芸能事務所へ。しかしエージェントが最初に興味を持ったのは、弟のほうだったという。

それにショックを受けたスカーレット。それを見た母親が、演技にそんなに興味があるのならと、どんどんオーディションを受けるようにしてくれたのだという。それがスカーレットの女優のキャリアの始まりであった。

そして今では一番稼ぐ女優とまで言われるようになったスカーレット。貧乏の中、絶望を感じることもあったが、家族が支えあってここまでやってきた。まったく何もないところから夢をかなえた、それはある意味アメリカン・ストーリーなんじゃないかと思う、と語る。

ユダヤのルーツ

スカーレットの母方の先祖は東欧から来たユダヤ人。しかし母方の祖父母は母が子供の頃に離婚したため、祖父マイヤーのことはあまり知らないという。

1910年ユーヨークに向かう乗船名簿に、マイヤーの父、スカーレットの曾祖父の名前があった。まだ20代の曾祖父はたった一人、ほぼ何も持たず、体一つでアメリカに渡り、その後ニューヨークのロウワーイーストサイドで八百屋として、バナナを売り生計を立てたという。

身一つでやってきたということは、生きていけないような状況の場所から、一人でなんとか生き残るためにやってきたということ。機会を求めてやってきた、本当に移民の物語があったんだな、と驚くスカーレット。

家族の悲劇

スカーレットの曾祖父は1890年、現在のポーランドにあるグルジェツという街で生まれている。当時この地のユダヤ人は、農地を持つことが許されず、生活は苦しいものであったと考えられる。そんな状況から脱するためにアメリカに移民したスカーレットの曾祖父。しかし曾祖父のきょうだいはポーランドに残った。

1939年ヒットラーポーランドに侵攻。1942年2月までに、この地域に住むほとんどのユダヤ人は追放されたりゲットーに追われることとなった。

曾祖父のきょうだいには子供が10人いたという。家族はワルシャワのゲットーに送り込まれていた。

ワルシャワのゲットーの環境は劣悪で、約3キロ四方、周囲を壁で覆われたエリアに4万人が詰め込まれていたという。多くの人が飢餓と病気で亡くなり、生き残ったものも殺されたり、収容所に送られるなどした。

イスラエルホロコースト博物館に、家族の多くがワルシャワのゲットーで亡くなったという消息情報が残されていた。それを見て涙ぐむスカーレット。

自分の曾祖父はニューヨークに渡り、バナナを売りながら生き延びている間に、家族の一部はこんな目にあっていたなんて。

北欧のルーツ

スカーレットの父カーステンは1943年、デンマークコペンハーゲンに生まれた。スカーレットは13歳の時に始めてデンマークを訪れた。父親もアメリカ人というよりはよりデンマーク的で、ルーツとしてはデンマークの文化のほうがより身近だったという。そんなことから、デンマークの国籍も取っているスカーレット。

しかし父方の祖母が父が14歳の時に亡くなり、その後再婚した祖父と父が疎遠になったため、祖父に会ったことがないというスカーレット。祖父の話もほとんど聞いたことがなかった。

実はスカーレットの祖父アイナ・ヨハンソンは、デンマークでは有名な美術評論家であり、美術に関するドキュメンタリーフィルムの監督、TVパーソナリティとしてテレビに出演するなどした著名人だった。そんなこと全く知らなかった、というスカーレット。

アイナの父、スカーレットの曾祖父の名前はアクセル。コペンハーゲンで結婚した記録は残っていたが、それ以前の情報がデンマークで調べても全く出てこなかった。

実はアクセルはデンマーク人ではなく、スウェーデン人だった。1918年にデンマークに移民し、造船所や工場で肉体労働をしていたという。

これは予想していなかった、というスカーレット。なぜだかわからないけれど、自分の北欧のルーツは、もっと上流階級か貴族の血でも流れているのではないか、と勝手に思っていた。

デンマークで移民労働者であったアクセルの父親も、スウェーデンの農民だった。

しかしさらに家系図をたどると、9代前にヨハン・ホーグという名前が出てきた。彼は1689年、貴族の称号を得た人物だった。

父親に、よく君はバイキング・プリンセスなんだよ!なんて言われたけれど、貴族の血も入っているのね!と喜ぶスカーレット。それにしても家系図に記されたすべての人物がスウェーデン生まれ。スウェーデンのルーツのほうが深いことに驚く。デンマーク国籍じゃなくて、スウェーデン国籍とったほうが良かった?!

エピローグ

ルーツをたどってみると、自分はアメリカという大きなメルティングポットの産物なんだとしみじみ思う。リスクをとり、機会を求めて、何も持たずにやってきた人のおかげで、今の自分がある。

ひとこと

今回はアメリカのテレビ番組Finding your rootsから手身近に、スカヨハのエピソードの部分をご紹介しました。ワルシャワのゲットーについては、こちらのエピソードもぜひご覧ください。

familyhistory.hatenadiary.com


ずっとデンマークのルーツを大事にしてきたスカーレットですが、蓋を開けて見れば実はスウェーデンのルーツのほうが深かったことに驚いていました。スカーレットの父親はスウェーデンからデンマークに移民してちょうど3代目、もうこうなると文化やアイデンティティデンマークのものになるでしょうね。自分は〇〇人、なんて思っていても、実際のところはこんなものなのかもしれません。

【ハリー・ポッター俳優:ダニエル・ラドクリフ】宝石強盗の悲劇・途絶えた戦地からの手紙

プロローグ

ハリーポッター役で世界中に知られる俳優、ダニエルラドクリフ

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By Gage Skidmore from Peoria, AZ, United States of America - James McAvoy & Daniel Radcliffe, CC BY-SA 2.0, Link

母親はキャスティングディレクター、父親も俳優として一時期活動していたことがあるなど、芸能関係の仕事に関わる家庭に生まれた。しかし両親は彼を俳優にしようとは思っていなかったと言う。

学校生活が合わずつまらなかったことが、オーディションを受けるきっかけだった。そして11歳からハリー・ポッターとして成長することになった。

これは家族全員の人生を大きく変えることになったが、両親はそんな変化を落ち着いて、時にユーモアの精神を持って受け止めてきた。これはすごいことだと思う、と語るダニエル。

先祖のことは実はあまりよく知らないというダニエル。知っているのは、父方の先祖に、第一次大戦で戦った四兄弟がいること、母方に東欧のユダヤ人の血が多少入っているらしい、というぐらい。

あとは曽祖父が宝石商だったこと、しかし強盗の被害にあい自殺した、というのをなんとなく聞いたことがあるだけだという。

改名の謎

ダニエルの母親から、先祖のアルバムと手書きの家系図が届けられる。

家族の苗字はもともと「ガーション(Gershon)」だったが、途中で「グレシャム」に変えられている。ユダヤ系の名前であるガーションを、よりイギリス風に変えたようだが、誰がいつ変えたのかは不明。

曽祖父母の名前は、サム(サミュエル)とレイ。このサミュエルが自殺したという人物だった。

サミュエルは9人兄弟の8番目。そしてサミュエルの両親ルイとジェシーは、南アフリカで結婚していた。東欧から来たユダヤ人だと思っていたのに、違うようだ。

親戚との対面

ダニエルの祖母のいとこにあたる、ルイス・ガーションという親戚がロンドンにいると聞き、会いに行く。

この日までダニエルと親戚だったなんて知らなかった、というガーション氏。彼の父親はダニエルの曾祖父、サミュエルの弟にあたる。

高祖父ルイにちなんで、ルイスと名付けられたガーション氏の家には、ルイの写真がずっと飾ってあった。写真を見ると、目のあたりがダニエルにそっくり。同じ名前の自分より、あんたの方がまるでそっくりだね!と笑うガーション氏。

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宝石商として成功した高祖父

1900年代の国勢調査を確認する。一家はロンドンのハックニーと呼ばれるエリアに住んでいた。ルイはドイツ生まれ、妻ジェシーはロシア生まれ。

子供達はケープタウンやキンバリーなど、南アフリカで生まれているが、ダニエルの曽祖父サミュエルとその弟はイギリスで生まれていた。

当時の南アフリカは、ダイヤモンドの採掘で一攫千金を夢見たトレジャーハンターが世界中から集まって来ていた。1800年代後半には、数千人がキンバリーにダイヤモンドを求めて移住しており、ルイもその中の一人だった。

その後ロンドンに移った一家。ルイはロンドンで宝石商となっていた。

ロンドン中心部にある、ハットンガーデン。この通りは今でも、宝石商が多く集まる場所として知られている。ルイもここで、宝石商としてビジネスを確立する。

ルイの会社の価値は、当時の値段で1万ポンド(現在の6,500万円)と大きく成長していた。曾祖父サミュエルも10代で見習いとして、家業を手伝っていた。

父のあとを継いだサミュエル

27歳でレイ(レイチェル)と結婚したサミュエル。父ルイは既に亡くなっており、サミュエルは兄とともに家業を継いでいた。

結婚した二人が暮らしたサウスエンド・オン・シーを訪れるダニエル。

ここで初めて曾祖父サミュエルの写真を見る。今の自分と同じ年齢の時に撮られた写真だという。

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海に面した大きな家に暮らし、ここからロンドンに通っていた。娘も2人生まれ、幸せな生活を送っていたようだ。ここからどうやって悲劇が起きるのだろうか。

宝石盗難事件

サミュエルが強盗被害にあったという情報が無いか調べると、いくつもの新聞記事が出てきた。1936年2月、夜中に強盗が入り、オフィスの金庫がこじあけられ、指輪やネックレスなどの宝石類が大量に盗まれたことが、センセーショナルに報じられていた。

被害総額は現在の金額で25万ポンド(3200万円)とかなり大きく、警察の捜査が入った。しかしオフィスに無理やり入った跡がないことなどから、警察はこれは保険金目当ての茶番だと結論づけ、捜査を取りやめてしまった。

実はガーション兄弟が宝石の盗難に遭ったのはこれが初めてではなかった。1922年には9000ポンド(110万円)分の宝石が盗まれ、兄エドワードがその2倍の保険金を受け取るなど、過去15年間に似たような事件が3度あったという。当時のハットンガーデンに宝石泥棒が入ることはめずらしいことではなかったが、このような過去があったことから、警察は怪しんだようだ。

イギリスの反ユダヤ主義

この事件について、警察に手紙を送ったものがいた。そこには、ガーションが宝石の盗難を自作自演したことを示唆する内容が書かれていた。しかしその理由は「ユダヤ人ならやりかねない」といったものだった。

そういう時代だったんだろうけれど、ユダヤ人だということが理由にされるなんてやはりショックだね・・とダニエル。

ユダヤ人に対するヘイトは、当時イギリスでも高まっていた。イギリスでも、オズワルド・モズレー率いるファシスト同盟がナチス同様、反ユダヤ主義を掲げ始めていた。

宝石盗難事件のあった1936年には、ファシスト同盟の行進を阻止しようとした人々との間で、多数のけが人と逮捕者が出た「ケーブルストリートの戦い」と呼ばれる衝突も起きている。

サミュエルの死

新聞記事には、曽祖父サミュエルがショックで失神、運ばれる写真まで掲載されていた。事件のその日に新聞記者がその場にいたようだ。サミュエルはそのままショックで床に伏せってしまい、警察と話が出来る状態ではなかったという。

当時サミュエルと兄の会社には、被害総額とほぼ同額の負債があり、これが詐欺を働く動機になった可能性は十分考えられる。しかし警察は動かず、保険金はおりず、メディアからはセンセーショナルに報じられ・・となると、サミュエルにのしかかった重圧は大きなもだったことは間違いない。

サミュエルが本当に保険金詐欺をしようとしたのかは、わからない。自ら命をたったのは罪悪感からだったかもしれないし、家族が築き上げてきたものが、盗難であっという間に崩れてしまうことへの絶望感もあったかもしれない。

事件の5ヶ月後、曽祖父は車の中で遺体で見つかった。検死官のレポートを読むダニエル。兄エドワードの陳述が残されていた。2月に強盗にあい、ショックで2週間ほど話せない状態が続いたこと。また保険金がおりなければ会社が破産申告をしなければならず、保険会社からの連絡待ちであること、そのことについて2月からずっと悩んでいたこと。

妻には債務者に会ってくる、と言って家を出たようだ。家庭では「素晴らしくハッピーだった」。

仕事がいかなる状況であっても、幸せな家庭を築いていたサミュエル。家族を養い支えなければいけない責任のあったサミュエルにとって、この状況は恐ろしくストレスだったに違いない。もし本当に犯罪を犯してしまったのだとしても、あまり怒れない気もする・・とダニエル。

見つかった遺書には、妻への愛情ばかりが多く綴られていた。しかし長年続けてきたビジネスが破産するかもしれないことに耐えられない、とも。家族への愛が溢れる言葉を読み涙するダニエル。自分も時々不安に襲われ、自分を見失いそうになることがある、というダニエル。こんなに愛情溢れる幸せな家庭を持っていたサミュエルなのに・・。

家族のその後

サミュエルの死をセンセーショナルに報じた新聞記事。家族のショックはいかばかりだったろうか。

苗字をガーションからグレシャムに変更する改名届を手渡されるダニエル。サミュエルの妻レイが、サミュエルの死後3週間後に申請したものだった。

ユダヤ人であることを隠すために改名したのだと思っていたが、家族をスキャンダルや好奇の目から守るため、名前を変えたことがわかった。

そしてサミュエルの死から1年後、盗難への保険金は無事におりたという。

レイが子供達、つまりダニエルの祖母、しいては母をいかに守ろうとしたかがよくわかる。サミュエルは重圧から逃れるため亡くなってしまったが、その後レイが立ち上がった。自分はいつも強い女性に囲まれていると感じるが、曽祖母レイはその中でももっとも強い女性、そしてまた曽祖母に続く強い女性が生まれる道筋を作った人物のように思える。これは先祖の中でも、失敗してしまった男性の話であると同時に、その後を守った女性の勝利の歴史であるとも感じる。

第一次大戦を戦ったアーニー

ダニエルの父は北アイルランド育ち。ベルファスト郊外、バンブリッジに実家がある。

ダニエルは第一次大戦を舞台にしたテレビ映画「マイ・ボーイ・ジャック」の撮影時、曾祖伯父(曽祖母の兄)の1人、アーニーの写真をトレイラーに飾っていた。曽祖母の兄4人が第一次大戦で戦地に行ったことは聞いているが、それ以上のことは知らないという。

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叔母に話を聞くダニエル。ダニエルは覚えていなかったが、曽祖母フロー(フロレンス)はダニエルが赤ん坊の頃存命で、2人で撮った写真が残っていた。曽祖母フローは10人きょうだいの末っ子。兄のうち4人が戦争に行き、そのうちの1人がアーニー・マクドウェルだった。

兄からの手紙

フローは、アーニーが戦地から家族に当てて書き送った手紙の束を大事に持っていた。それを読むダニエル。

雪の上に寝ているけれど、毛布が何枚もあるから全然大丈夫、そんなに悪くないよ、といった近況を伝える手紙。母からの返事も残っていた。他の兄弟が頭に刺さった弾丸の破片を取るために入院していること、無事に戻ることを祈るメッセージ。そしてアーニーのガールフレンドだったジーニーという女性からの手紙も数多く残っていた。

この時代、こういった手紙のやり取りは珍しくなかったという。この世代は、労働階級の中でも義務教育を受けた最初の世代にあたり、識字率も高かったこと、そして戦争によって、文通が盛んになったという背景があった。

手紙の他にも食べ物や物資などが入った小包も前線に送られ、こういった故郷からの便りが、兵士の士気を高めることにもなった。手紙は前線に2−3日で届いたという。第一次大戦中に送られた手紙は実に20億通、小包は1億個にものぼった。

アーニーの従軍記録はもう残っていないため、状況はこういった手紙から推測するしかないが、1914年には予備役であったが開戦と同時にすぐに動員されたらしい。しかしその後凍傷で入院。またしばらくして戦地に戻ったものの、今度はふくらはぎを撃たれて入院している。足を撃たれた時には、同じ部隊にいたらしい兄が担いで助けてくれたことが書かれていた。

この手紙のコレクションには、母親や恋人からの手紙も合わせて残っているところがユニークだという。恋人からは引き続き愛情溢れる手紙が送られており、戦地では兄弟が助け合う姿など、戦争の中にも日常が営まれ、愛情が続いていたことがよくわかる。

途絶えた手紙

1916年5月の手紙がアーニーから出された最後の手紙だった。2年間続いていた彼の手紙はここで途絶える。

バンブリッジの教会を訪れるダニエル。教会の壁にかけられた戦没者慰霊碑に、アーニーの名前があった。兄弟の中で名前があったのはアーニーだけだった。

アーニーが亡くなった時、その場にいたという戦友がアーニーの母に送った手紙も残されていた。アーニーが塹壕にいた時砲弾が着弾し、3人が亡くなった。言葉を残すこともなく、即死だったようだ。一人息子である自分であるが、自分の母親のことを思っても、このようなニュースを母親が受け取らないといけないということは、いかなる心情であるか想像に難くなく・・・と綴った戦友。

少しでも母親を慰めようと、アーニーが苦しむことなく亡くなったことを伝えたかったんだろうね・・とダニエル。

アーニーに手紙を送っていたガールフレンドはどうなったのかが気になるダニエル。2人は1915年のバレンタインの日に、この教会で結婚していた。この年は、アーニーが凍傷などで療養するため地元に長期間戻っていた年だった。少しでも2人が新婚カップルとして時間を過ごせたことに安堵する。また残りの3人の兄弟は無事帰還したという。

エピローグ

ドラマではまさに塹壕の中の兵士を演じたが、こうやって実際に自分の家族が経験したことを知って、さらにそのストーリーにつながりを感じた。兄弟の中でもアーニーのことが気になったのは、やはり1人だけ戻ってこれなかったからかもしれない。アーニーの母からの手紙を読んで、息子を戦争に送る母親の気持ちもよくわかったし、自分の家族の中にあふれる愛情というものにとても気がついた。

家族の中には色々な悲劇があったけれど、彼らは皆愛されていた。人生半ばで亡くなった人たちがいたが、彼らが生きていた時間は、愛に溢れ、生きている価値が十分にあったものだと思う。

ひとこと

久しぶりに誰でも知っている有名人のエピソードが放送されましたので紹介しました。

ハリー・ポッターでしか知らなかったダニエル・ラドクリフですが、彼ももう30歳。映画では髪の黒い男の子でしたが、このエピソードで登場したダニエルは髪の毛も赤茶に近く、本当にどこにでもいそうな普通の青年という感じでした。

ハリー・ポッターという世界中でヒットしたシリーズに長年出演して人生を大きく変えた彼ですが、Wikipediaによると発達性協調運動障害で学校生活に馴染めなかったのが、子役になるきっかけだったようです。この番組の中でも、不安に苛まれることがある・・ということを少しためらいながらも話していたのが印象的でした。

ダニエル(お母さんにはダン、と呼ばれていました)の親戚として登場したロンドン在住のガーションさん。頭にヤマカ(ユダヤ人男性がかぶる小さくて丸い帽子)をかぶったおじさんは、おばあさんのいとことして登場しましたが、多分まだ60代ちょっとに見えました。サミュエルの弟はずいぶん年が離れていたのか、ずいぶん後になって生まれたんでしょうが、2世代違うのになんだか不思議な感じでした。

それにしても、ドイツと戦ったイギリスでさえ、ファシズムユダヤ人排斥の動きがあったんですね。番組ではそれこそナチス式の敬礼をしているイギリスのファシストの写真も紹介されており、はああ・・と思ってしまいました。

ひいお爺さんが卒倒して運ばれる写真、男たちに脇を抱えられるようにして運ばれてい写真でしたが、一体どうやってマスコミは話を聞きつけてやってきたんでしょうか。

そして戦争に行った先祖の手紙。戦争はどの時代も残酷ですが、こういった一兵士の何気ない手紙のやり取りを読むのはより悲しみを誘います。亡くなる前に少しでも夫婦として時間を過ごすことができたガールフレンド、結婚できてよかったですが、その後どうなったのかも気になりました。

【女優:ルビー・ワックス】ホロコーストと精神疾患の家族の歴史

プロローグ

コメディアン、女優、ルビー・ワックス。

Ruby Wax in 2016.jpg
By Jjnoordman - Own work, CC BY-SA 4.0, Link

長年イギリスで活躍しているが、生まれも育ちもアメリカ、イリノイ州

両親はオーストリア出身のユダヤ人で、ナチスの迫害を逃れアメリカにやってきた。

ルビーの両親の関係はあまり良くないものだったという。

ルビーは18歳の時、両親から逃れるようにヨーロッパへと戻ってきた。そしてイギリスで女優としてのキャリアを積むこととなった。

90年代になり、ルビーは精神を病み入院。それがきっかけとなり、ルビーは認知療法の学位を取り、精神衛生についての啓蒙活動にも力を入れるようになった。

自分の人生には、いつも不安がつきまとっていた。この原因は両親のせいだと思っているが、本当の原因は何なのか。その背景を知りたい。

母のスーツケース

ルビーの母親は、ヒステリーを起こし、意味不明、支離滅裂なことを叫ぶことがよくあった。父親は暴力的で、ルビーも子供の頃はベルトを持った父に追いかけられたりしたという。

父親はアメリカを愛していたが、母親はアメリカに馴染めず、自分の夫を嫌っていた。

両親の関係は最悪だったと思うが、もともとこうだったのか、それともふたりの間に何かがあったのだろうか。

20年前ルビーは実家の屋根裏部屋で、母親がオーストリアから持ってきたスーツケースを見つけた。中には書類や手紙、写真がたくさん入っていたが、ドイツ語を読めないルビーには内容がわからない。

戦争の時の経験をほとんど話さなかった両親。スーツケースの中からできた写真の人物も、手紙の差出人である「エラ」そして「サロ」は一体誰なのか。

獄中でエアロビクスのコーチだった?父

両親の過去を探るため、ウィーンに飛ぶ。

自分がユダヤ人という自覚があまりないというルビー。ホロコーストに関する映像などもほとんど見たことがないという。

当時、ウィーンでユダヤ人だということがどれだけ大変なことだったのか、ということも想像がつかない。

ルビーは父親が船に潜り込みアメリカに渡ったこと、その前にはナチスにより投獄されていたという話を聞いていた。

投獄されている間、父親はエアロビクスを教えていた、と言っていて、特につらい思いをしたような印象は受けなかった。その話は、まるで冒険談でも聞いているようだったという。

投獄・拷問

ルビーの父は、1938年4月から2ヶ月間投獄されていた。ナチスオーストリアを併合した1ヶ月後のことだった。

ヒトラーオーストリア併合から2日後にウィーンに入り、ウィーンの人々から熱狂的な歓迎を受けた。

その直後から、オーストリアに住むユダヤ人への襲撃が始まった。ルビーの父親も、特に理由があったわけではなく、単に彼がユダヤ人だという理由で逮捕、連行されていた。

スーツケースからルビーが見つけた手紙の一通は、投獄されていた父へ、母が送った手紙だった。

まだ結婚していないふたりだったが、その内容は愛情に溢れているものだった。両親の間にこんな感情があったとは、と驚くルビー。

拘置所で、エアロビクスのコーチとして他の囚人に運動の指導をしていたと信じて疑わなかったルビー。

しかし実際は、父も他の囚人も、拷問の一環として激しい運動をさせられていたことが明らかになる。

その「運動」のあまりの過酷さに、時に窓から飛び降りで自殺する者も出るほどであったという。

父から話を聞いた時はまだ子供だったし、父の言うことを信じていたが、なぜ本当のことを話してくれなかったんだろう。

アメリカへ

ルビーの父は2ヶ月ほどで釈放された。釈放される条件として、すぐに国から出て行くことを誓約する書類にサインさせられた。出て行かなかった場合、強制収容所送りが待っていた。

当時のウィーンには、ヨーロッパで最大のユダヤ人コミュニティがあった。

当初ナチスは、ユダヤ人を国から追放するという政策を公には掲げていたが、大量の難民の流入を恐れた近隣諸国はユダヤ人の入国を厳しく制限。多くのユダヤ人は行き場を失った。

そんな中、ルビーの父はなんとかベルギーに行くビザを入手。急いでルビーの母と結婚した。

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両親の結婚写真

ルビーの父は資金を国外に持ち出すことに成功し、1938年9月、ウィーンを脱出。当時でも珍しく、飛行機と電車を乗り継ぎ、ひとりベルギーに向かい、さらにアメリカに密航した。

当時アメリカでも、難民、特にユダヤ人難民が国に来ることに反対する声が多かった。

しかし父は賄賂を渡したか、なんらかの方法でアメリカに来ることができた。

迫害を目の当たりにした母

一方ルビーの母は、別ルートで単身アメリカに渡る。母の親戚がシカゴにいたため、正規のビザを取ってアメリカに向かった。

逃避行の列車の中では、金髪の母をアーリヤ人だと信じたナチスの将校が席を譲ったという。ナチスの思想なんて、ユダヤ人の現実も知らない、結局はそんな適当なものだった。

ルビーの母が国を離れたのは1938年12月。11月には、「水晶の夜」と呼ばれるユダヤ人を迫害する暴動がドイツ、オーストリアの各地で起こっている。

ユダヤ人の商店、シナゴーグや住居が襲撃・放火され、多くのユダヤ人が暴行されたり逮捕された。特にウィーンでの襲撃はひどいものだったという。

この事件が起こったとき、母親もその場にいたことになる。しかしそんな話は一言もしなかった。もしかして、これがトラウマになって母は精神を病んだのだろうか。90歳まで生きた母だったが、これが引き金で一生を台無しにしたのだろうか。

両親が結婚したシナゴーグに向かう。ウィーンで最大級だったというシナゴーグはもう残っていなかった。ここも両親が結婚した3か月後、「水晶の夜」で破壊されてしまっていた。

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Public Domain, Link

この時母親は24歳。

自分にとって両親はモンスターでしかなかった。でもここで見えてくる両親は、まったく別人のようだと感じるルビー。

自分にとっては、いつもイライラして何かに対して怒っている母親でしかなかったが、一言でもこのことを話してくれていたなら、少しは同情の余地があったかもしれない。

叔母からの手紙

スーツケースに入っていた、「エラ」と「サロ」から送られたたくさんの親密な手紙。ガブリエラ(エラ)、サロモン(サロ)はルビーの母にとっては叔母、叔父にあたる人物だった。

当時ガブリエラは60代なかば、サロモンは70歳ちかく。ルビーの母が無事アメリカに渡った後も、ウィーンに残されていた。

引退するまで、歯科医院を開いていたガブリエラとサロモン。彼らの住居兼仕事場だったアパートを訪ねる。

ガブリエラがルビーの母親に送った手紙。そこには食べ物が手に入らず、二人ともやせ細っていること、がんばって英語の勉強をしていることが書かれていた。

1941年頃のウィーンのユダヤ人の状況はますますひどいものになっていた。ミルクや卵といった食糧を買うことは禁止され、買い物も決まった店で、限られた時間内に済ませなければならなかった。

ユダヤ人のビジネスは接収されたり強制的に閉鎖されたため働くこともできず、また銀行口座も凍結された。

住む場所も制限されるようになったため、ガブリエラとサロモンも、自分たちのアパートを他の家族と共有しなくてはならなかった。

毎週多くのユダヤ人が列車に載せられ「追放」されたが、その列車が向かった先は収容所であった。

間に合わなかった書類

1941年半ばまでに13万人のユダヤ人がウィーンを脱出。しかしそれ以上のユダヤ人が収容所に送られていた。そんな中、ガブリエラとサロモンはなんとかアメリカに向かおうとしていた。

アメリカに行くビザを得るためには、アメリカにいる親戚が金銭的なサポートをすることを証明する書類が必要だった。その書類を待ちわびているという手紙。

ビザのための書類をそろえることは大変で、結局彼らがルビーの母からこの書類を受け取るまでに、手紙からさらに6週間もかかっていた。

しかし書類が彼らの手元にようやく届いた頃、アメリカ政府はビザに必要な書類の条件を変更。受け取った書類だけでは、ビザを申請することはできなくなっていた。

さらに1941年7月、ウィーンのアメリカ領事館は閉館されてしまう。

働くこともままならず、外に出ることも危険な状態で、身動きを取ることのできなかったガブリエラとサロモン。

見捨てないでほしい、というガブリエラからの手紙。

しかし1941年10月、ドイツはいかなる移民も禁止する、という法律を施行する。これで、ユダヤ人が国外に出ることは不可能になってしまった。

叔母からの手紙もここで途絶える。

エラとサロの最期

その後この二人はどうなったのだろうか。

ホロコーストの犠牲者の情報を集めたオンラインデータベースを調べると、サロモンはチェコのテレジーン(テレージエンシュタット)にあったゲットーで殺害された、とあった。

ガブリエラも同様に亡くなっている。

自分の家族の中に、ホロコーストで亡くなった人がいたことが信じられない、とルビー。自分の家族はスマートに早いうちに脱出していたのだとばかり思っていた。しかし年老いた2人は、足止めをくらい、悲劇にあってしまった。

抗精神病薬を飲んでいるので、あまりこのことについて深く感じられなくて逆に良かった。そうでないと、たぶん自分がおかしくなってしまいそうだ。

ユダヤ人が運営する収容所兼ゲットー

大叔父、大叔母の最後の場所となったチェコ・テレジーンに、列車で向かうルビー。彼らもどこに行くともわからない列車に載せられていたかと思うと、寒気がする。

列車から降りた後、人々は2キロ半ほど歩かされ、ユダヤ人を収容するためのゲットーに向かわされた。

戦争前、テレジーンは小さな街だったが、ナチスがベルリンやウィーンの年老いたユダヤ人を収容するための場所として、多くのユダヤ人が送り込まれた。

このようなユダヤ人を収容するため、街の住人は自分たちの住居を明け渡さなければならなかったという。

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By Hans Weingartz - de.wikipedia からコモンズに IreasCommonsHelper を用いて移動されました。, CC BY-SA 2.0 de, Link

14万人が収容されたこの場所は、他の強制収容所とは違い、このような一般の住居を収容所代わりとしていた。ガス室や制服もなく、SSの指示のもと一部はユダヤ人が運営する形となっていた。

しかし住環境は劣悪で、食べ物もあまりなく、ひと部屋に大勢が重なり合うように暮らし、窓や水道、トイレなども無い場合もあった。このため疫病が蔓延、特に体力のない老人はどんどん亡くなっていった。

Many people clustered around a lit candle
By Bedřich Fritta - Ghetto Fighters House, Public Domain, Link

さらにこの収容所から、アウシュビッツやトレブリンカといった強制収容所に多くの人々が送られていった。

サロモンはこのゲットーに輸送されて1週間後に亡くなっていた。ガブリエラの記録は、残されていなかった。

サロモンとガブリエラが、強制収容所で亡くならず、苦しんだ時間も短かったのは、せめての救いだったかもしれない。

戦争前に亡くなった先祖の足跡

ガブリエラのきょうだいでルビーの祖父リチャード、その妹のオルガ、そして曾祖父ソロモンは皆戦争の前に亡くなっている。

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左からルビーの叔母ガブリエル、祖父リチャード、曾祖父ソロモン、大叔母オルガ

ウィーンの墓地で彼らの墓石を見つけるルビー。曾祖父ソロモン、祖父リチャードがそこに眠っていた。

自分につながりのある先祖がここにいたのに、今まで誰も教えてくれなかったなんて。

1933年に亡くなった大叔母オルガは、身寄りのない人々が埋葬されるエリアに、墓石もないまま埋葬されていた。

オルガの最後の住所は、今もウィーンにある精神病院だった。

精神病棟にいた大叔母

発作で暴れたり叫んだりする患者を収容した病棟を訪ねるルビー。母親も道の真ん中でいきなり叫びだしたりすることがあったという。もしかして何か遺伝的なものだったのかもしれない。

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By Bwag - Own work, CC BY-SA 4.0, Link

当時の精神病棟での治療は、患者を落ち着かせるために長時間風呂に漬けたり、作業療法をしたりするものだった。

オルガはここでお針子の作業をしていたようだ。

ルビーの家族は、ウィーンに来る前はモラビア(現在のチェコ)、ブルノという街に住んでいた。

オルガがチェコでも精神病院に入っていた記録が見つかる。24歳から亡くなるまでの30年間、ほとんどの年月を、精神病院で過ごしたようだ。

母親は良く吠えるように叫んでいた。オルガもここで叫んでいたのだろうか。自分の母とオルガは同じような病気を持っていたのかもしれない。これが遺伝だとしたら・・自分が精神病棟に入らないですんでいるのは、ユーモアのセンスで乗り切っているからかもしれない。

曾祖母もまた

ウィーンに来る前の家族の様子について知るため、チェコ・ブルノに向かうルビー。

ここではオルガの情報は見つからなかったが、オルガの母親、ルビーの曾祖母バーサがブルノの精神病棟に入院していたという情報が見つかった。

当時の新聞記事も残っている。そこにはバーサが突然家具を売り払い、自殺をほのめかす手紙を残して出奔したことが書かれていた。

自殺は阻止され、バーサは精神病棟に入院するが、7か月後に結核で31歳の若さで亡くなっていた。

娘オルガが入院する19年前、1884年のことだった。

オルガやガブリエラなど残された子供達は、まだ10歳にもなっていなかった。

エピローグ

自分の母、そして曾祖母、大叔母と家族に精神を病んだ先祖がいたことがわかったルビー。

長年セラピーにお金をかけるより、自分の先祖についてもっと早くに調べていれば良かったかもしれない。

先祖のことを知ることで、自分がなぜこうなのかということも理解できた。

曾祖母も大叔母も精神病棟に入るような症状があって、母にも同じ症状があったということ。そして自分が絶えず不安を感じている理由がわかった。

彼女たちはある意味自分の「パイオニア」で、力尽きるまで生き続けたことを誇りに思う。

ひとこと

このエピソードはとても複雑な気持ちになるものでした。

本人も精神疾患があるというルビー・ワックス。家族のメンタルヘルスの歴史に向き合い、自分がなぜいつも不安にさいなまれるのか、という原因の一つを見る赤裸々なエピソードでした。

しかし一方で、両親との関係が悪かったとはいえ、ここまでホロコーストに関して無知なものなのか・・と驚く部分も。

自分の家族はスマートに逃げられたと思っていた、ウィーンでユダヤ人であるということがどれだけ大変だったか想像もつかない・・・そして新しい情報がわかるたびに、ぽかーんと口を開けて反応するのは、うーん、ちょっとこれは・・と思った視聴者も多かったようです。

薬を飲んでるから、感情的に深く入り込めない・・そして精神を病んだ先祖がいることが分かった時も、情報を調べてくれた相手に精神疾患に関するちょっとひねくれたジョークを言おうとして「いえぜんぜん笑えない話ですから」とたしなめられたりもしていました。

お母さんの状態もとても悪かったようですね。遺伝的なもの、そしてユダヤ人迫害のトラウマが、さらに状況を悪くしたかもしれません。

そして娘にはそれを語らなかった両親。

色々な要素があったとは思いますが、親の代で直接経験したことでも、これだけ無知でいられるわけです。ホロコーストはなかったと言ってしまう遠い日本の整形外科医の老人のことを思い出してしまいました。

大叔父・大叔母が収容されたゲットー。ホロコーストというと、即貨物列車に載せられ、収容所に入れられ、ガス室に送られるものだというイメージがありましたが、色々な形があったのだということがわかりました。

このゲットーは老人のほか、特権ユダヤ人などが輸送され、文化活動があったり、ユダヤ人による運営がされたりと、想像していたものとは違うものでした。といっても別にパラダイスというわけではありません。やはり劣悪な環境の中で、多くの人が亡くなり、またここから強制収容所に人々が送られたそうです。

またこのような「比較的環境の良い」収容所を作って公開することで、赤十字や世界に対して、ホロコーストの隠れ蓑としていた部分もあるようです。詳しくはこちらWikipediaのエントリーをご覧ください。

実際にこの場所に行かれた方のレポートはこちら

「収容所のオーケストラ」のエピソードはNHKでも放送されたそうです。そのことについては、こちらもご覧ください。

そのほか、家族がホロコーストにあった有名人のエピソードはこちら

familyhistory.hatenadiary.com
familyhistory.hatenadiary.com

【俳優:ベン・メンデルソーン】作曲家メンデルスゾーンとの繋がりの謎・舞台に立った先祖?

プロローグ

オーストラリアの俳優、ベン・メンデルソーンティーンの頃からオーストラリアで俳優として活躍、悪役や複雑な過去を持つ役柄を演じることが多い。

Ben Mendelsohn as Orson Krennic-Rogue One (2016).jpg
By Taken from Star Wars Databank entry on Krennic: http://www.starwars.com/databank/director-orson-krennic, Link

最近では「スターウォーズ・ローグワン」、「ウィンストン・チャーチルヒトラーから世界を救った男」、そして「キャプテン・マーベル」にも出演するなど、ハリウッド映画でも活躍している。

ベンの父親は医者、母親は看護師。職場結婚した二人だったが、その後離婚。

ベンは最初母親と暮らしたがうまく行かず、再婚した父親の仕事についてアメリカに渡った。そこで数ヶ月間寄宿学校に入ったがすぐ退学。その後はオーストラリアに戻り、祖母と暮らした。その頃から演技に興味を持ち始めたという。

祖父母以前の先祖のことは何も知らないというベン。自分の家族は、何でこうなのかということを知りたい。

特に興味があるのが、有名なメンデルスゾーン一家と関係があるのかということ。

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By After Anton Graff - Upload by James Steakley. Das Jahrhundert der Freundschaft. Johann Wilhelm Ludwig Gleim und seine Zeitgenossen, ed. Ute Pott (Göttingen: Wallstein, 2004), p. 109., Public Domain, Link

ドイツのユダヤ人哲学者・啓蒙思想家モーゼス・メンデルスゾーン

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By James Warren Childe - watercolor painting, Public Domain, Link

そしてその孫で作曲家のフィリックス・メンデルスゾーン

名前のスペルは微妙に違うが、それほどよくある名前でもないので、何かつながりがあるのではないか。

メンデルソーン家に流れる音楽家の血

父方の祖父、オスカー・メンデルソーンは1896年生まれ。6人兄弟の末っ子で、化学者として活躍した。オスカーはジュリアード音楽院も卒業しており、オスカー・ミルソンという別名で、作曲活動もしていた。

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祖父の遺品箱の中から、オスカーが出版した楽譜が出てくる。さらにフィリックス・メンデルスゾーンの楽譜コレクションも出てきた。やはり何か関係があるのだろうか?

オスカーの父、ベンの曽祖父サウル・メンデルソーンはドイツ系のユダヤ人。

https://s3.amazonaws.com/photos.geni.com/p13/89/89/a8/b7/534448398aa2b90e/03964_medium.jpg

1860年、16歳の時にベルリンから、現在人口4000人の街ナナンゴにやってきた。祖父オスカーもここで生まれた。

サウルはナナンゴに商店を2店持つ、地元の名士だった。

このサウルもまた、1891年に歌を出版していた。オーストラリアのフォークソングとして今も歌い継がれている「ブリスベーン・レディーズ」という歌。

www.youtube.com

この歌は、イギリスの船乗りが歌っていた「スパニッシュ・レディーズ」という歌を、サウルが歌詞をクイーンズランドのカウボーイの生活に書き換えて出版したものだった。

オスカーの音楽を愛するDNAは、サウルから来ていたのかもしれない。

サウルはこの歌が流行るのを見届けることなく、その後胃がんで亡くなった。

死を覚悟したサウルが、妻や子供達に宛てて書いた手紙を読むベン。子供達の成長を見ることなく亡くなったのは残念だが、ベルリンから遠いオーストラリアに単身やってきて、大きな家族を作り、身を立てた人であった。

メンデルソーン家のルーツ・シュナイデミュール

サウルは1844年、プロイセンのシュナイデミュールという場所で生まれている。父の名前はメンタイン(Menthein)、母はヘンリエッタ。シュナイデミュールとはいったいどこなのか?現地に飛ぶベン。

当時はドイツ(プロイセン)領だったシュナイデミュールは、現在はポーランドのピワという街となっていた。

当時の面影を探して街を歩いてみるが、戦争中の空爆で何も残っておらず、現在は無機的な古い近代アパートなどが建ちならぶ殺風景な場所になっていた。

1850年ごろは、街の人口の20%がユダヤ人だったが、1940年までにシナゴーグをはじめ、ユダヤ人に関連するものはすべて破壊されてしまった。

古いユダヤ墓地があったという場所に向かったが、そこに残っていたのは壁だけだった。地元の人によると、ナチス占領時代にはここにナチス政府の大きな建物があったという。

ユダヤ人の面影が跡形もなく消え去っていることに、空虚な気持ちになるベン。

有名なメンデルスゾーンとのつながりは

シュナイデミュールでのユダヤ人の記録はほとんど残っていないという。

しかし曾祖父サウルはオーストラリア移住前にベルリンにいたため、ベルリンのユダヤ人墓地の記録を調べたところ、サウルの両親、メンタインとヘンリエッタの埋葬記録が見つかった。

ユダヤ人関連の記録は多くが破壊されてしまっているため、1800年後半の記録が見つかったのは奇跡だった。実際、この書類も端に焼けた跡が残っている。

この記録から、高祖父メンタインもシュナイデミュール生まれだということがわかった。メンタインの父の名前はベレルで、商人だった。

ベンの先祖は代々このシュナイデミュールに住んでいたようだ。一方、有名なメンデルスゾーン一家の家系図も確認してみるが、こちらはハンブルグやベルリンなど、より「上流階級」な都市に住んでいた。

当時、ユダヤ人の自由な移動は制限されていた。貿易商などの仕事をしている場合は、各都市を移動することもできたが、家族をつれて移動することはまず考えられなかった。

そう考えても、ベンの一家と著名なメンデルスゾーン一家は、長い間地理的にも離れており、残念ながら関係はないと考えられる。

プロイセン国民となった先祖

高祖父メンタインの父、ベレルの名前が、最近出版された、シュナイデミュールのユダヤ人の歴史をまとめた本に見つかった。プロイセンの国民として市民権を取ることのできたユダヤ人のリストの中に、ベレルの名前があった。

市民権を取るのは簡単ではなく、さまざまな制約、条件があった。

芸術・農業・科学などの知識があることや、品行方正であること、芸術やビジネスの面で、何か国に貢献があった人物である必要があった。

羊毛商だったベレルは、これらの条件をクリアして晴れて正式なプロイセンの国民として認められていた。

そうかそうか・・、シュナイデミュール。良かったよね、シュナイデミュールで。と納得するベン。

母方のルーツ

次は母方のルーツを探る。母方の5代前の祖母、エリザベス・テンパニーは1842年、イギリス・ケンブリッジで生まれている。

11人きょうだいだったが、そのうちエリザベスと6人のきょうだいがオーストラリアに移民してきていた。

きょうだいは、少しずつオーストラリアにやってきたようだ。最初にやってきたのは、兄サミュエル。書類を見てみると、1847年、馬を盗んだ罪でオーストラリアに送られ、7年間服役していたことがわかった。

オーストラリア人だったら、先祖に犯罪者がやっぱりいるよね!素晴らしい!と喜ぶベン。

ベンの先祖であるエリザベスは、1863年、21歳の時にオーストラリアへとやってきた。

エリザベスの出生証明書にあった父親の名前は、アンドリュー・ジョン・テンパニー。職業は紙染職人。

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一方エリザベスの結婚証明書には、父親の職業は一転して「ジェントルマン」と書かれている。ジェントルマンだって!と爆笑するベン。

また、ケンブリッジの歴史が書かれた本に、アンドリュー・J・テンパニーという名前が出てくる。1830年代、ケンブリッジに劇場を建てるため、資金集めに奔走した人物として紹介されていた。

俳優だった先祖?

紙染職人、ジェントルマン、劇場設立者、そして馬泥棒の父親。一体こられは同じ人物なのか。エリザベスの父、アンドリュー・ジョン・テンパニーの足跡を追い、イギリスへと向かう。

当時のケンブリッジシェイクスピア・クラブの公演のパンフレット。ここに、アンドリュー・テンパニーの名前があった。悪役やおどけ役などで舞台に登場している。これが本当に自分の先祖なんだろうか?とベン。

当時のケンブリッジのことが書かれた別の本に、劇場設立の立役者、アンドリュー・テンパニーについての記述があり、そこにはアンドリューは紙染職人だったと書かれていた。

「向こう見ずな性格で、そんなところがケンブリッジの学生に人気があった。あまり先を見ない性格のため、いきあたりばったりな暮らしぶりではあったが、その分臨機応変に対応する力にたけていた」

うーん、向こう見ずなところとか、自分にものすごく似てるじゃないか・・、とベン。

舞台でつける黒いストッキングが行方不明になったときも、素早く自分の足を黒く塗ることで解決したという。

紙染職人だったアンドリューだが、ケンブリッジの裕福な学生と交流することで、自分もジェントルマン風にふるまうようになったのだろうか。

悲劇の結末

ケンブリッジの舞台に立っていたアンドリューのその後を追う。

1851年の国勢調査では、職業は引き続き紙染職人で、10歳、9歳、5歳の子供の名前があった。

20年後の1871年。そこに子供の名前はなく、アンドリューも住居を移転。職業は会計士。60代になっていたアンドリューだが、この期に及んで転職をしたのだろうか?

そして1876年の死亡証明書。ここでの彼の職業は、事務員となっていた。しかし亡くなった場所は、ロンドンのワークハウス、救貧院であった。

ワークハウスだった建物を訪れるベン。

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By Peter Higgimbothom - http://www.cqout.com/item.asp?id=4872846, Public Domain, Link

ワークハウスは、貧困に陥った者を収容する施設だったが、着心地の悪い制服、質の悪い食事や混み合った部屋など、入所したものが長居しないよう、決して居心地の良い作りとはなっていなかった。

働けない老人もここに収容されており、アンドリューは1875年に入所、4か月後、ここで73歳で亡くなった。

転落の人生

アンドリューはなぜ、ワークハウスでひとり亡くなったのだろうか。

25年前の情報にさかのぼる。1849年、妻アナの死亡証明書。アナは49歳でコレラで亡くなっていた。当時コレラが世界で大流行しており、感染すると1−2日であっという間に亡くなってしまったという。

アンドリューには10歳から7歳の4人の子供が残された。

また、先を見ない彼の向こう見ずな性格も災いした。彼はロンドンで不動産投資をし、それを貸し出すなどしていたが結局失敗、破産してしまう。

長男には馬泥棒の前にも前科があった。このような盗みに走ったことも、理由がつく。

ちょうど当時は、貧困から逃れ、仕事を求めてオーストラリアに向かう移民が増えていた時期だった。家族は新天地を求めてオーストラリアに向かったと考えられる。

ワークハウスの混みあった食堂で、水のようなスープをひとりすすっていたのかと思うとなんとも言えない。まるでディッケンズに出てくる登場人物のような悲惨な結末だった。

大きなため息をつくベン。

アンドリューの人生の終わり方はひどいものだった。自分の子孫が彼のことを思い出してここにやってくるなんて、思ってもみなかっただろうな。ケンブリッジの舞台にたっていたアンドリューだけれど、こうやって子孫が取材にやってきて、より多くの人に彼の存在が知られた・・ということは、長い時間がたって、彼がより大きな舞台に立った、と言えるのかな。

エピローグ

アンドリュー達が最後に住んでいたロンドンの住所を訪ねてみるベン。

ロンドン中心街にほど近いポーツマス・ストリート。アンドリューはこの通りの13番地から16番地の不動産を4件所有していた。中心街なので、もう古い建物は残っていないと思うが・・と見つけた建物は、ディッケンズ時代のものを扱う骨董品店。建物自体もとても古く見えるものだった。

中に入って番地を聞くベン。まだ店内に置いてあった、店の立て看板に住所が書いてあった。それを外に持ってくるベン。住所はまさしく、ポーツマスストリート13・14番地だった。

ひとこと

このエピソードは2009年、約10年前にオーストラリアで放送されたもので、見た当時はメンデルスゾーンに似た名前の役者がオーストラリアにいるんだな、位にしか思っていなかったのですが、ここのところ(筆者でも知っている)メジャーな映画にも出演するようになり、ああこの人だったな、と思い紹介してみました。10年前の番組ではまだ若い感じでしたが、最近ではより渋い役者さんとなっていますね。

まず有名な作曲家のメンデルスゾーンユダヤ人ということを知りませんでした。キリスト教をモチーフにした音楽も作曲していますし、ピンとこなかったのですが父親の代でキリスト教に改宗し、苗字もユダヤ人的なメンデルスゾーンから「バルトルディ」に変えていたそうです。それでも「ユダヤ人」といろいろ揶揄されたりしていたようです、知りませんでした。

長年その土地に根付き、銀行家や商人として各地で活躍していたユダヤ人でも、国籍を取ったり、自由に動くのに制約があったのだなあということもわかるエピソードでした。

結局このメンデルスゾーン一家とのつながりはなかったようですが、もっともっとさかのぼるとわからなかったかもしれませんよね。ちなみに有名なメンデルスゾーンの名前のスペルは「Mendelssohn」、ベン・メンデルソーンのほうは「Mendelsohn」。Sが多いか少ないかの違いがありました。

だいたい東ヨーロッパにユダヤ人の先祖がいる場合、その土地に行っても、ポグロムと呼ばれる迫害やナチスユダヤ人狩りにあい、そこにユダヤ人が住んでいた形跡は跡形もない・・というケースは今までに何度もありましたが、今回もそのパターンでした。

シュナイデミュールでも、水晶の夜と呼ばれるドイツ各地で起きたユダヤ人迫害の際に、シナゴーグなどが焼かれ、その後残ったユダヤ人もナチスに連行され収容所送りとなったようです。水晶の夜については、Wikipediaのエントリーもありますのでご覧ください。

一方母方のイギリスの先祖の話、なぜ母方の母方の・・とこの人を選んだのかな、と思ったら、やはり何か演劇に関係がある先祖だったので意図的に選んで紹介したんだろうな、という感じはしました。今までも先祖にも役者がいた、という俳優のエピソードもいくつかありました。やはり先祖も何代もさかのぼれば何人もいますから、その中から何かしらの共通点がある人が出てきてもおかしくはないですね。

話が前後しているので、子供の数などが色々変わっていますが、11人子供がいて、奥さんが亡くなったときは大半は独立していたということでしょうか。年代を整理してみると、奥さんが亡くなる数年前に長男はすでにオーストラリアに送られていますし、救貧院に入ったのも亡くなる数ヶ月前、それから20年は経った後です。

ベンの先祖が結婚した時は、もしかしたらまだ羽振りがよかったんでしょうか・・だからこそ父親の職業をジェントルマン、と書いたのかもしれません。

いつ破産したのかよくわからないので、実際に子供たちがオーストラリアに移民した経緯や、彼がひとりロンドンで亡くなった本当の背景ははっきりしない部分もありました。ちょっとここは編集のマジックでごまかされていますね。

しかし向こう見ずで、職人だけれどもケンブリッジの学生と交流があり、好きな演劇で舞台に立っていた・・というのはちょっと面白い経歴ですね。明治の時代、下町の職人さんが、東大生と一緒に演劇活動をしていた感覚でしょうか。

最後にロンドンに残っていた先祖が所有していた建物、骨董品屋(Old Curiosity Shop)、という名前がついていますが、実際は靴屋さんのようです。建物は1567年に建てられたものだそうです。

このウェブサイトによりますと、チャールズ2世の時代はバターやチーズを作る工房で、1900年ごろまでは、廃紙業者が所有していた、とあります。もしかしてこれが、ベンの先祖のことなんでしょうか。

最近のストリートビューを見てみると、周囲にあったより近代的なビルが壊されて、新たな開発が進んでいるようですが、まだこの建物は残っているようで良かったです。